Hatena::ブログ(Diary)

日 用 帳

20090815

夏休み関西遊覧その2:富士正晴と天野忠。極私的モダン京都めぐり。

午前9時。宿を引き払って梅田駅に向かってテクテク歩いてゆく、その前に、まだまだ大阪が名残惜しいので、ちょいと寄り道。駅と逆方向へ歩を進めて渡辺橋の欄干に立って、堂島川を眺める。年内にあともう一回くらいは関西の風に吹かれたいなあと、朝日新聞社の建物に向かって、心の中で願かけをしたあとで、梅田へ向かう。照りつける太陽のもとでは、地下道がありがたい。中央電気倶楽部の建物を見た直後に地下に潜入して、阪急電車の乗り場までズンズン歩いてゆく。



f:id:foujita:20090903224727j:image

大阪に来るたびに心ときめかす都市風景の筆頭は、朝日新聞社の建物その向かいのビルヂングのてっぺんの鉄塔だった、けれども、鉄塔は前回来訪時(id:foujita:20090301)が見納めになってしまった。近々建て替えられるという朝日新聞社も今日が見納めかな。



f:id:foujita:20090903224728j:image

図録『1920年代・日本展 都市と造型のモンタージュ』(1988年刊)より、「竹中工務店(石川純一郎) 大阪朝日ビルディング 1931」。




f:id:foujita:20090913201509j:image


f:id:foujita:20090903224729j:image

地下街へ降りてゆこうとしたまさにそのとき、脇道にいかにも古びた近代建築がひっそりと建っているのが視界に入ったので、「おっ」と見物にゆく。手持ちの地図を確認すると、この建物は「中央電気倶楽部」。建物上部の装飾の壺が独特で、ワオッと見上げる。



f:id:foujita:20090903224730j:image

中央電気倶楽部の全体像、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日)に掲載の写真、『復刻版 近代建築画譜〈近畿篇〉』(不二出版、2007年6月25日)より。竣工は昭和5年7月。建物自体は当時とまったくおなじだけれども、並びの瓦屋根の建物の連なりがいい感じで、高層の建物が林立する現在とは印象はだいぶ違う。低層の建物の連なりのところどころで近代建築が威容を誇っていた当時の町並みを思い浮かべる。かつては、遠くからもこの壺が見えたのかなと思う。



f:id:foujita:20090903224731j:image

おなじく『近代建築画譜』より、「大阪毎日新聞社」(竣工:大正11年4月)。大阪に来るたびに、かつての大阪毎日新聞社の敷地にそびえたつ堂島アバンザのジュンク堂へ行くのをたのしみにしているのだけど、今回は行き損ねてしまった。行き損ねたばかりでなく、紫外線を遮断すべく行きも帰りも地下道を通ったので、前を通ることすらしなかった。敷地に申し訳程度に保存されてある大阪毎日新聞社の門の残骸がいつも味わい深いのだった。堂島アバンザのジュンク堂へ出かけると、なんとはなしに大阪毎日新聞社の北尾鐐之助に思いを馳せてみたりするのもたのしい。朝日新聞社の建物がなくなってしまうのは観光客としても残念だけれども、なんとか間に合ったのは本当によかったと、毎日新聞社の建物を知らない身としては嬉しく思う。



富士正晴記念館のあと、四条通の大宮と大丸で極私的モダン都市京都にひたる。

関西遊覧のたびに、しょうこりもなく大興奮の阪急梅田駅。昨日は三宮から梅田、今日は梅田から京都、というふうに、このたびの遊覧では、阪急梅田駅および阪急電車および十三の鉄橋を心ゆくまで満喫できて、こんなに嬉しいことはない……のであったが、当初の計画では、夏休みなので今回は欲張らずにゆっくり過ごすとするかなと、2日目の午前中は中之島図書館で読書のあとで、京阪電車に乗って京都へ向かいたいなと思っていた。しかし、前回の遊覧で行き損ねた、茨木市立図書館内の富士正晴記念館が依然気になって仕方がないばかりでなく、6月に竹内勝太郎の詩集をひょいと古書展で入手したのを機に、先月から富士正晴周辺に盛り上がっているところなので、なにがなんでもいまのうちに行っておきたいという気持ちをどうしても抑えることができなかった。というような次第で、2日目は梅田から阪急電車にのって、茨木市で途中下車をしてから、京都に向かう、ということにあいなった。京阪電車は次回のおたのしみとしたい(二階建て車両希望)。



f:id:foujita:20090906224805j:image

『近代建築画譜』より「阪急ビル1階ホール」。わたしの見逃してしまっている風景(というか、無意識に歩いていたのは確実だけど)、なんとモダーンなドーム天井! 堂島界隈から阪急梅田駅へ向かうときの歩道橋からの阪急百貨店の建物の眺めが大好きだったけれども、そちらも消えてしまった。しかーし、阪急梅田駅のホームの威容は永久に不滅だ。




午前10時過ぎ。図書館に向かうバスは「川端通り」なる道を走ってゆく。通り沿いには、川端康成文学館がある。そうか、茨木は川端康成ゆかりの土地でもあるのだなあと遅ればせながら気づいたりしたあとで、無事に茨木市図書館に到着。

茨木の富士正晴記念館をはじめて訪れたのは昨年(一九九四年)の十一月三十日のことであった。設立のために尽力した廣重聰に敬意を表しに一度は足を運ばねばなるまいとかねてから考えていたのだが、どうも腰が上らない。訪れた以上は復元された富士さんの書斎なるものを見ざるをえまいが、それがいやなのである。その種のものは他にいくつか見たことがあるが、どれもニセものくさく、はなはだ興を殺ぐ。ニセものくさいのではなく、ニセものそのものなのである。私が何度もお邪魔してよく知っている富士さんの部屋の場合はその感がことさら深かろう。記念館の番人のごとき廣重氏にもそれが重々わかっているだろうから気の毒である。


【山田稔『富士さんとわたし――手紙を読む』(編集工房ノア、2008年7月1日) - 「はじめての手紙」冒頭(p14)】

茨木市図書館内の富士正晴記念館(http://www.lib.ibaraki.osaka.jp/fuji/fuji.html)の展示室は時間がとまったような空間だった。無人の薄暗い室内で展示物のひとつひとつを凝視してゆく。竹内勝太郎関係のところをとりわけ時間をかけて見つめる。同人雑誌「三人」の表紙や当時の写真に写る富士正晴の不敵な面構えを見て、富士正晴著『竹内勝太郎の形成』のページを繰っているときのことを思いだして、帰宅後のさらなる精読を決意、というふうに将来の本読みないし勉強へと気持ちが鼓舞されるのが、文学館での一番のよろこびで、それは今回でも一番のおみやげだった気がする。と、展示をソコソコたのしんではいたけれども、予想の範疇を超えるようなあっと驚くものは特にはなくて、常設展示としては「まあ、こんなものかな」というのが正直なところだった。富士正晴の書斎の再現は、机に近くに立てかけてあった帆布のズタ袋(のようなもの)がいいなあと思ったりと、日用品やちょっとした小道具の配置が嬉しかった。


富士正晴記念館において、書斎の再現以上に胸躍ったのは、通路のガラス越しに見える書庫だった。ここに、富士正晴の生資料、山田稔の出した書簡などが収められているのだなあと、保存に携わる方々の仕事ぶりを思って、背筋が伸びる。日頃から敬意を表してやまない、越谷市立図書館の野口冨士男文庫のことを思い出す。好きな作家の旧蔵書や生資料などが公的機関に保存されているということの幸福を思う。さらに、日頃から図書館通いを道楽にしている身からすると、茨木市立図書館そのものの見物も面白く、初めて足を踏み入れる公共図書館でのたのしみといえば、なんといっても地域資料コーナーだてんで、富士正晴のあと、こうしてはいられないッと突進。棚の並びを眺めてしみじみ味わい深くて、次から次へと手にとって、興奮だった。富士正晴の資料もここに集まっている。前々からその存在が気になっていた富士正晴著『ビジネスマンのための文学がわかる本』(日本実業出版社、1980年11月刊)を初めて手にして、ちょっと拾い読みしただけで一気に物欲が刺激された。



f:id:foujita:20090906224806j:image

竹内勝太郎『詩集 明日』(アトリヱ社、昭和6年11月25日)。装釘:榊原紫峰。最近買った詩集は、届いてみたら岩崎一正宛署名本だった。岩崎一正は四高にいた富士の友人で、井口浩と富士正晴を引き合わせた人物。




茨木市駅からふたたび阪急電車にのって、京都へ向かう。車窓から山崎の工場が見えて、よろこぶ。3年ほど前に一度出かけた大山崎山荘はどのあたりかなと目をこらす。桂に停車中の嵐山行きの電車を見て、いつかあれに乗りたいなと思う。というようなことをしているうちに、電車はいつのまにか地下に入っている。こ、こうしてはいられないと、大宮で途中下車。


阪急大宮駅といえば、溝口健二の『浪華悲歌』なのだった。『浪華悲歌』の DVD 観察の折に、映画のなかで山田五十鈴が乗っている「大阪の地下鉄」が、実は京都の繁華街の地下を走る阪急電車の車両だと発見して、たいへん愉快だった。以来、現在の大宮駅の観察をしたいものだとかねがね思っていたので、念願かなってやれ嬉しや、なのだった。



f:id:foujita:20090913110542j:image

溝口健二『浪華悲歌』(昭和11年5月28日封切・第一映画)より、道修町の薬屋の主人のお妾になり、「大阪パンション」を髣髴させるアパルトマンに囲われている山田五十鈴が、「地下鉄」で大阪市内を移動し、いままさに下車するシーン。映画のなかでは「大阪の地下鉄」ということになっているこの車両は、実は阪急電車の車両。正確に記せば、この路線の当時の名称は「京阪電気鉄道」、昭和18年1月に現在の阪急である「京阪神急行電鉄」に合併される。現在の大宮駅の開通は昭和6年3月31日で、当時の名称は「京阪京都駅」。昭和18年の合併で「京都駅」となり、昭和38年6月17日に烏丸駅と河原町が誕生するまで、長らく阪急電車の終点だった。烏丸と河原町への開通と同時に、かつての終着駅「京都駅」は「大宮駅」となり、現在に至る。



f:id:foujita:20090906224809j:image

というわけで、阪急の大宮駅はわたしのなかでは『浪華悲歌』ロケ地として、極私的京都名所! もちろん外壁は補修されているけれども、骨組部分は『浪華悲歌』当時とまったく変わらず、



f:id:foujita:20090906224808j:image

特に、この階段の形状に映画当時をしのぶことができて、階段に立ちすくんでワオ! と興奮だった(通行人には大いに迷惑なことであった)。当時の溝口の住まいは北野線の御宿だった(現在の駅名は「御室仁和寺」)。日頃から愛好してやまない戦前日本映画、モダン都市時代の映画人と京都地図、というようなことを思って、いつまでも嬉しい。また近いうちに、四条大宮から嵐電に乗りたいのだった。



f:id:foujita:20090906230414j:image

『浪華悲歌』に登場の阪急電車について調査すべく、神保町の書泉グランデ6階の鉄道本売場へ出かけてみたら、すばらしい資料を発見してホクホクだった。この画像は、「鉄道ピクトリアル」1998年12月臨時増刊号《特集・阪急電鉄》に掲載(p65)、《京阪京都駅》、すなわち現在の大宮駅。と、書泉の鉄道コーナーでハイになってしまい、さらにマニアックな追究を試みたところ、『浪華悲歌』で山田五十鈴が乗っていた車両は「阪急P-6」という車両で(正式名称は「新京阪鉄道P-6形電車」。Wikipedia をフムフムと読みふける)、上の写真に写っているのはまさしく『浪華悲歌』で山田五十鈴が「大阪の地下鉄」として乗っている車両とおなじ車両ということがわかって、感動のあまり、吉岡照雄著『RM LIBRARY110 阪急P-6』(ネコ・パブリッシング、2008年10月)というのも同時に購入。しかし勢いにのって買ってしまったものの、2冊ともわたしにはあまり読みこなせず、わが書架の「京阪神モダン」コーナーに押し込んだまま。とりあえず、『浪華悲歌』は「阪急P-6」資料である、ということを主張したい(誰に?)。



f:id:foujita:20090909220726j:image

『近代建築画譜』に「新京阪京都地下鉄」として掲載の写真。《昭和6・3、関西最初の地下鉄として竣工せしものなり》とある。終着駅なので、これも当時の「京阪京都」、現在の大宮駅の写真とみて間違いあるまい。この写真に写る終着部分から、烏丸、河原町へ線路が伸びていった。

