Hatena::ブログ(Diary)

日 用 帳

20151031

昭和8年師走の東京の空の下――渋谷大和田町の「いとう旅館」と「いとう句会」のこと・『俳諧雑誌』から『春泥』への歳月【前篇】


昭和8(1933)年師走の東京の空の下。

12月11日に京成電車の日暮里・上野間が開通。日暮里から2つの地下駅、寛永寺坂駅と博物館動物園駅を経て、寺田寅彦記すところの《上野公園西郷銅像の踏んばった脚の下あたりの地下》*1の上野公園駅が京成電車の終点となった。一方、東京地下鉄道は京橋駅(昭和7年12月24日開通)から次はいよいよ銀座への開通を目指して、地下工事に邁進しているところ(銀座駅の開通は翌昭和9年3月3日)。12月14日には築地の東京市中央卸売市場の完成式、その十日後、皇太子が誕生して祝祭ムードにあふれるなか、数寄屋橋では日劇の開場式が挙行、隣りの東京朝日新聞社の建物には「奉祝」イルミネーションが輝き、29日には皇太子の御命名式を祝う花電車が銀座の町をネオンを輝かせながら走っていた。有楽町ではいよいよ東京宝塚劇場が開場しようとしているところ。新国劇の上演台本を原作とする内田吐夢監督の『警察官』(新興キネマ・昭和8年11月30日封切)が上映されていたのも昭和8年師走であり、新国劇は映画化に合わせるようにして新橋演舞場で『警察官』を再演している(21日初日27日千秋楽、竹田敏彦作『警察官』初演は同年8月明治座)。内田吐夢の『警察官』のスクリーン、光と影が交錯する陰影たっぷりの魅惑的な映像の連鎖を思い出しつつ、昭和8年12月の東京を思う(内務省後援の『警察官』は着実に不穏になっている世相の反映でもあった。)。


f:id:foujita:20151028222814j:image

f:id:foujita:20151028222815j:image

京成電気軌道株式会社上野地下線・停留場および改札口、『工事画報 昭和九年版』(大林組、昭和9年8月5日)より。昭和8年度に大林組が請負施工した土木工事の記録写真を収録している同書には、阪神三宮の地下駅、阪神の神戸地下線の岩屋および春日野道停車場、省電大阪駅内高架線、大阪地下鉄の各駅などとともに、上掲の京成上野地下線の写真が掲載。鉄道側から見た都市形成を体感できる写真群が実に素晴らしい。各都市の地下鉄道および地下駅は1930年代に入り、いよいよ本格化した格好。


f:id:foujita:20151029214910j:image

《地下鉄出入口(日本橋)》、『建築の東京』(都市美協会、昭和10年8月20日)=橋爪紳也監修『復刻版 建築の東京』(不二出版、2007年11月25日)より。昭和2年12月30日に浅草・上野間で開通した東京地下鉄はその後どんどん延伸したのだったが、その延伸はデパートとタイアップすることで工事費用をまかなうという合理経営であった。上野広小路(昭和5年1月1日開通)に上野松坂屋、三越前(昭和7年4月29日開通)に日本橋三越、日本橋と京橋(昭和7年12月24日開通)には白木屋、第一相互館と明治屋というふうに、地下鉄がデパートに直結するという1930年代ならではの都市風景が誕生していった*2。昭和7年12月24日に地下鉄が京橋まで開通したあとに満を持して、翌年3月20日には日本橋高島屋が開店。今もその石造りのモダン建築の威容を誇る高島屋の建物も大林組の施工であり、上掲の『工事画報 昭和九年版』に「東京日本生命館」として掲載されている。


f:id:foujita:20151028222817j:image

木村荘八画・文『新東京風景』より「三、地下鉄終点」として描かれている三越前駅のスケッチ、『経済往来』第7巻第9号(日本評論社・昭和7年9月1日発行)所載*3

 わざとこゝに「終点」と云ふ文字を使つて「三越前」とは云はないでおく理由は、いつ何処でこんな書きものでも世相の文献とならない限りはないからで、一層片付けて云つておけば、此の日昭和七年の七月二十九日、午後六時折柄街頭の気温はもう日盛りは過ぎたにしても九十度を上下する程度と思はれるのを、地下鉄はトツプの硝子窓が開け切つてある。疾走するとこれから筒抜けに冷風が徹る。カビ臭いのは何だけれども、涼味は都下一番に違いない。

 で、瞬く間に「終点」へ来たから、車の止まつた直ぐ其処を写せば図の様なものだ。図の左りは暫く暗黒へ走り去る、何れはこれが次の日の終点へ行く坑道である。……

と荘八が記すように、「地下鉄終点」が次々に延びていったのが1930年代東京の一諸相であった。昭和7年4月29日開通の三越前駅のあとも、《次の日の終点へ行く坑道》はどんどん掘り進められてゆき、同年12月24日には日本橋と京橋が開通した次第。その後、「地下鉄終点」は昭和9年3月3日に銀座、同年6月21日には新橋へと延伸。


f:id:foujita:20151028222818j:image

藤田嗣治絵・柳澤健文『東京を描く』、『経済往来』第9巻第4号(日本評論社・昭和9年4月1日発行)より*4、フジタ描く数寄屋橋のスケッチ。東京朝日新聞社の屋上から伝書鳩が飛び立つ。

『ね、面白いでせう』

 彼は僕に同感を求めながら、朝日新聞社と日本劇場との宏壮な二つの建物を背景とする河畔の公衆電話のボツクスの周囲の公證人役場やマージヨン倶楽部や産婆やの看板を誇らしげに指示するのである。

 そこに亜米利加化された東京があり、同時に頑として亜米利加化されない東京もあるのだ。その不可思議なコクテールは、人に味はせて苦い顔をさせるのには面白い。

柳澤健が《この新東京――またの名を『亜米利加の東京』と言ふ――の乱雑さを、わがフジタはこゝに楽しげに点描してゐるのを御覧なさい。》と書くとおりに、フジタ描く東京は、モダン都市風景と昔ながらの町の生活感が混在する「不可思議なコクテール」が鮮やか。内田吐夢『警察官』のスクリーンが映し出す東京もまさにそんな東京だった。


f:id:foujita:20151028222820j:image

《日本電報通信社社屋》(起工:昭和7年9月1日、竣工:昭和8年12月15日)、『電通社史』(日本電報通信社、昭和13年10月11日)より。左端に交詢社が見える。この通りは銀座6丁目と7丁目の境、ここを直進して銀座通りにゆきあたると、左手にエッフェル塔のネオンのコロンバン。その十字路の右向こうには、今もサッポロライオン銀座七丁目店として健在の菅原栄蔵設計の大日本麦酒株式会社(1階はライオンビアホール)の建物(竣工:昭和9年4月)がそびえたっている*5。数寄屋橋・日比谷界隈で威容を誇っていた日劇も朝日新聞社もマツダビルも旧東京宝塚劇場も三信ビルも有楽座も当時の建物は消えてしまったけれども、昭和8年12月に出来たてのほやほやだった建物では、外堀通り沿いのこの電通ビルが今もひっそりと健在であり、前を通りかかるといつもちょっと嬉しい。


f:id:foujita:20151028222819j:image

昭和文学史に「文藝復興」の年として語られている昭和8年に創刊された文藝雑誌のひとつ、永井龍男が編集長をしていた『文藝通信』第1巻第3号(文藝春秋社・昭和8年12月1日発行)の裏表紙には P.C.L. 第2回作品『純情の都』の広告。明治製菓タイアップ映画、木村荘十二演出による『純情の都』の封切は11月23日だった。製菓会社と映画のタイアップは1930年代になると、ますます活発化していった。と、そんな「1930年代映画とお菓子のタイアップ時代」の皮切りのひとつに、小津安二郎『淑女と髭』(昭和6年1月24日封切)の劇中ショットに登場する「明治チヨコレート」の看板が挙げられよう*6


f:id:foujita:20151028222821j:image

古川緑波『映画のABC』誠文堂十銭文庫(昭和5年8月25日)の「エーパンと親子丼」のページに掲載の岡田時彦のポートレイト。『淑女と髭』に主演していた岡田時彦は昭和8年師走には病床にいて、翌9年1月16日に他界する。その直前、1月11日付「都新聞」には《松竹の蒲田スタヂオ 大船に移転決定》、亡くなる前日の15日付同紙には岡田の深刻な病状を伝える記事の隣りに《話題の現代劇部移転 日活新スタヂオは多摩川原と決定》の記事が出ている。いよいよ本格的にトーキー化して日本映画が新局面を迎えている、そのまっただなかの時期に、サイレント時代の輝きを象徴する存在だった岡田時彦が三十になるやならずで他界している、ということにしみじみとせずにはいられない。



と、そんな昭和8年師走の東京の空の下、槇金一(まき・きんいち)が東京市渋谷区大和田町九十三番地の自宅敷地に「いとう旅館」という名の席貸し旅館を開業したのであった。翌9年4月にはじまる久保田万太郎を宗匠格とする「いとう句会」の誕生のきっかけとなったことを嚆矢として、昭和20年5月25日に空襲で焼失するまでの十年ほどのそう長くはない期間ではあったけれども、文学者や演劇人、演芸関係者、同好の趣味人グループが訪れるちょっとしたサロンのような場所だった。槇金一のプロフィールについては、いとう句会の随筆集『じふろくささげ』(黄楊書房、昭和23年2月15日)巻末の「同人略歴」には、

明治廿三年八月一日大阪ニ生ル。商工中学卒業後同四十三年兜町澤商店ニ勤メ、大場白水郎氏ヲ知リ、又、久保田万太郎氏トモ知ルに至ル。大正十三年玉屋商店ニ入リ旁ラ渋谷ニ「いとう旅館」を営ム。即チ、「いとう句会」コヽニハジマル。著書「玉屋雑記」昭和廿二年一月十日病没。

とある。1890年大阪生まれの東京下町育ち。槇金一は明治末期、兜町の澤商店に勤めていた若き日に同僚の大場白水郎との友情を通して、俳句に親しむようになった。その大場白水郎の「同人略歴」は、

本名惣太郎、明治廿三年一月十九日東京日本橋ニ生ル。第三中学、慶應義塾普通部、早稲田大学商科中退。株式会社宮田製作所常務取締役、著書、白水郎句集、早春、縷紅亭雑記、其他。

となっている。三田は普通部だけで、意外にも早稲田の商科に進学後、兜町の澤商店を経て、大正元年12月から半年ほど籾山書店の編集部に勤めたあと、大正2年に宮田製作所に入社(久保田万太郎の慶應義塾本科の同級に宮田栄太郎がいた。)、やがて重役となり、戦後には会長に就任。そんな実業のかたわら、昭和37年1月10日に没するまで、あちらこちらの俳誌に関係し、終生にわたって俳句に親しんだ。白水郎は久保田万太郎とは府立第三中学、慶應普通部を通じての同級生であり、明治39年、普通部編入以降に揃って秋声会系統の運座めぐりに励み、やがて、明治41年秋に復活した三田俳句会に参加、二人は籾山梓月(当時の号は江戸庵)と岡本癖三酔から大きな影響を受けるにいたる*7。槇金一は大場白水郎を介して久保田万太郎とつきあいができたことで、文学者や役者たちと知り合っていき、《誰からも愛され、金ちゃんで通っていた》という。(大場白水郎「忘れ得ぬ人々(五)槇金一」、『俳句』第2巻第5号・昭和28年5月1日)*8。明治43年には荷風の恋人であった新橋の妓・富松との艶聞があり、粋人・金一をモデルに岡田八千代が『横町の光氏』と言うタイトルの短篇を書いている*9。戸板康二は『句会で会った人』(富士見書房・昭和62年7月20日)でいとう句会で会った金一のことを、《歌舞伎役者のような輪郭の、いささか古風ではあったが、じつにいい男であった。》というふうに回想している。いとう旅館は、「金ちゃん」と誰からも親しまれ、周囲に好漢ぶりを発揮していて色気もたっぷりの槇金一その人の社交の賜物のような場となったのだった。


いとう旅館開業当時、槇金一は銀座西3丁目の玉屋商店に番頭格として勤めており*10、旅館の経営は夫人が任されていた。芳町の花柳界出身で、金一とは明治末の「横町の光氏」時代から見知っていた恋女房であったという。いとう旅館の名は夫人の旧姓にちなんで名づけられた。

 いとう旅館――それは私の家内が、当時東京には一寸見当らなかつた上方風の宿屋、つまりは京の木屋町とか東山辺にある貸席式のものを、渋谷ではじめることにした。今から十年以上の前の話である。私の友達仲間では、そんなものが、東京でやつて行けるか、どうかを心配してくれた。

 内田誠(水中亭)氏もその一人であつたが、そこは明菓宣伝部長といふお勤め柄、さつそく智慧でお手の物の宣伝に「いとう句会」をと、いふことになつた。だから底を割つていへば、俳句を勉強しやうのどうのといふよりは、宿屋の為のチンドン屋みたいなもので、誠に会員諸氏には申訳のない次第である。然しこの計画は正に的中した。宿屋は間もなく有名となり、去年五月二十五日戦災によつて焼ける迄繁昌した。勿論句会の方は同人お顔揃ひの為忽ち文壇人の注意をひき、俳壇にも特異な存在となり、今日に至つてゐる。

というふうに、金一本人が、戦後間もなくに昭和21年1月に創刊された久保田万太郎主宰の俳誌『春燈』の第1巻第4号(昭和21年4月1日発行)所載、「いとう句会列伝」に書いている。この翌年1月に金一は他界するので、晩年の文章ということになってしまうのがいかにも残念なのだったが、昭和8年末のいとう旅館の開業は、翌昭和9年4月にはじまり昭和40年代までの長きにわたって続いてゆくことになる「いとう句会」の誕生のきっかけとなったことが回想され*11、その参謀が明治製菓宣伝部長の水中亭内田誠であったことと合わせて、宗匠格の久保田万太郎、初代会長の秦豊吉、二代目会長の渋沢秀雄、徳川夢声、森岩雄、堀内敬三、高田保、五所平之助、川口松太郎といった、いとう句会創成期の面々が紹介されている。製菓会社の宣伝部長の人脈がいかんなく発揮されたであろう顔ぶれは、映画、演芸の1930年代モダン文化おなじみの人物誌となっている。内田誠と徳川夢声は府立一中での同級生でもあった。


f:id:foujita:20151028222822j:image

『春泥』第41号(昭和8年12月5日)。表紙:小村雪岱。この号の「いろいろ」と銘打った六号欄に、

いとう旅館開業――得旨夫人が渋谷大和田町に数寄をこらした住居を、そのまゝ俳人向きの気がるい旅館として開業されましたから、地方俳人の静かなお泊りやど、にも亦俳莚、画会、お茶の催しなど、さうしたおちついたお集りにも御利用下さいまし、委細別掲広告御らん下さいまし。

というふうに、いとう旅館の開業が告知されていて、巻末には、槇金一自らが坂倉得旨名義で「旅館開業――渋谷いとう旅館のこと――」という文章を寄せている。槇金一の本名は阪倉金一、彼の母が巻木家に再縁したたので仮に巻木を名乗り、それが通称となったことで「槇」をペンネームとしたという。得旨は俳号。「阪倉」と「坂倉」の表記が混在し、どちらが正しいか判然としない。



昭和5年3月創刊の俳句随筆誌『春泥』の発行元であった春泥社は、創刊当初から槇金一の自宅住所になっており*12、昭和8年12月にいとう旅館が開業すると、いとう旅館の住所と春泥社の発行元が同じ住所となり、翌9年4月にいとう句会が始まると、その記録が誌上にもれなく掲載され、前述のとおり、『春泥』はいとう句会の機関誌的傾向を帯びるようになったのだが、『春泥』の起源をたどってゆくと、大正6年創刊の『俳諧雑誌』へとさかのぼる。その発行元は、籾山梓月こと籾山仁三郎が籾山書店と商号を併用して経営していた俳書堂であった。


f:id:foujita:20151028222823j:image

籾山仁三郎の第一句集『江戸庵句集』(俳書堂、大正5年2月11日)。序文:永井荷風。籾山仁三郎は、明治43年5月に『三田文學』が荷風主宰のもと華々しく創刊されたときに、その発行元を引き受けた縁で1歳年下の同世代の文友として荷風と親しく交わり、その以前には、慶應義塾理財科出身の籾山は岡本癖三酔とともに「三田俳句会」の宗匠格として、久保田万太郎と大場白水郎を大いに感化する存在だった*13。第一句集『道芝』(友善堂、昭和2年5月20日)の後記で三田俳句会のことを、

……わたしは、同級の白水郎とゝもにそのころ始終坂本公園の一心亭で開かれてゐた三田俳句会に出席した。癖三酔、江戸庵(いまの梓月)椿花(いまの梨葉)たちの主宰するところだつた。――そこでわたしは、前記垂燭会、竹馬会、行餘会で決して感得出来なかつた「運座」の澄明な空気を感得すると同時に、真実な、つゝましい、しみじみした俳句の生命感に触れることが出来た。――すなはち、癖三酔によつて現実をはツきり把握することを教へられ、江戸庵によつて古句に親しむ美しい心もちをはぐゝまれた。

というふうに、愛惜たっぷりに回想している。その万太郎は大正5年1月5日、築地の籾山邸で『江戸庵句集』の草稿を見て、《どれもみんな哀婉な句ばかり。――ことに冬と新年にいゝのがある。》というふうに、籾山の俳句について書いている(『駒形より』(平和出版社・大正5年10月13日)所収「新年」→中央公論社版全集第15巻に「日記」として収録)。万太郎は三田俳句会時代の籾山仁三郎を「江戸庵」というふうにここでは書いているけれども、籾山の俳号の変遷は厳密には、明治36年に籾山家に入籍したのを機に従来の「江戸庵」から「庭後」へと改めており、大正8年8月8日に築地の庭後庵から新富町の五代目菊五郎の旧宅に居を移したときに「梓月」と号するようになる。そのときの句が「今 朝 秋 の 雲 の 影 あ り 築 地 川」「蝉 鳴 く や こ こ に も 庭 の 椎 の 数」「土 庇 に 梓 の 月 の 暗 さ か な」「寺 島 の こ ろ よ り ゐ る か 蝦 蟇」*14


f:id:foujita:20151028222824j:image

『俳諧雑誌』第1巻第1号(大正6年1月1日)。表紙:上川井梨葉。大正6年1月、結社にとらわれない俳句総合誌として籾山仁三郎が俳書堂を版元に『俳諧雑誌』を創刊。

その前年の大正5年、永井荷風が慶應義塾文科を退職した次月4月にさっそく籾山書店を版元に個人誌『文明』を創刊、籾山書店に雇われた井上唖々が荷風と籾山のもとで編集にあたっていた。翌年大正6年末に荷風と籾山との間に齟齬が生じ、荷風は『文明』第22号(大正7年1月1日)から筆を絶ち、大正15年5月に再会するまで*15、籾山と荷風は交流を断つのだったが、籾山が『文明』創刊の翌年に『俳諧雑誌』を創刊したのは、『文明』の雑誌活動に刺激されてのことだったのかもしれない。

『俳諧雑誌』創刊に際して、久保田万太郎が籾山書店の顧問に就任していることにも注目したい(『三田文學』大正6年1月号・消息欄)。久保田万太郎は若き日から俳句においては老若問わず、いたるところで周囲から一目置かれる存在であり続けた。小島政二郎言うところの「俳句の天才」だったのだとつくづく思う。万太郎が『俳諧雑誌』に寄せた最初の俳句は第2号(大正6年2月1日発行)掲載、「二長町田村庵新宅開きの日二句」の前書きの「雪 ふ り い で ぬ 今 日 の 惣 だ ら ひ」、「竹 町 で 下 り る 電 車 や 雪 の 暮」の2句。折しも、『俳諧雑誌』創刊の前年の大正5年秋、最盛期を謳歌していた二長町市村座の田村寿二郎と岡村柿紅を中心にした運座「句楽会」がはじまったばかりでもあった。そして、『俳諧雑誌』創刊の年、大正6年には句楽会の方でも、田村寿二郎の自宅(東京市下谷区二長町五十一)を太平楽社と称して雑誌『太平楽』という名の雑誌を創刊するまでの盛り上がりを見せていた*16。その頃、荷風は『文明』誌上に連載中の『腕くらべ』にて冴えわたる筆致を披露中(大正5年8月から翌年10月まで全13回)。


f:id:foujita:20151028222825j:image

第二次『俳諧雑誌』第1巻第1号(俳諧雑誌社、大正15年4月1日発行)。編集兼発行者:大場惣太郎。表紙絵:小田島十黄。上掲の第一次『俳諧雑誌』が大正12年6月(第7巻第6号)をもって刊行が途絶えたあと*17、大正15年4月、大場白水郎を発行人として復活した。前年の大正14年末に籾山書店=俳書堂の商号が兄・梓月から弟・梨葉へと譲渡され、かねてより梨葉が実兄同様に営んでいた書肆・友善堂と合併するかたちとなった*18

籾山の実弟・上川井梨葉は明治20年1月15日生まれ(昭和21年7月5日没)。明治41年秋に復活した三田俳句会の世話役として、久保田万太郎と大場白水郎と知り合い、以来、同世代の彼らは親しい俳句仲間となった。三田俳句会が復活した明治41年秋は荷風が外遊から帰国したばかりの頃であり、また、同年12月中旬には1回「パンの会」が開催されている。翌明治42年1月には『スバル』創刊、そして翌43年には『白樺』(4月創刊)と『三田文學』(5月創刊)と第二次『新思潮』(9月創刊)が相次いで創刊、野田宇太郎言うところの「日本耽美派の誕生」のまっただなかの時期。久保田万太郎は創刊2年目の明治44年に『三田文學』の新進文学者として世に出たことで、大正5年秋に句楽会に参加するまで俳句を捨てていたと、その第1句集『道芝』(友善堂、昭和2年5月20日)の後記に記しているのであったが*19、そんな万太郎も梨葉宅・一川亭での句会「筍頭会」には出席し続けた。上川井梨葉は明治44年に一川亭に転居。その住所は牛込区新小川町三の十六*20。筍頭会は籾山による命名で、荷風の父・禾原の漢詩「首夏城居」に由来する。筍頭会には籾山も時折顔を出し、久保田万太郎、大場白水郎、三宅孤軒、山田[ケイ]子、鈴木燕郎、長谷川春草といった、のちの『春泥』おなじみの人びとがすでに集っており、第一次『俳諧雑誌』の母体ともいえる顔ぶれとなっている*21


すでに鎌倉の住人となっていた籾山梓月が「金槐堂主人」名義で『俳諧雑誌』復活号に「そでがき」として、

ことし一月二十五日夜、東京に於ける或る一団の俳士が、福島甲羽の家に集りました。その時、「俳諧雑誌」を復活せしめたい、といひだした者があつて、皆がそれに賛成して、即座に俳諧雑誌社を組織して、一同が其の社員になつたのであります。

というふうに記している。大正15年1月25日夜、《東京に於ける或る一団の俳士が、福島甲羽の家に集》って*22、復活が決まった『俳諧雑誌』は、前掲のとおりに大正15年4月1日を刊行日として復活第1号が刊行された。

梓月から俳書堂を譲り受けた梨葉によって復活することになった第二次『俳諧雑誌』は、明治41年秋に三田俳句会で出会った仲間たち、上川井梨葉と大場白水郎、久保田万太郎らが中心になって始まったのだった。彼らはそろって明治20年代前半の東京下町生まれであり、明治40年代に永井荷風および籾山梓月を先輩格として青春を過ごしていた者ばかり。『俳諧雑誌』の復活と時を同じくして、大正15年4月に『三田文學』が復活、彼らの若き日とともにあった「三田文學」も新しい時代を迎えようとしているところ。前年の大正14年、4月号を最後に『新演藝』が終刊し、5月6日に岡村柿紅が他界、震災前の東京に隆盛を誇った華やかなりし『新演藝』と交代するようにして、東京放送局が開設されラジオ放送が始まり、万太郎がさかんに愛惜している句楽会のメンバーでもあった、玄文社の服部愿夫が初代放送部長に就任している。内山理三、小林徳二郎ら玄文社の人びとは放送局の仕事に従事することとなり、必然的に小山内薫、長田幹彦や久保田万太郎、吉井勇といった句楽会の他の面々も「ラジオドラマ研究会」に参加することで黎明期のラジオ放送、すなわち、新しいメディアの誕生と密接なつながりを見せていた。久保田万太郎は大正15年9月から東京中央放送局の嘱託として週1回愛宕山に通勤、昭和6年8月には文藝課長として常勤となって、昭和13年8月に退職するまで、采配をふるうこととなる*23。と、ラジオ放送がどんどん軌道に乗って、映画のトーキー化がいよいよ目前に迫り、一方では二長町市村座で孤軍奮闘していた六代目菊五郎も昭和3年1月に松竹入りし、その全盛期を迎えるころ、第二次『俳諧雑誌』のあとを受けて、1930年代の始まりとともに創刊されたのが、『春泥』だった。

第二次『俳諧雑誌』は創刊翌月の大正15年5月号の巻頭言にて、「俳句を中心とせる文藝雑誌」を標榜している。同年9月からは「久保田万太郎監輯」の文字が加わり、俳句のみならず、徳田秋声「雑草」(大正15年10月)、佐藤春夫の談話筆記「新凉断片」(同)、芥川龍之介「凡兆に就いて」(大正15年11月)、堀口大學「フランス詩壇の俳句運動」(昭和2年1月)、小島政二郎「冬夜漫談―本郷俳句会のことなど―」(昭和2年2月)、馬場孤蝶「少し与太のやうだ」(昭和2年3月)といった……といった著名な文士の随筆も目次に並ぶようになり、後続の『春泥』もこれを継承して「俳諧的な随筆雑誌」として、随筆と合わせて座談会記事にも力を入れていた。大正12年1月の『文藝春秋』の創刊が随筆の流行に大きな影響を与えたことは近代文学史の通説であるけれども(『日本近代文学大事典 第四巻 事項』(講談社・昭和52年11月18日)、「近代の随筆」)、第二次『俳諧雑誌』とその後身となった『春泥』は俳誌でありながらも、随筆流行時代を反映する誌面にもなっているのは、大正文士・久保田万太郎の社交の反映の賜物でもあったろう。随筆流行時代とは、文筆専業ではなくて他に本職を持つ人が余技として書いた随筆が盛んに歓迎された時代であった。放送局に勤めることでますます顔が広くなっていった万太郎を宗匠格に昭和9年4月成立する「いとう句会」が名エッセイストの集う場ともなったのは必然であった。


f:id:foujita:20151028222826j:image

『春泥』第1号(昭和5年3月1日)。表紙:小村雪岱。

第二次『俳諧雑誌』最終号(昭和5年2月1日)に、内田誠と槇金一の連名で「春泥創刊の辞」が掲載されている。『俳諧雑誌』の休刊は資金の問題によるものであり、主人の梨葉からあとしまつを相談された久保田万太郎が一切自分にまかせてくれと言って、内田誠と槇金一のふたりを推薦し(大場白水郎「俳句の上の水中亭」、『春蘭』第1巻第3号・昭和30年10月1日)、『俳諧雑誌』最終号の次月にさっそくに誕生したのが『春泥』であった。あっとため息が出るような贅をつくしたつくりの雑誌となったのは、内田誠の財力の賜物にほかならない。「金に飽かして」と言ってしまえばそれまでだけれど、1930年代のはじまりとともに刊行がはじまった『春泥』は『俳諧雑誌』から一皮むけた感じの清新さで、小村雪岱による表紙がそれを体現している。


f:id:foujita:20151028222827j:image

三宅孤軒監修『東京の横顔』(全国同盟料理新聞社、昭和5年3月24日)。表紙:小村雪岱。三宅弧軒は全国同盟料理新聞主幹・東京二業時報主幹・東京鮨商組合新報主幹の3つの肩書きを持つ男として、第28回全国料理業同盟大会を東京料理業組合が主催することとなり、帝都復興祭と同月の昭和5年3月に開催。全国から組合員が東京に集合することになり、その配り本としてこの東京ガイドブックが編まれた。三宅孤軒は明治末期以来の久保田万太郎と古い俳句仲間であり、料理界での実業の道を歩みメキメキと出世をし、演藝通話会で田村西男、森暁紅らとともに素人芝居愛好家として名を馳せていた人物。万太郎の「柳の芽」(『別冊文藝春秋』昭和26年3月→中央公論社版第11巻)という文章で弧軒を追悼していて、いつもながらに抜群に読ませる。


『春泥』と『東京の横顔』、小村雪岱の美しい表紙を飾ったこれらの書物は、帝都復興祭と時をおなじくして、世に出たのだった。大正6年(1917)創刊の『俳諧雑誌』から昭和5年(1930)創刊の『春泥』までの、震災前から帝都復興までの「東京」の十年余りの歳月は、明治末期の文学青年が四十代になり、帝都復興と連動するようにして、いっぱしの旦那衆になってゆく歳月でもあった。ちょうどそれは、二長町市村座でしのぎを削っていた六代目菊五郎と初代吉右衛門が、関西発祥の松竹に制覇された東京の歌舞伎界の大看板となっていった歳月でもあった。そして、明治40年代に確立した諸々の都市風景が、大震災で壊滅ないしは変容し、復興して、モダン都市東京が形成されていった歳月でもあった。



f:id:foujita:20151028222828j:image

北尾鐐之助撮影《秋光 いとう旅館にて》、『春泥』第63号(昭和10年10月5日発行)より。昭和8年師走に開業、明治製菓宣伝部長・内田誠が参謀となり、昭和9年4月に「いとう句会」の誕生するきっかけとなった、「当時東京には一寸見当らなかつた上方風の宿屋」であるところの「いとう旅館」は昭和20年5月の空襲で焼失。その在りし日の写真を北尾鐐之助が撮影している。この写真以外に現時点では他に写真を知らない。



(いとう句会が誕生するまでの東京の歳月についてまだ少し書き連ねる所存。以下、後篇につづく。)



--------------------------------

*1:寺田寅彦『猫の穴掘り』、初出:「東京朝日新聞」昭和9年1月7日付朝刊(青空文庫:http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card42265.html)。

*2:大東京が成立した昭和7年10月、不景気風に見舞われる小売店からの要望により、百貨店協会は定休日の設置、無料配達区域の縮小等の措置を講じている。その一環で無料送迎自動車(和田敦彦編『コレクション・モダン都市文化 第8巻 デパート』(ゆまに書房・2005年5月25日)所載の「関連年表」によると、大正9年8月11日、三越呉服店本店が東京駅との間に送迎自動車を運転開始したのが最初で、その後、各デパートがこれに追随。)も廃止されることになり、これに便乗して、同年10月7日付「東京朝日新聞」に東京地下鉄道は《当社三越前、松坂屋前(上野広小路)両駅と省線各駅との連帯運輸を開始仕候》という広告を出している。昭和4年4月15日に梅田に開店した阪急百貨店を皮切りに、1930年代の百貨店は鉄道会社ないしは公共交通機関との連携を深めていった。

*3:木村荘八の『新東京風景』は、「一、新宿」「二、上野」「三、地下鉄終点」「四、涼しさ」「五、暑さ」「六、ニコライ」「七、聖橋」の7つで構成。「新宿」は角筈から武蔵野館の横町をのぞんだスケッチ、奥に前年12月31日に開場したばかりのムーラン・ルージュの風車が見える。「上野」は同年3月竣工の上野駅のコンコース(4月5日に開通式)。「涼しさ」は銀座三越の屋上風景、一方、「暑さ」は夏の東京府美術館の展示会場。最後の「聖橋」は橋上から松住町架道線をのぞむスケッチ。昭和7年10月の「大東京」成立に際して寄せられた木村荘八の秀逸な1930年代東京レポート。

*4:柳澤健と藤田嗣治のコンビでは、『経済往来』昭和9年3月から7月号にかけて、『巴里を描く』(3月号)、『東京を描く』(4月号)、『墨西哥風景』(5月号)、『京・阪・神を描く』(6月号)、『あめりか風景』(7月号)が掲載されている。

*5:『電通社史』によると新社屋は当時の建築基準のギリギリの高さに設計されているとのことだから、電通ビルは当時は界隈で一番ののっぽビルだったということになる。昭和8年12月28日付「東京朝日新聞」朝刊に《電通新築移転》の広告が掲載されている。日本電報通信社が丸の内から銀座西7丁目1番地の新社屋に正式に移転したのは12月25日。1階に森永キャンデーストアーがあった。翌月7日に開店した地下のモツ料理食堂は、古川緑波の日記にたびたび登場している。数寄屋橋際のマツダビルディング楼上のアラスカと同様に、昭和10年6月の東宝移籍後のロッパの生活圏だった。

*6:と言いつつ、小津安二郎の映画における製菓会社のタイアップについては『淑女と髭』以前にも、『学生ロマンス 若き日』(昭和4年4月13日封切)で森永製菓、『朗かに歩め』(昭和5年3月1日封切)で明治製菓が劇中に登場している。が、特筆すべきは、昭和6年以降は劇中のショットに会社名や商品が映るのみならず、新聞紙上においても商品の広告とともに映画が連名で広告されるスタイルが多用されていったこと。「東京朝日新聞」における明治製菓の広告で最初に映画のタイアップが登場したのは昭和6年3月21日、松竹蒲田作品の佐々木康『受難の青春』で、その次が翌月4月19日付け紙面に掲載の、松竹蒲田のオールスター大作の島津保次郎『愛よ人類と共にあれ』。映画と商品とのタイアップがますます促進されていったこの時期はサイレントからトーキーへのの移行期であり、映画のトーキー化が映画産業の大資本化をもたらし、映画と各業界と連関が促されていった時期。そんな世相について、たとえば、昭和9年4月16日付「都新聞」に掲載の佐々元十『活動街散歩(中)映画とタイ・アップ広告』では、《このごろの映画作品は大てい他の化粧品や薬品などと、握手してゐる。映画(芸術)を鑑賞するためになにがしかの入場料を支払つてそれで訳なく広告映画を見せつけられる。これは、映画といふ商品が他の商品と云はゞ相互扶助をやつてる訳だが、観客は観客で、あたかもこの美しい相互扶助の精神に免じてこのことを黙認してるかのやうだ。》、《トーキーといへば生産費はずつと嵩むし、タイ・アップもこれをきつかけに風靡してきたかの感もあるが、これは化粧品や薬品の方でも音の効果でよけい強烈な宣伝効果をもつから、世の中はきはめてうまくできてゐる。かうなると観客の方でも、映画は見た眼聞く耳に娯しさを与へてくれさへすれば、広告映画であらうとその他の何であらうと、文句はないのだ。》、《タイ・アップ広告はしかし、まだ商品同志のタイ・アップだ。すでにのべた映画国策となると政治と経済と文化との強力タイ・アップだ。映画芸術家の前途亦、多事多端といふことになりさうだ。》というふうに綴られている。

*7:大場白水郎の回想(楠本憲吉・大場白水郎「連載 対談俳句史 第4回 三田俳句会から俳諧雑誌まで」、『俳句』第8巻第10号・昭和34年10月1日)によると、福澤諭吉(明治34年2月没)存命の頃からあった三田俳句会がしばらく途絶えていて、明治41年の秋に吉村椿花(籾山梓月の実弟・上川井梨葉)らが世話役となり復活、その第1回句会の掲示を見た白水郎が同級の万太郎を誘ったのだという。句会の会場は日本橋の坂本公園の一心亭。吉村椿花こと上川井梨葉は明治20年生まれ、白水郎や万太郎とは年も近く、以後末長く、句友として親しく交わることとなる。

*8:角川書店の俳句誌『俳句』誌上の大場白水郎の「忘れ得ぬ人々」は全5回、第1回は岡本癖三酔(昭和27年12月号)、第2回(昭和28年1月号)は渡辺水巴、第3回(昭和28年3月号)は内藤鳴雪、第4回は増田龍雨(昭和28年4月号)、ラストの第5回が槇金一。

*9:『横町の光氏(よこちょうのみつうじ)』は大正3年8月1日に脱稿、『八千代集』(須原啓興社・大正6年1月15日)に収録、『八千代集』は『近代女性作家精選集 27 八千代集』(ゆまに書房・2000年11月24日)として復刻されている。兜町の勤め先が店を閉めて、本所の姉夫婦の家で無聊をかこつ主人公が本箱からふと小山内薫著『大川端』を取り出して、《己れはもう何度此本を読んだことだらう、もうすつかり手摺れて表紙の蝶の模様の日本紙はケバケバが立つてゐる。どう考へても己れにはあの主人公の「正雄」と云ふのが己れを書いたのかとかしらと思はれる位によく似てゐる、しかもあの正雄が代地へ越して二階にゐると下を通る藝者やお酌が「先生」と声をかけて行く処なんぞは、まるで己れが浜町の桶屋の二階にゐた頃にそつくりなのだもの……》と、芳町の花柳界の人気者だった「横町の流行児」だった往時を回想する。この『大川端』は大正2年1月籾山書店刊の胡蝶本。タイトルの「光氏」は『田舎源氏』の足利光氏に金一を譬えたもので、戸板康二は『句会で会った人』(富士見書房・昭和62年7月20日)にて《芝居では八代目團十郎の演じた足利光氏にたとえたのだから、大した評価ではあるが、坂倉氏について書いた文章の題が「横町の光氏」だったので、御当人は浮かない顔をしたと、内田さんが笑っていたのを覚えている。》と書いている。大正2年1月に籾山書店から刊行された『大川端』のうち、最初の君太郎のエピソードは「讀賣新聞」に明治44年8月8日から9月13日まで全35回連載。久保田万太郎の明治44年作の短篇『お米と十吉』(初出:「新小説」明治45年1月)は小山内薫の『大川端』の余韻とともに書かれた小説で、同年十月の明治座興行の初日(9月27日)の場面から書き起こされていて、その登場人物の名は「槇」。明らかに大場白水郎をモデルにしているものの、兜町の同僚であった槇金一も同じような日々を過ごしており、白水郎を描きつつも同時に金一を描いている短篇。若き兜町の相場師とお酌との恋情が、まだ「書生っぽ」であった万太郎自身を思わせる語り手の目を通して明治末の大川端風景とともに描かれている。

*10:槇金一は大正13年に玉屋商店に入社、のち取締役となったものの、大場白水郎によると、晩年は《ある事件のとばつちりをうけて未決に入る》という辛酸をなめたという。金一入社以降の「銀座復興」時の玉屋商店については、松崎天民著『銀座』(銀ぶらガイド社・昭和2年5月→ちくま学芸文庫・2002年9月10日)の巻末の宣伝ページ「銀ぶらガイド」に、《ここも銀座では老舗の部類です。そして却つて地方には測量器械店としての玉屋の名称がかなり広く響いております。各種時計のほかに貴金属装飾品の大小がそのお店先に取揃えられてその御買上げを待つております。ここのお店は服部などとは又チヨツト異つた地方での素封家と言つた様なお客で賑つております。》というふうに紹介されている。金一は天民ともカフェー・タイガー等で顔を合わせたこともあったかも。それから、『春泥』第82号(昭和12年5月5日)の六号欄に、都新聞で連載中の小島政二郎『雄蕊雌蕊』に2日間にわたって玉屋の店が描かれたことを伝える記事があり、金一、たいへんご満悦だったという。明治からの老舗玉屋商店は銀座西3丁目の松屋の向かい、この地は現在「玉屋ASビル」となっている。

*11:戦後のいとう句会の記録は『春燈』に昭和42年3月号まで断続的に掲載されている。昭和30年代以降は、久保田万太郎の『火事息子』のモデルとなった赤坂の重箱が主な会場になっている。

*12:第1号(昭和5年3月1日)は東京麻布区網代町五番地、第2号以降は東京府荏原郡東調布町下沼部六二六。第13号(昭和6年3月10日)から第31号(昭和8年11月1日)まで、発行者の名は山田安猷となり、春泥社の住所の表記も変更している。山田安猷は「[ケイ]子」と号し、彼も万太郎、白水郎、長谷川春草らの古くからの俳句仲間であり、伊太利大使館員を経て、この時は白水郎と同じく宮田自転車に勤めていた。春泥社の移転については、新井聲風は「春泥内閣更迭」として《得旨の引退は、在職中「春泥」を俳人に寄贈せず芸妓、役者に気前よくばらまきたるための引責辞職なると噂とりどり。》と冗談交じりに綴っていたりもしたのだったが(『俳檀目安箱』交蘭社・昭和10年8月15日、初出は「あかね」昭和6年2月)、およそ2年後の第32号(昭和8年1月1日)から春泥社は槇金一の住所にもどり、このとき、春泥社の住所はこの年の年末に開業するいとう旅館とおなじ「東京市外渋谷町大和田九十三」となった。槇金一が下沼部から渋谷大和田町への移転告知は第21号(昭和6年11月20日発行)に掲載。

*13:籾山の来歴および出版活動については、浅岡邦雄著『〈著者〉の出版史』(森話社、2009年12月11日)所収「籾山書店と作家の印税領収証および契約書」に詳しい。籾山仁三郎が書店の経営に手を染めたのは、明治38年9月に高浜虚子から俳書堂を譲り受けたことから始まり、俳書堂と籾山書店の称号を併用するようになったのは明治40年3月。明治41年7月荷風帰国、明治43年5月『三田文學』創刊、「胡蝶本」の刊行が始まるのは明治44年1月、泉鏡花『三味線堀』を皮切りに大正2年5月刊の吉井勇『恋愛小品』までの計24点。籾山は明治11年1月10日に吉村甚兵衛の五男として日本橋浪花町に出生、生家の屋号は和泉屋(現在の日本通運の前身)。少年時代に松岡拙鳩に漢学を学び、明治25年に南新二より俳諧の手ほどきを受ける。翌明治26年に八世其角堂機一の門に入ったあと、大谷僥医師の紹介で虚子を知り、明治31年頃から子規に俳句を学んだという。明治34年4月慶應義塾理財科卒業後は句作を続けるとともに出版活動を開始したのであった。明治38年9月に虚子から俳書堂を譲りうけたあと、明治40年3月から籾山書店と俳書堂の商号を併用するようになった。籾山姓となったのは明治36年、日本橋の海産物問屋、三浦屋の籾山半三郎の四女せんと結婚して籾山家に入籍したことによる。昭和33年4月28日没。ちなみに、義父の籾山半三郎は大正13年6月に開設の築地小劇場に土地を貸す地主であり、小山内薫とは古くからの顔なじみであった。が、昭和6年6月に立ち退きを求める訴訟を提訴している(東京朝日新聞・昭和6年6月19日)。

*14:籾山梓月『冬鶯』(春泥社、昭和12年6月15日)に収録。この句集は『江戸庵句集』以後の大正5年から、鎌倉に移住する大正11年までの句を収録している。梓月は大正10月10日に赤坂仲之町に転居、翌11年3月に夫人の梓雪を失い、同年9月に鎌倉に転居以降、昭和33年4月に没するまで鎌倉の住人だった(大場白水郎「梓月居士」、『俳句』第7巻第6号・昭和33年6月1日)。五代目菊五郎の旧居に住んでいた時期の回想として、籾山は、『春泥』第86号(昭和12年9月5日)所載の五代目尾上松助(福島甲羽)の追悼文「夢のはしばし」に、《大正八年、わたくしが新富町河岸に移居した時、その頃ついぞ来たこともなかつた甲羽から、菊三郎と一緒にうかゞいたいが差間はないか、というて来た。それは菊三郎が、師匠五代目菊五郎の旧居なつかしく、是非一度見せてもらつて、昔を偲ぶよすがにしたいといふのであつた。わたくしの方からも、いろいろ当時の模様をお尋ねしたいことがある、是非来ていたゞきたい。かうわたくしは応えた。かくてわたくしは同優からいろいろ昔懐しい話を聴かされたことであつた。》という一節を残している。

*15:『断腸亭日乗』大正15年5月17日に、《……帝国劇場に赴き、女優春日明子、村田竹子等、数人を拉して東洋軒に往く。偶然籾山庭後君に逢ひ、契濶を陳ぶ。予庭後子とは大正七年の春雑誌文明編輯の事より隙を生じ、今日に至るまで九年の間、手紙の往復をもなさゞりしに、この日女優等と共に晩餐の卓子につかむとする時、庭後子偶然食堂に在り。互に顔を見合せ、一驚の余り、積年の粉々を忘れ、覚えず言語を交えたり。近年旧友鬼籍に入る者多きの時、図らず庭後子と旧誼を温め得たるは、何等の幸ぞや。抃喜措く能はざるなり。》。第二次『俳諧雑誌』大正15年6月号に籾山が金槐堂主人名義で寄稿した「愚心空観」には、同年3月に春陽堂から刊行された『下谷叢話』への賛辞を呈しているくだりがあり、荷風に再会する直前に『下谷叢話』を読んでいることがうかがえる。5月の帝劇における再会は二人にとってタイミングがよかったのかもしれない。その後の二人の風雅の交わりは、暗い時代に入ってゆく『断腸亭日乗』のなかのオアシス。そして、加藤郁乎編『荷風俳句集』(岩波文庫・2013年4月16日)の「随筆」に収録されている「枯葉の記」(昭和18年11月21日脱稿)と「雪の日」(昭和18年12月3日執筆)の二篇は籾山が関係していた俳誌『不易』に寄稿されたものであり、いずれも絶品の俳文。

*16:句楽会の雑誌『太平楽』の第1号は大正6年7月27日発行。句楽会の同人は第1号に記されているのは計20名の名前、第3号(大正6年11月4日発行)で吉井勇と遠藤為春の2名の名が加わり、岡村柿紅、服部愿夫、田村寿二郎、三木重太郎、結城禮一郎、落合浪雄、小山内薫、田村西男、長田幹彦、久保田万太郎、吉井勇、川尻清潭、遠藤為春、中村秋湖、尾上伊三郎、喜多村緑郎、花柳章太郎、河合武雄、福島清、柳澤吉左衛門、屋井三郎、堀内鶴雄の計22名の名が記されており、彼らの職業をおおまかに分類すると、玄文社・伊東胡蝶園、市村座・劇界関係者、文士、役者、素封家というふうになる。句楽会はいとう句会の先駆といえる面が多々あり、久保田万太郎はいとう句会において、句楽会の日々を多分に意識していたのは確実。震災前東京の二長町市村座華やかなりし時代への郷愁とともに。

*17:第一次『俳諧雑誌』が大正12年6月を最後にふっつりと刊行が途絶えたのは、白水郎は籾山が時事新報社に重役として入社したことで多忙になったためと回想しており(楠本憲吉・大場白水郎「連載 対談俳句史 第4回 三田俳句会から俳諧雑誌まで」)、第二次『俳諧雑誌』の経営者となった上川井梨葉は《俳諧雑誌がだんだんと落ち目になつて、怠け者が続出するやうになつてから、とうとう梓月とわたくしと二人が取り残されることになり、しまひには、この二人共、倦怠を感じ出して、雑誌を潰ぶしてしまひました。》と書いている(『梨葉句集』(俳書堂・昭和5年7月20日)跋。

*18:『俳諧雑誌』復活号の巻末に掲載の「後披露のこと」にて曰く、《この度俳書堂蔵版の俳諧書籍及籾山書店の出版物一切を引継ぎまして出版専業の書肆を開店いたしました。友善堂と申します商号の外に、別号といたしまして旧来から御座います俳書堂の名称を併用いたします。俳諧に関する出版書籍は矢張り俳書堂の堂名の下に取扱ふ考へで御座います。》。『俳諧雑誌』は「俳書堂内俳諧雑誌社」の名のもとに刊行。俳書堂=友善堂の住所は、東京市京橋区尾張町二丁目六番地の菊水ビルの3階であった。籾山書店は従前のとおり三菱第二十一号館に残っている。『梨葉句集』(俳書堂・昭和5年7月20日)にその際の句がある。梓月が「俳書堂を梨葉に譲りて」の前書きで「印 一 つ 手 渡 し た る 寒 さ か な」と詠み、梨葉は「とありければ返し」として「印 を 包 む 鬱 金 の 古 り し 寒 さ か な」と。

*19:久保田万太郎は第1句集『道芝』の跋に俳句を捨てていた時期のことを、《……わたしの心はだんだん俳句から離れて行つた。嘗て愛読した「明星」の後身「スバル」の自然主義凋落以後における華やかな躍動「白樺」「新思潮」「三田文學」等のめざましい進出。――その前後にあつてのいふところの文壇にはいたるところに新興の気がみちみちてゐた。(中略)わたしにすると、現在のうき身をやつす「国民俳句」(国民新聞に載ることをもつてしか呼ばれた)「ホトトギス」の文学、写生文及びそれに派生するいろいろの作品。――いふところの低徊趣味の芸術につねにわたしは飽き足らなかつた。あまりにそれは「歓楽」「すみだ川」「紅茶の後」の芸術に遠かつた。「自由劇場」運動の精神と相容れなかつた。――すなはちわたしは俳句を捨てた。――ひたすら小説を書き戯曲を書いた……》と綴っている。ちなみに、『俳諧雑誌』大正6年5月1日(第1巻第5号)の「この句はいかにして作られたか」にて、福島甲羽こと尾上伊三郎は、《明治四十四年二月私は歌舞伎座で名題に昇進し今の名に改名してから大正五年の冬まで殆んど俳句といふものに絶縁して居りました。が昨年の冬、長田幹彦、吉井勇、久保田万太郎、喜多村緑郎、岡村柿紅君諸氏発企になる句楽会といふ俳句会が出来ましたのに際し私しの主人も同然な市村座の太夫元田村車前子氏の勧誘でその会の同人となりました。そこで私も七年目に俳句に復活したわけなのです。……》と書いており、甲羽も万太郎と同じように、明治44年に俳句と「絶縁」し、大正5年の句楽会を自身の俳句復活のきっかけとしているというのはたいへん興味深い。

*20:『梨葉句集』跋に《一川亭は、牛込と小石川とを境ひする山の手の唯一の川に沿ふた町内にありました。関口の芭蕉庵の下を流れる江戸川といふ川の裾になるところでありました。この一川亭は、もと、武家屋敷であつたといひます。広庭を前にして、南向きに建てられた古い家には、凋落した士族階級の哀れな姿が残つてをりました。(中略)一川亭の庭は昔のまゝの泉石の布置を残してありました。その広々とした眺めの中に、荒涼たる気分が漾うてをりましたから、花の暁、蝉の樹下、蟲の夜頃、雪つむ笹の葉色にも、わたくしの俳想は養はれてゆきました。かの筍頭会といふ特殊の句会を催すやうになりましたのも、この家でのことでありました。》と、うっとりするような回想がある。

*21:明治末期から大正初期までに刊行されていた俳誌に『藻の花』がある。楠本憲吉・久保田万太郎「連載 対談俳句史 第6回 来し方万太郎俳句」(『俳句』第9巻第1号・昭和35年1月1日)の楠本による註釈に、《明治三十九年八月刊。山本薫湫、栗原士桜、金森匏瓜、疋田朱泉を第一期同人とす。ホトトギス系なるも第一期は鳴雪の示教のもとにあり、大正四年以降、三宅孤軒、上川井梨葉、大場白水郎、鈴木燕郎を主たる同人として発足、「藻の花」派として俳檀に独歩す。》とあり、大場白水郎は『藻の花』について「市井俳人の集まりですね。町中の若い者のね」と語った上で、大正4年7月に三宅孤軒主宰のもとで復活した第二次『藻の花』は翌5年3月に上川井梨葉主宰に移ったあと、大正6年7月に終刊、この第二次『藻の花』に中心になった者の集まりが「筍頭会」であったと証言している(楠本憲吉・大場白水郎「対談 対談俳句史 第4回 三田俳句会から俳諧雑誌まで」『俳句』第8巻第10号・昭和34年10月1日)。『藻の花』の終刊に際して、大正6年12月25日、籾山書店を版元に句集『藻花集』を久保田万太郎と大場白水郎の編集のもとに刊行された。万太郎はあとがきに《この集のなかの作者は、必ずその都会の(都会的な)生活気分から離れるといふことをしない。どんな題のなかにもその都会人としての、それぞれの生活をみいださうとしてゐる》と綴っているのがたいへん印象的。そんな「都会の(都会的な)生活気分」というのが、『俳諧雑誌』から『春泥』までにいたる俳風景の基調となっているということに気づく。

*22:第二次『俳諧雑誌』大正15年7月号の消息欄に、《福島甲羽氏転居。銀座の末吉廃業、相洲鵠沼海岸七番地へ卜居の由。また近く東京に新居を営むべく建築家と共に設計起案中。》とある。この日、一団の俳士が集まったのは「銀座の末吉」か? ちなみに、大正15年1月の市村座興行は4日初日、28日千秋楽、『菅原伝授手習鑑』の「道明寺」「寺子屋」、『身替座禅』、『入れ札』、『道中膝栗毛』という狂言立てであり、福島甲羽こと尾上伊三郎は、菊池寛『入れ札』の才助を勤めている(小宮麒一編『配役総覧 第7版』(2011年10月23日)を参照)。菊吉合同興行の『四千両』からちょうど1年後の市村座では仁左衛門が客演していて、このときの仁左衛門の松王丸の「奔放な」型を当時満十歳の戸板康二がのちのちまで記憶にとどめていたとしている興行(『思い出の劇場』青蛙房・昭和56年11月20日)。

*23:戸板康二著『久保田万太郎』(文藝春秋・昭和42年11月→文春文庫・昭和58年8月25日)の「その社会」に、《「春燈」は、昭和四十一年一月号から、NTV にいる小林徳二郎の「久保田先生と……」という回想記を三回連載した。/小林は、玄文社の「新演芸」の記者であったが、同じ社の顧問だった服部愿夫が初代の放送局長になったので、誘われて局に入った人である。だからこの回想記は、放送局と万太郎との関係を知るのに、いい資料である。/それによると、大正十四年の夏服部が作ったラジオドラマ研究会に万太郎は委員として参加し、それが放送局とのそもそものつながりになったことがわかる。委員には、ほかに小山内薫、久米正雄、長田秀雄、長田幹彦、吉井勇がいて、この会の第一回推薦脚本として、その年の八月三十日夜、万太郎の「暮れがた」を放送した。本放送は七月十二日からで、その日五代目中村歌右衛門の「桐一葉」、同月十九日井上正夫、水谷八重子の「大尉の娘」、八月十三日築地小劇場俳優の「炭坑の中」の三つが、「暮れがた」に先立って放送された舞台劇であった。/その次の年(大正十五年)九月に、東京放送局は組織を変えて社団法人日本放送協会の東京放送局(JOAK)となり、放送部長は服部が辞任、時事新報の事業部長だった矢部謙次郎が後任になった。》(引用は文庫版より)。

20140904

夏休み遊覧日記:名古屋市博物館で吉田初三郎展。1930年代名古屋に思いを馳せて、松坂屋へ。

2014年8月10日日曜日。午前8時東京駅発の新幹線は台風の影響をかろうじて免れて、定刻どおり9時40分に名古屋駅に到着。人生初の名古屋来訪! の感慨にふける間もなく、イソイソと地下鉄に乗り込んで桜山駅で下車、出口から博物館までの徒歩5分の暴風雨を切り抜けて、なんとか無事に名古屋市博物館に到着、特別展《NIPPON パノラマ大紀行 吉田初三郎の描いた大正・昭和》を見物して、大満喫。五十年以上にわたって吉田初三郎の鳥瞰図の収集と研究に打ち込んでいた愛知県一宮市出身の小川文太郎氏(明治31年〜昭和60年)のコレクション、その質量ともに極上のコレクションが一堂に会し、関連資料とともに編集・配列されている。全国津々浦々の吉田初三郎による鳥瞰図が一堂に会することで、大正から戦前昭和にかけての「観光」が定着していった時代、交通網の整備や遊園地やホテルなどの建設、博覧会の開催、当地の産業、軍事施設、それらにともなう広告・宣伝のありようといったものが体現する「近代日本」が会場全体に通底していて、芋づる式にどこまでも興趣が尽きない感じでとにかくも大興奮、とても素晴らしい展覧会だった。


f:id:foujita:20140903195752j:image

図録『特別展 NIPPON パノラマ大紀行〜吉田初三郎の描いた大正・昭和〜』(名古屋市博物館、2014年7月15日発行。会期:2014年7月26日〜9月15日)。出品物の図版がすべてオールカラーでギッシリ掲載されている上に、解説や論考等の文章もギッシリ。図録の編集・執筆および展覧会の企画は名古屋市博物館学芸員の井上善博氏によるものとのことで、素晴らしい労作。さらに、図録(1200円)のデータをPDF化した電子版図録の CD (800円)が合わせて発売されており、こちらは細部を拡大して楽しむことができて、感動。図録の表紙の鳥瞰図は、《木曽川と大同電力鳥瞰図》(大同電力発行、昭和12年12月20日)。大同電力に深く関係していたのが、あの福澤桃介!

《大正13年以降、初三郎が鳥瞰図制作の拠点としたのは、木曽川沿いにあった名古屋鉄道所有の建物「蘇江倶楽部」であった》(図録、p.30)。吉田初三郎は関東大震災を機に、名鉄の支援を受けて犬山を第二の拠点とする。大正10年に銀座に「大正名所図絵社」を設立していた初三郎は、犬山で会社を再興し、今度は「観光社」と名づけたのだった。「名所図絵」から「観光」へ。その後、全国各地の鉄道網の形成、市制の施行、観光事業の活発化に連動するようにして、ますます多くの鳥瞰図が制作され、初三郎は全盛時代を謳歌する。震災を経ての犬山での日々は、初三郎の仕事という点においても日本の鉄道や観光のありようという点でもひとつの転換点としてとらえることができるかも。小川文太郎氏は愛知県一宮市出身で電話局勤務、昭和3年に養老公園へ行楽に出かけた際に土産物店で養老公園名所図絵を入手したのを機に初三郎に魅せられて、翌年に犬山に初三郎を訪ねたとのこと。つまり、小川氏の収集と研究は初三郎の全盛時代と連動するようにして始まったのであった。その生涯をかけたコレクションは今も大切に保存されていて、こうして名古屋の地で素晴らしい展覧会が実現しているということに、ひたすら感動。


この展覧会は名古屋の地で見ることでさらに格別の時間になった。わたしにとってこれまで未知だった名古屋と名古屋からはじまる行楽への招待にもなって、いろいろと将来への遊覧への思いがかきたてられた。とにもかくにも名鉄に乗りたい! と、同時に、これからまさに出かけようとしている伊勢参宮をはじめとする三重県のいくつかの鳥瞰図が臨場感たっぷりで、たいへんワクワク。遊覧の前奏としてもとても嬉しい時間だった。

《地方自治体関係では、まず愛知県庁が昭和2年(1927)11月、県下で開催される陸軍の特別大演習にあわせて県域の鳥瞰図を制作しているが、これは全国の県域鳥瞰図制作の嚆矢となった。(図録、p.34)》。名古屋市の鳥瞰図は昭和8年と11年と12年のものがあり、その背景には、昭和8年10月竣工の新庁舎、昭和12年3月から5月にかけて開催の「名古屋汎太平洋平和博覧会」、その博覧会に合わせて建設の名古屋駅の新駅舎、市電や市バスの交通網の整備……といった、典型的モダン都市の諸相があった。


f:id:foujita:20140903195753j:image

とりわけ、解説に《終戦末期に名古屋が空襲で大きく被災する前のもっとも繁栄した時期を鳥瞰図として記録したものである》とある昭和11年発行の鳥瞰図にジーンとなって、あちこち凝視。「日文件 所蔵地図データベース(http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/)」に画像データ(http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2024.html)があって、嬉し。昭和12年2月1日に開業する工事中の名古屋駅、造成中の東山公園、名古屋城の近くに放送局、市役所、県庁。松坂屋をはじめとするデパート、ビルディングが集中する栄地区の繁華街。そして、初三郎独特の遠近法をもって描かれる、四日市、津、伊勢神宮を通る大軌・参宮電車。


f:id:foujita:20140903195754j:image

上の鳥瞰図とほぼ同時期の名古屋の繁華街の写真として、《名古屋広小路通り》の夜景写真、『輝く日本 輝くネオン』(整電社製作所、昭和12年4月5日)より、明治製菓名古屋売店のネオンの写る1枚。他のページには、カフェーコロンビヤ、森永キャンデーストア、大日本ビール直営ビアホール。銀座でもおなじみの店舗がひしめいていた広小路通り。


f:id:foujita:20140903222541j:image

明治製菓の名古屋売店は昭和4年12月27日開設、昭和20年3月19日に戦災により全焼(『三十五年史 明治商事株式会社』明治商事株式会社三十五年史編纂委員会・昭和32年5月2日)。この写真は明治製菓広報誌『スヰート』第5巻第2号(昭和5年4月20日)に掲載の広小路の明治製菓名古屋売店(誌面レイアウトの都合で左下に欠落あり)。開店直後の明治製菓名古屋売店は、右上の塔が特徴的な低層の建物だった。その後の1930年代、どんどんネオンがひしめいていった広小路であった。


f:id:foujita:20140903195755j:image

『スヰート』第9巻2号(昭和9年7月5日)に掲載の、小川武『名古屋明菓売店の宵』。

 名古屋広小路、明菓売店のプロフヰール

 赤、緑、黄、ネオンの交錯、電車、自動車の雑音に時折交る『そうでなあも』の中京弁。白亜の建物に若山出征部隊慰問袋募集の大看板を掲げた男振り! 東京と少しも変らぬ近代感覚を盛つた吾等の明菓も中に入ればハンチング万能の広小路兄さんと下ぶくれな中京美人が楽しそうにオレンヂシャアベツトを囲んでいる。

 だが皆さん流石にスローモーション的です。にこやかな明菓嬢のサービスもいと優しく、尾張名古屋の城でもつ! 落ちつきを示してサービス致します。

 二階の集会室からもれてきた笑ひ声!

