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聖書通読 〜 祈りの天使 〜 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2010-05-11 ちょびちょび聖書通読 142日目

| 16:26 | ■を含むブックマーク ■のブックマークコメント

風邪を引いて辛い。みなさまもお気をつけて。気温の変化があるので、油断していると風邪を引いてしまうかもしれません。わたしのように。^ ^;; 今日は、鼻水をじゅるじゅると言わせながら聖書を読んでいました。聖書の御言葉は味がありますね。噛めば噛むほど味があるような。

ホセア書 1-14章

マルコによる福音書 11-13章

エフェソの信徒への手紙 1-6章

わたしの健康の問題も、あなたが抱える苦しみも、お祈りを通して、解決しようと思います。

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天池治彦天池治彦 2010/09/17 21:11 風邪はなおりましたか?毎日少しづつ聖書を†

2010-05-04 ちょびちょび聖書通読 141日目

| 12:46 | ■を含むブックマーク ■のブックマークコメント

日本には無宗教の人は、ほとんど存在しません。たいていの人は、どこかの宗教に属しています。また、わたしから見ると、お正月の神社参拝や、賽銭を金銭箱に放って、神社なら拍手、お寺なら合掌し、目を閉じて願い事や、お礼の言葉を心の中で唱える行為は、立派な宗教的行為です。日本人の多くは、お地蔵さんを見ると、何か畏敬の念を抱くのではないでしょうか。また、神社仏閣に出掛け、そこでリラックスするなど、様々な宗教的行為が生活に溶け込んでいます。仏像を見て、崇敬、場合によっては崇拝する行為など、明らかです。お祭りも、ただ遊んでいるだけかもしれませんが、実は、お祭りには必ず、何のための祭りなのかがはっきりとしていることがほとんどです。様々な祭祀・祭礼の意味がありますから、一例だけを述べますが、豊穣への祈り・感謝であることもあるでしょう。縁日で、ただ、りんご飴を食べるのが祭りではありません。お盆になると、お墓参りに行くでしょう。その他にも、縁起を担ぐのは何故なのか?塩を撒く行為は何なのか?相撲では、必ず塩を撒きますが、あれは、戦闘心のために、ただ塩をぶちまけたいのではありません。塩を撒くという行為そのものに、多くの日本人の宗教観があるのです。日本は宗教国家であるという例は枚挙に暇がありません。これほどの宗教的行為を持つ国も珍しいほどに、日本には神道仏教が浸透しています。浸透しすぎて、わからないだけなのです。

この程度ならともかく、日本ではクリスマスを祝うことがあります。クリスマスは、彼氏と彼女と楽しく過ごすというのが本来の意味ではありません。主イエス・キリストの降誕の日が本質です。また、結婚式は教会、もしくは教会スタイルのところで行う人も多いでしょう。そこには、宗教性がないでしょうか?もし、宗教性を必要としないならば、わざわざ、教会式の結婚式をする必要はありません。

また、教会式に拘る必要もないわけです。神前式、仏前式の結婚をすればいいと思うのです。それも嫌なほどに宗教を持たないというなら、婚姻届を出して、一緒に住めばいいだけのことです。もし、日本には宗教性が「無い」という人がいれば、単に知識がないだけです。知識がなく、結婚式を挙げたりするならば、本当の意味での祝福は豊かではないと思います。それは、キリスト教式に関わらず、神道仏教に対してもそうです。教会式結婚式ではなくて、教会で結婚式を挙げる時、わたしの通う教会では、少なくとも三ヶ月、長くて半年ほどの勉強をしなくてはなりません。その期間は、礼拝に出るということが義務づけられます。それを面倒だと思うのであれば、教会で結婚式を挙げるというのは、考えない方がいいでしょう。

最大の宗教的行為は、死の時です。わたしは無宗教です。という人に聞きたいのですが、あなたはお葬式をしないですか?お葬式のをしない人は、ほとんどいないのではないでしょうか。御坊様がお経を唱える。通夜には火を絶やさないようにしてお線香に火をつけ続ける。葬儀の時にはお焼香をする。そして、墓に入る。家に仏壇を置く人もいるでしょう。そして、死を弔うために、あたたかい気持ちを持って、お墓参りをする。