【追記:この写真は『近代建築画譜』には「新京阪京都地下鉄」として掲載されているものの、阪神電車の三宮駅の間違いではないかと、あとで気づいた。ひとたび気づいてみると、柱や階段の装飾が明らかに異なる。この件については、後日詳記したい。】



f:id:foujita:20090906224810j:image


f:id:foujita:20090906224811j:image

山田五十鈴が『浪華悲歌』のなかで乗っている「大阪の地下鉄」は実は阪急電車の車両で、下車駅も実は阪急の大宮だけれども、駅の階段をあがってゆくと、大阪市内へワープ! ここは当然御堂筋沿い、駅名と正確なロケ地に関しては現時点では確信は持てないのだけれども、淀屋橋ではないかと推察しているところ。淀屋橋だとしたら、上の画像の奥の方角は中之島?



f:id:foujita:20090906224812j:image

『近代建築画譜』より「大阪地下鉄」と称された図版のうち、こちらは「本町停車場出入口上家」。




とかなんとか、大宮での途中下車を大いに満喫して、もう思い残すことはない。烏丸で阪急電車を下車。地下鉄の四条駅改札近くのコインロッカーへ手荷物(主に昨日購った本)を押しこんで、帰り仕度も万端だ。鎧をといてスッキリ、イソイソと地下道を戻ったところで、次なる目的地は京都大丸なり。

 私は百貨店の売場づとめをしていた頃、陽のあたらぬ悪い空気と埃の中で一日中立ち働きだったから、しきりの太陽のひかりが恋しかった。休日で好天気だと心が弾んで、いいことがあるような気がした。陽あたりの良いところへごろりと横になって居眠りするのが何より楽しく思えた。一週間分の悪い仕事場の汚れた空気をすっかり吐き出し、思う存分躰の中に、新鮮な日光を貯めこもうという気持であった。

 その頃は街の盛り場を歩いても、電車のゴロゴロ走る音ぐらいで、いまの自動車の数ほどもない自転車が走っているだけで、ちょいと通り筋を離れると、しもたやばかりで、すぐしーんとしずまりかえった家並みの通りに入ることが出来た。ときには謡曲や琴の音がしめやかに聞こえてくることもあった。

 街歩きという文字通りの暢気な散歩が出来た。陽なたに存分にひたりながら、ぼんやり考えごとをしながら歩くことの愉しみがあった。


【天野忠「陽のあたる場所」- 『余韻の中』(永井出版企画、1973年7月30日)より。】

天野忠は昭和3年3月に京都一商を卒業して、同年大丸百貨店京都店に入社。昭和18年11月に退社するまで、15年間勤めていた。

就職難のきつい時代で、上海の紡績会社へ勤め口があったのが、こっちの家庭の事情で御破算になり、実業学校を卒業して大分たってやっと仕事にありついたのが七月のあつい熾りで、それがデパートの一階帽子売場であった。かんかん帽が山積みにカウンターに乗せてあった。一個五十銭ぐらいからあった。特価三十銭というのまであった。眼がまわる程よく売れた。古参の店員が主としてパナマ帽子の上客にあたり、新米の私達が、かんかん帽を売る方にまわされた。……大抵の人は値段の廉いのと一夏きりという気安さで、中折帽子のときほどには然程文句もつけず買っていった。売場の鏡の前に立つと、ま新しいかんかん帽子の下の顔まで涼しげに写るような気がしたようである。アメリカの喜劇俳優ハロルド・ロイドみたいに、一寸斜めに気障っぽくかぶるのが流行った。


【天野忠「かんかん帽子の頃」-『そよかぜの中』(編集工房ノア、1980年8月1日)より】

天野忠は、京都市立第一商業学校で出会った藤井滋司と詩の同人雑誌を通して生涯の友となり、また天野忠の一級上にいた山中貞雄はもともと藤井と親友だったので、天野は山中とも親しく交わった……というふうな、1920年代の京都っ子の映画青年たちの交友を思うと、それだけでなんだか胸がキュンとなる。山中貞雄は昭和2年に卒業後、まずはマキノ撮影所に入所し、藤井滋司は病身のため卒業が1年遅れたことで天野忠と同年の昭和3年に卒業し、ふたりそろって京都大丸に入社している。大丸の社史を閲覧した折の手持ちのメモによると、京都大丸は大正15年に東館4階を建て増し、即位の大典のあった昭和3年の11月には西館も6階に拡張したという。いわば、昭和3年という年は、大丸が京都唯一の大百貨店として大いに発展した年だったわけで、そんな年に天野と藤井はそろって大丸に入社したのだった。天野忠は昭和18年まで勤めていたけれども、藤井滋司は昭和5年に療養のため退社し、昭和8年に松竹京都撮影所脚本部に入社している。


天野忠の散文を好むようになって年月が過ぎていた一方で、天野忠を知るずっと前から、山中貞雄が体現するところの戦前日本映画に耽溺している身としては、天野忠と戦前日本映画というまったく別ジャンルのものが、1920年代京都の地でつながっていたということを知ったのは大きな歓びだった。キーパースンは藤井滋司。天野忠と藤井滋司が昭和3年にそろって大丸京都に入社しているという事実には、かねがね注目だった。……と言いつつ、いままで何度も京都に出かけているというのに、大丸の建物見物をしたことがなかったのは、なんということ! と、ある日、ハタと気づいて、次回の京都行きの折には、ぜひとも大丸の建物を見物しようと心に決めていた。天野忠が入社した昭和3年の建物はその後ほとんど改修されているものの、一部わずかにその残骸をしのぶことができるのだ。


と、まあ、通りがかりに大丸の建物をちょいと観察するという、ただそれだけのことなのだけれども、大宮駅のホームで『浪華悲歌』を思った直後に、大丸の建物を見上げながら、天野忠と藤井滋司とその親友山中貞雄、といった京都一商・人物誌(山中の一年上にはマキノ正博が)に思いを馳せる、というのは大きな歓びなのだった。という次第で、コインロッカーに手荷物を預けて心持ちよくウカウカと、地下道を大丸目指して小走り、気もそぞろに地上に出る。四条通りの脇から大丸の建物を見上げて、ワオ! と感嘆。期待どおりに素晴らしい。わーいわーいといつまでも大はしゃぎだった。




f:id:foujita:20090906230234j:image

見上げて嬉しい、京都大丸の外観。昭和3年竣工の建物はヴォーリズ建築事務所によるもの。



f:id:foujita:20090906230235j:image

『近代建築画譜』で紹介されている大丸京都店の全景写真。上の写真は向って右の側面を写したもの。ここだけは当時とほとんど変わっていないようだ。



f:id:foujita:20090906230236j:image

ワオ! と見上げたあとで内部に潜入、デパートの近代建築見物のときはいつも階段の細部観察がたのしいのだった。



f:id:foujita:20090906230240j:image f:id:foujita:20090906230237j:image


f:id:foujita:20090906230238j:image f:id:foujita:20090906230239j:image

大丸京都観察の断片写真。拡大するとなんだかよくわからぬ感じだけれども、百貨店の建物にほどこされた意匠を並べて、悦に入る。




とかなんとか、懸案だった大丸京都の建物観察をひととおり満喫して、とにもかくにも大満足であった。昭和3年から昭和18年。京都大丸に天野忠がいた時代と、同時代の日本映画が体現するような、極私的モダン京都といったものを、これからもっともっと思いこみたっぷりに追いかけたいものだなと、大いに鼓舞されて嬉しかった。



そうこうしているうちに、そろそろ時分どき。大丸の隣りの建物の地下のイノダコーヒの支店の前をたまたま通りかかったので、吸い込まれるように中に入り、本日の昼食はオムライスとあいなった。食後にコーヒーを飲んで、上機嫌。無事に腹ごしらえが済んで安心したところで、四条通を鴨川に向かって歩いてゆく。人混みにまぎれながら、ぶらぶら辺りを見回しながら、歩を進める。上掲の天野忠の「かんかん帽子の頃」の続きに、こんな一節がある。

私も初めての給料で買ったかんかん帽子をかぶって、休日の晴れた午後、京都の一番の盛り場である四条河原町へんをぶらついた。角っこの大きな硝子窓のブラジレイロ喫茶店へ入っていくと、隅のうすぐらい席にポツンと式亭三馬が坐っていた。京極の寄席「富貴」に出ている東京の噺家である。地味なというよりは陰気な語り口の老人で、そのためだろうかいつも寄席の寂しい前座に出ていた。江戸の戯作者そっくりの名をつけた老芸人は、あたりの人が季節柄皆コール珈琲をのんでいるのに、彼だけは匂いの高いあつい珈琲をのんでいた。私のそれを注文してたっぷりミルクを入れてのんだ。この店自慢のぶらじる珈琲である。

わたしも先ほど、イノダコーヒの支店で「匂いの高いあつい珈琲」を飲んだばかり。東京の町中を歩いているときとおんなじように、京都の繁華街でも、書物を通して妄想しているモダン都市風景(のようなもの)を思いながら歩くだけで、ずいぶんたのしいのだった。林哲夫著『喫茶店の時代』(編集工房ノア、2002年2月刊)によると、天野忠が珈琲を飲んだブラジレイロ京都支店は、《昭和六年四月五日に四条河原町富士ビルに開店した後、同年末頃同じく四条河原町招徳ビルへ移っていた》とあり、住所の京都市四条通御旅町は《現在の高島屋百貨店の並び》になるという。さらに、『喫茶店の時代』にはブラジレイロ京都支店のメニューの図版が!




f:id:foujita:20090906230243j:image

京都四条通沿いの不二家、『失われた帝都 東京』(柏書房、1991年1月10日)より。初田享氏の解説によると、《この建物が建ったとき、古い町屋の並ぶ四条通りの角地で、一際目立ったという。入口脇のショーウィンドーに「ソーダファウンテン」「ライトランチ」とあるように、2階がグリルになっていた。祇園・先斗町と花街に近い立地で若者たちの待ち合わせ場所になったほか、同志社・京大などの学生も多かったという》。これとまったくおなじ建物が『近代建築画譜』には「カフヱー交詢社」として掲載されている(昭和7年12月竣工)。備考欄に《持主交詢社は地下室のみ使用し、1、2階は不二家洋菓子店に賃貸す。》とある。建物はまったく変わってしまってはいても、銀座や心斎橋とおなじく、京都でも不二家は戦前とおなじ立地なのが嬉しい。



f:id:foujita:20090909225808j:image

戦前の明治製菓宣伝部とその周辺を追うのを日頃の道楽にしてみる身にとっては、明治製菓の京都売店についても言及しないわけにはいかない。というわけで、『三十五年史 明治商事株式会社』(明治商事株式会社、昭和32年5月2日発行)より、明治製菓京都売店(昭和3年12月25日開店)。場所は三条だけれど、正確な位置については営為調査したい。「スヰート」昭和11年12月発行号掲載の紹介記事には、《盛り場、京極、河原町を東西に挟んで五彩のネオンも、みやびやかな京都の明菓売店》とある。




と、四条大橋をわたって、京阪電車の乗場へと向かう。駅名が「祇園四条」に変わっている、いつの間に! と思ってあとで確認したら、2008年10月の中之島線開通とともに変更の由。いつか中之島線に乗りたい。




f:id:foujita:20090906230244j:image

『近代建築画譜』より「四條大橋」(大正元年竣工)。橋を渡った左手には東華菜館(大正15年竣工)、橋の手前の路上には京阪電車の線路。右後方にうっすらと蜃気楼のように大丸の建物が見える、ような気がする。京都大丸の宣伝部長、井上甚之助は「デパートの窓から」というタイトルの昭和24年7月執筆の文章に、《私が通っているデパートの私の事務室は、五階の東北の一隅を占めている。》、《私が回転椅子にもたれて、遠く東山の方に目をやると、先ず目にはいってくるものは、丁度、私の位置から真正面になっている知恩院の建物である。》と書いている(『青塵居随筆』私家版・昭和41年4月1日)。



叡山電車で終点へ。比叡山の空中ケーブルカーにのって、モダン京阪神の行楽に思いを馳せる。

2日目の午後こそは、気張らずに夏休みらしくのんびり過ごしたいな、ということで、ふと思い立ったのが、叡山電車のこと。修学院から先はまだ一度も行ったことがなくて、叡山電車の終点がどんな感じなのか、前々からそこはかとなく気になっていたのだった。というわけで、比叡山のふもとまで叡山電車で行って、そのまま折り返して、出町柳まで戻ったら、あとは本とコーヒーの時間、下鴨の古本市は明日が最終日、云々と、行き当たりばったりに過ごしてみようというスケジュール(というほどのものでもないが)とあいなった。