 卓上のチューリップもゆらゆらと首を振つて踊つてゐるやう――

(東海道ドライヴから)

小川武は時折『スヰート』に全国各地の明治製菓売店にちなむ漫画漫文を寄稿している。その著書『流線型アベツク らんでぶうのあんない』(丸ノ内出版社、昭和10年5月)は、『近代庶民生活誌 10 性と享楽』(三一書房、1988年7月)にも翻刻されている絶好のモダン東京文献で、小川武には前々からそこはかとなく愛着がある。


f:id:foujita:20140903195756j:image f:id:foujita:20140903195757j:image

f:id:foujita:20140903195758j:image f:id:foujita:20140903195759j:image

f:id:foujita:20140903195800j:image f:id:foujita:20140903195801j:image

名古屋の菓子店・喫茶店のマッチラヴェルを無造作に並べてみる。喫茶店、菓子店から見る1930年代名古屋。『森永製菓五十五年史』(森永製菓株式会社、昭和29年12月20日)によると、森永キャンデーストアは広小路には、明治製菓よりやや遅れて昭和6年8月1日に開業している。そして、昭和12年2月1日に新築移転した省線の名古屋駅構内には、明治製菓と森永製菓、両方の売店があった。森永が2月8日、明治は3月22日に開店している。


1930年代に新しく完成した名古屋駅というと、喜多村緑郎の日記がずっと印象に残っていた。昭和12年5月16日、京都南座の千秋楽のあと、喜多村は午後8時45分の新京阪で大阪へ行き、翌日9時半の列車で名古屋へ向かう。同月18日より、御園座で初日を迎える喜多村だった。その折の5月17日の日記にて以下のように綴っている(『新派名優 喜多村緑郎日記 第三巻』八木書店・2011年3月25日)。

駅つくと、今までの名古屋とは雲泥の差のあるホームが吾等を待つて居た。――大阪などよりホームは綺麗だつた。――だが、駅の前の広場が、前の普請場のもろもろが、残つて居る。――大分以前の駅より北へよつて居る。

と、ただこれだけの記述なのだけれども、新派のモダン老優の目を通した昭和12年の出来たてホヤホヤの絢爛たる名古屋駅のことがずっと印象に残っていて、吉田初三郎展で昭和11年制作の名古屋市鳥瞰図をガラスケース越しに見て、建設中の名古屋駅を目の当たりしたときまっさきに思い出したのは、この喜多村の日記だった。

昭和12年2月1日に開業した省線の新しい名古屋駅に喜多村が初めて降り立ったのは同年5月のことであり、3月15日から開催されていた「名古屋汎太平洋平和博覧会」が終わろうとしていた頃。興行場所へと頻繁に移動する役者の日記は、その移動のありよう、それぞれの町の雰囲気やレストランやホテル、汽車電車のちょっとした感想に触れることもできて、旅日記としても楽しみが尽きない。ちなみに、古川緑波が新しい名古屋駅に降り立ったのは喜多村の2か月後、『古川ロッパ昭和日記 戦前篇 新装版』(晶文社、2007年2月10日)の昭和12年7月11日、京都から名古屋に移動してきた日の日記に、《名古屋駅立派になった。》の一言を残している。


明治27年に日本橋檜物町に生まれ、明治45年三代目杵屋栄蔵の門に入り、大正10年28歳で立三味線となった杵屋栄二は、昭和12年以降は中村吉右衛門劇団の邦楽部長だった。と、長唄三味線方として本業でも立派な業績を残した杵屋栄二は、汽車電車の写真を写すことを趣味としていて、『杵屋栄二写真集 汽車電車』(プレス・アイゼンバーン、昭和52年10月10日)という極上の写真集が刊行されている。旅興行の合間に嬉々と撮影に出かけたのだと思うととっても微笑ましい。ちなみに、この本の出た翌月の昭和52年11月の歌舞伎座は『仮名手本忠臣蔵』の通しが上演されていて、杵屋栄二が四段目の城明渡しの送り三重を弾く姿を松竹より市販の DVD で見ることができる。『汽車電車』が刊行された頃の最晩年の杵屋栄二なのだなあと DVD を見るたびに、由良之助の八代目幸四郎そっちのけでいつもジーンとなるのであった。


f:id:foujita:20140903195802j:image

と、昭和9年から13年にかけて撮りためた全国の汽車電車の写真を収めた『杵屋栄二写真集 汽車電車』(プレス・アイゼンバーン、昭和52年10月10日)で昭和12年1月末日をもって役割を終えた名古屋旧駅の素晴らしい写真が収録されている。この写真は、《改札口越しに見る関西線の C55 形/名古屋駅》。杵屋栄二の写真は「汽車電車」のみならず周囲の人や町の写り具合がいつも素晴らしいのだった。

現在の名古屋駅の開業は昭和12年2月1日で、それ以前の旧駅は今の名古屋駅よりも、約200メートルほど東南寄りにあった。駅の本屋と本線との関係は、京都駅とよく似ている。大都市の駅が街の発展につれて鉄道が高架化するため、改札口からホームが見える駅は少なくなった。言うまでもないが、この頃は省線(国鉄)はまだ蒸気機関車全盛で、C53 は第一線の主役として君臨し、さらに新しい蒸気機関車が望まれているような時代であった。

という解説に、なるほどと思う。改札口越しに見える機関車のなんと美しいことだろう。余情たっぷりのとても素晴らしい写真。


f:id:foujita:20140903195803j:image

こちらは、《明治橋から見た名古屋駅構内》としての掲載の写真の左部分。建築中の新名古屋駅の鉄骨が蜃気楼のよう。

名古屋駅の構内に架けられた明治橋は、街の交通路であったが、鉄道ファンにとって格好の撮影場所であった。さすがに幹線東海道と関西線の分岐駅だけに、列車や出入する機関車の往来は激しい。C51 の停まっているのは関西線ホーム。手前に伸びているのが東海道線下りホームで、C50 形の牽く列車が到着した。本屋側のホームが東海道線の上り、左遠くに建築中の新名古屋駅が見える。

と、綴じ部にかかっているのでここではカットした右部分に駅舎と東海道線の上りホームが写っている。ほかのページには、取り壊された後の旧名古屋駅の写真、その跡地に市電が敷設されていく姿を記録した写真も収録されていて、旧名古屋駅の在りし日の姿と消えゆく姿を記録した杵屋栄二だった。



名古屋市博物館を後にして、暴風雨のなかをひとっ走りして、地下鉄の駅に戻ったときはちょうど時分どき。名古屋というと、戸板康二著『旅の衣は』(毎日新聞社、昭和59年7月20日)の「名古屋」の項にある、《味噌で煮たうどんを食べるのもたのしい。》という一節がずっと心に残っていた。そうだ、味噌で煮たうどんを食べにいこうと思った。が、人生初の名古屋、まったくの土地不案内であるので、とりあえず松坂屋へ行ってみようと、地下鉄を2回乗り換えて、松坂屋の最寄駅の矢場町駅に到着。駅から直通なので、暴風雨でも大丈夫、9階の「山本屋総本家」で煮込みうどんを食べて、本日の昼食とする。そう、名古屋といえば、松坂屋! と、松坂屋に来ただけでとても嬉しい。


f:id:foujita:20140903195804j:image

《南大津通ぶ移転した名古屋店》、『松坂屋百年史』(株式会社松坂屋、2010年2月発行)より。名古屋の松坂屋がそれまでの栄町から300メートル南の中区南大津町2丁目すなわち現在地に移転、鈴木禎次の設計により新築開業したのは大正14年5月1日、このとき「いとう呉服店」から「松坂屋」へと商号変更した。

……震災の整理が一段落し、銀座店の準備が軌道に乗り始めた1924年3月に竹中工務店の手により着工し、翌1925年4月に竣工した。総面積約2万平方メートル、耐震・耐火鉄筋コンクリート建て、地下2階、地上6階の建物は、名古屋城と比肩する高層建築物であった。

銀座復興の先陣をきって、松坂屋銀座店が開店したのは大正13年12月1日のこと。国光生命保険のビルのテナントとして開店した銀座6丁目の松坂屋は、名古屋店開店と同日の大正14年5月1日に屋上に動物園を開設している。萩原朔太郎の詩「虎」(『氷島』所収)に詠まれた動物園。その銀座松坂屋が去年休業したときは、戦前の銀座松坂屋の歴史に愛着のあった身としては、ちょっとばかし寂しい気持ちになったものだった。


『松坂屋百年史』によると、昭和初期の名古屋は他の都市に比べて不況の影響が少なかったため、近隣から人びとが移住、昭和3年には人口が3年前よりも10万人増の約87万人となった、その急激な人口増加を背景に、松坂屋も店舗の拡張をはかり、同年9月15日に本館北側に2階建ての北館を増築した。その少し前の昭和3年5月には、月刊宣伝広報誌として『マツサカヤ』が創刊されている。『松坂屋百年史』に《各季節の商品紹介、催物案内の他に、名古屋市内における映画やイベント等のガイドブックとしての役割も果たした。》とあるように、『マツサカヤ』は百貨店の広告でありながらも名古屋の町そのものが体感できるグラフ誌にもなっている。


f:id:foujita:20140903195805j:image

その『マツサカヤ』昭和7年8月号には、《まつさかやとごふじんの一生》と銘打ったグラビア記事。赤ちゃん用品、玩具・絵本売場にはじまり、6コマ目の「サンチマンタアル」と名付けられたグラビアでは、

此齢頃のお嬢さんは断然センチです。高畠華宵描くところのレターペーパーの表紙に随喜の涙をこぼし、若草と令女会は兎に角お読みになり手提鞄の中には米澤順子ものする詩集がテキストと同棲遊ばす……アッ! 只今ふかきため息もて次の詩集を手にとられました……おゝサンチマンタール。

とかなんとかいう解説がハート型にくりぬかれた写真の脇に添えられている(図書雑誌は5階)。


f:id:foujita:20140903195806j:image

サンチマンタアルな女学校時代を終えて、9コマ目の「女学校は出たけれど……」では、アフタヌーンドレスをお召しになったご令嬢が仲良く二人連れでレコードの新譜をご用命(楽器売り場も図書と同じ5階)。


f:id:foujita:20140903195807j:image

令嬢のモデルは「コロムビアの香代子嬢」。日ごとにお美しくなられるお嬢さまは、11コマ目ではお友だちと休憩室で待ち合わせ。休憩室は1階、2階、5階。松坂屋の休憩室といえば、野口冨士男が昭和5年5月末に慶應義塾文科予科から文化学院文学部に中途転校する際に、文化学院で教鞭をとっていた石浜金作宛に提出する作文を書き上げた場所として、ずっと印象に残っていた。

……その足で銀座へ出ると、その時分の百貨店にはどこでもそういうコーナーがあって女店員が煎茶をサービスしてくれていたものだが、松坂屋の休憩室で机の前に腰をかけて備えつけの便箋に三枚ほどの走り書きをして、松坂屋の筋むかいにあった三等郵便局から速達を送ると、折返し入学許可の速達がきた。

といういふうに、野口冨士男は当時のことを、『いま道のべに』(講談社、昭和56年11月20日)所収「吹き溜り――神田」で回想している。名古屋の休憩室も銀座と同じような施設だったことがこの写真からも如実に伺える。さて、《まつさかやとごふじんの一生》ではその後、お見合い、結婚を経て、人生は続き、お買い物も続き、最後の24コマ目では老齢のご婦人が4階美術部にて美術品を物色しているのであった。百貨店の女の一生。



大正14年1月、現在地に松坂屋が新築開業したときは約76万8000人だった名古屋の人口は、昭和9年には100万人を超えた。『松坂屋百年史』の記述は以下のように続く。

 名古屋店は、都市の発展につれて小規模な増築を重ねてきたが、いよいよ木造2階建ての北館を取り壊して大拡張工事を行うことになった。

 1935年8月24日から、本館の売場改装と並行して工事を進め、翌1936年9月19日には7階ホールが完成した。その後7階には婚礼儀場、美容室など諸施設が揃い、これらを「松坂屋倶楽部」と総称した。

 1936年12月1日には、各店街の先駆けとなった「東西名物街」を地下1階に設けた。京都・とらや黒川店(和菓子、羊羹)、大阪・松前屋(昆布)、東京・有明屋(佃煮)、東京・コロンバン(洋菓子)から成る名物街は、業界でも評判だった、

 1937年3月1日、総面積3万3000平方メートルの増改築が完成し、売場のみならず店内の諸施設も飛躍的に充実した。開店にあたり「全館完成記念福引大売出し」を開催するとともに、3月15日からは「名古屋汎太平洋平和博覧会」(主催名古屋市)協賛の「新日本文化博覧会」(〜5月31日)を繰り広げた。

 この博覧会を機に名古屋市は新興都市として大きく発展したが、名古屋店も増築によってその地位を更に強固なものとした。

名古屋市にとって、昭和12年という年は、2月の省線の名古屋駅新築移転を皮切りに次々と都市整備が整い、3月から5月にかけて博覧会が開催、10月には従来の中・東・西・南に加えて、千種・中村・昭和・熱田・中川・港の6区が加わり10区制となり、都市として大いに発展した年であった。松坂屋の増築は、名古屋の都市の発展とパラレルであったということがイキイキと実感される。百貨店は都市を映す鏡でもある。


f:id:foujita:20140903195808j:image

と、これはその「大拡張工事」を記念して編まれたグラビア小冊子、『新館明粧』(名古屋松坂屋、昭和11年9月19日発行)。名古屋の写真家により撮影された新興写真ふうのスタイリッシュな写真がアート紙に美しく印刷、レイアウトされて綴じられた全32ページの小冊子。1930年代名古屋のモダンな雰囲気がいい匂いのようにしてただよってくる。


f:id:foujita:20140903195809j:image

1ページ目には、新館の外観。成田光彌撮影。従来は6階建てだった建物に7階部分が増築されていることがわかる。北館はまだ工事中の鉄骨(増改築の完成は翌12年3月1日)。建物の左端にあしらってあるガラスの張り出し窓が特徴的。『新館明粧』の表紙の図案がこの張り出し窓にちなんでいるということに気づいて、あらためてシゲシゲと表紙を眺めて、うっとり。


f:id:foujita:20140903195810j:image

張り出し窓とともに、『新館明粧』の表紙のモティーフになっているのは、建物の2階と3階の境い目に配置されている街灯。紅村清彦撮影。夜になると、美しく名古屋の鋪道を照らす。


f:id:foujita:20140903195811j:image

入口ウィンドウより街路をのぞむ。子ども服のウィンドウと街路の女学生たちとが調和する心憎いまでに洒落た写真。撮影者の三國庄次郎は三國一朗のお父さん。濱田研吾著『三國一朗の世界』(清流出版、2008年5月5日)によると、三國庄次郎は明治28年、その名のとおり福井県三国に船員の子として生まれ、写真家を志して16歳で名古屋市内の中村写真館に入門、写真修行に励みメキメキと腕をあげて、大正9年に独立し、名古屋市中区広小路に「みくに写真館」を開業、翌10年1月、一朗が生まれる。


f:id:foujita:20140903195812j:image

上の写真の階段を下ると、松坂屋自慢の食堂街。『新館明粧』にも多くの写真が収録されていて、写真とともに清水崑による挿絵が添えられている。《地下食堂街への階段は超満員・さすがに『食欲の秋』を思わせます。》とある。この小冊子、新興写真ふうのスタイリッシュな写真とともに、杉浦幸雄、吉田貫三郎、小関まさき、近藤日出造、益子しげを、矢崎茂四、中村篤九、片岡敏夫の一コマ漫画がとっても楽しい。


f:id:foujita:20140903195813j:image

引き続き三國庄次郎撮影による、一階東大階段。伊東胡蝶園主催の懸賞写真の当選作を収める『御園のおもかげ』(大正12年3月刊)で、三國庄次郎撮影の写真を見つけたときは「おっ」だった。名古屋市博物館の吉田初三郎展に展示されていた観光社の広報誌にも三國撮影の写真が大きく掲載されていて、あらためて三國庄次郎の名を心に刻んだ。存分に才能を発揮して大活躍していたモダン名古屋の写真家として。


f:id:foujita:20140903195814j:image

f:id:foujita:20140903195815j:image

中二階には「銀サロン」という名の喫茶室がある。撮影は上が永田二龍、下が三國庄次郎。照明とガラス窓が印象的なモダンな内装。映画のショットのような写真にうっとり。「銀サロン」というと、久保田万太郎門下の大江良太郎が編集に携わっていた銀座松坂屋の宣伝誌『新装』昭和10年10月号に、《銀サロン 新装成る上野松坂屋中二階の瀟洒な喫茶室 松竹キネマの久原良子さん・小櫻葉子さん・高杉早苗さん》のグラビアが掲載されていた。上野店に喫茶室「銀サロン」が新設されたのは昭和10年9月19日(『松坂屋百年史』)。翌年に竣工の名古屋松坂屋の新館でも東京上野広小路と同様に、中二階に「銀サロン」という名の喫茶室があった。そして、「銀サロン」という名称は実は今も上野店の本館5階に洋食レストランの名称として健在。


f:id:foujita:20140903195816j:image

六階から下った階段の踊り場で窓の外をのぞきこむ少年。紅村清彦撮影。


f:id:foujita:20140903195817j:image

1階エレベーター前。武井不撓撮影。近藤日出造の漫画に《松坂屋へスーツと入つたトタン、スーツと音もなく上下するスマートなエレベーターが皆様の胸をスーツとさせます。》と書かれている。スーっとするエレベーターとともに、エレベーターガールも松坂屋の自慢だった。『松坂屋百年史』によると、エレベーターガールの始まりは松坂屋が最初で、それは昭和4年4月1日に新店舗が開業した上野店でのこと。《「昇降機ガール」が日本にも出来た 上野松坂屋の新刊で初試み 婦人職業の新進出》という見出しの、同年4月8日付け「讀賣新聞」の紙面が紹介されている。


f:id:foujita:20140903195818j:image

一階エレベーター前の照明。紅村清彦撮影。《近代フランス様式を取入れ壁面と天井に応用せる豪華な電燈装備・ホワイトブロンズ金具に腐蝕模様入硝子の大シヤンデリヤ・壁面は入江谷大理石張り》というふうに説明がある。



昭和12年3月1日、松坂屋は同月15日より開催の「名古屋汎太平洋平和博覧会」に合わせて、全館の増改築を完成させる。これにさきかげて、昭和11年9月19日、本館の売場改装を記念して発行された『新館明粧』には典型的なモダン都市の気分がただよっていて、うっとりするばかりなのだったけれども、名古屋が都市として飛躍した昭和12年という年は、日中戦争が勃発した年であり、また「名古屋汎太平洋平和博覧会」もそんな時局を反映した一大イヴェントであった。近代の名古屋は軍事産業の中心地でもあったのだった。よって、アメリカ軍の空襲のもっとも重要な爆撃目標となり、敗戦時には市域の約40%を焼失した(図録『名古屋400年のあゆみ』名古屋市博物館・2010年1月8日)。


f:id:foujita:20140903195819j:image

『松坂屋百年史』より、《炎上する名古屋店》。昭和20年3月19日の夜半の大空襲により、名古屋店は、地下2階を除き全館および木造付属建築焼失する。明治製菓名古屋売店が焼失したのも3月19日の大空襲であった。


f:id:foujita:20140903195820j:image

同じく『松坂屋百年史』より、《名古屋店(右下)周辺(1945年)》。右下の松坂屋をはじめ、いくつかの近代建築の外壁が焦土のなかで点在している。



今回は暴風雨で屋外の歩行は諦めざるを得なかったものの、「味噌で煮たうどん」を食べに松坂屋にゆき、1930年代名古屋にちょっとだけ思いを馳せることができただけでも、ずいぶん楽しかった。戸板康二は『旅の衣は』の「名古屋」の項で、《味噌で煮たうどんを食べるのもたのしい。》と書いていたのだったけれども、実際に食べてみると、この戸板さんのなにげない一節がしみじみいいなと思う。そう、「おいしい」というよりもむしろ「たのしい」のだった。また、戸板康二は、

帰りには納屋橋まんじゅうを買う。このまんじゅうの皮の酒のにおいが好きだ。子供のころ、名古屋の親類がよく送って来て、親の会話を聞きかじり、ぼくはこれを「悩ましまんじゅう」だと思っていた。

とも書いている。戸板さんの好物の「納屋橋まんじゅう」に思いを馳せて、ソワソワ。そして、販売元の「万松庵」さんのウェブサイト(http://www.7884.co.jp/index.html)にうっとり……。納屋橋(http://www.7884.co.jp/history/index.html)を渡りたい! と、今度は好天の名古屋にて町歩きとモダン都市探索(のようなもの)をたのしみたいなと、百貨店の窓から暴風雨の名古屋の町をしばし見下ろしながらふつふつと思ったところで、イソイソと名古屋駅へと戻る。台風の日の博物館と百貨店、人生初の名古屋は大満喫だった。

20140331

冬休み大阪遊覧ダイジェスト(後篇)四ツ橋文楽座の跡地からそごうの跡地へ歩き、溝口健二の『浪華悲歌』をおもう。

ひとまず四ツ橋の記念碑を凝視したところで、高速道路の高架下を東へと戻り、鬼貫と小西来山の句碑が並んでいるさまを無事に見届けたところで、いざ四ツ橋文楽座の跡地へ行かんと、イソイソと道路をわたって、佐野屋橋で右折すると、そこは、がらんとした駐車場。本当にここなのかなとまったく実感がわかず、ぽかんと立ちつくすのだったが、ここは紛れもなく四ツ橋文楽座のあった場所であるはずなのだった(ぽかんとするあまりに写真を撮り損ねてしまった)。


f:id:foujita:20140331213431j:image

まずは、『大阪市パノラマ地図』(大正13年1月5日発行)の世界へ。長堀川の心斎橋と四ツ橋(のひとつの炭屋橋)の間に架かる佐野屋橋南詰の南西角に注目。大阪町名研究会編『大阪の町名』(清文堂出版、昭和52年9月1日)の「鰻谷西之町」の項に、

佐野屋橋南詰の南西角、現在の鰻谷西之町十二番地に文楽座があった。この場所は、永く文楽座に対抗してきた非文楽系―彦六座―稲荷座―明楽座―堀江座―の残党によって明治四十五年一月建てられた近松座が、大隅太夫の死、伊達太夫の文楽入り、経営の失敗等で大正三年に閉場したあとである。文楽座は明治十七年松島から御霊神社内に転じ、明治四十二年以来松竹合名会社の経営するところとなったが、大正十五年十一月焼失したため、当時四つ橋ホテルとして営業していた近松座跡に改築移転した。昭和四年十二月の竣工であった。

と記されているように、昭和5年1月に新開場した四ツ橋文楽座は、明治45年1月に開場した近松座の跡地に建てられた劇場なのであった。大正15年11月29日に御霊神社の文楽座が焼失し、翌年の昭和2年1月より文楽は道頓堀弁天座で仮宅興行を開始、鴻池幸武編『吉田栄三自伝』(相模書房、昭和13年11月20日)によると、弁天座の興行も最初は大入りでもそう長くは続かず、文楽の人びとは巡業にやられがちであった。そんななか、旧近松座の建物を文楽に改築するため松竹が買収したという話を、栄三は吉野頭取から聞いた。《その頃は、ビルヂングになつて居て、中の人に出て貰ふのに大分隙が掛かつたやうでした。》と栄三は語る*1。この『大阪市パノラマ地図』の佐野屋橋南詰の南西角に描かれている白亜の建物がまさしく、四ツ橋文楽座が建つ前にこの場所にあった近松座の建物を改築したビルディングであると思われる。


f:id:foujita:20140331213432j:image

f:id:foujita:20140331213433j:image

近松座(位置:大阪市南区鰻谷西ノ町12、設計:設楽建築事務所、施工:田中仙吉、起工:明治44年7月、竣工:明治44年12月、階数:2階1部地階付、構造:煉瓦造)、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日発行)=橋爪紳也監修『復刻版 近代建築画譜〈近畿編〉』(不二出版、2007年6月25日)に掲載の写真。

まずは、近松座のとってもハイカラな外観にびっくり! 倉田喜弘著『文楽の歴史』(岩波現代文庫、2013年6月14日)の第6章「輝ける明治」、「(四)近松座の夢」(p173-178)によると、近松座の発起人は浄瑠璃を愛する関西の財界人たちで、劇場は東京の有楽座を模した構造、外部は洋風、内部は白木の御殿造りだったという*2。明治45年1月開場の近松座は大阪の財界の義太夫愛好家の紳士たちを発起人とする劇場であった*3。上の写真の2階バルコニーに並んでいるのがその紳士たちかな。開場直後の『演芸画報』第6年第2号(明治45年2月1日)の「芸信」欄に、

昨夏建築中なりし近松座は愈竣工、一月十三日から大隅一座の人形浄瑠璃で開演、人形浄瑠璃といへば朝の八時から開ける旧慣を破つて、午後一時からとしたのも改良の一つでしやう、併しルネツサンス式の建物の中で、あの古い人形を踊らせる対照は、いさゝか異様に感ぜられないでもありません

とあるから、やっぱり当時もそのハイカラぶりは特筆に値したようだ。が、早くも大正3年11月には休場してしまったのだから、近松座の末路はあまりにもあっけなかった。植村家が文楽座の興行権を松竹に譲渡したのが明治42年3月(翌4月が松竹合名会社第1回興行で二代目古靭太夫襲名披露)、大正3年11月に近松座がなくなったことで、非文楽系の最後の本拠が消滅した。大ざっぱにまとめると、人形浄瑠璃=文楽=松竹となっていたのが近代の文楽の歩みであった。


f:id:foujita:20140331213435j:image

文楽座(建主:松竹土地建物興業株式会社、位置:大阪市南区鰻谷西ノ町12、設計・施工:大阪橋本組、起工:昭和4年4月、竣工:昭和4年12月、様式:内部装飾室町式、構造:鉄筋コンクリート1部煉瓦造)、『近代建築画譜』に掲載の写真。

かわいそうな大隅太夫! とかなんとか近松座に思いを馳せたあとで、あらためて四ツ橋文楽座の建物の写真を見てみると、これまでのような単に「モダーン!」というのとはまた違ったしみじみとした感慨が湧いてくるのであった。石割松太郎著『人形芝居雑話』(春陽堂、昭和5年10月8日)には、上掲の『近代建築画譜』の近松座と同じ写真が掲載されていて、《今度文楽座と対抗して嘗て没落した四ツ橋々畔の近松座が、その外廓を残して四橋ビルヂングになつてゐたのを、松竹で買収して、こゝに文楽座を再興するといふことです。》というふうに語られている。そして、木谷蓬吟『文楽史』(全国書房、昭和18年2月20日)の末尾に、《今の文楽座の場所が會ての近松座の本城であり、そして稲荷座一黨将兵の討死の跡と想ふと、著者自身に最も因縁が深かつただけに……夏草やつはものどもが夢のあと……の感傷めいた気持にさへなるのである。》とあるように、近松座の跡地に松竹の手で文楽座が新築されることとなったという因縁にしみじみとなる。現在の四ツ橋文楽座跡地、今は駐車場になっている殺風景な光景を目の当たりにすると、ますます「夏草や兵共がゆめの跡」という感じなのだった*4


f:id:foujita:20140331213436j:image

《初開場文楽座の外景》、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館『図録 第2集』(昭和53年10月27日)より。昭和5年1月のこけら落とし公演を前に、昭和4年12月26日に開場式が挙行された。そして、この開場式の模様がラジオ中継されているというのが、いかにも昭和モダンの時代を象徴している感じなのだった。

文楽座の中継実現 けふが開場式

大阪文楽座は四ツ橋々畔に改築中の処愈々新装成つて二十六日開場式が挙行さるゝ事となつたのでBKでは過般の南座顔見世中継に好成績を収めたので再び此文楽座中継を計画し、古典芸術をあまねく全国に紹介の意味をもつて開場式当日の余興である人形浄瑠璃「寿式三番叟」の中継をやる事になり多年秘境とされてゐた文楽座にマイクロフオンの進出が実現する事になつた、中継放送時間の都合上一番最後の出番である古靭太夫、道八、歌助等十数名の大掛合義太夫に確定したが、試験の結果は至極良好だつたさうです。

と、当日の『都新聞』の「ラヂオ」欄に紹介がある。午後7時20分開始の『趣味講座』で上山草人の談話「ハリウツドの映画生活」、その次に講談、清元の放送があり、文楽座の中継はそのあと。《多年秘境とされてゐた》とあるから、文楽の生放送は本邦初だったのかな。そして、記事にあるとおり、四ツ橋文楽座の竣工した昭和4年12月は、京都の南座が新築成って華々しく顔見世興行を挙行していた月でもあり、文楽座と同様に南座も椅子席と相成った。さらに、奇しくも文楽座の開場式が挙行された昭和4年12月26日という日は、帝国劇場の経営が松竹の手に渡った日でもあった、つまり、全歌舞伎俳優が松竹傘下となった日であった*5。そして、松竹自前の東京劇場が開場するのは翌昭和5年3月29日のこと。四ツ橋文楽座の落成は、松竹がいわば天下をとった年月のまっただなかのことだったという事実が、明治末から昭和初期の演劇史の流れとともに深く胸にしみいるのであった。松竹に敗れ去った者たちの系譜のようなものをなんとはなしに思い、山口昌男の「敗者の精神史」的なことを思ったりもする。



今回、四ツ橋文楽座の跡地に立ち寄ってみようと思い立ったのは、演博の山城少掾展に深い感銘を受けた直後の冬休みだったからなのだけれども、明治から戦前昭和にかけての文楽の歴史にも思いを馳せることにもなって、思っていた以上に格別のひとときだった。今は何もなくても、やっぱり実際に行ってみるものだと思った。昭和5年1月に新築開場したモダーンな四ツ橋の文楽座は、山城少掾や栄三の時代を象徴する存在であるとともに、モダン大阪の都市生活のトピックのひとつとして前々からとっても愛着があった。


f:id:foujita:20140331213437j:image

《豊竹山城少掾》展チラシ、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館(http://web.waseda.jp/enpaku/)にて2013年9月21日から12月21日(11月24日から期間延長)まで開催。見台に向かう山城少掾(昭和22年3月27日、秩父宮邸にて「道明寺」を語る山城少掾。河竹繁俊旧蔵)の写真の上下に、四ツ橋文楽座のプログラムの表紙をちりばめたデザイン。展覧会場では山城旧蔵で現在は演博所蔵のプログラムがガラスケースのなかにズラリと並んでいて壮観だった。なかには山田伸吉による松竹座のプログラムと見紛うかのような斬新なデザインのものもあって、モダン大阪における四ツ橋文楽座というものをイキイキと実感した気がして、たいへん胸躍るものがあった。


f:id:foujita:20140331213439j:image

《文楽座四月興行 人形浄瑠璃》、昭和5年4月の四ツ橋文楽座のブログラム。売店で10銭で販売されていた筋書で大きさはA5より一回り小さく、番附も綴じ込まれている。と、この表紙、一見したところモダン味は薄いように見えるけれども、ロゴに注目してみると、山田伸吉による松竹座のそれとよく似た雰囲気! 午後3時開演で、この月は『絵本太功記』の「本能寺」と「尼崎」、『義経千本桜』の「鮨屋」と「道行初音の旅路」、『艶姿女舞衣』の「酒屋」、『増補大江山』の「戻り橋」、午後10時45分終演*6


大正15年11月29日に御霊の文楽座が焼失し、翌昭和2年1月に道頓堀の弁天座で仮興行をした文楽であったが、演博の山城少掾展では、その弁天座の番付の展示に付された「御霊文楽座の焼失が繁華街に出て文楽が新たな観客層を獲得する契機となった」という内容の解説がとても印象的だった。昭和初期の弁天座での文楽興行といえば、『蓼喰ふ虫』に登場する文楽見物のくだり、小出楢重により描かれている挿絵がまさしくその弁天座であった。『蓼喰ふ虫』は「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」の夕刊に、昭和3年12月4日から翌4年6月19日まで全83回にわたり連載されている(「東京日日新聞」の紙面を実見すると、時々、5日から長いときは2週間の休載がある)。『蓼喰ふ虫』の作中、弁天座では『心中天網島』が上演されている。『義太夫年表』を参照すると『心中天網島』は昭和2年3月に上演されているから(1日初日、23日打上げ)、谷崎はこの興行を見ているのかな……と思っていたら、小谷野敦氏による「谷崎潤一郎 詳細年譜(http://homepage2.nifty.com/akoyano/tanizaki.html)」の昭和2年3月1日の項に、《谷崎夫婦、佐藤夫婦と芥川の五人で、弁天座の人形芝居「心中天網島」を観て、その夜は谷崎と芥川で大阪の旅館千福に行き、語り合って一泊。》とあって、感動。谷崎はこの興行の初日を見物していたのであった(さらにこの翌日、根津松子と初めて対面していることがわかって、興奮)。谷崎が作中に《今日の寒さは廊下よりも客席の方がひとしお》、《見わたしたところ、小屋は相当の広さであるのに四分通りしか入りがない》というふうに書いているのをそのまま受け取ると、1月に弁天座の興行が始まって、早くも3月に客席は閑散としてしまっている*7


f:id:foujita:20140331213440j:image

《辨天座》(位置;大阪市南区道頓堀、設計・施工:大阪橋本組、起工:昭和4年7月、竣工:昭和4年8月、構造:木造、備考:本工事は改装せしものなり)、『近代建築画譜』に掲載の写真。キング・ヴィダーの『薔薇はなぜ紅い』が上映されているので、この写真は昭和11年5月下旬から6月上旬くらいに撮影されたらしい(あとで詳述する溝口健二の『浪華悲歌』の封切と同時期の写真)。


道頓堀弁天座が松竹の直営となったのは大正5年5月で、大正12年8日改築されている(『松竹七十年史』昭和39年3月20日/『松竹百年史』1996年11月22日)。昭和2年1月に文楽の仮宅興行を開始後、弁天座での文楽興行は昭和4年5月をもって終わり、その後文楽は巡業を続け、昭和4年12月26日の四ツ橋文楽座の開場式を迎えることとなる。そして、弁天座の方は、同年夏に改築工事に入り、8月31日に新開場。『道頓堀』昭和4年9月号(第4年第36輯)に、《モダーン姿に変つた辧天座》の写真とともに、常務取締役福井福三郎名義で《欧米映画の封切を中心として、演劇、舞踊、音楽、レビュー等の素晴しき陣容のもとに、特に大衆的なる事を眼目として、料金の低廉を計り、あくまでも、みなさまがたの辧天座を標語下に営業政策を致して行く所存で御座ゐます。》というふうに、意気揚々と告知されている。

ちなみに、ちょうどこの夏、岡田時彦が日活から松竹に移籍していて(同年9月には及川道子が松竹入り)、松竹座チェーン実演の巡業のあと、同年10月に蒲田入りした(『松竹七十年史』)。『道頓堀』昭和4年8月号(第4年第35輯)に、岡田時彦が眉目秀麗の極致のポートレートとともに、「自己を語る」を寄稿している。《何しろ大阪の夏は始めてで、それが今年は選りに選つて数十年来の暑さだと云ふのだから、かてゝ加へて一方にはこれも臍の緒切つて始めてのレヴューの稽古場通ひといふ、放つて置いたつて当然冷汗ものに違ひない苦行を背負つてゐるのだから、僕の此の度の暑気あたりと来たら土台お話にならない。》という身体を押して、松竹座の稽古場(3階だが、地下に下りてから上り直すから実質4階という)に通っている岡田時彦であった。

宿に帰るともうグツタリとなつてしまつてまるで白痴の様に喘いでゐる。それに第一宿といふのが、地の利を説明すると大黒橋北詰、しかも僕の座敷は道頓堀の河ツ淵に開けてゐるので、日がな終日円タクの警笛や市電の軌音やモーター・ボートの往来や其の他一切の盛り場の雑音を吸収して遺憾ないために、体を憩めるどころが一層気鬱が重なるばかりである。

というくだりが、モダン時代のまっただなかの道頓堀の喧噪を彷彿とさせて、大好きだ。今度大黒橋附近を歩くときに思い出したいくだり。


……などと、大きく寄り道してしまったが、レヴューと映画の時代を象徴するような昭和初年代の松竹の経営のありようを、楽天地、朝日座、弁天座、角座、松竹座、中座、浪花座の小さな広告を眺めて実感することができるのも、四ツ橋文楽座の筋書きの見どころのひとつなのかもと、現時点で唯一手元にある上掲の昭和5年の筋書を眺めて思った。千日前楽天地の跡地に大阪歌舞伎座のこけら落とし興行がなされるのが昭和7年10月。その大阪歌舞伎座の広告も華々しく掲載されていたことだろう。四ツ橋の場所で、道頓堀や千日前に思いを馳せる、山城少掾や栄三、文五郎が活躍していた時代の文楽。


それから、演博の山城少掾展では、プログラムの表紙も多く手がけていた斎藤清二郎による木版多色刷の絵葉書が展示されていて、肥田晧三先生が四ツ橋文楽座の思い出として綴っていたのがこの絵葉書なのだなあと、うっとりだった。

私がはじめて文楽を見たのは昭和十三年の五月興行である。いま記憶を呼びさまして書いているが、「伽羅先代萩」の竹の間と御殿(駒太夫)、「新版歌祭文」の座摩社頭、油屋(古靱太夫)、野崎村の通しが、その時の演目であった。先代津太夫の「沼津」を見たのは、この時であったか、あるいはやや後のことであるが、当時私はまだ小学生であったが、たちまち人形芝居が好きになって、その後も、文楽座がつい近所のせいもあり、一人で見に出かけたことが何度もあった。夜の部のハネたあと、島之内の暗い町をわが家へ小走りに帰路を急いだ。冬夜は、その頃の小学生がみんな着ていた黒の外套、金ボタンが前で二列になっているダブル型の外套のポケットに両手を突っ込み、暗い町を駆けて帰ったことを思い起こす。宮尾しげをの『文楽人形図譜』を愛好して、少年ながらいっぱしの文楽通であった。文楽座の売店では斎藤清二郎画伯の筆になる木版多色刷の絵ハガキを売っており、それは文楽に夢中だった少年には何より魅力の品であった。一枚三十銭という飛びきりの高値で、大抵三枚一組の袋入りになっている。私らは一枚を買うのがやっとのこと、それも三度に一度、ようやく買えるくらいの高級品であった。

(肥田晧三「なにわの文化――文楽」(初出:「関西大学通信」105・昭和55年11月)、『上方風雅信――大阪の人と本』(人文書院、昭和61年10月30日)所収)

肥田少年の住まいは島之内の鍛冶屋町だった。吉田栄三の住まいは鰻谷東之町の鍛冶屋町筋で、肥田晧三先生は《夏の夕、床几で夕涼みする栄三の姿を私は少年時代に何度も見ている。》と書いておられる(「鍛冶屋町の思い出」)。その栄三は四ツ橋文楽座までテクテク出勤しており、

鰻谷のもとの高島屋の真裏にあつた間口の狭い、昔風に表二階の屋根の低い、いつもひッそりとしていたしもたやの、出格子に「百草根」というリュウマチの薬の黒に金文字の看板を掛け、柳本栄次郎と表札の出ていた栄三さんの家は、通りすがりの眼に久しい馴染だつたし、たまにはその附近の途上で、文楽座へ出勤するらしい、むッつりした表情の小柄な栄三さんが、羽織に角帯の着流しに、無帽で歩いているのに出逢うこともあつた。風采のあがらない、それに芸人らしいところの微塵もなかつた栄三さんは、堅気な、どこか佐野屋橋へんの中どこの古着屋の主とでもいつた風躰に見えた。……

と、こちらは、入江泰吉写・茶谷半次郎文『文楽』(創元社・昭和29年4月25日)所収の「栄三の憶い出」の書き出しの一節。戦前まで、佐野屋橋南は古着の問屋街で多くの人びとでに賑わう界隈だった。


……という次第で、肥田少年と吉田栄三に思いを馳せつつ、四ツ橋文楽座のあった場所から御堂筋に向かって東へと歩を進めてゆくのが、この冬休みのかねてよりの計画だった。


f:id:foujita:20140331213555j:image

f:id:foujita:20140331213556j:image

と、御堂筋に出た瞬間、今は大丸北館となっている旧そごう跡地、かつて村野藤吾設計のそごうがあった場所のまん前に出て、大興奮だった。四ツ橋文楽座とそごうがこんなにまで至近距離だったということを実際に足を運ぶまで迂闊にもよくわかっていなかった……ということがよくわかって、大興奮だった。


f:id:foujita:20140331213557j:image

入江泰吉写・茶谷半次郎文『文楽』(創元社・昭和29年4月25日)に掲載の、敗戦後の文楽座の写真。左端に写っている、村野藤吾設計のそごうの御堂筋沿いの外壁に注目。この場所に文楽座のあった時期(昭和5年1月開場、昭和21年2月に復興開場。その後、弁天座跡に本拠を移し、昭和31年1月に道頓堀文楽座開場)は高層の建物が少なかったから、文楽座の前からは、御堂筋にそびえ立つ村野藤吾のそごうの建物がすぐ近くに見えたことだろうと思う。



四ツ橋文楽座と村野藤吾設計のそごう、といえば、溝口健二監督の『浪華悲歌』(昭和11年5月28日封切・第一映画)でいずれもたっぷりとロケされており、その点でも長年たいへん思い入れがあった。溝口健二の『浪華悲歌』は、大阪町歩きに夢中になった当初からいつも思いを馳せる大好きな映画であり、ここ数年、大阪に行くたびに見返してはそのたびになにかしら発見がある。ここに登場する1930年代大阪の都市生活のトピックには長年愛着たっぷり。戎橋の雑踏、築港の景色、大阪パンシオンをモデルにしたアパートメント、四ツ橋文楽座、心斎橋筋のそごう、地下鉄……。という次第で、四ツ橋文楽座の跡地から村野藤吾のそごうの跡地に出た瞬間は、『浪華悲歌』の都市風景をイキイキと体感して、大感激だった。やっぱり、実際に歩いてみるものだなあとあらためて思った。

というわけで、この冬休み、『浪華悲歌』の都市風景をイキイキと体感した記念に、以下、『浪華悲歌』の文楽座とそごうのロケシーンをじっくり見なおしていくとしよう。


f:id:foujita:20140331213558j:image

『浪華悲歌』における、文楽座のシークエンスでは『野崎村』が上演中。人形遣いが栄三だったら貴重な記録映像になったところであったが、残念ながら映画撮影用に人形遣いは全員黒子姿。久松に肩を揉んでもらっている久作が「こたへるぞ、こたへるぞ」と言っているところから始まり、お光が久松を追ってきたお染の姿を見て悋気する場面へと続く。文楽の舞台と映画のストーリーをオーヴァーラップさせているという凝った脚本。

f:id:foujita:20140331213559j:image

次は、2階の下手から上手桟敷席をのぞんだ構図。天井のシャンデリアが素敵。


f:id:foujita:20140331213600j:image

昭和4年12月26日の文楽座開場式の配りもの『昭和四年十二月竣工 文楽座建築概要』より、文楽座の天井。《内部観覧席は郷土芸術の殿堂に応しく、古風に天井は格子に極彩色で室町時代の紋様模様を画き絢爛なもの、材料は統て特選の檜材を用ひ、壁勾欄窓、電燈、器具等に至るまで日本固有の高雅優美を旨として本邦古典芸術の王座として、大阪のもつ世界的誇りである偉容を見せ……》とある。


f:id:foujita:20140331213601j:image

f:id:foujita:20140331213602j:image

カメラは一階席の後方席を写したあと、上手側桟敷席で観劇する丸髷に結った山田五十鈴と志賀廼家弁慶を写す。道修町の製薬会社の主人(婿養子)・志賀廼家弁慶と彼の妾となっている山田五十鈴が文楽座に観劇に来ている。天井のシャンデリアのみならず、各所に配置されている電燈がとってもモダンなのが印象的。現在よりも、客席はだいぶ薄暗い感じがする。


f:id:foujita:20140331214502j:image

『昭和四年十二月竣工 文楽座建築概要』より、《舞台より観覧席を望む》。二階正面中央に貴賓席が用意されている。《観覧席内部は純日本風二階造りで各桟敷には勾欄を廻し天井に二重折上格天上に極彩色の紋様模様を画き左右及正面には檜皮葺庇をつけ桟敷は一階左右二階正面より左右へと三十間の座席を設け、一階中央全部及二階後方の一部は椅子席で、舞台前には必要に応じて取設け自在のオーケストラボツクスを設備し、一階後方にはトーキー映画上映のための電気設備も御座います》。


f:id:foujita:20140331213603j:image

f:id:foujita:20140331213604j:image

『溝口健二作品シナリオ集』(文華書房、昭和12年5月15日)所収の脚本によると、志賀廼家弁慶の本妻・梅村蓉子と主治医・田村邦男とその細君が別の席で観劇していたという設定。二階から一階をのぞんだショットのあと、主治医・田村邦男が「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」と志賀廼家弁慶の席に飛んできて、二人を廊下へひっぱりだす展開となる。舞台の『野崎村』は、お光が「久松様には振袖の美しい持病が有て。招いたり呼出したり。にくてらしい、アノ病ひづらが這入ふ様に。敷居の上へ大きふしてすへて置たい」と悋気を起こしているところ。


f:id:foujita:20140331213605j:image

f:id:foujita:20140331213606j:image

桟敷席を出たところの上手側ロビーにて立ち話、本妻が来ていることを二人に告げる主治医・田村邦男であったが、ほどなくて、本妻・梅村蓉子が登場。しまいには、「ええつ、口惜しい、みんなして寄つてたかつて、あてをなぶりもんにして……」と、廊下にべったり座り込んでしまう梅村蓉子。ここで、カメラは舞台へと切り替わり、人形のお光も「いえいえ構ふて下しやんすな、今の様な愛想づかしも、みんなアノ病面めが云はしくさるのぢやわいなあ……」とヒステリーのまっ最中。


f:id:foujita:20140331213607j:image

『昭和四年十二月竣工 文楽座建築概要』より、《外観全景》。客席は南方向で、上手桟敷を出た側面、すなわち劇場の西側に別棟の食堂があった。《本館の西側付属館の一、二、階に南一直営の大食堂があります。一階はお通りがかりのお方でも自由にお入りを願う公衆食堂、二階は御観客様本位の食堂に充てゝゐます。和洋欧風料理の粋をつくし統て一定の代価を附けてをります》とのことだから、一階食堂は文楽座の客でなくても利用できたようだ。少女時代の岡部伊都子は文楽座の食堂ではいつもチキンライスと三ツ矢サイダーが決まりだったと語っている(『上方風土とわたくしと』大阪書籍・昭和59年11月)。

f:id:foujita:20140331213608j:image

引き続き、《表二階廊下(貴賓席御入口)》。二階正面中央に、《貴賓席を設けて内外高貴のお方の御観覧に備へてあります。》。正面入口から文楽座のなかへ入ると、まず目に入る色彩は絨毯の燕尾色だった。本妻・梅村蓉子がツカツカと歩いてきたロビーの床も燕尾色だったことだろう。


f:id:foujita:20140331213609j:image

f:id:foujita:20140331213610j:image

絵に描いたような修羅場! というところで、脚本のト書きの《主治医が株屋の藤野をつかまへて口説いている》の場面となり、株屋・進藤英太郎登場。「悪い役廻りやなあ……」「落目やで、しようむないこと頼みないな……」と、梅村蓉子の方に「ワイのこれやがな」と山田五十鈴のことを取り繕って、その場は収まって、ひとまず一件落着。映画では文楽座のシークエンスはここでおしまいなのだけれども、シナリオでは進藤英太郎が山田五十鈴を口説くシーンが続く。舞台に画面が切り替わり、「そなたは思ひ切る気でもわしや何んぼでも切らぬ……」。廊下では進藤英太郎が「君はいつ見ても奇麗やな……どや、わいと浮気せんか」「あて失礼します」、アヤ子その手をふり払つて逃げる。藤野舌打して「あかんたれやなあ……」。最後に、「逢ひに北やら南やら……」と続いている舞台が映し出されて文楽座のシークエンスは締めくくられる。


f:id:foujita:20140331213611j:image

f:id:foujita:20140331213612j:image

f:id:foujita:20140331213613j:image

そして、文楽座の直後にそごうのシークエンスとなる。シナリオによると、文楽座の数日後の昼の出来事。あいかわらず丸髷に結っている山田五十鈴が化粧品売り場で買い物していると、電話交換手時代の恋人・原健作にばったり対面。


f:id:foujita:20140331213614j:image

勤め先の社長の囲われ者になっていた山田五十鈴は自身の丸髷を、美容院に勤める友だちの練習のためだと原健作に言い繕う。このシーンで初めて、「そごう美粧室 三階」のネオンが映し出されて点滅し、この百貨店がそごうだということがわかる。と同時に、観客はこれはタイアップだなと察知するのであったが、それは、『オール松竹』第15巻第6号(映画世界社、昭和11年6月1日)に掲載の、小倉武志「横から眺めたロケーシヨン 「浪華悲歌」の巻」にある、

 心斎橋筋の十合デパートは今日が公休日である。その公休日を拝借して、山田のアヤ子が恋人の西村進(原健作)とランデヴーの楽しい一日の撮影である。(中略)

 十合デパートとタイアツプしたんで(高橋梧郎宣伝部長のお手柄である!)一階から七階まで自由に使へることになつてゐたし、それに十合デパートの店員が特別出演するといふんだから、仲々面白い。デパート・ガール総数百五十人、仲々キレイな娘さんがゐる、山田と、何れがスターか一寸判断しにくい位の美人もゐる。オツトこれは失言。……

というくだりで明確に裏付けられるのであった。


f:id:foujita:20140331213615j:image

f:id:foujita:20140331213616j:image

f:id:foujita:20140331213617j:image

f:id:foujita:20140331213618j:image

「十合デパートの店員が特別出演」する公休日の店内を移動する二人をやや遠くからとらえた、このシーンが大好き。3階の美粧室にいたはずの二人はいつのまにか、1階にいて、エレヴェーターで上にあがってゆく。橋爪節也著『モダン心斎橋コレクション』(国書刊行会、2005年9月7日)を眺めながら、この映画を見ると、臨場感たっぷり! このエレヴェーターは同書の110〜111ページの見開きで紹介されている、島野三秋作の漆螺鈿によるエレヴェーター。


f:id:foujita:20140331213619j:image

f:id:foujita:20140331213620j:image

エレヴェーターで上がった二人は、2階と3階の吹き抜けで心斎橋筋側に位置していた「そごうパーラー」で語り合う。シナリオのト書きに「小鳥の囀ずる声が賑かである。飲物を置いて西村とアヤ子。」とあるとおりに、小鳥のさえずりをバックに語り合う二人。長谷川堯著『村野藤吾の建築 昭和・戦前』(鹿島出版会、2011年2月28日)に、《階段を昇り切って右に折れて進むと喫茶室の中に入り、明るく軽快な雰囲気の空間に包み込まれる。この部屋の明るい雰囲気を決定づけているのは、高さが八m近くもある天井画の東端一列の、ガラス・ブロック板を通して落ちてくる外からの明るい透過光であるに違いない。》とあるが、そんな自然光の明るい雰囲気が映画でもなんとはなしに漂ってくる。電燈も素敵。


というふうに、第一映画の「高橋梧郎宣伝部長のお手柄」により、そごうとのタイアップが実現し、『浪華悲歌』において、とびきり素敵なそごうの店内映像が残されることとなった次第であった。当時は単に「宣伝」の一環に過ぎなかったタイアップであるけれども、後世に絶好の映像資料を残しているという典型がここにある。長谷川堯著『村野藤吾の建築 昭和・戦前』によると、昭和6年10月に始まった第一期工事が完了して「新装仮オープン」したのが昭和8年8月、その後、第二期工事が完了し「新館完成オープン」したのが昭和10年10月1日だった(昭和8年5月20日に梅田・心斎橋間で開通した地下鉄が、昭和10年10月30日に難波まで延びている)。第一期工事は《御堂筋に面した北側の敷地に新館完成》、第二期工事は《御堂筋に面した南側と心斎橋筋を繋ぐ新館完成》であるので、昭和11年5月28日封切りの『浪華悲歌』が記録しているのは、華々しく新館完成オープンがなされてから間もない時期だったということになる*8

『浪華悲歌』撮影当時、溝口健二が所属していた第一映画社は、日活を退社した永田雅一によって昭和9年9月に設立された撮影所であった。このとき永田雅一と行動をともにした高橋梧郎は、日活撮影所生え抜きの宣伝マンだった。そして、同年11月に松竹が日本映画配給株式会社を創立することで、第一映画の配給を手がけるようになる。『キネマ旬報』第528号(昭和10年1月1日号)に掲載の、池田照勝・友田純一郎「一九三四年業界決算」では、《十月末設立された資本金百二十万円の松竹キネマ姉妹会社日本映画配給株式会社は大谷、白井、城戸、町田等現松竹お歴々諸氏が相談役、重役として列し、(中略)自由配給を標榜して内に松竹勢力の拡張、侵出を企図し、松竹資本進出の積極的意図の一端を具現した。》というふうに総括されている。

という次第で、『浪華悲歌』も配給は松竹によってなされているから、そごうと同様に、文楽座のシークエンスもタイアップの一環とみて間違いないだろう。映画のためにわざわざ『野崎村』の舞台と満席の客席が用意されて、じっくりとロケされることで、先に見てきたように、モダン大阪の名所としての今はなき四ツ橋文楽座の姿がとびきり素敵な映像として今も残ることになった。松竹キネマの島津保次郎『隣の八重ちゃん』(昭和9年6月封切)に映る帝劇をはじめ、松竹の映画にしばしば歌舞伎座や国際劇場、東劇が映ったりする。同様に、P.C.L.や東宝映画には、しばしば東京宝塚劇場や日劇や有楽座が映ったりする。これらの映像を見ることで、昭和モダン時代における演劇と映画の大型資本化の一端を現在も垣間見ることができるのだった。そして、映画に映る劇場はすべて現在は消えてしまった建物であるから、モダン都市の気分をスクリーンを通して体感する、そんな「まぼろし」のモダン都市にひたるひとときはいつもとても甘美。森鴎外の『青年』における自由劇場の有楽座を典型として、劇場は、都会の文化生活(のようなもの)を謳歌する紳士・淑女の社交場であり、また、えてして偶然の出会いによってストーリーの展開をうながすきっかけをもたらす場面にもなり得る。近代日本の都会小説における劇場と同じように、昭和モダン時代における演劇と映画の大型資本化により、戦前日本映画に劇場が印象的に記録されている。


『浪華悲歌』は昭和11年5月に完成し、同月28日に封切られた。批評家筋には評判がよかったものの、興行的にはあまり振るわなかったようで、『キネマ旬報』第578号(昭和11年6月11日)の「映画館景況調査」によると、東京浅草の帝国館(松竹直営)では5月28日に封切られて、『下田夜曲』(松竹ネオ・スーパー・トーキー)、『姿なき魔刃』(下加茂サウンド版)、尾上房子の舞踊実演と合わせて、6月3日まで上映された。《今週は洋画に押されて全く振はない》という状況であり、『浪華悲歌』に関しては、《本年度日本映画中の白眉であるが、いまゝでの第一映画作品が観客に好意を持たれてゐない為に、ひとつは宣伝不足の為に、なんらの威力も発揮しな[か]つた。想へば惜しい映画を殺したものである。》とある。丸之内松竹劇場と新宿松竹館での封切も同じような状況で、《地方の館にあつては是非ともこれが本年度屈指の名画であることを極力客に知らすべきである》と力説されている。

一方、大阪での様子はというと、大阪劇場(千日前、白井直営)にて5月29日から6月4日まで、『姿なき魔刃』(下加茂サウンド版)とレヴュウ『大阪踊り』、実演『火山人間』とともに上映されていて、《『浪華悲歌』を呼び物にしての盛沢山の番組であるが、之は相当にヒットして、日曜、月曜など共に好況を極めた。》という。


f:id:foujita:20140331213621j:image

《大阪劇場(元名:東洋劇場、建主:千日土地建物株式会社、位置:大阪市浪速区河原町1丁目1550、設計:八木工務所、施工:矢島組、起工:昭和6年1月30日、竣工:昭和8年8月30日、様式:近世復興式、構造:鉄骨鉄筋コンクリート造)》、『近代建築画譜』に掲載の写真。


大阪千日前の東洋劇場が白井松次郎の手に渡り、松竹経営となったのは昭和9年8月1日。大阪劇場と改称して、従来の道頓堀朝日座に代わって、松竹映画の封切とともに、松竹歌劇等のアトラクションを定員予約制で上演していたという(『松竹七十年史』/『松竹百年史』)。千日前の大阪歌舞伎座が竣工したのは昭和7年9月で、翌10月がこけら落とし興行だった。戸板康二はのちに、

 大阪の歌舞伎座は千日前にあって、道頓堀からぶらぶらと南に歩いて行く道中が何となく楽しかったが、劇場がハイカラな建築の大伽藍で、外見は温泉の大浴場を何倍にも拡大したような、歌舞伎にはあまり似つかわしくない小屋だった。

 だから、新派だの、五郎劇だの、休暇で関西に行くたびに何か見には行ったが、中座や浪花座のようには、落ち着かなかった。

と回想している(『思い出の劇場』青蛙房・昭和56年11月20日)。慶應義塾の文科に学ぶ戸板康二が長期休暇のたびに関西で観劇を楽しんでいたのは、昭和7年から12年にかけての5年間だったから、北尾鐐之助著『近代大阪』(創元社、昭和7年12月25日)の「千日前附近」の結びに、

歌舞伎座が新築されて、千日前の空気は一変した。人の流れはこの巨壁に当つて、ぐるぐると四辺に奔流した。やがて東洋劇場が建ち、御堂筋線が完成すると、当然、南海ビルの地下鉄停留場が、もつと強く、千日前の人の流れを左右するであらう。さうなつた暁、十銭の萬歳劇場が、どうして大資本的色彩に染めかへられないものでもない。

