冬休み大阪遊覧ダイジェスト(前篇)本町橋へゆき、大阪市電と信濃橋洋画研究所をおもう。心斎橋から四ツ橋へ。

以下は、もうとっくに春なのに、去年暮れの冬休み大阪遊覧メモの前篇。西から東へ、北から南へ、東から西へ……の歩行の記録。

2013年12月28日土曜日。正午前に大阪に到着して、今回まっさきに出かけたのは、東横堀川に架かる本町橋だった。大阪市内に残る最古の橋ということを知って以来、ずっと行ってみたいと思っていた橋。というわけで、本町通を西から東へズンズン直進して、まずは東横堀川に向かうのだった。



と、本町橋の橋柱が目に入ったところで、東横堀川の真上の阪神高速環状線の高架が眼前に見える。大阪市内に現存する最古の橋にたどりついたと思うと、それだけで胸が熱くなる。




そして、いざ目の当たりにすると、石造りの重厚な本町橋のなんと美しいことだろうと、思っていた以上に大感激だった。東京における日本橋川とおなじように、東横堀川の真上には、高速道路の高架が覆いかぶさっているので、橋の上は薄暗い。しかし、薄暗いからこそかえって幻想的な気分にもなって、格別のひととき。橋の上をつい何度も行ったり来たりしつつ、欄干の細部を見物して、大阪市最古の橋の上にいるという特別の時間を心ゆくまで味わう。



橋を渡って、道路を横断して、もと来た西詰に戻り、橋柱の「大正二年五月」の文字を目の当たりにして、あらためてしみじみとなる。大正2年は1913年、そうか、本町橋の架橋は今からちょうど百年前であったと初めて気づいて、2013年の年末に初めてここに来ることになったというめぐりあわせが嬉しい。本町橋織田作之助の生まれた年に架橋されたのだった。帰京後はひさしぶりにじっくり織田作之助を読もうかしらと思った。


そして、本町橋のたもとの記念碑(末尾に「昭和五十七年六月 大阪市」とある)に、

現在の橋は 本町通が市電道路として拡幅された大正二年(一九一三)に架けられた鋼アーチ橋で 石づくり橋脚をもつ重厚な構造は 七十年近い風雪に耐えて 現存する市内最古の橋にふさわしい風格をそなえている

と書かれてあるのを目の当たりにしたときは、さらに胸が熱くなるものがあった。これまでズンズンと直進してきた本町通にはかつて市電が走っていて、いまからちょうど百年前、大正2年に道路が拡張されて、同年7月8日、本町通を走る市電・靭本町線(川口町〜谷町三丁目間)が開業したのであった。今までズンズンと直進してきた本町通に市電が走っているさまを想像しつつ、手持ちの地図を確認してみると、東横堀川にかかる本町橋から市電が東から西へと直進し、西横堀川にたどりつくと、そこで架かっているのは信濃橋であることを確認し、まあ! とさらに興奮。「信濃橋」の文字を見てまっさきに思い出すのはもちろん、小出楢重、鍋井克之、国枝金三らが大正13年に開設した信濃橋洋画研究所のこと。



大阪市パノラマ地図』(日下わらじ屋、大正13年1月5日発行)*1より、本町橋のあたりを拡大。本町橋が架橋されて約十年後、大正14年4月の「大大阪」成立の前年に刊行された『大阪パノラマ地図』に描かれている本町通には市電がすれ違い、東横堀川には舟が通る。高速道路もなく高層の建物も少ない時代の「水都大阪」の気分が、この地図を眺めているだけでなんとはなしにただよってくる(気がする)。



同じく、『大阪市パノラマ地図』より、本町橋から西へまっすぐ1.2キロ、西横堀川に架かる信濃橋とその先の交差点のあたりを拡大。南北・東西の市電が交差する信濃橋交差点に面した高層の建物が信濃橋洋画研究所のあった日清生命ビル(「信濃橋」の「橋」の字の左の白いビル)。《信濃橋洋画研究所の、1924年(大正13)4月3日大阪市西区靭南通1丁目、ちょうど信濃橋の交差点に聳える市内屈指のモダンな6階建ての日清生命ビルディングの4階に開所し、鍋井克之、黒田重太郎、国枝金三、小出楢重によって経営された研究所である。》(島田康寛「小出楢重信濃橋洋画研究所」、『小出楢重画集』東方出版・2002年11月18日)。『大阪市パノラマ地図』は信濃橋洋画研究所の開所とまさしく同時期の大阪を記録しているわけで、完成直前の日清生命ビル(起工:大正11年9月)がきちんと描きこまれているということに感動する。