昼下がり。祇園四条から京阪電車に乗って、終点の出町柳で下車して、叡山電車の改札へ。あたりは、ワイワイガヤガヤと行楽客でいつもよりだいぶ人が集まっていて、いかにも夏休み気分が横溢していた。鞍馬までの往復切符を買っている人が多いようだった。出町柳を出発した叡山電車は宝ヶ池で、鞍馬行きと八瀬比叡山口行きの二又に分かれる。フムなるほどと、手持ちの『鉄道旅行地図帳 関西2』(新潮社刊)で位置を確認して納得したところで、運よく座れてよかったよかったと、電車が出発。叡山電車でも未知の土地を移動しているだけで物珍しいという、観光客のよろこびが全開、一乗寺といえば宮本武蔵だ、内田吐夢だ、中村錦之助だと、突如スクリーンが白黒になるあの瞬間を思い出して、ひとりでジーンとなったりする。


鞍馬行きほどではないにしても、八瀬比叡山口行きの電車も、今まで乗ったなかで一番混んでいる気がする。行楽の人びとは比叡山へ遊山に出かけるのかなと、ぼんやり思っているうちに、突如思い出したのが、戸板康二が少年時代、夏休みに神戸在住の伯父に連れられて初めて京都を訪れ、そのときに比叡山にのぼった、ケーブルカーのあとロープウェイにも乗った云々ということを、なにかのエッセイで書いていたこと。山の手育ちの東京っ子、戸板康二は、親戚が阪神間にいたおかげで「京阪神モダン生活」の一端に触れているのだ、ということに突如ハッとなった。




f:id:foujita:20090912212301j:image

京都電燈株式会社叡山電鉄課発行の戦前絵葉書、《京洛ノ霊峰 眺望絶佳 叡山案内図》。気分は一気に橋爪紳也著『京阪神モダン生活』(創元社、2007年12月刊)! 叡山電車の分岐点、現在の宝ヶ池駅はかつて「山端」という名前だった(昭和29年に改称)。叡山電車の先には、プールに温泉、遊園地、そしてケーブルカーと、都会生活者の絶好の行楽スポットの数々が用意されていたことが、この絵葉書を手にとると鮮やかに体感できる。



当初は、叡山電車で八瀬比叡山口まで行って、『鉄道旅行地図帳』に紹介の「名駅舎」であるところの八瀬比叡山口駅を見物して、そのまま折り返して戻って、そのあとは古本めぐり、という予定だったのだけど、1920年代の戸板康二少年の夏休みの行楽を思い出したとたんに、こうしてはいられないと思った。ケーブルカーとロープウェイに乗って、比叡山の高いところまで出かけて、戸板少年の1920年代の行楽に思いを馳せる絶好のチャンスをみすみす逃す手はないと、スクッと立ち上がって、目には炎がメラメラ。と、比叡山観光を決意したとたん、それまで傍観者風に叡山電車に乗っていたのが、急に行楽気分が盛り上がって、ますます気持ちがフワフワ。そうこうしているうちに、電車はあっという間に終点の八瀬比叡山口に到着。わーいわーいと下車すると、さっそくその古風な駅舎に、ワオ! だった。



f:id:foujita:20090912212302j:image

八瀬比叡山口の駅舎。深い考えもなく出かけてみたら、あんまりすばらしいのでびっくり。オルセー美術館を彷彿とさせる、かまぼこ状の屋根が嬉しい。『鉄道旅行地図帳 関西2』の解説に、《終着駅のホームを覆う鉄骨の大屋根と一体化した珍しい駅舎。大正14年の開業時は隣接した八瀬遊園地(閉園)の駅だった。大屋根の下は戦時中工場にも利用されたという。》とある。写真で見ただけでは想像もつかないような見事な空間だった。


f:id:foujita:20090912212303j:image

上掲の絵葉書の駅舎部分を拡大してみると、大正14年創業時と現在と、駅舎の形状がまったく変わっていなくて、頬が緩む。かつての「八瀬遊園地」の敷地は、現在高齢者用の住宅になっている。「少子高齢化」という言葉をマザマザとつきつけられて暗い気持ちになったところで、改札の外に出てみると、電車でたった15分揺られただけなのに、いきなり山の麓の景色が眼前に拡がっている、ということに、ただただ感嘆。橋の欄干からせせらぎを見下ろすと、子供たちが水遊びの真っ最中。明らかに町なかよりも気温が低く、ああ、なんていい気持ちなのだろう! と、さらにハイになる。このままケーブルカーで上の方へ行けば、さらに涼しさが増すこと請け合いだ。


f:id:foujita:20090912213301j:image

またまた、上の絵葉書を拡大。ケーブルカーの乗車駅「ケーブル八瀬」は、大正14年12月の開設以来、「西塔橋」という駅名だった(昭和40年に「ケーブル八瀬遊園」に改称、平成14年に「ケーブル八瀬」に)。


わーいわーいと、ケーブルカーの乗り場へ走って、ケーブルカーとロープウェイのセット乗車券(往復で1620円也)を買って安心したところで、行列に並んで10分ほどで、ケーブルカーに乗り込む。こんな山景色を目の当たりにしたのは、ずいぶんひさしぶり。スーっと生命が延びるようだ。その車窓に、ただただ感嘆。中央線に延々と揺られてやっとのことで高尾山口にたどりついたわが幼少時代の行楽を思い出して、市街地からちょっとだけ電車に揺られただけで、山に来ることができるというのは、関西独特の感覚だなあと、いつまでも感嘆なのだった。車窓の急斜面と山景色を満喫しているうちに、早くも「ケーブル比叡」に到着。



f:id:foujita:20090912212305j:image

ケーブルカーの到着地「ケーブル比叡」駅は、大正14年開業時は「四明ヶ嶽」という名称だった(「西塔橋」と同様に昭和40年8月に改称)。



f:id:foujita:20090912212306j:image

「ケーブル比叡」駅に到着して、イソイソと次はロープウェイにのって、比叡山の山頂を目指すのだけれども、その前に、駅舎のまわりをくるっとひとまわりして、



f:id:foujita:20090912212310j:image


f:id:foujita:20090912212311j:image

ケーブル比叡駅、かつては「四明ヶ嶽」という名の駅舎を見物。石造りの柱がいかにも大正14年の創業時を髣髴とさせて、ふつふつと嬉しい。



f:id:foujita:20090912212312j:image

戦前絵葉書《比叡山四明ヶ嶽駅発車スル鋼索電車》。この絵葉書に描かれている創業時の石造りの駅舎を、今も残る柱の装飾に見出すことができるのだった。現在の「ケーブル比叡」の駅舎全体を見ると、その骨組だけが残っているようだ。



f:id:foujita:20090912212309j:image

ケーブル比叡駅には、唐突にロープウェイの古い車両が展示(というか放置)してあった。いつごろの車両かな。



f:id:foujita:20090912212308j:image

そして、無事にロープウェイに乗って、いざ比叡山の山頂へ。「絶景かな、絶景かな」としか他に言いようがない。このロープウェイからの眺めは、戸板少年が乗った創業時とまったく変わらないのは確実。こんな山のてっぺんのすぐ向こう側に市街地が見えるというのがいかにも盆地だなあと、観光客のよろこび全開、ここでもひたすら感嘆なのだった。



f:id:foujita:20090912212307j:image

戦前絵葉書《比叡山空中ケーブルカー》。「ロープウェイ」のことを当時は「空中ケーブルカー」と呼んでいたようだ。「空中ケーブルカー」と呼ぶ方がいかにも実感的! なだらかな山の斜面の上をゆく空中ケーブルカー。なんて、のどかなのだろう。



山頂にたどりついて、大きく伸びをして、さらに気分上々。「土器投げ」のスペースが目に入り、「おっ」といきなり落語の『愛宕山』を思い出して、大喜びだった。愛宕山はどっちの方角だろうと、ちょっと思ったりもした。上の「空中ケーブルカー」の絵葉書ののどかさは、落語の『愛宕山』のあの感覚をいかにも思い出させるのだった。と、戸板康二の1920年代の京阪神行楽に思いを馳せるという点でも、観光のよろこびという点でも大満足の、比叡山ケーブルであった。



f:id:foujita:20090912212304j:image

あんまりここでのんびりしていたら、かねてからの計画の、本屋行きとコーヒーとビールの時間がなくなってしまうッとそこはかとなく危機感をいだいて、ロープウェイで下山のあと、イソイソとケーブルカーに乗り込む。行きはくだり斜面を眺めながら登ったので、帰りは進行方向と逆向きに座って、上の斜面を眺めながら下ってゆく。



ふたたび叡山電車にのって、もと来た道を戻る。比叡山のふもとの駅が大正14年の開業であった一方、叡山電車のもうひとつの終着駅、鞍馬は昭和4年の開業だ。いつか鞍馬へも出かけて、モダン都市の形成、鉄道網の整備、行楽の誕生、ということに思いを馳せたいなと思う。ケーブルといえば、六甲ケーブル(こちらは昭和7年開業)にも乗ってみたいなあと夢が広がる。



f:id:foujita:20090912212314j:image

京都電燈株式会社叡山電鉄課発行のパンフレット、《比叡めぐり》。関西遊覧から戻ると、戦前の紙モノをいくつか見つくろって、遊覧の追憶をして、次なる関西遊覧を心待ちにするのがいつものお決まり。比叡めぐりのよき思い出とともに、このグラフィカルな表紙を眺めて、いつまでもうっとりだった。



古書善行堂で本を買って、バスにのって寺町通りへ。三月書房とスタンド。


比叡めぐりを満喫して、ふたたび叡山電車で機嫌よく出町柳へ戻る。テクテクと百万遍へ向かって歩いて、おなじみの知恩寺の前に出て、嬉しい。11月にふたたびここに来ることができたらいいなと、気の早いことを思う。通りがかりの進々堂でコーヒーをすすって、ひと休みをして英気を養ったところで、わーいわーいと古書善行堂へ向かって競歩。無事に開いていてよかったッと、歓喜にむせんで、オズオズと店内へ。ジャズが流れるかっこいい空間で、心ゆくまで棚を眺めて大満足であった。いくらでも買いたい本が見つかってしまって、いつのまにかハイになっている、という、よき古本屋の典型がここにあった。今日のところは、大庭柯公と石塚友二を買った。お店からちょっと歩くと、北白川のバス停があって、ここからバスにのって、寺町通りに出ることにする。都内で都バスに乗っているときとおなじように、京都で市バスに乗ると、かつて路面を走っていた電車を実感することができるのが嬉しくて、ランランと目を輝かして、車窓を眺めてしまう。


京都市役所前の停留所でバスをおりて、寺町通りに入る。わーいわーいと三月書房に向かって競歩。無事に開いていてよかったと(向かいの村上開新堂は夏休みで残念)、歓喜にむせんで、店内に入る。さっそく天野忠の『我が感傷的アンソロジイ』が当たり前のように「新刊本」として売っているのを目の当たりにして、ガバッと手にとって、狂喜乱舞だった。



f:id:foujita:20090913110543j:image

天野忠『我が感傷的アンソロジイ』(書肆山田、1988年3月25日)。装釘:宮園洋。表紙のマッチは「リアル書店」のマッチ! 以前、都立中央図書館の閲覧室で読みふけって以来、念願の本だったけれども、なんやかやで入手し損ねていた。お昼に大丸に出かけときに、この本のなかの一篇のことを思い出していたところだったので、タイミングもよかった。『我が感傷的アンソロジイ』は1968年6月に文童社より、天野忠曰く「ひどく粗末な体裁で、極く小部数を内輪の読者のための限定本として、小さな世間へ送り出したものであった」あとで、20年ぶりに世に出たこの書肆山田版は初刊の文童社版を増補したものだけれども、文童社版もいつか手にしたいのだった。



と、『我が感傷的アンソロジイ』1冊だけでも涙滂沱だったというのに、三月書房でもいくらでも買いたい本があって困ってしまうくらいなのだけれど、なんとか3冊みつくろって、お会計。それにしても、古書善行堂で本を見たあとに、市バスにのって寺町通りへと歩いて、三月書房で本を見る、という一連の時間のなんとすばらしいことだろう! と、しみじみ思う。これから末長く、京都遊覧のたびにこの行程を取り入れたい、この行程を軸に京都遊覧を設計したいとすら思う。古書善行堂から銀閣寺方面へと歩を進めると、白沙村荘がある。戦後、戸板康二が長らく定宿にしていた旅館は白沙村荘に隣接していたというから、涼しい季節に京都に来た折には、戸板康二に思いを馳せながら、その界隈を歩くとするかな、などと、残り少ない京都の時間を、将来の遊覧を夢想して気を紛らわせつつ、寺町通りをテクテク歩いてゆく。早くも夕刻なのだった。


