2013-03-21
■[性][web][展示]会田誠展抗議運動について(澁谷知美の批判を受けて)
東京の森美術館で行われた会田誠展が、一時期ネット上で議論になっていた。特に『犬』という作品は、四肢が切断された少女が描かれており、展示に対して抗議が起きる事態となった。
私自身は、東京まで展示を見に行く機会もなかったので、作品の内容についてはあまり積極的にコメントしていない。ただし、抗議については幾人かのフェミニストが表だって賛同していたので、気になって見ていた。その中で、私の目についたのは澁谷知美のブログ記事である。
私はTwitterでこの件について発言していた。それは以下のまとめ(togetter)で読むことができる。
「『会田誠 天才でごめんなさい』展への抗議関連の議論」
私はTwitterでかなりくだけた調子*1でコメントしているが、澁谷さんの抗議文は性暴力の当事者を分断するとして批判している。
私が批判しているのは、澁谷さんのブログ記事の以下の書き出しである。
たとえば、その絵の作者が、虐待を受けてきた女性だとしたら、彼女が生きてきた世界を表現したものだという解釈が成り立つであろう。そんな世界への異議申立ととらえることができるだろう。
が、じっさいの作者は、「美少女」という文字を前にオナニーしているらしき自身の写真を公開している男性である。上記の解釈はムリである。
「その絵の作者」が虐待の被害者であるかどうかで、作品の解釈が変わることを澁谷さんは示唆している。それに対して、私はそう仮定して論じること自体が、作者の虐待被害の有無のカムアウトの強制になるとして批判している。このような論じ方は、作者に虐待経験があったとすれば、「被害者である」とカムアウトするか、虐待経験を隠すかのどちらかを選ばせることになる。私の主張は「男女問わずすべての人が虐待経験を持つ可能性があるのだから、作者のそうした経験の有無を勘ぐることは暴力的だ」ということである。
もちろん、これは虐待被害者であることが、この社会で特別な意味を持つから問題にしているのだ。たとえば、「その絵の作者が、犬が好きだとすれば」という仮定であれば、私はそんなに気に留めなかっただろう。犬好きであるかないかをカムアウトすることには、虐待経験の有無をカムアウトすることに比べて、社会的リスクが相対的に少ないからである。
また、それに続く問題として作品を鑑賞する側がどう感じるのかについても、虐待経験の有無を問うことは暴力的であると再三書いている。次のツイートがその話の中核だ。
当事者がそういう経験者のない人より虐待されてる絵を見て嫌悪する可能性は高いと思う。でも当事者だからこそ虐待されてる絵に惹かれることもあるし、それを楽しむこともあると思う。私はそういう当事者を黙らせることも、そういう当事者を利用して作品を公開する道具に使うことも避けるべきだと思う
私が一連のツイートで批判したのは、会田誠展に「虐待当事者であるかないか」という話に引っ張っていくことである。繰り返すが、私は会田誠展を実際に見ていないので、作品自体に積極的なコメントはしづらい。それでもネット上で目にする図版を見ても、議論を呼ぶことはわかるし、嫌悪を持つ人たちがいることも想像ができる。(そして、自分が嫌悪を持つだろうし、だからこそ見に行く気がしないことも、私はTwitterで書いている)その上で「虐待当事者であること」と「作品を嫌悪すること」を結び付けていくような言説には反対している。なぜなら、そうした言説が出てきたときに、「作品に好む虐待当事者」が引き裂かれるだろうことがまず予想できるからだ。
このブログではこれまで何度も書いてきたが、私はフェミニストや性暴力被害者支援団体が「被害者像を押し付けること」に強く反対している。ブログだけではなく、関西の集会では何度かフロアから発言している。私自身もフェミニストのアイデンティティを持っているが、これまでのフェミニズムが十分に「被害者像を押し付けること」について取り組んできたとは思わない。今も、支援者が好むような被害者がモデルとして使われ、そうでない被害者は排除されていると感じている。そして、そのような言説に抵抗する被害者の声を積極的に取り上げてもきた。*2ある意味では、いつも通りの私の発言だったといえる。