このように、日本人はよく無宗教無宗教といいますが、実は、ほとんどの人がうつくしい宗教を持っているのです。わたしはクリスチャンですから、ここに書いた、日本人の一般的な宗教的行為の方法を取りませんが、宗教の背後に流れている川は、何教であっても、だいたい同じです。信じること。祈ること。亡くなられた方を思う気持ち。そういったものが、宗教の背後にあると思うのです。ですから、わたしは無宗教ですという日本人の軽い発言が、わたしにはよく分からないことがあります。皆様も一度、宗教について考えてみて下さい。まずは、伝統的に伝わっている、あなたのお家の宗教を勉強してみて下さい。その後、自分の考えで、宗教を選ぶのは個人の自由だと思います。わたしの家系仏教でした。ですから、仏教について学びました。いま、現在はキリスト教ですが、仏教も非常に豊かな思想があるとわたしは考えています。宗教とは実に、人生を豊かに送り、そして、死の先を考えることなのです。

わたしたちの国では、宗教による怖い事件がよく起こりました。それで、宗教を毛嫌いする人が出てきたという背景は、わたしもわからないでもないです。けれども、仏教神道が浸透している日本だからこそ、宗教の理解をはじめて見て欲しいのです。もし、あなたに勉強する気持ちがあれば、世界のたくさんの宗教にも触れてみて下さい。世界の事情を見る時に、宗教というもの除けて考えることはできません。世界はどうなっているのか知りたい人こそ、宗教を学ぶべきです。欧米の大学ではリベラルアーツとして、宗教科という学問があるほどです。必須単位になる学校もあります。宗教を知らない日本人は、損です。少なくとも、無宗教だと決めつけている人も、日本の伝統宗教を勉強して欲しいです。神道を勉強するのに、古事記日本書紀を学ぶのもいいでしょう。この国のうつくしい姿が、描かれていると、実感できるはずです。わたしは、キリスト教に最終的に導かれましたが、日本が大好きです。日本の伝統の豊かさは、他の国には負けないと自負しています。

宗教的なぶつかり合いのことばかりに目を向けるのは、どうかなとも思います。もちろん、その情報も大切ですが、わたしの教会では、御坊様と一緒に聖書を学ぶといった試みが行われています。牧師仏教の理解に務めています。

| 12:46 | ■を含むブックマーク ■のブックマークコメント

天のお父様。

あなたは、わたしたちのために十字架にお架かりになって下さいました。

あなたは、わたしたちの罪を一手に引き受けられ、

あらゆる痛みを背負って下さいました。

それなのに、

わたしは、あなたを顧みない時代がありました。

ところが、天のお父様は、御国から、わたしを見守ってくださるのです。

何故、わたしのような者が、何故、わたしのような者がと、

責め立てる時もありました。

わたしは、あなたに離反をしていたことが幾度となくあるというのに、

あなたは、わたしに無償の愛を与え続けて下さるのです。

愛とは赦すこと。

そんなメッセージをずっと送り続けて下さっていたんですね。

あなたはわたしを赦し続けて下さいました。

いま、わたしには理解できることがあります。

聖書はラブレターだということを。

イエスさまの慈悲と愛は、わたしたちに向けられたラブレターだということ。

わたしたちは、あなたのラブレターに答えるものです。

どうか、いままでの愚かな振る舞いをお赦し下さい。

あなたの御国、あなたの権、あなたの栄を渇望します。

平和を齎してください。

争いのない世界を与えて下さい。

あなたの御力によって、正しさを行えるように導いて下さい。

わたしたちに罪を与えるものを、わたしたちは赦します。

ですから、わたしたちの罪を赦して下さい。

わたしたちに誘惑を与えないで下さい。

あなたの御心に繋がる道を歩かせて下さい。

光の子供として、あなたの御前に出ることができますように。

この祈り、

イエス・キリストの御名を通し御前にお捧げ致します。

アーメン

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まず、わたし自身の証しをしましょう。今日のところは突っ込んだことを話しませんが、わたしは性同一性障害です。改名もしています。また、性同一性障害ということで、両親に疎まれ、喧嘩をしてしまい、分籍をしました。つまり、家族との縁も切れている状態です。わたしは、数年前、孤独でした。そして、寂しかったです。誰も理解をしてくれる人がいなかったからです。わたしは、イエスさまに泣きつきました。しかし、わたしはキリスト教を信じても良いのか?と怯える気持ちがありました。今となっては、怯える必要はないと想っています。