新京極のスタンドでハイボールをグビグビ飲んで、三月書房でちょうだいした「海鳴り」を拾い読みする。スタンドで「海鳴り」、なんという至福! と、ちょっと信じられないくらいに見事な瞬間だった。明日は歌舞伎座で三津五郎の『六歌仙』なので(奮発して一等席)、あまり飲み過ぎないようにと理性を残しつつ、ハイボールをグビグビ飲んでいるうちに、新幹線の時間が近づいてくるのだった。



f:id:foujita:20090906230242j:image

帝国館(昭和9年12月竣工・白波瀬工務店設計)、『近代建築画譜』より。

……尾上松之助の昔から私も大の映画好きだったが、この友人のように「本筋」に相渉って身を入れる勇気も器量もなかった。まわりには、山中貞雄だとか藤井滋司だとかその本筋の人が居たが、うしろからついて行って、いい工合にその列に引っ張ってもらおうという気持ちまでは起こらなかった。地道なしかしいっこう映えない安月給取りでムッツリと暮らし、週に一回の休日に映画館の暗闇で、やむなくホッコリしているのが、まあ身に合っているようだった。その世界に入って苦労に塗れながら、それを創り出そうという気構えのある人と、出来上がったものを賞味して気晴らしだけで結構がっている人という荒っぽい分け方ではなくて、どっちにもなれるようで、どっちにもすっぽりと嵌りきらない型もあって、それが凡庸な私であった。


【天野忠「茶の間の郷愁」-『木洩れ日拾い』ノア叢書11(編集工房ノア、1988年7月15日)より。】

伊丹万作『赤西蠣太』(昭和11年6月封切)上映中の帝国館。去年新装版が出た、加藤泰著『映画監督 山中貞雄』(キネマ旬報社、1985年9月)は大好きな本。山中貞雄の生涯を通した、映画をとりまく戦前京都の空気というものにうっとり。この本で初めて、《山中貞雄少年たちが通ったころの、京都一番の活動写真館街、新京極の地図》(p49)を目の当たりにしたときの幻惑感といったら! 天野忠もこの帝国館(のち京都日活)で映画を見ていたに違いない。



f:id:foujita:20090912212317j:image

戦前絵葉書《京都大丸 売場ノ一部》。天野忠が昭和3年から昭和18年まで勤めていた京都大丸は、新京極スタンドから程近い。今回の京都遊覧は、京都大丸に始まり、京都大丸へと戻った恰好。

 私はいま、赤い表紙のうすぺらい一冊の詩集を机の上に置いて眺めている。ただ眺めているだけでも、私にはいろいろな感慨がわいてくる。それはのろのろとした、たいぎな身振りで、すこしばかり陰気な思い出をつれてやってくる。

 『聖書の空間』というこの書物は、三人の合著詩集である。即ち、野殿啓介、大沢孝、それに天野忠の三人、タテ十四糎ヨコ十一糎の四角ばった体裁のこの赤い表紙には、右横書で、詩集、聖書の空間とあり、その下に右タテ書で三人の名前、そしてその全部を裏ケイのふとい枠で二重に囲んである。見事なばかりに何の意匠もない、ただ赤字に黒文字のぶあいそで、どこかひたむきな稚さ、右下隅っこに一九三〇年の数字が小さく入っている。その一九三〇年、私たちは最下級の貧しい月給取であった。

 野殿啓介と私は百貨店の売子であり、大沢孝は日赤系の病院の事務員であった。私は紳士服用品売場に立っていたが、野殿啓介の持場は呉服売場で、客の前でいつも、帯や着物の反物をクルクルとまいたりひろげたりしていた。……


【天野忠「Moment Musical――野殿啓介のこと」-『我が感傷的アンソロジイ』より】 



f:id:foujita:20090912212318j:image


f:id:foujita:20090912212316j:image

天野忠編『京都襍記』(矢貴書店・昭和18年7月18日発行)。装釘:内藤賛。京都遊覧のすぐあとの古書展で、念願のこの本を入手して、今回の遊覧の絶好の締めになった。天野忠は、北川桃雄のすすめでこの本の編集に従事したあとに、京都大丸を退社した。自筆年譜(『木洩れ日拾い』初出、『天野忠随筆選』に再録)を参照すると、

京都に就いての諸名家の随筆、エッセー、小説等の抜萃集である。定価は「停」として四円であるのに「特別行為税相当額拾九銭」「合計売価四円十九銭」と奥附にある。発行部数も五〇〇〇部と明記。よく売れたが再販は、時局に適せずとして情報局から許可されなかった。

とある。「二銭のハガキなど」(『そよかぜの中』初収、『天野忠随筆選』再録)という随筆には、この『京都襍記』にまつわる回想が。《紙質は当時のことだから随分悪かったが、写真も何枚か入り、形ばかりだか箱付の(図柄模様の入った)、まあそのころとしては、まずまずの出来の本であった》とある。きれいに画像がとれなかったけれども、本体の町屋の格子戸の図版がなかなか洒落ていて、嬉しかった。この本で初めて、横光利一の『比叡』(初出:「文藝春秋」昭和10年1月号→『覺書』沙羅書店刊(昭和10年6月15日)に初収)を読んで、舞台がそのものずばり、比叡山ケーブルなので大喜びだった。モダン京阪神の行楽!

20090814

夏休み関西遊覧その1:阪神電車で美術館へ。ガスビルでモダン大阪。

東京駅午前8時発の新幹線は定刻通りに10時半過ぎに新大阪駅に到着。いつものようにイソイソと小走りして、御堂筋線の改札口へと向かう。御堂筋線に乗りこんでほっと一息ついたら、いつものように今度は、電車が淀川を渡る瞬間が待ち遠しくてたまらない。



f:id:foujita:20090818225004j:image

新大阪から梅田に向かうとき、御堂筋線の車窓から JR の鉄橋が見えると、いつもそれだけで大喜び。小津安二郎の『彼岸花』(昭和33年9月封切)のラストシーンでは赤かった鉄橋は、今は白に塗りかえられている。低い山並みの眺めが実にいいなあといつも思う。この山並みが目に入ると、「ああ、関西だなあ」といつも思う。


大阪来訪の歓喜にうちひしがれているうちに、御堂筋線はあっという間に梅田駅に到着。次は阪神電車に乗って、阪神間へゆくのだ。と、その前にわざわざドーム天井のホームへと移動して、「モダーン!」な地下鉄ホームを満喫したあとで、阪神電車の改札へと移動。今回の関西遊覧では大阪の地下鉄は早くもこれでおしまいなのだった。



旧高嶋邸を再訪して、昼食。十一谷義三郎と阪神間の酒造家に思いを馳せる。

阪神電車の特急は甲子園駅を過ぎたら、あんなに混雑していたのが一気に閑散となった。現在、甲子園球場は高校野球の真っ最中。関東の人間が思っている以上に、関西人にとって高校野球は身近な行楽なのかもとしみじみしているうちに、車内が消灯になっていることに気づいた。薄暗い車内からの車窓の眺めは、いかにも夏の日差しが照りつけていて眩しい。「色ガラスの街」という言葉がぴったりな感じにキラキラ輝いている。車内の消灯は、関東ではあまり遭遇しないような気がする(たぶん)。省エネかな、なるほどさすが関西、と勝手に決めつけて面白がっていたのだけれども、いつのまにか再び点灯していて、ちょっと残念だった。阪神電車の移動はいつもたのしく、これまでの遊覧をいろいろと思い出しつつ車窓を満喫しているうちに、あっという間に御影に到着。ここで各駅停車に乗り換えて、新在家で下車。


ちょうど時分どきなのでこれ幸い、前回の関西遊覧のよき思い出を胸に、現在は「甲南漬資料館」となっている旧高嶋邸を再訪して、旧高嶋邸室内の和室で、今度は昼食を食べようという計画だった。



f:id:foujita:20090818224746j:image

日傘片手に炎天下の道を直進、ほどなくして阪神電車の車庫の前で右折すると、今は「甲南漬資料館」となっている旧高嶋邸の建物が視界に入る。前回の来訪時に資料館を見物したおかげで、今は車庫になっている旧高嶋邸の背後の敷地は、かつては漬物工場だったということをわたしは知っている。阪神電車の車庫を見ながら、かつての漬物工場をおもう。


f:id:foujita:20090818224747j:image

前回同様、建物が視界に入ったとたん、小走りして、旧高嶋邸の脇から「こうべ甲南 武庫の郷(http://www.konanzuke.co.jp/mukonosato/)」の敷地に入る。現在は「甲南漬資料館」となっている旧高嶋邸。モダン都市時代の様式が混在した独特な建築がたいへんおもしろくて、二度目だというのに、やっぱり目を見張るものがあるのだった。



と、数か月ぶりに「甲南漬資料館」の旧高嶋邸を再訪して、とにもかくにも、大よろこび。前回は邸内の応接室での喫茶が格別だった。旧高嶋邸がたいへん気に入ってしまった、これから何度でも訪問したい、次回はぜひとも和室で昼食を食べたいなと思っていた。あれから数か月、早くも念願かなって、やれ嬉しや、と、意気揚々と邸内に足を踏み入れようとしたまさにそのとき、「平介茶屋」(←邸内の和室の名称)がお盆休みである旨、告知が出ているのが視界に入り、大いによろめく。わたくし同様、平介茶屋も夏休みの真っ最中なのだった、ああ、なんということだろう、といつまでもよろめいてしまいそうな勢いであったが、おなじ敷地に鮨屋とうどん屋が並んでいるのが視界に入ったとたん、炎天下の道を歩いてきた身にとっては冷たいうどんをつるつるすする方がふさわしいような気がしてきた。と、一瞬にして気持ちが切りかわり、こ、こうしてはいられないと、ズンズンと猪のようにうどん屋へ突進して、無事に腹ごしらえが済んで安心したあとで、旧高嶋邸の建物に足を踏み入れて(資料館は開館している)、その空間を満喫。機会があったらいつか2階も見学したいなと思う。


前回の関西遊覧の折(id:foujita:20090301)、旧高嶋邸の甲南漬資料館を訪れた直後に、神戸文学館(http://www.kobe-np.co.jp/info/bungakukan/)で十一谷義三郎の展示を目の当たりして胸がいっぱいだった。十一谷義三郎は前々から妙に心惹かれる存在で、ずっと心にベタリと貼りついている作家だった。展示に添えられた「神戸一中入学と同時に御影東明村の酒造家の下僕となり苦学」という解説を目にした瞬間の感激といったらなかった。酒造家を代表とする、「阪神間モダン」を彩る実業家群像といったことに、なんとはなしに心がウキウキ。先ほどまで御影の奈良漬の実業家の「モダーン!」な邸宅に出かけたばかりの身にとっては、なんと臨場感たっぷりだったことだろう。と、神戸文学館での十一谷義三郎がたいそう嬉しく、帰京後、以前に増して十一谷義三郎熱に浮かされ、以来、閲覧室では十一谷義三郎追跡にずいぶんいそしんだし、十一谷義三郎がらみで人に言えないような散財もしてしまった。


あとになって知ったところによると、昭和5年に清水栄二の設計でモダーンな邸宅をつくった奈良漬けの商店主の高嶋平介は、十一谷義三郎の「神戸一中入学と同時に御影東明村の酒造家の下僕となり苦学」の酒造家の高嶋氏の分家筋にあたるのだという。【→参考:「灘五郷が育てた小説家 十一谷義三郎(http://www.taruya.com/blog/2005/02/post.html)」- 酒樽屋日誌(http://www.taruya.com/blog/index.html)】


前回、なんにも知らずに旧高嶋邸の甲南漬資料館に来てしまったのだけれども、「灘五郷が育てた小説家 十一谷義三郎(http://www.taruya.com/blog/2005/02/post.html)」を拝読して、明治末期から大正初期にかけて、十一谷義三郎は旧高嶋邸の道路をはさんだ向かい側にあった、高嶋太助が創設した「明徳軒」に入り浸って、その蔵書を手当たり次第読みふけっていた、ということを知った。これぞまさしく自筆年譜(参照:『十一谷義三郎 五篇』EDI 叢書・2000年3月)にある、