《日清生命保険株式会社大阪支店》(設計:佐藤功一建築事務所、竣工:大正13年3月)、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日発行)=橋爪紳也監修『復刻版 近代建築画譜〈近畿編〉』(不二出版、2007年6月25日)より。日清生命ビルは6階地下1階、大林組の施工、住所は大阪市西区靱南通1丁目10。信濃橋洋画研究所の開所の前月に竣工したばかりだったビルディングは、昭和11年刊行の『近代建築画譜』の写真ではちょっとばかし古びてきている印象。信濃橋洋画研究所は昭和6年に朝日ビルディングの3階に移転し、「中之島洋画研究所」へとその名を変えている。この写真はたぶん、信濃橋洋画研究所が引っ越したあとのビルディング。四つ橋筋と本町通が交差する信濃橋交差点の市電の軌道が、建物正面にうっすらと写っているのが嬉しい。



小出楢重《雪の市街風景》大正14年兵庫県立美術館蔵)、図録『都市風景の発見』(茨城県近代美術館、1992年)より。上の日清生命ビルの4階から信濃橋洋画研究所の窓から本町通をのぞんだ構図。この作品に描かれている市電が本町筋を約1.2キロ東へ直進したところに東横堀川、今も健在の本町橋に到着する。本町橋だけはこの絵が描かれたころと同じ姿のまま、高速道路の真下にいまも静かに架かっている。

この小出楢重の《雪の市街風景》に関しては、伊藤純・橋爪節也・船越幹央・八木滋著『大阪の橋ものがたり』(創元社、2010年4月20日)の「信濃橋」のページの、

 画面中央にあるのが信濃橋。西横堀川の本町通りに架かり、市電が渡ってゆく。この絵の時代、御堂筋は完成しておらず、大阪の南北を貫く大動脈であった四つ橋筋と、東西を貫くメインストリートの本町通りが交差するこのポイントは、市電が交差する大阪都心交通の要衝であった。
 信濃橋の歴史は古く、元禄頃は富田町橋、問橋と呼ばれ、宝永年間以降、西側の信濃町に由来してこの名になったらしい。その後、変遷を経て大正二年(一九一三)、市電を通すために鉄橋に架けかえられた。橋は長さ二三メートル、幅二二メートル。数字上は、ほぼ正方形だが、道路がタテヨコ、碁盤目のように整然と走る船場には、洒落で引いたあみだくじの横線みたいな、川を斜めにまたぐ橋があり、その代表格の信濃橋も、上から見たら菱形に近かったろう。この斜めにズレた感じを、小出はギュッとひねった裸婦の腰を描くように、的確なデッサンで表す。それも橋を真正面からとらえた難しい角度で描いて、さすがにうまい。
 描かれている建物も面白い。左の塔のある建物は相愛学園、右奥の時計台は心斎橋筋の北出時計店。近代建築群が欧米の都会のような印象を生み出している。右下には、電停で市電を待つ人の頭が、黒い玉のように連なっている。……

という、橋爪節也さんの解説がたいへん素晴らしくて、感動。さらにこのあと、《同じ洋画研究所の窓から、同僚の国枝金三と学生の松井正も描いているが、そこが絵画の面白いところだろう。小出とは感覚がまた異なり、国枝の場合、信濃橋で曲がっている本町通りを、まっすぐの道に描いた。》と続く。というわけで、次は、国枝金三による日清ビルから見下ろした信濃橋交差点。



国枝金三《都会風景》大正13年大阪府立現代美術センター蔵)、図録『都市風景の発見』より。上掲の小出楢重の《雪の市街風景》の前年の二科展に出品された作品。同じ構図をとらえた国枝の作品を見ると、小出楢重の密度の濃い画面の素晴らしさがますます際立つのだけれども、雪景色の小出の一方、国枝は青空の下の大阪市の風景を描いていて、北から南に風が吹いている穏やかな大阪の市街風景もたいへん好ましい。『生誕100年 小出楢重展図録』(1987年発行)所載の「4.大阪信濃橋時代 1922〜1925」の解説では、信濃橋洋画研究所の開所した大正13年は、大阪乗合自動車が「青バス」と呼ばれて市民に親しまれるバス営業(のちに「銀バス」と呼ばれた大阪市営バスと激しい競争を繰り広げる)の開業と同年であることが指摘されている*2。当時は第7代大阪市長・関一(せき・はじめ)に手により、御堂筋の着工、地下鉄建設の準備がすすめられていた時期であり、また、百貨店による展覧会の開催がますます活発になっていた時期でもあったという。と、そんな「大大阪」誕生前夜の大阪市の町並みが澄んだ色彩で描かれている。



信濃橋洋画研究所開所式にて》、『小出楢重画集』(東方出版、2002年11月18日)より。前列左から鍋井克之・小出楢重、中列左から国枝金三・黒田重太郎、後列右根津清太郎(大正13年4月3日)。同書の島田康寛氏の「小出楢重信濃橋洋画研究所」で紹介されている、鍋井克之の回想「信濃橋時代のおもいで」では、信濃橋洋画研究所の最大のパトロンは本町の木綿問屋の若主人・根津清太郎であったことが懐かしげに綴られている。根津清太郎は信濃橋洋画研究所開所の前年大正12年11月に、森田松子(その後の谷崎松子)と結婚したばかりだった*3