わたしは、ゲイホモセクシャルレズビアンバイセクシャル、性同一性障害、トランスジェンダートランスべスタイト、インターセックスの人が、時々、キリスト教によって、虐げられている現状を知っています。わたし自身も、後述する御言葉に出逢わなかったら、果たしてクリスチャンになったかどうか、わかりません。しかし、今は胸を張って言えます。

キリスト教を信じてはいけない人はいない!! オカマであろうと、オナべであろうと、ニューハーフであろうと、信じてはいけない人はいません。その根拠を今から示します。


旧約聖書 「詩編 117編」

すべての国よ、主を賛美せよ。

すべての民よ、主をほめたたえよ。

主の慈しみとまことはとこしえに

わたしたちを超えて力強い。

ハレルヤ



新約聖書 「ガラテヤの信徒への手紙 3:26-29」

あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人ギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。


さあ、まずは詩編117編から解説しましょう。なぜ、この御言葉が信じてはいけない人は一人としていないと言えるかということです。「すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。」と完全なる明記がされているわけです。決して一部の国と、一部の民が賛美せよと言っているわけではありません。そして、また、詩編117編の意味を込めた賛美歌があります。21世紀賛美歌、つまり賛美歌21の46番、「すべての人よ」がそれです。ここにYoutubeを載せますのでお聴き下さい。

賛美歌21 46番 「すべての人よ」

D

キリスト教差別者、ローマ法王を筆頭に、わたしはこの歌を聴かせてあげたいです。この歌詞を理解出来ないのか?とわたしは思うのです。一部の人が主を称えよと言っているのではなく、すべての人よ主を称えよと言っているのです。

また、ガラテヤの信徒への手紙は、どう読めるでしょうか?


新約聖書 「ガラテヤの信徒への手紙 3:26-29」

あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人ギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。


ユダヤ人ギリシア人もなくという言葉は、アメリカ人とフランス人と日本人は例外だという意味でしょうか? 決してそうではないはずです。当時、異邦人と呼ばれていた人たちにも、宗教を解放しますという文面なのです。つまり、世界中あらゆる国々の人々が信じて良いということです。同じように奴隷も自由な身分もなくという文は、では中間層は例外と言えるでしょうか? やはりこれもあらゆる人たちが信じても良いといっていると取るべきです。極めつけは、男も女もありませんとあります。

男も女もありません。ここに究極のアッパーKOがあります。ここまで記してきたように、例外のない国はない、豊かさの区別もないと書いてきたように。男と女だけがOKなのではなく、それに属ない人たちも信じることができます。と、言っているのです。当時、性同一性障害というものは、概念がありませんでした。しかし、今は確固たる概念があるわけです。異邦人にも信仰の自由を開放したように、性の問題などで人間を差別し、信じてはいけないと人を決めつけるのは、聖書に対して論理矛盾です。その論理矛盾をなくす方法は、誰一人として信じてはいけないという人はいないということなのです。そもそも、インターセックスと呼ばれる両性具有の人はどういうことになるのですか?2000人に一人の割合でいらっしゃるわけです。2000人に一人というと少ないように感じられるかもしれませんが、日本だけでも、6万人いるということです。この人たちは信じてはいけないのでしょうか。そんな差別主義はあってはならないとわたしは考えています。

わたしは、口を大にしていおう!

ゲイホモセクシャルレズビアンバイセクシャル、性同一性障害、トランスジェンダートランスべスタイト、インターセックス、オカマからオナベまで、あらゆる人は、信じる権利を持っています!

詩編117編」と「ガラテヤの信徒への手紙 3:26-29」は、そんな人たちの強力な御言葉になることでしょう。

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2010-05-03 ちょびちょび聖書通読 140日目

| 20:38 | ■を含むブックマーク ■のブックマークコメント

一体、信仰とは何でしょうか? わたしの言葉で述べることもできますし、また、信仰とは何か?というのは、いつの時代でもクリスチャンの問いかけであり、本になることもあります。しかし、実のところ、クリスチャン信仰というのは、シンプルに一行で言い表せるものです。もちろん、多くの言葉で語ることもできますが、根源にあるものは、この一行の御言葉なのです。