さて、澁谷さんを批判した人たちはたくさんいたのだが、3月20日に開かれた集会で、それに対するレスポンスが出ている。ネット上で澁谷さん自身が公開している。
「会田展問題について今、思っていることをとりあえず書きだしてみる」
その中で、私に対する批判と思われる部分があるので抜き出す。
「たとえば、その絵の作者が、虐待を受けてきた女性だとしたら、彼女が生きてきた世界を表現したものだという解釈が成り立つであろう。そんな世界への異議申立ととらえることができるだろう」とブログに書いた。この時、頭にうかべていた「女性」とは松井冬子。暴力を受けてき
たと自ら語り、内蔵が丸出しになっている少女の絵などを描いている。
が、「暴力被害者をフェミニストが利用している」、「暴力被害者を分断しようとしている」、「この人は暴力被害者なのかどうか、まさぐるよう目で見る状況を再生産している」という内容の批判をされた。なんでも、みずからの利益のために性暴力被害者を利用するフェミニストのことがこの人の頭にはあり、私はそれにカテゴライズされるらしい。
けど、松井冬子やフェミニスト・アートというのは広義の「被害体験」も込みで作品を見るように観客にプレゼンテーションしている。批判している人に尋ねたいが、そういう例を引き合いにしたらいけないということ? ひいては、被害体験をもとにした当事者の創作を許さないということ? てか、私も性被害にあったことあるんだけど。積極的に被害者を分断しているのは自分ということになりそうだが。この批判もテンプレ感が否めなかった。
「批判している人に尋ねたい」とのことで応答の記事を書くことにした。*3
まず、松井冬子について。私は以前、この作家については上野千鶴子との対談のテレビ番組を目にする機会があったが、実際の作品は見に行ったことがない。興味も惹かれないし、あまり好きではない。なので、やはり作品の内容については触れられない。したがって、松井さんが「暴力を受けてきたと自ら語」った上で、それを「込みで作品を見るようにプレゼンテーションしている」という、澁谷さんの情報をもとに考えようと思う。自ら虐待経験をカムアウトしている作家を、それを含めて鑑賞することは問題がない。上にもまとめたが、私の懸念は「カムアウトする/しないの選択を強いること」にある。だから、カムアウトをする選択をしている作家については問題にしていない。
しかし、ここで松井さんの作品を「虐待経験の有無」という観点から引き合いに出すと、「その絵の作者(ここでは会田さん)」に対して暴力的な行為になるので適切ではない。もし、松井さんの作品を「虐待経験の有無」についての観点抜きに、身体を傷つけられた人の絵として引き合いに出すなら問題はない。
次に「被害体験をもとにした当事者の創作を許さない」かどうかだが、もちろんその創作には問題がない。ただし、当事者がカムアウトする/しないかやどのような作品を生み出すのかは自由である。私は、カムアウトしないことが不利にならないように作品を扱うことが重要だと考える。その方法はケースバイケースで「こうすればよい」と一概に言えることではないが、会田展であれば澁谷さんのような抗議文を批判することが考えられるし、私はそうした。
さらに「積極的に被害者を分断している」のは私(font-da)かどうか。私は澁谷さんが当事者でないから批判しているのではなく、上のような言説を用いることを批判している。当事者であっても被害者を分断していることはある*4し、澁谷さんのカムアウトを論に含めれば今回はそうであった。
最後に「この批判もテンプレ感が否めなかった」とのことだが、この点は同意する。私は何度も何度も何度も「被害者像の押し付けの問題」について話をしてきたが、このざまである。一向にフェミニズムの中で真剣に扱われているとは思えない。高橋りりすの批判はなんだったのか。マツウラマムコの批判はなんだったのか。加えていうと、「虐待を受けてきた女性」の対照として会田という「男性」を並べている。これまで、男性被害者がどれだけカムアウトしづらい状況に置かれていたのかという語りも何度もあった。なのに、どうしてこんな乱暴な構図を描くのか、私には理解しがたい。男性と女性の性暴力の非対称性について論じる際には、男性被害者が声を上げにくい状況に配慮しなければならないことは言うまでもない。いや、言ったほうがいいのか、もう一回……あと三回くらい?いい加減、テンプレなんだから、頭に入れておいてもっと丁寧に議論はできないのか。