また、鍋井克之は「そのころ」という文章で、

研究所がはじまったら、本宅と店の途中にあたるので根津さんは毎日のように顔を出した。劇評の三宅周太郎氏などの文人も、東京から大阪へ来ると、ほかに面白いところがないといって遊びに来たし、だんだんと半分クラブのようにもなったのである。東京の二科の連中は『エレベーターのある研究所は日本ではじめてだ』と驚いていたが、そのかわり家賃はたしか四百円もしたから大変であった。上野精一さん、山本顧弥太、津田勝五郎さん、小倉捨次郎さんなど10人ほどの人に、後援グループをお願いしたのもそのためであった。

というふうに回想していて、ひょっこりと三宅周太郎が登場しているのが極私的に嬉しい。三宅は東京での震災を経て、大正13年1月に大阪毎日新聞社に入社し、同年7月に東京日日新聞に転ずるまで大阪住まいをしていた。三宅は東京に戻ってからも大阪行きの際には堂島の大阪毎日新聞社の顔を出していたことだろう。また、根津清太郎の本宅は江戸堀にあった。だだっ広い御堂筋がまだなかった頃、昭和6年に肥後橋にモダーンな朝日ビルディングが竣工する以前の四つ橋筋、いくつもの川が東西を流れていた大阪の町並みに思いを馳せるのであった。




本町橋のたたずまいがあんまりすばらしいのでちょっと立ち去りがたいと思ったところで、橋のたもとに「濱田屋」という名の見るからに雰囲気のよい喫茶店があるのが目にとまり、これ幸いとコーヒーを飲んでひと休み。窓から本町橋の美しい欄干が見通せて、しみじみ素晴らしいひとときであった。石造りの欄干を眺めながら、ここまで書き連ねたような、この百年の大阪の町並みに思いを馳せて、すっかり夢心地。本町橋にやって来たの古い欄干を観察するのが目当てで、本町通をかつて走っていた市電のことは実際に本町橋を訪れるまでまったく頭になかったから、やっぱり歩いてみるものだなあと思った。本町橋にたどりついたところで、本町橋の市電に思いを馳せることになり、そして、本町通の市電が描かれている小出楢重の《雪の市街風景》と信濃橋洋画研究所へと思いが及んだ次第だった。本町橋の美しい橋梁を眺めながら、コーヒーを飲んで、近代の大阪を思うひとときは本当に格別だった。


と、本町橋を眺めながら近代大阪に思いを馳せたあとは、心斎橋筋へと向かって、北から南へテクテク。適当に路地をジグザグと歩いてゆくと、右手に「ラブ」という名の味わい深いたたずまいの喫茶店、左手に三木楽器店の建物が見えてきた。と、心斎橋筋に到着したとたん、ついいつも思わず小走りしてしまう。そして、頭のなかは一気に、大の愛読書の橋爪節也著『モダン心斎橋コレクション』(国書刊行会、2005年9月7日)一色に染まりつつ、ウキウキと南へと直進し、心斎橋に到着。





心斎橋が鉄橋から石橋に架け替えられたのは明治42年11月。長堀川が埋め立てられても、心斎橋は橋柱も丸い十字がくり抜かれた欄干も昔のまま、今も残っている。丸い十字の欄干がとってもかわいらしいなあといつ来ても、見とれてしまう!




大大阪橋梁選集』全3輯(創生社、昭和4年9月〜12月)の写真を収録している、伊東孝編著『水の都、橋の都 モダニズム東京・大阪の橋梁写真集』(東京堂出版、1994年7月10日)より、心斎橋の遠景写真。図録『開館10周年記念 特別展 心斎橋 きもの モダン ―煌めきの大大阪時代―』(大阪歴史博物館、2011年10年15日)では、この写真に添えて、

明治42年(1909)に新しく架け替えられた心斎橋は、長堀川北岸に市電が敷設されるのに伴ったもので、大阪では初めての石造アーチ橋であった。照明にはガス灯が使用された。この橋は大阪のシンボルの一つとして親しまれた。昭和39年(1964)年の長堀川の埋め立てにより撤去されたが、新たに高欄やガス灯を再利用した陸橋が作られた。しかし、その陸橋も地下鉄長堀鶴見緑地線の工事に伴い撤去された。

という解説がある。明治42年架橋の石造の心斎橋も、大正2年架橋の本町橋とおんなじように、市電の敷設に伴って、もしくはその波及で架橋されたということに大いに感興が湧くのであった。この写真は、市電が通る長堀川北岸から心斎橋を南東の方向にのぞんだ写真。中央左寄りに長堀橋高島屋が見える。この写真を撮ったカメラマンの背後には市電が走っていたということになる。