と書いているまっただ中の時期ということになる。この背後には、昭和7年7月に全店開店した難波の高島屋の存在があった。昭和8年5月に梅田・心斎橋間で開通した地下鉄が難波まで延びたのが昭和10年10月30日で、同月1日に開業したそごうは、大阪地下鉄が梅田・心斎橋間で開通した昭和8年5月に全館完成した大丸とともに、御堂筋拡幅ないし地下鉄の開通と連動して新装したのであった。『浪華悲歌』が描いていたのは、地下鉄の開通が体現するところの1930年代大阪風景であったとも言えるかも(ちなみに、『浪華悲歌』の地下鉄シーンは設定は大阪だけど電車と駅のロケは京都で新京阪、地上の出口のみ大阪で撮影されている)。



f:id:foujita:20140331213622j:image

f:id:foujita:20140331213623j:image

『内藤多仲作品譜』(城南書院、昭和19年3月28日)より、そごうの「鉄骨建方完成」写真と第二期工事中の写真。馬も大活躍。同書の巻頭言には、《構造の面白さは意匠の面白さに何ら変りはないと思ふ。唯それは縁の下の力持の様に外面に顕はれぬ場合が多い。けれども一朝風とか地震とか云ふ場合に覿面にその効果が顕はれる。……》とある。第一期工事が昭和6年10月に始まったそごうの鉄骨、どんどんできあがってゆく建物は、四ツ橋文楽座の外からよく見えたことだろうと思う。


f:id:foujita:20140331213624j:image

同じく『内藤多仲作品譜』より。大丸もそごうも構造設計は内藤多仲であった。ヴォーリズの大丸、村野藤吾のそごう……というふうだけでなく、内藤多仲目線での建物見物もいつも大好き。


f:id:foujita:20140331213625j:image

グラビア口絵『大阪八景』(詩:小野十三郎、撮影:小石清)より「御堂筋」、『銃後の大阪』第3報(大阪市社会部軍事援護課、昭和16年5月31日)掲載*9

御堂筋は

大阪を南北に貫く。

道幅廣く街路樹青く

市民のラヂオ体操場として理想的である。

ときに行はる

軍楽隊の大行進は

沿道を熱狂せしむ。

という、小野十三郎の詩が添えられた、小石清撮影の銃後のそごう前の御堂筋。そごうの南端に地下鉄の入口。ここから空を見上げると、そごうの御堂筋側の5階から6階部分の外壁を飾っていた藤川勇造のブロンズ像《飛躍》が見えたはず。


f:id:foujita:20140331213626j:image

その藤川勇造作《飛躍》は現在、そごうの跡地に建つ大丸北館の屋上に移築保存されている。四ツ橋文楽座の跡地からそごうの跡地へと歩いて、『浪華悲歌』の都市風景を体感したあとで、たどりついたのがこの屋上。文楽座もそごうもなくなり、《飛躍》だけが今もここに残っている。《飛躍》をじっくり観察したあとで、冬晴れの青い空の下、大丸北館の屋上から大阪の町を眺める時間はとても格別だった。


--------------------------------------

*1:『義太夫年表 昭和篇 第1巻(昭和2年〜昭和11年)』(和泉書院、2012年3月30日)の昭和3年12月の項で紹介されている『浪花名物浄瑠璃雑誌』第276号の記事に、《文楽座は四ツ橋に確定/大阪名物の文楽座は御霊神社境内の同座焼失以来道頓堀弁天座その他で興行してゐたが、大阪市四ツ橋ビルデング(旧近松座)を改築して同座の定小屋とすべく御大典までに改築する計画でその筋に書類を提出してゐたが、書類不備のため延引してゐたところ大阪府保安課では近く認可する所となつた。(以下略)》とある。

*2:『岩波講座 歌舞伎・文楽10 今日の文楽』(岩波書店、1997年12月19日)の垣内幸夫「2 近代との摩擦 大正期の文楽」に、『浄瑠璃雑誌』第100号(明治45年1月)所載の記事「近松座初舞台」が紹介されている(p56)。曰く、《遠大の抱負と高尚なる理想を以て組織せられたる近松座株式会社が地を佐野屋橋南詰に相し劇場の建築に着手したるは昨四十四年1月なりし[中略]敷地の総坪数三百五十六坪、建坪百九十八坪にして煉瓦建二階建、屋根はルネヱーツサンス式、嶄然として鰻谷の天空に聳ゆるもの是れ即ち文豪近松翁の姓を冠する近松座の外観なり、此の地所を購うに三万円の価を払ひ、建築費の総額は実に十七万円と称せらる、内部は総て檜造り純日本式にて優に七百三十余りの聴客を容るべし、舞台の間口は六間にして奥行五間、文楽座よりも広きこと各半間宛なり[中略]開場は毎日午後正一時を遅れず閉場は十時を出でざる抔も聴衆の業務と衛生を慮りたる跡を見るべし》。

*3:『道頓堀』第5年第40輯(昭和5年1月1日)に掲載の、竹本土佐太夫「新文楽の竣成と 思ひ出るまゝ」では、《これは曽て文楽座に対抗して覇を争つた彦六座の一派が敗れては興り、浮んでは沈んだ結果、堀江座によつて残党が旗揚してゐた処斯道に御熱心であつた八木与三郎[、]緒形正清、島徳蔵、桐原捨三、岡田茂馬の諸氏が全く斯道救済のお考へで、日本で初めての株式会社を以て、あやつり興行を企てられたのでありました。最も其以前彦六座後も合名組織はありましたが、株式といふ程には至りませんでした。此の近松座が即ち今度新文楽座の建つた土地でありまして、此の土地はよくよくあやつり座に縁の深い処と見へます。近松座は其頃にあつては先づ古来無比の上小屋即ち良劇場でありまして、と迚も御霊文楽座などはお傍へもよれぬほどのものでありました、……》というふうに、近松座のことが回想されている。

*4:近代の佐野屋橋筋の町並みについては、『幕間』第126号(第10巻第12号・昭和30年12月1日)の記事「さよなら、四ツ橋文楽座」所載、鷲谷樗風「四つ橋文楽の歩んだ道」に、《「四つ橋文楽座は場所がわるい」とよく云われる。然しこれは沿革から一寸説明して、今はわるいが昔は悪くなかつたことを承知してもらいたい。この座の前に佐野屋橋がある。佐野屋橋から北は座摩前筋に出て北に一すじ御霊神社の南鳥居に行くことが出来た。その鳥居を入ると御霊文楽の三味線が聞えてかきもちの角を曲ると文楽の表に出たのである。佐野屋橋筋、座摩前は古着屋街で田舎の人達が買物に来る大阪の名物街、佐野屋橋南は古着の問屋街であつた。こうした外に新町、堀江の花街、横堀の材木、石屋などを控えた目ぬき場所であつたから、此処に近松座が建てられ、文楽座が出来た。それが戦争でスッカリ壊滅した形でポツンと文楽座だけであるから、いよいよ場所が悪るくなつたのである。新町堀江の復興はパッとせぬ。昔の佐野屋橋筋、座摩前の特長もない、砂をかむような味気ない町並がつづいている。文楽座々主植村の妻女が古着屋で目を引く切れを買つておいて人形衣裳に工夫をした逸話も夢である。文楽座の周囲は広場と自動車とトラックで気持をイラ立たせるだけである。尤も昭和五年新装の文楽座が出来たときは、昔の面影だつたから、文楽のヒンターランドとなる町と人があつた。……》とある。

*5:昭和4年12月5日付け『都新聞』の記事「帝劇の興行は今後一切松竹の手で経営 完全に掌握した松竹王国の躍進 各方面に大波瀾」に、《創立以来二十年、松竹王国に対抗してわが劇壇の一方に雄飛し、旧劇に新劇に、海外芸術の紹介に幾多の功績を遺した帝劇も、震災後続々新築落成した歌舞伎座、明治座その他の大劇場の影響を受けて毎月の興行成績も兎角思はしからず欠損に欠損を重ねて対策について大いに腐心してゐたが、先月二十日頃より俄に松竹との提携問題が持ち上り根津嘉一郎氏が中心に立つて大谷松竹社長、山本帝劇専務との間に種々交渉が重ねられた結果、話はトントン拍子に進んで、帝劇は現在歌舞伎座と松竹との関係の如く、劇場を松竹に賃貸して興行一切を松竹の手に委ねるとことに決定したよつて山本専務は昨四日午後二時東京會舘に俳優並びに主たる関係者を集めてその経過を発表し、更に近く株主総会を招集して承認を求める筈であるが、帝劇の座付俳優は目下開演中の女優劇に残つてゐる連中を除き、梅幸、幸四郎、宗十郎等の大幹部全部は京都南座の顔見世興行に出演してゐるので、山本専務はそれ等幹部俳優の諒解を求むべく昨夜京都に急行した、市村座が没落して菊五郎一座が松竹の懐に飛び込んで以来、東京、大阪、京都の大劇場で松竹の自由にならぬものは僅に帝劇一つだけであつたが、これで愈々わが劇壇は完全に松竹の手に掌握された訳で、これから松竹が如何に帝劇を経営し、松竹王国全体に亘つて如何に俳優を動かして行くかは非常に興味ある問題である》。そして、同月26日付け同紙の「帝劇最終の一夜」の記事、《昨夜は二十年来の歴史を持つた帝国劇場が松竹の経営にうつる最終の日であつた、兎にも角にも、帝劇従業員にとつては二十年の歳月を暮して来たお名残として、思ひ出多い別盃をあげやうと、昨夜打出しの後、十時半を期して、帝劇従業員一同下足番に至るまで場内の花月食堂に集まつた、そして名は忘年会であるが、実は悲壮な留別の宴を張つたのである》、翌27日付けに「きのふ帝劇の城明渡し」、《向う十年間の契約で松竹の経営に移された帝国劇場に於いて昨日午後四時十五分引渡しの式が行はれた、場所は帝劇事務所の三階稽古場で 松竹側から大谷社長、井上、城戸の各重役、帝劇側から西野社長、山本、平塚、益田の各重役に梅幸、幸四郎、宗十郎、勘弥、律子、菊江、浪子、嘉久子等男女幹部以下従業員百名出席、先づ西野氏が今日に至る経過を述べ、更に帝劇の経営を松竹に任した事は諸君の技能を一層発揮する余地を広げたので、大谷氏も諸君の事を一切引受けて下さつたのだから従前同様に活動してもらひたいといひ、松竹側代表者を一同に紹介し 大谷氏は今回光輝ある帝劇を私どもの手で経営するに当り心よく御同意下すつた事を感謝します、どうぞ従前同様にと丁寧な挨拶をする、そこで梅幸と律子がそれぞれ男女優を代表して、われわれも帝劇の名を辱めないやうに働きますと遉に涙を飲んで挨拶した、この間僅に三十分、これで帝劇二十年間の歴史は一転機を画したのである……》。

*6:『演藝月刊』第11号(昭和5年4月20日)に掲載の、石割松太郎の劇評「古靭の「太十」――四月の文楽座――」の冒頭が振るっている、曰く、《四月は花見月、興行にとつては御難であるといふので、例のビラの利く出し物が選ばれた。興行としては尤もの話。且つ新築以来文楽座のお客が一変した。いろいろな理由で、人形芝居を見た事のない人が、今日の文楽座の主なるお客である事を思ふと、実はビラが利くも利かないもない、「酒屋」でも「太十」でもが初めてのお客が多い。人形の舞台に接する事のウブなお客が今日の文楽座のお客だから、この客がどれだけ文楽の好き者となるかゞ問題だ刻下の文楽の施設の機微がこゝに存在する》。

*7:石割松太郎著『人形芝居雑話』(春陽堂、昭和5年10月8日)にある、《弁天座へ焼出されての第一、第二興行あたりまでの弁天座には、相当の入を見た。御霊の末期よりは、弁天座が好成績であつたのです。――年代をいふと、昭和二年正月、二月などがさうです。盛り場だけに『切見』――立見が賑つたのですが、これはほんの束の間の人気でした。》という証言と見事に合致する。谷崎はちょうど閑散としだしたタイミングに弁天座に来てしまったのだった。

*8:『キネマ旬報』に毎号掲載の「本邦撮影所通信」の記事を追ってゆくと、昭和11年2月21日号で「タイトルが『浪華悲歌』と決定」、3月1日号で「まず大阪ロケーションにより撮影開始」、3月11日号で「松竹系よりスター応援のオール・メンバーにて愈々近日セット撮影に着手」、3月21日号で「キャスト決定」、4月1号で「大阪市内ロケを終えて目下セット撮影中」、4月11号は「撮影進行中」、4月21号は「四月下旬完成の予定」、5月1日号で「撮影終了、目下整理中」、5月11日号で「『浪華悲歌』を完成」となっている。

*9:『銃後の大阪』第3報に掲載の、小野十三郎「大阪八景」について、酒井隆史著『通天閣 新・日本資本主義発達史』(青土社、2011年12月10日)に、《「大阪八景」は、さびしいおもいをしている前線の兵士たちに、詩人の言葉によってふるさとの匂いを届けようとしたのだろう。選ばれた八つの場所は、戎橋、安治川口、安治川、末吉橋、四天王寺、地下鉄動物園前、御堂筋、そして新世界である。この場所がどのようにして選択されたのかはよくわからないが、詩人の意図が介在しているのはまちがないない。小野は「短歌的抒情の否定」という理論の展開と実践のなかで、『古き世界の上に』では、まだ比較的ランダムであった自分なりの大阪地図を作成していったようにもみえる。その特徴を挙げるとすれば、まず、「大阪らしさ」の紋切り型を形成しがちな場所を避けるということである。》とある(p25)。また、《一九七九年に公刊された『定本 小野十三郎全詩集 一九二六〜一九七四』には、その「大阪八景」のなかから「新世界」、「安治川口」、「末吉橋」、「地下鉄動物園前」の四編が選ばれ、『著作集』では第1巻の補遺で、四編であることはかわりがないが末吉橋が戎橋に入れ替えられて掲載されている。》という(p162)。

20140317

冬休み大阪遊覧ダイジェスト(前篇)本町橋へゆき、大阪市電と信濃橋洋画研究所をおもう。心斎橋から四ツ橋へ。

以下は、もうとっくに春なのに、去年暮れの冬休み大阪遊覧メモの前篇。西から東へ、北から南へ、東から西へ……の歩行の記録。

2013年12月28日土曜日。正午前に大阪に到着して、今回まっさきに出かけたのは、東横堀川に架かる本町橋だった。大阪市内に残る最古の橋ということを知って以来、ずっと行ってみたいと思っていた橋。というわけで、本町通を西から東へズンズン直進して、まずは東横堀川に向かうのだった。


f:id:foujita:20140317111831j:image

と、本町橋の橋柱が目に入ったところで、東横堀川の真上の阪神高速環状線の高架が眼前に見える。大阪市内に現存する最古の橋にたどりついたと思うと、それだけで胸が熱くなる。


f:id:foujita:20140317111832j:image


f:id:foujita:20140317111833j:image

そして、いざ目の当たりにすると、石造りの重厚な本町橋のなんと美しいことだろうと、思っていた以上に大感激だった。東京における日本橋川とおなじように、東横堀川の真上には、高速道路の高架が覆いかぶさっているので、橋の上は薄暗い。しかし、薄暗いからこそかえって幻想的な気分にもなって、格別のひととき。橋の上をつい何度も行ったり来たりしつつ、欄干の細部を見物して、大阪市最古の橋の上にいるという特別の時間を心ゆくまで味わう。


f:id:foujita:20140317111834j:image

橋を渡って、道路を横断して、もと来た西詰に戻り、橋柱の「大正二年五月」の文字を目の当たりにして、あらためてしみじみとなる。大正2年は1913年、そうか、本町橋の架橋は今からちょうど百年前であったと初めて気づいて、2013年の年末に初めてここに来ることになったというめぐりあわせが嬉しい。本町橋は織田作之助の生まれた年に架橋されたのだった。帰京後はひさしぶりにじっくり織田作之助を読もうかしらと思った。


そして、本町橋のたもとの記念碑(末尾に「昭和五十七年六月 大阪市」とある)に、

現在の橋は 本町通が市電道路として拡幅された大正二年(一九一三)に架けられた鋼アーチ橋で 石づくり橋脚をもつ重厚な構造は 七十年近い風雪に耐えて 現存する市内最古の橋にふさわしい風格をそなえている

と書かれてあるのを目の当たりにしたときは、さらに胸が熱くなるものがあった。これまでズンズンと直進してきた本町通にはかつて市電が走っていて、いまからちょうど百年前、大正2年に道路が拡張されて、同年7月8日、本町通を走る市電・靭本町線(川口町〜谷町三丁目間)が開業したのであった。今までズンズンと直進してきた本町通に市電が走っているさまを想像しつつ、手持ちの地図を確認してみると、東横堀川にかかる本町橋から市電が東から西へと直進し、西横堀川にたどりつくと、そこで架かっているのは信濃橋であることを確認し、まあ! とさらに興奮。「信濃橋」の文字を見てまっさきに思い出すのはもちろん、小出楢重、鍋井克之、国枝金三らが大正13年に開設した信濃橋洋画研究所のこと。


f:id:foujita:20140317111835j:image

『大阪市パノラマ地図』(日下わらじ屋、大正13年1月5日発行)*1より、本町橋のあたりを拡大。本町橋が架橋されて約十年後、大正14年4月の「大大阪」成立の前年に刊行された『大阪パノラマ地図』に描かれている本町通には市電がすれ違い、東横堀川には舟が通る。高速道路もなく高層の建物も少ない時代の「水都大阪」の気分が、この地図を眺めているだけでなんとはなしにただよってくる(気がする)。


f:id:foujita:20140317111836j:image

同じく、『大阪市パノラマ地図』より、本町橋から西へまっすぐ1.2キロ、西横堀川に架かる信濃橋とその先の交差点のあたりを拡大。南北・東西の市電が交差する信濃橋交差点に面した高層の建物が信濃橋洋画研究所のあった日清生命ビル(「信濃橋」の「橋」の字の左の白いビル)。《信濃橋洋画研究所の、1924年(大正13)4月3日大阪市西区靭南通1丁目、ちょうど信濃橋の交差点に聳える市内屈指のモダンな6階建ての日清生命ビルディングの4階に開所し、鍋井克之、黒田重太郎、国枝金三、小出楢重によって経営された研究所である。》(島田康寛「小出楢重と信濃橋洋画研究所」、『小出楢重画集』東方出版・2002年11月18日)。『大阪市パノラマ地図』は信濃橋洋画研究所の開所とまさしく同時期の大阪を記録しているわけで、完成直前の日清生命ビル(起工:大正11年9月)がきちんと描きこまれているということに感動する。


f:id:foujita:20140317111837j:image

《日清生命保険株式会社大阪支店》(設計:佐藤功一建築事務所、竣工:大正13年3月)、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日発行)=橋爪紳也監修『復刻版 近代建築画譜〈近畿編〉』(不二出版、2007年6月25日)より。日清生命ビルは6階地下1階、大林組の施工、住所は大阪市西区靱南通1丁目10。信濃橋洋画研究所の開所の前月に竣工したばかりだったビルディングは、昭和11年刊行の『近代建築画譜』の写真ではちょっとばかし古びてきている印象。信濃橋洋画研究所は昭和6年に朝日ビルディングの3階に移転し、「中之島洋画研究所」へとその名を変えている。この写真はたぶん、信濃橋洋画研究所が引っ越したあとのビルディング。四つ橋筋と本町通が交差する信濃橋交差点の市電の軌道が、建物正面にうっすらと写っているのが嬉しい。


f:id:foujita:20140317111838j:image

小出楢重《雪の市街風景》大正14年(兵庫県立美術館蔵)、図録『都市風景の発見』(茨城県近代美術館、1992年)より。上の日清生命ビルの4階から信濃橋洋画研究所の窓から本町通をのぞんだ構図。この作品に描かれている市電が本町筋を約1.2キロ東へ直進したところに東横堀川、今も健在の本町橋に到着する。本町橋だけはこの絵が描かれたころと同じ姿のまま、高速道路の真下にいまも静かに架かっている。

この小出楢重の《雪の市街風景》に関しては、伊藤純・橋爪節也・船越幹央・八木滋著『大阪の橋ものがたり』(創元社、2010年4月20日)の「信濃橋」のページの、

 画面中央にあるのが信濃橋。西横堀川の本町通りに架かり、市電が渡ってゆく。この絵の時代、御堂筋は完成しておらず、大阪の南北を貫く大動脈であった四つ橋筋と、東西を貫くメインストリートの本町通りが交差するこのポイントは、市電が交差する大阪都心交通の要衝であった。

 信濃橋の歴史は古く、元禄頃は富田町橋、問橋と呼ばれ、宝永年間以降、西側の信濃町に由来してこの名になったらしい。その後、変遷を経て大正二年(一九一三)、市電を通すために鉄橋に架けかえられた。橋は長さ二三メートル、幅二二メートル。数字上は、ほぼ正方形だが、道路がタテヨコ、碁盤目のように整然と走る船場には、洒落で引いたあみだくじの横線みたいな、川を斜めにまたぐ橋があり、その代表格の信濃橋も、上から見たら菱形に近かったろう。この斜めにズレた感じを、小出はギュッとひねった裸婦の腰を描くように、的確なデッサンで表す。それも橋を真正面からとらえた難しい角度で描いて、さすがにうまい。

 描かれている建物も面白い。左の塔のある建物は相愛学園、右奥の時計台は心斎橋筋の北出時計店。近代建築群が欧米の都会のような印象を生み出している。右下には、電停で市電を待つ人の頭が、黒い玉のように連なっている。……

という、橋爪節也さんの解説がたいへん素晴らしくて、感動。さらにこのあと、《同じ洋画研究所の窓から、同僚の国枝金三と学生の松井正も描いているが、そこが絵画の面白いところだろう。小出とは感覚がまた異なり、国枝の場合、信濃橋で曲がっている本町通りを、まっすぐの道に描いた。》と続く。というわけで、次は、国枝金三による日清ビルから見下ろした信濃橋交差点。


f:id:foujita:20140317112116j:image

国枝金三《都会風景》大正13年(大阪府立現代美術センター蔵)、図録『都市風景の発見』より。上掲の小出楢重の《雪の市街風景》の前年の二科展に出品された作品。同じ構図をとらえた国枝の作品を見ると、小出楢重の密度の濃い画面の素晴らしさがますます際立つのだけれども、雪景色の小出の一方、国枝は青空の下の大阪市の風景を描いていて、北から南に風が吹いている穏やかな大阪の市街風景もたいへん好ましい。『生誕100年 小出楢重展図録』(1987年発行)所載の「4.大阪信濃橋時代 1922〜1925」の解説では、信濃橋洋画研究所の開所した大正13年は、大阪乗合自動車が「青バス」と呼ばれて市民に親しまれるバス営業(のちに「銀バス」と呼ばれた大阪市営バスと激しい競争を繰り広げる)の開業と同年であることが指摘されている*2。当時は第7代大阪市長・関一(せき・はじめ)に手により、御堂筋の着工、地下鉄建設の準備がすすめられていた時期であり、また、百貨店による展覧会の開催がますます活発になっていた時期でもあったという。と、そんな「大大阪」誕生前夜の大阪市の町並みが澄んだ色彩で描かれている。


f:id:foujita:20140317112117j:image

《信濃橋洋画研究所開所式にて》、『小出楢重画集』(東方出版、2002年11月18日)より。前列左から鍋井克之・小出楢重、中列左から国枝金三・黒田重太郎、後列右根津清太郎(大正13年4月3日)。同書の島田康寛氏の「小出楢重と信濃橋洋画研究所」で紹介されている、鍋井克之の回想「信濃橋時代のおもいで」では、信濃橋洋画研究所の最大のパトロンは本町の木綿問屋の若主人・根津清太郎であったことが懐かしげに綴られている。根津清太郎は信濃橋洋画研究所開所の前年大正12年11月に、森田松子(その後の谷崎松子)と結婚したばかりだった*3

また、鍋井克之は「そのころ」という文章で、

研究所がはじまったら、本宅と店の途中にあたるので根津さんは毎日のように顔を出した。劇評の三宅周太郎氏などの文人も、東京から大阪へ来ると、ほかに面白いところがないといって遊びに来たし、だんだんと半分クラブのようにもなったのである。東京の二科の連中は『エレベーターのある研究所は日本ではじめてだ』と驚いていたが、そのかわり家賃はたしか四百円もしたから大変であった。上野精一さん、山本顧弥太、津田勝五郎さん、小倉捨次郎さんなど10人ほどの人に、後援グループをお願いしたのもそのためであった。

というふうに回想していて、ひょっこりと三宅周太郎が登場しているのが極私的に嬉しい。三宅は東京での震災を経て、大正13年1月に大阪毎日新聞社に入社し、同年7月に東京日日新聞に転ずるまで大阪住まいをしていた。三宅は東京に戻ってからも大阪行きの際には堂島の大阪毎日新聞社の顔を出していたことだろう。また、根津清太郎の本宅は江戸堀にあった。だだっ広い御堂筋がまだなかった頃、昭和6年に肥後橋にモダーンな朝日ビルディングが竣工する以前の四つ橋筋、いくつもの川が東西を流れていた大阪の町並みに思いを馳せるのであった。



f:id:foujita:20140317112118j:image

本町橋のたたずまいがあんまりすばらしいのでちょっと立ち去りがたいと思ったところで、橋のたもとに「濱田屋」という名の見るからに雰囲気のよい喫茶店があるのが目にとまり、これ幸いとコーヒーを飲んでひと休み。窓から本町橋の美しい欄干が見通せて、しみじみ素晴らしいひとときであった。石造りの欄干を眺めながら、ここまで書き連ねたような、この百年の大阪の町並みに思いを馳せて、すっかり夢心地。本町橋にやって来たの古い欄干を観察するのが目当てで、本町通をかつて走っていた市電のことは実際に本町橋を訪れるまでまったく頭になかったから、やっぱり歩いてみるものだなあと思った。本町橋にたどりついたところで、本町橋の市電に思いを馳せることになり、そして、本町通の市電が描かれている小出楢重の《雪の市街風景》と信濃橋洋画研究所へと思いが及んだ次第だった。本町橋の美しい橋梁を眺めながら、コーヒーを飲んで、近代の大阪を思うひとときは本当に格別だった。


と、本町橋を眺めながら近代大阪に思いを馳せたあとは、心斎橋筋へと向かって、北から南へテクテク。適当に路地をジグザグと歩いてゆくと、右手に「ラブ」という名の味わい深いたたずまいの喫茶店、左手に三木楽器店の建物が見えてきた。と、心斎橋筋に到着したとたん、ついいつも思わず小走りしてしまう。そして、頭のなかは一気に、大の愛読書の橋爪節也著『モダン心斎橋コレクション』(国書刊行会、2005年9月7日)一色に染まりつつ、ウキウキと南へと直進し、心斎橋に到着。



f:id:foujita:20140317112119j:image


f:id:foujita:20140317112120j:image

心斎橋が鉄橋から石橋に架け替えられたのは明治42年11月。長堀川が埋め立てられても、心斎橋は橋柱も丸い十字がくり抜かれた欄干も昔のまま、今も残っている。丸い十字の欄干がとってもかわいらしいなあといつ来ても、見とれてしまう!



f:id:foujita:20140317112121j:image

『大大阪橋梁選集』全3輯(創生社、昭和4年9月〜12月)の写真を収録している、伊東孝編著『水の都、橋の都 モダニズム東京・大阪の橋梁写真集』(東京堂出版、1994年7月10日)より、心斎橋の遠景写真。図録『開館10周年記念 特別展 心斎橋 きもの モダン ―煌めきの大大阪時代―』(大阪歴史博物館、2011年10年15日)では、この写真に添えて、

明治42年(1909)に新しく架け替えられた心斎橋は、長堀川北岸に市電が敷設されるのに伴ったもので、大阪では初めての石造アーチ橋であった。照明にはガス灯が使用された。この橋は大阪のシンボルの一つとして親しまれた。昭和39年(1964)年の長堀川の埋め立てにより撤去されたが、新たに高欄やガス灯を再利用した陸橋が作られた。しかし、その陸橋も地下鉄長堀鶴見緑地線の工事に伴い撤去された。

という解説がある。明治42年架橋の石造の心斎橋も、大正2年架橋の本町橋とおんなじように、市電の敷設に伴って、もしくはその波及で架橋されたということに大いに感興が湧くのであった。この写真は、市電が通る長堀川北岸から心斎橋を南東の方向にのぞんだ写真。中央左寄りに長堀橋の高島屋が見える。この写真を撮ったカメラマンの背後には市電が走っていたということになる。


坪内祐三著『探訪記者松崎天民』(筑摩書房、2011年12月5日)にある、《あまり指摘されることはないけれど、東京は、市区改正の頃の明治二十年前後に続いて、明治四十年代にも、大きな変貌を遂げた。》という指摘がずっと心に残っているのだけれども、これは大阪にも当てはまることなのかもしれない。東京市電のなりたちを『日本鉄道旅行地図帳 第5号 東京』(新潮社、2008年9月18日)で確認してみると、東京馬車鉄道を改称した東京電車鉄道(東電)が明治36年8月22日に品川(八ッ山)・新橋間を電化し、同年9月15日には東京市街鉄道株式会社(街鉄)が数寄屋橋・神田橋間で運転を開始し、さらに、翌明治37年12月8日には東京電気鉄道(外濠線)による土橋・御茶ノ水間の開業により3社鼎立となり、やがて、明治39年9月11日に3社が合併して東京鉄道株式会社となり、最終的には明治44年8月1日に東京市が譲渡され「東京市電」となっていったのであった。漱石の小説をはじめとして、路面電車の登場以降に書かれた文学作品では、電車の動きがもたらす都市風景、登場人物の移動のさまに注目するのがいつもたのしい。明治末から大正初期にいたる都市風景の変化、市電がもたらした東京の変貌ということをいつも思う。

そして、このたび、明治末期と大正初期、心斎橋と本町橋とがいずれも市電の敷設の波及で新しく架橋されたという解説に立てつづけに直面してみると、東京のそれとおなじように、大阪における市電の敷設による都市風景の変化ということに大いに感興が湧くのであった。今まで、大阪市電については深く考えたことはなかったので、こうしてはいられないとあわてて、辰巳博著・福田静二編『大阪市電が走った街 今昔』(JTBキャンブックス、2000年11月15日)を参照すると、「大阪市電65年半の足跡」の冒頭で、

大阪市電は明治36(1903年)9月12日に大阪の近代都市化が始まるとともに開業し、昭和44年(1969年)3月31日に、戦後の新しい時代における都市化の波に呑まれて姿を消した。大都市自身が経営する文字どおりの「市電」としてスタートしたのも全国で最初なら、都市交通の主役は地下鉄に移すべしとして、いち早く全面廃止に踏み切ったのも、政令指定都市でははじめてであった。

というふうに誇らしげに語られていて、胸が熱くなる。大阪市電の開業は、明治36年7月に大阪港築港大桟橋が完成したことと同年3月の天王寺公園における第5回内国勧業博覧会をきっかけにしていという。開業こそ東京と同じ明治36年だけれども、東京との根本的な違いは、大阪は開業当初から当時の鶴原定吉大阪市長によって「市内交通市営主義」を基本方針にしていたこと。「大阪市電65年半の足跡」において、

この市内交通市営主義が大阪市の発展に貢献したのは紛れもない事実であり大阪市民がこれによって得た恩恵もまた計り知れない大きなものがある。その最たるものは、市電があげた莫大な収益で次々と新しい道路や橋を作っていき、ここに市電を走らせてまたかせぐという循環投資によって、短期間の間に見違えるばかりの都市整備を行ったことである。それも決して高い料金を取っていたわけではなく、東京をはじめとする大都市の市電がほとんど7銭だった時代に、大阪市電は6銭でよかったのである。

と、引き続き誇らしげに語られており、《市電が架けた橋のひとつ、大江橋。明治44年に開通した。市電の発達は橋梁の近代化を促進する要因にもなった。》という解説とともに大江橋と日本銀行大阪支店の写る写真が掲載されている。市電の敷設とパラレルに進行してゆく大阪市の都市整備のことが端的に述べられていて、本町橋と心斎橋を見ただけでも、そのことはイキイキと実感できたのであった。明治36年9月12日、花園橋(現在の九条新町)〜築港桟橋(のちの大阪港)が最初に敷設された大阪市電だった*4。その後、明治41年8月1日から明治43年12月28日にかけて開通した「第2期線」の東西線と南北線とが開通したことで、市電は市街地を走ることとなり、いよいよ大阪市の都市風景を彩っていくこととなる。心斎橋の架橋はそのまっただなかのことだった。ちなみに、長堀通を初めて市電が走ったのは、明治41年8月1日開通の九条二番道路・四ツ橋間と同年11月1日開通の四ツ橋・末吉橋西詰だったから、石橋の心斎橋のできるちょうど1年前のこと*5


f:id:foujita:20140317112122j:image

『大阪市パノラマ地図』(日下わらじ屋、大正13年1月5日発行)より、心斎橋を拡大。心斎橋の北詰を市電が行き交う。


f:id:foujita:20140317112742j:image

伊東孝編著『水の都、橋の都 モダニズム東京・大阪の橋梁写真集』より。北詰から南方向をのぞんだ構図。


f:id:foujita:20140317112124j:image

不鮮明な画像ではあるけれども、ぜひとも載せたかった写真、『柳屋』第34号(柳屋画廊、昭和3年2月10日発行)の裏表紙、「枝榮柳名木 三幕(前狂言大阪柳の場其二)」と銘打って、店名の「柳」にちなんで柳の木の名所を紹介する趣向のコーナーに掲載の、心斎橋南詰の柳の写真。《勢のよい若木。昨年の秋或日の好晴の折からの風にはやされて乙女のダンスを見るやうでした。》というチャーミングな一文が添えられている。この写真によって、上掲の『大大阪橋梁選集』の心斎橋の写真に南詰の柳が美しく写されているということに初めて気づかされた。


f:id:foujita:20140317112125j:image

北村今三の単色木版。図録『特別展 関西学院の美術家〜知られざる神戸モダニズム〜』(神戸市小磯記念美術館、2013年7月18日)では、昭和6年頃制作の《橋上散策(パラソルをさす女)》として掲載されている。特に明記はされていないけれども、欄干の十字のくり抜きとガス灯は明らかに心斎橋をモチーフにしている。北村今三(1900-1946)は大正12年に関西学院中等部を卒業後、宇治川電気に勤務していた。昭和4年5月に川西英、菅藤霞仙、春村ただお、福井市郎と「三虹会」を結成し、翌月に第1回展覧会を神戸三越で開催、翌年の三紅会第2回展覧会では前田藤四郎もメンバーに加わった。この心斎橋を描いた《橋上散策》はその第2回展覧会に出品された作品。図録所載の年譜によると、今三には他にも多くの大阪の都市風景をモティーフにした作品がいくつもあり、蒐集への思いが駆り立てられる……


f:id:foujita:20140317202655j:image

『近代建築画譜』に掲載の心斎橋の写真。橋の向こうに、上掲の北村今三の木版のモチーフになっている建物が見える。


f:id:foujita:20140317112126j:image

平井房人による心斎橋、木村きよし・平井房人『漫画 大阪繁昌図巻(ちがごろのなにはめいしよゑだより)』より(『銃後の大阪』第3報(大阪市社会部軍事援護課、昭和16年5月31日)掲載)。

この橋の上に飾られた十個の街燈が、電燈ではなくて、ガス燈であることを知つてゐる人はすくないだらう。試みに、黄昏れどきに、この橋上に立つてゐてごらんなさい。明治の版画から抜け出た様な古風な黒づくめの男が梯子を肩にして、突如現れて灯をともして行きますから。置ざりにされた名橋! 大阪文化の発達をこの橋は、ねたましげに、横目でにらみつけてゐる感じです。(平井房人)

戦時中でも心斎橋の上は、着物の女性、背広の紳士をはじめ、さまざまなファッションに身をつつんだ都市生活者たちで大混雑。


昭和16年、平井房人はチャーミングなスケッチともに心斎橋のガス灯のことを伝えている。明治42年に架橋されてから、大正末期に「大大阪」になっても、1930年代に御堂筋が拡張されて地下鉄が開通しても、依然としてガスの灯がともっていたという心斎橋。石橋の心斎橋が架橋されたのと同じ時期の東京を、たとえば久保田万太郎は《明治四十二三年ごろの、ガスのひかりの夢のやうに蒼白かつた時代の東京》としてノスタルジックに回想していたものだった*6。大阪の都市生活者にとっても、心斎橋はそんなノスタルジーを喚起する橋だったのかもしれない。


f:id:foujita:20140317113956j:image

同じく『銃後の大阪』第3報(昭和16年5月31日)に掲載の、藤沢桓夫の文章によるグラビア記事「大阪だより」より、入江泰吉撮影の心斎橋。

 郷土部隊の皆さん。

 この写真の橋に見憶えはありませんか?

 ――うん、たしかに見憶えがあるぞ。

 ――どこやろ?

 ――むかふに見えてゐる建物はたしか、そごう百貨店らしいぜ。

 ――うん、そんなら、この橋は心斎橋に違ひない。

 当りました。その通り、この橋は心斎橋です。

 そして、この写真は、毎朝早く、附近の商店員諸君がこの橋の上に集まつて、宮城遙拝、護国の英霊への黙祷、次いで戦地の皆さんの武運長久をお祈りした後、元気よくラヂオ体操をはじめようとしてゐるところです。

 銃後の勤労者の一日の雄々しい一日のスタート。

 皆さん、大阪はこの通り元気です。

『銃後の大阪』は大阪市役所軍事援護課が、戦地にいる大阪出身の兵隊さんに向けて発行していた時局雑誌なのだけれども、文学、芸能、美術などのジャンルの目次に並ぶ、「モダン大阪」おなじみの顔ぶれがたいへん豪華*7。ここでは、藤沢桓夫が「銃後の」心斎橋の様子を伝えている。



f:id:foujita:20140317112127j:image

中澤弘光による木版、『畿内見物 大阪の巻』(金尾文淵堂、明治45年7月25日)より。スキャナでは写らない微妙な色具合がたいへん美しい。そして、橋爪節也著『モダン心斎橋コレクション』の「描かれた心斎橋」(p44-45)にある、この挿絵を紹介する《宵闇に心斎橋の瓦斯燈がともり、星が瞬く薄明に遠く生駒山の輪郭が浮かび上がる。》という解説にうっとり……。上の入江泰吉撮影の写真のなかで、「銃後の」心斎橋の人びとが朝の橋上からのぞんでいたのも生駒山だった。そして、夜になると、明治末とおんなじように、瓦斯燈がともっていた心斎橋であった。


さて、心斎橋を渡り、イソイソと中尾書店に寄ったあとは、ちょいと四ツ橋まで足をのばすのが前々からの計画だった。四ツ橋文楽座のあった場所に出かけたいと思い続けて早数年、いよいよ念願かなって、やれ嬉しや。……と、四ツ橋文楽座の跡地にゆく、その前にまずは四ツ橋の跡地に向かう。心斎橋南詰で右折して、長堀通を西へ直進、御堂筋を横断し、長堀通を直進すると、ほどなくして高速道路の高架があり、この下を歩いた先が「四つ橋筋」である*8


f:id:foujita:20140317112128j:image

縦横に交差する西横堀川と長堀川の両方ともが現在は埋め立てられいて、さらに西横堀川の上には阪神高速環状線の高架があり、現在の四ツ橋は単に車が行き交うだけの特に絵にならない風景ではあるけれども、高速道路の高架を越えた先の緑地帯に東方向に向かって鎮座する「旧名所 四ツ橋跡」の碑のおかげで、ここに四つの橋が架かっていたのだということはとりあえずわかる。碑の奥には、四つの橋をしのぶ橋の模型(のようなもの)が正方形に配置されていて、長堀川の東が「炭屋橋」、西が「吉野屋橋」、西横堀川の北が「上繋橋」、南が「下繋橋」。近世の都市風景を実感させる個々の橋の名前がなかなか風流で、眺めて嬉しく、四つの橋の名前をすぐに覚えてしまう。


f:id:foujita:20140317112129j:image

ひとたび手にすると夢中になる『大阪市パノラマ地図』(大正13年1月5日発行)より、四ツ橋界隈を拡大。心斎橋から長堀川に沿って西へと歩いてゆくと、心斎橋の次は、当時は御堂筋の場所に橋はなかったので、この画像に見える「佐野屋橋」、「炭屋橋」、西横堀川を渡り、「吉野屋橋」となっている。西横堀川の北に架かる「上繋橋」は市電が走る大きな橋で、南に架かる「下繋橋」は市電のない小さな橋というのが一目瞭然。そして、市電が交差する四ツ橋交差点の南に架かる橋、すなわち四つの橋のすぐ西に架かるのは「西長堀橋」。


f:id:foujita:20140317112130j:image

『大大阪橋梁選集』全3輯(創生社、昭和4年9月〜12月)の写真を収録している、伊東孝編著『水の都、橋の都 モダニズム東京・大阪の橋梁写真集』(東京堂出版、1994年7月10日)より、四ツ橋を南東から北西方向へ一望する写真。手前の右が炭屋橋(昭和3年2月竣工)、左が下繋橋(昭和3年2月竣工)、炭屋橋の向かいが吉野屋橋(昭和3年11月竣工)、下繋橋の向かいが市電の通る上繋橋(昭和2年12月竣工)。「四ツ橋」を構成する4つの橋は、上繋橋を皮切り昭和2年12月から翌年11月にかけて、1年の間に次々と整備されていった。そして、昭和3年11月6日に渡り初め式が挙行された(大阪歴史博物館の図録『特別展 大阪/写真/世紀―カメラがとらえた人と街―』(2002年8月10日)の17ページに写真が載っている!)。高欄廻りは御影石と青銅鋳物で仕上げられ、4つのアーチ橋としてデザインが統一されていた。手前左の下繋橋の東岸に鬼貫の句碑「後の月 入て貌よし 星の空」がある。『大阪の橋ものがたり』によると、昭和3年、鬼貫没後190年を記念して地元の御津青年団が建立したものとのことだから、これは新しい四ツ橋と同時期に誕生したという点でもまさに記念碑的な句碑なのだった。


f:id:foujita:20140317112131j:image

上の写真を反対側から望んだ写真、右が下繋橋、左が炭屋橋、同じく伊東孝編著『水の都、橋の都 モダニズム東京・大阪の橋梁写真集』より。4つの橋はいずれも、上路式のアーチ橋だった。


f:id:foujita:20140317112132j:image

四つの橋を特徴づけていた街灯。


f:id:foujita:20140317112133j:image

《吉野屋橋(昭和3年11月)と下繋橋との橋台地に設置されていた。「涼しさに 四つ橋を四つ 渡りけり」 橋上からのながめは、大阪名勝のひとつで、とくに納涼や観月の場として知られていた。小西来山は生粋の大坂人で、承応3年(1654)、船場の薬問屋に生まれた。》、伊東孝編著『水の都、橋の都 モダニズム東京・大阪の橋梁写真集』より。


f:id:foujita:20140317112134j:image

玉澤潤一《四ツ橋》、『銃後の大阪』第5報(大阪市役所市民局軍事課、昭和18年7月5日)の色刷りの口絵。《「涼しさに四ツ橋四つ渡りけり 來山」の句碑がわづかに昔時の情緒を追想せしるのみ。電気科学館の近代的な建築をバツクに忙しげな産業戦士の姿が足早やに句碑の前を通り過ぎる。》という画家による短文が添えられている。上掲の小西来山の句碑のところから北を向いたところに、昭和12年3月11日、大阪市立電気科学館が開館し(3月13日から一般公開)、1989年5月に閉館するまで六十年余り、四ツ橋のランドマークとなっていた*9


f:id:foujita:20140317112135j:image

『杵屋栄二写真集 汽車電車』(プレス・アイゼンバーン、昭和52年10月10日)より、長堀川沿いの四ツ橋停留所を電気科学館上から撮影した写真。昭和9年から13年にかけての鉄道写真を収録した写真集である本書にも、《昭和初期の頃から、ファンの間では "電車は関西" の定評のあった土地柄だけに、当時の市電でも最も多彩で活発だったのが、大阪の市電であった。》と大阪市電への賞賛の声。大の鉄道ファン・杵屋栄二にとっては、電気科学館は絶好の撮影スポットの誕生だったのだと思う。杵屋栄二もきっと四ツ橋交差点の「ダイヤモンドクロッシング」に大興奮していたに違いない。


f:id:foujita:20140317113955j:image

北村今三《四つの橋》昭和初期・木版色摺(京都国立近代美術館蔵)、図録『特別展 関西学院の美術家〜知られざる神戸モダニズム〜』(神戸市小磯記念美術館、2013年7月18日)より。初めて見たときから心惹かれた四ツ橋界隈の都市風景を描いた版画。上掲の『大大阪橋梁選集』の写真と照らし合わせると、炭屋橋と下繋橋を結ぶ南西の角にある「巴フロ」と「森田ポンプ」の看板が左右逆だったり、市電の線路が上繋橋になかったりと現実の風景とは異なっているけれども、南東の心斎橋の大丸に連なる低層の屋根が切り絵ふうに配置されたところなど、いかにも今三ふう。昭和初期も江戸時代とおなじように、四つ橋は絵心をくすぐる都市風景だったのだと思う。



f:id:foujita:20140317203831j:image

織田一磨《四ツ橋雨景(『大阪風景』の内)》大正7年4月・石版、『織田一磨展図録』(町田市立国際版画美術館2000年9月30日)より。


f:id:foujita:20140317203832j:image

織田一磨《四ツ橋の柳(『画集大阪の河岸』の内)昭和9年2月・石版、『織田一磨展図録』より。大正7年4月制作の《四ツ橋雨景》とおなじく、昭和9年制作の石版でも、織田一磨は河岸の柳を描いている。



(現存でも一部残存でもまったく残っていなくても、いずれにしても、大阪の橋めぐりはいつもとてもたのしい。後篇は、佐野屋橋南詰の南西角の四ツ橋文楽座跡地へと続く……。)

--------------

*1:日文件データベースに画像データ(http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2431.html)あり。また、1991年にワラヂヤ出版より大正13年刊の復刻の刊行されている。

*2:『大阪市交通局七十五年史』(大阪市交通局、昭和55年3月31日)の「第1章 総説」の「2 市営バスの開業」の項に、《大阪乗合自動車(青バス)は、大正13年7月2日フォードT型80台でスタートし、路面電車のドル箱路線である堺筋、四ツ橋筋、上本町筋などを走り廻った。たまたま、青バス開業の翌7月3日路面電車従業員がストに突入、高野山に立てこもったため路面電車の料金(片道6銭)よりも高い青バス(1区10銭)も市民に親しみをもって迎えられ市営バス実現がますます阻まれた。》とあり、依然敵意むきだしの筆致が味わい深い。昭和2年2月26日に市営バス(銀バス)の営業が始まり、青バスと激しい競争の末に、昭和15年6月1日、戦時体制下における企業統合化の機運に促されて、市は青バスの全株式を買得し、民営バスの市営統合による市内バス一元化が実現した。

*3:図録『北野恒富展』(2003年)所載の橋爪節也編「北野恒富年譜」の、大正12年11月の項に、《根津清太郎・松子の結婚式の大振袖を描く。三枚襲の大振袖の一番上の黒地に松の雪、金通しの織地の帯に王朝の黒髪を妖艶に垂らした女を描く。縁談は、美術愛好家である清太郎と松子の父との関係と恒富のはからいで成立。結婚前に清太郎と大和屋の舞妓梅弥との関係の清算も恒富が仲介した(谷崎松子『蘆辺の夢』)。松子は恒富に画を学んでいたという(北野悦子談)。昭和七年三月に松子は谷崎潤一郎と恋愛関係に陥り、昭和一〇年一月に谷崎と結婚した。》とある。

*4:海野弘著『モダン・シティふたたび――1920年代の大阪へ』(創元社、昭和62年6月1日)のはじまりも大阪港だったということをなんとはなしに思い出した。「序 一九二〇年代の大阪へ」で、著者は《大阪市役所が一九二〇年につくった「大阪市区改正設計図」》をひろげて、《何色ものカラーの線が縦横にひかれている》道路の予定線を見ながら思いをめぐらす。そして、《私はどこから大阪に入っていくか迷った。すぐ思いつくのは、大阪(梅田)駅である。しかしこれは、東京からのアプローチではないだろうか。〈二〇年代〉の大阪には、もう一つ、海からの入口があった。九州や四国など西からの人々にとって、港こそ、この大都市への最初の一歩を踏み出すところであったはずだ。そして、港湾は、上海、さらにはヨーロッパなどにつづく、モダニズムのルートでもあったはずである。〈二〇年代〉がモダン都市の先端として期待した港区のあたりは、今、忘れられている。私はその思い出のために、大阪モダン・シティの旅を港からはじめたいと思った。》と帰結する。

*5:『大阪市交通局五十年史』(大阪市交通局、昭和28年10月12日)の「路面電車事業」の「設備」の項に建設工事の過程が詳説されている。花園橋西詰〜築港桟橋の第1期線(明治36年9月12日開業)に引き続く、東西線と南北線の《第2期線工事により改築または新たに架設せられたる橋梁》として、伯楽橋、上繋橋、渡辺橋、肥後橋、西長堀橋、深里橋、大江橋の計7つが挙げられている。そして、明治42年11月22日から大正5年12月27日にかけて開通した《第3期線の工事により改築または新たに架設せられたおもな主な橋梁》として、端建蔵橋、末吉橋、淀屋橋、長堀橋、日本橋、葭屋橋、堀川橋、天満専用橋、難波橋、城東線陸橋、新櫨橋、大正橋、湊町橋、賑橋、関西線陸橋、南海線陸橋、木津川橋、江ノ子島橋、信濃橋、本町橋、新船津橋の計21つが挙げられている。これらの橋の上を次々と通過することで、市電は「水都大阪」の都市風景を彩っていたということが、橋の名前を眺めることでヴィヴィッドに実感できる。

*6:「木下杢太郎忌」(『東京新聞』昭和35年11月28-29日・中央公論社版全集第12巻)より。《"スバル" "新思潮" "白樺" "三田文学" 等に據つた文学者たちのむれ、パウリスタだの、プランタンだの、ライオンだのといふ、カフェエと称するものゝはじめてあらはれた銀座、ひきつゞく自由劇場の試演、パンの会……杢太郎にいはせると、それは、江戸情緒的異国情調的憧憬の産物だつた……日本橋小網町河岸のメーゾン・コオノス、五色の酒 etc ……》の象徴としての瓦斯灯時代。

*7:酒井隆史著『通天閣 新・日本資本主義発達史』(青土社、2011年12月10月)に、《第一報は執筆者のほとんどすべてが大阪府市の役人ばかりでお世辞にも食指を誘うものではない。第二報もいまだ堅苦しいものであるが、第三報にいたるや調子は一変、執筆陣も目を見はるほど贅沢で内容豊富なものになっている。》と指摘されている(p25)。でも、《お世辞にも食指を誘うものではない》第1報(昭和14年5月31日)も、赤松雲嶺の表紙絵《澱江春景》をはじめ、矢野橋村《石清水八幡》、菅楯彦《住吉神社》、北野恒富《生国魂神社》、生田花朝《銃後の祈》、木谷千種《千人針》といったカラー口絵(それぞれに入江來布による句が添えられている)が美しく、ヴィジュアル的には見どころたっぷり。

*8:辰巳博著・福田静二編『大阪市電が走った街 今昔』(JTBキャンブックス、2000年11月15日)によると、「よつばし」の「つ」がひらがなかカタカナかについての区別は、街路名を表す場合はひらがな、地名を表すときはカタカナという原則だという。「四つ橋筋」であり「四つ橋線」であり、「四ツ橋駅」ということになる。交通事情を管理する交通局と道路を管理する土木局とで監督官庁の届け出の仕方が異なることによるものという。なるほど……。

*9:『大阪市交通局七十五年史』(大阪市交通局、昭和55年3月1日)に、《電燈市営10周年を記念して、昭和12年3月にオープンした電気科学館は社会教育としての使命のもとに、各種産業の電気の応用を指導しうるようにしていたが、なかでも天象館には東洋唯一のプラネタリウムを設置し、天文知識の普及に貢献したことは特筆に値する。》と誇らしげに語られている。なお、このあと、《電燈電力の市営も昭和14年4月国策による電力統制のため、発電所は日本発送電株式会社(戦後9電力に分割)に統合され、ついで配電部分も昭和17年4月配電統制令により、統制会社たる関西配電(現在の関西電力)に統合され、明治41年以来34年間にわたり市内に電力、電燈を供給してきた市の電気事業はここに終止符を打った。》と続く。上掲の玉澤潤一により四ツ橋が描かれた頃は市営の電気事業が終わっていた時期であった。現在の電力状況を思う上でもなにかとしみじみ……。

20140101

あけましておめでとうございます


「日用帳」は2014年でかれこれ12年目、今年もマイペースに続けていければといいなと思いつつも、今年こそはもうちょっと精進したい。本年も何卒どうぞよろしくお願いします。なにはともあれ、よき日々になりますように。



f:id:foujita:20140101153908j:image

北村今三の1930年の年賀状(多色木版)。84年前の午年。「鶏口となるも牛後となるなかれ」の「牛」を「午」にアレンジしてみたのかな、馬のしっぽの鶏がユーモラス。神戸の版画家・北村今三(1900〜1946)は大正12年に関西学院中等部を卒業後、宇治川電気に勤務。この年賀状の前年の昭和4年5月に、川西英、菅藤霞仙、春村ただを、福井市郎らと「三紅会」を結成。昭和5年6月の第2回三紅会展には前田藤四郎が加わっている。

20131224

1930年代の都会新風景・空の広告風船玉。鈴木信太郎の《東京の空(数寄屋橋附近)》からはじまる、アドバルーンにまつわる走り書的覚え書。

昭和6年の『都新聞』の縮刷版を眺めていたら、昭和6年4月23日の紙面にて、「都会新風景 空の広告風船玉」という見出しの記事が目にとまった。

「月もデパートの屋根に出る」の風情でビルデングやデパートの屋根に出る昼間の月――長い尾を曳いて大空にポツカリ浮んでゐる広告の大きな風船玉が、此頃卅一年型の都会風景の一つに数へられるやうになりました、さて、あの風船玉の正体は?