明治四十三年

兵庫県立第一神戸中学校入学。東明の酒造家高島氏の家僕となり苦学す。爾後中学卒業までに中学卒業までに、高島氏が創設したる村の図書館の蔵書は、和漢洋殆ど無差別無洗濯に之を読破したり。後来頭に残りしもの、文学では、漱石、木下尚江等、宗教では、日蓮、経済では、福田徳三氏の日本経済史、マーシャルの原論等なりき。


【『現代日本文學全集61 新興藝術派文學集』(改造社、昭和6年4月15日発行)に収録された作家自筆年譜より】

のくだり。前回の遊覧にて、旧高嶋邸のあとに神戸文学館で十一谷義三郎にますます夢中になる機会を得たというのも、わたしにとっては、なんとも出来過ぎな展開だったのだった。ますます、「阪神間モダニズム」に興味津々になるというもの。灘五郷の旦那衆がつくりあげた阪神間モダン、といったくだりにもあらためて開眼することなって、感激しきりなのだった。旧高嶋邸とおなじ清水栄二の建築による御影公会堂に寄付した白鶴の嘉納治兵衛、その嘉納のコレクションを収める白鶴美術館、フランク・ロイド・ライトに別荘設計を依頼した桜正宗の山邑太左衛門……。


そんなこんなで、旧高嶋邸にはなおいっそう思い入れたっぷり。これから先、何度でも来訪して、十一谷義三郎に思いを馳せたい。このたび、「平介茶屋(http://www.konanzuke.co.jp/mukonosato/heisuke.htm)」での昼食がお預けになってしまったのは、次回のおたのしみにとっておくことになった、ということにしておこうと思う。



f:id:foujita:20090818224748j:image

中川紀元《J氏像》、1925年9月(第12回二科展出品)。

 「白樺になる男」の時代は、苦しかった。健康もいけなかった。身辺も重苦しかった。生活自身もよくなかったが。ゴールデン・バットを一日に十五ハコも明けるようになったのは、この時分からだ。汗に、小便に、ニコチンを排出する。医者が、死ぬぞと云った――死ぬ方が楽だと思いつめた。

 そのころの僕の枯容は、中川紀元君の「J氏像」になって、二科に出たのが残っている。……


【十一谷義三郎「孤独餓鬼の微笑」 - 『ちりがみ文章』(厚生閣、昭和9年4月18日)所収】

『白樺になる男』の初出はプラトン社発行の「女性」大正14年10月号、その時期の十一谷義三郎像。前年の大正13年、J氏は文化学院の英語英文学の主任に就任、中川紀元は文化学院の同僚だった。「文学時代」の同人になったのもこの年。



なにはともあれ、無事に腹ごしらえが済んで、めでたし、めでたし。新在家の駅に戻り、ふたたび阪神電車に乗りこんで、ちょっとだけ大阪方面へと戻る。住吉駅の階段横の丸窓がかすかに見えて、嬉しかった。魚崎で下車して、六甲ライナーに乗り換えて、次なる目的地は、神戸市立小磯良平記念美術館(http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/koisogallery/)なり。


六甲ライナーの「近未来!」という感じの乗り心地に観光客によろこび全開。前方の工場地帯の眺めもたのしいし、後方の六甲の山並みもすばらしい。と、車窓をたのしんでいると、「菊正宗」の古色蒼然としたネオンを見かけて、ワオ! と大興奮。先ほど、旧高嶋邸で阪神間の酒造家群像に思いを馳せていた、その直後に目の当たりにしたので、なおのことを嬉しい。阪神間の移動で、酒造家たちが彩った「阪神間モダン」ということを肌で感じるひととき。



f:id:foujita:20090821233814j:image

六甲ライナーの車窓から見えた「菊正宗」のネオンサイン。



f:id:foujita:20090821233813j:image

《菊正宗 ポスター 北野恒富》1922(大正11)年頃、図録『関西のグラフィックデザイン展 1920〜1940年代』(西宮市大谷記念美術館、2008年)より。「菊正宗」のロゴが、現在のネオンサインとまったくおんなじだ!



小磯良平美術館の亀高文子展と兵庫県立美術館。阪神電車の車内で、川西英の図録を眺める。

魚崎で六甲ライナーに乗り換えて2駅目の「アイランド北口」で下車したら、お目当ての神戸市立小磯良平記念美術館(http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/koisogallery/)はすぐそこ。4年前夏の初めての阪神間遊覧の折に訪れてさっそく大好きになってしまって、この先何度でも訪れたいと思った。ひさしぶりの来訪が、かねてより気になっていた亀高文子(=渡辺文子)の展覧会となった、というめぐりあわせが、極私的にたいへん嬉しく、夏休みになのでこれ幸い、会期早々にさっそく来てしまった次第だった。


わたしにとっては、神戸移住前の旧姓の渡辺文子の方がおなじみの、亀高文子は明治10(1886)年に横浜に生まれた洋画家。富裕な商家の一人娘だった渡辺文子は、画家志望だった父の夢を託されて、女子美術学校を明治40(1907)年に卒業後、太平洋画研究所に入所、中村不折にデッサンの指導を受ける。この時分、美貌の渡辺文子に小杉放庵、山本鼎、鶴田吾郎、会津八一らが思いを寄せるも、文子は宮崎与平と結婚。一人娘だったので与平が渡辺姓となる。渡辺与平は、明治40年代に竹久夢二と並ぶ「齣絵」のスターであったものの、明治45(1912)年、23歳で病没。大正10(1921)年に商船会社に勤務する亀高氏と再婚して亀高姓となり、大正12(1923)年に神戸に転居してからは関西洋画女性画壇のリーダー的存在として活躍、1977年に没する。……と、ここまで書き連ねた渡辺文子の来歴はすべて、わが愛読書、上笙一郎著『日本の童画家たち』平凡社ライブラリー583 (平凡社、2006年8月刊)によるもの。(渡辺文子は、長谷川時雨『美人伝』(東京社、大正7年)に「ネルのふみこ」として取り上げられているというのが前々から気になりつつも、いまだ未見。)



f:id:foujita:20090822225710j:image 

上笙一郎『日本の童画家たち』平凡社ライブラリー(asin:4582765831)。カバ―図版:竹久夢二(「引田龍太郎童謡小曲集」表紙絵)。解説:川村伸秀。川村伸秀さんの関わる本は好きな本ばかり、というのが自分内法則なのだった。


洋画家・亀高文子以前の、童画家・渡辺文子としての活動は、夫と死別して幼い二児を抱えて生活のために、挿絵画家となったことによるもの。上笙一郎さんの『日本の童画家たち』の「渡辺文子」の項には、《彼女のもっとも多く寄稿したのは、絵雑誌では「子供之友」、児童雑誌では「新少女」「少女の友」などで、「少女画報」では吉屋信子の短篇連作「花物語」の挿絵も付けました。信子の「花物語」のイラストレーション、大抵の人が蕗谷虹児がもっぱら描いたと信じているようですが、当初は文子の筆であったのです。》とあり、

文子のイラストレーションは、大正中期、いわゆる児童文化ルネッサンスの澎湃として興こる前の時期に描きはじめられたものであり、夢二や与平に代表される明治末期の齣絵の影響を受けています。けれど、あどけない顔に大きな足の幼女をラフな筆致で可愛らしく描いて特長的な彼女の絵には、少し後の虹児やまさをなどにおいて華麗に華ひらく〈リリシズム〉の本質的なものが秘められていた――と言わなくてはなりません。そしてそれ故に、わたしは彼女を、〈童画〉とともに日本の〈抒情画〉の系譜における〈源流〉のひとつにも数えるのです。

というふうに、項を締めくくって、きわめて懇切に解説されている。


そうした挿絵画家としての活動に増して、わたしが興味津々だったのが、渡辺文子が大正期のレート化粧品の「平尾賛平商店」の広告部に勤務して、レート化粧品の広告絵をたくさん描いていたということ。去年春にミツワ石鹸の丸見屋商店の宣伝活動に大いに盛り上がってしまい、これを機に、明治大正から昭和初期にかけての小間物屋の系譜、おもにその広告活動をちょっとばかり追究していたのだった。その折に閲覧した資料のうち、『平尾賛平商店五十年史』(昭和4年刊)が、広告宣伝についての記述が充実していることもあって、抜群に面白かった。あまりにすばらしいので、レート化粧品の広告に注目してみたら、ひょいと渡辺文子と出会った。


渡辺文子の挿絵画家としての活動は、渡辺与平の没する明治45(1912)年から亀高氏と再婚する大正10(1919)年の間のほんの一時期で、レート化粧品の平尾賛平商店の広告部に勤めていたのは大正4(1913)年から大正8(1917)年までのさらにほんの一時期だけれども、書物との関連としての絵画、モダン都市時代(ないしその前史)の広告といった日頃の関心事項に直結する人物として、渡辺文子の名前はこの1年間、すっかりおなじみであった。


前回の関西遊覧の折、神戸文学館の閲覧室の神戸資料の棚で、上笙一郎さんが『日本の童画家たち』で言及していた、神戸新聞学芸部編『わが心の自叙伝・一』(のじぎく文庫、昭和42年)を見かけて、「あっ」と手にとった。ここに亀高文子による自叙伝が収録されている。これまでは、大正10年に再婚するまでの、二十代東京勤労女子としての渡辺文子にばかり目が行っていたのだけれども、初めて「神戸の洋画家」としての亀高文子ということに思いを馳せるきっかけとなった瞬間だった。



f:id:foujita:20090818224751j:image

小磯良平記念美術館(http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/koisogallery/)にて2009年8月8日から10月18日まで開催の、《特別展 神戸の美術家 亀高文子とその周辺》のチラシ。こちらの絵は、《鸚鵡と少女》(1920年)。



そういうわけで、今回の展覧会は、洋画家としての渡辺文子および亀高文子についてはこれまでほとんど未知だったので、極私的にたいへん嬉しかった。オズオズと展示室に入室して、時系列にその作品をたどってゆくと、中村不折に習ったというのがいかにもな、その確かなデッサン力にまず目を見張るものがあって、作品を見てゆくにしたがって、ああ、いいないいなと、心地よく絵を見ていて、いつのまにか上機嫌になっていることに気づいた。「絵を見る」ということの歓びを控えめだけれども確固と感じるのが、とても心地よかった。たまに、「童画家」の来歴が垣間見えるような、ちょっとしたタッチがかわいらしくて、にっこり。震災後に神戸に移住した亀高文子は、谷崎潤一郎とほぼ同時代の関西を生きていたわけで、そんなモダン都市時代の関西に思いを馳せるのもたのしく、晩年に集中的に描いていた花の絵にも惹かれるものがあった。洋画作品の合間に、「童画家」としての活動が紹介されているというのも嬉しかった。『少女画報』、『新少女』、『子供之友』の誌面をウィンドウ越しに見て、上笙一郎さんの本で目を見開かされた、童画を通しての近代日本文学史、ということをこれから追究できればといいなと思った。


「神戸の美術家」と銘打ってある亀高文子展、さすがはご当地、とても丁寧に設計されてあって、その点でもとても好ましかった。亀高文子の周辺の美術家の紹介が充実している。渡辺与平の『ヨヘイ画集』(明治43年刊)、『ヨヘイ画集 愛らしき少女』(大正2年刊)、『コドモ 絵ばなし』(大正3年刊)をウィンドウ越しに凝視して、メラメラと物欲を刺激されて、たのしかった。それから、与平と文子の長男の渡辺一郎の絵がとても好みで、特に《調理台の上》(昭和30年)が大好き! 渡辺一郎は、西宮市大谷記念美術館の所蔵のものが主に展示されていて、いつか西宮で渡辺一郎を見たいなと思った。



f:id:foujita:20090818224750j:image

中山岩太《ポートレート(亀高文子)》、『中山岩太 MODERN PHOTOGRAPHY』(淡交社、2003年4月)より。このポートレイトが亀高文子展のまんなかあたりに展示されている。大きなプリントで見て大感激だった。中山岩太といえば、去年年末の東京都写真美術館での展覧会が嬉しかったけれども、たのしみにしていた図録があんまりしょぼいので、心の隙間を埋めるべく思い余って、淡交社の写真集(asin:4473019888)を衝動買いしてしまったのだけれども、買って大正解だった。神戸に出かけたあとで眺めると嬉しい写真も多数掲載されていて、関西遊覧の際の必須文献になりつつある。