坪内祐三著『探訪記者松崎天民』(筑摩書房、2011年12月5日)にある、《あまり指摘されることはないけれど、東京は、市区改正の頃の明治二十年前後に続いて、明治四十年代にも、大きな変貌を遂げた。》という指摘がずっと心に残っているのだけれども、これは大阪にも当てはまることなのかもしれない。東京市電のなりたちを『日本鉄道旅行地図帳 第5号 東京』(新潮社、2008年9月18日)で確認してみると、東京馬車鉄道を改称した東京電車鉄道(東電)が明治36年8月22日に品川(八ッ山)・新橋間を電化し、同年9月15日には東京市街鉄道株式会社(街鉄)が数寄屋橋・神田橋間で運転を開始し、さらに、翌明治37年12月8日には東京電気鉄道(外濠線)による土橋・御茶ノ水間の開業により3社鼎立となり、やがて、明治39年9月11日に3社が合併して東京鉄道株式会社となり、最終的には明治44年8月1日に東京市が譲渡され「東京市電」となっていったのであった。漱石の小説をはじめとして、路面電車の登場以降に書かれた文学作品では、電車の動きがもたらす都市風景、登場人物の移動のさまに注目するのがいつもたのしい。明治末から大正初期にいたる都市風景の変化、市電がもたらした東京の変貌ということをいつも思う。

そして、このたび、明治末期と大正初期、心斎橋と本町橋とがいずれも市電の敷設の波及で新しく架橋されたという解説に立てつづけに直面してみると、東京のそれとおなじように、大阪における市電の敷設による都市風景の変化ということに大いに感興が湧くのであった。今まで、大阪市電については深く考えたことはなかったので、こうしてはいられないとあわてて、辰巳博著・福田静二編『大阪市電が走った街 今昔』(JTBキャンブックス、2000年11月15日)を参照すると、「大阪市電65年半の足跡」の冒頭で、

大阪市電は明治36(1903年)9月12日に大阪の近代都市化が始まるとともに開業し、昭和44年(1969年)3月31日に、戦後の新しい時代における都市化の波に呑まれて姿を消した。大都市自身が経営する文字どおりの「市電」としてスタートしたのも全国で最初なら、都市交通の主役は地下鉄に移すべしとして、いち早く全面廃止に踏み切ったのも、政令指定都市でははじめてであった。

というふうに誇らしげに語られていて、胸が熱くなる。大阪市電の開業は、明治36年7月に大阪港築港大桟橋が完成したことと同年3月の天王寺公園における第5回内国勧業博覧会をきっかけにしていという。開業こそ東京と同じ明治36年だけれども、東京との根本的な違いは、大阪は開業当初から当時の鶴原定吉大阪市長によって「市内交通市営主義」を基本方針にしていたこと。「大阪市電65年半の足跡」において、

この市内交通市営主義が大阪市の発展に貢献したのは紛れもない事実であり大阪市民がこれによって得た恩恵もまた計り知れない大きなものがある。その最たるものは、市電があげた莫大な収益で次々と新しい道路や橋を作っていき、ここに市電を走らせてまたかせぐという循環投資によって、短期間の間に見違えるばかりの都市整備を行ったことである。それも決して高い料金を取っていたわけではなく、東京をはじめとする大都市の市電がほとんど7銭だった時代に、大阪市電は6銭でよかったのである。

と、引き続き誇らしげに語られており、《市電が架けた橋のひとつ、大江橋明治44年に開通した。市電の発達は橋梁の近代化を促進する要因にもなった。》という解説とともに大江橋日本銀行大阪支店の写る写真が掲載されている。市電の敷設とパラレルに進行してゆく大阪市の都市整備のことが端的に述べられていて、本町橋と心斎橋を見ただけでも、そのことはイキイキと実感できたのであった。明治36年9月12日、花園橋(現在の九条新町)〜築港桟橋(のちの大阪港)が最初に敷設された大阪市電だった*4。その後、明治41年8月1日から明治43年12月28日にかけて開通した「第2期線」の東西線南北線とが開通したことで、市電は市街地を走ることとなり、いよいよ大阪市の都市風景を彩っていくこととなる。心斎橋の架橋はそのまっただなかのことだった。ちなみに、長堀通を初めて市電が走ったのは、明治41年8月1日開通の九条二番道路・四ツ橋間と同年11月1日開通の四ツ橋末吉橋西詰だったから、石橋の心斎橋のできるちょうど1年前のこと*5