(中略)そもそも風船玉の広告の起因はアメリカださうですが、我国でも実は六年以前からあるのです、而し当時は経費の関係や其他で余り振るはず、従つて人目にも付かなかつたが、経費は安くなる、人間の空への興味は断然加速度的に加はる、そこで一九三一年には俄然、都会風景の尖端ものとして皆様の目にとまるやうになつたわけです、世の航空時代と相俟つて、この広告の立体化、空間化は、今後ますます宣伝の処女地「大空」を開拓して行く事でせう

というふうに書かれてある*1。そうか、アドバルーンが「俄然、都会風景の尖端ものとして」人びとの目にとまるようになったのは、まさにこの時期、昭和6年前半のことだったのだなあと大いに感興がわいたところで、まっさきに思い出したのが、鈴木信太郎の《東京の空(数寄屋橋附近)》のこと。



f:id:foujita:20131224210247j:image

鈴木信太郎《東京の空(数寄屋橋附近)》昭和6年、図録『鈴木信太郎展 親密な空間、色彩の旅人』(そごう美術館、2006年)より。


鈴木信太郎がこの《東京の空(数寄屋橋附近)》を完成させたのは昭和6年8月だったというから、『都新聞』に「都会新風景 空の広告風船玉」の記事が出た4ヶ月後。つまり、この作品は、「一九三一年には俄然、都会風景の尖端ものとして皆様の目にとまるやうになつた」という、まさにそのまっただなかの都市風景を描いているということになる。桑原住雄著『東京美術散歩』角川新書(角川書店、昭和39年4月30日)には、

八王子から出てきて荻窪に居を構えてまもない鈴木信太郎は銀座にアドバルーンが上がったといううわさを聞いて、今年の第十八回二科展の絵はだれよりも先にアドバルーンで行こうとひそかに心にきめた。八月も上旬のある日、荻窪からタクシーを拾って数寄屋橋まで乗りつけた。料金は一円五十銭なり。値切れば五十銭でたいていのところに行けた時代のことだ。展望のよくきく朝日新聞社の四階の応接間の窓から素早くスケッチをとった。新聞社のカメラマンに頼んで写真もとってもらった。スケッチをしているうちに、すぐ近くにもアドバルーンが上がった。彼はその大きさに眼をみはったものだ。こうして銀座に通うこと三度、搬入の間ぎわにやっと完成した。

というふうに当時のことが語られている(典拠は未見。上掲のそごう美術館の図録の解説にも同じ内容が書かれている。)。鈴木信太郎は意図的に「都会新風景」としてのアドバルーンを自らの作品のモティーフに取り入れたのだった。


鈴木信太郎の《東京の空(数寄屋橋附近)》を初めて見たのはちょうど七年前、2006年12月に出かけた八王子夢美術館で開催の《親密な空間、色彩の旅人 鈴木信太郎展》でのことだった(その後、2008年10月に東京都庭園美術館の《1930年代・東京 アール・デコの館(朝香宮邸)が生れた時代》展でも再会している)。この作品はそごう美術館に所蔵されていて、鮮やかな色彩の大きな画面で(サイズは130.3×193.9)、この絵を見ることができる機会は今後もきっと訪れることであろうと思うとふつふつと嬉しくなってくる。画面の上半分では東京の空に浮かぶ風船玉がふんわりと幻想的な雰囲気を醸し出している一方で、昭和4年5月に架橋の数寄屋橋*2、河岸の泰明小学校、その手前の数寄屋橋公園といった都市風景、画面の下半分の町並みは結構リアルに描かれていて、昭和6年時点のこの界隈の都市風景が鮮やかに記録されているという点でも興趣が尽きない。なかでも数寄屋橋公園は、「都会新風景 空の広告風船玉」の記事の2か月前、2月13日付けの『都新聞』の紙面にて「橋のほとりの小公園」という見出しで、日本橋川河畔の神田橋公園とともに近日の開園が予告されていていたばかり*3。つまり、数寄屋橋公園も空に浮かぶアドバルーンとおなじく、この界隈のできたてほやほやの都市風景であった。そして、注目なのは、画面左端のアドバルーンが「しかも彼等はゆく」の広告になっているということ。溝口健二監督の日活京都太秦撮影所作品『しかも彼等は行く』の下村千秋による原作が昭和4年晩春から初夏にかけて『都新聞』に連載されていたことにちなんで、昭和6年6月11日、封切にあたっての無料鑑賞会が都新聞社の主催で賑々しく催されている。その会場となった日比谷公会堂も画面右中央部にかすかに見えるような、見えないような……。



f:id:foujita:20131224210248j:image

溝口健二の『しかも彼等は行く』のアドバルーンのかかっていた日動画廊の屋上。伏水修監督の『東京の女性』(昭和14年10月封切)の撮影時のスナップ、《「東京の女性」銀座ロケ・スナツプ/明眸原節子が自から自動車を駆つて自動車会社のセールス・ウーマンとして颯爽と登場です。右より君塚水代・江波和子、タイピストたま子・水上怜子、君塚節子・原節子に演技指導をする。演出・伏見修。》、『東宝映画』第3巻第11号・昭和14年10月15日発行より。


日動画廊の建物の正式名称は「日本動産火災保険東京支店」。昭和6年1月竣工だから、実はこの建物も数寄屋橋公園とおなじく、鈴木信太郎の《東京の空(数寄屋橋附近)》ではできたてほやほやの都市風景として描かれていたのだった。戦前昭和の清水組施工の建物を抄録した写真集、『震災復興〈大銀座〉の街並みから』(銀座文化史学会、1995年12月12日)によると、日本動産火災保険東京支店が竣工した当時の現在の外堀通りはビルがまだ少なく、震災後のバラックが依然残る淋しい場所だったという。それから8年後、昭和14年の上掲の写真の向かいにそびえたっているのが昭和9年9月竣工のマツダビルディング、屋上の右端に見える特徴的な塔屋がかつてはこの建物のシンボルだった(つい最近まで数寄屋橋阪急の入っている建物として骨組だけは竣工当時のまま残っていたものの、現在は工事の真っ最中でこの場所は更地)。鈴木信太郎が《東京の空(数寄屋橋附近)》を描いた昭和6年当時は、数寄屋橋公園と日動画廊の間は低層の建物が並んでいて、朝日新聞社からこの方向を望むと、6階建ての日動画廊がもっとも高層の建物だった。鈴木信太郎の絵の3年後の昭和9年9月、朝日新聞社と日動画廊の間を隔てるようにして、マツダビルディングが竣工したのだった。



f:id:foujita:20131224210249j:image

昭和9年11月10日にマツダビルディングの屋上から塔屋の対角線上の銀座3丁目方向を望んだ写真、『震災復興〈大銀座〉の街並みから』(銀座文化史学会、1995年12月12日)より。鈴木信太郎の《東京の空(数寄屋橋附近)》から3年後、アドバルーンのある都市風景はますます都会の人びとに定着していたことを伝えるこの写真は白黒だけれども、青い空が目に鮮やかに見えるかのよう。アドバルーンを見るということは空を見るということだということに気づく。


そして、マツダビルディングの竣工した昭和9年という年は小林一三による宝塚の東京進出が実現した年であり、東京宝塚劇場(昭和9年1月)、日比谷映画劇場(昭和9年2月)、有楽座(昭和10年6月)が次々と開場していった。その有楽座で全盛時代を謳歌した古川ロッパは、マツダビルディングの最上階の8階のレストラン「ニューグランド」を行きつけにしていた。つまり、鈴木信太郎の《東京の空(数寄屋橋附近)》は東宝の宝塚進出前夜のこの界隈を記録しているということにもなる。有楽座の跡地は日比谷シャンテとなり、東京朝日新聞も日動画廊も東京宝塚劇場の建物も建て替えられて、つい最近まで健在だった三信ビル(昭和4年竣工)もマツダビルディングも取り壊されて跡地は現在工事中だけれども、昭和4年6月竣工の泰明小学校だけは昭和6年に鈴木信太郎が描いたのと同じ姿で今も残っていて、向かいのオー・バカナルでこの建物を眺めながらワインを飲むのがいつも大好き。平日の日没後、丸の内の職場から有楽町を迂回して、かつて三信ビル、日比谷映画劇場、有楽座のあった場所を歩いて、右手に東京宝塚劇場、手前に帝国ホテルとなったところで左折して、煉瓦の古い高架をくぐって、泰明小学校を建物を左手、その奥に東京朝日新聞の場所にそびえたつマリオンをのぞんで、銀座に出るというコースをここ十余年折に触れたのしんでいる。そんなこんなで、鈴木信太郎の《東京の空(数寄屋橋附近)》の都市風景は極私的にかねてより愛着たっぷりなのだった。来年は東京宝塚開場80年の年。



f:id:foujita:20131224210250j:image

昭和6年8月24日の『都新聞』に掲載の「上野へ上野へ=二科展出品の搬入」の記事。《秋の美術シーズンが来た 廿三日は二科会の搬入第一日目である 昨年予定を超過して四千点を突破したので、例年よりは搬入の日を早めたのである……》というふうにはじまり、《作品を運ぶ看守嬢の汗が滝のようである 室外につくづく法師が激しく鳴いてゐる》というふうに締めくくられる二科展の搬入の喧噪。この年の二科展は9月3日から10月4日まで東京府美術館で開催された。



f:id:foujita:20131224210251j:image

佐野繁次郎《休日》、『美術新論』第6巻第10号(昭和6年10月1日)より。白黒画像で残念だけれども、鈴木信太郎が《東京の空(数寄屋橋附近)》を出品した二科展に佐野繁次郎が出品した作品。同誌掲載の仲田定之助「モダーニズムの部屋」では佐野の作品に対して、《佐野繁次郎君の作品には建築的な主題を取扱つた「朝」「休日」がある。白、灰、黒等の統一された色態はシツクではあるが、累積された建築群の構成は気取つた描線が弱々しくつて頼りない。》という論評がある。


この年の二科展の第3室は小出楢重の遺作室で、《裸女》や《枯木のある風景》、《鏡と裸女》といった作品が展示されていた。小出楢重は昭和6年2月13日に死去。図録『佐野繁次郎展』(2005年発行)所載の柚花文編「佐野繁次郎略年譜」によると、佐野は大正13年4月に信濃橋洋画研究所に通いはじめている。信濃橋洋画研究所について佐野は後年、《小出楢重さんが他の人の絵も見た方がいいとすすめてくれたからだ。東京はそれから赤坂にアトリエをもってこんど焼失するまでいた。》と綴っている(「わが青春期」、『東京新聞』昭和31年3月7日)。図録『佐野繁次郎展』巻頭の橋秀文氏の文章によると、《佐野繁次郎の戦前や戦中の二科会に出品された作品は、その後、行方不明となりどこに所蔵されているのか、判らずじまいであった。》とのことで、2005年に開催の佐野繁次郎展で展示されていた戦前の作品は、横光利一『機械』(白水社、昭和6年4月)の原画と昭和14年の第26回二科展出品作《アトリエ》(鶴岡市蔵)の2点のみだった。上掲の《休日》は横光の『機械』の原画とほぼ同時期の作品ということになる。



f:id:foujita:20131224210252j:image

炎天下の舗道で制作に励む佐野繁次郎、『アサヒグラフ』昭和7年8月3日号のグラビア記事「『二科』のお歴々 炎天下の制作ぶり」より。

濾過されたパリ風景

上衣もネクタイも取り、シヤツの袖をまくりあげてブラツシユを鷲づかみに、真夏の日盛りをペーヴメントの上で百号の大物と取つ組み合ひをしてゐる佐野君の精進ぶりは悲壮だ、涼しさうに自動車を走らしてゐた綺麗な女がニコリつと笑つて過ぎて行く

なる一文が添えられている。この記事は「やらせ」感みなぎるグラビアがご愛敬で、佐野繁次郎が前にしているキャンバスをよくよく見てみると、まぎれもなく前年に二科に出品の上掲の《休日》なのだった。



1930年都市風景にまつわる散文、絵画、映画、写真等をつらつら眺めていると、ちょくちょくアドバルーンのある風景が登場し、おのずとここ数年、アドバルーンのある風景にそこはかとなく心惹かれるようになっていた。アドバルーンを初めてはっきりと意識するようになったのは、槌田満文著『文学にみる広告風物誌』(プレジント社、1978年11月5日)がきっかけだったかと思う。この本を手にとったのは、2006年年末に鈴木信太郎の《東京の空(数寄屋橋附近)》に対面した直後だったから、なおのこと印象は鮮烈だった。この本のなかの一篇、「ふわふわ人生」と題された文章は、

 「空にゃ今日もアドバルーン、さぞかし会社でいまごろは、おいそがしいと思うたに……」という歌い出しの「ああそれなのに」は、星野貞志(サトウ・ハチロー)作詞、古賀政男作曲の流行歌で、昭和十一年から翌年にかけて、レコードが五十万枚も売れる大ヒットとなった。

 坂本英男編『広告五十年史』(昭和26年刊)によれば、アドバルーン(広告気球)をあげたのは大正五年一月に米国の飛行家アート・スミスが来日して飛行ショーを行なったときが最初とされているが、まだ高層ビルが多くなかった昭和初年には、いつも何個か空にただよう都会風物として、その姿は市民の目に新しいものとなっていた。

 「白い雲。ぽっかり広告軽気球が二つ三つ空中に浮いてゐる。――」と書き出された武田麟太郎の「日本三文オペラ」(昭和7年作)は、その近代的なアドバルーンをあげている浅草公園裏口のぼろアパートが舞台。広告文字の綱が「汚い雨ざらしの物干台」につながっている不似合いな光景が、当時の時代相を示しているようだ。

というふうに書き出されて、「アドバルーン」と聞けば誰もがまっさきに思い出すにちがいない織田作之助の短篇『アド・バルーン』へとつながってゆく*4。「今日も空には軽気球[アドバルーン]……」とぼそぼそと口ずさむところで終わる、十吉の「ふわふわ人生」を描いた短篇。その「今日も空にはアドバルーン」は、久保田万太郎の短篇『花冷え』(初出:中央公論」昭和13年6月)にも、《……今日も空にはアドバルン。……花ぐもりといってしまへばそれだけの、その空に雲が濃く……》というふうにさりげなく取り入れられていることも、槌田満文は指摘している。


昭和6年4月23日付け『都新聞』に「都会新風景 空の広告風船玉」の記事が出て、その年の二科展に鈴木信太郎の《東京の空(数寄屋橋附近)》が出展されて、アドバルーンがますます「俄然、都会風景の尖端ものとして」、人びとの目に触れることとなっていたのが、1930年代の都市風景だった。



f:id:foujita:20131224210253j:image

昭和7年の1月31日の『読売新聞』朝刊に政友会本部に掲げられたアドバルーンの写真が掲載されている。「32年型政戦風景」の見出しとともに、《政友会本部では廿九日「不景気退治の此の一戦」と記した広告風船をあげた 黄色い気球に赤の文字 それが屋上高く漂つてゐるのも三二年式政戦風景の一つ》の文字が添えられている。昭和7年は五・一五事件の起こった年でもあった。



f:id:foujita:20131224210254j:image

河野鷹思の挿絵、沙門八郎「気球[バルーン]と少女」、『報知新聞』昭和7年4月28日掲載、川畑直道監修・文『青春図會 河野鷹思初期作品集』(河野鷹思デザイン資料室、2000年7月14日)より。「懸賞短篇小説」の1等に入選の本作品は、P百貨店宣伝部入社1年目の「デパートの風船上げ」と自嘲している青年と丸の内のタイピストを目指すエレベーターガールのささやかな恋物語。青年はバルーンを誤って空に飛ばしてしまったことで失職する。この短篇の1年後、昭和8年4月2日の『読売新聞』には「浮かれ広告気球 春空に消ゆ」の見出しで、帝劇で上映中の『お蝶夫人』のアドバルーンが木挽町のビルの屋上から飛び去ったことが報じられている。「地上の都人士は何れも手をうつての大喜び」とあるから、宣伝効果がかえって大きくなったかも。アドバルーンにはちょくちょく起こりがちな事態だったのかもしれない。




f:id:foujita:20131224210255j:image

鈴木信太郎《霞ヶ関風景》昭和7年、図録『鈴木信太郎展 親密な空間、色彩の旅人』(そごう美術館、2006年)より。今和次郎『新版大東京案内』(中央公論社・昭和5年7月1日→ちくま学芸文庫)の「動く東京」の「一、官衙」の書き出し、

官衙の文字からして連想は直線的である。曲線ではない。だから、したがつて官衙から柔軟な美を発見することは困難で、そこにあるものは無味乾燥な御役所風、と云つてしまへば、それまでゞあるが、鳥瞰して描写する官衙にも、また時代の変化からきた面白さはある。

という一節をなんとはなしに思い出す霞ヶ関風景。昭和6年の《東京の空(数寄屋橋附近)》に引き続いて、翌昭和7年の二科展に出品の《霞ヶ関風景》でも鈴木信太郎は今度はかすかにではあるけれども、引き続きアドバルーンを描いていたのだった。堅固なお役所の建物の奥にかすかに見えるアドバルーン。河野鷹思の挿絵に描かれた「P百貨店」のバルーンなのかもとちょっと妄想したくもなる。



f:id:foujita:20131224210256j:image

藤牧義夫《朝(アドバルーン)》昭和7年11月以前、『生誕100年 藤牧義夫』(求龍堂、2011年7月20日)より。同書の作品目録によると、現在は東京国立近代美術館に所蔵されているこの作品は清水正博の旧蔵品。新版画集団の仲間であった清水正博は昭和9年6月、上野松坂屋の中二階で開催の新版画集団四回展の折にに「朝」というタイトルの作品の刷りを藤牧に注文、その際に藤牧が6月16日消印の葉書で「朝はバルーンのとんで居る奴だつたと思ひますが」と返答していることから、当時の目録では図版の確認できない第1回新版画集団展(昭和7年10月15日〜20日に銀座4丁目川島商店楼上で開催)に出品の《朝》がこのアドバルーンの描かれている作品であると推定されているとのこと。



f:id:foujita:20131224210257j:image

清水正博《バルーン》昭和9年、図録『近代版画にみる東京―うつりゆく風景―』(東京都江戸東京博物館、1996年7月29日)より。白黒の図版で残念だけれども、アドバルーンをモチーフとしたこの作品(和歌山県立近代美術館所蔵)は、もしかしたら、昭和9年6月に清水正博が刷りを依頼した藤牧義夫の《朝》に刺激されて描いた都市風景なのかも。ちなみに、『生誕100年 藤牧義夫』所収「藤牧義夫・略年譜」には、昭和9年6月の項に、《六月初旬 新版画集団員・清水正博が「雑誌部ニュースNo.六」(ガリ版摺り、二枚)に「浅草祭浅草浮世繪集 浅草今昔展より 六月十-三十日」を作成する。その展覧会に鶴岡蘆水の《隅田川両岸一覧》が展示されていた。藤牧はこの展示を観ていたのかもしれない。》という記述がある。藤牧が《隅田川絵巻》の試作に着手したのは、この年の9月中旬のことだった。二人は「新版画集団」の昭和7年4月の設立当初以来の仲間であり、お互いに影響を受け合っていたのだと思う。



f:id:foujita:20131224210258j:image

『大東京百景版画集』(日本風景版画会、昭和7年10月1日)。昭和7年10月1日、東京市は郊外の隣接町村を合併して15区から35区に広がり「大東京」となり、大正14年4月1日成立の「大大阪」をしのぐ日本一の大都市となった。「大東京」実現を記念して刊行の本書のチラシには、《……東京の現在を後世に遺す目的にてこの画集を計画致しました。版の様式は、ヂンク版とし、我が洋画界の権威者に作を希ひました。作者は去る梅雨の頃により幾多の苦心と大なる努力の結果漸く大東京版画集が出来致しました。収むる内、新市域二十ヶ所は、都新聞の編纂にかゝるを当会がその発行権を譲受け、旧市内十五区四十図を加へて百景と致しました。》とある。

足立源一郎、有島生馬、木下義謙、木村荘八、小島善太郎、小林徳三郎、津田青楓、中川一政、中川紀元、中村研一、硲伊之助、橋本八百二、林倭衛、林武、正宗得三郎、南薫造、森田恒友、矢島賢土、安井曽太郎、山崎省三、山下新太郎、山本鼎、横堀角次郎の計23人の画家による「大東京百景」と個々の風景に対する小文を収録した本書の表紙を飾るのは、「と」の字のサインが添えられたアドバルーンのある東京風景。昭和6年春先に『都新聞』に「都会風景の尖端もの」として報じられていたアドバルーンは、昭和7年成立の「大東京」の都市風景の象徴といってもよいのではないかしらと、ここであえて図式化してしまいたい。

そして、画家たちが「大東京百景」を描き始めたという、昭和7年の梅雨の頃に発表されたのが、槌田満文著『文学にみる広告風物誌』にも紹介されていた、武田麟太郎の『日本三文オペラ』(初出:「中央公論」昭和7年6月)。その書き出しは、

白い雲。ぽっかり広告軽気球が二つ三つ空中に浮いている。――東京の高層な石造建築の角度のうちに見られて、これらが陽の工合でキラキラと銀鼠色に光っている有様は、近代的な都市風景だと人は云っている。よろしい。我々はその「天勝大奇術」又は「何々カフェー何日開店」とならべられた四角い赤や青の広告文字をたどって下りて行こう。歩いている人々には見えないが、その下には一本の綱が垂れさがっていて、風に大様に揺れている。これが我々を導いてくれるだろう。すると、我々は思いがけない――もちろん、広告軽気球がどこから昇っているかなぞと考えて見たりする暇は誰にもないが――それでも、ハイカラな球とは似つかない、汚い雨ざらしの物干台に到着する。

というふうになっている。『大東京百景』の表紙に描かれている「広告軽気球」のふもとはどんなふうになっているのだろう。



f:id:foujita:20131224210259j:image

藤牧義夫《新版画集団第2回展ポスター》1933年2月以前、『生誕100年 藤牧義夫』より。前年の新版画集団第1回展に上掲の《朝》を出品した(と推定されている)藤牧は引き続き、このポスターにアドバルーンを描いている。独特のレタリングとレイアウトが冴える。ポスターという広告媒体のなかに、アドバルーンとメガホンをもつ男という二つの広告媒体が描かれているのがどこかユーモラスでもある。藤牧義夫は昭和4年に館林から上京、『きつつき』第3号(昭和6年6月28日)に、《朝霧》が藤森静雄によって「第一回応募作品優秀作」に選ばれたときが初めて版画家として世に出たときだったようだ。この《朝霧》は昭和5年11月9日の制作で、高架線が描かれていていかにも1930年代都市風景の気分がみなぎる作品。以後、藤牧は昭和10年9月2日に満24歳で消息をたつまで、1930年代前半を駆け抜けるようにして都市風景を描いたのだった。



f:id:foujita:20131224210300j:image

山脇道子《とろけた東京》、『アサヒカメラ』昭和8年8月1日(第16巻第2号)、「カメラは踊る夏のステップ(特集2)」より。《汗でゆだつた銀座のスナツプを、鋏と糊でモンタージユして居る間だけは確かに暑さを忘れて居ます。――二面のフオトモンタージユは合計廿一枚の写真からなる――》。山脇道子作成によるフォトモンタージュのうちの1面には銀座東3丁目の松屋の並び、伊東屋と明治製菓銀座売店の建物があしらわれ、明治製菓の後方にあがるアドバルーンには「冷房装置完備」の字幕が下がる。この年の2月11日に新装開店したばかりの明治製菓売店の広告なのかもしれない。銀座の鋪道をゆく暑さでとろけた人びとの目に触れていたアドバルーン。


昭和5年9月、山脇巖と道子は夫妻そろって念願のバウハウスに入学したものの、昭和7年9月30日をもってデッサウのバウハウスはナチスの台頭によって閉鎖を余儀なくされ、翌月にベルリンで再開のバウハウスに入ることはなく、デッサウの閉鎖を機に昭和7年末に帰国し、山脇夫妻は銀座の徳田ビルに翌昭和8年1月から8月まで居を構えていた。土浦亀城設計の徳田ビルは、鈴木信太郎の《東京の空(数寄屋橋附近)》に描かれている泰明小学校の並びにあった典型的な近代建築。昭和7年竣工だから、鈴木信太郎の絵には描かれていない。2年余りの渡欧生活を切り上げて、昭和7年末に帰国した山脇巖と道子にとって、アドバルーンのある風景は東京の新しい都市風景として目に映ったのかもしれない。



『都新聞』に「都会新風景 空の広告風船玉」の記事が出たのは、昭和6年4月23日のことだった。昭和6年という年は、2月に『モロッコ』が封切られて、その半年後の8月に国産初のトーキー映画、五所平之助監督の『マダムと女房』が公開され、そして12月31日にはムーラン・ルージュ新宿座が開場した年であった、というわけで、アドバルーンがおなじみの都市風景となっていた歳月は、映画のトーキー化とそれにともなう弁士と楽士の失業と軽演劇の流動とパラレルの歳月ということにもなる。その後、昭和8年4月1日、古川緑波、徳川夢声、大辻司郎らによる「笑の王国」が旗揚げされ浅草常盤座で第1回公演が開催されて、やがて P.C.L.映画撮影所の映画が次々と封切られてゆくまで、すなわち昭和8年という年を軸に映画、ジャズ、軽演劇、ユーモア小説にまつわるあれこれを、1930年東京の気分ととともに眺めることがここ数年の道楽になっているのだけれども、そこでは、おのずとしばしばアドバルーンのある風景にゆきあたる。アドバルーンは1930年代東京の軽演劇をとりまくふわふわした気分にいかにも似つかわしいといつも思う。



f:id:foujita:20131224210301j:image

《ナヤマシ会第8回公演プログラム》昭和6年11月29日・日比谷公会堂、原健太郎『東京喜劇〈アチャラカ〉の歴史』(NTT出版、1994年10月7日)に掲載の図版。大正15年10月の第1回以来、昭和7年まで計9回開催されたという「ナヤマシ会」の第8回公演プログラムの表紙はアドバルーン! 昭和6年11月29日午後6時開演(進行指揮:田中三郎、音楽指揮:福田宗吉)、第1部は徳川夢声、松井翠声、大辻司郎、井口静波の漫談、古川緑波の声帯模写。第2部は、菊池寛作・古川緑波演出『父帰る』(装置は澤令花)、大辻司郎作・演出『拳闘時代』(「文壇の大家」の久米正雄が特別出演)、川口松太郎作・演出『寸劇』(鈴木伝明ら不二映画総動員)、山野一郎作・演出『人斬左膳』(装置は河野鷹思!)、古川緑波作・演出『又飛び出した二村定一』(ホンモノ二村定一特別出演! 装置は澤令花)、徳川夢声編集『吉例アヴアンガルド・モンタージユ』(ナヤマシ会全員総出演)……という感じに、プログラムを書き写しているだけて、表紙のアドバルーンさながらに心は浮き立つばかりなのだった。



f:id:foujita:20131224210302j:image

『日の出』昭和8年12月1日発行号別冊附録、『漫談競演集』の見返しの「ファインゴム」の広告。「ファインゴム」なる商品は靴底もしくは足袋に使用して背を高く見せる道具、らしい。この『漫談競演集』の扉ページの岡本一平による似顔絵は、金語楼、夢声、大辻司郎、ロッパ、エノケン等々、この小冊子の目次を彩る人びとが重ね合わせられているという構図。漫談と軽演劇レヴュウの1930年代の時代相を体現するような顔ぶれに、隣の広告のアドバルーンがよく映える(ような気がする)。


アドバルーンが最初に映った映画もおそらく昭和6年に制作の映画なのだろうけれども(いつかきちんとコレクションしてみたい)、P.C.L. 映画においては、第1回作品の大日本麦酒タイアップの『ほろよひ人生』(昭和8年8月17日封切)に引き続く、第2回作品の明治製菓タイアップの『純情の都』において初めてアドバルーンが登場している。


f:id:foujita:20131224210303j:image

f:id:foujita:20131224210304j:image

木村荘十二『純情の都』(P.C.L.、昭和8年11月23日封切)より、古川ロッパが支配人をしている「明治スヰートショップ」の開店を知らせるアドバルーン。青い空にまずは花火が打ち上げられて、紙吹雪が散って、そのあとに高々とアドバルーンが掲げられる。P.C.L.映画においておそらく最初に登場したのが、たぶんこのアドバルーン。



f:id:foujita:20131224210305j:image

そして、翌年、麻生豊の漫画を映画化した、同じく木村荘十二監督の『人生勉強 続篇・只野凡児』(昭和9年7月12日封切)においては、藤原釜足演じる只野凡児が入社するのは「大日本風船株式会社」なる会社で(上司が徳川夢声、同僚の「茶狩君」が御橋公)、この会社はどうやらアドバルーン制作を請け負っている様子なのだった。事務に倦んだ釜足がふと窓の外を見ると、これでもかとアドバルーンがあがっている。明らかにセットのおもちゃみたいなアドバルーン。ちゃっかり、同年11月1日公開の P.C.L.映画、山本嘉次郎『あるぷす大将』のアドバルーンも紛れ込んでいる!


そんなこんなで、P.C.L.映画にはアドバルーンがよく似合うのだった。そして、いよいよ翌年、徳川夢声の初「主演」映画でもある、木村荘十二『三色旗ビルディング』(昭和10年7月11日封切)ではアドバルーンが大活躍する。


f:id:foujita:20131224210306j:image

封切前日の昭和10年7月10日の『東京朝日新聞』に掲載の広告。舞台は、「三色旗ビルディング」という名の3階建てのアパルトマン。1階は夢声経営の「フランス軒」という名の洋食レストラン(見習いコックが岸井明)と床屋(親方が西村楽天、理髪師三島雅夫、常連客に元弁士で今は保険外交員の小沢栄)、2階には東屋三郎演じるインチキ牧師(この映画が東屋三郎の遺作に…)、ヘンリーという名の謎の男・佐伯秀男らが、3階には髭の書生・嵯峨善兵、漫才師のラッキー・セブン、関西弁の詐欺師・生方賢一郎とその妾の細川ちか子らが住んでいる。そして、屋上にはアドバルーンがあがり、風船上げの仕事を請け負っている加賀晃二が夢声の一人娘・神田千鶴子の恋人。この広告、映画の設定が実に正確にイラスト化されていて、見事。


f:id:foujita:20131224210307j:image

f:id:foujita:20131224210308j:image

木村荘十二『三色旗ビルディング』(P.C.L.、昭和10年7月11日封切)。タイトルバックは、登場人物が紙芝居屋の丸山定夫によって紹介されてゆくという趣向。絵は装置担当の山崎醇之輔によるものかな? 3階建てのアパルトマンで屋上には、つねにアドバルーンが常備されていて、翩翻とひるがえる「SB」マークの旗とともに、高々と大空に掲げられる。


f:id:foujita:20131224210309j:image

映画の幕開け、屋上にはこのビルディングの持ち主の徳川夢声。「流線型の禿げ頭」とナレーションされる夢声の左後方に流線型のバルーン。空を見上げると小さく見えるアドバルーンも間近で見ると結構巨大。このあと、夢声は詐欺師にだまされて、アパートを乗っ取られてしまう。そんなことはつゆ知らず、のんきにパイプをくゆらす夢声。


f:id:foujita:20131224210310j:image

f:id:foujita:20131224210311j:image

f:id:foujita:20131224210312j:image

夢声の一人娘・神田千鶴子の恋人の加賀晃二がこのアパートの「風船上げ」に従事している(のちに市役所に就職)。垂れ幕にはちゃっかり「トーキーはP・C・L・」の広告。この映画、ビルディングの近隣に砧撮影所らしき近代建築がうっすらと見えるのもたいへん興味深い。夢声のアパートが関西弁の詐欺師・生方賢一郎(手下が森野鍛冶哉)の手に渡り、「三色旗ビルディング」は「万アパート」へとその名を変え、屋上の旗も「SB」マークから「万」マークへと変えられてしまう。傷心の神田千鶴子。屋上で加賀晃二と軽い口げんかをしてしまうものの、飛んでいきそうになったバルーンを戻すべく格闘しているうちに、「ああ、びっくりした」とふたりは仲直り。アドバルーンも繋留機も本物が使われている。


f:id:foujita:20131224210313j:image

f:id:foujita:20131224210314j:image

f:id:foujita:20131224210315j:image

f:id:foujita:20131224210316j:image

アパートの住人・藤原釜足の機転もあり、三色旗ビルディングはめでたく夢声の手に戻ることになる。夜、生方賢一郎と森野鍛冶哉は泥棒として侵入、アパート中の人びとが一丸となって、二人を屋上に追い詰める。神田千鶴子と加賀晃二は裏の階段から屋上に潜入、悪漢二人をアドバルーンに吊し上げることに成功!


f:id:foujita:20131224210317j:image

めでたし、めでたしの大団円。万国旗ひしめく屋上。旗はこれでもかとひしめくものの、ラストは残念ながら、バルーンは見当たらず。加賀晃二の右に繋留機だけはしっかり確認できる。『徳川夢声のあかるみ十五年』(清流出版、2010年12月27日)にある、

 最終場面[ラスト]の「めでたしめでたし」のシーンでは、今まで登場した人物が全部集って、手をつなぎ歌を唄い、カーニバルのごとく踊ろうという、素晴しき豪華ショウとなる――筈なのだが、唄も知らなきゃァ、踊も知らない、ラジオ体操をやらしても揃うかどうか、という連中が、俄か稽古で、監督に叱られるからやるんだから、世にもお寒い貧弱ショーにしかなれない。何しろ、この大光景[ビックシーン]に飾られた、万国旗が、田舎の小学校みたいに、紙製のペラペラの旗で、折からの強風に、片っ端から千切れて飛ばされちゃったのであった。

 おゝ、世にもナサケナの最終場面[ラスト]よ!

 神田千鶴子嬢と、加賀晃二君とに左右から腕を組まれて、ピョンピョンと踊っている禿頭の私を、試写で見たとき、私は涙がこぼれそうであった。

 おゝ、世にもナサケナの吾が姿よ!

という、夢声自身の回想を反芻しながら見ると、またひときわ味わい深いラストシーン。夢声はこんなふうに書いているけれども、セリフなしで音楽だけで進行するパントマイムめいたシークエンスは稚拙ではあっても、今見てみるとそれはそれでとてもたのしい。この映画の音楽監督は池譲。


昭和10年7月封切の P.C.L.映画『三色旗ビルディング』の原作はサトウハチロー。夢声は、アドバルーンで悪者をとっちめるシーンについては、

 このドタバタ中で、もっとも振っていた光景は、屋上に追いつめられた悪漢二名が、アドバルーンに縛りつけられて、空中高く昇るといふ珍趣向である。元来、アドバルーンといふもの、人間一人を吊り上げる程の浮力もない筈である。(例外に大きいのがあれば別だが)それが大の男二人までも、軽々と吊り上げようというのだから、土台無理だ。それは、撮影のことであるから、アドバルーンが、丸ビルをぶら下げるようにも撮れる事は撮れるだらう、然しさういふトリツクを使用しては、芝居によつては目茶苦茶に打ち壊しとなる訳だ。現にこの映画、途中頃までは酷くまともに、写実的[リアル]に芝居が進められてゐる。それが何の予告もなく、とたんにアメリカ・ナンセンス喜劇風な、ドタバタとなるのであるから、助からない。

というふうに、大いにクサっているのだけれども、昭和6年ぐらいから空にぽっかり浮かぶアドバルーンがおなじみの都市風景となっていったなかで、あそこに人が吊られたらどうなるかなとチラリと思ったことのある人はきっと多かったに違いない。この珍趣向は原作者のサトウハチローのアイディアなのかな、いかにもユーモア小説的、そして軽演劇的。サトウハチローといえば、「アドバルーン」と聞けば誰もがまっさきに思い出すに違いない、美ち奴の流行歌『あゝそれなのに』の作詞者でもある。空にゃ、今日もアドバルン♪ 1930年代の「アドバルーン文化史」というものがあるとしたら、サトウハチローはまっさきに語られる人物ということになろう。



昭和6年頃から都会の人びとの目に頻繁に触れるようになった、当初「広告気球」と呼ばれていた「空の広告風船玉」が、「アドバルーン」と呼ばれるようになったのは『世界大百科事典』の記述によると昭和8年ぐらい、もしくは、昭和11年に『あゝそれなのに』で歌われる直前の昭和10年頃ともいわれている。昭和11年という年は「二・二六事件」に際して、反乱軍将兵に「勅命下る 軍旗に手向ふな」と帰順を呼びかけるアドバルーンが人びとに強烈な印象を残した年だった。野口冨士男著『私のなかの東京』(文藝春秋・昭和53年6月25日→岩波現代文庫)によると、このアドバルーンは掲揚されたのは、築地座をはじめとする新劇の公演場所にちょくちょく使われていた昭和4年6月竣工の飛行館の屋上、田村町交差点のすぐ近く。


その「二・二六事件」の起こった昭和11年に撮影されたジャズ映画が、鈴木伝明が監督した、中川三郎とベティ稲田主演の『鋪道の囁き』。去年秋にインディーズで発売された DVD の瀬川昌久氏による解説によると、《加賀四郎の独立プロダクション第1回作品として、昭和10年中に撮影し、11年5月に封切予定だったが、封切館を契約できず、オクラになってしまった本作品は、戦前の日本制作の音楽・ダンス映画として、最も内容の充実した本格的な作品に仕上がっている》。清流出版で復刊された、瀬川昌久著『ジャズで踊って』(2005年10月23日)の表紙にもこの映画のスチールが使われていて、それがいかにもぴったりな、1930年代のジャズとダンスの資料という点でみどころたっぷりの仕上がりで、初めて見たときは大感激だった。


f:id:foujita:20131224210318j:image

その『鋪道の囁き』のタイトルバックでは、ベティ稲田の似顔絵とともに、映画の主題歌『鋪道の囁き』が心地よく流れる。ベティ稲田とリキー宮川の唄う『鋪道の囁き』は、藤浦洸作詞・服部良一作曲、コロムビア・レコード(番号28888)から昭和11年6月に発売された。この唄の終盤、「優しい心 強い腕 若い僕らはジャズが好き 青空高くアドバルーン あれは僕らのシンボルだ 風のまにまに流れているが 夕日に映えて赤く燃ゆ」という歌詞がある。


f:id:foujita:20131224210319j:image

と、『鋪道の囁き』のタイトルバックで「青空高く アドバルーン〜♪」の歌詞が唄われる頃、静止していたベティ稲田の似顔絵が動き出し、この似顔絵が実はサンドイッチマンだったという展開となる、とても洒落た演出。この画面の右奥にうっすらと本物のアドバルーンが見える。そして、正面左奥の大きな建物はよく見てみると、東京宝塚劇場なのだった。「ロザリータ」の文字が書かれた垂れ幕がかかっている。『東宝十年史』(昭和18年12月5日発行)所載の「東京宝塚劇場興行年表」を参照すると、昭和11年6月3日〜28日の雪組公演の演目のなかに、東信一作『ロザリータ』があるから、その頃の撮影ということがわかる。このあと、右方向へくるっとカメラが移動し、三信ビルの特徴的な建物が映って、本篇がはじまる。当時、三信ビルと東京宝塚劇場の間は空き地になっていた。右奥にうっすらと見える本物のアドバルーンは日比谷公園、霞ヶ関の方角にあがっているということになる。


昭和11年にはすっかり「アドバルーン」という言葉は定着していて、年末には、十一谷義三郎の『あど・ばるうん』(改造社、昭和11年12月13日)という作品集が刊行されている。そして、そのちょうど2年後には、林二九太の『人生アド・バルーン』と題されたユーモア小説集が刊行されている。


f:id:foujita:20131224210320j:image

f:id:foujita:20131224210321j:image

林二九太『人生アド・バルーン』新版ユーモア小説全集第6巻(アトリヱ社、昭和13年12月25日)の表表紙(上)と裏表紙(下)。装幀:小野佐世男。

他愛ないと言ってしまえばそれまでの、1930年代東京を舞台にしたユーモア小説集で、同時代の映画を見ている時間のような、さわやかな読み心地。古本でしか読めない作品ならではの特になんということもない感じだからこそ、かえって味わい深い。「小説」というよりも「読み物」という言葉がぴったり、そして、よい匂いのようにしてただようモダン味に心地よくひたりながら、紙上の1930年代東京に思いを馳せる時間が格別。たとえば、ある読み物では、東京劇場で曾我廼家五郎劇を見たり、銀座三越で見合いをしたり、銀座のコロムバンの2階でお茶を飲んだり、「近頃流行のハイキング」という言葉が出てきたりする。

表題作の『人生アド・バルーン』は、四谷塩町から東京駅に向かうバスのなかで、大学は出たけれどの「ルンペン学士」のお人よしの青年と小田急沿線の参宮橋の郊外住宅に住む令嬢がひょんなことから知り合い、親しくなってゆくというお話。令嬢は、「これからの人間は、人がいゝばかりぢやア駄目よ。アド・バルーンみたいに、人の目に付くやうなことをそなきやア、出世しないわよ」と、ルンペンの青年を一生懸命励ます。そして、別の読み物では、「今日も空にはアド・バルーン」と酔っ払って歌う場面もあって、ここでは「時代遅れの流行歌」というふうに形容されている。これらの十数篇の読み物は後半になってゆくと、だんだん戦時色がただよってくる。大正4年生まれの戸板康二は昭和の年に十を足した数が年齢になるのだが、「わが十代」(初出:「毎日新聞」昭和32年3月→『ハンカチの鼠』三月書房・昭和37年11月15日→旺文社文庫)というエッセイで、自身の十代のことを《戦争に突入する前の小春日和とでもたとえたい、わが十代であった。》というふうに書いている。アドバルーンが掲げられていた時代は、戸板康二言うところの「戦争に突入する前の小春日和」の時代とぴったり重なるのだった。


f:id:foujita:20131224210322j:image

アトリヱ社の「ユーモア小説全集」には、小野佐世男の挿絵が実によく似合う。林二九太著『人生アド・バルーン』にもとびきりチャーミングな装画を描いた小野佐世男。扉ページも見逃せぬ、ウィットあふれる挿絵にアドバルーン好きは大喜び。『三色旗ビルディング』の屋上にあったのとおんなじ、アドバルーンの繋留機。



『三色旗ビルディング』が封切られた昭和10、この年の1月、大阪歌舞伎座の初春興行に出ていた花柳章太郎は『演劇随想 映鏡夜話』(「演劇新派」昭和10年2月5日・第3巻第2号)にて、以下のように綴っている。

 歌舞伎座の三階の私の部屋は北向きになつてゐます。窓の外には麗かな空がひろがつて気球[アドバルーン]に初詣の広告が長閑に浮んでゐるのも正月らしい感じです。家根を超えた向ふの古風な赤煉瓦の中座の楽屋からしらじらと昼の電灯が灯つてゐるのが見えます。

 やつぱり真昼の落つかない白つちやけた景色――

 ――かうした景色をぼんやり眺めながら私は弁天小僧の顔をこしらへてゐるんです。

 春芝居特有なのんびりした気持ちです。

このあと花柳は、まだアドバルーンなどなかった三十年近く前の明治期の道頓堀の正月興行、中座では成駒屋以下の大歌舞伎が、朝日座では高田、喜多村らの新派が人気を競っていた時代の道頓堀のことをチラリと思い出すのだったが、その鴈治郎は前月に倒れて入院し、この翌月の昭和10年2月1日に他界する。このとき花柳が見ていたアドバルーンは千日前の歌舞伎座の北側、道頓堀の中座の方角の空高くに浮かんでいたのだった。



f:id:foujita:20131224210323j:image

『プレスアルト』第23号(1938年)、橋爪節也著『モダン心斎橋コレクション』(国書刊行会、2005年9月17日)の「第八章 アートづくしの心斎橋――美術・デザイン・写真・音楽・文藝」の章の《高島屋から見た大丸、そごう 今竹七郎の「窓」》の項に掲載の図版。花柳が大阪のアドバルーンのことを書いた3年後の昭和13年、難波の高島屋の宣伝部にいた今竹七郎が見た「窓」の外にはやっぱりアドバルーン。《高島屋のデザイナー今竹七郎が難波の高島屋から北側を写したスケッチと詩。アクティヴで刺激的なデザイナーの日常が詩画に定着される。正面の建物は大丸、そして、そごう百貨店である。》という素敵な解説が添えられている。この「世紀のテレヴィ」の言葉のある詩の末尾には、「一九三八・一二・七」の日付。


昭和6年ころから「都会新風景」として如実に人びとの目に触れるようになったアドバルーンは、第二次大戦の進行とともに徐々に使用が制限されてゆき、昭和18年には全面的に禁止され、アドバルーンは軍用にのみ用いられることとなった。



f:id:foujita:20131224210324j:image

中井赳夫《皇軍鄭州入城》昭和16年、図録『視覚の昭和 1930ー40年代展』(松戸市教育委員会社会教育課美術館準備室、1998年)より。」



アドバルーンが戦後復活するのは昭和24年6月だったから、銀座や新宿の盛り場に姿をひさしぶりに姿を見せたアドバルーンは平和の象徴して人びとの目に映ったのかもしれない。アドバルーンが GHQ により正式に許可されたのは昭和24年11月25日のこと。昭和25年3月2日付けの『読売新聞』に前日の3月1日、「ヨミウリ放送創立事務所」のアドバルーンが銀座の本社屋上に掲げられたことが報じられている。そして、1930年代とおなじように、アドバルーンは1950年代以降の空にひしめくようになってゆき、それはいつのまにか、高度経済成長期のシンボルのような存在となる。小津安二郎や成瀬巳喜男を典型にして、1930年代と1950年代とをその青年時代とその成熟という観点でパラレルなものとして概観するということは、蓮實重彦の文章を読んで以来、ずっと心にベタリと貼りついている。また、海野弘が「女性都市東京」(『日本の化粧文化 化粧と美意識』資生堂企業文化部・2007年2月発行)という文章で、1930年代と1950年代のそれぞれの東京とその女性たちの姿を語っていたのもずっと心に残っている。1930年代と1950年代、それぞれの都会の空の上にはたくさんのアドバルーンがゆらめいていた。



f:id:foujita:20131224210325j:image

福田勝治『続 女の写し方』(アルス、昭和14年6月4日)より。「銀座七丁目にて、十月、晴、午後一時」に撮影の「銀座の流しのお嬢さん」の背後の服部時計店のあたりに、うっすらとアドバルーンが浮かんでいる。



f:id:foujita:20131224210326j:image

図録『写真家/福田勝治展ー孤高のモダニストー』(山口県立美術館、1994年10月7日)より、福田勝治による戦後の銀座の写真。宵闇の銀座、ネオンサインはまだ点灯しておらず、アドバルーンがまだあがっている夕闇の銀座。ちなみに、銀座5丁目の森永製菓の地球儀型ネオンが点火されたのは昭和28年4月11日(『森永製菓五十五年史』昭和29年12月20日発行)。



f:id:foujita:20131224210327j:image

同じく、図録『写真家/福田勝治展ー孤高のモダニストー』に掲載の銀座の写真。西銀座デパートのアドバルーン。撮影場所はマツダビルディングのあたりと思われる。


--------------------------

*1:この記事では「風船玉の広告の起因はアメリカ」となっているけれども、広告気球=アドバルーンは日本独自の広告媒体であるようだ。『世界大百科事典』(小学館、2007年9月1日改訂新版)の「アドバルーン」の項には、《日本で生まれた広告媒体で、名前も ad(広告)と balloon(気球)を組み合わせた日本製の造語。日本における気球の実用化は、明治時代に山田猪三郎によって行われ、軍事偵察、高層気象観測、広告などに使われた。1913年には中山太陽堂、次いでレート化粧品が広告に利用している。広告媒体としての本格的な事業化は、21年水野勝蔵の引告堂によって行われた。彼は、ゴム引き気球に銀粉を塗布して美観を向上させるくふうをし、社名を銀星社と改めた。当初は〈広告気球〉と呼ばれていたアドバルーンだが、33年ごろには流行歌にも歌われてこの名が定着、33年から37年にかけて隆盛期を迎えた。(執筆:星野匡)》とある。中山太陽堂がアドバルーンの先駆けなのだった。

*2:土木学会付属土木図書館デジタルアーカイブス内の「関東大震災復興工事関係写真(http://library.jsce.or.jp/Image_DB/shinsai/kanto/)」で数寄屋橋の写真(http://library.jsce.or.jp/Image_DB/shinsai/kanto/kyouryou/si022.html)を参照すると、橋の上に並ぶ外灯の形状を鈴木信太郎が結構リアルに描いていることがわかる。架橋後2年の真新しい数寄屋橋の姿。

*3:同記事に、《また市の復興小公園が二つ、竣工し近く開園する――数奇屋橋公園は数奇屋橋の銀座より泰明小学校に隣して設けられ、北詰の中央露壇上に日露戦役忠魂碑が立てられ、広場には露台飲用水栓等を配置し周囲は植込で囲んでゐる、西部は六百坪あり東側が自由広場西側が児童遊園場になつてゐる、露壇の瀟洒な休憩所が設けられてゐる……》。

*4:織田作之助の『アド・バルーン』の初出は「新文学」昭和21年3月。「ユリイカ」1989年3月臨時増刊《総特集 監督川島雄三》(第21巻4号)所載、「織田作之助の手紙」(初出:「東京」(新生社)昭和23年1月号)のうち、昭和20年6月30日付け川島雄三宛て書簡に、《さいきん「今日も空にはアドバルン……」の一句を以つてはじまる「ああそれなのに」といふ歌を、さる佳人(当年二十一才、志賀山流名取)よりならひ覚えて、もつぱら口ずさんでゐましたが、つひに気持昂じて「アド・バルン」と題する小説七十四枚書きました。なつかしの笠屋町、畳屋町など出てきます。》という一節がある。この年の3月13日の空襲で島之内は大きな被害を被っていた。ちなみに、織田作之助の『アド・バルーン』でも、《空には軽気球がうかんでいて、百貨店の大売出しの広告文字がぶらさがっていた。》という一文が登場するのは「満州事変が起った年」、すなわち昭和6年に設定されている。

20130930

久保田万太郎と竹屋の渡し。上林暁の「浅草」小説。昭和はじめの上林暁のモダンな散文と京都の天野忠のこと。


8月最後の金曜日の夜、浅草見番で文学座有志による万太郎戯曲公演《久保田万太郎の世界》を見た。第10回となる今回は『不幸』(初出:「演劇新潮」大正13年4・5月合併号)と『一周忌』(初出:「中央公論」昭和3年9月)が上演された。浅草は年明けの浅草歌舞伎以来だったから、ちょっとばかりごぶさたをしていた。久保田万太郎の戯曲を見に浅草を訪れるというだけで特別な一日だった。


f:id:foujita:20130929215258j:image


午後6時過ぎ、日の入りの直後に地下鉄から浅草の地上に出て、公園裏の浅草見番に向かう。ひさしぶりに見る浅草寺の本堂が嬉しく、大きな屋根の向こうの日没の空にしばし見とれる。その右手、浅草神社の境内はもうだいぶ暗くなっていた。初代猿翁、初代吉右衛門の碑は暗くてかすかにしか見えない。と、そんな宵闇のなか、久保田万太郎の「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」の句碑を眺めて、胸がいっぱい。この句碑の建立は万太郎三回忌の年の昭和40年、万太郎の誕生日の11月7日に除幕式が催された。今にも雨が降ってきそうなどんよりとした曇り空の日だったという。翌年1月号より「文學界」で連載された戸板康二の『久保田万太郎』はこの句碑の除幕式の光景からはじまる。龍岡晋が大切に所蔵していた色紙から万太郎の直筆をとったという句碑の文字を、浅草見番へ行くまえにぜひとも見ておきたかった。文学座有志による《久保田万太郎の世界》は龍岡晋の遺産ともいうべき催しなのだから*1


さて、このたび《久保田万太郎の世界》で上演された『不幸』は、大正7、8年頃の3月2日、宵節句の向島の住居を舞台とする一幕物。劇中もっともセリフの多い「石町の伯父さん」はこのうちにはしばらくごぶさたしていたと言い、「……吾妻橋から、真つ直、言問まで来てしまへばいゝ奴を、蒸汽でもあるまい、久しぶりに竹屋をわたつてやれ。……さう思つて、此奴、わざわざ山谷ばしをまはつたやつよ。」、「水の上は、まだ、寒からうと思つたわりにはさうではなかつた。……陽気は正直だね。風のあたりがすつかりもう春だ……」と言う。



f:id:foujita:20130929215259j:image

小寺健吉による竹屋の渡しのスケッチ、「読売新聞」大正2年3月16日掲載。


荷風の『すみだ川』*2の冒頭でもおなじみの「竹屋の渡し」について、龍岡晋は、《待乳の渡舟ともいう。聖天の下、今戸橋から向島三囲稲荷へ向う渡舟。竹屋は船宿の名》というふうに注釈している*3。今戸、竹屋の渡し、向島、百花園……といえば江戸情緒として長らくおなじみの風物だった。たとえば、博文館に在籍していた生田蝶介は大正3年当時、『末枯』の鈴むらさんと同じ今戸に住んでいて、自身が編集に携わっていた「演藝倶楽部」に掲載の日録『生活日誌の一面』の大正3年4月4日のところに、

朝の程所用ありて我宿に近い竹屋の渡しをかりて向島に行く。堤の桜は三分通りほろこびて、雪は降りては消え、降りては消ゆ。かゝる春の雪解静かな春の日を、小ぢんまりとした屋根船に行火して、微酔の口に一中節か歌沢を低唱し、静かに流す風流子はなきか、あゝ趣味は日に日にすたれて行く。貴きこの隅田の雪と花の眺めかな。

と綴って、すっかりご満悦。上掲の小寺健吉と同時代の生田蝶介の日記をみると、大正初期の時点で「竹屋の渡し」が体現するところの向島情緒はすでにノスタルジーの対象となっていたようだ。そして、向島と江戸情緒というと、まっさきに思い出すのはなんといっても淡島寒月であるけれども、『梵雲庵雑話』(岩波文庫、1999年8月18日)所収「滅び行く江戸趣味」のなかには、

向島は桜というよりもむしろ雪とか月とかで優れて面白く、三囲の雁木に船を繋いで、秋の紅葉を探勝することは特によろこばれていた。季節々々には船が輻輳するので、遠い向う岸の松山に待っていて、こっちから竹屋! と大声でよぶと、おうと答えて、お茶などを用意してギッシギッシと漕いで来る情景は、今も髣髴として憶い出される。この竹屋の渡しで向島から向う岸に渡ろうとする人々の多くは、芝居や吉原に打興じようとする者、向島へ渡るものは枯草の情趣を味うとか、草木を愛して見ようとか、遠乗りに行楽しようとか、いずれもただ物見遊山するもののみであった。

という一節があって、「いいなあ……」と、寒月翁語るところの竹屋の渡しにうっとりするばかり。この淡島寒月の『滅び行く江戸趣味』は大正14年8月24日から26日まで「日本新聞」に掲載されたものであるから、震災後の談話。荷風が《向島は久しい以前から既に雅遊の地ではない。》と冒頭に書いた『向嶋』は、昭和2年6月の「中央公論」に「荷風随筆」として掲載された。言問橋が架橋されたのはその翌年、昭和3年2月のこと。そして、言問橋が架橋されたのは、久保田万太郎は『春泥』を執筆していた時期とまさに同時期なのだった(「大阪毎日新聞」昭和3年1月5日より4月4日まで連載、単行本は春陽堂より翌年1月1日刊。)。『春泥』は三人連れの新派俳優が舟を下りて、「既に雅遊の地ではない」向島をほっつき歩くところからはじまる。



f:id:foujita:20130929215300j:image

小村雪岱《墨田川西岸一覧》全21図のうち山谷堀や竹屋の渡しが描かれた第8図の右半分、「新家庭」第1巻第7号(大正5年9月1日発行)より。南千住の尼崎紡績の工場から柳橋の神田川までの隅田川西岸が全21枚にわたって精緻に描かれている。この絵については、のちに「春泥」第1巻第2号(昭和5年4月1日発行)に『墨田川』と題した座談会が掲載されている(昭和5年2月23日、於:三谷重箱、出席者:小村雪岱、悟道軒圓玉、増田龍雨、小泉迂外、大場白水郎、長谷川春草(筆記)、槇金一・内田誠(春泥社)、ほかに「飛入」1名)。

大場「隅田川の渡場はずゐぶんありますね。」

増田「中の渡はいまでも残つてゐます。上が白髭下が竹屋です。今は、中の渡船を白髭とも、橋場の渡しとも云つてゐます。」

飛入「竹屋はいつ頃出来たんだらう。」

増田「竹屋の人と呼小鳥つて云ふ端唄がありますね。文政頃でせう。」

小泉「もつと実際は古いでせう。」

増田「向島から吉原へゆくことを「向ふ越し」つて云つたさうですよ。」

雪岱曰く、《「墨田川西岸一覧」が新家庭に出ましたのは、何の意味もなく、たゞ同誌にカツトとして墨田川西岸の絵を使ひたいと云ふのが話のもとで、玄文社の三井玉輝さんと云ふ人が大変熱心でした。同誌の方ではもつと霞か何かでぼかした、大まかな絵かなんかを期待して居たらしい処へ、軒数まで合はせた絵を送つたので、急に考へ直して私に相談もなしに、三井氏が船に乗つて、絵に名前を入れていつたのです。当時はいやでしたが今になつて見ると参考になつて却つて好かつたやうな気もします。》。この《墨田川西岸一覧》は、東岸を1週間歩いて、描くのにもう1週間、計2週間かけて仕上げたという。予定されていた東岸図の方は結局描かれずじまいだった。



f:id:foujita:20130929215301j:image

遅塚麗水『東京大観』(有文堂書店、大正5年1月2日)の表見返し、《小村雪岱展 遥かな江戸の面影》(資生堂アートハウス・2009年10月2日-12月20日開催)の展覧会カタログ(株式会社資生堂企業文化部発行)に掲載の図版。雪岱が「新家庭」に《墨田川西岸図》を描いた大正5年、同年1月に出たこの本の見返しにも雪岱は墨田川西岸を描いている。この浅草観世音本堂と五重塔の間のあたりに「山の宿の渡し」の舟つき場があった。



f:id:foujita:20130929215302j:image

《松屋屋上より隅田川上流/手前に東武線鉄橋、奥は昭和3年(1928)年に架橋された言問橋》、図録『写真展 下町の記憶 アマチュアカメラマン加藤益五郎が写した風景』(台東区立下町風俗資料館、2007年9月15日)より。


上掲の小寺健吉のスケッチから約二十年後、松屋の屋上からかつて竹屋の渡しのあった言問橋の方角を望んだ写真。隅田川河岸は大震災の復興を経て昭和6年5月、同年11月に開店する浅草松屋をテナントとする東武ビルディングが竣工して、東武電車は隅田川の鉄橋を渡り、東武ビルディング2階に浅草雷門駅が開業。東武ビルディングが竣工して初めて、人びとはこんなに高くから隅田川を見下ろすという新たな視覚を得たという面があったのかなと思う。東武電車が隅田川の鉄橋を渡る昭和6年5月の直前、同年3月16日付け「都新聞」には「亡びゆく江戸情緒」として、

 時代の姿といへば、昔は矢張隅田川の名物であつた竹屋や言問の渡もいつか無くなつて山谷堀に旧態なく、僅に残るのは橋場の渡と上流水神汐入の渡だけで橋場も休み勝で、少し風があると大抵は船を出さず、下流の渡は大抵石油発動船は引いて行く(中略)

 言問橋は、昔の竹屋の渡よりはぐつと南よりになつてゐる、即ち新小梅旧水戸邸の北から、浅草側の山の宿停留脇に達してゐる、この橋復興局自慢の橋で工費二百二十万、昭和三年に竣工したもの、左右の橋下が公園の遊歩道路となつてゐるのも面白い

というふうに「隅田川新景」が綴られている。



f:id:foujita:20130929215303j:image

《吾妻橋際馬道辺の高楼競べ》、「都新聞」昭和6年1月19日の第5面に「浅草の新風景」として掲載の写真。地下鉄ビルディング、神谷バー、建設中の東武ビルディングの高楼競べ。昭和6年5月の東武ビル竣工後、敗戦後まで浅草ではながらくこの3つの建物がめだって高層だった。


昭和4年竣工の地下鉄ビルディングは2009年に解体されてしまったけれども、浅草松屋の東武ビルデイングは去年に昭和6年の竣工当時の姿に改装され、そして今年2013年は、神谷バーが「平成の大修繕」の真っ最中で、10月末竣工予定とのこと。無事にあと3か月、2013年を乗り切って、去年みたいに今年もまた神谷バーで忘年会ができるといいなと思う。



さてさて、去年の忘年会の神谷バーでは、上林暁の戦前の小説のなかで浅草が舞台のものがあって、それが実にいいらしいというお話をうかがって、、上林暁の「浅草」小説ってどんなだったけかなと、電気ブラン片手にうっとりだった。わたしは上林暁の小説は戦前、特に改造社時代の昭和初年代の作品が一番好きだ。そして、忘年会から数日後、年末年始の休日は昭和初年代の作品が収録されている『上林曉全集 第一巻』を繰って、上林暁のモダーンな短篇小説群の風韻にひたっていた。


その上林暁の「浅草」小説とはどの作品のことなのだろう? タイトルを見るかぎりでは、『淺草のジョン・フォートランド氏』(初出:「新科學的」昭和5年8月号→『薔薇盜人』昭和8年7月15日)なんて、そのものずばりな感じ。「嘗ては、二十年くらゐ以前には、映画界の王者であつた」ジョン・フォートランド氏が夫妻で日本来朝したときの一挿話。

 活動街には旗がはためいていた。震災後新築されて「殿堂」と呼ばれてゐる映画館も、ロスアンゼルスやハリウッドの大映画劇場を見た眼には、盛装した田舎娘としか思はれないけれど、雜然紛然とした空気は楽しいものであつた。得体の知れない物音の下に、ラフカヂオ・ハーンもボリス・ピリニャークも心に留めた下駄の音がペイヴメントから跳ね返つてゐた。それが耳を聾にした。

 二人はゆつくりとした足取りで両側の映画館を見て歩いた。TEIKOKU-KAN, DENKI-KAN, FUJI-KAN, ……。どこの入口にも白粉で顔をまつ白に固め、エプロンを掛けた、矮小な日本娘が控へてゐる。いつさいの映画館は、赤や緑や青の極彩色を使つた看板、幔、幟などで一様に塗り潰されてゐる。しかし前に立つてみると、皆それぞれ、キートンを、ロイドを、リリアン・ギッシュを、クララ・ボウを、古馴染みのチャップリンを、更に少年ジャッキイ・クーガンを掲げてゐる。彼の故国で人気を背負つてゐる人達が、ここでもまた異国人の熱狂的な人気に迎へられてゐる。ここに集つてゐる人たちは、恐らくジョン・フォートランドのことは夢にも思つたことはないであらう。ただ孔雀館に集つてゐる少数の人達だけが、現在彼に関心を持つてゐてくれるであらう。フォートランド氏は憂鬱に襲はれた。かくも多数存在し得る人気者達の間に、一片の存在權すら主張し得ない自分を考へた。廃者の意識が氷のやうに胸に刺さつて来た。

 フォートランド氏は、もう同国の驕兒たちを羨むまいと決心した。気分を外らすために、西洋物の映画館から日本物の映画館へ注意を向け更へた。彼には、彼の同国人を一生懸命になつて模倣してゐる日本の近代的男性や女性の絵はちつとも面白くなかつた。それに引き替へ、髷を結ひ、刀を二本差し、誇大な表情で眉や眼や口を歪めてゐる封建時代の人たちが、魅入るやうな魅力をもつてゐる。彼はそんな絵姿を人形のやうに賞美した。……



f:id:foujita:20130929215304j:image

浅草六区を歩くバーナード・ショー、『アサヒグラフ』第12巻第12号(昭和8年3月22日発行)掲載の記事「シヨウ翁のばら捲いた警句と皮肉」より。「ジョン・フォートランド氏」の3年後、昭和8年3月8日の「浅草のジョージ・バーナード・ショー氏」。この記事によると、「もうわしは日本に待望しない、貧民窟……工場……それから煙……わしは厳かに諸君に告げたい。わしはまるで地獄に来たやうなものだ」と横浜港ブリテン号内で捨て台詞を吐いて日本を去ったショウ翁であったという。



それから、『花茣蓙』(初出:「風車」昭和4年6月号、単行本未収録)には、アパート住まいの若夫婦の細君の珠子さんが同じアパートの住人の「お妾さん」の佐伊子さんに浅草に連れられてゆくくだりがある。

 珠子は午過ぎ佐伊子に誘はれて、浅草の松竹座へ活動を見に行つた。金放れのきれいな佐伊子は、行きの電車賃も入場料もさつさと払つて呉れた。(中略)

 それから佐伊子は珠子を引つ張つて、映画館に挟まれた舗石道から、池の端に出、池の上の橋を渡り、観音堂の裏をブラブラ歩き、千束町の大通りまで出、又引つ返して路次から路次へ、性懲りもなく歩き廻る。佐伊子は途すがら気の利いた小料理屋を褒めたり、名物の櫛屋を教へて呉れたり、親しげに待合の屋号を読んだり、其他鮨屋、カフェ、一々が彼女の経験の濾過した存在であるらしい。珠子は全く圧倒された。不気味な思ひで咽喉を涸しながら、默つて従いて歩いた。灯の点くまでの閑な時間を、ボンヤリと煙草吹かしてゐた射的屋の女と佐伊子が立ち話をはじめた時、珠子の不安は絶頂に達した。彼女は人の流れに肩先を突つ衝かれながら、離れて待つた。話は長かつた。いつまでも佐伊子のあとについて行つたら、取り返しのつかぬ恐ろしい所へ誘惑されるのではあるまいか、茫々とした不安が次第にからだを包んで來るのを感じた。射的場の女が、時々こちらへ視線を流すのも、何か密計をたくらんでゐるやうで氣持が惡い。今や彼女には、淺草全体がまるで人浚ひ場に変つてしまつた。夕暮の空は翼のやうにおつ被さり、群集はたつた一人ゐる彼女を見遣りつゝ默々と動き、複雜な騒音の響きは彼女の氣を遠く悲しくしながら、空に向つて、舞ひ上つてゐた。(中略)

 ……それから、佐伊子と珠子は又路次を曲り曲つて、お汁粉屋へはひつた。そこも佐伊子は來たことがあるらしく、無雜作に註文して、お汁粉を三杯食べた。甘い物好きな珠子も三杯食べた。(中略)

 汁粉屋を出て、路次を折れて二町ほど歩くと電車通りへ出た。思ひ掛けなく、眼の前には、上野広小路の広告塔が明滅してゐた。珠子には何處をどう歩いたのか、少しもわからなかつた。


f:id:foujita:20130929215305j:image

f:id:foujita:20130929215306j:image

桑原甲子雄『東京 1934〜1993』(新潮社、1995年9月25日)より、浅草公園六区(昭和12年)と下谷区上野駅前(昭和11年)。巻末の著者解説に、《上野駅とわが家のある車坂町とのあいだにある昭和通りの市電上野駅前停留場だ。新聞売りの姿もビールの広告塔も昨日のことのようにおぼえている。》とある。



……などと、つい長々と抜き書きせずにはいられないくらい、昭和初期の上林暁が作品のなかに描いた浅草の街頭風景にうっとりしてしまう。浅草を頻繁に歩いていたに違いないからこその、このみずみずしい筆致!