などと、亀高文子展だけですでに大満足だったのだけれども、常設の小磯良平の展示もしみじみ素晴らしいのだった。小磯良平の絵に対峙しているときならではの、心穏やかに絵を見るというひとときが大好きだ。ああ、もうなんて素晴らしいのだろう! とジーンと展示室をぐるっとひとまわり。小磯良平を見るということは、竹中郁を思うということでもあるのだった。小磯良平を見るたびに、いつも衣服のタッチに注目するのがいつもたのしい、などと、絵そのものの歓びも満喫。



f:id:foujita:20090822225709j:image

美術館の中庭に再現されている小磯良平のアトリエの外部。




f:id:foujita:20090823221634j:image

小磯良平《時計のある静物》、1968年。小磯良平美術館に再現されているアトリエの空間を目の当たりにすると、この静物画をまざまざと実感できて、なんとも格別。




f:id:foujita:20090823221635j:image

小磯良平《彼の休息》、1927年。モデルは竹中郁。東京美術学校卒業制作。足立巻一の『評伝竹中郁』を初めて読んだときから大好きだったのが、小磯良平の《彼の休息》にまつわるくだり。ポストカード入手の記念に、以下長々と抜き書き。

 つづいて小磯は卒業制作の準備にかかり、竹中郁をモデルにすることにきめた。アトリエがあるわけでなし、裸婦を描きたかったが家のなかではそうもできぬし、迷ったあげく竹中にモデルになってもらうことにした、と後年小磯はわたしにそう述懐したことがある。  

 構図には工夫がこらされた。これには竹中の意見も加えられたのであろう。ラグビーの練習を終わって、青年が室内で一休みしている図である。赤・黒縦縞のシャツ、黄色いパンツで黄色い椅子に腰かけてくつろいでいる。左脚のストッキングはぬぎかけのままにして赤いスリッパをはき、くるぶしを交差させ、右手では赤いハンカチを垂らす。右隅には脱いだばかりのラグビー靴が置かれ、横縞のビーチ・パラソルがたたんだまま立てかけてある。顔の表情はやや放心し、快い疲れを見せる。左半分の壁には登山用の赤いランプが吊され、マネの大きな画集が立てかけてある。「彼の休息」と題された。

 こうして家にあるさまざまな小道具を配し構図は知的に堅固に組み立てられ、赤・黒・黄・白などの色彩が緊密な均衡を保ち、縦一四五・五センチ、横一一三・五センチという大きな画面にいささかの弛緩もない。制作にはいると冬に向かっており、絵具の乾きを早くするためにストーブを焚いた。暑くて閉口した、と竹中が語ったことがある。

 立てかけてあるマネの画集に注目した京大教授乾由明の「小磯良平の画集」(昭和五十九年一月「木」梅田画廊)によると、兄の友人でベルリンの横浜銀行に勤めていた人が、第一次世界大戦後にマルクの価値が暴落したときに手に入れて持ち帰ったものという。精巧な印刷によってマネのパステルやドローイングを十数枚収めてあり、小磯はいまも愛蔵しているそうである。

 マネは大原コレクションにもはいっておらず、そのころゴッホやルノワールのようになじまれたとは思われない。これについて乾由明はいう。「マネは通常印象派の一員に数えられているが、本質的にはフランスやスペインの古典的な絵画の伝統をもっともよく受けついだ画家だった。だがそれにもかかわらず過去の様式をただ踏襲するようなアカデミックな硬化におちいることなく、鮮麗な色面が音楽のように美しく調和しながら鳴りひびく、まことに清新な画面を創造した」。乾は昭和五十八年七月のパリでのマネの大回顧展を見て、ゾラのいう「張りつめた優雅さ」に感動し、小磯の絵画と共通するものを感じたという。これはいままでの小磯論になかった指摘であり、卓説だと思う。

 ところで、竹中自身は「関西文学」(昭和二年二月)の「円卓騎士」のなかで、こんなことを書いている。

  「『彼の休息』――これは或る絵の題なのだが、一人のラグビー選手が休んでゐる処だ。休んではゐるが、欠伸なんかしてゐない。むしろ反りかへつてゐる。この題が新しく反りかへつてゐるが如くに」

 ポーズも画題も、反りかえるようにまったく新しいというのだ。「円卓騎士」で竹中は「辻馬車の藤沢桓夫が、あらゆる過去の苗裔派どもを虐殺したいと云つた意気に感じる。往年ジャン・コクトオが過去の詩集を単なるヴオキヤブレイルにしか過ぎないと放言したのと相似て、僕は愉快を覚える、藤沢桓夫よ」と書いたように、当時鋭気に満ちていた。「彼の休息」における「反りかへる」もその鋭気の表現であった。

 この「円卓騎士」が活字になったのは二月五日であるが、書かれたのはおそらく前年の暮れであろう。「彼の休息」には「1927」のサインが入っているが、前年末には完成されていたことが竹中の文章でわかる。それから、いまの画面には亀裂があらわれているのも、ストーブを焚いて制作を急いだせいであろう。


【足立巻一『評伝 竹中郁 その青春と詩の出発』(理論社、1986年9月)、p216-219】



小磯良平美術館の売店ではポストカード以外にも、思いがけなく、図録『特別展 川西英と神戸の版画』(神戸市立小磯良平記念美術館、1999年10月7日発行)が売っているのに遭遇して、ワオ! と重たい荷物もなんのその、ガバッと買って大喜びだった。ふたたび六甲ライナーに乗りこんで、ふたたび車窓をたのしむ。菊正宗のネオンが青い空の下、そびえ立っているさまをふたたび目の当たりにして、ふつふつと嬉しい。阪神電車の車窓からは白鶴の工場が見えたりもした。ああ、灘五郷。ここ数年すっかり日本酒を飲めない体質になってしまったのがつくづく無念だ、ふたたび日本酒を満喫するのを人生の目標としたい、と阪神間に来るたびにいつも思うことを、今回もしみじみ思うのだった。


そんなこんなで、次なる目的地は、岩屋駅が最寄りの兵庫県立美術館(http://www.artm.pref.hyogo.jp/)なり。岩屋へ向かう阪神電車の各駅停車の車内で深い考えもなく、買ったばかりの川西英の図録を眺め出したら、その臨場感がなんともすばらしくて、ウルウルになってページを繰った。このままずっと眺めていたいという感じだった。なんて、素晴らしいのだろう!




f:id:foujita:20090822225711j:image

川西英《甲子園球場》、1931年。朝日新聞社の社旗が見える。当時から高校野球は朝日新聞社主催だったのかな。



f:id:foujita:20090822234448j:image

川西英《甲子園野球大会入場式》、1937年。高校野球に無関心の人生を送っている身ではあるけれども、阪神電車の車内で川西英を見ているうちに、今まさしく、甲子園では高校野球の試合の真っ最中なのだなあと、ジーンとなってくる。今日も、この川西英の版画そのまんまの、青い空。



と、阪神間を移動しながらの川西英が、あまりに臨場感たっぷりで嬉しいあまりに、



f:id:foujita:20090822225712j:image

川西英《神戸駅前》、「神戸百景」の内 18(1935年)。六甲の山並みもしっかり描きこまれている。


兵庫県立美術館のあとに、阪神の岩屋駅を北上して数分の JR の灘駅から神戸駅に行ってみようかなと思った。その思いつきにたいそうワクワクしながら、ウキウキと岩屋駅を下車、しかし、改札を出て、兵庫県立美術館までの灼熱の道のりを目の当たりにしたとたん、急にへなへなとなる。しかし、くじけてはいけない。ゼエゼエと日傘片手にやっとのことで美術館の入口に到着、小磯良平美術館の落ち着いた雰囲気と対極にあるような、強大なコンクリート建築の真新しい美術館が威圧的、まあ、なにはともあれ、無事に到着してよかった。



兵庫県立美術館の特別展、《躍動する魂のきらめき――日本の表現主義》の会期は、今日を含めてあと3日。エレベーターでやっとのことで会場にたどりつき、無事にここまで来ることができてよかったッと歓喜にむせんだあとで、巨大な展示会場へ。岩波の「図書」最新号(2009年8月号)にて、この展覧会を「着想し発意した」という森仁史さんの文章の《一九〇〇年代から二〇年代の近代日本が独自の表現を溌剌と求めた熱情と躍動を示す作品――絵画・彫刻・工芸だけでなく、建築・デザインまで――で埋め尽くされた》という一節を目にして、開催を知って以来たのしみだった展覧会がいっそうたのしみになったのだけれども、今回の展覧会の企画が森仁史さんだと初めて知って、さらにたのしみになった。



f:id:foujita:20090822225714j:image

図録『躍動する魂のきらめき 日本の表現主義』。実は半ば図録が目当てだったのだけれども、期待以上に大充実。気鋭の論考も満載。2009年4月に宇都宮で始まった展覧会は、神戸、名古屋、盛岡を巡回し、松戸市立博物館で幕を閉じる。森仁史氏はこの3月、「千葉県松戸市の美術館準備室長」の肩書で定年を迎えたとのことで、松戸市の美術館準備室といえば、戦前の明治製菓の宣伝誌「スヰート」にまつわるあれこれを追いかけているうちに興味津々になった、戦前、戦時下の宣伝部に所属の図案家の系譜を追究するうえでありがたい図録の数々を定価で提供してくださり、かねてより敬愛していたのだった。多くの図案家を輩出した、大正10年創立の東京高等工芸学校は、田町の校舎が空襲で焼けて、戦後に松戸に移転、千葉大学工学部の前身となった。と、今回、神戸で見た展覧会が松戸市博物館に巡回の折には(松戸の会期は12月8日から翌2010年1月24日まで)、図録でみっちり復習してから出かけるのだと、今からとっても張り切っている。松戸に出かけて、戦前の東京高等工芸学校に思いを馳せたい。



1900年代から20年代までの絵画、建築、デザイン、写真、工芸、映画、装釘などが「日本の表現主義」の名のもとに一堂に会して展示されている、と聞けば、それだけで胸躍るもの。本来ならば、みっちり時間をかけてひとつひとつの展示を凝視したいところだけれども、図録を入手できた安心感と年末の松戸行きの下見といった気持ちとが混在して、今日はリラックスしながら、のんびりとピンポイント式に会場をめぐった(それでもたいへんなヴォリューム)。1回目となる今回の見物では、これまでの展覧会で出会った数々の好きな作家、好きな作品を、《躍動する魂のきらめき》というくくりであらためてじっくり見なおす、ということに意識を集中させる。あと人生で何度見られるかというくらいに、大好きな絵、岸田劉生の《壺の上に林檎が載って或る》に神戸で再会できたり、劉生はもちろん、萬鉄五郎、村山槐多や関根正二にあらためて圧倒されたり、「MAVO」のこと、同時期の日本画のこと、日本写真史などなど、これまでの展覧会でむやみに心惹きつけられてならないことがギュッと詰まっていて、むやみやたらに興奮して、しまいにはグッタリしてしまった。でも、なんとも心地よい疲れ。村野藤吾の《あやめ池温泉》のくだりは関西で見て格別だった。建築の展示は、1930年代に清水栄二が設計した旧高嶋邸の直後に訪れてみると、なにかと臨場感たっぷり。


灼熱の下を歩いたあとでだだっぴろい展示室でむやみに興奮して、すっかりくたびれてしまったけれども、日頃最大の関心事項「1930年代」あれこれの前史としての日本近代文化を彩ったいろいろなもの、今までの展覧会で見てきたことを相対化させる機会を得た感じで、図録をじっくり読みこむのがたのしみ、そして、松戸でふたたびこの展覧会を見直すとしようと思って、未来のおたのしみが増えたのはよかった。しかし、展覧会そのものはなかなか刺激的だった一方で、強大なコンクリート作りの真新しい美術館は妙に落ち着かなくて(旅行者でなかったらまた違った印象だったと思う)、おなじ埋立地の無機的な場所にありつつ小磯良平美術館の好ましさといったらどうだろうと、ますます小磯良平美術館に愛着を覚えてしまうのだった。