大阪市パノラマ地図』(日下わらじ屋、大正13年1月5日発行)より、心斎橋を拡大。心斎橋の北詰を市電が行き交う。



東孝編著『水の都、橋の都 モダニズム東京・大阪の橋梁写真集』より。北詰から南方向をのぞんだ構図。



不鮮明な画像ではあるけれども、ぜひとも載せたかった写真、『柳屋』第34号(柳屋画廊、昭和3年2月10日発行)の裏表紙、「枝榮柳名木 三幕(前狂言大阪柳の場其二)」と銘打って、店名の「柳」にちなんで柳の木の名所を紹介する趣向のコーナーに掲載の、心斎橋南詰の柳の写真。《勢のよい若木。昨年の秋或日の好晴の折からの風にはやされて乙女のダンスを見るやうでした。》というチャーミングな一文が添えられている。この写真によって、上掲の『大大阪橋梁選集』の心斎橋の写真に南詰の柳が美しく写されているということに初めて気づかされた。



北村今三の単色木版。図録『特別展 関西学院の美術家〜知られざる神戸モダニズム〜』(神戸市小磯記念美術館、2013年7月18日)では、昭和6年頃制作の《橋上散策(パラソルをさす女)》として掲載されている。特に明記はされていないけれども、欄干の十字のくり抜きとガス灯は明らかに心斎橋をモチーフにしている。北村今三(1900-1946)は大正12年関西学院中等部を卒業後、宇治川電気に勤務していた。昭和4年5月に川西英、菅藤霞仙、春村ただお、福井市郎と「三虹会」を結成し、翌月に第1回展覧会を神戸三越で開催、翌年の三紅会第2回展覧会では前田藤四郎もメンバーに加わった。この心斎橋を描いた《橋上散策》はその第2回展覧会に出品された作品。図録所載の年譜によると、今三には他にも多くの大阪の都市風景をモティーフにした作品がいくつもあり、蒐集への思いが駆り立てられる……



『近代建築画譜』に掲載の心斎橋の写真。橋の向こうに、上掲の北村今三の木版のモチーフになっている建物が見える。



平井房人による心斎橋、木村きよし・平井房人『漫画 大阪繁昌図巻(ちがごろのなにはめいしよゑだより)』より(『銃後の大阪』第3報(大阪市社会部軍事援護課、昭和16年5月31日)掲載)。

この橋の上に飾られた十個の街燈が、電燈ではなくて、ガス燈であることを知つてゐる人はすくないだらう。試みに、黄昏れどきに、この橋上に立つてゐてごらんなさい。明治の版画から抜け出た様な古風な黒づくめの男が梯子を肩にして、突如現れて灯をともして行きますから。置ざりにされた名橋! 大阪文化の発達をこの橋は、ねたましげに、横目でにらみつけてゐる感じです。(平井房人

戦時中でも心斎橋の上は、着物の女性、背広の紳士をはじめ、さまざまなファッションに身をつつんだ都市生活者たちで大混雑。


昭和16年平井房人はチャーミングなスケッチともに心斎橋のガス灯のことを伝えている。明治42年に架橋されてから、大正末期に「大大阪」になっても、1930年代に御堂筋が拡張されて地下鉄が開通しても、依然としてガスの灯がともっていたという心斎橋。石橋の心斎橋が架橋されたのと同じ時期の東京を、たとえば久保田万太郎は《明治四十二三年ごろの、ガスのひかりの夢のやうに蒼白かつた時代の東京》としてノスタルジックに回想していたものだった*6。大阪の都市生活者にとっても、心斎橋はそんなノスタルジーを喚起する橋だったのかもしれない。



同じく『銃後の大阪』第3報(昭和16年5月31日)に掲載の、藤沢桓夫の文章によるグラビア記事「大阪だより」より、入江泰吉撮影の心斎橋。

 郷土部隊の皆さん。
 この写真の橋に見憶えはありませんか?
 ――うん、たしかに見憶えがあるぞ。
 ――どこやろ?
 ――むかふに見えてゐる建物はたしか、そごう百貨店らしいぜ。
 ――うん、そんなら、この橋は心斎橋に違ひない。
 当りました。その通り、この橋は心斎橋です。
 そして、この写真は、毎朝早く、附近の商店員諸君がこの橋の上に集まつて、宮城遙拝、護国の英霊への黙祷、次いで戦地の皆さんの武運長久をお祈りした後、元気よくラヂオ体操をはじめようとしてゐるところです。
 銃後の勤労者の一日の雄々しい一日のスタート。
 皆さん、大阪はこの通り元気です。

『銃後の大阪』は大阪市役所軍事援護課が、戦地にいる大阪出身の兵隊さんに向けて発行していた時局雑誌なのだけれども、文学、芸能、美術などのジャンルの目次に並ぶ、「モダン大阪」おなじみの顔ぶれがたいへん豪華*7。ここでは、藤沢桓夫が「銃後の」心斎橋の様子を伝えている。




中澤弘光による木版、『畿内見物 大阪の巻』(金尾文淵堂、明治45年7月25日)より。スキャナでは写らない微妙な色具合がたいへん美しい。そして、橋爪節也著『モダン心斎橋コレクション』の「描かれた心斎橋」(p44-45)にある、この挿絵を紹介する《宵闇に心斎橋の瓦斯燈がともり、星が瞬く薄明に遠く生駒山の輪郭が浮かび上がる。》という解説にうっとり……。上の入江泰吉撮影の写真のなかで、「銃後の」心斎橋の人びとが朝の橋上からのぞんでいたのも生駒山だった。そして、夜になると、明治末とおんなじように、瓦斯燈がともっていた心斎橋であった。