ヘブライ人への手紙 11:1

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。


聖書信仰についての説明をズバリ、一行で示します。クドクドと説明しないのが聖書の文章とも言えるかもしれません。聖書の面白さに、少しずつ皆様も気づいてみて欲しいなと思います。もっと、何ページにも渡って書いているんじゃないの?と思った方のほうが、きっと多かったのではないでしょうか。

| 16:37 | ■を含むブックマーク ■のブックマークコメント


イザヤ書 24:1-3

見よ、主は地を裸にして、荒廃させ

地の面をゆがめて住民を散らされる。

民も祭司も、僕も主人も、女の僕も女主人も

売る者も買う者も、貸すものも借りるものも

債権者債務者も、すべて同じ運命になる。

地は全く裸にされ、強奪に遭う。

主がこの言葉を語られた。


売る者も買う者も、債権者債務者も、最悪の状況に身を置くだろう。イザヤの預言は、現代の歪な金融資本主義世界の崩壊を予兆しているのではないか?聖書の読み方とは実にそれぞれ各々の各人にあって、非常に多彩です。影響を受ける部分が違うかも知れない。また、受け取り手の感想も一様ではない。このイザヤ書は、およそ、2800年前に書かれたものです。その頃の日本といえば、弥生時代でした。わたしは日本の文化を誇りに想っていますが、血統的ユダヤ人スファラディの智慧に驚嘆せずにいられない。弥生土器をつくっていた時代に彼らは、現代でも通用する先見の目を持って、預言を行っていたからです。ちなみに、預言というのは、一回的中したら、その後は的中しないということではないと、わたしは考えています。ユダヤ人の智慧による恐るべき預言の書は、永年、通用するのです。金融危機が叫ばれている現在の状況は、このイザヤ書の箇所と似ていませんか?そして、この言葉は、およそ2800年前の言葉なのです。ここに多くの智慧があります。


イザヤ書 26:1-6

その日には、ユダの地でこの歌がうたわれる。

我らには、堅固な都がある。

救いのために、城壁と堡塁が築かれた。

城門を開け

神に従い、信仰を守る民が入れるように。

堅固な思いを、あなたは平和に守られる

あなたに信頼するゆえに、平和に。

どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。

主は高いところに住まう者を引きおろし

築き上げられた都を打ち倒し

地に打ち倒して、塵に伏させる。

貧しい者の足がそれを踏みにじり

弱い者の足が踏みつけて行く。


さて、堅固な都、イスラエルの扉が開かれ、招かれた人が都へ入った。イザヤの預言の通り的中となった。しかしいま、イスラエルは自身を顧みなければならないだろう。イスラエルでは、城壁という名の軍事力増強が行われている。弱かったユダヤ人たちは、現イスラエルに住んでいたパレスチナ人を追い出し、踏みつけていった。シャローム。シャローム。平和を築きあげよう。その意志とは裏腹に、争いばかりが起こっている。


イザヤ書 27:10-11

城壁に囲まれた都は孤立し

置き去りになり、見捨てられて荒れ野となる。

子牛はそこで草をはみ、そこに伏し

また、小枝をも食い尽くす。

枝は枯れて折れ、女たちが来てそれを燃やす。

これは全く分別のない民だ。

それゆえ、造り主は憐れみをかけず

その民を形づくられた方は恵みを与えられない。


恐るべき預言の書。イザヤが書いたイスラエルの未来は、ここに見ることもできるのではないだろうか。これはイザヤの黙示録というべき預言である。時をて現在、イザヤ書は、現イスラエル自身へ火の粉となって降りかかっているのではないだろうか。パレスチナで入植活動を繰り返す、ユダヤ人たちは、肝に命じて、この箇所を読まなければならないだろう。屈強な軍事力という名の城壁に囲まれた孤立した国、それは現イスラエルの姿に映る。わたしはある意味、反シオニストです。断っておきますが、ある意味です。というのも、律法主義と称されようと、真面目に神と向かい合っているユダヤ教の人々は好きです。ヤハウェーに於いて一つであることもありますし。ただし、金融機関や欧米のマスメディアを牛耳り、その資本と情報力で、世界を混乱に陥れようとしているユダヤ人は好きではないのです。ある意味、彼らが好きだし、ある意味、彼らが嫌いです。ヤハウェー。父なる神に身を委ねるユダヤ人は同胞です。