えいっと立ち上がって、ふたたび灼熱の道を歩いて、岩屋駅に戻る。JR 灘駅から神戸駅へ行き、川西英の版画を追体験、という先ほどの思いつきは諦めて、へなへなと阪神電車に乗って、三宮へ。兵庫県立美術館で時間も体力も使い果たしてしまった。本来だったら、坂道を歩いて徒歩10分の阪急電車の王子公園まで歩くところなのだけれども、ままならぬことである。阪神電車を三宮で降りたら、今度は阪急電車に乗るのだ。阪神間に出かけるたびに、阪神電車と阪急電車に乗って、それだけでいつもおおよろこび。 



f:id:foujita:20090823203722j:image

三宮で阪急電車に乗りときは、西口改札へ行き、階段のドーム状の天井にうっとりするのが毎回のおきまり。当初の予定では、十一谷義三郎への思いを胸に神戸文学館を再訪する予定であったけれども、兵庫県立美術館で疲れ果ててしまったし、時間の余裕もあまりなさそうなので、あえなく断念。と、神戸文学館をあきらめたおかげでちょっとばかし時間が浮いた。前々から気になっていた西口改札の手前にあるコーヒーショップでひと休みしようかなと思いついて、力を振り絞って、ここまでやってきた。窓際のソファに座って、しばし放心。



阪急電車の特急で梅田へ向かう。いつもながらに、阪急電車での移動もしみじみ嬉しいのだった。三宮での喫茶と車内での移動で、だいぶ疲れが癒えてきた。電車は早くも十三を通過、淀川を渡る瞬間を満喫して、前回の関西遊覧の折(id:foujita:20090301)、北尾鐐之助著『近代大阪』(創元社、昭和7年2月)を参照しながら中津付近を歩いたときの歓びは今でもとっても鮮烈だ、中津の跨線橋が車窓から間近に見えたとき、淀川を渡っているときと匹敵するくらいに興奮だった(ああ、近代大阪!)。あとになって、編集工房ノアの住所が中津だと気づいて、ますます中津に愛着がわいたものだった。終点の梅田に到着、いつものように、梅田駅の壮観なホームを満喫すべく、先頭まで歩きたいところだったけれども、「阪急古書のまち」にゆくには、後方の改札が便利ということに幾度かの関西遊覧を経て、やっと気づいたのだった。



f:id:foujita:20090823203445j:image

花月亭九里丸『すかたん名物男』(新生プロダクション、昭和31年12月25日発行)。装釘・さしえ:藤原せいけん。何年も前から杉本梁江堂に来るたびに欲しいなあと思っていた『すかたん名物男』。今回の遊覧でやっと買うことができて、やれ嬉しや。こういう本は杉本梁江堂で買うのがいかにもふさわしい。



ガスビル食堂でワインを飲んで、「モダン大阪」観光。北浜から中之島へ。

堂島界隈の定宿にチェックインして、重たい荷物を置いてスッキリ、5時半をまわったところで、意気揚々とふたたび外出。秋分の一ヶ月前、日没まではまだだいぶ時間があるのがありがたい。


f:id:foujita:20090823204007j:image

大阪遊覧のたびに、肥後橋方面をみやって、朝日新聞社のモダンな社屋と向いの建物の鉄塔を見るのが大好きだったけれども、鉄塔の方はすでになくなっていた。朝日新聞社の建物ももしかしたら今日が見納めかなと思う。



と、渡辺橋を渡って、朝日新聞社を右に見上げつつ肥後橋を渡って、四ツ橋筋を直進し、平野町で左折、阪神高速の高架の下をくぐって、御堂筋方面へ向かう。ほどなくして、ガスビルの裏手に出て、思わず小走り。




f:id:foujita:20090823203444j:image

『ガスビル食堂物語 モダンシティ大阪の欧風料理店』(大阪ガス株式会社総務部発行、2004年6月1日)。全107ページ、オールカラーの小冊子(http://www.osakagas.co.jp/gasbuil/index.htm)。このたびの夏休み関西遊覧の直前に張り切って入手。夏休みのおかげで、今回はめったにない平日の関西遊覧が実現、せっかくなので平日にしか行かれないところに出かけたいなと思ったところで、まっさきに思いついたのが、前々から気になっていたガスビル8階で今でも営業の「ガスビル食堂」のこと。ありがたいことにこちらはお盆も営業中、晩餐の予約が済んでほっと一安心したところで、『ガスビル食堂物語』を取り寄せて、おそるおそる繰ってみると、たいへん充実したつくりになっていて、至れり尽くせりで大感激。これはもう、つべこべいわずに『ガスビル食堂物語』に身をゆだねるようにして、ミーハーに徹して、ガスビルを大いに満喫することに決めた。

御堂筋に面した平野町の角に、この巨大なビルが三〇年代のはじめに出現したというのは注目すべきである。この地点は、一九三〇年代ごろに重要な意味を持つようになった。すなわち、御堂筋という新しいメイン・ストリートと地下鉄がここを通るようになったのである。御堂筋は一九二六年に梅田から工事がはじまり、一九三〇年ごろには平野町から本町あたりまでできていた。さらに一九三〇年には、御堂筋の平野町角で地下鉄の盛大な起工式があり、一九三三年には梅田から心斎橋まで開通した。


【海野弘著『モダン・シティふたたび――1920年代の大阪へ』(創元社、昭和62年6月1日)- 「大阪ガスビル」】

「モダン大阪」探索の必携書、海野さんの本で読んで以来、御堂筋を通るたびに、地下鉄開通とガスビル施工の昭和8年の大阪を思って、ウキウキしていたものだった。日頃の最大の関心事、「1930年代・東京」探索の軸を昭和8年に設定している(というほどのものでもないが…)身としては、昭和8年の東京と大阪を同時代的にとらえる真似ごとをするうえで、地下鉄とガスビルの存在は大阪遊覧最大の歓びのひとつだった。今回は念願のガスビル食堂へ! と、出かける前から大興奮なのだった。



と、そんなこんなで、ガスビル食堂でのワインをたのしみに、堂島界隈からズンズンとここまで歩いてくると、




f:id:foujita:20090823203438j:image


f:id:foujita:20090823203436j:image

ガスビル裏手の角、写真のテラス部分が見えてくる。ガスビル内部には昭和8年の施工当時から、2階から4階までの吹き抜けで「ガスビル講演場」があり(昭和40年に廃止)、その映写室が下の写真に写る張り出し部分。かつて講演場から映写室の下にあるバルコニーまで、非常時に避難できるように非常階段が設置されていた、ということを、『ガスビル食堂物語』で知ったばかりだったので、いざ目の当たりにして嬉しくてたまらない。ガスビル演芸場の施工記念として、文楽の『寿式三番叟』の上演があったとのこと。文楽といえば、ガスビルの裏手の右後方あたりに御霊神社がある、ということに今回はじめて気づいた。大正15年11月に御霊神社の文楽座が火災で焼失のあと、文楽は昭和2年から4年まで道頓堀の弁天座で興行(谷崎の『蓼喰ふ虫』!)、昭和5年1月に四ツ橋文楽座が開場する(溝口の『浪華悲歌』!)。「モダン大阪」のトピックとして、四ツ橋文楽座は大きな存在だ。と、「文楽とモダン大阪」ということをあらためて思う。




f:id:foujita:20090823204008j:image

ガスビル講演場(1933)、『ガスビル食堂物語』より。昭和8年施工の有楽町の蚕糸会館内部のホールで新劇公演等々が催されていた一方、おなじく昭和8年施工の御堂筋のガスビル内部の講演場でも様々な催しが。昭和11年からは映写機が輸入され、映画上映会も催されていたとのこと。『ガスビル食堂物語』所収の数々の文章のなかで、とりわけ胸躍ったのは、元吉本文芸部の竹本浩三による「ガスビル講演場と私の青春(http://www.osakagas.co.jp/gasbuil/leaflet2/hito05.htm)」。昭和9年頃の、エンタツ・アチャコの高座写真が長らくその場所が不明だったのが、つい最近、ガスビル講演場だと判明したのだという。内海重典や長沖一をガスビル講演場の試写会に無理やり誘って、ガスビル食堂でカレーやビールをねだったという挿話ににんまり。




f:id:foujita:20090823203440j:image

いつもガスビルは御堂筋沿いを歩いて通るばかりで、まっさきに上の写真の角のフォルムが視覚に入っていたのだけれども、今回は初めて裏手からビル正面へと出ることになった。裏手からジワジワと、角のフォルムに出会う瞬間が格別で、そのいかにも1930年代という感じの、窓の直線的フォルムと建物の流線型との調和がすばらしい。この最上階部分が、これから出かけるガスビル食堂なのだと、見上げてうっとり。



f:id:foujita:20090823203439j:image

ガスビルに来たのが嬉しいあまりに、御堂筋を渡って、全体を見上げる。鉄塔の下の最上階でこれからワインと思うと、ふつふつと嬉しい。



……などと、気もそぞろに、ちょいとわかりにくい入口から建物内部に潜入し、食堂専用のエレベーターにのって、いざ8階の食堂へ。さすがの格調の高さに背筋がピンとのびる。ロビーのクラシカルな内装の研ぎ澄まされた空間が期待どおりにすばらしい。清水登之の油彩が壁にかけてあるのを見て、中山岩太の写真集にあった清水登之の家族写真を思い出した。


ガスビル食堂のテーブルで食前酒のシャンパンを飲んだ頃、窓のそとはちょうど日没という頃。ワインととともに、食が進むうちにいつのまにか、窓の外はすっかり日が暮れていた。日没とともに晩餐が進んでいくというのは、夏休みならではのゆったりしたひととき。いつもは赤ワインだけれども、今日は白ワインをグビグビ飲んだ。ちょっとした非日常を満喫。居心地もよく、雰囲気もよく、食事とワインもよく、窓の眺めも最高。もう、言うことなしだった。



f:id:foujita:20090823204009j:image

『ガスビル食堂物語』より、《ガスビル食堂からは、再建された大阪城や生駒山が望めた》。大阪城の再建は昭和6年なので、大阪城の眺めも「モダン大阪」のトピックなのだ。高層ビルがたちならぶ現在はこんな感じの眺望は無理だけれども、ガスビルの流線型に沿った窓からの視覚の独特さは今もまったく変わらない。ガスビルでワインを飲みながら満喫したのは、なによりもこの「流線型」だった。ああ、モダン大阪! と、馬鹿の一つ覚えでいつまでも嬉しい。



ゆっくりと食事とワインの時間を満喫したあとで、お店の方のご厚意で、『ガスビル食堂物語』で知って気になっていた食堂一角にあるバーカウンター、現在はバックヤードとして使用の、創業当時の姿をそのまま残しているバーカウンターを見せていただいて、最後の最後まで感激だった。東京ステーションホテルのバーのことを思い出した。



f:id:foujita:20090823203441j:image

ワインを飲んでいい気分で外に出ると、とっぷりと日が暮れている。日没直前に入ったガスビルには日が灯っていて、夜の御堂筋に燦然と輝いている。最上階の食堂部分がとりわけ明るいのだった。





f:id:foujita:20090823203443j:image

今回のガスビル食堂来訪記念に買った紙モノ、昭和11年4月11日の、ガスビル食堂のメニュウ。いつものように「紙上のモダニズム」的歓びにひたる。大阪城をあしらった表紙のデザインがすばらしい。かつてガスビル食堂の窓から見えた大阪城は、ガスビルともども、モダン大阪のシンボル的存在だったのだなとあらためて思う。




f:id:foujita:20090823203442j:image

ガスビル食堂でのおみやげのマッチを、上のメニュウを開いて置いてみる。サイフォンでコーヒーを入れるのがこのところ、休日の午後のおたのしみとなっている。おのずとマッチ収集がたのしくなった。マッチは日用品。





いつもよりだいぶ早めの晩餐だったので、まだまだ時間はたっぷり。平野町、道修町を散歩しながら、堺筋に出る。




f:id:foujita:20090823203446j:image

ガスビルと同じく、安井武雄の設計による高麗橋野村ビル。こちらは1927年の建物で、ガスビルとおなじく、角の流線型が素敵だけれど、ここに施された装飾が、1920年代から1930年代までの過渡期という感じがする。1階は「サンマルクカフェ」なので気軽に建物観察を満喫することができるのだけれども、ここでの喫茶はまた次の機会に。安井武雄の1924年の建物、大阪倶楽部の観察もまた次の機会に。



と、堺筋を北上して、北浜に出る。土佐堀を渡って、中之島を歩いて、堂島へ戻ってゆく。川沿いの風が心地よい。



f:id:foujita:20090823203447j:image

中之島公会堂の前を通りかかると、こちらの地下食堂「中之島倶楽部」でも、ガスビルとおなじく、人びとが晩餐をたのしんでいる真っ最中。喫茶のみでも可とのことだったので、こちらで紅茶を飲んで、しばしくつろいだあとで、堂島沿いをゆっくり歩いて、ホテルに戻って、本日の遊覧はおしまい。