私もたいがいTwitterで煽りが入った口調で書いていたことを、ちょっと後悔していたのだが、同じく煽り口調でレスポンスが返ってきた(しかもかなりの飛躍をした批判あり)ので、これでよかったのだと思う。
*1:正直、完全に煽りが入っている。が、このとき私は本気で怒っていたのである。
*2:最近書いたものではこれ→「性的虐待経験者が性産業で働く理由とその実態調査 支援編」 http://d.hatena.ne.jp/font-da/20121231/1356939597
*3:名指しにしていただければより応答責任が明確でわかりやすいのに、と思ったが、プロフィール欄から飛ばないと私の名前はわからないし、何より無名なので名指しする意味なしと思われたのかもしれない。
*4:フェミニスト同士でもよく言ってるやんね。私も貧困の問題で、大学教員のフェミニストと非正規労働のフェミニストの間に断絶があることを指摘すると、「それは分断よ!」って批判を教授(フェミニスト)からされたことある。
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2008-04-28
■[展示]「明治日本のギャグマスター 暁斎漫画展」
「京都国際マンガミュージアム特別展 明治日本のギャグマスター 暁斎漫画展」に行ってきた。マンガミュージアムは初めて。混んでいるとの噂だったけれど、さすがに平日の夕方はガラガラだった。
展示は、そんなに広くなり展覧室をぐるっとまわるかたち。錦絵や下絵など、戯画・漫画を集めている。作品数はそんなに多くないが、間近で暁斎のコマゴマした線をじっくり観れてよかった。
私が気に入ったのは、江戸の人々の酒盛りを、骸骨に戯画化したシリーズ。骨になっても乱痴気騒ぎを繰り広げる、という風刺なのかもしれないが、動きの妙で、どうもおかし味があって、観ていて楽しい。じっと眺めると、たいして動物の顔はかわいらしいわけではないことに気づくが、ぱっと観た時には笑ってしまいそうになる。
今回の展示は、暁斎を江戸後期から明治を生きた、近代化の流れの中で捉えようとしている。後半は、明治に入り、文明開化の途をたどる人々を、風刺した漫画が中心に展示されている。暁斎は、「自由民権運動」を嫌い、批判していた。そこには、スローガンの旗印の中、生活に革命を起こす指導者たちが、新政府の権力を握り、富を手にしていることへの鋭いまなざしがある。また、青年たちが「自由」を求めて、都会へ出て行くことで、農村の共同体が崩壊していくことへの批判もある。さらに、新しい学校や職業規範によって、規律化していく人々を、妖怪に戯画化し「猫も杓子も」の状況を風刺する。反政府的な政治運動にコミットしていた暁斎の一面にスポットライトがあてられている。
しかし、指摘を付け加えるならば、解剖学に基づく暁斎の肉体デッサンこそが、西洋から持ち込まれ近代科学の影響を受けている。暁斎は、幼いころから人体に興味を持ち、生首を家に持ち帰り描いたという。江戸後期より、西洋医学が流入し、解剖学が流行った。当時は、町医者が、処刑された罪人の死体を、蒸し焼きにして骨から肉をはずして、骸骨を作ったりしている。観念的に人間の体を陰陽や気の流れで捉えるのではなく、ありのままの肉体を物質的に分析する近代科学の視線は、江戸後期の絵師たちの肉体を捉える視線にも影響を波及させた。暁斎もその流れの中にいる。その点で、現代の視座からみると、まさに暁斎こそが、近代化の影響を受け、文明開化していく日本人なのである。
付け加えると、今回の展示で流れていた資料用DVDでは、「暁斎ほど、西洋の画家に尊敬された絵師はいない」というようなナレーションがあった。また、鹿鳴館を設計したコルドンは、8年も暁斎に弟子入りしている。暁斎の死後も、ヨーロッパでは、ジャポニズムの中で、暁斎の作品はもてはやされた。
おそらく、その近代化という問題の視座から、「没後120年記念 絵画の冒険者 暁斎 Kyosai−近代へ架ける橋− 」も、京都の国立博物館で開催されている。こちらは、大作が多いようなので併せてみるとよいようだ。後日、こちらも観に行って、補完する予定。*1