さて、心斎橋を渡り、イソイソと中尾書店に寄ったあとは、ちょいと四ツ橋まで足をのばすのが前々からの計画だった。四ツ橋文楽座のあった場所に出かけたいと思い続けて早数年、いよいよ念願かなって、やれ嬉しや。……と、四ツ橋文楽座の跡地にゆく、その前にまずは四ツ橋の跡地に向かう。心斎橋南詰で右折して、長堀通を西へ直進、御堂筋を横断し、長堀通を直進すると、ほどなくして高速道路の高架があり、この下を歩いた先が「四つ橋筋」である*8



縦横に交差する西横堀川長堀川の両方ともが現在は埋め立てられいて、さらに西横堀川の上には阪神高速環状線の高架があり、現在の四ツ橋は単に車が行き交うだけの特に絵にならない風景ではあるけれども、高速道路の高架を越えた先の緑地帯に東方向に向かって鎮座する「旧名所 四ツ橋跡」の碑のおかげで、ここに四つの橋が架かっていたのだということはとりあえずわかる。碑の奥には、四つの橋をしのぶ橋の模型(のようなもの)が正方形に配置されていて、長堀川の東が「炭屋橋」、西が「吉野屋橋」、西横堀川の北が「上繋橋」、南が「下繋橋」。近世の都市風景を実感させる個々の橋の名前がなかなか風流で、眺めて嬉しく、四つの橋の名前をすぐに覚えてしまう。



ひとたび手にすると夢中になる『大阪市パノラマ地図』(大正13年1月5日発行)より、四ツ橋界隈を拡大。心斎橋から長堀川に沿って西へと歩いてゆくと、心斎橋の次は、当時は御堂筋の場所に橋はなかったので、この画像に見える「佐野屋橋」、「炭屋橋」、西横堀川を渡り、「吉野屋橋」となっている。西横堀川の北に架かる「上繋橋」は市電が走る大きな橋で、南に架かる「下繋橋」は市電のない小さな橋というのが一目瞭然。そして、市電が交差する四ツ橋交差点の南に架かる橋、すなわち四つの橋のすぐ西に架かるのは「西長堀橋」。



大大阪橋梁選集』全3輯(創生社、昭和4年9月〜12月)の写真を収録している、伊東孝編著『水の都、橋の都 モダニズム東京・大阪の橋梁写真集』(東京堂出版、1994年7月10日)より、四ツ橋を南東から北西方向へ一望する写真。手前の右が炭屋橋(昭和3年2月竣工)、左が下繋橋(昭和3年2月竣工)、炭屋橋の向かいが吉野屋橋(昭和3年11月竣工)、下繋橋の向かいが市電の通る上繋橋(昭和2年12月竣工)。「四ツ橋」を構成する4つの橋は、上繋橋を皮切り昭和2年12月から翌年11月にかけて、1年の間に次々と整備されていった。そして、昭和3年11月6日に渡り初め式が挙行された(大阪歴史博物館の図録『特別展 大阪/写真/世紀―カメラがとらえた人と街―』(2002年8月10日)の17ページに写真が載っている!)。高欄廻りは御影石と青銅鋳物で仕上げられ、4つのアーチ橋としてデザインが統一されていた。手前左の下繋橋の東岸に鬼貫の句碑「後の月 入て貌よし 星の空」がある。『大阪の橋ものがたり』によると、昭和3年、鬼貫没後190年を記念して地元の御津青年団が建立したものとのことだから、これは新しい四ツ橋と同時期に誕生したという点でもまさに記念碑的な句碑なのだった。



上の写真を反対側から望んだ写真、右が下繋橋、左が炭屋橋、同じく伊東孝編著『水の都、橋の都 モダニズム東京・大阪の橋梁写真集』より。4つの橋はいずれも、上路式のアーチ橋だった。



四つの橋を特徴づけていた街灯。



《吉野屋橋(昭和3年11月)と下繋橋との橋台地に設置されていた。「涼しさに 四つ橋を四つ 渡りけり」 橋上からのながめは、大阪名勝のひとつで、とくに納涼や観月の場として知られていた。小西来山は生粋の大坂人で、承応3年(1654)、船場の薬問屋に生まれた。》、伊東孝編著『水の都、橋の都 モダニズム東京・大阪の橋梁写真集』より。