エレミヤ書 26:1-6

ユダの王、ヨシムの子ヨアキムの治世の初めに、主からこの言葉がエレミヤに臨んだ。「主はこう言われる。主の神殿の庭に立って語れ。ユダの町々から礼拝のために主の神殿に来るすべての者に向かって語るように、わたしが命じるこれらの言葉をすべて語れ。ひと言も減らしてはならない。彼らが聞いて、それぞれの悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの悪のゆえにくだそうと考えている災いを思い直す。彼らに向かって言え。主はこう言われる。もし、お前たちがわたしに聞き従わず、わたしが与えた律法に従って歩まず、倦むことなく遣わしたわたしの僕である預言者たちの言葉に聞き従わないのならば---お前たちは聞き従わなかったが---わたしはこの神殿をシロのようにし、この都を地上のすべての国々の呪いの的とする。


イザヤ書と同じように、イスラエルの未来を見越していると言えるだろう。同時に、驕り高ぶる者たちの未来の姿である。この都を地上のすべての国々の呪いの的とする。実際、エルサレムは混乱の町です。宗教の坩堝といえば、聞こえはいいけれど、ほとんど呪いの町と化していないかと想うところがあります。中東情勢の不安と緊張は、いつもエルサレムを中心としています。

エレミヤ書 26:17-18

この地の長老が数人立ち上がり、民の全会衆に向かって言った。「モシュレトの人ミカはユダの王ヒゼキヤの時代に、ユダのすべての民に預言して言った。

『万軍の主はこう言われる。

シオンは耕されて畑となり

エルサレムは石塚に変わり

神殿の山は木の多い茂る丘となる』と。」


エレミヤは続けます。エルサレムは石塚に変わるだろうと。この旧約聖書の部分はユダヤ教キリスト教イスラム教の三宗教が読んでいます。そして、各宗教によって、取り方が違ってきます。混沌としたエルサレム。過去も未来も、この預言の通りになるのではないでしょうか?


エゼキエル書 7:1-4

主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、言いなさい。主なる神がイスラエルの地に向かってこう言われる。

終わりが来る。地の四隅に終わりが来る。

今こそ終わりがお前の前に来る。

わたしは怒りを送り

お前の行いに従って裁き

忌まわしいすべてのことをお前に報いる。

わたしは、お前に慈しみの目を注がず

憐れみをかけることもしない。

お前の行いをわたしは報いる。

お前の忌まわしいことはお前の中にとどまる。

そのとき、お前たちは

  わたしが主であることを知ることになる。」


わたしはこの四隅を世界政府に至るまでの序段階、EU、北アメリカユニオン東アジアユニオンアフリカユニオンと、考えています。その昔、日本にも石原莞爾さんという人がこのことを考えていました。石原莞爾さんは、満州事変の切欠をつくった人です。といっても、わたしは満州事変には、様々な要因があると考えています。たとえば、盧溝橋事件と河豚計画です。こういったものがあるので、石原莞爾主導で、満州事変を起こしたとは言いにくいでしょう。ともかく、この石原莞爾という人は、世界は四つのグループになり、最終的に王者決定戦の世界戦争が起こると預言しています。彼の著書、「最終戦争論」にそのことが詳しく書かれています。(※ 河豚計画とは、ユダヤ人満州に送り込んだ計画です。資金を得るのにうまみがあるが、毒でもあるという形容です。しかし、ある財閥ユダヤ人の娘さんが満州で拉致され無残な姿で殺される事件が起こりました。爪をすべて剥ぎ、鼻を削がれた無残な死体姿で発見されました。この殺人を行ったのは、日本と中国のどっちなのか?盧溝橋事件と同じ性質を持っています。そして、この殺人事件の辺りから河豚計画が狂ってきます。ユダヤ人たちは上海に逃れました。河豚計画の骨子は日露戦争とき、バックについたユダヤ人資本家たちから金を得て、日露戦争に勝てたため、そのうまみを再来する計画だったのですが、結局は、逃げられてしまったのです。その後、ドイツによって上海ゲットーがつくられましたが、後にリトアニアにに移住させられ、逃げられなくされてしまいます。日本政府は河豚計画を途中で中止しました。失敗したといってもいいでしょう。この辺りの余り世に出ない歴史は、実に、凄みがあります。)