関係ないけど、歌川国芳に弟子入りしていたのが、短期間だったことを、今回初めて知った。私は国芳が大好きなので、びっくり。なんと、暁斎の父親が、国芳の素行を問題視して、暁斎を引き上げさせたらしい。国芳ってダメな人だったんだなあ…。
*1:ただし、この展示に対しては、近代化の問題は、言及不足という指摘もある→http://d.hatena.ne.jp/morohiro_s/20080426/p1
2008-01-21
2007-07-08
■[展示]宇宙の中の水玉カフェ
mixiの草間彌生コミュニティで紹介されていた。
YAYOI KUSAMA presents「宇宙の中の水玉カフェ」
7/25(水)-8/12(日)
場所: 六本木ヒルズ2階 Hills Caf?/Space
「Hills Café/Space」オープン記念として、草間彌生とのコラボレーションで“ピンクの水玉で覆い尽くされたカフェ”が登場。時間:11:00-23:00/問合せ:03-6406-6000
うわー、行きたいなあ。東京なのが、残念。mixiでは、「くつろげそうにないですが」と紹介者のコメントが付けられていて笑う。
しかし、最近の草間流行りはすごい。今年のユニクロから出ている草間Tシャツの、金色カボチャバージョンを来ている人を図書館で見ていて驚愕。まあ、ユニクロだし、と思いつつ、「今日、着てこなくてヨカッタ・・・」*1と胸をなで下ろしました。
私も新参者のファンなので、こういうこと言うのもなんですが、あんまり消費されると、複雑な気持ちになるなあ。私はnetシリーズが一番好きです。
草間情報は、mixiのコミュニティが一番のリソースになってるかも。
*1:当然、三枚とも持ってます。
2007-05-15
■[展示]北京故宮博物院展@なんば高島屋グランドホール
興味があったわけでもないが、なんばに出る用事があったので、ふらっと立ち寄った。(http://plaza.harmonix.ne.jp/~artnavi/10publicity/190517-takashima-o-kokyu/00takashimaya-kokyu.html)
主に清朝末期の西太后と溥儀の時代の宝物。年配の女性が多く、あれこれ女性の装飾具を品評していた。*1人気があったのは、櫛やかんざしのようだったが、私が目を奪われたのはひすいの彫刻。特に清朝半ばごろ(のものだったと思う)の、断崖に道をつけ、建物を彫っている小ぶりのものは素晴らしかった。裏側に、詩歌が刻んであるのも良い。宝石というと、西洋のダイヤモンドやサファイヤが思い浮かびやすいが、中国のめのうなどの石も美しかった。
それから、大がかりな展示としては、「垂簾聴政の間」の復元。これは西太后が政治をするときに実際に使った玉座を再現したもの。渋い建具が迫力あった。解説では、何度も、西太后が悪女と呼ばれるのは、彼女が自立した女性だったため、嫉妬をかっていたからだ、と述べられていた。西太后が浪費家であったのは事実だろう。ただ、それまでの清朝の女性が、男性の寵愛を受けるために美容に精を出したのに、西太后は「美とは兼好である」との一貫した自分志向型を打ち出している。そのため、周囲から「自己中心的」と過剰に言われたのも、情勢上、仕方がなかったのかもしれない。
溥儀の持ち物の展示もおもしろかった。自転車が趣味で、20台以上持っていたことや、映写機を愛用し、西洋文明に深く親しんでいたのが示される。字があまり上手でなく、満州語が習得できなかったことも、なんとなくおかしみを持ってみることができた。やはり、実際の品を目でみて確かめると、親近感が湧くものだ。私は字が下手で、語学が苦手だから、よけいにそう思った。
展示を出ると、突然、中国の土産物屋のような光景が。通常、展示にまつわる美術品やカタログ、資料や、絵はがきが売られているのだが、ひすいのケータイストラップや、天然石の置物が呼び込みによって売られていた。ちょっと笑った。
*1:喋ってしまうのは大阪のおばちゃんだから?美術展で喋っている人は大変迷惑だが、今日のように宝物を愛でる会的なノリだとイヤではなかった。