上林暁は東大英文科卒業後、円本ブームまっただなかの時期であった昭和2年4月に改造社に入社し、雑誌「改造」の編集記者となる。その後、昭和8年11月に創刊された「文藝」の編集責任者となり、翌昭和9年4月に改造社を去る。つまり、昭和初年度の上林暁は、本名・徳廣巖城として文芸編集者として昭和文学史の現場に立つ一方で、上林暁の筆名で同人誌で文学修業をしていた。


と、そんな改造社時代の上林暁の浅草との関わりは、川端康成のことを綴る際にヴィヴィッドに回想されていて、おのずと彼の戦前の短篇小説群に封入されているモダン都市東京風景に思いが及んでゆく。昭和47年4月に川端が自殺した直後に「文藝」に寄稿した『上野櫻木町』(初出:「文藝」昭和47年7月→『ばあやん』講談社・昭和48年5月刊、全集第13巻)では以下のような回想がある。

 川端さんといへば、上野桜木町時代の川端さんを私は思ひ出す。川端さんが鎌倉へ移つてから、私は一度も訪ねない。川端さんが上野桜木町にいた時分に、私は雑誌「改造」の編集記者であつて、しよつちゆう川端邸に出入りしてゐた。単に出入りしたのではなくて、「禽獣」「末期の眼」など、川端さんの初期の代表作を取つたのである。自分でも思ひ出が深いし、日本文学史にも貢献したことが大きいと思ふ。

上林暁が川端邸を初めて訪れたのは、大森馬込の臼田坂に川端が住んでいた時分*4。「改造」では新しい作家に原稿をたのむ場合、小説より先に随筆をたのむ習慣があったとのことで、このときは『伊豆温泉記』という随筆をもらったという(「改造」昭和4年2月号に発表)。

 私が通ひはじめたのは、「浅草紅団」の続きを書いてもらふためだつた。「浅草紅団」は朝日新聞の夕刊に連載されて、浅草ブームを引き起した。われわれ文学青年の間では、二言目には必らず「浅草紅団」が口を衝いて出るほどであつた。新聞では一応打ちきつてゐたが、「改造」編集部ではその続篇を熱望したのだつた。たしかに、三、四章を書き加へて、おしまひになつた。単行本としては先進社から出した。先進社は、もと「改造」の編集主任の上村勝弥氏(旧名、清俊)が独立して始めた出版社だつた。それが出た時、私は署名本をもらつた。

 上野桜木町の川端邸から浅草までは近かつた。寛永寺橋から鶯谷駅へ下りて、そこから歩いて行けば、浅草は直ぐだつた。浅草へ行くのに便利だから、大森馬込から上野桜木町に移つて来たのにちがひない。川端さんは手帖をふところにして、朝となく夜となく、浅草をほつつき歩いた。雨が降つても日が照つても、一日も欠かさず浅草へ日参した。その丹念な写生が、川端さんの文学に生き生きとしたいろどりを与へた。映画館を三十館以上も見たさうである。

 そのころ「カジノ・フォーリー」といふ軽演劇の一座が、水族館のステージに出演して、評判だった。川端さんは浅草へ行つて、カジノの文芸部員や踊子たちと親しく交つて、それを「浅草紅団」に書いた。「浅草紅団」はカジノの全盛時代を出現さした。川端さんは、「いわゆる『カジノ・フォーリー花やかなりし頃』は、一生私になつかしいだらう」と書いてゐる。

 踊子では、榎本健一(エノケン)、二村定一、竹久千恵子、梅園龍子などが売り出してゐた。なかでも、川端さんが力こぶを入れてゐたのは、少女つぽい梅園龍子だつた。「わが舞姫の記」といふ文章も書いてゐる。しまひにはパトロンとなつたほどである。

 私も時折カジノ・フォーリーを見に行つた。あるとき埃つぽいステージを見てゐるとき、長身の人がうしろの壁によつかかつて、ステージを見てゐた。それは多分高見順ではないかと思はれた。まだ高見順を知らない時分だから、はつきりしたことはわからないが、そんな感じであつた。川端さんにはカジノで一度も会つたことはない。

 私は一度川端さんについて浅草を歩いたことがある。堀辰雄君も一緒だつた。堀君は向島に住んでゐたので、度々一緒に浅草を歩いてゐたらしい。私はほかのことは何んも覚えてゐないが、観音さんの近くの鳥料理屋に連れて行かれたことを覚えてゐる。それは名高い鳥料理やであるし、川端、堀氏は馴染みの店だつたらしい。私は恐縮しながら、小さくなつてご馳走になつた。

上林暁が「改造」に書いてもらった川端の作品は、『「鬼熊」の死と踊子』(昭和5年5月)、『浅草紅団』の続篇51〜61(昭和5年9月)、『水晶幻想』(昭和6年1月)、『鏡』(昭和6年7月)、『落葉』(昭和6年12月)、『それを見た人達』(昭和7年5月)、『慰霊歌』(昭和7年10月)、『二十歳』(昭和8年2月)、『禽獣』(昭和8年7月)などであった。《このうちで、一番傑作であり、書いてもらふのに苦心したのは、「禽獣」(改造・昭和八年七月号)である》と上林暁はいう。昭和8年11月に「文藝」の創刊が決まり編集主任に就任した上林暁が川端に依頼したのは「永井荷風の『小説作法』のやうなもの」、そして、それはの『末期の眼』というタイトルのエッセイとして、「文藝」昭和8年12月号に掲載された。



f:id:foujita:20130929215307j:image

伊坂梅雪編『五代目菊五郎自傳』(先進社、昭和4年2月18日)。装幀:島田訥郎。吉田謙吉の装幀でおなじみの『浅草紅団』の初版本は、昭和5年12月5日に先進社から刊行された*5。その先進社の社主上村勝弥は元『改造』の編集主任であった。わたしの書棚にある唯一の先進社の本がこの『五代目菊五郎自傳』。ちっともモダンではないけれども、大好きな本。この本は五代目菊五郎の二十七回忌を記念して刊行されていて、奥付の2月18日は祥月命日。平成も25年の今から思うと、明治36年から昭和4年までの年月はなんと濃密なことだろう。ちなみに、五代目菊五郎が死んだ明治36年2月18日は岡田時彦が誕生した日*6。この本が出た昭和4年2月はちょうど溝口健二の『日本橋』が公開されたころ、この年岡田時彦は松竹蒲田撮影所に移籍するのだなあ……などと同時代の映画にも及んでゆく。



改造社時代の上林暁は駒込アパートメントに住んでいたので*7、上野桜木町の川端を訪れるには、鶯谷から行くと便利だった。この時期のことを、上林暁は『私のサラリーマン時代――赤い屋根が目にしみる――』(初出:「電信電話」昭和30年11月号、『増補決定版 上林曉全集第19巻』に収録)で以下のように回想している。

 社が新橋にあつたから、帰りにはいつも銀座を歩いた。若い者はみな、モダーン・ボーイやモダーン・ガールの風潮に卷き込まれてゐた。私も赤いネクタイこそ結ばなかつたが、ダブダブのズボンをはいた。縞物のワイシャツも着た。アッシュ(とねりこ)のステッキも突いた。ダブル・ボタンのオーバーもこしらへた。

 当時は、サラリーマンの黄金時代だつたと言へるかも知れない。いはゆる小市民[プチ・ブル]的な生活を、サラリーマンが享樂した時代だつた。郊外に赤い屋根や青い屋根の「文化住宅」といふものが建ち、そこからダンス・レコードの音が聞えて来るといふふうなのが、彼等の生活形態だつた。その哀歡は、ラジオの「なつかしのメロデー」で歌はれる「心の青空」といふ流行歌に象徴されてゐる。

 私も新婚間もなくで、或るアパートメントに住んでゐた。アパートに住んでゐると言へば、まだハイカラなひびきをもつてゐた時代だつた。そこの一室で、一応プチ・ブル的な生活を営んだと言へる。ボーナスをもらふ度に、レコードやギタアやデッキ・チェアなどを妻に買うてやつた。籐椅子や円テーブルなども備へた。そのテーブルの上には、英国製の電気スタンドが置いてあつて、淡紅色のシェードで室を照らした。それらの中で、今も残つて役に立つてゐるのは、レコードだけである。……

ここで回想されている情景はまさしく、『上林曉全集 第1巻』のモダーンな短篇小説群の雰囲気そのもので、たとえば『アパートの葬式』(初出:「風車」昭和5年11月号→『薔薇盗人』)の舞台であるところの、《「東京のへり、池袋か目黒か、そんな所に情けない裝飾の、やわなアパートメントがよくある」と、村山知義氏は言つてゐる。戯曲「スパイと踊子」の書出しのト書きだ。これは、云はば、そんなアパートメントの一つでの出來事である。》の室内が髣髴とする。アパートメントといえば、『花園の向いた部屋』(初出:「文藝首都」昭和7年9月号→『薔薇盗人』)での情景も大好き。それから、上林暁の戦前の短篇小説というと、楽器や音楽の登場具合が不思議と印象に残っていたものだった。その最たるものが、『手風琴は古びた』(初出:「新科學的」昭和6年4月号→『薔薇盗人』)。この小説、科白が多いこともあって、なんとなく映画的。これだけでなく、昭和初年代の上林暁を読むと、同時代のサイレント映画のことをどうしても思い出さずにはいられない。



f:id:foujita:20130929215308j:image

その同時代のサイレント映画のほんの一例として、ここでは小津安二郎『淑女と髭』(昭和6年2月7日公開)のスチールを。この『淑女と髭』の一場面もやたらと楽器がちりばめてある! この写真は『映画と演藝』第11巻5号(昭和9年5月1日発行)所載「銀幕へのスタート ―スタアと初期の映画―」より。岡田時彦とその友人の男爵令息・月田一郎のお屋敷の一室。月田一郎の妹役の飯塚敏子のデビュウ作であった。飯塚敏子は文化学院出身のモダンガールだったという。


上林暁の昭和はじめの小説では、下宿生活の若者たちのなにげないおしゃべりがとてもよくて、『雪の日の一團』(初出:「風車」昭和3年6月号、単行本未収録)も大好き。ここに登場する文学志願の大学生で来年に卒業を控えている山野君は、下宿の隣りの部屋の画学生・北川君の絵について、

北川君は苦笑に紛らせながら言つた。春の展覧会に二度出品して、二度とも落選したのである。紅白會に出したのは靜物と「旗のある風景」だつた。出品の前日、彼は風景の方を推賞した。が、二つとも落ちた。その時も、下宿から大風呂敷を借りて受取りに行つた。落選畫を貰ひに行くのは苦しいことに違ひない。二度目は新進會だつた。「池袋風景」と自畫像とを描いてゐた。「池袋風景」と言へば、山野君にはなつかしい題名だつた。まだ故郷にゐた時分、雜誌の口繪やコマ繪などで、池袋風景、巣鴨風景、目白風景などと言ふ題を見て、新鮮でハイカラな東京の郊外を夢みたことがあつた。その時分にはまだ、田園都市、中野高圓寺も、田舎の者には知られてゐなかつた。……

というようなことを思う。この「山野君」には多分に上林暁の心境が反映しているのは間違いなく、《新鮮でハイカラな東京の郊外を夢みたことがあつた。》というくだりがとても実感的。年明けに、世田谷美術館で松本竣介展を見たときに、なんとはなしにこのくだりを思い出した。1912年生まれの松本竣介は1902年生まれの上林暁とちょうど10歳違いで、竣介描く郊外風景は上林暁の小説に登場する「新鮮でハイカラな東京の郊外」の少しあとの風景ではあるけれども、上林暁の散文の風合いとまったくおんなじ雰囲気。



f:id:foujita:20130929215309j:image

松本竣介《郊外》昭和12年8月(第24回二科展発表)、図録『生誕100年 松本竣介展』(2012年)より。数年前宮城県美術館の「洲之内徹コレクション」の展覧会に出かけたときに初めて見て大好きだった絵。昭和11年に結婚して、下落合の高台に住んだ竣介は《田園と都市の境界に生まれた新しい風景を描いた》という一節が図録40ページの解説にある。「田園と都市の境界に生まれた新しい風景」という言葉はまさしく上林暁の散文の風景そのもの! と思う。



浅見淵は昭和14年8月に、上林暁の第2創作集『田園通信』(作品社・昭和13年9月17日)に収められている作品群について、《それらが傑れてゐる理由は、農村を自然発生的に平板に書き流さずに、素朴な感受性と共に、作者の近代神経の漲つた叡智で濾過して描いてゐるからである。》というふうに書いた(『現代作家卅人論』竹村書房・昭和15年10月20日)。「叡智」という言葉に英文学の系譜を思う。上林暁の第一作品集の『薔薇盗人』は金星堂から昭和8年7月に刊行された。当時、金星堂にいた伊藤整の肝いりだったという(『文學の二十年』-「文學界」昭和26年10月号、全集第15巻)。そして、その伊藤整は昭和24年に《自分の師匠は、ジョイスと上林暁である》と書いたのだそうで、上林暁は大いに照れているのだった(『伊藤整』-「風雪」昭和24年9月号、全集第15巻)。浅見淵が用いた「濾過」という言葉は上林暁の田園小説をさしているのだけれども、『薔薇盗人』に収録されているモダンな小説群にただよう独特のふんわりとした気品にも当てはまるような気がする。


上林暁は自身の初の作品集を編むとき、「薔薇盗人」をタイトルに選んだ。表題となった『薔薇盗人』は、楢崎勤が編集をしていた「新潮」の昭和7年8月号に掲載された、改造社時代の上林暁のひとつの到達点となった作品だった。そして、この『薔薇盗人』について評した川端康成の「文藝時評」が素晴らしい。涙が出てくるくらい素晴らしい。

上林暁氏の「薔薇盗人」(新潮)は、農村の「欠食児童」を描いて、農村小説の類型を脱し、多くの真実をとらへてゐる。この作者は田園をしばしば描いて成功し、また都会を描いても、好んで牧歌の匂ふ風物を取り入れ、生活の土の重みをかぶせ、素朴な哀感を漂はす。文章もものの見方も、決して新奇ではないが、牧歌を古い歌に止めず、新しい意味を宿さうとする。この作品でも、村にただ一輪の薔薇、餓ゑた幼い妹の胸にしぼむ薔薇、薬売りの三十女を思ひ出させる薔薇は、勿論いろいろな象徴なのだが、その意味を物語る喜びを、作者は抑へ過ぎるくらゐ心の底に隠してゐる。云ひたいことを実によく裏に押しこめながら、反つてよく貧苦を浮ばせ、目に見えぬものを追ふかのやうな少年の感情を生かしたことは、生活を見てゐる眼の誠実の手柄である。

【『文藝時評』昭和7年8月、「讀賣新聞」昭和7年8月2〜5日、『川端康成全集第三十一巻』(新潮社、昭和58年8月20日)】

『上林曉全集 第1巻』巻末の初出一覧を見ると、作品は断続的に発表されていて、昭和2年に改造社入社後の忙しいなかで、勤勉に文学修業しているさまに感動する。『薔薇盗人』(金星堂・昭和8年7月15日)のあとがきに、上林暁は、

今これらの作品を一本に纏めて世に送ることの出來るのを、私は無上の喜びとしてゐる。これらの作品を書きつつ――正確に言へば、これに三倍四倍する作品を書きつつ、私は相當多忙なサラリイマンであつた。私の餘暇の大部分は、これらの作品を書き上げるために小心翼々として費されたのであつた。忙しいのによく書けますねえ、と言つて感心して呉れる人もあつた。さうして書き溜めた小説どものが今一册の本になるのだから私は嬉しい。

と書いた。徳永康元は『上林暁全集』の月報8に寄稿した「上林さんの作品と風土」と題した文章の冒頭に、《上林さんの小説をはじめて読んだのは、『新科学的』という雑誌だったか、『新潮』だったか、とにかく私の旧制高校時代だから、昭和五、六年ころだと思う。その上林暁という名前は、その作品に接するたびに、いつもすがすがしい印象で私の心に生き続けて来た。》と書いている(『ブタペストの古本屋』ちくま文庫・2009年6月10日)。徳永康元が「本当に熱心な上林ファン」になったのは、戦後の紀行風の小品に出会ったあとだったというけれども、徳永康元は、上林暁が昭和初年代からの愛読者だった。



f:id:foujita:20130929215310j:image

上林暁『文學の歓びと苦しみについて』(圭文社・昭和22年11月10日)。この本の昭和21年9月24日付けの自序に上林暁は、

京都からわざわざ東京に出向いて来られた圭文社編集部の天野忠氏に、この原稿をお渡ししたのは、去る九月八日午前のことであつた。天野さんは、僕がまだ同人雑誌に小説を書いてゐる自分から、よそながら僕を知つてゐられたさうである。爾来二十年を隔てて、天野さんの手を煩はして、僕の本が京都から出ることになつたのも、さういふ因縁が糸を引いてゐるにちがひない。

と書いている。徳永康元とおなじように、昭和初年代の京都の天野忠は上林暁の戦前からの愛読者だったのだなあと思って、ジーンとなる。天野忠も、徳永康元の言う「上林さんの文章の不思議な魅力」にとりつかれていたのだと思う。この『文學の歓びと苦しみについて』、奥付は昭和22年11月だけれど、上林の自序は昭和21年9月、予定よりもだいぶ刊行が遅れたことを伺わせる*8



f:id:foujita:20130929215311j:image

天野忠・野殿啓介・大澤孝『詩集 聖書の空間』(白鮑魚社、昭和5年2月10日)。

 私はいま、赤い表紙のうすぺらい一冊の詩集を机の上に置いて眺めている。ただ眺めているだけでも、私にはいろいろな感慨がわいてくる。それはのろのろとした、たいぎな身振りで、すこしばかり陰気な思い出をつれてやってくる。

 『聖書の空間』というこの書物は、三人の合著詩集である。即ち、野殿啓介、大沢孝、それに天野忠の三人、タテ十四糎ヨコ十一糎の四角ばった体裁のこの赤い表紙には、右横書で、詩集、聖書の空間とあり、その下に右タテ書で三人の名前、そしてその全部を裏ケイのふとい枠で二重に囲んである。見事なばかりに何の意匠もない、ただ赤字に黒文字のぶあいそで、どこかひたむきな稚さ、右下隅っこに一九三〇年の数字が小さく入っている。その一九三〇年、私たちは最下級の貧しい月給取であった。

 野殿啓介と私は百貨店の売子であり、大沢孝は日赤系の病院の事務員であった。私は紳士服用品売場に立っていたが、野殿啓介の持場は呉服売場で、客の前でいつも、帯や着物の反物をクルクルとまいたりひろげたりしていた。……

【天野忠「Moment Musical――野殿啓介のこと」-『我が感傷的アンソロジイ』(書肆山田、昭和63年3月25日)】

川端が「東京朝日新聞」に『浅草紅団』を連載していたのとまさにおなじ時期に世に出たこの「赤い表紙のうすぺらい一冊の詩集」を、わたしもときどき机の上に置いて眺めたり、そーっとページを開いたりしている。三人の先頭を飾る天野忠のページには、

  • 一日(景色 mechanically)
  • 東ーへの悲運
  • 百貨店にて
  • シネマにー merry-go-round
  • はりねづみ
  • 秋の海景譜
  • 目的を愛す
  • 靴下
  • 百貨店奉仕日の犠牲

といった詩が並んでいる。その美しい活字を見ながら、昭和3年9月から昭和18年秋まで京都大丸で働いていた時代の天野忠、彼が夢中になった文学や映画のことを思う。そして、それらが行き交う都市の移ろいのようなものをぼんやり思ったりもする。昭和23年、圭文社を退社後、天野忠は、自分の蔵書を並べて古本屋「リアル書店」を開業した。単行本でざっと800冊あったという蔵書のなかに、上林暁の『薔薇盗人』もあったのかもしれない。タイムマシンに乗ってリアル書店へ『薔薇盗人』を買いに行ったつもりで、『薔薇盗人』の初版本を買う日が来るといいなと夢想したりもする。



----------------------------------

*1:当日会場で配布されたリーフレットに『不幸』の演出を担当された鵜澤秀行氏が「4回目の『不幸』」と題する一文を寄せている。そのなかの、《私が文学座研究所に入所した昭和42年に文学座創立者の一人でもあった久保田万太郎すでに亡く、研究所の授業の教材として初めてその作品と向き合いました。先生は座の重鎮龍岡晋…明治大正期の東京下町に生きた人々の生活[くらし]の言葉を、その韻律抑揚によってどう表現するか…龍岡先生は懇切丁寧に、そして熱心に指導して下さいました。そして昭和55年、当時の中堅、若手の座員が龍岡さんを演出に引っ張り出し、勉強会という形で上演したのがこの『不幸』…龍岡さん逝かれてから何度か勉強会で取り上げられ、この「久保田万太郎の世界」のシリーズで黒木仁演出で上演したのが平成18年…そして、今度は、演出も担当しながら、私としては4回目の出会いとなります。》というくだりを、開演前の浅草見番の座布団の上で目にするひとときは格別なものだった。浅草見番の入口の並びには、宮戸座の碑と旧町名の象潟町の碑がある。久保田万太郎を見る直前に、万太郎作品でおなじみの固有名詞を記念する碑を立て続けに目の当たりにしたその直後でもあったからなおのこと嬉しい時間だった。

*2:『すみだ川』は明治42年8月初めに起稿、10月末に脱稿、同年12月『新小説』に発表された。『すみだ川』は、明治36年9月の渡米直前の明治35〜36年に時代設定がなされている。ちなみに、明治41年7月の帰国のすぐあとの同年9月半ば、木曜会の人びとが荷風の帰朝の祝宴のため、午後4時に上野停車場に集合、浅草で遊んだあと、竹屋の渡しで向島へゆき、百花園の木母寺で句会を開催している。『桑中喜語』(「苦楽」大正14年4、5月に『猥談』として発表、単行本『荷風文稾』(春陽堂、大正15年4月刊)に収録に際に改題、岩波版全集第15巻)の「八」のその日のことが書かれてある。

*3:龍岡晋『切山椒 附久保田万太郎作品用語解説』(慶應義塾三田文学ライブラリー・昭和61年7月15日)。「竹屋の渡し」の注釈は全集第1巻所収の『続末枯』に付されている。『続末枯』は「三田文學」大正7年3、4、8、11月号に『老犬』として掲載されたものをのちに改題したもの。『続末枯』の冒頭、五秋は向島堤から竹屋の渡しをわたって、今戸に住む鈴むらさんを訪問する。

*4:川端康成は昭和3年5月に尾崎士郎に誘われて大森の小母沢に移ったあと、馬込の臼田坂に転居。近隣には、尾崎一雄宇野千代夫妻、萩原朔太郎、広津和郎、室生犀星、牧野信一らが住んでいて、「文士村」華やかなりし時代だった。上野桜木町に転居したのは翌昭和4年9月17日。昭和9年6月に谷中坂町に転居を経て、鎌倉に居住したのは昭和10年12月5日。以後川端は終生鎌倉に住んだ。『川端康成全集第三十五巻』(新潮社、昭和58年2月20日)所収、川端香男里編「年譜」を参照。

*5:「文学」2013年7,8月号《特集 浅草と文学》所載の十重田裕一氏の論考『「浅草紅団」の新聞・挿絵・映画』に、《「浅草紅団」は、新聞に連載された前半と雑誌発表の後半からなる。より具体的に記せば、『東京朝日新聞』夕刊の三十七回連載(一九二九年十二月十二日ー一九三〇年二月十六日)、『新潮』第二十七巻九号(一九三〇年九月)、『改造』第十二巻九号(一九三〇年九月)に分けて発表されており、タイトルは『東京朝日新聞』『改造』掲載分が「浅草紅団」で、『新潮』掲載分が「浅草赤帯会」であった。その後、これらが加筆・修正のうえ統合され、一九三〇年(昭和五)十二月に先進社から『浅草紅団』として上梓された。》

*6:「キネマ旬報」昭和8年1月1日(第457号)の「新年特別寄稿」に掲載の『楽屋噺』と題した文章に、岡田時彦は《私が生まれた明治卅六年二月十八日は、恰も五代目菊五郎のなくなつた日で、長ずるに及び私自身芸人稼業でいつぱし身をたてるやうになるにしたがひ、此の奇しい因縁を私はたいへんかたじけなく思ふやうになつた。だからと云つて、私のはげしい六代目贔屓がとりもなほさずそのやうな偶然の暗合にあやかりたいと念ずるこゝろとばかり蔑んで貰つては困るのであつて、私が今の菊五郎に心酔してゐる仔細にはこれでなかなかの根拠があるつもりである。》と綴っている。岡田時彦ははげしい六代目贔屓だった!

*7:大正13年4月東大英文科入学を機に上京後、上林暁は本郷区台町1丁目の千鳥館に下宿、昭和3年8月に結婚、同年10月に小石川区戸塚13番地に間借り、同年12月市外巣鴨町駒込アパートに移転。昭和8年に市外滝野川町西ヶ原306番地に転居。昭和9年4月改造社を退く決意を固め、同年10月に妻子をともなって帰郷。昭和10年4月改造社を正式退社。昭和11年2月再上京、同年3月に杉並区天沼2丁目319番地の貸家に落ちついた。『増補決定版 上林曉全集 第十九巻』所載「上林曉年譜」を参照。

*8:『二銭のハガキなど』(昭和52年6月執筆、『そよかぜの中』(編集工房ノア、昭和55年8月1日)に収録、山田稔選『天野忠随筆選』(編集工房ノア、2006年10月17日)に再録。)に、伊藤整からの葉書のことが出てくる。それは昭和23年の消印が消えかかっている小さなハガキで、その文面は《その後お元気ですか、小生の本の件はどうなりましたでしょうか?》。上林暁はおそらく圭文者の編集者として日野の伊藤整を訪問し、そのときに貰った原稿が闇紙の手筈がつかず、刊行がのびのびになっていた。結局、伊藤整の方は出せずじまいで社長と喧嘩別れして退社したという。荻窪の上林暁を訪問したのと同じ日に日野の伊藤整を訪問したのかな。上林の方は無事に出たのだった。

20130104

年の瀬の浅草。2012年の東武ビルディングの外観リニューアルのこと。


2012年の年の瀬のある日。古書展と映画館をはしごして、夕闇の神保町からイソイソと半蔵門線に乗りこんで、三越前で銀座線に乗り換えて、浅草へ。年末になって初めて銀座線の新型車両に遭遇する。



f:id:foujita:20130102223133j:image

地下鉄から浅草の地上に出るときは、古びた地下商店街を通り抜けて狭い階段をあがって松屋のまん前に出るコースもたのしいし、木村伊兵衛の荷風を写した写真でおなじみの出口から吾妻橋を正面に地上に出たあと、松屋と神谷バーが同時に視界に入る瞬間も捨てがたい。今回は木村伊兵衛コースで地上に出た。これから神谷バーで今年最後の忘年会なのであった。



2012年という年は、東京駅のレンガ駅舎の復元が巷の話題になっていた一方で、浅草駅の東武ビルディングが5月のスカイツリーの開業に合わせて、昭和6年の竣工当初の姿を彷彿させるコンクリート装へと模様替えをした年であった。かなりの改修をほどこされながらも昭和6年の建物が現在もそのまま残っているということにここ数年極私的に執着していて、東武ビルディングにはかねてより愛着たっぷりだった。2011年の春先にコンクリート装への改装のニュースを知ってから*1、浅草名画座へゆくたびに東武ビルディングの観察に出かけては、2階の半円アーチ形の連続窓が姿を現わすのを心待ちにしていたものだった。そして、東武ビルディングの復元が5月に完成した一方で、10月には浅草名画座の方が閉館してしまった2012年であった。



f:id:foujita:20130102223135j:image

久松静児『渡り鳥いつ帰る』(昭和30年6月21日封切、製作:東京映画)のスチール。浅草松屋の東武ビルディングの前の吾妻橋交差点で立ち話をする田中絹代と岡田茉莉子。昭和6年の竣工時のコンクリート壁が残っている頃の東武ビルディング。吾妻橋交差点をたくさんの車と一緒に都電が走っていて渋滞している。かつて吾妻橋交差点には、吾妻橋線(上野駅前―浅草)と千住線(駒形二丁目―南千住)の2路線の停車場があった。この写真に写る千住線が吾妻橋を渡ると次の駅は隅田公園。浅草松屋の東武ビルディングのコンクリートがアルミのカバーで覆われたのは昭和49年の改修工事のときのことだったので、2012年5月に38年ぶりにコンクリート装に復帰したということになる。



f:id:foujita:20130104214534p:image

山本薩夫『戦争と人間 第一部』(昭和45年8月14日封切、製作:日活)より。昭和6年9月18日の満州事変を機に大陸に渡り、のちの戦死することになる伊藤孝雄と弟の少年、伊藤孝雄の友人の画家・江原真二郎が3人で隅田川の蒸気船に乗って語り合うシークエンスに写りこむ東武ビルディング。昭和49年の改修工事の前の昭和40年代の東武ビルディング。かつて隅田川の対岸から東武ビルディングが全面見える時代があった。徐々にビルが建ち始めて2階の半円アーチの連続窓の視覚が遮断されてゆくようになっていたサマが伺える昭和40年代の状況を、奇しくも東武ビルディングの竣工した年の昭和6年が時代設定の映画が如実に伝えているという次第。



f:id:foujita:20130102223137j:image

「浅草駅ビルのリニューアル工事」着工の約3か月後、2011年6月下旬に撮影の写真。東武ビルディングの外観は昭和49年の改修工事の際にほどこされた「カバー材(アルミルーバー)」で覆われている。



f:id:foujita:20130102223139j:image

同じく2011年6月下旬の撮影写真。正面の「浅草駅」の仮の看板の後ろをのぞいてみると、円形にくりぬかれた昭和6年のコンクリート壁。近代建築の解体工事ないしは改装工事の作業途中は、竣工当時のモダーンな外壁があらわになることがままあるのでこまめに見物に出かけるべきである、ということを第4次歌舞伎座の解体工事のときに戦前の別館の外壁が姿を現わしたときにくっきりと心に刻んだものであった。



f:id:foujita:20130102223140j:image

昭和49年の改修工事の際に建物全体がアルミカバーで覆われてからも、吾妻橋交差点正面の裏、2階のホームから飛び出した東武電車の線路の上方はコンクリートの外壁のままだった。屋上の煙突ともども竣工時の面影が濃厚に残っている。東武ビルディングに執着するようになった当初からこの煙突が大好きだった。そして、高梨豊の写真みたいに、浅草駅を出発した直後の東武電車が隅田川を渡る直前に通る高架下から東武ビルディングを見やるのが大好きだった。



f:id:foujita:20130102223141j:image

高梨豊《浅草・東武伊勢崎線ガード》(1986年)、図録『高梨豊 光のフィールドノート』(東京国立近代美術館、会期:2009年1月20日-3月23日)より。『高梨豊 写真集 都の貌』(株式会社アイピーシー、1989年7月15日)に収録されている写真。本書に栞として挟み込まれている大竹誠による解説には、《東武伊勢崎線浅草駅のプラットホームは松屋(昭和六年に建てられた東武ビル・設計は久野節)の二階にある。そのプラットホームを出た電車は、すぐに、下の江戸通りにかかるガードへ達する。その頑強なつくりの鍛鉄製ガードの支持橋脚柱頭には、アールデコスタイルの三角形レリーフが三段重ねに飾り付けられている。》というふうに記されている。



2011年3月に着工された「浅草駅ビル」の外観リニューアルが完了したのは、翌2012年5月18日*2。そして、5月22日に東京スカイツリーが華々しく開業。しかし、スカイツリー開業よりもずっと嬉しかったことは、スカイツリーの開業に合わせるようにしてひっそりと「浅草松屋古本市」が催されたこと。ひさびさの浅草松屋での古本市が嬉しくて、こうしてはいられないと古本市初日、すなわちスカイツリーの開業日の日没後にさっそく浅草に出かけて、かねてより大好きだったモダーンな階段をのぼって3階の古本市に出かけたのは、たいへんたのしい思い出。



f:id:foujita:20130102223142j:image

スカイツリー開業の5月22日火曜日、すなわち浅草松屋の古本市の初日はあいにくの雨降りだった。古本市では昭和初期の『演藝画報』1冊300円を何冊か買えたから、それなりに満足。吾妻橋を渡ってワインを飲みにゆくとき、傘の下から見るスカイツリーが青く光っている眺めが目にたのしかった。



f:id:foujita:20130102223143j:image

そんなこんなで、5月26日土曜日。休日の昼下がり、雨の吾妻橋のスカイツリーの眺めの余韻とともに、リニューアル後の東武ビルディングの観察をすべく、ふたたび浅草へ。リニューアル完成直後の東武ビルディングの全景。白昼に目の当たりにすると、コンクリートが新しすぎて、ちょっとばかし違和感を覚えるものの、昭和6年の竣工当時の東武ビルディングもこんな感じに真新しかったのかなとも思う。



f:id:foujita:20130102223144j:image

江戸通りの対岸から半円アーチの連続窓の側面を見物する。半円アーチの連続窓はビルディングの2階部分に位置している。この窓の向こうに東武電車の浅草駅のホームがある。その開業は昭和6年5月25日、ここに東京発のターミナルビルディングが華々しく誕生した。



f:id:foujita:20130102223145j:image

2階部分の半円窓の上方、すなわち3階から最上階の7階まで四角い窓が連続している幾何学的配置もいいなあ。と、上を見たり下を見たりしながら、歩を進めてゆく。『東武鉄道百年史』(東武鉄道株式会社、1998年9月30日)では、

 設計の基本は、当時流行したネオ・ルネサンス(近世復興)様式で、日本のアール・デコ建築のひとつにあげられている。アール・デコは1925年(大正14)パリで開催された装飾美術展(レ・ザール・デコ)に由来する様式である。この設計は、前述のとおり久野建築事務所で、ほかにも大阪・難波の南海鉄道(現南海電気鉄道)の南海ビル(昭和7年7月竣工)なども手がけた。

 東武ビルディングは当時、哲学、美術、文学などの各ジャンルに流行したモダニズムの影響下に設計されており、柱間に整然と窓が並び、2階の駅部分にはアーチ形の大窓が17個、連続して並んでいるのが特色である。南海ビルは、東武ビルと同じ建築様式によっているため、6階部分に連続アーチが見られる、などの共通点もある……

というふうに解説されている東武ビルディング。昭和6年5月竣工の浅草松屋の東武ビルディングと、同じ久野節による翌昭和7年7月竣工の難波高島屋の南海ビルディングとにパラレルに思いを馳せるのはいつもとてもたのしい。モダン都市と郊外鉄道と百貨店。



f:id:foujita:20130102223146j:image

東武ビルディングの駅部分である2階に並ぶ半円アーチ形の大窓は全部で17個。正面から歩いて、半円窓が5個連続したあと、出入り口があり、そのあと再び半円窓が7個連続したあと、もう一つ出入り口、最後に5個半円窓が連続したところで、建物の末端にゆきつく。この写真は、建物側面に設けられた2つの出入り口の上方部分の装飾。



f:id:foujita:20130102223147j:image

半円アーチ形の窓が17個並んでゆく、その半円と半円の間のくぼみ部分の上方にほどこされている装飾。



f:id:foujita:20130102223148j:image

半円アーチの中心の真下、すなわち、東武ビルディングの2階と1階の境目部分にほどこされている装飾。



f:id:foujita:20130102223149j:image

2階の半円アーチの窓がひとつ現われるごとにその上方に、1階ごとに3列の窓が3階から6階まで並んだあと、6階と7階の間に区切り部分があり、7階部分に3列の窓が1列並び、その上が屋上となる。この写真は7階部分の3×1列の窓と窓の間の装飾。すなわち、2階部分のの半円アーチ形の窓と窓の間を見上げると、7階部分にこの装飾がほどこされている。



f:id:foujita:20130104214535j:image

『新建築』第7巻第12号(昭和6年12月15日発行)より、《東武鉄道浅草停車場、東側側面図》。などと、上述のように建物の装飾を説明しようとするとまわりくどくなるだけだけれども、この側面図を参照すれば一目瞭然! 半円窓の間の装飾、半円の中心の下に位置する装飾、ひとつの半円窓の上部にひと固まりになっている3×4の四角い窓、半円窓と半円窓の間の柱の上部の7階部分の装飾……。それらの装飾のことを、このたびの外観リニューアルで初めて目の当たりにできて、興奮だった。細かく観察すると、もっといろいろと凝った装飾が見つかるかも。



f:id:foujita:20130102223151j:image

などと、リニューアル後の外観を目の当たりにした当初は真新しいコンクリート壁面に違和感を禁じ得なかったものの、いざ半円アーチ形の連続窓を有する建物の側面の観察をしてみると、竣工時の装飾が忠実に再現されているという事実に直面して、大感激だった。半円アーチ形の窓が17個続くと、東武電車の線路がニョキッと巨大なビルディングから飛び出る地点にゆきあたる。『東武鉄道百年史』にて、《隅田川沿いに細長く建築された同ビルは、左岸から見て、巨大な船が川に浮かんでいるようで、その腹部から電車が出発していくさまは、空母の射出装置カタパルトから航空機が飛び出てくるさまにたとえられた。》という記述に出会ったときは、たいそう胸が躍ったものだった。1931年型ウルトラ・モダン!



f:id:foujita:20130102223152j:image

かねてより大好きだった東武ビルディング屋上の煙突。アルミのカバーで覆われていたころから、半円アーチ形の窓の連続が終了し、電車が飛び出て建物がへこんでいる部分、すなわちビルディングの末端部分にのみ、かつてのコンクリート壁面が残っていて、その古色蒼然としたたたずまいが大好きだった。このたびのリニューアルですっかり外壁とてっぺんの煙突が塗り直されてしまった。でも、やっぱり煙突の眺めが大好き。東京中央郵便局の煙突が建て替え後も残されていたことも嬉しかった。と、なぜかビルヂングの屋上の煙突がいつも琴線に触れる。




f:id:foujita:20130102223153j:image

東武ビルディングの2階、半円アーチ形の17個の窓の向こう側のホームを出発した東武電車は高架を通って、隅田川の鉄橋へと向かう。その高架の下の江戸通りから、東武ビルディングの後方部分を眺める。しみじみ琴線に触れる都市風景!



f:id:foujita:20130102223154j:image

と、東武ビルディングから飛び出る高架線に興奮のあまり、東武電車に乗って隅田川の鉄橋を渡りたい! と突然思い、イソイソと浅草駅へ。各駅停車に乗ってひと駅の業平橋駅改めとうきょうスカイツリー駅で下車。群衆とともにスカイツリーを背後にしばし歩を進め、絵葉書のようなスカイツリーと東武電車の風景を眺める。



f:id:foujita:20130102223155j:image

そんな絵葉書のような風景も、電車が通り過ぎた源森橋のたもとから、北十間川とともにスカイツリーを眺めると、その河川と高架とスカイツリーとがなかなかの風情。



f:id:foujita:20130102223156j:image

《浅草松屋と東武電車》、『大東京写真帖』(好文閣、昭和7年10月1日発行)より。それまでは業平橋が終点だった東武伊勢崎線が隅田川を超えて、現在の浅草駅が開業したのが昭和6年5月25日。この写真に写るのは、枕橋。浅草―業平橋間の隅田川の脇にかつて隅田公園駅があった。隅田川対岸のこの駅からも東武ビルディングはなんて巨大なこと!



f:id:foujita:20130102223157j:image

源森橋から隅田公園駅のあった枕橋まで、業平橋・浅草駅間の高架の下を歩いてみたいなと前々から思っていたものだった。これはよい機会と、業平橋駅改めとうきょうスカイツリー駅を背後に隅田川に向かって、高架沿いを歩く。正面に隅田川に沿った高速道路の赤い高架が見える。右手は隅田公園、左手がこの高架線。



f:id:foujita:20130102223159j:image


f:id:foujita:20130102223200j:image


f:id:foujita:20130102223201j:image

隅田公園を背後に、業平橋ー浅草間の高架に目をこらすと、昭和6年の開通時のものと思われるいかにもモダンな窓を見出すことができるなあと、古色蒼然とした風情が嬉しい。



f:id:foujita:20130102223202j:image

北十間川を渡り、高速道路の高架の下から、東武電車の鉄橋をのぞむ。この角度から鉄橋を眺めたのは初めて。



f:id:foujita:20130104214536j:image

隅田川の対岸から東武ビルディングをのぞむ。竣工当時は《左岸から見て、巨大な船が川に浮かんでいるよう》といわれ、昭和40年代も2階の半円アーチ形の連続窓が対岸から見えた巨大なビルディングも今では右岸沿いの建物に阻まれて、その一部が見えるのみ。



f:id:foujita:20130104214537j:image

吾妻橋左岸の袂から東武ビルディングの時計台にズームイン。「建設当時、駅ビルのシンボルとして設置されていた大時計を、当時のデザインを参考にしながら復元 *3したという時計台。戦前の東武ビルディングの写真を見ると、いつもこの時計台の上には高々と松屋の社章(明治40年から昭和53年までの長きにわたって松屋のシンボルとなっていた松鶴マーク *4)が描かれた旗が翩翻とひるがえっている。そして戦後、昭和49年の改修工事まで時計台のかつて時計のあった部分には松鶴マークが埋め込まれている。この時計台のことも、このたびの外壁リニューアルで初めて気づかされた。



f:id:foujita:20130102223205j:image

《隅田川より浅草松屋を望む》、浅草松屋開店を伝える「松屋グラフ」(昭和6年11月1日発行)に掲載の写真。先ほど観察していた東武ビル東側側面に、松鶴マークとともに「十一月一日開店浅草松屋」の文字が記されたたすきが4本垂れ下がっている。少なくとも昭和40年代までは、東武ビルディングの広大な側面が隅田川から見渡せていた。




f:id:foujita:20130102223207j:image

と、吾妻橋を渡って、神谷バーと外壁リニューアル完成直後の東武ビルディングを眺めたところで、2012年5月26日、東京スカイツリー開業直後の東武ビルディング見物を切り上げて、銀座線に乗り込んだ次第。



f:id:foujita:20130104215843j:image

《淺草雷門驛と百貨店松屋》、『大東京寫眞大觀』(好文閣、昭和7年9月)より。昭和6年5月に竣工した東武ビルディングし、同年11月1日に浅草松屋が開店。この写真帖が出版された当時、吾妻橋交差点の都市風景はもっとも今日的なトピックのひとつだった。写真に添えられた解説には、《浅草雷門附近にある百貨店浅草松屋の全景である。この二階より東武鉄道が発車し、日光及び高崎方面に至る。地下には地下鉄道の始発駅となっている。帝都で最も人出の多い所として知らる。》とある。80年前も今も人出が多いのは変わらない。



f:id:foujita:20130104220126j:image

そして、2012年の年の瀬。吾妻橋交差点に立ったのは、ここまで長々と書き連ねてきたスカイツリー開業直後の5月末の土曜日の東武ビルディング見物以来のこと。



f:id:foujita:20130102223209j:image


f:id:foujita:20130104214538j:image

2012年最後の忘年会は数年ぶりに神谷バーへ。1階の「神谷バー」は満席だったので、2階の「レストランカミヤ」にゆく。階段の天井を見上げると、電灯と影の形状がそれだけでアールデコ。


--------------------

*1:東武鉄道株式会社が東武ビルディングのリニューアルを発表したのは2011年3月2日。同年3月2日付けのニュースリリース「浅草駅ビルをリニューアルします」:http://www.tobu.co.jp/file/pdf/99805e13b82b86d1005c128d062e2e55/110302_1.pdf?date=20120313093839

*2:東武電鉄株式会社・2012年5月11日付けニュースリリースに「80年前のモダンな姿に再現 浅草駅ビルの外観完成」:http://www.tobu.co.jp/file/pdf/743c1162e9b68cfbd4b6f944a08367cd/120511_1.pdf?date=20120511124559

*3:東武電鉄株式会社・2012年5月11日付けニュースリリース「80年前のモダンな姿に再現 浅草駅ビルの外観完成」:http://www.tobu.co.jp/file/pdf/743c1162e9b68cfbd4b6f944a08367cd/120511_1.pdf?date=20120511124559

*4:松屋公式ウェブサイト(http://www.matsuya.com/) > 企業情報 > 沿革(http://www.matsuya.com/co/enkaku/index.html

20120906

大阪遊覧2012年5月:堂島から松竹座まで歩く。紙上のモダン心斎橋。


2012年5月11日金曜日。午前8時、堂島の宿を出て、昭和6年竣工の朝日ビルディングとその向かいの昭和33年竣工の新朝日ビルディングの跡地に完成間近のフェスティバルタワーを正面に渡辺橋を渡る。平日の大阪は3年前の夏休み以来なので、よろこびはひとしお。



f:id:foujita:20120905220043j:image

迫りくる朝日ビルディング! と、これは去年年末に撮影の写真。数か月後の5月、フェスティバルタワーはさらに完成に近づいていて、以前の建物を彷彿とさせるレリーフがほどこされているのが嬉しかった。大阪遊覧に夢中になった当初から、四ツ橋筋を挟んで昭和6年竣工の朝日ビルディングと昭和33年竣工の新朝日ビルディングが並立する肥後橋の都市風景が大好きだった。大阪町歩きを緩慢に楽しむようになった2005年から2012年までのほんの数年間のなかで、新朝日ビルディングは取り壊され、フェスティバルタワーの建設工事がはじまっていると思ったら、いつのまにやら完成間近。いつの日かフェスティバルホールへ音楽を聴きにゆきたいなアと、新しい大阪都市風景もそれはそれでたのしみなのだけれども、でも、昭和6年の朝日ビルディングがなくなってしまうのはやっぱりとっても残念。



f:id:foujita:20120905220044j:image

『六十年の回顧』(竹中工務店、昭和34年2月16日発行)に掲載の朝日ビル写真。竹中工務店が明治32年に神戸に店舗を設けて60年となる記念に刊行した全72ページの大判の写真集。この写真の下に、《昭和6年(1931)の竣工で、近代的事務所建築の先駆として建築界を刺戟した。一般建築物の高さの制限を越えて認可されたことも当時の大きな話題であった。》という解説が添えられている。新朝日ビルディングの場所にスケート場があった頃の昭和20年代の写真。



f:id:foujita:20120905220045j:image

同じく、竹中工務店の『六十年の回顧』に掲載の新朝日ビルの写真。大阪遊覧に夢中になった当初からこの屋上の鉄塔が大好きだった。

 地下と地上と塔屋を加えて19階建、延面積22,930坪(75,786平方メートル)軒高45mの上に塔屋18m、更に鉄塔のデッキまでが40mで、合計103mであるが、その軒高45mが認可されたのは日本最初である。

 内容は多彩で、フェスティバルホール、ABCホール、朝日文化ホール、朝日放送などの文化施設と、一般賃貸事務所と更にホテルの三つに大別されているが、屋上にヘリポートがある。

 西側と南側の全面に巾4mのアーケードを設けてあることや、必要があれば建物の外装を1週間で自由に取り替えられて全く新しい姿になり得る仕組みになっていることなど、この建物の話題はつきない。

というふうに、この本の刊行の前年の昭和33年の竣工、出来たてホヤホヤの新朝日ビルが誇らしげに紹介されている。竹中工務店は、昭和2年竣工の数寄屋橋の東京朝日新聞社、昭和6年の大阪朝日新聞社、戦後の昭和33年の新朝日ビル……というふうに、東西の朝日新聞を一手に引き受けていた。そして2012年、普請中のフェスティバルタワーの工事幕にも「竹中工務店」の文字がある。



f:id:foujita:20120905220046j:image

ついでに、昭和6年竣工の朝日ビルディングの南側の肥後橋北詰にかつてあった大正5年竣工の大阪朝日新聞社の建物。《正月の肥後橋にて1001形1016号》(昭和33年1月2日撮影)、『高橋弘作品集3 路面電車』(交友社、2005年11月15日)に掲載の写真。この建物の四ツ橋筋をはさんだ向かいにはかつて大阪中央郵便局があり、昭和14年に大阪駅前に移転した。その大阪中央郵便局のモダンな建物は現在解体工事の真っ最中。かさねがさね、大阪都市風景の変遷にしみじみとなる。



北から南に向かって歩いて、中尾書店で《心斎橋 きもの モダン ―煌めきの大大阪時代》


と、いつものとおりに肥後橋の都市風景を思う存分満喫したあとで、土佐堀川沿いを淀屋橋に向かって歩いて、さらに上機嫌。土佐堀川可動堰、住友ビル、淀屋橋を渡って日銀大阪支店、中之島図書館、中央公会堂……というふうに、この界隈のおなじみの近代建築群をぐるりと一周したところで大江橋を渡って、堂島ビルディングの裏手の堂島川沿いの喫茶店で朝食がてら、ひと休み。休暇中ならではのゆったりした時間がしみじみ至福だなあと宿から持参の朝日新聞をじっくり読んでいたら、先ほど思いを馳せていた大阪中央郵便局の解体工事に関する記事が出ていて、まじまじとその写真を見つめたりする。と、そんなこんなで、ふたたび外に出て、大江橋と淀屋橋を渡って、御堂筋を歩いてゆく。北から南へ向かいながら、御堂筋と境筋の間の道をクネクネと歩いて、芝川ビルをはじめとするおなじみの建物を適当に眺めつつ南下して、ふわふわといつまでも上機嫌。



堂島から御堂筋に出て、北から南に向かって歩きながら、おのぼりさん気分を満喫しているうちに本町に到り、「せんば心斎橋筋商店街」をさらに南に向かって歩いてゆく。開店準備の真っ最中の商店街の空気がいつも好きだ。ここを初めて歩いたときに大喜びだった三木楽器をひさびさに眺めてよろこぶ。南久宝寺町を過ぎると、商店街の名称は「心斎橋筋北商店街」となり、長堀通の心斎橋の横断歩道を渡ると「心斎橋筋商店街」となる。と、心斎橋を横断したところで、時刻はちょうど午前10時。『新菜箸本撰』の未所持の号を根こそぎ購入するという目的で足を踏み入れた開店直後の中尾書店で予定外の買い物もしてしまったあとで、向かって大丸百貨店を横目に福寿司で本日の昼食、長崎堂で本日のおやつを買って、もうすっかりひと仕事終えた気になってほっとひと息、戎橋にほど近いコーヒーショップで小休憩。このあと、午前11時から午後3時まで、大阪松竹座で團菊祭五月大歌舞伎の昼の部なのだった。




f:id:foujita:20120905220047j:image

図録『開館10周年記念 特別展 心斎橋 きもの モダン ―煌めきの大大阪時代―』(大阪歴史博物館、2011年10年15日)。表紙は、高橋成薇の《秋立つ》(昭和3年)に描かれた断髪姿のモダンガール。去年結局行き損ねてしまった展覧会の図録を中尾書店で見かけて、「あっ」と手に取ってみると、たいへん胸躍る素晴らしい図録。タイトルだけ見ると着物が中心みたいだけど、実際に図録を見ると「心斎橋モダン」の資料がふんだんに掲載されていて、実際の展覧会もさぞかし素晴らしかったことだろうと思う。


そして、この図録に、『寫眞心齋橋』(心斎橋新聞社、1935年7月)が全ページ復刻されていることを中尾書店の店頭で初めて知ったときは狂喜乱舞だった。『寫眞心齋橋』に掲載の写真は、その多くが橋爪節也編『モダン心斎橋コレクション』(国書刊行会、2005年9月)で紹介されている。『モダン心斎橋コレクション』は大阪遊覧のたびにじっくりと眺めているとびきりの愛読書だから、何度も見ている写真ばかりのはずなのに、『寫眞心齋橋』の原本をあらためて大判のグラフ誌として国会図書館で現物を目の当たりにしたときの驚きというか、心のときめきは今でもとっても鮮烈。思えば、4年前に国会図書館で『寫眞心齋橋』を閲覧したのは、初めて心斎橋に出かけた直後のことだった。心斎橋をゆっくり歩いたのは、今回が2度目。と、そんな4年ぶりの心斎橋で、『寫眞心齋橋』の復刻に出会ったというえにしが嬉しかった。




f:id:foujita:20120905220048j:image

『寫眞心齋橋』(心斎橋新聞社、昭和10年7月)の表紙、図録『特別展 心斎橋 きもの モダン』(大阪歴史博物館、2011年)より。本図録の「『写真心斎橋』複製 解説」で、昭和10年発行の本誌に写る店舗写真の特徴として、ショーウィンドウとディスプレイが際立っていることとともに、電灯の多用が指摘されている。

……昭和初期、大都市の夜は「白日街」に変わったといわれるが、心斎橋筋も同様の傾向をたどった。しかしここにあるのは、電飾・ネオンサインではなく、ショーウィンドウの明るさであった。本書掲載の店舗外観も、そのほとんどが夜間に撮影されたものである。これが意図的であることは、本書の表紙をみればわかる。当時の観光案内書は、大阪の夜の散歩道に道頓堀と心斎橋筋をあげるが、それはこのような照明の普及と不可分であった。また、この明りは、道頓堀の芝居帰りの客をも吸引した。

 『写真心斎橋』には、近代化した商業と消費のあり方が、写真によって記録されている。

と、こんな一節を、松竹座の芝居見物の直前のコーヒーショップで目の当たりにして臨場感たっぷり。今度は、松竹座の昼の部のあとに夜の心斎橋を歩いてみたいなと思う。



f:id:foujita:20120905220049j:image

北尾鐐之助『近代大阪』(創元社、昭和7年12月25日)の「心斎橋筋の一考察」のページに掲載の《心斎橋筋の夜》。「明治キヤラメル」のネオンサインが見える。《誰でも気のつくことであるが、心斎橋から戎橋まで、あの七町ほどの狭い道筋の両側には、六十九本の「あやめ燈」と呼ぶ街燈が点つてゐる。》とある、その「あやめ燈」のなんと眩しいこと!



f:id:foujita:20120905220050j:image

習田敬太郎《道頓堀夕景 新戎橋より戎橋附近を望む》、『大大阪現代風景』(大阪毎日新聞社、昭和8年4月5日発行)より。この小冊子は、大阪毎日新聞で「近代大阪風景」の課題で懸賞募集した際の応募作品をその入賞作品を中心に全市15区にわたるように全32点抄出して収録したもの。選考には北尾鐐之助が絡んでいたのかな。水辺、橋、工場、そして夜景の写真が多いのがいかにも「近代大阪」。



1930年代心斎橋の製菓会社売店


道頓堀の芝居帰りの客が夜の心斎橋を歩いたのとおなじように、木挽町の芝居帰りの客は夜の銀座を歩いた。と、そんな感じに、戦前の銀座と心斎橋を対照させて、モダン都市の東西に思いを馳せるのはいつもとてもたのしい。心斎橋を初めて歩いた4年前、戦前昭和の製菓会社経営の喫茶店は銀座とおなじように心斎橋でも、不二家、森永キャンデーストア、明治製菓売店がそのモダーンな店舗を展開していることに胸躍らせたものだった。製菓会社経営の菓子舗を通して見る東西のモダン都市。北尾鐐之助は、『近代大阪』(創元社、昭和7年12月25日)所収「心斎橋筋の一考察」の冒頭に、

 一口に心斎橋筋というが、大体これを四つに分ける。

 長堀川に架つた心斎橋から、北の方新町橋通り附近に至るものを心北。それから心斎橋を渡つて南へ、大丸百貨店の、もう一つ南の辻、周訪町までを心斎橋筋一丁目。それからまた南へ、道頓堀川に架つた戎橋までを同じく二丁目。戎橋からさらに南へ、難波までを戎橋筋。

 かう分けてみると、世にいふ=心ぶら=とは……その一丁目及び二丁目がもつところの、凡そ七百メートルほどの小売商店街を覗きながら歩くことをいふのである。しかし、何と云つても、心斎橋の魅力といふものは、このうちの二丁目が、その代表的な明朗さをもつてゐることにすぐ気がつく。

というふうに述べている。まさに北尾鐐之助が「代表的な明朗さをもつてゐる」としている二丁目に製菓会社経営の喫茶店が3軒もあった。と、わたしにとって心斎橋筋を歩くということは、大丸南の心斎橋筋二丁目一帯、西側にある森永キャンデーストア、東側の不二家洋菓子店、丹平薬局、明治製菓売店のあったころの戦前昭和の町並みに思いを馳せるということにどうしてもつながってしまうのだった。



f:id:foujita:20120905220051j:image

『寫眞心齋橋』の巻末の折り込み地図より、心斎橋筋の二丁目附近を拡大。八幡町の角に「不二家洋菓子店」。銀座と心斎橋のいずれにおいても森永と明治の店舗はもうないけれども、不二家のみ戦前と同じ場所に長らく不二家レストランがあり、現在は銀座と心斎橋のいずれも不二家経営のダロワイヨになっている。



f:id:foujita:20120905220257j:image

『寫眞心齋橋』を国会図書館で閲覧したとき、大判のグラフ誌で見る不二家洋菓子舗のモダーンな天井照明にうっとりだった(『モダン心斎橋コレクション』の「〈明治製菓売店〉〈不二家洋菓子舗〉」(p.174-175)の背景にあしらわれている。)。店舗の写真に添えられた「せつめい」には、《銀座と横浜で名高い不二家が、心斎橋進出を敢行して数年、今では完全にしんぶらまんの素通りの出来ぬオアシスとなった、豪快で衛生的な店内設備、うまい料理、茶、殊に菓子はなんといつても一流で、批評の限りでない、店主は藤井林右衛門氏。》とある。



f:id:foujita:20120905220258j:image

不二家のモダーンな天井照明の下の1階店内はこんな感じだった。『寫眞心齋橋』の翌年に刊行の、「モダン都市の電飾」を写した写真集である照明学会編『照明日本』(社団法人照明学会、昭和11年11月28日)に掲載の写真。ゆまに書房「コレクション・モダン都市文化」第21巻『モダン都市の電飾』(2006年12月15日)より。



f:id:foujita:20120905220259j:image

森永キャンデーストアは不二家菓子舗のやや北の東側にあった。自家製純正白粉を扱っていた「いづ勘」の隣り。『寫眞心齋橋』の「せつめい」には《説明の要なき著名な森永製菓会社の分身株式会社森永キャンデーストアの経営で本社は東京、全国にチエーン二十五店がある。社長は松崎半三郎氏。常務大串松次氏、相談役森永太一郎氏。》とある。



f:id:foujita:20120905220300j:image

同じく『寫眞心齋橋』に掲載の写真。橋爪節也編『モダン心斎橋コレクション』の〈心斎橋森永キャンデーストア〉のページには(p.172)、《キャンデーストアも夜になると大人ばかり》というコメントが添えられている。同書の図版、『食通』昭和10年12月号に掲載の特集記事「代表的喫茶店とフルーツパーラー」では、山東卯吉の「家族的な森永」という文章に、《心斎橋へ出懸けた帰りに、それが家族づれであつた場合、私達は何の躊躇もなく森永キャンデイストアーで休むことに決めてゐます。森永と云へば妻も子供も嬉んで、入つて呉れます。》、《レコードの演奏は間断なく、軽快なメロデイを送つて呉れます。これが土曜日曜ですと舞台では写真と漫画を上映して呉れるので子供達は大嬉びです。》というふうに書かれている。



f:id:foujita:20120905220301j:image

このたびの心斎橋来訪を記念して購った紙もの・その1、森永キャンデーストアのチラシ。店内の舞台をモチーフにしたイラストに「舞台と喫茶」のキャッチコピーをあしらったデザイン。『森永五十五年史』(森永製菓株式会社、昭和29年12月20日)でも、《日本で初めてステージを設け音楽・映画の提供》というふうに誇らしげに語られている心斎橋筋の森永。森永キャンデーストアは大正12年4月3日の丸ビル店を皮切りに、同年8月13日に堂ビル、同年12月20日に銀座6丁目1番地に開設された。大阪では、大正12年の堂ビルのあと、昭和2年12月27日に高麗橋、そして、昭和4年3月1日に心斎橋店が開業した。


f:id:foujita:20120905220302j:image

こちらは、《森永の菓子 鳴門観潮御招待》のチラシ。大正15年3月15日から6月15日までの期間、五十銭お買い上げごとに抽選券1枚進呈、6月20日に新聞紙上ならびに販売店で当選発表、当選者は6月30日までに「観潮優待券」を堂島ビルディングに置かれていた森永の大阪出張所(森永製品関西販売会社)で受け取り、7月11日日曜日に大阪商船の鳴門丸と音戸丸の両船で航海に出発。外れた人も抽選券を持参すれば、堂ビルの森永キャンデーストアでココアをご提供とのこと。大正15年の時点では、高麗橋も心斎橋もまだ開店しておらず、大阪の森永キャンデーストアは堂ビルだけだった。その草分けの販売促進のキャンペーン。



図録『山名文夫と熊田精華展 絵と言葉のセンチメンタル』(目黒区美術館・2006年)所収の熊田精華宛て書簡で、大正12年春から図案家としてプラトン社に勤めていた山名文夫が、堂ビルの森永に入りびたっている様子を伺うことができて、たいへん微笑ましい。大正14年4月にプラトン社は谷町から堂ビル4階に移転していた(早くも同年秋、自前の印刷工場が完成、その浪速区馬淵町の敷地内に雑誌社も再移転する)。しかし、だんだん森永にも倦んで、大正14年7月16日宛て書簡では、

モリナガにはいい夏の食べものがなくて困つてゐます。おひるのパンもちっともおいしくない。アイスクリームと来てはすつかり田舎式です。心斎橋の丹平ファーマシーのアイスクリームはおいしいですよ。夏がすぎないうちにあそびにいらつしやい。けれど等身大のヤンキーの人形が入口に立つてゐて折々ベルをならすので恐縮します。

というふうに書き送っている。橋爪節也編『モダン心斎橋コレクション』を初めて繰ったときにまっさきに心躍ったのは、第七章「丹平ハウスと、をぐらやビルディング―美術と文芸の拠点」だったと思う。丹平薬局の小売部門として大正13年に建設された「丹平ハウス」とその向いにあった落語の『三十石』でおなじみの鬢付け油の「をぐらや」。山名文夫が熊田精華に手紙を書いた大正14年、丹平ハウスはまだ出来たてホヤホヤ。さぞかし光輝いていたことだろう。



f:id:foujita:20120905220303j:image

と、その心斎橋の丹平薬局は、不二家洋菓子舗より2軒先の戎橋寄りにあった。『モダン心斎橋コレクション』の〈丹平ソーダファウンテン〉によると(p.202)、カウンターの上に掲げられているのは赤松麟作の《静物》(昭和5年)。丹平ファーマシーの階上にあった「赤松洋画研究所」(大正15年開設)と「丹平写真倶楽部」(昭和5年結成)を思うと、いつもたいへん胸躍る。



f:id:foujita:20120905220304j:image


f:id:foujita:20120905220305j:image

このたびの心斎橋来訪を記念して購った紙もの・その2、「丹平ソーダファウンテン」のチラシ。見るからに涼しげなおしゃれなチラシの裏面は「丹平タイムス」という名の薬局の広告、あまりおしゃれではない実用的な宣伝記事が印刷されている。ソーダ水を飲んで涼みつつ、薬局でお買い物して暑い大阪の夏を少しでも衛生的に……といった感じかな。




f:id:foujita:20120906215457j:image

《心斎橋を心ゆくまで味つて、足の向くまゝ気まゝ歩き。》と心斎橋筋を歩く徳山[たまき]。徳さんが大阪、柳屋金語楼が京都、大辻司郎が神戸をゆく「三都の盛り場を行く三銃士」、『映画朝日』第17巻第1号(昭和15年1月1日発行)より。ちょうど綴じ部にかかってしまって真ん中が黒くなっているけれど、後姿の徳さんの視線の行き先のご婦人グループの背後に「マツダランプ」の看板が見える。というわけで、徳さんの左手あたりが丹平薬局だ!