ホテルのバーでギムレットを飲みながら、《躍動する魂のきらめき――日本の表現主義》展の図録をうつらうつらと眺めて、夜が更けた。

20090807

昭和10年の「書窓」から、昭和3年の「パンテオン」の船川未乾へ。

8月朔日は、とある閲覧室にこもって、雑誌をいろいろ繰って日が暮れた。とりわけ、アオイ書房の「書窓」をじっくり眺めることができたのが格別だった。今回は、創刊号(昭和10年4月10日発行)から1年分の12冊で時間切れ。1930年代の書物雑誌を繰るのはいつもなんと愉しいのでしょう! と、繰ったとたんに心がスウィング、いままで見逃していたのはなんとももったいなかったけれども、これから少しずつ、じっくり閲覧していけたらいいなとフツフツと嬉しくなったところで、閉館五分前。

書窓

 徹底的に書痴振りを発揮した書誌としては、志茂太郎氏経営のアオイ書房から発行した「書窓」が髄一であろう。編輯者は装幀界の権威恩地孝四郎画伯の存分な手腕とマッチしての企画だけに、単に財力だけでは出来ない功績が発揮されたのであらう。

 創刊は昭和十年四月十日、月刊として後日多少の遅刊も見たが、六冊を以て一巻とし、十九年六月の、通号百三冊で戦争の余波もあり休刊になつたものと思ふ。兎に角良心的な道楽事業としての十年不断の努力には敬意を表する。

 毎号の表紙は恩地氏の図案の色刷りでアンカット限定番号入りに、絵は精巧な写真版の外に原色版を加へ、本文は上質紙で挿絵も存分に使用し、単式凸版印刷というコリ方で、時々印刷研究特輯、出版創作特輯、夢二追悼特輯、蔵票特輯、紙の輯、夢二スケッチ帖抄、等の特輯や倍大号を出したので、時には骨休めの必要もあり一面には第三種取扱の申訳けとして、新書批評輯なる名目で、四頁乃至八頁のパンフレットを出したのは考へたもので、本冊には通し番号を附したが、このパンフレットには、巻と号のみで別格に扱はれた。(後略)

【斎藤昌三『書物誌展望』(八木書店、昭和30年5月15日)より】


アオイ書房の初の刊行書が、徳川夢声『くらがり二十年』(昭和9年3月刊)となった縁はなんだったのだろう、と前々から気になりつつも、特に追究することなく現在に至っているのだった。創刊号ではさっそく、「いとう句会」で1周年を記念して限定版句集をこしらえている旨、限定五十部で三十部を頒布、アオイ書房で「お取次ぎいたします」旨、告知が出ている(全冊鴨下晁湖の木版が施されているというこの道楽出版、内田誠が刊行主事をかってでたという。ああ、欲しい……)。室生犀星が「日記」に、内田百間から『鶴』を、林芙美子から『泣蟲小僧』をもらった、と書いているのを見たとたんに、日頃から古書展ないし古書目録での散財対象の1930年代文藝書というものを思って胸躍ったり、江川正之が堀辰雄の『聖家族』を処女出版として3年前に江川書房を始めた当時すでに三十何冊かの本を手がけていた、2年後手がけた本の冊数が四十に達する頃になってようやく、『聖家族』の造本の素晴らしさが骨身にしみてよくわかった、と書いているのを見て、戦前昭和の小出版のありようにいつもながらにむやみやたらと心かき乱されるのが快感だったり(物欲の制御につとめねばならぬ)……などなど、創刊号の1冊だけでさっそく「書窓」に夢中になってしまった。


当初は文学ないし書物を目当てに閲覧していたはずだったのに、いつのまにか、映画や演劇、美術、建築などが混然一体となった「1930年代東京」といったようなものをまざまざと体感している(というつもりになる)のが、1930年代雑誌探索のたのしいところ。筈見恒夫が《何か書物と関係のある映画ばなしといふので…》と、「文藝映画展望」という文章を書いていたり、同時期の「三田文学」で「四馬太郎」名義で冴えたレヴュー評を書いていた、当時 P.C.L. 文芸部にいた阪田英一(昭和10年9月に沙羅書店より『レヴューをりをり』を刊行している)がひょいと登場していたり、上司小剣が日吉へ苺狩りに出かけて、『建築の東京』でおなじみの慶應義塾予科の白亜の新築校舎に圧倒されていたり、などなど、心が躍ったくだりは、枚挙にいとまがない(1年分見ただけなのに!)。


逸見享が大手拓次(昭和9年4月没)の詩集『藍色の蟇』を編纂していることを綴り、《もう一年以上になるが、永く住み通した、あの神楽坂の下宿に今でも居るような気がする》と結んでいるのが強く印象に残った(第4号・昭和10年7月)。追悼文といえば、高松棟一郎が「寂しい愛書家」と題して神代種亮のことを書いていて(第5号・昭和10年8月)、昭和11年4月号には「寺田寅彦先生追悼」という文章も書いている。帚葉=神代種亮と寺田寅彦の追悼文はおのずと、1930年の銀座風景を髣髴とさせて、そんな書物を通した「1930年代東京」というものがいつもながらに愛おしいのだった。



f:id:foujita:20090806233624j:image

その逸見享による1930年代東京図会。逸見享《築地》、「書窓」第2巻第2号(昭和10年11月10日発行)掲載の木版より。昭和15年6月に勝鬨橋が完成する以前の築地風景。



そして、「書窓」が創刊された昭和10年は、竹内勝太郎が亡くなった年なのだなあということをふと思い出して、思い出したとたん、頭のなかは竹内勝太郎とその周辺のことでいっぱいになる。「書窓」が創刊された「昭和十年」あれこれを探索すべく部屋の書棚を掘り返すとしようと、帰宅後の室内での本読みが待ち遠しくなったところで、外に出て、帰路につく。閲覧室での閲覧もたのしいけれども、部屋での本読みもたのしい。



f:id:foujita:20090802212141j:image

竹内勝太郎『西欧藝術風物記 京都=巴里』(芸艸堂、昭和10年9月1日)。装釘:船川未乾。画像は函。本体の表紙にも同じ絵があしらってある。竹内勝太郎は明治27年京都市生まれ、昭和10年6月15日、黒部の渓流で墜落死(享年42)。本書の校正半ばで竹内は他界。昭和5年没の船川の装画で、榊原紫峰の跋で、竹内の遺著となった(竹内の渡欧は昭和3年7月、帰朝は昭和4年3月上旬)。



昭和10年の京都といえば、今回「書窓」で初めて「時世粧」という宣伝雑誌を知った。いつの日か、手にとって見てみたいなあと思う。日頃から戦前の明治製菓の「スヰート」周辺を追っている身としては、戦前昭和のモダン都市のハウスオーガンというだけで、憧れてしまうのだった。



f:id:foujita:20090802212140j:image

恩地孝四郎「書窓書架」に掲載のグラビア、「書窓」第1巻第6号(昭和10年8月10日発行)より。恩地によると、「時世粧」とは堀口大學編集の、《京都のりゅうとした服装品雑貨店貴金属文具店漆器店家具店等の人を同人とする趣味深い宣伝用雑誌》、《毎集豊富な写真口絵を収め、粒選りの文人の執筆が連る。コットン紙オフセット印刷のしっとりしたもの。共同印刷の仕事であって中々美事である》、《詩あり随筆あり小品あり小研究あり誠の頃あいの、例えばそれらの店の華客たちのサロンに置くにふさわしい編集ぶり流石である》とのこと。





先月、とある古書展にて、裏表紙が森永製菓だという理由だけで、だいぶ薄汚れている昭和10年の「セルパン」を買った。こういう買い物こそが古書展の醍醐味だなあとホクホクと買った(200円)。



f:id:foujita:20090806233623j:image

「セルパン」昭和10年4月号の裏表紙。《陽炎は春のけむり/森永チヨコレートは/味の花束です!》と、ムーラン・ルージュの伊馬鵜平作『かげろふは春のけむりです』(昭和9年3月初演、翌10年2月再演)をもじった広告文に頬が緩む。十返肇が森永製菓宣伝部に勤めるのは同年の秋以降なので、十返肇の文案でないのは確実なのが残念。


と、先月買ったばかりの「セルパン」は、奇しくも、「書窓」が創刊されたのと同年同月の号なのだった。長谷川郁夫『美酒と革嚢 第一書房・長谷川巳之吉』(河出書房新社、2006年8月)をひさびさにとり出して、この頃の「セルパン」のありようを見てみると、昭和10年1月より春山行夫が編集にあたり、メキメキとその手腕を発揮、《「セルパン」が詩の雑誌ではなく、綜合雑誌化を目指しているところに、春山が編集を引き受けた動機があったと推察される(p.276)》、《春山「セルパン」十年四月号以降を手にして、まず気付かされることは、広告量の急増である(p.300)》というふうな指摘が、『美酒と革嚢』にある。そのまっただなかの「セルパン」を手にしたわけで、『美酒と革嚢』を読み返しつつ、あらためて眺めてみると臨場感たっぷり。同年の昭和10年、前年より「綜合雑誌」化していた「行動」のありようなどを思い出し、その編集部にいた野口冨士男を思ったり、などなど、日頃の最大の関心事項のひとつ、戦前の野口冨士男の周辺を「第一書房」という観点で見つめ直す絶好の機会となった。


そして、昭和10年の春山行夫の「セルパン」を見たあとで、長谷川郁夫さんが《昭和三―四年、すでに「第一書房文化」とよばれるものの素地はできあがっていた。そしてそこが巳之吉の最初の達成点である(p.168)》としているまっただなかの、「パンテオン」を見てみると、あらためて深く感じ入るものがある。



f:id:foujita:20090802212240j:image

「PANTHEON」第8号(昭和3年11月3日発行)。この号に、《第一書房発祥の地高輪を引拂ひ 理想の地 麹町區一番町に移りて 長谷川巳之吉》なる告知がある。番町移転と「第一書房文化」の素地の完成はほぼ同時期のことだった。戸板康二が辰野隆の訳本を買いに第一書房を訪れたのは昭和7年、慶應義塾予科に入学した年のこと。「パンテオン」は同年4月創刊、翌昭和4年1月に堀口大學と日夏耿之介の不和により突如廃刊(全10冊)。


上に掲げた「セルパン」と「パンテオン」、いずれも先月の同じ古書展で買ったもの。「セルパン」は裏表紙の森永製菓広告を見て突発的に買ったのだけども、「パンテオン」の方はその日の古書展行きの一番のお目当てだった。富士正晴がチラリと、第一書房の「パンテオン」に船川未乾の絵が色刷りで載っていた、というようなことを書いているのを見たとたんに、次回の古書展行きが待ち遠しくなっていてもたってもいられなくなった。「パンテオン」は古書展にゆくたびにいつも見かけるような気がする、いつも大体数百円だったような気がする、次回の古書展の折にはぜひとも船川未乾の図版が載っている「パンテオン」が売っているといいなあと思っていたら見事見つかって、森永製菓の「セルパン」とおんなじように、ホクホクと買った次第だった。



f:id:foujita:20090802212142j:image

「PANTHEON」第8号に掲載の船川未乾のカラー図版。《一九二八年 船川未乾作》と記載されている。




そのあとも、「パンテオン」で続々と船川未乾を蒐集して悦に入っていた。



f:id:foujita:20090802212144j:image

「PANTHEON」第6号(昭和3年9月発行)掲載、《一九二六年 船川未乾作》。


f:id:foujita:20090802212145j:image

おなじく、第6号に掲載の白黒図版、《一九二六年 船川未乾作》。



f:id:foujita:20090802212143j:image

「PANTHEON」第9号(昭和3年12月)掲載、《一九二八年 船川未乾作》。



閲覧室で、昭和10年の「書窓」を繰ってからこの一週間、同年刊行の竹内勝太郎の遺著、『西欧藝術風物記』を経て、昭和3年の船川未乾へと至った。上掲の「パンテオン」に船川未乾の絵が掲載されていた当時、竹内勝太郎は『西欧藝術風物記』に記録されている渡欧生活の真っただ中。昭和3年、竹内勝太郎は35歳。船川未乾は京都で病臥中(昭和5年4月9日没)。富士正晴『竹内勝太郎の形成』(未來社、1977年1月25日)の、《この年は詩集「室内」にはじまり、大阪時事新報社退社、七月よりの外遊に終わる(p.308)》という昭和3年のページから、竹内勝太郎宛書簡と富士正晴の文章を読みだしたら、とたんに夢中になり、しばらく余波が続きそう。それにしても、『竹内勝太郎の形成』はすごい本だ。