富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

蔡明亮:那日下午

fookpaktsuen2016-03-25

農暦二月十七日。耶蘇受難節。朝の気温は摂氏11度。陽暦三月も下旬で、この気温は尖沙咀天文台で観測なのだから陋宅など10度以下のはず。寒い。午後二時に九龍圓方の映画館で蔡明亮監督の〈那日下午〉見る。蔡明亮監督といへば主演は李康生で、李康生が予備校生の時にゲームセンターだかでバイトしてゐたのを蔡明亮が見つけ1992年の〈青少年哪吒〉で主演に抜擢。蔡明亮の一連の作品で言葉少なな、何を考へてゐるのかよくわからない青年を演じ性格俳優として独特の地位にある。二人は20年以上も同居してをり蔡明亮監督は李康生がゐるから李康生の個性をどう活かすか、で作品を創生してゆくほど李康生に惚れてゐるが李康生はそれを承諾してゐるのか、その微妙な関係。同居はしてゐるが恋人といふ恋愛関係とも微妙に違へば寝室も別で同居人のやうで、監督が母と子のやうな関係といへば李康生には結婚願望や子どもがほしいとか、相手が女性だとけっこう喋るとか、そんな話も披露される。その二人が台北を離れ現在居住する山間で、自宅に近い廃屋で二時間余の対談を編集なしで延々と記録したのがこの映画。この対談ぢたいは蔡明亮著『郊遊 Stray Dogs』といふ書籍にも掲載されてをり、それで読んでゐたが、この対談で二人の間はテープ起こしされた文章の行間からもそこまでは読みとれず映像で見て、その背景の廃屋の大きな窓のむかふに広がる山間の景色、陽光が西陽になる明るさと陰翳、監督のこの対談冒頭の緊張と興奮、感極まつての落涙、監督の矢継ぎ早の問ひ、李康生は作品の中での性格通り言葉少な、無表情で朴訥に言葉少なに応へるばかり。少し落ち着いた監督は小康に、俳優になつて、このやうな人生、生活に悔いはないか、自分の同性愛といふ性傾向が何か影響を与へてしまつたか、自分を恨んではゐないか、と質す。小康の「只有我能承受你,我是可塑性很高的生物」だと答へ「かうして一緒にゐることは幸せだ」と。……さういふ二人が「こんなに普段は話したこともない」といふ対話で137分、カットもなしで。映画が終はると香港に滞在中の二人が(昨晩は劉健威兄の留家訪れたやうだが)現れ観客と質疑応答。終始機嫌の良い、よく話す監督とほとんど何も話さぬ李康生。会場を出たところでお二人に遭遇するが二人とも、殊に李康生がもつと背が高いと思つてゐた私。早晩にFCCで家人と軽く夕食のところサプライズで上海からI君登場。といつても広州まで出張で数日前に晩には香港に来られるかも、と言つてゐたのが昨日、さすがに夕食の時間には来れないといふので流れたのが今日の昼すぎに早めに来港できると連絡あり、それじゃFCCで、となつたのを家人には内緒にしてゐただけの話。しかも彼女は中環の街角でさっきI君とそっくりな人を通りの反対側に見かけたのは他人の空似ぢゃなかったのね、といふ程度で「やっぱり」で期待したほどサプライズにもならず。Zardettoのプロセコ、阿根廷はMendoza、SeptimaのGran Reserva 2013年飲み軽く食事で鼎談。アタシは晩十時から安藤忠雄のドキュメンタリ映画がまた圓方であり酒飲みの場を辞して(二人はそれから三鞭酒を空け半夜三更に至る)急いでMTRでハーバー潜り安藤忠雄を見る。〈Tadao Ando - Samurai Architect〉って映画のタイトルだけでも、もと/\安藤忠雄といふ建築家にもはや食傷気味のアタシはちょっと退くところもあつたがフィルムが始まり安藤忠雄の朝のロードでのトレーニングやあの独特のダミ声、そして事務所での仕事ぶりなど眺め「あれ?」と思つたら映像の大部分はNHKテレビのドキュメンタリ「闘う建築家 安藤忠雄」と一緒。この映画監督(水野重理)がNHKのその番組の製作者……「なぁんだ、さうだったの」な話。観客は安藤忠雄から何か学ぼうといふ若い人でほゞ満席。私自身はコンクリ打ちっ放しは珈琲専門店の壁くらゐが許容範囲で巨大化したコンクリート壁や、ましてや自分の家がそれなんて真っ平御免。快適に暮らし易い家がいゝでしょ、やっぱり。
香港大学で大学自治に権力が介入するののなら「香港独立」をと学生会が(政治的プロパガンダとして)提唱したことに対して大学校委會主席となつた李アーサー國章が「それなら日本人にでもなれば良い」と発言。香港独立=中国の否定=中国でない国ならいいのなら日本か、といふ安直な発想でのコメント。これについて陶傑氏の『我不想做日本人』が面白い(2016/03/21蘋果日報)。自分は日本人になりたいと思つたことはないが、これまで数十年世界中を旅してきて幸か不幸か日本人に間違へられたことが何度もある、と。欧州のレストラン、カフェ、書店やバーで何故に自分が日本人だと思はれるのか?と当初わからなかつたが後になつてみれば自分は旅行中に騒がない、似合はぬ派手なブランドものを着ない、頭の形は平たく短髪ではない、ビュフェの食事で生牡蠣、蝦を漁らない、信号は守る、小さな画廊を巡り古書店カフカなどの作品を手にとり……とかうした行為は気取るわけぢゃないが自分が不幸にも英国の人文教育を受けてしまつたからで、さうした所作が自分は日本人か?と尋ねられる理由で、時にして自分はその質問に曖昧に答へた、と「告白」してみせる。この後の下りは和訳すると何の面白みもないのでそのまゝ。
但有一次我惡作劇,我告訴一個愛爾蘭教授:我是日本人,我叫Kitamura Tokoku──這個名字叫北村透谷,嵌有「陶傑」粵語發音,而北村是我喜歡的日本作家。那位萍水相逢的洋人覺得他猜對了,很高興。
但是我很不開心。許多年後,與幾位日本人吃壽司,米酒三巡之後,我含淚說:「我要向諸君懺悔,我在歐美,曾多次被誤認為貴國人,我無意冒充,我只是一個像胡適氏一樣明白西方文明和崇尚明治維新的亞洲人,成為一個日本人,無論我怎樣文明,我也不夠好(I am never good enough)。但叫我在歐美喧嘩、打尖、罵空中小姐、搶吃自助餐,用武士刀殺了我的頭,我也做不到。
日本是一個唯美的民族,我多次毫無選擇地在外國竟代表了你們的形象,玷污了日本的聲譽,我實在很糟糕,我曾想學北村一樣自殺謝罪,又無此勇氣,只能向貴國全體人民深切致歉。」說罷,我欠身鞠躬。