エゼキエル書 7:12-13

時が来る。その日が到来する。

買う者も喜ぶな、売る者も悲しむな。

怒りが国の群集すべてに及ぶからだ。

売る者がたとえ長く生きらえても

売った物を買い戻すことはできない。

すべての群衆に対する審判の幻が

  撤回されないからだ。

罪のゆえに、だれひとり命を保つことはできない。


わたしたちは資本主義社会の中で生きています。わたしたちは世界で何度もこのような審判を受けました。エゼキエルは言っています。その時が来るときは、終りなのだと。まだ、世界は終わっていません。しかし、終りへの道のりを歩いているように見えます。近代の戦争というのは、土地を奪う目的というよりも、経済的な目的のために行われています。経済的戦争の終末はどのようになるのか?すでに、エゼキエルが述べていることです。


エゼキエル書 7:15

外には剣があり、内には疫病と飢饉がある。

野にいる者は、剣にかけられて死に

町にいる者は、飢えと疫病が滅ぼす。


われわれの医学は進歩しました。また、食糧事情も改善されました。そう言い切りたいですが、それは、裕福な国だけの話です。世界的に見れば、病気と飢饉でいまだに、多くの人が死んでいます。とりわけ、世界レベルで見たときに最大の死因は飢餓です。わたしたちは、科学を知った。新しい物を次々に開発した。宇宙へ行けるようにもなった。だけど、一方、世界では、飢餓に苦しむ人がいます。また、科学は人を豊かにしたかもしれませんが、核兵器をつくりました。多くの戦闘機戦艦をつくりました。科学はすべて良いか?という問いは、単純ではないのです。そして、恐るべき預言の書、エゼキエル書は、世界の終りにはどのような状況になるのか具体的に示しています。


エゼキエル書 7:19

彼らは銀を外に投げ捨て

金は汚れたものとなる。

主の怒りの日には、銀も金も

彼らを救うことができないからだ。

銀も金も、彼らの飢えを鎮めることができず

腹を満たすこともできない。

かえって、それは彼らをつまずかせ罪を犯させた。


銀も金も札束も、もしも、食べるものに困ることになったとき、何の役に立つでしょうか? 金塊を食べるわけにもゆかず、札束をたべるわけにもいきません。お金を得るという私利私欲が、世を破滅させるのです。それは、昔から未来に到るまで普遍の法則と言えるでしょう。以下、わたしが今日、ピックアップしておきたい聖書の御言葉を書き抜いておきます。みなさま。聖書というのは、単なる本ではありません。ここには恐るべき預言が書かれ、わたしたちの人智に及ばない先見性があります。どれほどに科学が発展しようとも、聖書の凄さには勝つことができないでしょう。そのことを知って欲しいと想います。しかし、こうも言っておきましょう。科学は優れた学問です。世界を覗く望遠鏡として、科学は優れています。更に言っておきましょう。あらゆる学問は世界を覗くための望遠鏡です。問題は、その望遠鏡は神が与えたと言うことなのです。


エゼキエル書 7:25-27

恐怖が臨む。

彼らが平和を求めても、どこにもない。

災いが続き

悪い知らせが相次いで来る。

彼らが幻を預言者に求めても得ず

律法は祭司から失われ

助言は長老たちから失われる。

王は嘆き

君侯たちは恐怖にとらわれ

国の民の手は震える。

わたしは彼らの行いに従って報い

彼らの法に従って彼らを裁く。

そのとき、彼らは

  わたしが主であることを知るようになる。



マタイによる福音書 13:14-15

イザヤの預言は、彼らによって実現した。

『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、

見るには見るが、決して認めない。

この民の心は鈍り、

耳は遠くなり、

目は閉じてしまった。

こうして、彼らは目で見ることなく、

  耳で聞くことなく、

心で理解せず、悔い改めない。

わたしは彼らをいやさない。』



マタイによる福音書 24:3-14

イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされてはならないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないようにきをつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまづき、互いを裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりがくる。」



マタイによる福音書 24:15-28

預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら---読者は悟れ---、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に下りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難がくるからである。神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。あなたがたには前もって言っておく。だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」



ヨハネによる福音書 16:16

「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」

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マタイによる福音書 7:15-20

「偽預言者を警戒しないさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨かぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべ良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」