玉澤潤一《四ツ橋》、『銃後の大阪』第5報(大阪市役所市民局軍事課、昭和18年7月5日)の色刷りの口絵。《「涼しさに四ツ橋四つ渡りけり 來山」の句碑がわづかに昔時の情緒を追想せしるのみ。電気科学館の近代的な建築をバツクに忙しげな産業戦士の姿が足早やに句碑の前を通り過ぎる。》という画家による短文が添えられている。上掲の小西来山の句碑のところから北を向いたところに、昭和12年3月11日、大阪市立電気科学館が開館し(3月13日から一般公開)、1989年5月に閉館するまで六十年余り、四ツ橋のランドマークとなっていた*9



『杵屋栄二写真集 汽車電車』(プレス・アイゼンバーン、昭和52年10月10日)より、長堀川沿いの四ツ橋停留所を電気科学館上から撮影した写真。昭和9年から13年にかけての鉄道写真を収録した写真集である本書にも、《昭和初期の頃から、ファンの間では "電車は関西" の定評のあった土地柄だけに、当時の市電でも最も多彩で活発だったのが、大阪の市電であった。》と大阪市電への賞賛の声。大の鉄道ファン・杵屋栄二にとっては、電気科学館は絶好の撮影スポットの誕生だったのだと思う。杵屋栄二もきっと四ツ橋交差点の「ダイヤモンドクロッシング」に大興奮していたに違いない。



北村今三《四つの橋》昭和初期・木版色摺(京都国立近代美術館蔵)、図録『特別展 関西学院の美術家〜知られざる神戸モダニズム〜』(神戸市小磯記念美術館、2013年7月18日)より。初めて見たときから心惹かれた四ツ橋界隈の都市風景を描いた版画。上掲の『大大阪橋梁選集』の写真と照らし合わせると、炭屋橋と下繋橋を結ぶ南西の角にある「巴フロ」と「森田ポンプ」の看板が左右逆だったり、市電の線路が上繋橋になかったりと現実の風景とは異なっているけれども、南東の心斎橋の大丸に連なる低層の屋根が切り絵ふうに配置されたところなど、いかにも今三ふう。昭和初期も江戸時代とおなじように、四つ橋は絵心をくすぐる都市風景だったのだと思う。




織田一磨四ツ橋雨景(『大阪風景』の内)》大正7年4月・石版、『織田一磨展図録』(町田市立国際版画美術館2000年9月30日)より。



織田一磨四ツ橋の柳(『画集大阪の河岸』の内)昭和9年2月・石版、『織田一磨展図録』より。大正7年4月制作の《四ツ橋雨景》とおなじく、昭和9年制作の石版でも、織田一磨は河岸の柳を描いている。



(現存でも一部残存でもまったく残っていなくても、いずれにしても、大阪の橋めぐりはいつもとてもたのしい。後篇は、佐野屋橋南詰の南西角の四ツ橋文楽座跡地へと続く……。)

                          • -

*1:日文件データベースに画像データ(http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2431.html)あり。また、1991年にワラヂヤ出版より大正13年刊の復刻の刊行されている。

*2:大阪市交通局七十五年史』(大阪市交通局、昭和55年3月31日)の「第1章 総説」の「2 市営バスの開業」の項に、《大阪乗合自動車(青バス)は、大正13年7月2日フォードT型80台でスタートし、路面電車のドル箱路線である堺筋四ツ橋筋、上本町筋などを走り廻った。たまたま、青バス開業の翌7月3日路面電車従業員がストに突入、高野山に立てこもったため路面電車の料金(片道6銭)よりも高い青バス(1区10銭)も市民に親しみをもって迎えられ市営バス実現がますます阻まれた。》とあり、依然敵意むきだしの筆致が味わい深い。昭和2年2月26日に市営バス(銀バス)の営業が始まり、青バスと激しい競争の末に、昭和15年6月1日、戦時体制下における企業統合化の機運に促されて、市は青バスの全株式を買得し、民営バスの市営統合による市内バス一元化が実現した。

*3:図録『北野恒富展』(2003年)所載の橋爪節也編「北野恒富年譜」の、大正12年11月の項に、《根津清太郎・松子の結婚式の大振袖を描く。三枚襲の大振袖の一番上の黒地に松の雪、金通しの織地の帯に王朝の黒髪を妖艶に垂らした女を描く。縁談は、美術愛好家である清太郎と松子の父との関係と恒富のはからいで成立。結婚前に清太郎と大和屋の舞妓梅弥との関係の清算も恒富が仲介した(谷崎松子『蘆辺の夢』)。松子は恒富に画を学んでいたという(北野悦子談)。昭和七年三月に松子は谷崎潤一郎と恋愛関係に陥り、昭和一〇年一月に谷崎と結婚した。》とある。

