富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

聖上と同じく流感とは畏れ多し

fookpaktsuen2016-02-29

正月廿二日。快晴。朝は摂氏11度で21度まで上がると天気予報は告げるが昼は銅鑼湾など汗ばむほどの暑さ。体調は優れぬまゝ騙し/\でゐたが夕方悪寒甚だしくC医師の診療所訪れ検温すると華氏100度超へ。インフルエンザといはれる。聖上もインフルエンザ患はれた由、同じ病ひとは畏れ多し。老いると発熱が本当に辛い。
朝日新聞夕刊で吉田純子編集委員の「音を継ぐ」の連載は確か山本直純に始まり山田耕筰朝比奈隆など日本の音楽家のエピソード満載で面白い。今回は「待ってました」で吉田秀和。若き日の秀和さんを語るとき中原中也を語らぬわけにはいかぬ。

中也はやがて、吉田を夜の街に連れ出し、自身の下宿先に泊めるように。フランス語も教えてくれた。吉田をベッドに寝かせ、中也は布団を敷いて床に寝た。
明け方になると、中也はしゃがれたバリトンで何かしら歌い始めた。ランボーヴェルレーヌの詩だったり、自身の詩だったり、バッハの変奏曲の一節だったり。チャイコフスキーピアノ曲の旋律に、百人一首をのせてみることも。
朝の光をゆらゆら映す天井を淡い意識の下で眺めながら、吉田はただ、誰に向けるでもなく歌う中也の声に心を浸していた。そんな時の中也は、「幼稚と老成が隣りあっている」とのちに吉田が述懐する通り、まさに生まれたての赤子の純粋さをもって、宇宙の中心にしんと立っていた。
気鋭の作曲家、諸井三郎の新作を聴き「ここが良くない」と喝破すると、それが実に的を射ていた。楽譜も読めず、専門的な教育を受けたこともない男が、誰よりも「音楽」を知っていた。そして、モーツァルトのごとく、足早に人生を駆け抜けた。かなわない。若き吉田にとって、これは決定的な「降伏」だった。
しかし、この「降伏」は絶望ではなく、むしろ未来への道しるべとなる。芸術を思索する心の自由は、何物にも支配されない。中也から継いだこの精神が、戦中戦後を通じ、音楽評論家として生きてゆく吉田の悠々たる歩幅を、ゆっくりと定めてゆくことになる。

とステキな世界。たゞ重箱の隅を、の話だがあくまでも吉田秀和を語る文章である、「気鋭の作曲家、諸井三郎の新作を聴き……」のパラグラフで、これも自然に、この話の主人公である秀和さんを主語として読み進めてしまふと話が通じず「あ、これは中也さんのこと」とわかる。かういふ誤解が生じるのも「……かなわない。若き吉田にとって、これは決定的な「降伏」だった」といふ、NHKプロジェクトX⇨プロフェッショナルやファミリーヒストリーに見られる質の悪い倒置法の蔓延なのかしら。
▼昨日の立法会新界東の補選。元々泛民主派の強い地区だが今回は親中派(民建聯)、泛民主派(公民党)に加へ「本土派」の本土民主前線も参戦。本土派のこの候補は先日の旺角「暴動」wで逮捕された学生で注目集まる。本土派が民主派を見限ったわけだが票が割れるのは必至で親中派の勝利が危ぶまれたが香港の良識か公民党候補が16万票で民建聯(15万票)に1万票差で辛勝、本土派が6.6万票とは、どれだけ対中共、そして民主派の「対話路線」の成果の乏しさに対する不満の表れか。いずれにせよ、この状態では今後、親中派の勢力拡大なのだらう。