預言者とは、現在、流行し蔓延しているスピリチュアルであると取れる。人間の中で最も優れたものでも、天使の中で最も地位の低いものに、あらゆる面で劣るというのに、愚かな人間たちは、聖書と無関係に天使の名を使用し、天使の名を冒涜している。この罪は重い。偽預言者に警戒しなさい。数千年前からある預言である。わたしはユダヤ教イスラム教ヒンズー教仏教密教に関して、ある種の敬意を持っている。彼らの信仰に導かれることはないが、宗教というものは、死と死後を扱うものであり、宗教の根底の川に流れている、死生観というものに対して、わたしは、関心を持っています。従って、宗教差別という概念は、わたしにはない。ところが、スピリチュアルはどうであろうか?あの世を語りながら現世利益ばかりを追求しているではないか。宗教の様に横に強いつながりを持つ構造ではなく、また、神もしくは信仰対象に対して、縦に強い影響を持つものではなく、単に現世の個人利益の追求ばかりに目を取られている。これが現在流行しているスピリチュアルの姿である。聖書は、このような時代がどんな風になるのか次のように預言している。


マタイによる福音書 12:43-45

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出てきたわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪い七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」


わたしは、聖書を単に古い書物であると考えていない。聖書とは驚異の預言の書なのである。この悪い時代は、「マタイによる福音書 12章43-45節」に書かれた時代になってゆくであろう。これは警告である。しかし、スピリチュアルを信奉する者たちも、悔い改めることは遅くはない。神に縋らずに、世界を変えようなどという思想は、極めて傲慢である。

| 12:57 | ■を含むブックマーク ■のブックマークコメント

イザヤ書       24-27章

エレミヤ書      26-29章

エゼキエル書     7章

マタイによる福音書  7:15-20 , 12:43-45 , 13:10-16 , 23-25章

ヨハネによる福音書  14-17章

わたしは、聖書に基づいて世界を見てゆこうと考えています。ようやく、わたしの中に聖書の重みが回復してきました。聖書の冒険は、わくわくドキドキがあり、とてもたのしいです。すこしずつ、がむばります。

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2010-03-14 ちょびちょび聖書通読 139日目

| 20:01 | ■を含むブックマーク ■のブックマークコメント


コリントの信徒への手紙 一 13章

今日、教会で辛い目にあった。一所懸命に賛美歌を歌っていたら、賛美の声が大きすぎるといわれたのです。それで、教会で泣いてしまいました。お家に帰ってからも泣いてばかり。目を疲れちゃいました。礼拝は好きだけど、人間関係はむずかしいです。

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inori-no-tenshiinori-no-tenshi 2010/03/14 22:43 つらくて悲しかったのだろう

そう思います。


あなたのこころが
癒されていくように
慰められていくように
こころから祈っています。


inori

小鳥小鳥 2010/05/03 11:54 ありがとう。祈りの天使さん。でも、わたし負けないのでーす。
聖書学が再燃してきました。また、あそびにきて下さい。^ ^*

2010-03-08 ちょびちょび聖書通読 138日目

| 21:40 | ■を含むブックマーク ■のブックマークコメント


創世記 15-17章

レビ記 17章

哀歌  1-5章

マタイによる福音書 23-24章

レビ記17章にあるように、旧約では血を飲むことは悪いことだとされていた。だから、主イエスが、主の晩餐で、ぶどう酒を勧めたとき、弟子たちの抵抗はかなり強いものだったろうと推測できる。旧約から新約の時代は非常にダイナミックなものがある。

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2010-03-06 ちょびちょび聖書通読 137日目

| 19:29 | ■を含むブックマーク ■のブックマークコメント


創世記 11-14章

マタイによる福音書 22章

また、このページストップしてしまいました。^ ^;; まったく読んでいないわけではないんですけどね。つい、記録するのを忘れてしまいます。今日からまた、がむばります。◎ ^ ^*



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2010-01-30 ちょびちょび聖書通読 136日目

| 23:12 | ■を含むブックマーク ■のブックマークコメント



創世記 10章

マタイによる福音書 21章



イエスさま。

政治や経済の様々な問題や、争いばかりがある世界を

あなたの御力で修復してください。

何者にも囚われず、主に期待を置いています。

祈りで世界は変わると わたしは信じます。

日々、あなたに祈る言葉を聞いてください。

あなたが神。あなた以外の神はいません。


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2010-01-28 ちょびちょび聖書通読 135日目

| 22:28 | ■を含むブックマーク ■のブックマークコメント




創世記 8-9章

マタイによる福音書 20章



ノアの死の間際の最後のメッセージがわからない。どうして、カナンは呪われることになってしまうのでしょう。そんなことをいわなければ、争いもなかったろうにと想ったりする。ハムは良いことをしたように想えるのですが。^ ^;;



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joshuejoshue 2010/02/12 20:48 突然の書き込みすみません。