*4:海野弘著『モダン・シティふたたび――1920年代の大阪へ』(創元社、昭和62年6月1日)のはじまりも大阪港だったということをなんとはなしに思い出した。「序 一九二〇年代の大阪へ」で、著者は《大阪市役所が一九二〇年につくった「大阪市区改正設計図」》をひろげて、《何色ものカラーの線が縦横にひかれている》道路の予定線を見ながら思いをめぐらす。そして、《私はどこから大阪に入っていくか迷った。すぐ思いつくのは、大阪(梅田)駅である。しかしこれは、東京からのアプローチではないだろうか。〈二〇年代〉の大阪には、もう一つ、海からの入口があった。九州や四国など西からの人々にとって、港こそ、この大都市への最初の一歩を踏み出すところであったはずだ。そして、港湾は、上海、さらにはヨーロッパなどにつづく、モダニズムのルートでもあったはずである。〈二〇年代〉がモダン都市の先端として期待した港区のあたりは、今、忘れられている。私はその思い出のために、大阪モダン・シティの旅を港からはじめたいと思った。》と帰結する。

*5:大阪市交通局五十年史』(大阪市交通局、昭和28年10月12日)の「路面電車事業」の「設備」の項に建設工事の過程が詳説されている。花園橋西詰〜築港桟橋の第1期線(明治36年9月12日開業)に引き続く、東西線南北線の《第2期線工事により改築または新たに架設せられたる橋梁》として、伯楽橋、上繋橋、渡辺橋肥後橋西長堀橋、深里橋、大江橋の計7つが挙げられている。そして、明治42年11月22日から大正5年12月27日にかけて開通した《第3期線の工事により改築または新たに架設せられたおもな主な橋梁》として、端建蔵橋、末吉橋淀屋橋長堀橋日本橋、葭屋橋、堀川橋、天満専用橋、難波橋、城東線陸橋、新櫨橋、大正橋、湊町橋、賑橋、関西線陸橋、南海線陸橋、木津川橋、江ノ子島橋、信濃橋、本町橋、新船津橋の計21つが挙げられている。これらの橋の上を次々と通過することで、市電は「水都大阪」の都市風景を彩っていたということが、橋の名前を眺めることでヴィヴィッドに実感できる。

*6:「木下杢太郎忌」(『東京新聞昭和35年11月28-29日・中央公論社版全集第12巻)より。《"スバル" "新思潮" "白樺" "三田文学" 等に據つた文学者たちのむれ、パウリスタだの、プランタンだの、ライオンだのといふ、カフェエと称するものゝはじめてあらはれた銀座、ひきつゞく自由劇場の試演、パンの会……杢太郎にいはせると、それは、江戸情緒的異国情調的憧憬の産物だつた……日本橋小網町河岸のメーゾン・コオノス、五色の酒 etc ……》の象徴としての瓦斯灯時代。

*7:酒井隆史著『通天閣 新・日本資本主義発達史』(青土社、2011年12月10月)に、《第一報は執筆者のほとんどすべてが大阪府市の役人ばかりでお世辞にも食指を誘うものではない。第二報もいまだ堅苦しいものであるが、第三報にいたるや調子は一変、執筆陣も目を見はるほど贅沢で内容豊富なものになっている。》と指摘されている(p25)。でも、《お世辞にも食指を誘うものではない》第1報(昭和14年5月31日)も、赤松雲嶺の表紙絵《澱江春景》をはじめ、矢野橋村《石清水八幡》、菅楯彦《住吉神社》、北野恒富《生国魂神社》、生田花朝《銃後の祈》、木谷千種《千人針》といったカラー口絵(それぞれに入江來布による句が添えられている)が美しく、ヴィジュアル的には見どころたっぷり。

*8:辰巳博著・福田静二編『大阪市電が走った街 今昔』(JTBキャンブックス、2000年11月15日)によると、「よつばし」の「つ」がひらがなかカタカナかについての区別は、街路名を表す場合はひらがな、地名を表すときはカタカナという原則だという。「四つ橋筋」であり「四つ橋線」であり、「四ツ橋駅」ということになる。交通事情を管理する交通局と道路を管理する土木局とで監督官庁の届け出の仕方が異なることによるものという。なるほど……。

*9:大阪市交通局七十五年史』(大阪市交通局、昭和55年3月1日)に、《電燈市営10周年を記念して、昭和12年3月にオープンした電気科学館は社会教育としての使命のもとに、各種産業の電気の応用を指導しうるようにしていたが、なかでも天象館には東洋唯一のプラネタリウムを設置し、天文知識の普及に貢献したことは特筆に値する。》と誇らしげに語られている。なお、このあと、《電燈電力の市営も昭和14年4月国策による電力統制のため、発電所は日本発送電株式会社(戦後9電力に分割)に統合され、ついで配電部分も昭和17年4月配電統制令により、統制会社たる関西配電(現在の関西電力)に統合され、明治41年以来34年間にわたり市内に電力、電燈を供給してきた市の電気事業はここに終止符を打った。》と続く。上掲の玉澤潤一により四ツ橋が描かれた頃は市営の電気事業が終わっていた時期であった。現在の電力状況を思う上でもなにかとしみじみ……。