庄野潤三『野鴨』(初出:「群像」昭和47年1月から10月。昭和48年1月・講談社→講談社文芸文庫・2011年2月)に、主人公・井村が死んだ長兄を回想するシーンに「製菓会社の出している店」が登場している。

 兄が映画をみに井村の兄を連れて行ってくれたことがある。あれは中学の二年くらいか。それくらいだろう。

 たとえ父兄が同伴であっても、中学生は映画館への立入りを禁じられていた。兄が映画好きなものだから、彼はうまいことをいってせがんで、連れて行ってもらった。

 待合せをすることになった。繁華街の通りにある喫茶店で、分りのよい店がある。そこで待っているようにいわれた。

 決められた時間までに井村は行った。そこは製菓会社の出している店であった。制服制帽の中学生はどういう種類の喫茶店であっても、大っぴらに入ってはいけない規則になっているが、ここなら先ず安心であった。

 ただ、彼はそんなところで待合せをしたことがないので、入口からは見えない。奥の方の席で、壁を向いて坐った。

 約束の時間になっても、兄は現れない。

「おい」

 と声をかけてくれない。

 几帳面な兄が、時間に遅れるとは考えられない。どうしたんだろう。会社で出がけに何か用事が出来たのだろうか。(兄は染料を扱っている会社に入っていた。野球部の選手で、休みの日によく試合があった)

 そろそろ心配になりかけたころに、やっと兄が来てくれた。

「いつ来た」

 と聞くから、もう大分前からここにいたと井村は言った。

 何時ごろだというので、来た時間をいったら、それなら兄はもう来ていたという。中を覗いてみたが、いないので、そのあたりを少し歩いてから引返した。

 二度目に覗いてみたが、いない、三度目もいない。これでは映画に間に合わなくなる。困ってしまった。最後に念のため、店の奥まで入ってみたら、こんなところで入口に背中を向けて、ひとごとみたいな顔をして坐っている。

 これでは見つかりっこない。

 人と待合せをしている者が、どうしてわざわざ見え難い席にいるのか。もう少しで兄ちゃんは諦めて、家へ帰ってしまうところだった。

 そういって叱られた。

 実際、井村は入口の方をまるで見なかった。はじめにそこのテーブルに坐ってから、多分、一回もうしろを振り返らず、周囲を見まわしもしなかった。

「こういう待合せの時は、入口の近くの、相手が通りかかっただけで、一目で分るところにいるものだ。相手が気が附かない先に立ち上って、声をかけるくらいにしないといえない。隠れているやつがあるか」

 兄からいい聞かされた言葉は、耳に痛かった。

 年が九つも開いているので、いつでも兄はかばってくれるものの、かりに文句をいったにしても決して本気では怒らないものという頭が、彼にはあった。

「あれはまずかった」

 いまでも井村は、たまに誰かと待合せをするような時、決して隅っこの分りにくいところにはいない。なるべく先に来ていて、こちらから相手に声をかけるようにする。少なくともそういうふうに心がけている。

庄野潤三と兄・鴎一の思い出が多分に反映されているに違いないこの挿話は、小説のなかでは、《朝がた、なくなった長兄に会って、何かひとこと、ふたこと話す夢を見た。》、《夢の中の兄は、亡くなる前の、病気の苦しみを耐えていた兄ではなく、元気な時の兄であったのがよかった。》というくだりのあとに登場していて、このくだり、いつ読んでも胸が詰まる。特に明記はされていないけれども、これは心斎橋筋の森永か不二家か明治のような感じがする。庄野潤三は昭和8年に大阪府立住吉中学校に入学し、昭和14年に大阪外国語学校英語部に進学している。勝手に心斎橋と決めつけてしまって、兄と弟の思い出の1930年代モダン心斎橋を思うのだった。



f:id:foujita:20120905220307j:image

『松竹座グラヒツク』第10巻第2号・昭和4年2月1日発行。表紙:津村英夫《ベチイ・カムプソン嬢》。洋画紹介とともに、岩崎昶「映画芸術家列伝」、川口松太郎「レヴュウ・レヴュウ・レヴュウ」、長沖一「ヤニングス余談」、正岡容「続映画人物記 夢声とあたし」等の記事がある。



f:id:foujita:20120905220308j:image

裏表紙は住吉菖蒲園の広告。2月は梅見の季節!



ちなみに、この号の『松竹座グラヒツク』には、長沖一(ながおき・まこと)の名前が目次にあるのが極私的に嬉しい。藤沢桓夫が昭和21年1月に創刊した『文学雑誌』の編集実務をになった長沖一で、庄野潤三はその創刊号から寄稿していた。さてさて、中学生の庄野潤三が兄・鴎一に連れて行ってもらった映画館は道頓堀の松竹座だと勝手に決めつけてみると、一番近い「製菓会社の出している店」は心斎橋筋の戎橋のほど近い明治製菓売店ということになる、かな?



f:id:foujita:20120905220309j:image

手持ちのマッチラヴェルのなかで、心斎橋の明治製菓売店が1枚だけあった。昭和7年3月10日の新築開店時のものと思われる。心斎橋筋の明治製菓売店は昭和3年11月25日に開店、昭和5年11月11日に火事で喫茶部を焼失後、昭和7年3月10日に新築開店。昭和20年3月14日、空襲で全焼(『三十五年史 明治商事株式会社』明治商事株式会社・昭和32年5月2日発行)。



f:id:foujita:20120905220310j:image

『寫眞心齋橋』の明治製菓売店のページに掲載の写真。ライトに照らされる「Meiji」のガラスがほんの少しだけライト風装飾なのが微笑ましい。《明治製菓会社の分身、明治商店の経営、大量製産は、良品を斯くも安く売れるという事を、顧客に知って頂くため、東京の十三店始め、全国の二十八のチェーンストアが設立されてある、社長は相馬半治氏。》という「せつめい」が添えられている。



f:id:foujita:20120905220311j:image

1階店内にはたくさんのお菓子が陳列されていて、さながらお菓子の国。



f:id:foujita:20120905220312j:image

その1階奥の喫茶室。高い天井と照明の配置、床のタイルの形状がそこはかとなくモダン。



f:id:foujita:20120905220313j:image

階段を上がって、2階喫茶室へ。中尾書店で頒布されている『新菜箸本撰』(http://www.nakaoshoten.jp/shin_honerami/index.html)の第七号《石橋心斎橋“一〇一”年号》(2010年1月2日発行)所載の、高橋俊郎「表紙絵の心斎橋――昭和十六年から、心斎橋筋書肆の子、田村孝之介と雑誌「大阪文学」・輝文館―――」の書き出しに、

 昭和十六年(一九四一)と言えば、戦時下に風俗壊乱に問われて文芸作品の発禁処分が続出し、織田作之助『青春の逆説』、九条安治川が舞台の徳田秋声『西の旅』も発禁となった年である。十二月八日には真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まった。

 さて、その十六年春の心斎橋筋明治製菓売店二階喫茶室に、大阪の主だった同人誌の面々が十五、六人集まった。「新文学」の小野十三郎、田木繁、名木皓平、「上方文学」河原義夫、「海風」織田作之助など。

というふうに、昭和16年12月1日に創刊された『大阪文学』のはじまりが記されている。心斎橋の明治製菓売店がまさにその舞台だった。



f:id:foujita:20120905220314j:image

心斎橋の明治製菓売店の3階は集会室。昭和16年春に大阪の同人誌の面々が集まったのは明治製菓売店2階喫茶室とのことだけど、総勢十数名だから、3階の集会室だった可能性もありそう。『大阪文学』の表紙絵を描いた田村孝之介は明治36年に心斎橋北の書肆の子として生まれ、発行元の輝文館は西横堀川の呉服橋の近くにあったという。『新菜箸本撰』に掲載の高橋俊郎さんによる、昭和16年12月に創刊した『大阪文学』をめぐる論考にある大阪の文学者たちの交錯とその舞台の大阪の町を思うと、いつも胸が躍る。いままで何度読み返したことだろう。




f:id:foujita:20120905220315j:image

『大阪文学』創刊号(昭和16年12月1日発行)の田村孝之介による表紙絵、『新菜箸本撰』第七号(2010年1月2日発行)所載、高橋俊郎「表紙絵の心斎橋――昭和十六年から、心斎橋筋書肆の子、田村孝之介と雑誌「大阪文学」・輝文館―――」のページに掲載の図版。

 この創刊号の絵は川面の家並みに浮かぶ船と、まるでヴェネツィアのような風景で、私は道頓堀川かと思っていたが、左遠景が馬場町に移転した大阪中央放送局だとすると、西横堀川だろうか。いずれにしても水都を象徴するスケッチである。

 発行所の輝文館は東区横堀二丁目十六、西横堀川に架かる呉服橋の近くにあった。

 輝文館が発行していた雑誌「大阪パック」の当時の編集長格は秋田実で、自分も『笑ひの研究』を連載していた。ここに長沖一や藤沢桓夫や小野十三郎、そしてその表紙絵も描いていた田村孝之介がいつも顔を出していた。

 その頃、秋田実は吉本興業の文芸部長も兼務していて、ここに集まった面々は、昼下がりになると連れもって心斎橋を抜けて、大丸を東に入った東清水町にある吉本興業芸能部をのぞいて、夜には道頓堀にたどりついて騒ぐのが常だった。

というふうに綴られている。秋田実、長沖一、藤沢桓夫、小野十三郎、田村孝之介……。この顔ぶれがたまらない! 馬鹿のひとつ覚えで「モダン大阪」だと、たまに大阪の町を歩くとそれだけで気持ちが高ぶってしまうのは、この顔ぶれが体現するところの文学や美術やデザイン、演劇や演芸の交錯の象徴としての「大阪地図」にずっと夢中だからなのだった。



f:id:foujita:20120905220316j:image

と、吉本興業の文藝部長の秋田実の名前も登場したところで、彼が編集していたとってもモダーンな『ヨシモト』の復刻版(1996年11月3日発行)を取り出す。創刊号(昭和10年8月1日発行)のみ田村孝之介による表紙絵。発行所の吉本興業合名会社の住所は「大阪市南区東清水町三〇」。



最後に、ガスビルに寄り道を


『新菜箸本撰』第七号に掲載の高橋俊郎さんの「表紙絵の心斎橋――昭和十六年から、心斎橋筋書肆の子、田村孝之介と雑誌「大阪文学」・輝文館―――」には、「大阪文学の道」と題した地図が付されている。

「大阪文学」の編集長格になった織田作之助はと言うと、当時は日本工業新聞社に勤めていたが、ここが昭和十六年三月に、堂島から江戸堀下通り一丁目五十三に移転した。つまり、西横堀川を挟んで輝文館に毎日のように顔を出していた。その輝文館サロンとも呼ばれるべき環境の中から「大阪文学」が生まれたのである。

 朝日ビル→日本工業新聞→輝文館→ガスビル→[き]文堂→心斎橋→吉本芸能部→道頓堀、これが当時の大阪文学の道とも言えるのではないか。

堂島から心斎橋まで、朝日ビル、支庁、図書館、中央公会堂、西横堀川を挟んで日本工業新聞と輝文館、御堂筋沿いのガスビル、田村孝之介の生家である心斎橋筋の書籍卸商・[き]春堂から、十合、大丸、東清水町の吉本興業が書かれている。このあとの、《皆んながぞろぞろ心斎橋に向う時も、将棋好きの織田作之助は途中で抜け出して、ガスビル七階にあった学士会倶楽部で指していたようである。》の一節が嬉しい。



f:id:foujita:20120905220317j:image

《昭和十三年大改正版 最新大阪電車地図》(和楽路屋、昭和13年3月20日発行)より、「大阪文学の道」の界隈を拡大。この地図はボロボロだけれど、西横堀川をはじめとする数多くの河川のあった頃の大阪地図が好きで、その橋のひとつひとつの名前が目にたのしい。



f:id:foujita:20120905220318j:image

北尾鐐之助《西横堀川=御池橋附近》、『近代大阪』(創元社、昭和7年12月25日)所収「河川雑記」のページに掲載の写真。御池橋は、輝文館の近くの呉服橋のだいぶ南、四ツ橋の文楽座の近く。




f:id:foujita:20120905220320j:image

《ガスビル御案内》(大阪瓦斯株式会社発行)。全10ページのリーフレット。館内断面図、1階から最上階の8階までの案内記事。



f:id:foujita:20120905220321j:image


f:id:foujita:20120905220322j:image


f:id:foujita:20120905220323j:image

ガスビル講演場で開催されていた「ガスビル映画鑑賞会」リーフレット。「これからだ出せ一億の底力」というような「新体制標語」や「掛けよ一億防諜マスク」といった「防諜用語」が余白に書いてあるから、大東亜戦争以後のもので、紙そのものはいたって粗末。『旅する人々』、『スパイ戦線を衝く』、『未完成交響楽』、『少年の町』等々の洋画がニュース映画とともに上映されている。主催は夕刊大阪新聞社。「夕刊大阪」は日本工業新聞社と同系で、昭和14年に日本工業新聞に入社した織田作之助は翌年「夕刊大阪」の社会部に異動し、昭和17年春まで勤めていたのだった。



f:id:foujita:20120905220324j:image

上掲の《ガスビル御案内》のグラビアより、《ガスビル講演場》。舞台正面上部の文様については、『大阪瓦斯五十年史』(昭和30年10月19日)で《舞台正面プロセニアム・アーチの上の文様はギリシア神話の神々をシンボルとする象形文字をもって天体を表わし 左から海王星 火星 土星 金星 太陽 天王星 月 水星 木星の順 左右両端は星雲説からきた文様である》というふうに解説されている。上掲の「ガスビル映画鑑賞会」の粗末なリーフレットにもあしらわれいるガスビルホールのシンボル。



f:id:foujita:20120905220325j:image

上掲の《ガスビル御案内》のグラビアより、《屋上の眺望(露台)》。大阪城が見える。《東に錦城を望み西は遠く大阪湾の水平線まで眺め時にガス燈の光の下に、静かに夜の化粧をして行く大都会を見下ろす壮快さは当ビル独特のものです》とある。8階建てのガスビル。織田作之助が将棋を指しに通っていた7階にあったという学士会倶楽部からの眺望はどんな感じだったのかな。

20120619

近鉄電車と生駒山。新緑の大和郡山で川崎彰彦と小野十三郎をおもう。


大阪から近鉄電車にのって、生駒トンネルを抜けて奈良へ

2012年5月13日日曜日。午前7時50分、大阪地下鉄を難波で下車して、近鉄電車に乗り換えて、奈良へ向かう。近鉄電車に乗るのは2年ぶりくらい。難波の地下の駅を出発し、上本町の地下駅では地上のチャーミングなターミナルのたたずまいを頭に思い浮かべて、にっこり。またビスタカーに乗りたいなと、過去の遊覧の追憶にひたる。上本町を出た電車が地上にあがるとすぐに右手に赤十字病院の大きな建物が見える。結構最近まで残っていたという、海野弘著『モダン・シティふたたび』(創元社、昭和62年6月)でおなじみの古い建物を頭のなかに思い浮かべて、にっこり。



f:id:foujita:20120618230934j:image


f:id:foujita:20120618230935j:image

《日本赤十字社大阪支部病院》(設計:日本赤十字社臨時建設部)、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日)に掲載の写真。古びた屋根が連なる向こう側に白亜の病棟が並んでいる。南病棟が昭和4年3月に竣工して以降、中病棟(昭和7年3月竣工)、分病舎(同年6月竣工)、看護婦寄宿舎(昭和8年5月竣工)、北病棟(昭和9年12月竣工)が出来上がり、同書刊行時は「本屋改築予定地」が下図に白線で示されている。

……(天王寺地区の)北には大阪赤十字病院がある。この主要部分は日赤臨時建設部が一九三四年に設計したものである。日赤臨時建設部というのは、夕陽丘高校清香会館をつくった木子七郎が中心になり、岡田信一郎が顧問であったという。その後、建て増しされて、変わっている部分も多いが、いたるところにしゃれた装飾やステンド・グラスなどがあり、そのうねるようなファサードをはじめとして、いつまで見ていても、なかなか見尽くせない。

というふうに、昭和末期に海野弘さんは書いている(『モダン・シティふたたび』)。わたしもこんなふうに赤十字病院の広大な敷地を歩いてみたかったな。……と、大阪に来ると毎回必ず、海野弘の『モダン・シティふたたび』の一節が思い浮かぶ瞬間がある。海野弘を思い出したところで、さらば大阪。電車は奈良へと向かってゆく。



f:id:foujita:20120618230932j:image

大軌参急電車発行《大軌参急沿線案内》、昭和9年5月印行。2009年12月にビスタカーに乗った記念に購入した沿線案内をひさしぶりに取り出す。現在の近鉄電車は長らく上本町が起点だったが、昭和45年3月に難波まで伸びた。昭和45年の万博による大阪の都市変貌の一環なのかな。難波から出る電車は上本町の地下に停車する。現在の近鉄電車は難波から阪神電車に接続していて、奈良から神戸まで一直線でつながっている。



f:id:foujita:20120618230933j:image

上記沿線案内の中身はこんな感じの路線図。上本町からの路線図を拡大して、本日の行程を図示。上本町を出発した近鉄電車(近鉄大阪線)は、奈良へ向かう電車は布施で分岐して「近鉄奈良線」となる。生駒トンネルを通って、あやめ池を通過し、西大寺で橿原線に乗り換えて、このたびの奈良遊覧の最初の目的地、大和郡山へ。



f:id:foujita:20120618230936j:image

昭和3年11月3日の奈良電車開業当時の沿線案内《奈良電車沿線案内》より、本日の行程を拡大。上の大軌電車の沿線案内は単なる路線図だった一方で、奈良電の沿線案内はこんなにチャーミング(作画は内田紫鳳による)。下が大阪の市街地で、上六を出発した現在の近鉄電車は布施で分岐して、生駒山のトンネルを通過する。トンネルを抜けるとそこは奈良県、ということになる。



f:id:foujita:20120618230938j:image


f:id:foujita:20120618230939j:image

東花園(かつての駅名は「ラグビー場前」)あたりを走行中の奈良行きの快速急行の車窓から生駒山を眺める。大阪から奈良に向かう近鉄電車に乗るということはまずは生駒山に向かうということなのだ。というわけで、近鉄電車が鶴橋の手前で地上に出ると、生駒山の景色が目にたのしい。そして、生駒山のてっぺんに林立するアンテナ群にいつも大喜び。



f:id:foujita:20120618230940j:image

入江泰吉《寒冷線上のテレビ塔群》。以前もここに載せたことがある大好きな写真、季刊『真珠』第35号(近畿日本鉄道宣伝課、昭和35年7月1日)に掲載のグラビア。わたしのなかの「関西絶景10選」と選ぶとしたら、必ずランクインされることは必至の生駒山のアンテナ群。



f:id:foujita:20120618230941j:image

そして、生駒トンネルに近づくにつれて、どんどん高度を増す線路の上からの車窓がまたたいへん素晴らしい。この写真では画面が淀んでしまっているけれども、生駒山の直前の近鉄電車の車窓から見る大阪の町並みが、ニューヨークのように見えるひとときは何度乗っても感動する。本当にすばらしい。




真治彩さんの個人誌『ぽかん(http://www006.upp.so-net.ne.jp/pokan/)』第02号(2011年11月20日)の特集「私の大阪地図」の1篇のおかやまたべにさんによる「Rなイマザト」が大好きだった。生駒へ引っ越した「フジミちゃん」のところへ行こうと、「のりちゃん」と「その姉ちゃんである4年生のせっちゃん」と一緒に今里から生駒まで無賃乗車をした小学校2年の夏休み。

生駒山トンネルを抜けるとき、電車の窓ガラスにわたしが映った。しゃぼん玉模様のワンピースを着た自分の姿を見たとき、さすがに遠くへきた感じがして怖くなった。トンネルの向こうが得体の知れぬ世界のような気がした。

という結びの一文を、近鉄電車は生駒山のトンネルを抜けていくとき、なんとはなしに思い出した。それから、《大阪東部の学校の校歌には必ず「生駒山」が出てくる。》という一節に「おっ」だった。ああ、生駒山。と、『ぽかん』の「私の大阪地図」で読んだ文章を思い出して、いい気分になったところで、電車は生駒山の長いトンネルを抜けてゆき、トンネルを抜けるとそこは奈良県だった。



f:id:foujita:20120619191853j:image

《生駒新トンネルを出る8000系 生駒駅 1964-9-3》、『高橋弘作品集2 関西の私鉄 懐しき時代』(交友社、昭和54年6月10日)より。出来立てほやほやの新生駒トンネルを通る電車と右側に旧生駒トンネルが写る、すばらしい写真。新生駒トンネルの開通にともなって、昭和39年7月に石切駅が移転し、石切・生駒間にかつてあった孔舎衛坂駅がルート変更により廃止となった。生駒トンネルの難工事を経て、現在の近鉄奈良線は大正3年4月に開通した。2010年9月に初めて生駒ケーブルを満喫した帰りに、旧生駒トンネルの残骸を見にゆくと、わずかにその名残が見ることができた。



f:id:foujita:20120619191852j:image

入江泰吉《生駒山》、季刊『真珠』第44号(近畿日本鉄道宣伝部、昭和37年10月1日)より。



午前8時過ぎ。大和西大寺で橿原神宮前行きの普通電車に乗り換えて、車窓はますます雅やかに。唐招提寺、薬師寺に沿って電車は走り、車窓はますますのんびり。右手に郡山城址公園らしきものが見えてきたところで、電車は本日の目的地、近鉄郡山駅に到着。



f:id:foujita:20120618230943j:image

近鉄郡山駅の風景。郡山駅の開業は現在の近鉄橿原線の開通と同時の大正10年4月。橿原線の先には歌舞伎でおなじみの「新ノ口」という駅があって、路線図を眺めているとおのずと十三代目仁左衛門の顔が頭に浮かんでくるのだった。



川崎彰彦さんの散文に誘われて、新緑の大和郡山へ。

2010年9月に、京都から旧「奈良電」の近鉄京都線にのって、奈良ホテルで閑雅な昼食のあと、生駒ケーブルに乗ったことがあった。このときの自称「モダン奈良遊覧」がとてもたのしくて、大阪や京都を起点にしつつも、ちょいと足を伸ばすというふうにして、近鉄電車に乗って奈良を歩いてみるということを今後続けていきたいな思ったものだった。あれから2年近くたって、2度目の奈良遊覧に出かける運びとなったところで、まっさきに行きたいと思った場所は大和郡山だった。


大和郡山は、川崎彰彦さんが1990年から2010年2月に亡くなるまでの20年間暮らしていた町。わたしが川崎彰彦を初めて読んだのは2006年6月、連作短篇集『夜がらすの記』(編集工房ノア、昭和59年5月)が最初だった。さっそく最初の一篇、「清遊記」からして大好きになってしまった。『夜がらすの記』を手にとったのは、その当時編集工房ノアから出ていた三輪正道さんの散文集を3冊、『酒中記』(2005年12月)、『酔夢行』(2001年12月)、『泰山木の花』(1996年10月)を立て続けに読んだのがきっかけだったかと思う(その後、去年11月に4冊目の散文集『残影の記が出た。)。さらに、三輪正道さんの文章に出会ったのは、『Bookish』第9号《特集 山田稔の本》(2005年9月発行)が最初だった。つまり、山田稔→三輪正道→川崎彰彦という流れだった。


『Bookish』の山田稔特集が出たのとほぼ時をおなじくする、2005年夏に中尾務さんの個人誌『CABIN』を初めて手にとり、以後毎年その刊行を心待ちにしている。さらに、『CABIN』と出会ったあと、『大和通信』が届くのを心待ちにする歳月が始まり現在に至っている。わたしの手元にある『大和通信』の最も古い号は2005年9月15日発行の第67号である。『大和通信』は川崎彰彦さんとその仲間たちによる、B4の一枚紙に両面印刷した学級新聞のような雰囲気の紙面で、1994年8月に創刊されたという。発行元は「海坊主社」となっていて、その住所は大和郡山。



f:id:foujita:20120618230944j:image

三輪正道の最初の散文集『泰山木の花』(編集工房ノア、1996年10月)、巻末に川崎彰彦による解説(「途中下車の精神 三輪正道君のこと」)を収める。『黄色い潜水艦』第52号《川崎彰彦追悼号》(2010年6月5日発行)。川崎彰彦さんの「河童頭狗肉の記」が掲載されている『CABIN』第8号(2006年3月発行)。『Bookish』第9号《特集 山田稔の本》(2005年9月)、ミニ特集は《長沖一とその周辺》。『大和通信』は、2010年2月に川崎彰彦さんが亡くなったあとは同年8月30日に第86号が出て、以来、ほぼ3か月に一度の頻度で発行、現在に至っている。最新号は2012年3月25日発行の第91号。86号から中野朗さんによる「川崎彰彦を探して」が連載中。そろそろ新しい号が届くかな。



川崎彰彦さんゆかりの『大和通信』をたのしみにしているここ数年、わたしのなかの奈良というと、大和郡山がまっさきに思い浮かぶのだった。川崎さん亡きあとの『大和通信』では、3月になると「夜がらす忌」の告知が出る。桜咲く4月の土曜日、近鉄九条駅が最寄り駅の極楽寺へお墓参りのあと、城址でお花見して、故人を偲ぶ催し。と、そんな「夜がらす忌」の告知を見ているうちに、わたしも川崎さんとその仲間たちが花見や月見をたのしんでいた郡山城址公園の小野十三郎の詩碑へハイキングに行ってみたいなと思うようになった。と、そんなこんなで、このたび大和郡山に出かけることが決まって、念願かなってやれ嬉しや。ずっと買い損ねていた川崎さんのエッセイ集『くぬぎ丘雑記』をあわてて購ったあとで、昭和29年の大和郡山の鳥瞰図が売っているのを発見して衝動買い。と、ひとまず遊覧の準備はととのった。




f:id:foujita:20120618230945j:image

川崎彰彦『くぬぎ丘雑記 奈良盆地から』(宇多出版企画、2002年11月20日)。1997年3月から奈良新聞の文化欄に「くぬぎ丘雑記」というタイトルで連載したエッセイの119回までを収録。

私のすまいは大和郡山城址西側の台地にある。この台地は武家屋敷なども残る閑静な住宅地で、クヌギの木が多い。ほかにクリ、ミズナラなどもあるが、ことにクヌギがめだつ。そこでこの台地を「くぬぎ丘」の美称で呼んでみたい。

と、本連載第1回の「大和路の春」にある。さっそく、大和郡山の風土を体感して嬉しい。このあとも、川崎彰彦さんの文章とともに、大和郡山の季節の推移に身をまかせて、すっかりいい気分。大和郡山へ出かける絶好の序奏になった。




f:id:foujita:20120618230946j:image

大和郡山市観光協會発行《大和郡山案内》。《菜の花の中に城あり郡山》という句が惹句が添えられた菜の花畑の表紙。裏表紙には「大和郡山市歌」が楽譜付きで紹介されている(中川静村作詞、川澄健一作曲)。昭和29年頃に発行の鳥瞰図。「田」の落款と「八作」のサインがある。すなわち、作者は田八作。吉田初三郎の高弟で、別名吉田朝太郎。郡山町は昭和29年1月1日に大和郡山市となっているので、この鳥瞰図は市制化を記念する印行と思われる。「京都 河原町 三條 六曜社作製」とクレジットされている。



f:id:foujita:20120618230947j:image

上掲の表紙を開くと、「西公園遊園地」「城址内堀」「城址内堀のボート」「西公園満開の桜並木」に囲まれて、「城址より市内を望む」の写真が大きく掲載。



f:id:foujita:20120618230948j:image

観音開きにすると、鳥瞰図の上に折りたたまれた下部の右部分に「大和郡山市庁舎」「近鉄駅前商店街」「金剛山寺(矢田寺)」「大納言塚」の写真。



f:id:foujita:20120618230949j:image

左部分では「特産郡山金魚養殖一部」「売太神社」「源九郎稲荷神社」「松尾寺」を紹介している。



f:id:foujita:20120618230950j:image

そして、下部の折りたためる部分を開くと鳥瞰図が広がり、その下の余白(上の写真の裏)に昭和29年1月現在の大和郡山市の現況が記載されている。そして、ここに印刷されている市の紹介は以下のとおり。

「菜の花の中に城あり郡山」と謳はれた大和郡山市は遠く豊臣秀吉時代より畿内商業の中枢地として知られ明治以降は縣下商工業の中心地である、就中メリヤス工業に於ては全国生産高の第四位を誇り国内は勿論諸外国にも輸出されその名声を博している。更に特筆すべきこのに特産郡山金魚があり、金魚といえば郡山、郡山といえば金魚を想起される程有名であり生産高において品質において共に全国第一位を占むるのみならず諸外国への輸出を獨専してゐる又郡山城址を中心として西公園一帯に亘つての数千本の櫻は「郡山の櫻」とあまりにも知られている

吉田初三郎ばりの鳥瞰図ならではの独特の構図はいつも目にたのしい。この一枚の平面図に、近郊の奈良市周辺はもちろんこと、大阪、神戸、吉野山、京都、琵琶湖まで描きこんで、ひとつの小宇宙のようになっている。



新緑の大和郡山を歩く・その1:金魚と花街

午前8時半。そんなこんなで、『くぬぎ丘雑記』の余韻とともに、昭和29年の鳥瞰図を片手に、5月の大和郡山を歩くのであった。


f:id:foujita:20120618230951j:image


まずは、近鉄郡山駅附近にズームイン。駅の上側(西口)、つまり城址公園の南一帯の「大納言塚」のある台地が、川崎彰彦さんが「くぬぎ丘」と称していた台地。このあたりはあとでバスの車窓から眺める予定、まずは、線路の東側を歩いてみることにする。民家が密集している様子のこの界隈。


f:id:foujita:20120618230952j:image

風情たっぷりの路地の朝を満喫しつつ、近鉄電車の線路に沿う方向で歩を進めてゆく、その先には……。



f:id:foujita:20120618230953j:image

絵に描いたような、大和郡山の金魚養殖地の風景が眼前に広がる。



f:id:foujita:20120618230954j:image

左手に金魚養殖地、右手の田園の向こうには近鉄電車。ああ、なんと風光明媚なことだろう!


f:id:foujita:20120618230955j:image

入江泰吉《金魚のふるさと》、『近鉄沿線風物誌 産業2 金魚』(近畿日本鉄道宣伝課、昭和36年7月1日)より。今もこの写真とまったくおんなじ雰囲気の大和郡山なのだった。



f:id:foujita:20120618230956j:image

「近鉄沿線風物誌」は、季刊誌『真珠』(昭和27年1月創刊、昭和44年1月終刊、全69号発刊)とともに近鉄の宣伝課が刊行していた沿線 PR 小冊子。「総論」の『真珠』に対して、『近鉄沿線風物誌』は「各論」で、その微細にわたったテーマ設定が嬉しく、「産業」のほかに「社会」「歴史」「自然」「文学」「芸術」「民俗」といった区分があり、それぞれにテーマが枝分かれし、たとえば「芸術」には「歌舞伎」の1冊もある(著者は山口廣一)。「文学」のシリーズでは足立巻一がさかんに執筆しているのが嬉しい。全体的には岩波写真文庫の影響が多分に伺えて、そんなところもたいへん興味深い。



もと来た道を戻って、今度は右折(近鉄郡山駅の東方向)してみると、今度はにわかに特徴的な3階建ての木造の建物が登場し、独特の風景が眼前に広がる。典型的な花街の町並みとなっていて、そうか、沿線案内には特に記載がなかったけれども、実はこの界隈は艶めかしい界隈であったということがなんだか妙に嬉しくて、上機嫌に建物見物がてら路地を適当に歩きまわる。


f:id:foujita:20120618230957j:image f:id:foujita:20120618230958j:image

f:id:foujita:20120618231000j:image f:id:foujita:20120618231003j:image

f:id:foujita:20120618231001j:image f:id:foujita:20120618231005j:image

f:id:foujita:20120618231004j:image f:id:foujita:20120618231002j:image


古い木造の建物がたくさん残っていて、建築的にもみどころが多い界隈。このあたりの花街の発展のありようについては、まだ調べていないのだけれども、線路の向こう側には郡山城址がありその周囲には武家屋敷の跡がある一方で、こちら側には艶めかしい路地が控えているという都市構造がとても面白いなあと思った。歩いてみるものである。



f:id:foujita:20120618231006j:image

朝の花街歩きをたのしんでいるうちに、いつのまにやら、駅に直進する商店街に出た。ここを左折して、近鉄郡山駅へ戻ってゆく。



f:id:foujita:20120618231008j:image

昭和29年の大和郡山の鳥瞰図《大和郡山案内》に紹介されている「近鉄駅前商店街」の写真。50年前の近鉄郡山駅前の様子とそんなに変わっていない感じがする。古い日本映画を見ている気分になる1950年代の町並み写真がいつも大好き。



新緑の大和郡山を歩く・その2:城址公園の小野十三郎の詩碑


駅前に戻ってきたところで、ふたたび鳥瞰図を広げて、いよいよ郡山城址公園へ向かう。



f:id:foujita:20120618231009j:image

郡山城の方向へ線路に沿って歩いてゆき、城址公園の手前で踏み切りを渡って、線路の向こう側へ。市役所は現在も同じ位置にあるけれども、小学校は現在はないのかな。



f:id:foujita:20120618231011j:image

そうだ、先ほど駅近くの商店街沿いで「旧郡山小学校跡門柱」をあったっけ。昭和29年の鳥瞰図と21世紀の現在とがつながった瞬間によろこぶ。



f:id:foujita:20120618231012j:image

踏み切りを渡って、城址公園の入口に。近鉄電車の線路とお濠。このお濠は「五軒屋敷池」という名前なのだそうだと案内板で知る。



f:id:foujita:20120618231013j:image

踏切とお濠を渡り、城址公園にいたる道へと右折。すると、今度は左手に内堀があって、その向こう側に古い木造建築が見えて、なかなかの風情。ここに「桜名所百選の碑」がある。その季節にはお花見の人びとでさぞかし賑わうことだろう。でも、つづじと新緑の季節もなかなかのもの。



f:id:foujita:20120618231014j:image


f:id:foujita:20120618231015j:image

それにしても、なんと風光明媚なことだろう! と、青い青い空の下の砂利道を日傘片手に歩いているうちに、気持がふわふわしてくる。ジーンと感激にひたっているうちに、お城の門に到着。



f:id:foujita:20120618231016j:image

城内に入り、さらなる上り坂を行った先の高台、先ほど踏切を渡ったときに右手にのぞんでいた「五軒屋敷池」に沿った位置に「城址会館」なる建物がある。小野十三郎の詩碑はもうすぐ! と城址会館へ向かって、思わず小走り。



f:id:foujita:20120618231017j:image


f:id:foujita:20120618231018j:image

城址会館が眼前に迫ったのだけれど建物観察はあとでゆっくり行うこととし、取るものもとりあえず、建物の右手へと視線を移すと、小野十三郎の詩碑が向こう側に! まさにこの場所で、川崎彰彦さん一行がお花見をしていたのだなあ。この場所、あまりにも素敵過ぎて、いざこの場所に来てみると、それはもうびっくりするくらいだった。



f:id:foujita:20120618231019j:image


f:id:foujita:20120618231020j:image

詩碑に接近して、いつまでも感激にひたる。表面には「ぼうせきの煙突」の詩が、裏面には詩碑の由来が刻まれている。《作者小野氏(一九〇三― )はその幼少の日の一時期を市内台所町で過した。作品はこの辺りから当時の町の風景を回想したものである 森田義一 これを建てる 一九七九年十月》の文字が刻まれている。小野十三郎が1996年に亡くなったあとも没年は空欄のままに。



小野十三郎が亡くなった翌年、川崎彰彦さんは「奈良新聞」のエッセイに以下のように書いている。

 先日、大阪や生駒の友人たちが郡山城跡にやってきた。この人々とは、もう十年も前、平城宮跡で月見をしたことがある。そのとき三笠の山にいでし月が雲のない大空を「月の船」のように皓々と照りかがやきながら横切って生駒山脈の方角へ沈んでいくまでを、呆然と魂を奪われたようになって見入った。その夜の印象がよほど強くて、月見は大和にかぎると思いこんだらしい友人たちは、その後、私が郡山にきてからは、郡山城跡に集まるようになった。同城跡の市民会館前広場に昨秋、九十四歳の天寿を全うして他界した大阪の詩人・小野十三郎の詩碑がある。

 小野さんは少年時代の一時期を郡山の養家で過ごした。そのころの記憶に基づくらしい――郡山の紡績工場のギザギザ屋根の上に尾を引くハレー彗星の光芒をとらえた印象的な詩が美しい自然石に刻まれている。友人たちとこの詩碑の近くに集まる。「月見」と称しているが、明るいうちから宴が始まるから夕刻には散会になる。昼間の月見なんてヘンだからハギ見か秋の園遊会にしようと、私は主張している。

この文章は、『くぬぎ丘雑記』の1997年の項に「大和秋色」として収録されている。このあと、季節はめぐり、翌1998年の春のエッセイ、「春のもと句会」では《大阪の詩人・小野十三郎の直接、間接の影響下にある》友人たちと花見の宴での句会のことが書かれていたりして、読んだだけでうっとりしていたものだったけれども、いざ本当に来てみると、郡山城址公園の小野十三郎の詩碑は本当に素敵な場所だった。こんなにも素敵な場所だったなんて! 川崎彰彦さんのおかげで来ることが出来たのだなあと、5月の青空の下、いつまでも感激にひたった。



f:id:foujita:20120618231021j:image

小野十三郎『詩集 大海邊』(弘文社、昭和22年1月15日)。装幀:池田克巳。郡山城跡の詩碑に刻まれている「ぼうせきの煙突」はこの詩集に収録されている。


《「ぼうせきの煙突」

たそがれの國原に

ただ一本の煙突がそびえてゐる。

大和郡山の紡績工場の煙突である。

ぼうせき。それはいまは死んだやうな名だが

私は忘れることあ出來ない。

明治も終りの夏の夜である。

七十六年の週期をもつハリー彗星の渦が

涼しくあの紡績の裾齒状屋根の

紺青の空に光つてゐたのを。

  ○

ひとりゐる。若草山。

風渡る。

芒原。》


『詩集 大海邊』は小野十三郎の敗戦後初の詩集で、版元は戦前最後の詩集となった「新詩叢書」の『風景詩抄』と同じく湯川松次郎の弘文社で、その住所は戦前は大阪市南区順慶町通、戦後は大阪市住吉区上住吉となっている。ちなみに『大海邊』と同年の昭和22年6月に出た『叙情詩集』の版元の爐書房の版元は奈良県高市郡八木町。とかなんとか、そんな奥付でたどる関西地図はそれだけでいつも愉しい。『風景詩抄』には「紡績の菊」という詩が収録されている。


《「紡績の菊」

子供のとき

大和桃源に十年ほどいた、

はじめのころはおぼえていない、

ただ俺が生れるずつと前から、

赤煉瓦の古い紡績工場があすこにあつた、

毎年いまごろになると

構内に豪華な花壇がくまれて

菊見でにぎわつた、

秋の陽の強烈なスポツトを浴びる

たがをはめた

古塔のような一本の大煙突、

ぼうばくとして記憶の果に

何もない地上から

いまそのようなもののかたちが

そびえたつ。》



f:id:foujita:20120618231022j:image

小野十三郎の「ぼうせきの煙突」の紡績工場は、昭和29年の大和郡山の鳥瞰図にある「日紡工場」のことかな。工場は国鉄の郡山駅の近くでその線路に沿っている。鳥瞰図に描かれている郡山城址は桜が満開。



f:id:foujita:20120618231023j:image

「城址会館」の建物の裏面の塀の向こうがちょうど「ぼうせきの煙突」のあった方向。近鉄電車の架線の向こう側に若草山が見える。小野十三郎の詩そのまんまに若草山が。



f:id:foujita:20120618231024j:image

そして、城外を偵察するようにして、正方形の鉄砲狭間から外をのぞむと、ちょうど近鉄電車が走ってきて、電車が通過してゆくでござるぞとよろこぶ。



小野十三郎の「ぼうせきの煙突」の余韻にひたりながら、「城址会館」の建物をひとまわりしたあとで、あらためて「城址会館」を見上げる。和洋折衷の建物が奈良ホテルを彷彿とさせてワクワクしてくる。くすんだ看板の説明書きで、この建物がかつて「奈良県立図書館」だったことを知った。小野十三郎の詩碑はかつての図書館の建物のすぐ近くに建っているということになる。なんてすばらしいのだろうと思う。



f:id:foujita:20120618231025j:image

現在は市民会館として使用されている旧奈良県立図書館の建物は明治41年に奈良県最初の図書館として奈良公園内に建てられ、昭和43年にここに移築されたという。小野十三郎の詩碑は昭和54年の建立だったから、その約十年前。大和郡山市役所のウェブサイトの「史跡・文化財」を参照すると、設計は奈良県技師の橋本卯平衛によるもので、橿原市にある明治36年竣工の旧高市郡教育博物館も彼による設計で似た外観だという。いつか行ってみたい!



f:id:foujita:20120618231026j:image

旧奈良県立図書館に入り、ちょっとだけ建物観察したあと、窓から公園の緑の風景をのぞむ。かさねがさね、なんと素晴らしいことだろう。



近鉄郡山駅からバスにのって、車窓から「くぬぎ丘」をのぞんで、矢田寺へ。

一ヶ月遅れの自分内「夜がらす忌」を満喫したところで、ジャリジャリともと来た道を戻って、ふたたび近鉄郡山駅前に戻る。郡山城址公園のあとは、「くぬぎ丘」を通るバスに乗って、終点の矢田寺前まで行くことに決めていた。そのバスの時間まではまだちょっと間がある。駅前に啓林堂書店という本屋があるのが実はさっきから気になっていたのだ。イソイソと店内に足を踏み入れる。


f:id:foujita:20120618231027j:image


『くぬぎ丘雑記』所収の2002年の「年末来の読書」に、露文科出身の川崎彰彦さんは、

十年ほど前「ソ連崩壊」の大見出しが朝刊に踊っていた日、私はわけがわからず、世界の座標軸が一夜にして消え失せたような不安にかられて近鉄郡山駅前の書店で、岩波文庫の棚にトロツキーの『裏切られた革命』を見つけて買って帰り、むさぼり読んで……

というふうに書いていたのを、近鉄電車を下車して近鉄郡山駅前に書店があるのを見たとき、鮮やかに思い出したのだった。その本屋はここかな、どうかなと、店内に足を踏み入れていたら、岩波文庫コーナーが見事にあった。きっと、川崎さんはここで岩波文庫を買ったのだ。わたしも記念にここで岩波文庫を買いたいなと思ったところで、水上瀧太郎の『銀座復興 他四篇』が目に入った。なんやかやで買い損ねていた今年3月の新刊を2か月遅れで買ったところで、バスの時間が近づいてきた。



f:id:foujita:20120618231028j:image

昭和29年の大和郡山鳥瞰図より、郡山城址の南の台地。川崎彰彦さんが「くぬぎ丘」と名づけた台地を含む一帯。鳥瞰図の上部には大阪の町が描かれ、さらに西ノ宮、神戸の文字も見える。この画像では切れているが右上に生駒山、左上に信貴山、その下に松尾寺

 私のすまいは大和郡山城跡西側の台地にある。この台地は武家屋敷なども残る閑静な住宅地で、クヌギの木が多い。ほかにクリ、ミズナラなどもあるが、ことにクヌギがめだつ。そこでこの台地を「くぬぎ丘」の美称で呼んでみたい。ここから近い城跡の北側、濠に面したあたりにもクヌギ林があり、芽ぶきなのだろう、二月なかばから梢をやわらかく煙らせていた。この先、城跡や台地のクヌギの木は霧のような春雨なかで梢にモール状の花のふさかざりをつける。人は城跡の桜の花にのみ気をとられ、クヌギの花のような地味なものには注意を向けないのだろうが、ここにもたしかに大和路の春のおとずれがあるのだ。

と、ふたたび『くぬぎ丘雑記』第1回「大和路の春」を反芻する。さて、城址の桜の季節も去り、新緑の5月。『くぬぎ丘雑記』では、たとえば「鳥の声」と題したエッセイに、桜の季節のあとの「くぬぎ丘」の風土が活写されている。

 大型連休の初日――みどりの日の朝、玄関の戸を開けた家人が、

 「あ、ウグイスが鳴いてる」

 と弾んだ声をあげた。

 ウグイスの声は私のいる居間には届かないが、家人は玄関口で、なおも聞き耳をたてている気配だ。やがて「真っすぐ南の方角で鳴いている」といった。ああ、あのガケのあたりだなと、私は思った。

 近鉄郡山駅から私の家へは矢田道を真っすぐ西へたどる。カトリック教会や幼稚園、旧藩時代の家老の屋敷跡と伝えられる屋敷などの立ち並ぶ静かな通りである。やがて斑鳩道という通称をもつ県道と交差するが、その手前の住宅の裏手あたりでも、ウグイスの声を聞きつけることが多い。このへんの民家の塀のなかでミツマタのクリームイエローの花が咲くのも、毎春の楽しみである。

矢田寺に向かうバスは、先ほど歩いた郡山城址をぐるっとまわって、「矢田道」を直進して、「斑鳩道」を横断したあと富雄川を渡ってさらに直進して、鳥瞰図では「金剛山寺」と表示されている矢田寺の入口にいたるというコースである。



午前10時35分。大和郡山駅から矢田寺前にゆくバスは1日5本、その2本目のバスに乗る。バスの車窓から、川崎彰彦さんの住んでいた場所を眺めて、『くぬぎ丘雑記』の気分にひたるというただそれだけの時間をたいへん満喫。川崎さんの書いていたカトリック教会はあの教会かな、このあたりの田園風景が目にたのしいなあとかなんとか、ジーンと感激にひたっているうちに、バスはスイスイと矢田寺に向かって直進、奈良盆地を少しずつ高台に向かってゆく感じがたいへん心地よい。川崎彰彦さんが愛でていたに違いない田園風景に心がスーッとなったところで、バスはあっという間に終点の矢田寺前に到着し、矢田寺の参道の前に降り立つ。



f:id:foujita:20120618231029j:image

ここから先が矢田寺の参道。石畳の道をひたすらのぼってゆく。



f:id:foujita:20120618231030j:image

しばらく上ったあとで来た道を振り返る。バスで走ってきた道路がはるか向こうまで続いている。参道のなだらかな石畳の坂道の終点は矢田寺の入口。矢田寺の本堂へゆくためには、この先さらなる階段をのぼりらなくてはいけない。と、その階段の前に、茶店があるのを見つけた。階段をのぼる前にちょいとひと休みと、吸い込まれるように中に入って、コーヒーを1杯。



f:id:foujita:20120618231032j:image

その茶店からは「絶景かな、絶景かな」としか他にいいようがない風景が眼前に広がる。低山の連なりとその前方に控える台地の眺めは、「奈良盆地」を鮮やかに実感させる。



f:id:foujita:20120618231033j:image

茶店からさきほど歩いてきた参道をのぞむ。



f:id:foujita:20120618231034j:image

いつまでもここでのんびりしていたい気もするけれども、さあ、これから矢田寺へ。



f:id:foujita:20120618231035j:image

あじさいで有名な矢田寺の正式名称は高野山真言宗の金剛山寺。矢田丘陵の中心地の矢田山の中腹にあるお寺。これから長い階段をのぼって、本堂をめざしてゆく。



f:id:foujita:20120618231036j:image

階段をのぼるのは大変だけれど、この階段がなかなかの風情。日傘片手にゆっくり上ってゆく。



f:id:foujita:20120618231037j:image

ようやく、本堂が見えてきた。

20120216

冬休み関西遊覧日記その3/阪急西宮北口と阪神間モダンの残像めぐり

2011年12月29日。宝塚ホテルのアップルパイの午後を心ゆくまで満喫、さて、これから宝塚南口駅から西宮へと向かうとするかというところで、武庫川の鉄橋を渡る今津線の車窓を眺めたい! という誘惑にはどうしても勝てなくて、いったん宝塚駅へと戻ることにする。という次第で、宝塚南口から宝塚行きの今津線に乗って、武庫川を渡る鉄橋からの車窓に見とれてその電車が折り返して、今度は西宮北口行きとなり、阪急電車はふたたび武庫川を渡った。2回も武庫川の鉄橋を渡った! と歓喜したあとで、西宮へと向かった次第であった。



f:id:foujita:20120215160417j:image

西宮北口行きの今津線の車窓から武庫川河畔をのぞむ。今はすっかり住宅地の宝塚だけれども、武庫川ののんびりした眺めは永遠だなあと、本日の午後はこの武庫川の眺めにしみじみくつろいだことであった。



f:id:foujita:20120215160447j:image

《宝塚をあとにする2000系の今津線経由梅田行き阪急〈宝塚南口〜宝塚〉》(写真:諸河久)、『日本の私鉄3 阪急』カラーブックス512(保育社、昭和55年10月初版)より。旧宝塚大劇場と宝塚ファミリーランドがありし頃の写真。大劇場と遊園地の間に「多聞」のお酒の工場があるというのがなんだか嬉しい。宝塚ファミリーランドの観覧車からの眺めはどんなだったのだろう。



f:id:foujita:20120201214224j:image

《武庫川畔より大劇場を望む。》、『阪神急行電鉄二十五年史』(昭和7年10月)より。こちらは戦前の武庫川の鉄橋の下から大劇場をのぞんだ写真。



f:id:foujita:20120201214225j:image

宝塚ホテルの絵葉書、『鉄道ピクトリアル』1998年12月増刊号《特集 阪急電鉄》所収、「絵葉書に見る阪急電車」(所蔵と解説:白土貞夫)より。《正面の大きな建物が宝塚ホテル、その右後方が(旧)大劇場。画面右側の2本のホームと停車中の宝塚行電車が見えるのは宝塚南口駅。この1枚に歌劇の街に君臨する阪急王国の姿が集約された昭和初年の風景》と懇切に解説されているように、宝塚ホテルと大劇場、宝塚南口駅のホームと電車が雪景色の1枚に収まっている絶品の絵葉書。



『鉄道ピクトリアル』1998年12月増刊号《特集 阪急電鉄》所収、「宝塚線における高架化事業について」によると、かつては地上駅だった宝塚駅は、旧宝塚大劇場が最後の公演を行った1992年12月の3年前から着手されていた高架工事が1994年10月に完成、高架化により宝塚線は50500メートル、今津線は90900メートル延長されたというから、実は現在の宝塚駅は以前の宝塚駅よりも位置がだいぶ異なっているのであった。



f:id:foujita:20120215160539j:image

東宝の機関誌『エスエス』昭和12年9月1日発行(第2巻第9号)所載、三太郎「宝塚るーまあ・らんど」のページに掲載のグラビアより、宝塚駅の改札を出るタカラジェンヌ二人(名前はわからぬ)。改札の向こうにうっすらと阪急電車が見える!

宝塚の非常時風景

北支の風雲愈々急を告げ、非常色が益々濃厚になつて来た今日この頃は、宝塚の桜トンネルに千人針のおばさんが一間置き位に立つてゐて生徒達に一針づゝ縫つてくれと頼むので、生徒は毎日、停留所から学校まで行くのに卅分位時間がかゝり、登校時間を半時間早めねばならぬという異風景を現出したが、遂には生徒達も人のを縫ふだけでは満足出来ぬ様になり、自ら千人針を計画し、慰問袋に入れて送るものが、ぐんぐん増え、教室も楽屋も千人針の大氾濫、而も流石に芸術家の集まりとて、たゞ千人針を並べるだけでなく、「祈武運長久」とか「大日本帝国万歳」とかの文字を描いたデザイン入りの千人針を特製し、銃後の花としての働きを遺憾なく発揮してゐる。



f:id:foujita:20120215160540j:image

同じく、『エスエス』所載「宝塚るーまあ・ランド」のグラビアより、大劇場の前を武庫川に架かる「迎賓橋」を渡るタカラジェンヌ。昔の宝塚の写真ですっかりおなじみになった「迎賓橋」。ロッパも公演後もしくは公演の合間にこの橋を渡って、定宿の「川万」に戻ったり、宝塚ホテルのグリルへ食事をとりに行ったりしていた。



武庫川を渡った先の宝塚南口駅付近の高架工事は昭和39年6月に着工され、昭和46年3月に完成。上掲の絵葉書を見ると、現在の高架の宝塚南口駅よりも、以前の地上の宝塚南口駅の方が、宝塚ホテルの入口からやや距離があることが見てとれる。武庫川を渡る鉄橋も以前の場所とは異なるのかな、ま、このあたりの細かいことはひとまず脇へおいて、宝塚駅を出発した今津線は、ひとまず西宮北口駅に向かって、走ってゆくのであった。

(追記:高架化工事の際には、武庫川の下流側に西宮方面の新しい橋を建設されて、宝塚方面の新しい橋はそれまでの西宮方面の線路の場所に移設されている、すなわち現在の武庫川の橋の位置は下流側に線路一本分ずれていると、後日ご教示いただきました。6月19日記)



f:id:foujita:20120201214226j:image

阪神急行電鉄株式会社発行《沿線御案内》より、阪急今津線を拡大。宝塚と今津を結ぶ阪急今津線は、大正10(1921)年9月にまずは宝塚・西宮北口間で開業。大正15(1926)年12月に今津へと延びて、阪神電車との接続がなされ、乗客はますます便利になった。西宮北口・今津間の阪神国道駅の開業は昭和2年5月で、阪神国道を走る路面電車・阪神国道線の北今津駅に乗り換えることができた(北今津駅の開業は昭和2年7月。「北今津」の停留所の名は今は阪神バスの停留所の名として受けつ継がれている。)。この沿線案内を見ていると、夙川から甲陽園まで2駅の甲陽線(大正13年10月開業)にもなんだかそそられる。いつか乗ってみたい! などと、各路線の開業年月日をちょっと確認しただけでも、鉄道網の整備からみる「1920年代日本」に胸が躍るものがある。


さて、阪急今津線は、西宮北口から今津までは一度だけ乗ったことがあったけれど、宝塚から西宮北口を乗るのは今回が初めて。以前、神戸線から今津線に乗り換えるべく西宮北口で下車したときに、駅のまん前にかつて西宮球場があったという事実にたいへん感銘を受けた。ちょうどその前日に、南海難波駅で南海電車に乗り、かつてこんな町中に大阪球場があった! という事実に感嘆していたばかりだったから、たまたま二日連続で消えた球場跡に遭遇して感無量だった。阪急電車と球場といえば、マキノ正博総指揮のオムニバス映画の『学生三代記 昭和時代』(昭和5年4月10日封切・マキノプロダクション)の「野球の巻」に、宝塚行きの阪急電車と野球場が映っていたことを思い出す。しかし、西宮球場の工事は、昭和11年に小林一三の肝入りで誕生した大阪阪急野球協会(今はなき阪急ブレーブスの前身)のホームグランドとして、昭和11年12月に着工されて、翌年4月に竣工し、翌月の5月1日に開場式を迎えた(小野田滋「阿部美樹志と阪急の構造物」、『鉄道ピクトリアル』1998年12月増刊号《特集 阪急電鉄》)。よって、マキノの映画に登場していた球場は残念ながら西宮球場ではない。



f:id:foujita:20120201214227j:image

《阪急西宮球場五月一日開場 ポスター 作者不詳》(昭和12年)、展覧会図録《関西のグラフィックデザイン展 1920〜1940年代》(西宮市大谷記念美術館、2008年)より。出来たてホヤホヤの西宮球場の開場を告げるポスター。西宮球場のモダーンな石造りの建築とピッチャーをあしらったダイナミックなグラフィック。「行きよい球場・見やすい環境」と惹句にあるとおり、大阪(梅田)からも神戸(三宮)からも西宮北口までは12分。そして、球場は駅のまん前! ちなみに、小石川の陸軍砲兵工廠跡に後楽園スタヂアムが同年の昭和12年9月に開場していて、こちらの開業にも小林一三が絡んでいる(と、このあたりの諸々は、坪内祐三『極私的東京名所案内』(彷徨舎・2005年10月)所収「後楽園スタヂアム」がとっても面白い!)。



f:id:foujita:20120201214228j:image

ナイターの真っ最中の西宮球場の写真、『関西の照明』(社団法人照明学会関西支部、昭和32年8月)より。左上方に西宮球場の外観を特徴づけていたモダンな建築が見える。キラキラと光り輝くような満員の球場の熱気が伝わってくるかのようで、なんてよい時代だったのだろうとしみじみ思わずにはいられない、たいへん素晴らしい写真。



f:id:foujita:20120215160628j:image

《球場前踏切を通過する今津線用2000系〈阪神国道〜西宮北口〉》(写真:諸河久)、『日本の私鉄3 阪急』カラーブックス512(保育社、昭和55年10月初版)より。四角の窓が幾何学的に配置され、そのてっぺんには丸窓が並んでいる。この壁面のなんてモダンなこと! 西宮球場のまん前を通る今津線は長らく地上の線路を走っていた、ということを示しているという点でも、たいへん素晴らしい写真。





現在の阪急今津線は、西宮北口で南北に分断されている。宝塚から今津線に乗って西宮北口に到り、今津方面へと南下する場合はいったん西宮北口駅で乗り換える必要があるのだったが、阪急今津線が南北に分断されたのは昭和59年3月25日であって、それ以前は1本で行くことができた。なぜ、今津線は南北に分断されてしまったのか。『鉄道ピクトリアル』1998年12月増刊号《特集 阪急電鉄》所収、青木栄一「阪急電鉄のあゆみ〔戦後編〕」の「(4) 西宮北口駅の大改良工事」に、

西宮北口駅は神戸線と今津線が交わる駅であったが、文字どおりの平面交差があって、阪急の路線のなかでは広く知られたスポットであったが、高速鉄道同士が直角に交差する形式の平面交差は全国的にも珍しく、ここでは1980年代初頭のラッシュ時には10分間で神戸線9本、今津線3本が通過するという過密状態にあったという。

というふうに、今津線が分断されていなかった往事が語られている。かつて、神戸線と今津線のいずれも地上の線路が直角に交わるという平面交差、いわゆる「ダイヤモンドクロス」が西宮北口の名物だった。が、ラッシュ時の安全確保と西宮北口の神戸線のホーム延長工事の必要性とで、昭和59年3月25日にダイヤモンドクロスは撤去され、今津線が南北に分断され、神戸線のホーム延長により昭和60年11月18日に特急車両の10両運転が開始、《広い橋上駅方式のコンコースを上に設けて、地上の線路によって分断されていた市街を連絡できるようにし》、昭和62年4月6日に橋上駅舎が完成され、西宮北口駅は現在の姿になった。



f:id:foujita:20120201214229j:image

《平面クロス 今津線314号と919号本線各停 西宮北口 1952-12-12》、『高橋弘作品集2 関西の私鉄 懐かしき時代』(交友社、昭和54年6月発行)より。西宮北口駅には球場のみならず、「ダイヤモンドクロス」というものが存在していたなんて! と、ダイヤモンドクロスの存在を実はこのたび初めて知って、大興奮だった。地上の線路が直角に交るサマの独特の感じ、二つの阪急電車が直角に停車し、電車の上の架線も直角に交差する、もちろん線路そのものが直角に交差している! のみならず、架線も直角に交差している! と大興奮せずにはいられない、素晴らしきダイヤモンドクロス!



f:id:foujita:20120215160801j:image

《通学生が多かった西宮北口今津線ホームの戦時中の風景(昭和16年)。8号は宝塚行き、97号は今津行き。》(撮影:久保田正一)、橋本雅夫『阪急電車青春物語』(草思社、1996年8月)所載の写真。向かって右のホームが阪神国道と今津へ向かう電車で、左が宝塚行き。たくさんの学生でひしめくホーム。



f:id:foujita:20120215160802j:image

《西宮北口の平面交差を渡る今津行の1形2両編成(昭和17年)》(撮影:久保田正一)、おなじく『阪急電車青春物語』に掲載の写真。西宮北口を発車した今津線が今津に向かって、ダイヤモンドクロスを通過する瞬間。



f:id:foujita:20120215160705j:image


f:id:foujita:20120215160706j:image

《958+934 神戸線上りホームから下り電車を撮影。今津線との平面交叉ダイヤモンドクロスを渡る。西宮北口 昭和21/1946.5.11》、『終戦直後 大阪の電車 浦原利穂写真集』(ないねん出版、2004年8月)より。そして、こちらは、上掲の今津線と直角に交わる西宮北口の神戸線の写真。神戸線の上りのホームと下りのホームとがダイヤモンドクロスをはさむ格好で離れて位置していた。神戸線の西宮北口は神戸線と同時の大正9年7月に開業している古い駅(神戸線は十三・六甲間で開業し、大正15年7月に中津へ、大正15年7月に梅田に延びた。)。




宝塚のあとの次なる目的地は、今津線の阪神国道駅だった。阪神国道駅は今津線沿い、宝塚南口から今津線に乗ってみたらその電車の終点が西宮北口だったので、いったん下車し、さて今津行きの電車に乗り換えるとするか……といった感じに、特に深い考えもなく乗り換えただけだったので、今津線がかつては西宮北口で南北に分断されることはなく1本につながっていたということは、実は帰京後になって知って、深く感動した次第。『鉄道ピクトリアル』1998年12月増刊号《特集 阪急電鉄》所収、吉川文夫「阪急沿線観察学」に、《時計塔と電車の絵のある西宮北口駅のコンコース》を写した写真が掲載されている。かつてダイヤモンドクロスのあった場所の上部に作られた《2階コンコースは快適さを求めて、中央部をドーム形とした明るい天井とするとともに周辺には壁画を配し、時計塔も置かれている。》という。阪神国道駅に急ぐあまりに周囲には目もくれず一心不乱に今津駅行きのホームへと早歩き、そのコンコースを深い考えもなく移動してしまったのは、たいへんもったいないことだった。今度行くときは、このコンコースの時計塔の前でかつてのダイヤモンドクロスに思いを馳せたいものだと思う。そして、駅前の「高松ひなた緑地」に保存されているダイヤモンドクロスの線路を見物したいなと思う。それにしても、すばらしきダイヤモンドクロス!