記憶が曖昧ですが、確か上の兄弟二人が父親の裸を見ないように慎重に着物を着せていたのには、訳があって、父の威厳を損なわないというニュアンスがあったと思います。

今の日本の家庭では、父親がパンツ一枚でごろごろしてる、というのが当たり前ですよね。
が、当時の世界観では、父の裸を見るということは、呪われて当然なくらい著しく礼を失することだった、と記憶しています。

また、聖書の中では性的なニュアンスのお話は、間接的な描き方をすることが多く、たとえば女性と性関係を持つことを「彼女を知った。」などと分かりにくい表現になっていることが多いです。

この箇所も、「末の子が裸を見た」というのは、男色に近いニュアンスがあったように記憶しています。
聖書の中では、男女問わず姦淫はタブーですので、おそらくは何らかの性的タブーを犯したとも考えられるかもしれません。

有力なのは、この2つの説だったように記憶しています。

曖昧な記憶でコメントしてすみません。

通読、毎日続けるの大変ですよね、がんばってください。

2010-01-27 ちょびちょび聖書通読 134日目

| 21:38 | ■を含むブックマーク ■のブックマークコメント



創世記 5-7章

マタイによる福音書 18-19章



なにがもっともたいせつかと考えたとき、わたしはここへ戻ってこなければならない。欲から得るものが、いくらあったとしても、地に帰るときは、一切を捨てるから。わたしが天国にゆけるかどうかは、わからない。けれども、それを願うことは、多くの学びよりも重要である。生まれ落とされた地上は、現世利益と資本主義の荒れ野だった。ここに本質を求めたくないとわたしは想う。そもそも、間違いである土壌の上に、新たなビルを建てるのは誤謬である。

多くのひとが、それをするからといって、わたしはそこへ陥らないようにしたいと想う。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する。そんなわたしでいたい。現世利益を追い求める悪魔に打ち勝つことができますように。

イエスさま。

あなたの御名が永遠に崇められますように。

御心の天になるごとく地にもなさせたまえ。

イエス・キリストの御名を通し御前にお捧げ致します。

アーメン

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2010-01-25 ちょびちょび聖書通読 133日目

| 22:55 | ■を含むブックマーク ■のブックマークコメント



創世記 4章

マタイによる福音書 17章



わたしは聖書から、現在に役立つ知恵の発見と、未来を展望するのに役立つ預言と、そして、天国の姿をイメージしたいと考えはじめています。やや、聖書学的な傾向が、わたしの中に出てきたのかもしれません。信仰の原点にあることに触れたいのです。簡単にいえば、信仰の土台をつくるということです。

ただ、そうはいうものの、実際の方法はこれから、ヨチヨチ歩きをしながら、自分で掴みとってゆくしかありません。「信じる」というのは、とても抽象的です。そこには、キリスト教の場合、信じる行為に物が介在しません。物が介在すると偶像礼拝になってしまうのです。ですから、「信じる」ことに重きを置いたイマジネーションを高めてゆかなければならないのだと感じています。

わたしたちは、日々、なんらかの影響を受けています。たくさんの影響下の中で、普遍の信仰を貫くのは、時に難があります。正直なことをいうと、ときどき、神さまっているのかなあと考えることもあるんです。信仰が揺らぐというよりは、ものすごく根底から神の存在を疑問視することもあるんです。それは、わたしだけではなく、多くのクリスチャンが体験していることだと想います。

「それでも尚」を求めるのが、困難な時の解だと想います。

キリスト教という伝統宗教の中には、良いことも悪いこともあります。それでも尚、現在も息づいている生きているキリスト教に、わたしはおおきな信頼と希望を寄せたいです。あらゆるすべてのものに、神の光を見ることができると、わたしは最近、実感しています。


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inori-no-tenshiinori-no-tenshi 2010/01/27 14:30 forest noteさん,こんにちは。

ここ数日体調を崩してしまっています。
少し休み気味でいます。

あなたのからだとこころと日常を
主がささえ慰めてくださいますように。


inori-no-tenshi

forestnoteforestnote 2010/01/27 21:42 体調がよくなるように

お祈りしていますね。

ゆっくり 睡眠をとってください。

あと、

深呼吸をして

こころを やすませてね。

だいじょうぶ。神さまが

あなたを守ってくださいますよ。^ ^*

深呼吸。 深呼吸。