宝塚大劇場の旧建築や西宮北口の平面交差と西宮球場が消えた「関西モダン」である一方で、宝塚ホテルと並んで本日最大の目的地である今津線の阪神国道駅は、現在も健在の「関西モダン」名所である。阪急今津線は、大正10年9月2日にまずは宝塚・西宮北口間で開業し、次いで、西宮北口・今津間が大正15年12月18日に開通、宝塚・今津間での運行となった。その半年後の昭和2年5月10日に、西宮・今津間に阪神国道駅が開業し、今津線は現在の姿に……と復唱してみると、阪急今津線の存在そのものがまさしく「関西モダン」だなあと、しみじみ。そして、阪神国道駅は今津線で唯一、開業当時の姿を現在も濃厚に残しているのだった。



f:id:foujita:20120201214230j:image


f:id:foujita:20120201214231j:image

《西宮北口今津間の高架陸橋》、『阪神急行電鉄二十五年史』(昭和7年10月)より。西宮北口から今津へと到る高架線は大正15年12月の開業当時の姿を現在に残している部分とのちに高架化された部分とがつながっている。西宮北口駅から阪神国道駅の高架は大正15年12月の開業当時のままである。



f:id:foujita:20120201214232j:image

同じく『阪神急行電鉄二十五年史』より、《阪神国道停車場》と《阪神国道停車場への昇降口》。阪神国道を走る路面電車・阪神国道線の北今津駅との乗換駅として、昭和2年5月に開業した阪神国道駅。周囲はいたって殺風景ななかにそびえたつ高架駅に「大阪 みのお 宝塚 甲陽園 苦楽園 神戸」という看板。



という次第で、宝塚から今津線に乗って、阪神国道駅に行きたいなと思ったところで、ブログ「近代建築Watch(http://hardcandy.exblog.jp/)」、2010年12月06日付けの「阪急電鉄今津線の橋梁・高架軌道」(http://hardcandy.exblog.jp/15114034/)のため息が出るような美しい写真を拝見して、その都市風景に琴線が触れてしかたがなくて、次なる関西遊覧の暁にはぜひとも訪れたい場所の筆頭となっていた。阪神国道駅の建築と麦酒工場と、阪急の高架とJRの地上の線路とが交差する、この一連の都市風景。



f:id:foujita:20120201214233j:image

昭和10年の阪神国道駅の周辺地図。『西宮市街全圖』(赤西萬有堂、昭和10年発行)、国際日本文化研究センター(http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/database.html)内の所蔵地図データベース(http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/)にて入手。


西宮北口から一駅の阪神国道駅。西宮球場のあった場所からやや南下したところ、東海道線と阪急電車の線路と阪神国道に囲まれるようにして、古くから「ユニオンビール会社」の工場があり、それが現在は後身のアサヒビールの西宮工場となっている。西宮球場がすでに消えてしまった今も、依然この地に麦酒会社の工場がある(しかし、もうすぐなくなってしまうらしい。)。さらに、東海道線の地上の上を交差する今津線の高架の鉄橋も戦前のものが現在もそのまま残っているのだった。阪神国道駅の高架と麦酒会社の工場の存在と阪急今津線の鉄橋が、戦前から現在までずっとそのまま残っている! という事実は、「関西モダン」探索者にとっては、いくら強調してもし足りないくらい素晴らしい事実である、ということを何度も強調しておきたい。



f:id:foujita:20120201214234j:image

『大日本麦酒株式会社三十年史』(大日本麦酒株式会社、昭和11年3月発行)より、西宮工場の写真が掲載れているページ。斜めにレイアウトされた写真で、工場が阪急電車の高架が沿っているさまをかろうじて確認できる。



f:id:foujita:20120215160850j:image

『大日本麦酒株式会社三十年史』に掲載の清涼飲料水のラヴェル。同書所載の「当社の工場と麦酒試験所」では、西宮工場は「清涼飲料水工場」に分類されている。吹田工場が当時も大規模なビール工場であった一方で、この社史が発行された昭和11年当時、西宮工場ではビールではなくて、リボンシトロンや三ツ矢サイダーといった清涼飲料が製造されていた。



昭和9年6月1日に阪急梅田駅が高架駅から地上駅になったのは、昭和7年7月に着工された東海道本線の電化と連動する動きだった。吹田・須磨間の電化開始は昭和9年7月20日で、その阪神間電車開業を告げるポスターには《省線電車 阪神間運転開始 大阪・三の宮間 急行(無停車)25分、普通(各駅停車)34分》という文字がある。本日(2011年12月29日)の関西遊覧は昭和9年6月1日に地上駅となった梅田駅にはじまり、同年7月20日に電化した東海道本線で幕を閉じるというコースだったといえる。



f:id:foujita:20120201214236j:image

《上り普通西ノ宮発車、昭和10/1935頃》(撮影:高田隆雄)、大那庸之助・沢渡健一編『大阪の省電 Vol.2』(プレス・アイゼンバーン、昭和54年6月)より。JR の線路(甲子園口・西宮間)の線路の上に交差する阪急今津線の高架のトラス橋が写っている、たいへんすばらしい写真。





さて、ブログ「近代建築Watch(http://hardcandy.exblog.jp/)」でうっとりと見とれていた都市風景を見物に参りましょう! と、西宮北口でイソイソと乗りこんだ今津行きの阪急電車は高架線路を走って、あっという間に東海道線の線路の上を越えて、宵闇迫れる阪神国道駅に到着した。



f:id:foujita:20120201214237j:image

これまで乗っていた今津行きの電車は向こう側へと走り去り、向かいのホームに西宮北口行きの電車がやってきたところ。念願の阪神国道駅にやってきた! 宵闇迫れる冬の駅のなんと美しいこと! とジーンとたちすくむ。



f:id:foujita:20120201214238j:image

今津行きホームの向かって左側、すなわち東側一帯に「アサヒビール西宮工場」の敷地が広がる。改札口へと降りる前に背伸びしたら、麦酒工場が見えた!



f:id:foujita:20120201214239j:image

阪神国道駅の改札を出ると、いかにも古びたコンクリートが今も健在。「国道」つながりというわけではないのだけれど、そこはかとなく、鶴見線の国道駅を思い出した。



f:id:foujita:20120201214240j:image


f:id:foujita:20120201214241j:image

阪神国道を横断する阪急電車の高架。



f:id:foujita:20120201214242j:image

線路の真下の駅名表示。昭和2年の竣工時からこの形状は今もまったく変わらない。



f:id:foujita:20120201214243j:image

阪急電車の高架をくぐった先の橋の跡があり、大正15年4月の日付が刻んであった。埋め立てられて、橋だけが残っている。この橋のあたりにかつて阪神国道線の北今津駅があった。この写真は橋(の跡)を渡って、先ほど見上げた高架を振り返ったところ。



f:id:foujita:20120201214244j:image

橋(の跡)を渡ったところで左折、すなわち北に沿って、すなわち麦酒工場の敷地に沿って、東海道線の線路へと向かう。まん前に先ほど下車した今津方面のホーム。



f:id:foujita:20120201214245j:image

東海道線の線路に向かって、すなわち西宮北口の方向へと上の道をズンズンと歩くと、やがて右に先ほど高架のホームから見えた麦酒工場が見えてくる。ここは今津線の高架の真下。



f:id:foujita:20120201214246j:image

今津線の高架をくぐって、東海道線の線路が見えてくる直前に歩いてきた道を振り返ったところ。静かな道。



f:id:foujita:20120201214247j:image

東海道線の線路がまん前に迫ってきたところで、右手に念願の阪急電車の鉄橋が! 『大阪の省電 Vol.2』で見とれていた、そのまんまの姿! ジーンと立ちすくんでいたら、ゴーッと今津線がやってきて、あわてて写真を撮る。



f:id:foujita:20120201214248j:image

地下通路をくぐって、東海道線の線路の向こう側に出て、阪急今津線の鉄橋に向かって、歩いてゆく。



f:id:foujita:20120201214249j:image

東海道線の線路沿いを歩いて、阪急今津線の鉄橋をくぐったところで、麦酒工場をみやる。宵闇迫れる冬のツンと済んだ空気と古びた鉄橋とビール工場の都市風景とが絶妙な調和して、かえすがえすもなんともいえない美しさ。



f:id:foujita:20120201214250j:image

しばらく歩を進めたところでまわれ右をして、ふたたび、阪急電車の鉄橋の下をくぐって、東海道線の線路を西宮方向へと向かう。なんとか日没前に間に合って、かねてよりの念願だった、阪神国道駅と麦酒工場と阪急電車の鉄橋の都市風景を心より満喫することができて、こんなに嬉しいことはなかった。



f:id:foujita:20120201214251j:image

ふたたび東海道線の線路の下の地下道をくぐって右折して、線路に沿うかたちでテクテクと歩いてゆくと、ほどなくして駐車場の向こうに西宮駅のホームが見えていた。そこはかとなくうらぶれた感のただよう西宮駅のホームの景色がなんだか好きだった。JR の西宮駅の周辺は高層住宅が連なる住宅地でだいぶ静か。阪神の西宮駅はどんなかな?





関西遊覧をたのしむようになったここ数年、梅田と神戸は阪急か阪神ばかりで、JR はほとんど乗ったことがなかったのだけれど、去年12月に初めて大阪から神戸方向へ JR で移動した。阪神と阪急にまさるとも劣らないくらい、JR の車窓にも興奮だった。大阪から尼崎に近づくとにわかに工場が連なり、グリコのお菓子工場に喜んでいたら、そのあとは、のこぎり屋根の工場が見てたりするといったような、工場が迫りきて手狭感すらただよう、阪神工業地帯の風景が大好きだった。そして、住吉あたりで六甲の山の連なりが迫ってきて、風景がゆったりしてくる、大阪から神戸に近づくにつれての車窓の変化具合が大好き。……というわけで、ちょうど1年ぶりに JR の車窓を見ることができて嬉しい。去年に大阪から神戸に向かう途中で満喫した阪神工業地帯の風景を、逆方向から味わうひととき。という次第で、西宮から東海道線に乗りこんで、車窓を凝視していたら、さきほど間近で見とれていた阪急今津線のトラス橋の下をくぐり、右手にはアサヒビールの工場、と思った直後にさっそく「ニッカウヰスキー」の工場が見えて、歓喜!



f:id:foujita:20120201214252j:image

そして、去年12月に大興奮していたノコギリ屋根の工場! ここはたしか、尼崎・塚口間だったかな。



f:id:foujita:20120201214254j:image

「ビスコ」のロゴが見えて、江崎グリコの工場も見逃さずに済んで、歓喜! 明治も森永も関西に工場があるけれども、やっぱり関西のお菓子会社といえば、なんといってもグリコ!



f:id:foujita:20120201214255j:image

などと、興奮しすぎて疲れたなあと、あっという間に大阪駅に到着。去年は普請中だった大阪駅はすっかり様変わり。ホームの古い屋根の上に吹き抜けのように広大な屋根が覆っている。ホームの向こうに大阪中央郵便局の建物が見える!




2011年12月29日、午後5時。冬休み1日目の関西遊覧を無事に締めくくることができてよかったなと、神戸のご夫妻との待ち合わせまで小一時間ほど時間があったので、これ幸いと、「阪急古書のまち」へとテクテク。今まで深く考えたことはなかったのだけど、阪急梅田駅の高架の下にある「阪急古書のまち」は、梅田駅が現在の姿になった昭和48年のすぐあとに開業している。



f:id:foujita:20120215160915j:image

《最新大大阪市街地図》(和楽路屋、昭和13年7月10日発行)より、大阪駅と阪急百貨店のあたりを拡大。「阪急古書のまち」は JR の線路の北側に位置する。阪急百貨店は JR の南側。この地図の「阪急」に向かって描かれてる赤い線は、神戸線と宝塚線の複々線と路面電車の北野線(中津・梅田間)の線路。かつて存在した阪急電鉄の路面電車・北野線は、梅田・茶屋町・北野・中津の4駅。



f:id:foujita:20120215160916j:image

《戦時中の梅田東口。今のナビオ阪急前(昭和17年、梅田映画劇場前)。大正5年に南海鉄道から譲り受けた34形・北野線用の路面電車が停車。》(撮影:久保田正一)、『阪急電車青春物語』より。北野劇場と隣接する梅田映画劇場、その地下には梅田地下劇場。それらの劇場のまん前が、北野線の北野駅。北野劇場の向こうにうっすらと東海道線の線路が見えて、その向こうが中津駅。梅田映画劇場には、マキノ正博の『ハナ子サン』(昭和18年2月25日封切)の看板!


戦前の古川ロッパ一座の関西での本拠地だった北野劇場を含む、阪急百貨店の隣りの阪急経営の劇場と映画館は現在、屋上に赤い観覧車のあるビルになっている。今まで深く考えたことはなかったけれども、梅田の地で赤い観覧車が視界に入ったら戦前のロッパに思いを馳せたいなと思う。……というようなことを思いながら、「阪急古書のまち」までテクテク歩いて、今年最後のお買い物を満喫。杉本梁江堂でポンポンと景気よく本を買って、気持ちよかった。このところ、古書展か目録ばかりで、古本屋で買い物するということが少なくなっていたから、ひさびさに古本屋の空間を満喫。そして、最後は、時間までリーチアートとで絵葉書を物色するのが、いつものお決まり。



f:id:foujita:20120216213110j:image

杉本梁江堂で数冊買った本のうち、新国劇文藝部長竹田敏彦編著『新国劇 沢田正二郎 舞台の面影』(かがみ社、昭和4年4月)より、トルストイ原作・島村抱月氏再脚色『復活』(ネフリュードフ:沢田正二郎、カチューシャ:久松喜世子)。阪急電車の駅、構内および車内にこれでもかと元日に初日の宝塚大劇場花組公演の『復活』のポスターを見ていて、ふつふつと沢田正二郎のことを思い出していたところで、杉本梁江堂で見かけてふらふらと買ってしまった。大阪で沢正本を買うというえにしが嬉しい。




f:id:foujita:20120216213111j:image

リーチアートではいつもご当地の関西の絵葉書探しに夢中になる。数枚買った絵葉書のうちの1枚、《大阪毎日二百万突破》。大阪毎日新聞にまつわるあれこれもいつも大好きなのだった。

20120208

冬休み関西遊覧日記その2/宝塚文藝図書館と宝塚ホテルと古川ロッパ

2011年12月29日午後。梅田から十三までの阪急電車の3つの路線が並走するひとときに興奮しすぎて疲れてしまい、淀川を渡って十三を過ぎるとウトウトしてしまうのが阪急電車のいつものパターンで、今回の宝塚線でも十三を過ぎるとぼんやり。途中、「あ、飛行機」という車内の少年の声が耳に入って、つられて空を見上げるも見逃してしまった。ああ、そうか、このあたりは伊丹空港の近くなのだなと漠然と思ったところで、電車は蛍池を出た。と、ここで、急に山なみが眼前に迫ってきた感じがして、おっと目が覚めた。



f:id:foujita:20120129164524j:image

阪神急行電鉄株式会社発行《沿線御案内》。戦前の沿線案内の表紙に描かれている宝塚大劇場のあった場所に向かって、梅田駅12時50分発の宝塚線の急行電車は終点の宝塚をめざす。



f:id:foujita:20120129164903j:image

上掲の沿線案内より、石橋・宝塚間を拡大。箕面線と宝塚線が分岐する石橋駅付近で、山が迫っているサマを実感したのだったけれども、戦前の沿線案内でもそれはヴィヴィッドに表現されている。宝塚大劇場といえば、武庫川沿いにそびえたっているというのが、かねてよりの第一印象だった。ああ、そうか、宝塚線は武庫川を一度も渡ることはなく、武庫川を迂回するようにして、梅田から武庫川沿いの宝塚の地へと到っているのだなということに気づく。と、ただそれだけのことが、土地不案内の者にとっては、なるほどなあと面白いのだった。



そうこうしているうちに、電車はあっという間に終点の宝塚駅に到着。わーいわーいと下車すると、ホームの駅名看板の「宝塚」の文字の下に「(宝塚大劇場前)」とある。言われなくてもわかっている。次の上演は元日が初日の花組公演、トルストイ原作『復活』……ということを、梅田駅、阪急電車の車内およびホームのあちこちにこれでもかと貼ってあるポスターが告知していた。よって、宝塚大劇場は現在、新年にそなえて休演中であるので、駅の周辺はいたって静か。駅の周囲には高層住宅が林立、典型的な郊外住宅地の様相を呈している。遊歩道をしばらく歩いてゆくと、正面右手に大劇場の建物が見える。旧大劇場は戸板康二の亡くなる前月の1992年12月の公演を最後に建て替えられたので、古い建物だったら感興たっぷりだったに違いないけれども、大劇場は新しい建物だし、宝塚ファミリーランドはすでになくなっているしで、宝塚観劇のない宝塚駅下車の第一印象は、これといった感興がわいてこないというのが正直なところであった。



f:id:foujita:20120129164904j:image

しばらく遊歩道を歩いていった先にあるこの土地にかつて宝塚ファミリーランドがあった。こんなところに遊園地があったなんて、なんだか夢のよう。南海難波駅前の大阪球場跡地、西宮北口の駅前の西宮球場跡地とともに、記憶にとどめておきたい夢の跡。阪神間在住の親戚に連れられて、東京郊外育ちのわたしも子供時分に一度だけ宝塚ファミリーランドに行ったことがある。小学1年生のときだったかな、夏休みの絵日記にキリンの絵を描いたことだけ覚えているけれども、そのほかはほとんど記憶に残っていない。ただ、宝塚の公演に行きたいと同行の母が言いだし、俄然その気になったら、その日は休演日で母と二人でたいへんがっかりしたことだけ鮮やかに覚えている。あのとき、宝塚を見ておきたかったと今でもたいへんがっかりである。それにしても、阪急電車の線路沿いに遊園地が広がる空間はいったいどんなだったのだろう。



f:id:foujita:20120129164905j:image

と、これといった感興が湧いてこないなか、適当に周囲を見回していたら、いかにも古びた蔦の絡まる近代建築が残っているを発見して、ワオ! と急に興奮。この近辺で唯一の古びた建物。現在は中華料理店となっている。ハテこの建物はなんだろうと思っていたら、その夜にお会いした神戸在住のご夫妻に「宝塚図書館」の建物だと教えられて、さらに興奮だった。劇場も音楽学校も遊園地も様変わりしてしまったなかで、図書館の建物が残っているというのはとても嬉しい。このお店で閑雅な昼食をとりつつ、建築見物をするという手もあったかも。



f:id:foujita:20120129164907j:image

《宝塚図書館》、『阪神急行電鉄二十五年史』(昭和7年10月)より。《主として文藝に関する書籍の蒐集に努め閲覧室の他に展覧会場、講演会場等を包含す。昭和七年一月一日開館》とある。昭和7年、阪急25周年という記念の年に開館した図書館の建物がいまも残っているということがかさねがさね嬉しい。しかも、よりによって残っているのが図書館の建物というのが嬉しい。



f:id:foujita:20120129165010j:image

《阪急創立廿五周年記念 宝塚婦人こども博覧会々場全景図》、『日本鉄道旅行歴史地図帳 10号 関西私鉄』(新潮社、2011年2月)に掲載。《昭和7年の宝塚。阪急線路の両側に大浴場、大劇場、動植物園が広がる夢の国だった。(池田文庫所蔵)》との解説が付されている。その「夢の国」には図書館もあった! 前掲の『阪神急行電鉄二十五年史』の刊行といい、阪急の創立25周年の昭和7年は素敵な印刷物が目白押し。



f:id:foujita:20120129165011j:image

『近代建築画譜』(昭和11年9月刊)に掲載の宝塚航空写真。白亜の大劇場の少し上に「宝塚図書館」の白い建物を見ることができる。『近代建築画譜』には、大劇場の《本建築は昭和10年1月旧建築の半焼したるを復興せるものにして、旧建築は設計施工共、竹中工務店の手に依り工費800,000円を以て大正11年10月工を起し同13年7月竣工す、スケールは現建物と同様なり、又附属せる新温泉場は鉄筋コンクリート造2階及び平屋建、延坪1,100坪にして、工費450,000円を以て旧建物と同時に竣工す。》との解説が付されている。阪急創立25年の昭和7年のあと、昭和10年1月、大劇場は火事で半焼していたのだった。



f:id:foujita:20120129165012j:image

上掲の戦前の阪急電車の沿線案内より、宝塚を拡大。宝塚大劇場の北側に「宝塚図書館」がしっかり描きこまれていた。図書館の東寄りには「宝塚植物園」。『阪神急行電鉄二十五年史』によると、東洋一の規模を誇っていたという。この阪急電車の沿線案内の裏面に記載の観光案内の筆頭はもちろん、「宝塚少女歌劇・宝塚新温泉」。

タカラヅカ

綺麗で無邪気で上品で家族打揃つて面白く遊べる日本一の娯楽の都。歌と踊りと音楽に演劇文化の薫りたかき風光明媚な歌劇の都。

健全な娯楽文化の粋を集めた大劇場、温泉、ルナパーク、動物園、植物園、文藝図書館、運動場、児童遊園と堂々数萬坪の輪奐を誇る明朗清新な四季清遊の都です。

午前中は動物園、植物園、ルナパーク、文藝図書館等に面白く時間を過し場内の和洋支那食堂にて御昼食後温泉にひたつて爽やかな気分になり、さて四千人大劇場にて歌劇見物、華やかな舞台の幕間には室内遊戯場、撞球場、ピンポン室、或ひは上品な喫茶室、武庫川沿いの納涼台等を御利用になり、歌劇終演は五時頃、暮れかゝる情緒豊かな湯の街を御散策といふ風に御遊びになれば誠に申し分ない一日の御慰安となります。或ひは場内にて御夕食後宝塚キネマ館に映画を御楽しみになるのも一興でございます。……

戦前の都市生活者の観光の祝祭感といったようなものを、沿線案内の簡略化された図版を見るだけでも鮮やかに体感できる気がする。



宝塚文藝図書館に思いを馳せる

宝塚の地にたぶん唯一残っている1930年代の建物が、かつての宝塚図書館の建物であることをその日の夜に神戸在住のご夫妻から教えられ、とにかく興奮だった。古い宝塚大劇場の建物も遊園地もなくなってしまったなかで、昭和7年1月に開館した「宝塚文藝図書館」が残っているということが、しかもよりによって残っているのが、図書館の建物ということがかさねがさね嬉しかった。年が明けて、さらに感激だったのは、宝塚文藝図書館から「宝塚文藝図書館月報」なる素敵な小冊子が長らく発行されていたことを知ったこと!



f:id:foujita:20120206221243j:image

『宝塚文藝図書館月報』第2号(昭和11年8月10日発行)の扉を飾る図書館のスケッチを描いたのは小松榮。B5サイズの20ページほどの小冊子で、新着資料の紹介が主な内容だけれども、毎号掲載されるエッセイが実によい雰囲気で、香気たっぷり。丸善の『学鐙』とムードがどことなく似ている気がする。編集兼発行人は戸澤信義。その編集後記は、彼がホクホクとこの冊子の編集をしているサマが伺えてとっても微笑ましい。

元来雑誌の編集は好きな方である。趣味の為に雑誌を拵へ、いつか雑誌の為に趣味を忘れる程熱中した事もある。今度熱中すれば仕事を忘れるんぢゃないかと自らを危ぶんでおる。併しそれが為に月報が良くなり、従而図書館に良い結果を齎らすならそれ程結構な事はない。由来阪急と言ふ会社は何れの部課係でも日本一を目指して敢えて、自ら高しとすると共に他もそれと推す様にせよと云ふ……

と、彼は言う。創刊直後だからこんなにハリきっているというわけではなくて、月報は号を重ねるごとに充実しているのだった。以後、戸澤信義による図書館論的エッセイを柱に、演劇読み物や地誌エッセイが登場したりする。



f:id:foujita:20120206221244j:image

『宝塚文藝図書館月報』第24号(昭和13年6月10日発行)。この号には、戸澤信義による「東京図書館見学記」が掲載。早稲田大学坪内博士危険演劇博物館附属図書館、帝国図書館、帝国大学図書館、大橋図書館、東洋文庫をめぐる。戦前昭和東京の図書館に思いを馳せてたいへん興味深い。たとえば、《九段軍人会館と相対して厳然と聳えておる》大橋図書館の《四階には休憩室一寸した食堂と売店が設置されておる、多くの図書館にては此の種の設備は小暗い地下に中訳的に設けられているのに対して斯かる見晴らしの好い室を当てがつた経営者の理解ある態度は嬉しい、そこから屋上遊園に出られて、小石川後楽園の翠滴る森陰が打ちならぶ瓦の中に思ひも掛けず近々と眺められた。》という。編集兼発行人の戸澤信義による「図書館人」ならではの文章はほかにもたくさん登場しており、『宝塚文藝図書館月報』の文章を一冊にまとめたら絶好の図書館文献になるような気がする。



第2号(昭和11年8月10日発行)の巻頭に掲載の、堤誠二「宝塚文藝図書館」によると、宝塚文藝図書館は昭和7年1月1日に開館後、当初は温泉入場客にのみの開放していたのが、昭和11年5月20日に場外の一般来場者にも開放することとなり、同年7月10日に『宝塚文藝図書館月報』が創刊した次第だったという。平日午前9時から午後6時まで、日曜祭日は午前8時半から午後6時まで開館。一般閲覧室と新聞閲覧室、雑誌閲覧室とに分けられ、入館者は無料で、新聞と雑誌は閲覧票を起票せずに自由に閲覧ができた。さらに、《歌劇記事、劇壇記事、劇評記事、東宝記事、映画記事、阪急記事、図書館記事、美術記事、文学記事等》の切り抜きを貼付したスクラップブックが用意。これらの記事は月報でリストが紹介されていて、今見ても、こんな記事があったのかと知ることができて結構重宝。戸板康二の各誌への寄稿もしっかりとスクラップされていて、戸板ファンも大いによろこんだ。



『宝塚文藝図書館月報』第12号(昭和12年6月10日発行)の巻頭言のタイトルは「一年の省る」。前年5月20日より誰でも自由に利用できるようになった宝塚文藝図書館は、

その発展過程が一私立会社の娯楽設備の中から起つたものである事とこの会社即ち阪神急行電鉄株式会社の年来の主張である利益三分主義、即ち公共事業なる当会社の利益は資本主である株主と従業員である社員と顧客である沿線居住者との間に均霑せねばならぬ、即ち三社の共存共栄の精神を以て経営せられておると云ふ事は最も特異な存在であると言わねばならぬ。

とあるように、小林一三の阪急王国の施設のひとつだった。昭和7年1月に開館し、昭和11年5月より一般開放した宝塚図書館。昭和13年6月10日発行の第24号の巻頭言では、「過日発行せられた図書館総覧」で宝塚文藝図書館が「一般図書館」に分類されていたことへの失望が率直に語られている。その名のとおり、「文藝図書館」の矜持と香気が毎月刊行されていた『宝塚文芸図書館月報』にもみなぎっているのを見るにつけても、その失望にはとっても共感。『宝塚文芸図書館月報』は戦時下でも順調に刊行されていて、昭和18年10月10日発行の号には、図書館員の辰井隆による「京阪神急行沿線伝説集(京阪線の巻)」なる記事があって、その冒頭は《京阪阪急合併記念として、この小篇を錦の秋におくる》。時局もなんのその、なんだか呑気で微笑ましいのだった。


宝塚文藝図書館の後身はもちろん、現在の池田文庫(http://www.ikedabunko.or.jp/top.html)。前々から池田文庫の館報が好きでちょくちょく仕入れていたものだったけれど、池田文庫の館報は『宝塚文藝図書館月報』の後身ともいえるわけで、かねてより無意識のうちに「宝塚文藝図書館」にわたしもささやかながらも触れていたのだなあと思った。



f:id:foujita:20120206221245j:image

ごく初期の時期の『宝塚文藝図書館月報』の最後のページには、当月の宝塚大劇場、有楽座、東京宝塚大劇場の宣伝用のマッチラヴェルが貼付されている愉しいつくり。昭和12年9月の有楽座のロッパは「ガラマサどん」。向かいの東京宝塚劇場は月組公演「グランドレヴュウ アラビアの王子」、宝塚大劇場は星組公演「グラントレヴュウ 歌へモンパルナス」と「喜歌劇 将門の首」と「歌劇 桶の村」。



f:id:foujita:20120206221246j:image

こちらは昭和12年11月号より。有楽座の古川ロッパ一座は「軍国喜劇 ロッパ若し戦はゞ」。東京宝塚劇場は「オペレッタレヴュウ 歌へモンパルナス」、宝塚大劇場は月組公演、「白井鉄造新帰朝第一回公演 グランドレヴュウ たからじぇんぬ」と合わせて、「軍国バレー 砲煙」と「舞踊 龍刀」。昭和12年7月7日の事変を機に、興行も軍国主義色を強めていった一方で、それまでフランスを手本にしていた宝塚少女歌劇がジャズの流行にのって、アメリカへ演出家と作曲家を派遣、レビュウの視察を終えて帰国した彼らは次々とスウィンギーな演目を上演、昭和12年から翌年にかけて宝塚少女歌劇はスウィング時代の最盛期を迎えていた……ということが、毛利眞人著『ニッポン・スウィングタイム』(講談社、2010年11月)の「第九話 乙女たちは非常時にスヰングする」に明晰かつワクワクするような筆致で論じられている。その例に挙がっているのが、翌昭和13年7月に宝塚大劇場で上演の「ビック・アップル」。これらのマッチラヴェルの宝塚はそんなスウィング時代の全盛期!



宝塚の古川ロッパに思いを馳せながら、武庫川の川辺を歩く

旧宝塚図書館の建物と宝塚大劇場を背に、手塚治虫記念館の前を右折し、武庫川に架かる橋を渡ってゆく。阪急宝塚線を下車して、大劇場、遊園地跡の前を歩いていたときと打って変わって、武庫川の橋に立ったときの胸の高まりといったらなかった。宝塚駅を下車してから、まだ一度も武庫川を見ていなかった。初めて武庫川を見た瞬間の感激は自分でも予想外だった。武庫川沿いのこの感覚は戦前からずっと変わらないに違いない。この悠久の感覚というか、なんというか。スーっと気持ちが落ち着いてくるような川沿いの風と、橋からの大劇場の眺め、正面の山の連なりがすばらしい。ああ、本当になんてすばらしいのだろう!



f:id:foujita:20120129165013j:image

橋の上に立って、向こう側の阪急今津線の鉄橋を眺めていると、ほどなくして電車がやってきて、歓喜! 終点の宝塚駅に入る直前の電車がガタンゴトンと心なしかのんびりしている。



f:id:foujita:20120129165014j:image

あの鉄橋の下に行ってみたい! と武庫川の河原へと下りて、阪急電車の走るサマを高架の下から見上げる。高架線の独特の造形美がいつも大好き。



f:id:foujita:20120208213725j:image

武庫川を渡って、しばし河原を歩く。正面には山の連なり、右手には川のせせらぎ。なんて、いい気分だろうと、いつまでも上機嫌。川沿いから見た宝塚大劇場の眺めにすっかり気持ちが和む。



f:id:foujita:20120129165016j:image

武庫川沿いから見た宝塚大劇場、『近代建築画譜』(昭和11年9月刊)に掲載の写真。武庫川と宝塚大劇場は切っても切り離せない。宝塚音楽学校の校歌には「希望は清し 武庫の川 流れはつきじ 永遠に」という歌詞がある。





昭和13年5月5日、古川ロッパ一座は梅田駅前の北野劇場で初日をむかえた。その一週間後、ロッパは約1年ぶりに宝塚を訪れ、「川万」という旅館に投宿し、翌朝の5月13日の日記に、

久しぶりの川万、河を見ながら、のんびり――兵庫県宝塚と書いて、ノンビリケンユメノクニとルビをつけた。昨日から考へてゐることがあって、八の字をよせっ放しだが、此の空気が八の字をやはらかくする。

というふうに書いている(『古川ロッパ昭和日記 戦前篇』)。ロッパの気分が鮮やかに伝わってくるようだ。宝塚の武庫川の眺めは昔も今も人びとの心を和ませる。


ロッパにとって、宝塚はひときわ感慨深い土地だったはず。三十になろうとするロッパが初めて舞台人となったのは、昭和7年1月の宝塚中劇場だったのだから。菊池寛に「モダン曾我廼家をやれ、喜劇役者になれ」と励まされたロッパは小林一三を訪れ、さらなる激励を受け、昭和7年1月に初舞台を踏んだものの、この舞台は失敗に終わる。翌昭和8年4月、浅草常盤座で「笑の王国」が旗揚げされ、浅草の地で舞台人としてのロッパの活躍がはじまり、昭和10年7月、ふたたび小林一三のもとに入り、有楽町・丸の内を本拠とする東宝で最盛期を迎える。東宝入社後の昭和10年11月、宝塚中劇場で公演をしているものの、『古川ロッパ昭和日記 戦前篇』(晶文社刊)では昭和10年の日記は欠落しているので、読むことができないのがとっても残念。昭和7年1月の初舞台以来の宝塚中劇場、ロッパは感慨ひとしおだったに違いない。


『古川ロッパ昭和日記 戦前篇』に初めて宝塚の地名が登場するのは、昭和11年6月27日。宝塚の担当者から10月に宝塚でやってくれと依頼を受け、ロッパ座長は「松茸狩を条件に行かう」と応じる。そして、昭和11年10月31日、宝塚中劇場初日。11月2日には約束どおりに松茸狩に興じるロッパ。宝塚終点から行けるところまで自動車で行き、そのあとテクテク山登り。松茸の収穫はたっぷりで、かしわのすきやきを食べてロッパはご満悦である。公演前日の10月30日の日記に「昔懐かしき松楽館」に投宿したことが記録されているから、もしかしたら、昭和7年1月や昭和10年11月の公演の際に滞在した宿なのかも。その一週間後の11月7日、ロッパは麻雀に誘われて「川万」という宿を訪れる。そして、5日後の12日にの日記に「今日から川万へ移ったので橋を渡って帰る」とある。



f:id:foujita:20120206221249j:image

絵葉書《宝塚 川万楼客室より新温泉ヲ望ム》。ロッパ一座は続いて、昭和12年6月に宝塚中劇場で公演をしていて、その際には最初から「川万」に滞在しているから、ロッパはよほどこの宿が気に入ったのだろう。昭和12年6月5日の日記には「川万の川添の部屋の朝は悪くない」とご満悦である。この絵葉書の写真よろしく、武庫川と大劇場の眺めを楽しんでいたのは確実。



f:id:foujita:20120206221250j:image

絵葉書《宝塚 川万楼》その2。川沿いの川万、この絵葉書の向かって右の離れがロッパの部屋だったようだ。昭和14年6月28日に宝塚を訪れたときは「なじみのハナレはふさがってゝ。その二階」に投宿している。



f:id:foujita:20120206221251j:image

絵葉書《宝塚 川万楼》その3。昭和11年11月以来、宝塚を訪れるたびにロッパが泊ったのは「川万」。昭和12年12月9日に北野劇場が開場し、昭和13年からロッパ一座の関西興行は北野劇場が本拠になった。北野劇場で初めて公演したのは昭和13年5月で、この公演の際に、宝塚に遊んだ際に川万に一泊している。その際の日記が、前述の《久しぶりの川万、河を見ながら、のんびり――兵庫県宝塚と書いて、ノンビリケンユメノクニとルビをつけた。》。昭和12年6月の公演以来の「川万」だったわけだが、町中の北野劇場で公演のまっ最中だったロッパにとって、宝塚ののんびりした空気がひときわ身にしみたのだと思う。



f:id:foujita:20120206221252j:image

絵葉書《宝塚 川万楼》その4、「客室の一部」と「応接室」。川万は川の眺めは絶景だったけれど、その分、夏は蚊に苦しめられた。昭和14年7月20日の滞在時は、《蚊がワンワンと出て、たまらず蚊帳の中で食事》という有り様だった。また、昭和12年6月の滞在時には《雨の宝塚川に合羽着て魚を釣る人の姿が見える。》と日記(6月7日)に書いていたロッパは、昭和14年7月21日の日記には《川万楼の暁、ドーンパチパチといふ音、兵隊さんが前の河原で演習しているのだ。これが六時頃――それから又寝た。》と書くこととなった。事変のあとさき。



f:id:foujita:20120206221253j:image

絵葉書《宝塚 川万楼》その5、「大宴会室」と「舞台」。昭和13年11月の北野劇場公演時、11月12日に「ロッパ・ガールズのすきやき会」が「川万の三階大広間」で開催! この絵葉書の大宴会室のことかな? しかし、この日のロッパの昼食は《あまり寒いからすき焼を食はうと、厚い外套を着て、守田へ行く。本みやけよりうまいといふが、土台関西のすきやきってもの、否定したい味である。》という次第だったから、「ロッパ・ガールズのすきやき会」では《昼間うっかりしてすきやき食ったのでもう食べる気なし。川万のもと泊った部屋で寝る。》という有り様だった。





モダン都市時代の古川ロッパの日記には本拠地の東京のそれとおなじように、関西の風物もたっぷり登場して、とりわけ宝塚中劇場、京都宝塚劇場、北野劇場公演時の日記では、モダン関西に思いを馳せる歓びも格別なものがある。関西のロッパ一座公演の折の日記のおなじみの人物、「ピス健」こと嘉納健治が初めて登場するのは、宝塚中劇場の千秋楽の昭和11年11月23日。「怖いようなありがたいような」と後に書くロッパと嘉納親分との交流もこのときにはじまる。こんなところもモダン関西のトピックとして大変興味深いのだった。



f:id:foujita:20120129165017j:image


f:id:foujita:20120129165018j:image

《ダンスホール 宝塚会館》(設計:古塚建築事務所、施工:竹中工務店、竣工:昭和6年5月)、同じく『近代建築画譜』より。昭和11年11月と昭和12年6月の宝塚中劇場公演時に、ここ宝塚会館で「古川緑波一座交驩の夕」が開催されている。しかし《ダンスホールなるもの相変らず苦手で、たゞバーでのんでふらつく》とロッパは不興げ(昭和11年11月7日)。



昭和12年12月9日の北野劇場開業以降は、宝塚中劇場で公演することはなくなったけれども、関西滞在時のロッパはちょくちょく宝塚を訪れていた。その際の定宿は「川万」だった。が、蚊がワンワンと出たり、兵隊さんが河原で早朝演習をしたりしていた昭和14年7月以降は「川万」の文字を見なくなる。昭和15年10月の北野劇場公演時に宝塚を訪れた際には「昔なつかしき松楽館」に泊ったが、赤痢発生で大混乱、あわてて大阪の宿(竹川)に移ったあとで、《芸能生活に入って九年目、初めての大患》におそわれ、途中で公演を打ちきっている(翌年無事に復帰)。



f:id:foujita:20120207214754j:image

『東宝十年史』(株式会社東京宝塚劇場、昭和18年12月5日発行)より、昭和12年12月9日に開場した北野劇場(並びの梅田映画劇場は同年12月29日会場)、こけらおとしは宝塚少女歌劇。阪急25周年の年であった昭和7年の8月12日に株式会社東京宝塚劇場の創立総会が中央電気倶楽部で挙行、昭和18年12月20日に株式会社東京宝塚劇場と東宝映画株式会社の合併が正式に成立、東宝株式会社が発足した。この『東宝十年史』は昭和7年を起点にした東宝の社史であるけれども、東宝株式会社の発足直前の発行で、版元は株式会社東京宝塚劇場となっている。



f:id:foujita:20120208211206j:image

昭和13年3月、古川緑波一座初の北野劇場公演の写真、展示図録『古川ロッパとレヴュー時代―モダン都市の歌・ダンス・笑いー』(早稲田大学演劇博物館、2007年5月18日発行)より。昭和12年11月に有楽座で上演されたロッパの軍事劇の最初のヒット作、『ロッパ若し戦はゞ』が上演中。次第に戦時色が強くなっていくなか、ロッパ一座の北野劇場での公演も続いていたけれども、昭和19年2月25日、政府から「高級享楽停止に関する具体的要綱」、3月1日に「興行刷新実施要綱」が発表され、その結果、東宝株式会社は東京宝塚劇場、日劇、有楽座、帝劇、北野劇場、梅田映画劇場の閉鎖を命ぜられ、東京宝塚劇場と日劇が陸軍経理部に貸与され風船爆弾工場となり、帝劇は都防衛局の庁舎になった。昭和19年7月21日、「海軍会館」なるところでロッパは公演をしている。「海軍会館」と名を変えた北野劇場における最後の公演だった。



ロッパは滞在場所は和風旅館を好むものの、外食はほとんど西洋料理。《大阪では洋食を食ってゐては損。日本食がいゝ、つまり関西料理》と書いているロッパだけれど(『古川ロッパ昭和日記 戦前篇』所収「食べる人生(又ハ食欲自叙伝)」)、有楽町で公演中は帝国ホテルのグリルやマツダビルヂングのニューグランドに足を運ぶのとおなじような感じに、関西滞在中、ロッパはしょっちゅう宝塚ホテルのグリルへと足を運んでいる。宝塚会館の「古川緑波一座交驩の夕」の一週間後の11月15日には、ロッパは昼の部のあとに徳山たまきとグリルで食事、徳さんの恐妻家(愛妻家)トークに辟易したロッパは、夜の部の劇場に向かう途中、《夕やみ迫れる動物園を歩く、カンガルーに追はれて寝ぐらへ帰る有様が徳山だった》と一人思う。そこに《大阪の鸚鵡は「お早やうサン」と喋る。》と書き添えているのが、なんだか微笑ましい。昭和17年5月には愛息と宝塚動物園に遊ぶロッパだった。



f:id:foujita:20120207220034j:image

《東宝古川緑波一座 昭和十八年五月公演 脚本解説集》。昭和18年5月の北野劇場公演の上演プログラム。表紙に描かれている『ロッパの捕物帳』のほかに、夢声特別出演の『南方だより――徳川夢声の現地報告』と菊田一夫作の『父と大学生』。ロッパと夢声は5月13日、竹久千恵子とともに池田の小林一三邸を訪問している。



f:id:foujita:20120129165019j:image

上掲の北野劇場公演時に宝塚に出かけた際の写真が、展示図録『古川ロッパとレヴュー時代―モダン都市の歌・ダンス・笑いー』(早稲田大学演劇博物館、2007年5月18日発行)に掲載されている。昭和18年5月17日の宝塚のロッパ。この日の日記には、宝塚で女座員と「兵隊さんに送るブロマイド」を撮影したことが書かれている。この日もロッパは宝塚ホテルのグリルで食事をしている。この日が、『古川ロッパ昭和日記』の「戦前篇」と「戦中篇」における最後の宝塚行き。



宝塚ホテルでアップルパイの午後

武庫川の河原でしばしくつろいで、1930年代から40年代前半にかけての古川ロッパに思いを馳せて、ずいぶん寄り道をしてしまったけれども、そろそろ、本日の最大の目的地のひとつである宝塚ホテルに参りましょう! と武庫川沿いを背後に阪急南口駅へ向かって、テクテク。


f:id:foujita:20120129165020j:image


f:id:foujita:20120208213726j:image

宝塚南口駅に迫るようにして建っている感すらただよう宝塚ホテルは、想像よりもずっと小ぢんまりしている。向かって右に旧館の建物が残り、左が新館。旧館の建物、特に三角屋根がとってもチャーミング!



f:id:foujita:20120129165021j:image

《宝塚ホテル》(設計:古塚建築事務所、施工:大林組、竣工:大正15年1月)、『近代建築画譜』より。昔の宝塚ホテルは現在の旧館だけだったから、周囲はもっと広々としている。



f:id:foujita:20120129165022j:image

新館の建物であるホテルの正面入口を入り、右折してほどなくすると旧館の建物となる。シャンデリアの下、赤絨毯の廊下を歩く。贅沢な空間だけど、全体の印象はとってもシックでつつましい。



f:id:foujita:20120129165023j:image

旧館の建物をあちらこちら歩いてゆくと、あるところではこんなかわいらしい照明が。



f:id:foujita:20120129165024j:image

中庭をのぞむ窓も実に素敵。



f:id:foujita:20120129165230j:image


f:id:foujita:20120129165231j:image

そろそろ午後の喫茶の時間を過ごしたくなったところ、このアーチ型の廊下と照明の調和が素敵な空間の左側が喫茶のロビーとなっている。



f:id:foujita:20120129165232j:image

まさに夢心地で、ソファにこしかけて、休憩。コーヒーを飲んで、パイ生地の上に焼き林檎をスライスしたものが美しく飾られているお菓子を食べる。2年前の六甲山ホテルのアップルパイの午後を思い出して、さらによい気分になる。



f:id:foujita:20120129165233j:image

戦前に印行の宝塚ホテルの宣伝冊子。外国人向けの英語冊子。『近代建築画譜』に掲載の写真とおなじように、現在旧館として残る建物の正面がエントランスの庭園となっている。



f:id:foujita:20120129165234j:image

裏面には、ホテルへの交通案内が掲載。宝塚ホテル、大劇場、宝塚旧温泉から自動車で有馬温泉に向かい、六甲北口を通過して六甲山ホテルへ。阪神間の山間部に展開される観光名所。



f:id:foujita:20120129165235j:image

そして、中を開くと、武庫川沿いの大劇場と宝塚ホテルの鳥瞰写真。現在は宝塚南口駅のまん前に位置し、周囲は住宅地なので、だいぶ印象が異なるけれども、かつては六甲山ホテルとおなじように、ちょっとしたリゾートホテルだった。人びとはここに静養に訪れる。



f:id:foujita:20120129165236j:image

昭和12年4月24日の宝塚ホテルのメニュウは絵葉書が付されていて、《家族的で上品な宝塚ホテル》という惹句の横に、武庫川越しの宝塚ホテルの眺めを楽しみながら、カクテルを飲むモダンガール。ちなみに、この日のメニュウは、じゃがいものスープ、鱒のバタ焼、牛肉の煮物、季節のサラダ、ヴァニラのアイスクリーム、果物、、コーヒー。食事をたのしむロッパの姿が彷彿としてくるようだ。



宝塚ホテルの喫茶のひとときは、気持ちだけ、この絵の女性の気分そのまんまで、昔の宝塚ホテルの姿を眺めながら、くつろぐひととき。それにしても、なんて素晴らしいのだろう。と、心ゆくまで満喫したひととき。宝塚ホテルは、わたしのような観光客が殺到ということはまったくなく適度に人びとが憩っていて、とてもいい感じ。梅田駅周辺の喧騒とはまったくの別世界で、その上品な空間に埋没して、この一年のいろいろなことがスーッと浄化していくかのような時間だった。この一年、いろいろなことがあった。と、一年の終りの休日に、わたしもちょっとしたリゾート気分で、宝塚ホテルのクラシカルな空間で思う存分くつろいで、しみじみ至福だった。




f:id:foujita:20120129165238j:image

『近代建築画譜』(昭和11年9月刊)に掲載の、宝塚ホテルの内部の写真。



f:id:foujita:20120129165415j:image


f:id:foujita:20120129165416j:image

喫茶コーナーがあまりに居心地がよくて、ずいぶん長居をしてしまった。まだまだ名残惜しいので、旧館をあともう一周めぐることにする。近代建築の内部は、いつも柱と階段の観察がとてもたのしくて、いつも「おっ」と立ちどまっている。



f:id:foujita:20120129165417j:image

そして、思いがけず嬉しかったのが、かつて宝塚大劇場の使われていた緞帳が壁の一部として使用されている一角があったこと。さらに、緞帳の原画は小磯良平というので、歓びはひとしおだった。画題は《騎士の門出》。鐘紡株式会社の寄贈。



f:id:foujita:20120129165418j:image

昭和51年1月から昭和56年5月まで、宝塚大劇場でこの緞帳が使われていた。



f:id:foujita:20120129165419j:image

『近代建築画譜』(昭和11年9月刊)に掲載の、宝塚大劇場の舞台の写真。当時は「クラブ白粉」提供の緞帳が使われていた。昭和50年代の数年間、この舞台に小磯良平の緞帳が使われていたさまを想像して、うっとりしてしまう。



f:id:foujita:20120129165420j:image

おなじく『近代建築画譜』に掲載の、宝塚大劇場の廊下の写真。この廊下の形状や照明の感じが、宝塚ホテルの旧館の様子によく似ている。宝塚ホテルは宝塚大劇場のかつての雰囲気を体感する空間でもあるのかも。



旧館には宝塚歌劇のトップスターのパネルを飾った一角があり、その正面の宴会室はディナーショーの会場にもなっているようだった。宝塚観劇のたのしみのある人生はなんという愉悦であることかと、心の底から羨ましくなってくる。そして、その宴会室の入口の近くには、「白雪」の酒樽が積み上げられていて、灘の酒蔵文化を思うと、いつも胸が熱くなる! 阪急と白雪の密接な関係は昔も今も変わらないようだ。





宝塚ホテルを心ゆくまで満喫して、気持ちが浄化したかのよう。いい気分で、宝塚南口駅から阪急今津線に乗り込む、その前に、ホテルの建物を外側から見物。



f:id:foujita:20120129165423j:image

旧館の裏手にまわってみると、いかにも古びた文様が残っていて、嬉しい。窓の形状ににっこり。



f:id:foujita:20120129165612j:image

『近代建築画譜』に掲載の写真で、裏手の装飾が古くからあったものと知る。



f:id:foujita:20120129165613j:image

宝塚南口駅の改札に入り、これから阪急今津線で阪神国道方面へと向かうのだけれど、ぜひとも阪急電車で武庫川の鉄橋を渡りたいという誘惑に勝てず、宝塚駅行きのホームで電車を待っている間に高架のホームから、宝塚ホテルを見納める。いつかまた別の機会で訪れる日が来ることを、心より願う。



宝塚南口から宝塚行きの今津線に乗って、武庫川の風景を満喫し、その電車が折り返して、西宮北口行きとなり、阪急電車はふたたび武庫川を渡って、ふたたび武庫川の風景を満喫。すばらしき武庫川! と余韻にひたりながら、電車は西宮へと向かう。



f:id:foujita:20120206222026j:image

絵葉書《阪神地方水害(上)西宮東口附近線路上に氾濫する濁水、(下)宝塚迎賓橋の流失》、宝塚から西宮に向かう阪急電車に乗ったとき、思い出した絵葉書。昭和13年7月3日から5日にかけての「阪神大水害」の、宝塚と西宮の惨状を記録している。大劇場界隈と宝塚ホテルの場所をつなぐ武庫川に架かる「迎賓橋」もこんな惨状! ロッパは翌月の8月に北野劇場で公演をしている。8月8日、ピス健の嘉納親分の案内で住吉まで行ったあと、住吉から省線で座に戻った際のことを《窓から見る芦屋辺の泥害水害、見なくちゃ分からぬ》とロッパは日記に書いた。8月19日、座員と宝塚見学に出かけた際も、水害の影響で急行は運休したままだった。8月23日、省線で神戸にゆくロッパ夫妻、《道々の水害の跡を窓外に見ながら――全くひどい》。この絵葉書にある西宮は、西宮のどの線路なのかな。

(追記:この絵葉書の「西宮東口」は阪神の今津〜西宮間にかつて存在した「西宮東口駅」とご教示いただきました。西宮東口は明治38年4月の阪神電車開通時から存在した歴史の古い駅で、平成13年3月に阪神本線の高架化とともに西宮駅に統合された駅。阪神の西宮に歴史あり! と、しみじみ……。)

20120201

冬休み関西遊覧日記その1/1930年代の阪急梅田駅。淀川の鉄橋

2011年12月29日。今年はなんやかやで、ここ数年来のおたのしみ、年に何度かの関西遊覧に行かれずじまいだった。という次第で、年末になってやっと、ちょうど1年ぶりとなる関西行きが実現して、こんなに嬉しいことはない。午前9時00分東京駅発の新幹線は、定刻どおり午前11時36分に新大阪に到着。



f:id:foujita:20120129164504j:image

新大阪でイソイソと在来線に乗り換えて、大阪駅へ向かう。小津安二郎の『彼岸花』のラストの鉄橋を胸に、先頭車両に乗り込むのがいつものお決まり。この淀川を渡る瞬間はいつだって「大阪に来たなア!」と全身で歓喜。大阪遊覧がいよいよ幕を開ける瞬間はいつだって全身で歓喜。




f:id:foujita:20120129164505j:image


f:id:foujita:20120129164506j:image


f:id:foujita:20120129164507j:image


f:id:foujita:20120129164508j:image

小津安二郎『彼岸花』(昭和33年9月7日封切・松竹大船)の終盤のショットより。蒲郡の竹島の桟橋、京都祇園の旅館「佐々木」の裏口、広島に向かう車内で佐分利信が電報を依頼するボーイ・須賀不二男、ラストの淀川の鉄橋。蒲郡で中学のクラス会のあとに、「ついでに大阪まで来たもんだから」と京都祇園の浪花千栄子・山本富士子親子を訪れた佐分利信が、結婚と同時に広島に越した娘の有馬稲子とその夫佐田啓二を訪ねるべく、急行「かもめ」に乗り、大阪に入る直前にボーイに打電を依頼する(広島14時18分着)。京都から大阪に入る直前の電車が淀川を渡ったところで、完。蓮實重彦・厚田雄春『小津安二郎物語』(筑摩書房、1989年6月)所収「お召列車に敬礼」によると、電車のボーイ役は当初田浦正巳が予定されていたものの、チョイ役なので断られて、須賀不二男に話を持っていこうとしていたけれども遠慮していて、ほぼ厚田雄春が引き受けることに決まりかかったところで、一応須賀にきいてみたら、「ぜひ出させてください」と喜んで出演したという。この挿話が昔から大好き。



f:id:foujita:20120129164509j:image

大阪駅に到着直前。ちょうど1年ぶりとなる大阪駅。去年はあちらこちら普請中だった大阪駅は1年前とすっかり様変わりしていた。



昭和9年の梅田駅に思いを馳せながら、阪急電車の改札口へ向かう。

正午前、大阪駅の外に出る。2年前の関西遊覧の折に初めて間近に立って、その直線美に見とれるばかりだった大阪中央郵便局のもう使われていない建物が健在で嬉しい。あらためてじっくり建物を眺めたあとで、堂島の定宿に荷物を預けて、身軽になってほっと一安心。ドージマ地下街(寺島珠雄!)でうどんを食べて腹ごしらえを済ませて、さらにほっとひと安心。さあ、これから宝塚へと出かけるといたしましょう! と大いにハリきって、阪急梅田駅へ向かって、人混みをぬってズンズンと歩いてゆく。



f:id:foujita:20120129164510j:image

《最新大大阪市外地図》(和楽路屋、昭和13年7月発行)より、大阪駅周辺を拡大。省電大阪駅前に沿った大通りに、阪神前・大阪駅前・阪急前というふうに、大阪を起点とする3つの路線の改札の最寄りとなる市電の停車場がある。ドージマ地下街から阪急前の停車場に向かって歩くときはいつも、阪急電車に乗って堂島の大阪毎日新聞に通勤していた北尾鐐之助のことを思い出す。その著書、『近代大阪』近畿景観第三編(創元社、昭和7年2月)での、梅田新道の太平ビル1階のブラジレイロでコーヒーを飲んでいる場面を思い浮かべてみると、さらにこの地図に感興がわいてくる。



f:id:foujita:20120129164511j:image

大阪市電気局発行の《電車 乗合自動車 案内》。大阪駅構内の「市内交通案内所」で配布されていた印刷物。


f:id:foujita:20120129164512j:image

その《大阪市電 市営自動車 路線図》の裏面は「阪急電車」の広告。《花よりも美しい新緑のみのお公園》と《日本の名所宝塚》、箕面の滝と武庫川沿いの屹立する宝塚大劇場の建物のイラスト。まさにこれから行く宝塚線沿線の風景が印刷されているのが嬉しい。


北尾鐐之助がちょくちょくコーヒーを喫していた、1階がブラジレイロの太平ビルがあった梅田新道の交差点の市電一駅に「阪急前」の停留所がある。阪急電車の広告として発行されていたと思しき、この大阪市電の路線図の裏面に「市電阪急前下車阪急電車ヲ利用シ得る名勝地左ニ」としてまっさきに挙げられているのは、もちろん「阪急百貨店」。《阪急前停留所下車スグ大阪駅にならんだ宏壮なビルデングで毎日午前九時より午後九時まで営業し、七、八階は食堂、神戸、宝塚、みのお行き、阪急電車は此処から出る》というふうに紹介されている。



f:id:foujita:20120129164513j:image

というふうに、2011年は一度も関西遊覧に出かけられなかった分、古書肆から戦前の印刷物をいろいろと仕入れて、悦に入っていた。紙上の関西遊覧。こちらは、「阪神急行電鉄株式会社直営阪急百貨店」の包装紙。威風堂々、阪急百貨店の建物が全面に描かれ、その下に沿線図が配置。いったい何が包まれていたのかな、足袋とか手袋とか半襟とかネクタイとか、そんなところかな。シールの痕が残っているのが嬉しい。





さて、いままで特に気をとめたことがなかったのだけれど、昭和42年に移設工事は始まるまで、阪急梅田駅の改札は国鉄の線路の南側に位置していたのだった。北尾鐐之助の『近代大阪』にまさるとも劣らぬほど関西遊覧のたびに重宝している、高山禮蔵『大阪・京都・神戸 私鉄駅物語 写真・資料でたどるターミナル駅の変遷』JTBキャンブックス(JTBフォトパプリッシング、2005年10月)の79ページに、明治43年の開業時から昭和42年に現在の地に移設されるまでが、「阪急梅田駅 駅ビルと構内配線 変遷」として図になっていて、これがたいへんありがたい。モダン関西トピックとして興味津々なのが、

  • 大正15年、大阪市内高架線化により梅田駅も高架化。梅田〜十三間複々線化 昭和4年に阪急ビルが竣工し四代目駅に
  • 昭和9年、国鉄大阪駅高架化による上下切替えで地上駅に戻り。阪急ビル順次増築

の2つの時期。昭和9年6月の省電の高架化および阪急の地上化先立つ、昭和7年2月に刊行された『近代大阪』のなかで、北尾鐐之助は《東海道線が、いよいよ高架になる。阪急電車が下に下りて、縦についていた跨線橋が今度は横につく。阪急百貨店のちょうど二階位の高さに、汽車が煙りを吐いて走る光景を想像することは愉快である。》と書いている(「高架線の中津」)。



f:id:foujita:20120129164514j:image

《阪急線が国鉄線を乗り越し高架の梅田駅に入っていた時代の航空写真。国鉄大阪駅付近では高架化の工事が進行中》、高山禮蔵『大阪・京都・神戸 私鉄駅物語』の77ページに掲載の写真(写真提供/阪急電鉄)。周囲に高層の建物が見当たらないなかを阪急百貨店の建物が威風堂々とそびえたっているさまが鮮やかに写し出されている。『日本鉄道旅行歴史地図帳 10号 関西私鉄』(新潮社、2011年2月)所収の原武史「阪急梅田クロス問題」では、

1934年までは高架駅で、宝塚線と神戸線の複々線線路が、梅田駅ターミナルを出るや東海道本線をオーバークロスしていた。梅田〜十三が複々線化されたのは1926年だが、東海道線線路の上を阪急の線路をまたぐという光景自体は、1910(明治43)年に阪急が前身の箕面有馬電気軌道が開業した当初からあった。創業者の小林一三は、この光景を「往来ふ汽車を下に見て 北野に渡る跨線橋」という歌詞に詠んでいる。

というふうに、この時期の梅田駅が語られている。『逸翁日記』等の小林一三文献を鋭意チェックしたくなってくる。



f:id:foujita:20120129164515j:image

国鉄線の高架の下を阪急の線路が梅田駅のターミナルへといたるところを写した素敵な写真、《L-220 阪神急行電鉄 神戸線 951+921 梅田駅 昭和10/1935-36頃》、『西尾克三郎 ライカ鉄道写真全集1』(プレス・アイゼンバーン、1992年6月)より。西尾氏は昭和9年6月の阪急梅田駅の地上化のときを、《省線の高架線を潜るかたちで完成した阪急電鉄梅田新ターミナルも神戸線と宝塚線の複々線にひっきりなしに出入りする電車たちが大いにライカの写欲をそそった。》というふうに回想している。新しい都市風景が誕生した瞬間。



原武史「阪急梅田クロス問題」によると、昭和9年6月に阪急梅田駅が地上駅となったのは、昭和6年6月に鉄道省大阪鉄道局が《国有鉄道の電化と高架化が決定したから、交差している阪急の高架線を、新たに敷設する東海道本線および城東線(現・大阪環状線)の高架線の下にし、地上線にせよという通達を、突然一方的に送りつけた》ことがきっかけだった。高山禮蔵『大阪・京都・神戸 私鉄駅物語』によると、昭和9年6月1日に一晩で省線と阪急の上下入れ替え工事がやり遂げられたというから、なんともドラマチック。大正15年に「大阪市内高架線化」により梅田駅も高架となったあとで、ふたたび地上駅に戻った昭和9年という年は、小林一三にとっては、東京宝塚劇場が開場した年であり、おのずと、1930年代東京の「丸の内・有楽町」へと思いが及ぶ。同時期の古川ロッパの活躍がありように胸躍らせているうちに、高架線の風景はモダン都市の都市風景のシンボルでもあるのだなあと、昭和10年に失踪した藤牧義夫がさかんに描いた高架線が心に浮かんだりもする。……というようなことにふらふらと思いを馳せつつ、今回の関西遊覧でも、有形無形のモダン都市風景めぐりをしたいのだった。




f:id:foujita:20120129164516j:image

《阪急ビルディング》、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日)に掲載の写真、『復刻版 近代建築画譜〈近畿篇〉』(不二出版、2007年6月25日)より。建主:阪神急行電鉄株式会社、位置:大阪市北区角田町、設計・施工:竹中工務店、起工:第1期昭和2年12月・第2期同5年6月・第3期同6年12月・第4期同9年11月、竣工:第1期昭和4年3月・第2期同6年11月・第3期同7年12月・第4期同11年3月というふうに記載されている。長らく親しまれていた阪急百貨店の建物は昭和2年から10年間に渡って少しずつ増築がなされ、この『近代建築画譜』に掲載されている写真の姿となった。



f:id:foujita:20120129164517j:image

『近代建築画譜』の阪急百貨店の建物の隣りのページにに掲載されている《阪急ビル1階ホール》の写真。左に「改札口」の文字が見える。なんてモダーンなアーチ形の天井! と感嘆するしかない。この伊東忠太設計のコンコース跡は近年まで残っていたのだけれども、わたしは見たことがなく残念至極。高山禮蔵『大阪・京都・神戸 私鉄駅物語』によると、《コンコース北側のアーチ型開口部に改札口が並び左右に出札口が設けられ、乗降場へとむかう。乗車客と降車客で一日中混雑するが、小林一三はこういった人の流れがターミナル駅の賑わいを醸し出すのだと割り切っていた。》、《この時期の新京阪の天神橋、京阪の天満橋、阪和の天王寺が、乗車と降車のホームや通路を画然と分離していたのと対照的である》とのこと。モダン関西のそれぞれのターミナル駅考察の上でたいへん興味深い。



f:id:foujita:20120129164518j:image

そして、『近代建築画譜』のアーチ天井のコンコースと同じページに掲載の《乗降場》の写真。コンコースの左、すなわち北側にはこんなに素敵な改札口! これもまた、なんてモダーンな流線型の鉄筋! と感嘆するしかない。改札口から電車の先頭部分、線路の部分まで直線距離が結構あって広々としている。当時の車両は2両か3両編成だったから、ホームは短かったという。




そんな小林一三の時代から長らくこの地のシンボル的存在だった建物の取り壊され、阪急百貨店界隈はいまだ普請中。梅田駅のホームに向かう中、改装中のため天井のコンクリートが露わになっている箇所がある。古い建物の残骸なのかなと上を見上げて、ちょっと嬉しい。



f:id:foujita:20120129164519j:image

《梅田阪急前》、『西日本現代風景』(「大阪毎日新聞」昭和6年9月5日発行附録)より。《大阪の交通地獄は、年とともに益々烈しくなつて、平均一日二三十件の交通事故を惹き起してゐる、写真は阪急前の「ゴー・ストツプ」で名物の田中巡査が、けふも勇ましく街頭の勇士として列日に躍つてゐる》。右に阪急百貨店の建物の角が写っている。昔も今も、梅田阪急界隈はたくさんの人でひしめきあっている。



f:id:foujita:20120129164520j:image

大阪駅前に停車する市電の停車場に立つ徳山たまき【王+連】、『映画朝日』昭和15年1月1日発行(第17巻第1号)所載「三都の盛り場を行く三銃士」より。金語楼が京都を歩き、大辻司郎が神戸を廻るなか、大阪をめぐる徳山たまきは、《市電の車体、及び郊外電車は、東京には絶対にない位、豪華なものであることをほめてをく》と言っていて、微笑。その遺稿集『徳山たまき随筆集』(輝文館、昭和17年8月)でも、徳さんの鉄道好きがそこはかとなく推察できるのだった。



徳山たまきと小林千代子の歌う「大大阪地下鉄行進曲」を口ずさみながら地下鉄に乗りたくなってくるけれども、今日は阪急電車に乗らねばならぬ。徳山たまきの歩いていた頃の阪急電車の乗降場は省電の線路の南側に位置していたけれど、今は線路の向こう側なので、堂島から歩いてくると結構距離があるなあと、テクテクと人混みをぬって歩き続けて、ようやく改札口手前の階段の前にたどりついた。



阪急電車にのって宝塚へ。モダン大阪の象徴としての淀川鉄橋と高架駅の中津。

昭和42年に国鉄の線路の北側への移設が開始され、昭和48年に現在の姿となった阪急梅田駅のあの素晴らしき広大なホームにはいつも大興奮、のみならず、阪急電車に乗りこんだ直後の神戸線・宝塚線・京都線の3本の電車が並行して淀川をわたって、十三で三つ又に分岐するという流れにしょうこりもなくいつも大興奮。あの一連の時間をひさしぶりに体験できると思うと、それだけで嬉しくてたまらない。改札口に到る階段の前に到着したん、さあ、あの上は阪急電車のホームだ! と思わず小走りに、というか全速力でズンズンと駆け上がる。



f:id:foujita:20120129164521j:image

宝塚線・神戸線・京都線がそれぞれ3本ずつ計9本の線路が、宮脇俊三の言葉だと「巨大な櫛」のように並ぶ。このなんという素晴らしく広大なこと! と、何度来てもそのたびにしょうこりもなく大興奮。阪急梅田駅の広大なターミナルの素晴らしさは十分承知しているのに、それなのに来るたびに、そのあまりの素晴らしさにびっくりしてしまう。マルーン色の車体はいつもピッカピカ、そして、いつだってピッカピカに磨かれて黒く輝いている床のなんと美しいことだろう。誇り高き関西私鉄の威容が今もここに見事に体現されている。



f:id:foujita:20120129164522j:image


f:id:foujita:20120129164523j:image

『杵屋栄二写真集 汽車電車 1934/38』(プレス・アイゼンバーン、1977年10月10日発行)より、《阪急電車宝塚行普通と急行/梅田》と《宝塚線ホーム 新聞売場》の写真。

大工事だった省線の高架化と阪急の地上への切替え工事が終り、阪急の大ターミナルが完成して間もない頃、私鉄でこれだけのターミナルステーションは、類を見ない規模であった。ガラス張りのドームはヨーロッパのターミナルを思わせ、関東の鉄道ファン羨望の的であり、大阪のファンには御自慢の種となった。

という解説が写真の横に付されている。これらの写真をホクホクと撮影していたに違いない杵屋栄二。杵屋栄二が昭和9年6月1日の切替え工事のあとのモダーンな大ターミナルに魅了されてやまなかったのとまったくおんなじように、2011年12月のわたくしは、現在の梅田駅のホームに魅了されっぱなし! ずっとここに立っていても飽きなさそうな感じがする。



しかし、時間に追われる観光客であるので、名残惜しいけれども、そろそろ電車に乗らねばならぬと、ソワソワと宝塚線のホームに停車中の12時50分発の宝塚行きの急行電車(停車駅は豊中から終点宝塚駅の各駅)の先頭車両に乗りこむ。宝塚線に乗るのはずいぶんひさしぶり。宝塚線というとまっさきに思いだすのは、2005年7月に出かけた池田の逸翁美術館のこと。実にすばらしい空間だったなあと追憶にひたりつつ、小林一三は偉大なり、としみじみ思う。その後、池田文庫と逸翁美術館は合併し、池田文庫の土地に新しい逸翁美術館が誕生し、かつての逸翁美術館は小林一三記念館になってしまったのだけれど、いつかまた池田の地を訪れたいものである。



f:id:foujita:20120129164524j:image

阪神急行電鉄株式会社発行《御沿線案内》。裏面に押印の「五月廿日以降上筒井支線廃止」のスタンプから判断すると、昭和15年5月20日以前の印行。これから向かう宝塚大劇場の建物が表紙に描かれているこの沿線案内を参照しながら、本日の午後は、1930年代モダン都市探検、有形無形のモダン都市とその周辺めぐりをいたす所存。



f:id:foujita:20120129164525j:image

戦前の阪急電車の《御沿線案内》の梅田駅附近を拡大。沿線案内でも威風堂堂の阪急百貨店。その右に北野劇場と梅田映画劇場が描かれている。阪急直営の北野劇場は『古川ロッパ昭和日記』(晶文社刊)でおなじみ。昭和13年8月18日の日記では、

北野劇場の地理的条件の悪さが、段々分って来た。この一角を丸の内の興行界と思ったら大まちがひ、丸の内は銀座を抱えてゐるし、邦楽座、日劇の歴史も古い、漸くお盆の客がよべるやうになったところだ。北野はさうなる迄に何年かゝるか、又、さうならないかもしれない。

というふうにロッパは書いている。小林一三の阪急を軸に1930年代モダン都市の東西のありようを思ううえでたいへん興味深い。北野劇場で公演のたびに、いつもロッパは京阪神のあちらこちらへ出かけて、東京にいるときとおんなじように、外食、買い物、映画芝居見物をしていて、その文字を追っていると、東西のモダン都市が彷彿としてくる。たとえば、昭和15年3月のロッパ一座の公演時には(「ロッパと兵隊」等)、公演の合間に大阪と神戸でさかんに買い物や外食、3月15日には阪急百貨店で藤山一郎への結婚祝いにボストンバックを購入後、梅田映画劇場で夢声主演の千葉泰樹『彦六なぐらる』(南旺映画)を封切初日に見て、「中々いゝ、夢声の進境大いに認む」と日記に書き残している。



現在の京都線は戦前は阪急ではなく新京阪だったので、当時、十三まで並走する阪急電車は神戸線と宝塚線の二路線だった。この図の十三から淡路へつながる細い線が新京阪。阪急の経営下となったあと、昭和34年2月、戦前は新京阪だった京都線が梅田まで延びた。『日本鉄道旅行地図帳 関西2』によると《梅田〜十三間は宝塚線の複々線扱いで、京都本線の正式な起点は十三。》とのことで、なるほどと思う。梅田から北野まで伸びる線は、大正15年7月から運行されていた梅田・中津間の路面電車の北野線(昭和24年1月1日休止)、『日本鉄道旅行地図帳 関西2』によると《1959.2.18 に免許を宝塚線の複々線化(実態は京都線)の一部として利用。》とあって、再度なるほどと思う。現在の阪急京都線の背後には、しっかりと戦前の新京阪と北野線の痕跡が残っているともいえるわけで、京都線とともに戦前の阪急電鉄に思いを馳せてたのしい。



f:id:foujita:20120130212905j:image

絵葉書《梅田付近の高架線》、『鉄道ピクトリアル』1998年12月増刊号《特集 阪急電鉄》所収、「絵葉書に見る阪急電鉄の昔」(所蔵と解説:白土貞夫)より。《1926(大正15)年7月に完成した梅田―十三間の高架複々線区間の風景。3両編成は宝塚線梅田行きの51系+300系+51系。昭和10年代の撮影であろう。道路上にセンターポールの建つ道路はかつて本線であった北野線。》という、痒いところに手が届く懇切な解説が付されている。昭和15年以来休線していた北野線の用地が京都線が梅田に乗り入れる際に活用されたことは、同書所収の青木栄一「阪急電鉄の歩み〔戦後編〕」で語られている。





さて、阪急宝塚線の急行電車は12時50分、梅田駅を発車し、中津を通過して、いよいよ淀川を渡る。今回は運よく、京都線・神戸線ともに梅田駅を発車し、3本の電車が並んで淀川の鉄橋を渡るという絶景を味わうことができて、歓喜にむせぶ。感動のあまり、もうすっかり涙目だ。



f:id:foujita:20120129164526j:image

と言いつつ、観光客は写真撮影も忘れない。向かって右には京都線(神戸線・宝塚線の二路線より線路の位置がやや高い)、左が神戸線、その向こうに見えるアーチ型の鉄橋は十三大橋! と涙目になって、歓喜にむせぶ。淀川の鉄橋は、神戸線と宝塚線は三角の鉄鋼が幾何学的美しさを醸し出す「鉄鋼ワーレントラス構造」だけれど、京都線だけは戦後に架橋の一段高い線路となっている。阪急電車が淀川を渡っている時間は、そんな神戸線・宝塚線と京都線の違いをしみじみと味わう時間ともいえる。



f:id:foujita:20120129164527j:image


f:id:foujita:20120129164528j:image

『阪神急行電鉄二十五年史』(昭和7年10月)より、《宝塚・神戸両線の分離運転/宝塚、神戸両線の新淀川新橋鉄橋 上は側面より、下は正面より見たるもの》。「関西最初の高架複々線市内乗入れの計画」がはじまったことで、神戸・宝塚線の分離運転がはじまり、かつて併用軌道だった神戸線と宝塚線は専用軌道となることで格段に輸送能力が向上してゆく。大正11年11月1日、新淀川鉄橋の架橋工事が着手され、同13年2月6日に完成後に直ちに旧鉄橋工事の工事が開始され、高架複々線の建設準備が着々と進められていった。その高架複々線の建設とともに開業したのが、梅田・十三間の中津駅。



f:id:foujita:20120129164529j:image

同じく『阪神急行電鉄二十五年史』より、《高架線、中津停車場の改札口》。中津駅は大正14年7月、まずは宝塚線の駅として開業した。同年11月に梅田駅の場所が移動したあとで、大正15年7月、それまで十三が発着駅だった神戸線が晴れて梅田駅に延びた。先ほど梅田駅の歴史に思いを馳せたときに垣間見た《大正15年、大阪市内高架線化により梅田駅も高架化。梅田〜十三間複々線化》がまさにこのとき。大阪の都市風景のうち、かねてより愛着たっぷりだった高架線の中津、北尾鐐之助の『近代大阪』でも大きく取り上げられている高架線の中津は、「梅田〜十三複々線化」の産物だったわけだ。



f:id:foujita:20120129164902j:image

『西尾克三郎 ライカ鉄道写真全集1』より、《L-222 阪神急行電鉄 宝塚線 328+331+320形 大阪梅田行急行電車 昭和10/1935-36頃》。



いつも大興奮していた阪急電車の淀川の鉄橋、神戸線と宝塚線のワーレントラスの橋は、「大大阪」成立の年である大正15年の7月に高架の梅田駅の完成、すなわち梅田・十三間の複々線化の象徴する存在である。昭和4年3月に竣工した阪急百貨店の建物は建て替えられてしまったけれども、淀川の鉄橋および高架線の中津駅の建物は今も健在。今は消えてしまったものと今も残るものの組み合わせとしてのモダン都市遊覧にもう夢中。なくなってしまった建築を惜しむのは当然にしても、いたずらに惜しむだけではつまらない。昔の写真や紙ものを参照しながらの、モダン都市の建築めぐりは無形有形ともに、とてもたのしい。

20111122

野口冨士男の『越ヶ谷日記』のこと。

野口冨士男の生誕百年を記念する『越ヶ谷日記』が今月、越谷市立図書館野口冨士男文庫運営委員会の編集により刊行された。野口冨士男は復員後、夫人の実家のある越ヶ谷への疎開を余儀なくされ、昭和20年10月に越ヶ谷へ転居し、新宿区戸塚町の旧宅跡に新築した家に戻るのは昭和22年3月。『越ヶ谷日記』は、海軍に応召された昭和19年9月14日から敗戦後に復員するまでの昭和20年8月24日までの『海軍日記』(現代社・昭和33年11月/新版:文藝春秋・昭和57年8月)のあとに続く日記が収録されていて、本書が初めての活字化である。表紙にあしらってあるイラストは、昭和21年1月21日に近所を散歩した際に日記帳に写した元荒川に架かる元荒川橋の橋袂の標識。



f:id:foujita:20111121215438j:image

野口冨士男『越ヶ谷日記』(越谷市教育委員会、2011年11月22日)。編集:越谷市立図書館野口冨士男文庫運営委員会。解説:川本三郎。装幀:中島かほる。中島かほるは『新版 海軍日記』(文藝春秋、昭和57年8月)の装幀者(他に、第2エッセイ集の『断崖のはての空』(河出書房新社・昭和57年2月)の装幀をしている。)。『海軍日記』に続く日々が記録されている『越ヶ谷日記』の装幀を、約30年後に同じ中島かほるが担当している。奥付の11月22日は命日。野口冨士男は、秋声(昭和18年11月18日没)と同じ季節に他界したのだった。


『越ヶ谷日記』は、ウェッジ文庫の武藤康史編『野口冨士男随筆集 作家の手』(2009年12月)でも読むことのできる、「自伝抄「秋風三十年」」(初出:「読売新聞夕刊」昭和55年9月10日から10月4日まで計20回→『作家の椅子』作品社・昭和56年6月)に、

 二十年の十月に入ってから埼玉県の越ヶ谷へ転居を余儀なくされたのは、東京の借家の所有者が東北の疎開先から帰京すると通告してきたためで、私たちは戦後になってから地方へはじき出される結果になった。

 当時の越ヶ谷は日光街道に面した典型的な街道町で、町並の裏側は一面の水面地帯であった。街道から徒歩三、四分の位置に元荒川があって雷魚やナマズが釣れたり、食用蛙の声が聞えたりした。東京生まれの私は流人の心境で、健康のために毎日その岸を歩いた。

と記されている日々を収録している。《戦中より戦後のほうが食糧事情は悪かったから、あのまま東京に踏みとどまっていたら私の命はどうなっていたか。》とあるとおり、越ヶ谷の日々は野口冨士男にとって、流人の日々であると同時に蘇生の日々でもあった。『越ケ谷日記』が始まったばかりの昭和20年9月2日に、

久しく読書というものから離れていた頭脳には、どうやら文学や活字には親しみ得ない間隙といったものが作られてしまっているらしい。このごろでは新聞ひとつ読むのにすら或る程度の努力が要求される。同様わずかな文章、たとえば手紙などを綴ろうとする時にも、きわめて平易な筈の字を思い出すのにさえ、容易ならぬ焦燥が伴うのである。

というくだりがある。野口冨士男はこんなふうに書いているけれども、『越ヶ谷日記』の文章はきわめて理知的で、一貫して「文学者の日記」の香気がただよっている。越ヶ谷の町をよく歩いて体調回復につとめつつ、文学者としての矜持を保っていた日々。人や町や社会の観察者に徹し、さらに本を読んだり買ったり、作品の執筆をしている。野口冨士男の読者にはおなじもの、あの一本筋の通った心意気は健在で、ニヤリとさせられることもしばしば。


『越ヶ谷日記』は文学者の日記に共通する重層的なたのしみに満ち満ちていて、今後読み返すたびに新たな発見や感慨は尽きそうにない。初読時に胸を躍らせたことは枚挙にいとまがない。野口冨士男の愛読者としては、のちの文業に思いを馳せるのがまずたのしい。たとえば、『徳田秋聲伝』、『わが荷風』、『暗い夜の私』、『私のなかの東京』、『感触的昭和文壇史』といった書物を繰り返し読んできた身にとっては、『越ケ谷日記』にちりばめられた「秋声」「荷風」「東京」「文壇」といった要素をあちらこちらの見出すのである。『越ヶ谷日記』の文字を追いながら、野口冨士男の眼に写る「風景」に同化しているうちに、今年生誕百年を迎えた野口冨士男の文学全体に思いが及んでいくのだった。





『感触的昭和文壇史』(初出:「文學界」昭和58年1月から昭和61年2月→文藝春秋・昭和61年7月)の「第六章 昭和二十年代の文学」で、野口冨士男は『越ヶ谷日記』の時代を以下のように回想している。

……私が応召以前に居住していた家屋は昭和二十年四月五日に強制疎開の命令を受けて、日本人の手で倒壊のうきめにあった。そのため、家内はまだ幼児だった一人息子を二人の実妹とともに北軽井沢へ疎開させて、ただひとり東京の借家ずまいをしていた。私が復員したのはその戦災をまぬがれた借家であったが、敗戦とともに借家の家主が疎開先から帰京してきたために、私たちは戦後になってから埼玉県へ転居せざるを得なくなった。つまり、私たちは戦後になってからの疎開者という、実質的には戦災者でありながら通常の戦災者でもない、いわば宙づりのような状態に置かれてしまったのであったが、家屋こそうしなったものの、東京の住居址にはなにかと用事があって、私はそのつど鈴生りと言うよりほかない満員電車に乗って上京せねばならなかった。ついでに付け加えておくと、そんな近郊電車にくらべれば、東京の都電はガラガラであった。前者の混雑は、買出しと家屋焼失による近郊のベッドタウン化のせいであり、後者の閑散は都内がいちめんの焼野原だったためである。

そんな「宙づりのような状態」の日々のまっただなかの、『越ヶ谷日記』の昭和21年2月23日には以下のくだりがある。

西欧流の登山術が招来せられるようになる以前の日本人は、山嶽を下からばかり見上げていて、上から下を見ることを知らなかった(経験しなかった)と言われる。今までの僕は、都会にいて地方を眺めていたが、こんどは地方に来て都会を眺めるようになった。しかし、僕のいま住んでいるこの地方は、いわゆる農村ではなく、独立した小都市でもない。このあたりは、来るべき将来に於いて、大東京都の衛星都市に編入せられるところかもしれないが、とにかく、地方としても、はんぱなところである。此処に、この田舎町の一種特異な点が存している。

『感触的昭和文壇史』の「昭和二十年代の文学」で論じられている、《雨後の筍にたとえられる創刊雑誌氾濫》に象徴される敗戦後の文学界の一種の狂騒を文字どおりにやや距離をおいて眺めつつも、一方で、昭和21年2月27日の日記にて、《新刊雑誌百種類と言われているが、先日中から新聞広告に出ているものを、少しずつ蒐録しておいたら、こんなにある。》として、記録魔の本領をいかんなき発揮している野口冨士男であった。


昭和22年3月に東京に戻るまで、野口冨士男は「鈴生りと言うよりほかない満員電車」の東武電車にのって頻繁に東京に出かけ、さかんに旧知の文学仲間と会ったり、さまざまな所用をこなしたり、新宿戸塚町の自宅を建設する準備もしている。やはりなんといっても野口冨士男は、《どうしても東京へ戻りたかった。》(「自伝抄「秋風三十年」」)。




f:id:foujita:20111121215439j:image

野口冨士男が「鈴生りと言うよりほかない満員電車」と書くとおりの終戦直後の東武電車の写真が載っている写真集を神保町の書泉グランデで発見して歓喜! この写真は《東武鉄道 デハ55+クハニ26 伊勢崎線の超満員買い出し電車が到着。浅草行き普通電車。運転台は右側で、左側も乗客で満員。北千住 昭和21/1946.8.9》、浦原利穂写真集『終戦直後 東京の電車』(ないねん出版、2006年4月12日)より。




f:id:foujita:20111121215542j:image

同じく、浦原利穂写真集『終戦直後 東京の電車』より、《東武鉄道 クハニ26+デハ55 北千住 昭和21/1946.8.9》。ちなみに、野口冨士男は昭和21年12月5日には、《走りはじめれば引込むものと思っていたところ、乗客たちは動かず、そのまま、急行のため草加駅までブラさがってゆくより仕方がなくなってしまった》というような目に遭っている。


野口冨士男が東武電車を下車および乗車するのは、たいていいつも北千住である。たとえば、大空襲の1年後の昭和21年3月10日に上京の折は、野口冨士男は移動中に荷風の『冬の蠅』を読んでいる。そして、車窓も見ている。

出京の度ごとに、省線電車の窓外に見かくる焼跡にて、最も多く眼にうつるは、煙突、土蔵、金庫、石灯の四つなり。煙突はその下で火を焚き、煙を通ずるもの、土蔵と金庫とは、煙突と反対に、外部よりの火気を防遏せんとして造られたるものなるに、外形のみ残りて、内部はその機能を喪失せるなり。さらに、石灯籠は、庭前に据えて賞するものなるに、眺むる人の焼出されて、眺めらるる石灯籠ばかり以前の場所に残置せらるるなり。しかも、それらは、現在もう何の役目をも果しおらぬばかりか、焼跡整理のためには甚だ支障を来す邪魔ッ気な、無用の長物となれり。その無用の長物のみ、焼跡には特にいちじるしく人目を惹くも、また皮肉なりというべし。

この「省線電車の窓外に見かくる焼跡」は、北千住・上野間の常磐線の車窓である。このようにして、『越ヶ谷日記』の読者は野口冨士男の見た「風景」を追体験する。




f:id:foujita:20111121215543j:image

『越ヶ谷日記』当時の東武電車の路線図、『東武 四月号』(東武旅行会、昭和24年3月31日発行)より。浅草・粕壁(昭和24年9月1日に「春日部」となる)間の東武伊勢崎線は現在より駅数が少なくて、沿線のベッドタウン化以前の姿。たとえば、後藤明生でおなじみの「松原団地」は昭和37年12月1日の開業。




f:id:foujita:20111121215544j:image

昭和24年当時の《東武電車浅草駅発車時刻表》、おなじく『東武 四月号』より。『越ケ谷日記』の当時もこんな感じの本数だったのかな、現在よりも格段に本数が少ないのが一目瞭然。大師前行きの直通電車があるところに時代を感じる。当時の終電車は、浅草発杉戸行き、22時35分。越ヶ谷から浅草までの所要時間は40分となっている。



昭和21年10月28日の野口冨士男は忙しい。北鎌倉の高見順を見舞ったあと、横須賀線を新橋で下車して、能加美出版社で編集者をしている十返肇を訪問。その前日に十返から、千鶴子さんとの結婚通知が届いたばかりだった。十返は結婚の報告とともに、野口に小説の依頼もしていたらしい。そのあと、神田まで地下鉄で移動、森川町の徳田一穂を訪問するため、本郷へと歩く途中の小川町で、荷風の新刊『来訪者』(筑摩書房・昭和21年9月5日初版)を買う。森川町では満州から帰還した徳田雅彦とひさびさに対面。本郷三丁目で徳田一穂とコーヒーを飲んだあと、上野へ歩いて、いつものように常磐線に乗る。

階段を昇りきったトタンに常磐線が出てしまい、(九時五十分)ちょうど三十分待たされて、十時二十分発に乗ったが、十時二十七分発の杉戸行きは定刻どおり出てしまったため、とうとう東武の最終には乗りおくれることとなり、やむなく上野、神田乗換えで市ヶ谷に至り、一雄君の家を叩き起して泊めてもらう。夕刻から、おそろしく冷たい風が吹きはじめて、真冬のように寒い。十二時すぎに街を歩いたのは、久しぶりだった。

と、この日の日記が結ばれている。北千住発10時27分だから、浅草の最終電車の発車はもっと早い時刻。昭和24年3月には終電車は杉戸行き22分35分となっているけれど、それでもまだまだ早い。




f:id:foujita:20111121215545j:image

前掲の浦原利穂写真集『終戦直後 東京の電車』には、同年8月の横須賀線の写真も載っている。《モハ32037 超満員の東京行き横須賀線電車。昭和7年、川崎車両で13両(32033〜32045)製造された32形最後のグループ 大船 昭和21/1946.8.12》とある。東武電車と同じように、こちらも満員電車。




f:id:foujita:20111121215546j:image

横須賀線が新橋駅に到着すると、こんな感じの視界を得ていたのかな、ということで、浦原利穂写真集『終戦直後 東京の電車』より、《クハ38010 昭和6年 川崎車両で13両製造の最後のグループ。日車製6両と合わせて計19両が在籍した。その中で唯一クハ38形の連合軍軍用車。38010、12、16.18、22の6両は昭和12〜14年に大ミハ区にて活躍した。朝の横須賀線ホームから撮影 山手線 新橋 昭和22/1947.7.19》。微細にわたる車両解説が素敵だ。いくつかの近代建築とおなじように占領下、連合軍に接収された車両があった。



高見順を見舞った前月の昭和21年9月12日の日記には、《昨日は仲秋の名月であったが、今日もよい月で、東武から見る、荒川放水路の月は、田舎に帰る者の目に、かなしいほど美しかった。》という一節がある。すっかり、「流人」の心境が板についている野口冨士男である。



f:id:foujita:20111121215547j:image

引き続き、浦原利穂写真集『終戦直後 東京の電車』より、《東武鉄道 デハ103 米軍向けの道路標識は100ヤード先の踏切を表す。荒川放水路 北千住〜小菅 昭和22/1947.7.18》。『越ヶ谷日記』の表紙になっているイラストを日記帳に描いた野口冨士男とおんなじように、米軍向けの標識は、はるばる大阪から鉄道写真撮影にやってきた浦原青年の感興を大いにそそった。



f:id:foujita:20111121215632j:image

同じく、浦原利穂写真集『終戦直後 東京の電車』より、《東武鉄道 サハ8+クハ1201+デハ73 伊勢崎行き急行、1М2Tの三連。最後部サハは運転台が無いので、必ず後部か中間に連結される。荒川放水路 北千住〜小菅 昭和22/1947.7.18》。急行電車すら当時の東武電車は3両編成。



f:id:foujita:20111122224724j:image

《常磐線 C50形 下り普通列車 亀有ー北千住 昭和11/1936-2-13》、『西尾克三郎 ライカ鉄道写真全集2』(プレス・アイゼンバーン、1992年11月27日)より。撮影場所は、東武鉄道の鉄橋近くにあった渡し船の上とのこと。北千住駅を出発した常磐線と東武線は、荒川の鉄橋を並行して渡り、次の停車駅はそれぞれ、綾瀬(昭和18年4月1日開業)と小菅。『越ヶ谷日記』の野口冨士男が東京へゆくたびに、眺めていた鉄橋。





野口冨士男の『越ヶ谷日記』で嬉しかったことのひとつが、昭和21年11月8日に野田醤油で「小説読書の必要」という題で講演をしていること。謝礼は、醤油の一升瓶詰め2本と100円、車代10円。越ヶ谷から野田までバスで出かけている。

 講演は三時半からということだったが、その前に工場を見せてもらう約束になっていたため、すこし早く家を出たところ、十二時半ごろ着いてしまったので、野田の町を歩いてみる。大した町でもないが、道路に塵ひとつ落ちていないのは、このごろとして、珍しいことだと思った。これは、いったい、どうした加減なのだろうか。一つも戦災の跡のない町で、戦争は何処にあったかという気にもなる。

 二時すこし前、本社に岡野君を訪ね、間もなく来た根本繁君と両名の案内で、工場を次から次へと案内してもらう。日本全国の需要量の三分の一は、この一工場によって充されるというだけあって、さすがに規模は大きい。自動式によって瓶に詰めたり、レッテルが貼られたりすることには駭かないが、諸味の貯蔵所の広大さだけは、ちょっと駭いてもよい。この付近の町のなかでは、いちばん舗装道路が多いというのも、この会社があるがためだろう。町民は、また、この会社の恩恵を蒙って、どの家にも水道が敷かれているという。

いつもながらにクールな分析にシビれる。「見る人」としての野口冨士男の面目躍如たるものがある。




f:id:foujita:20111122234534j:image

戦前の沿線案内《総武電車沿線案内》より。総武鉄道は昭和19年3月1日に東武に合併されて「東武野田線」となった。この沿線案内に描かれる「総武電車」の北を走る「東武線」は、越ヶ谷と西新井の駅名しか描かれていない。越ヶ谷には「桃林」が描かれている。野口冨士男の戦前の小説に『桃の花の記憶』(初出:『青年藝術派 新作短篇集』(昭和16年4月)→『眷属』大観堂・昭和17年4月)というのがあって、もちろん越ヶ谷がモティーフになっている。越ヶ谷出身の夫人との結婚後に書かれた小説。




f:id:foujita:20111122234535j:image

上の沿線案内より、野田の醤油工場附近を拡大。これは戦前の沿線案内だけれど、『越ヶ谷日記』にある野田の描写が彷彿としてくるようだ。



敗戦後の野田といえば、まっさきに小津安二郎のことを思い出すのである。小津は昭和21年2月に復員後、昭和27年2月に北鎌倉に定住するまで、母の疎開先(小津の妹が野田の醤油会社「キノヱネ醤油」の山下家に嫁いでいた)だった野田に居住していたのだった(野田町清水一六三)。『小津安二郎・人と仕事』(蛮友社、昭和47年8月)によると、小津は昭和21年2月12日に帰国、高輪の家にゆくと無人、近所のひとたちから母の消息を聞き、その夜は品川の旅館に停まった。《弟信三は、撮影所へ現われるものと思い、大船で待っていたのだが、あとで「すぐ会社へなんか行くものか」と怒られた。》とのことで、つい頬が緩む。翌日、野田へ移り、昭和27年5月2日に北鎌倉に引っ越すまで、小津は野田の住人だった。


復員後の小津は1年以上、休養。この間の日記は残されておらず、田中眞澄編『全日記 小津安二郎』(フィルムアート社、1993年12月12日)を繰っても、昭和21年11月8日、野口冨士男が野田を訪れたとき、小津はどこにいたのかはわからない。田中眞澄『小津安二郎周遊』(文藝春秋、2003年7月)によると、復員した昭和21年2月のうちに、熱海で清水宏と井上金太郎と会って久闊を叙していて、5月ころには京都へ彼らを訪問しているという。野口冨士男と小津安二郎、復員後のそれぞれの日々を思うと、なにかと感慨深い。日記の翻刻は、その書き手のみならず、その時間を場所を共有しているいろいろな人物にも思いが及んで、いろいろな芋づるがたのしい。


昭和22年5月20日に封切られた『長屋紳士録』が、小津安二郎の戦後第1作となった。そのスクリーンに映る「東京」を見て、『越ヶ谷日記』の野口冨士男が歩いたり見たりしていた「東京」をおもう。敗戦時の久保田万太郎の俳句、《何 も か も あ つ け ら か ん と 西 日 中》を思い出す。



f:id:foujita:20111121215634j:image


f:id:foujita:20111121215635j:image


f:id:foujita:20111121215636j:image


f:id:foujita:20111121215637j:image

小津安二郎『長屋紳士録』(松竹大船・昭和22年5月20日封切)より、預かっているみなしごの青木放屁を探しに飯田蝶子があてどなく近所を歩くシークエンス。長屋の場所は築地本願寺の近所に設定されている。焼野原のなかにポツンポツンと近代建築が残り、その合間に木造の低層の家屋が点在している。空がなおのこと広く頭上にのしかかる感じがする。この映画の封切の1年前の昭和21年5月16日に、野口冨士男は《このごろ東京に至り、家屋というもののなき焼跡の町を歩くごとに感ずるは、その空気の澄みて光線の明るきことなり。明るさとは、哀しみの紙一重とも言うべき存在にあらざるか、これを疑う。》と書いている、そんな「東京」がここにある。





『越ヶ谷日記』を手にして、まっさきにページを繰ったのは、昭和20年末から21年年明けの、野口冨士男が敗戦後に初めて浅草に行ったあたりの日々。『わが荷風』(初出:「青春と読書」昭和48年3月号から昭和50年2月号まで12回連載→集英社・昭和50年5月→昭和58年3月の中公文庫化に際し大幅に修正)と『私のなかの東京』(初出:「文學界」昭和51年10月から昭和53年1月に断続連載→文藝春秋・昭和53年6月)等でずっと印象に残っていた。昭和20年末から昭和21年年明けという。『私のなかの東京』の「浅草、吉原、玉の井」では、

 永井荷風の日記『断腸亭日乗』昭和二十三年一月九日の記述だが、《仲店両側とも焼けず。》というのは精確さを欠くので、私は拙著『わが荷風』にも《建造物そのものは残っていても内部は焼失していた。》と書いておいた。海軍に応召中東京の家を強制疎開で取り壊されたために、復員後埼玉県の越ヶ谷へ疎開して栄養失調症の回復につとめていた私が戦後はじめて浅草へ行ったのは二十年の暮か二十一年の新春であったが、仲見世の建造物は火をかぶって、罹災者には申訳ない表現ながら、ピンク色に変色していたのを美しいと思ったことが忘れられない。したがって、荷風が《仲店両側とも焼けず。》と記述していることは、彼が《罹災後三年》経ってから浅草をおとずれたとき、すでに仲見世は復興して以前の朱塗りにもどっていた状態を示していることになるのかもしれない。

 そのときの私自身の記憶をもう一つ二つ書いておけば、瓢箪池のほとりには塩でゆでただけのイカを売る店がずらりとならんでいて、吉原遊郭の求人募集の立札がやはり池畔に立っていた。その時分にはすでにパンパンが巷にあふれていたが、その立札は、実質はどうあれ表面的には、親のため家のためという前借による年季制度としての人身売買がなくなって、当人の自由意志による売春の時代に入ったことを物語るものであった。それから、松屋の傍のミルクホールのような店で、妻子とともにバナナの形をした白アン入りのカステラ風な菓子を一人が二個ずつ注文して食べたところ、三人とも甘すぎて一個だけで満腹してしまったことも忘れがたい。いかにわれわれが甘味から遠ざかっていたか、その好例としていまなおわが家では笑い話になっている。

というふうに回想されている。ちなみに、敗戦後の仲見世について、『私のなかの東京』の3年ほど前に書かれた『わが荷風』では、荷風の戦後初の浅草行きの日の昭和23年1月9日の『日乗』を紹介したあと(荷風は浅草橋で省線を下車し、三ノ輪行き電車で菊屋橋より公園に入っている)、

 私が戦後はじめて浅草へ行ったのは二十年の暮か二十一年の新春だが、そのときの記憶によれば、仲見世の建造物そのものは残っていても内部は焼失していた。そのため《仲店両側とも焼けず。》という荷風の記述にも疑問をもって浅草に戦前から住んで現在も在住する旧友に電話で問合わすと、彼も仲見世は焼けなかったといった。しかし、私にはあの朱塗の建造物が火をかぶって、罹災者には申訳ない表現ながら、ピンク色に変色しているのをいい色だ、美しいと思った印象があるのだがと言うと、その意味なら焼けましたよと友人は応えた。荷風が《罹災後三年》経ってから浅草を訪れたとき、仲見世の建物は復興してもとの朱塗にもどっていたのであろう。

というふうに、『私のなかの東京』での記述が、友人に問い合わせた上での確信(文章では「なるのかもしれない」というふうに周到に留保ししつも)であることがここで裏づけられている。戦後初の浅草行きについて《二十年の暮か二十一年の新春》のどちらかはっきり断定していないのは、昭和20年の日記が10月11日をもってふっつりと途絶えて、昭和21年1月10から日記が再開されているからだということが、『越ヶ谷日記』を読んで判明した。ひさびさに日記を書いた昭和21年1月10日はさすがに記述が多いて、読み応えたっぷり。《昨日》、《帰途浅草にまわって電気館にゆき、「グランド・ショウ」という和製のレヴュウ映画を見たあとで東武線の駅へ来ようとした道の暗がりで》、煙草はいりませんかと声をかけられたというくだりがある。




f:id:foujita:20111121215638j:image

桑原甲子雄の写した1946年の浅草、桑原甲子雄『東京 1934-1993』フォトミュゼ(新潮社、1995年9月25日)より。写真家による巻末の解説には、《「浅草区復興まつり」の看板が見える。背後の斜めのストライプのビルは、浅草地下鉄ビル。戦闘帽姿の人々も見えるので終戦直後の浅草駅前である。昭和22(1947)年に、浅草区は下谷区と合わせて台東区になった》とある。




f:id:foujita:20111121215639j:image

おなじく、桑原甲子雄『東京 1934-1993』より、《墨田区吾妻橋附近 1945-1950年》。『浮沈』はヒロインが栃木から東武電車で松屋の2階の浅草駅に到着する場面ではじまる。『浮沈』のヒロインとおなじように、越ヶ谷からの東武電車で野口冨士男は戦後初めて浅草に来たのかもしれない。松屋の左に地下鉄ビルの建物が見える。越ヶ谷時代に書かれ、このたび刊行の『越ヶ谷日記』にも収録されている『薄ひざし』(初出:「新文芸」昭和21年6月→『しあわせ』講談社・平成2年11月)に《外側だけは残ったけれども中身ががらんどうになってしまった松屋百貨店》という一節がある。



昭和21年の新春というと、「中央公論」(昭和21年1月1日発行・第61巻第1号(再建第1号))、「展望」(昭和21年1月1日・第1号)、「新生」(昭和21年1月1日・第2巻第1号)の3誌に、永井荷風が戦時下に書きためていた作品が一気に3つ、それぞれ『小説 浮沈』(全6回のうち第1回として「第一」〜「第九」)、『踊子』、『勲章』が掲載されたころにあたる。永井荷風の復活は、『感触的昭和文壇史』にある《戦後日本文学史は老大家の復活からはじまった。》の象徴だった。まさに夜が明けた感じだったに違いない。昭和20年12月21日付けの串田孫一宛て書簡に戸板康二は、

「展望」と「新生」の荷風のものよみました。前者は「踊子」(百枚)後者は「勲章」。「踊子」は「ひかげの花」以上の不思議な筆力で、今様春水とでもいいたいもの。刺激がつよすぎる気がしました。「勲章」の話は川尻清潭翁からきいていた話の方が面白かったようです。

と書いている(串田孫一『日記』実業之日本社・昭和57年7月)。みんな荷風の復活には注目せずにはいられなかったのだ。『越ヶ谷日記』には、荷風の3作品を読んだときの直接の読後感は記されていないけれど、おそらく日記が中断していたときに、野口冨士男は荷風が戦時中に書きためていた作品を読んだのだろう。『わが荷風』で、

あらゆる芸術作品の価値判断が、多かれ少なかれ時代背景によって左右されることはやむを得まい。私個人にかぎっていえば、人間性のひとかけらもない軍隊生活から解放されてきて、眼に触れるものといえば荒涼たる焦土以外になにものもなかったとき、ああ、荷風は戦時中にこういう作品を書いていたのか、書いてくれていたのかと、「展望」誌上ではじめて『踊子』に接したときの感動を忘れがたい。そこには、作品からあたえられた感動と同時に、そういう生き方をした文学者としての荷風への感動が二重に重なっていた。

と、《戦時中作第一等の作品》であるとする『踊子』を初めて読んだときの感動を語っている。昭和20年年末に一挙に世に出た荷風の「戦時中作」はいずれも浅草を舞台にしている。野口冨士男が戦後初めて浅草に行ったのは《二十年の暮か二十一年の新春》だった。昭和20年の年末に『浮沈』と『踊子』と『勲章』に触れたことに刺激されての浅草行きだったかもしれない。そういう想像をせずにはいられない。





『越ヶ谷日記』でもっとも頻繁に登場する文学者は間違いなく永井荷風だろう。最初にその名前が登場するのは昭和21年3月10日。東京までの東武電車の車中で荷風の『冬の蠅』を読んだ5日後の3月15日には、「新生」誌上に掲載の荷風の『罹災日録』を読んで、

同誌にて荷風先生の「罹災日録」を読み、「浮沈」「勲章」「踊子」等の近作よりも、この日誌の上に、より感銘を深くす。

わたくしは日常聞ゆる世間の出来事を記載することを好んでゐる。然しながら之に   就いて是非の議論を試ることを欲しない。わたくしの思想と趣味とはあまりに遠く、過去の廢滅した時代に屬してゐることを自ら知つてゐる故である……。「枇杷の花」(「冬の蠅」所収)

これが、先生の自作に対する渝らざる態度なるも、先生の文章読むことのうれしさは、さらに、先生特有の事物の観方が持つ角度とも言い得べし。即ち、「罹災日録」二月二十五日の項には、次のごとくあり。

日曜。朝十一時半起出るに三日前の如くこまかき雪となりゐたり。飯炊かんとする時隣人雪を踏んで來り午後一時半米國飛行機何臺とやら襲來する筈なれば心せよと   告げて去れり。心何とも知れず落ちつかねば、食後秘藏せし珈琲をわかし砂糖惜し氣なく入れ、パイプにこれも秘藏の西洋莨をつめ徐に烟を喫す。若しもの場合にもこの世に思い殘すこと無からしめむとてなり。

気骨と言わんには、あまりにも弱き反抗なり。されど、この反抗(?)に惹かるる読者こそ、荷風氏の読者なりと言うべし。或はまた、微笑ましく可憐なる江戸ッ児魂と言うべきか、不識。

と綴っている。ちなみに、戸板康二は3月6日付けの串田孫一宛て書簡に、野口冨士男とおなじように『罹災日録』を読んだ感激を、《「新生」の三月号に荷風が去年の元日から六月廿日までの日記を出しています。終戦後みたあらゆるものの最高を行くものといえましょう。》というふうに伝えている(串田孫一『日記』実業之日本社)。東京のまんなかの築地で演劇記者をしていた戸板康二は、越ヶ谷の野口冨士男よりも早くに雑誌を入手できていたようだ。さて、野口冨士男は3月15日に『罹災日録』を読んで胸を熱くしつつも、昭和21年7月28日には、

「展望」誌にて、荷風氏の「問わずがたり」を読む。百五十枚の力作なれど、この一作のみにては特に言うべきものにはあらじ。ただ、氏の作歴をかえりみ、それに思いあわする時、荷風も此処に至りしかと思わるるもののあるなり。痒さたえがたし。

というふうに書いているのだ。『わが荷風』で書かれていることはすでにここに確固としている。野口冨士男はこのあと、『新橋夜話』を読みなおしている。そして、『罹災日録』を初めて読んだ日の日記帳に、「江戸ッ児」という言葉を残した野口冨士男は後年、『わが荷風』の刊行とほぼ時をおなじくして書かれた「荷風メモ」(初出:「ちくま」昭和50年10月→『文学とその周辺』筑摩書房・昭和57年8月)に以下のように書く。

荷風という人は、実に計画性をもった行動人で、宵越しの金を持たないという東京人とは(精神的に)対蹠的な人物だ。私は荷風に江戸ッ児を感じない。彼には淡白なところがまったくない。『日乗』ばかりでなく、作品を読んでいても、いやな奴だと思うことがある。そういう点をふくめて、しかし、けっきょく私は荷風を尊敬し、荷風が好きなのだ。どこかにいやみなところや、アクの強さのない作家など大した作家ではない。荷風は、その象徴的な作家なのかもしれない。

これが野口冨士男の帰結だった。『越ヶ谷日記』からに『わが荷風』へ。野口冨士男の三十年の歳月をおもうと、万感胸に迫るものがある。




f:id:foujita:20111121215640j:image

徳田秋声『縮図』(小山書店・昭和21年11月20月第二刷=昭和21年7月10日初版)。挿絵:内田巌。樽見博『内田巌−「岩が歌ふ」』(「BOOKISH」第8号《画家のポルトレ》所収)によると、昭和21年7月の初版に9点挿入された挿絵は、11月の再版ではすべて差し換えられているという。初版も手元に置いておかねばと思い続けて数年、いまだにわたしの本棚にはこの第2版しかない(『現代日本文学館8 徳田秋声集』(文藝春秋、1969年)には20点収録されているとのこと。)。


『越ヶ谷日記』のまっただなかの昭和21年8月、秋声の『縮図』が初めて単行本化された。野口冨士男はこの本を8月28日に森川町で徳田一穂から受け取っている。その直前、8月21日と22日に手元にある新聞切り抜きで『縮図』を読んで、

「縮図」読了、ウーンとうなる心地なり。殊に後半より末尾に至るあたり、筆力の冴えは言葉もなきまでなり。

というふうに書いている野口冨士男なのだった。このくだりを目にしたときも万感胸に迫るものがあった。のちに、『徳田秋聲伝』と『徳田秋聲の文学』をものした野口冨士男は、『縮図』を読む直前の8月19日の日記に、《秋聲全集にて「黴」を少し読む。この作、以前にも感じしことなりしが、テンスの錯綜はなはだしく、殊に頭脳の冴えざる今日など、ほとんどその内容つかみがたり》と書いていたりもする。野口冨士男に出会ったあとで、わたし自身、徳田秋声の文学に耽溺して現在に至っているけれども、『黴』を骨の髄まで満喫できた(と自分では思っている)のは、『徳田秋聲の文学』所収の「『黴』とその周辺」のおかげだった。



秋声といえば、『越ヶ谷日記』を読んで微笑ましかったことのひとつが、昭和21年5月31日の日記にある以下のくだり。この日の野口冨士男は、上京の折にフィリップの『若き日の日記』を読んで、徳田一穂を訪問しているのであるが、

白鳥氏の「展望」誌に所載せられしお作のことなど話せしところ、正宗さんは、資生堂なんかで一緒に珈琲を飲んでも、自分の勘定の十銭玉を一つだけ、パチンとテーブルの上に置いていくような人ですよとの一穂氏の話なり。財乏しけれど、何人分の勘定でも支払わんとせし秋聲先生との対比面白し。

このくだりを目にした瞬間は、『私のなかの東京』の「銀座二十四丁」でおなじみのエピソードだ! と頬が緩んだ。秋声を囲む「あらくれ会」の月例会が馬場先門の明治生命本社地階で開催後、タクシーで一同はしばしば資生堂へ行った。

そんなあるとき先客の正宗白鳥も同席したが、白鳥が席を立ったとき自身のコーヒー代として十銭玉と五銭玉とを伝票とともにテーブルに置くと、秋声はそれと私たちの伝票とを一緒にレジスターへ持っていって勘定を支払った。門下の分を支払った秋声と、自分の分だけ支払った白鳥との対比は、当然といえば当然ながら、どこか彼等の文学に通じるものがありはしないだろうか。

というふうに、『私のなかの東京』で徳田一穂の談話が昇華されているのだった。




f:id:foujita:20111121215641j:image

石川光陽《資生堂パーラー 昭和9年7月》、図録『警視庁カメラマンが撮った昭和モダンの情景 石川光陽写真展』(旧新橋停車場鉄道歴史展示室、2010年10月)より。《モダンな雰囲気の資生堂パーラーでは、アイスクリームやソーダ水、本格的な西洋料理が供され、多くの文化人や新橋の芸者衆、モボ・モガに愛された》という解説が付されている。



f:id:foujita:20111121215642j:image

《資生堂――殊に二階にロッヂをめぐらし、上と下の部屋を連絡させたあたり、本場の巴里のそれを見るやうで、若い人達を喜ばせてゐます。》、白木正光編著『大東京うまいもの食べある記』(丸ノ内出版社、昭和8年5月15日再版発行=昭和8年4月30日発行)、和田博文監修/近藤裕子編集『コレクション・モダン都市文化 第13巻 グルメ案内記』(ゆまに書房、2005年11月)より。

 晩飯時間の銀座の資生堂は、いつに変らず上も下も一杯であった。

 銀子と均平とは、暫く二階の片隅の長椅子〔ソファ〕で席の空くのを待った後、やがてずっと奥の方の右側のところへ座席を取ることが出来、銀子の好みで此の食堂での少し上等の方の定食を註文した。……

というふうに、秋声の『縮図』は銀座の資生堂ではじまる。



白鳥と秋声のエピソードのみならず、『越ヶ谷日記』には、のちの『私のなかの東京』の萌芽をあちらこちらに見出すことができて、そのたびに胸が躍って仕方がなかった。たとえば、昭和21年6月5日、貯金局での所用のため、子供時分よりおなじみの三田界隈を訪れて、初めてその焼跡を目の当たりにするくだり。

……午後一時、神田橋より目黒行都電にて赤羽橋に至り、元簡易保険局の貯金局に至る、途中、田村町のあたりより、御成門、増上寺、芝園橋、赤羽橋、三田のあたりは、見るも無惨なる焼跡にて、復興も他の地域よりはいっそう遅れおる模様なれど、三田警察署の脇より入りて、第六高女、赤羽国民校、貯金局のあたり、即ち往年の有馬ヶ原址は何らの火害なく、新緑に蔽われて、なつかしき往時のままなり、但し、三井家集会所はミツイホテルとして進駐軍宿所となりてありたり、窓口にて待ちてあるあいだに雨勢そのはげしさを加え、二時半三百円を受取て出でしころは、アスファルトを打つ雨脚も烟りあがるかと見ゆるばかり、ふたたび赤羽橋より都電に投ず、芝公園内には進駐軍用のテニス・コート出来、芝プールもまた接収せられて、美しく塗装されてあり、増上寺には楼門のみ残して本堂のあたりは虚しく灰燼と帰しておりたり、和田倉門にて下車……

このあと、丸ビルへ牧屋善三を訪ねて、旧知の小島ひさ子に再会する。混雑のため都電に乗ることができず牧屋と本郷森川町まで歩いて、秋声旧宅で徳田一穂と水上勉と落ち合い、いつものように上野駅で常磐線にのって、家路をゆく。


『私のなかの東京』は「外濠線にそって」ではじまる。牛込界隈から慶應義塾幼稚舎のある三田界隈まで通学していた子供時分の思い出の「外濠線」から野口冨士男の『私のなかの』ははじまっている。『越ヶ谷日記』の野口冨士男は、昭和21年7月25日と8月1日に牛込界隈の焼跡を目の当たりにすることとなった。6月5日にその焼跡を見た三田界隈から「外濠線」の経路に沿うようにして牛込の地に降り立った野口冨士男。

……万世橋より市電にて新宿にむかう。途次、牛込あたりの焼跡をはじめて目視するも、いっこうに復興の様子なし。過日、芝赤羽橋付近に見たる焼跡は、いまだ整理もつかず惨憺たるありさまなりしも、このあたりは整理のみ終わりてあれば、何かいっそう明るく、その明るさに虚しさをおぼえたり。……

と、7月25日に都電の車窓から牛込界隈を見た野口冨士男は1週間後の8月1日、牛込の地に降り立つ。

……日暮里にて、戸塚に赴く直子とはいったんわかれ、一麦とともに飯田橋駅まで直行。久しぶりにて牛込見附の土手公園にのぼる。鉄柵は取られ、昔の面影は見るべくもあらざるも、眼下の濠にはボートも復活し、ペンキの色剥げたる舟上にはアメリカ兵と同乗の娘子もすくなからずして、ふと、緑色の鳥打帽をいただき、下村玉太郎君と此処に来りてボートに乗りし幼稚舎時代のことなどを思いうかべ、ポツポツと降り来るも陽光輝きてあれば、堤上にて腰を降し、煙草などふかしつつ、一麦とともに小憩。逓信病院脇より坂をのぼりて、女子商業(元、軍医学校)校門の前に至るころより、またしても雨降りはじむ。白百合女学校前をすぐるころ、沖縄基地を発せるB29の連隊、十機ほど飛翔してゆくを仰ぐ。遊就館は焼け残りたれど、近く映画館になる由にて、山階宮邸は門塀のみ残り、囲内に立派やかならざるバラックなど建ちたる様子なり。……

というふうに、このあたりの筆致はまさに『私のなかの東京』を書いたその人の姿が躍如としている。



f:id:foujita:20111121220425j:image

師岡宏次《終戦直後の銀座通り、走っているのは進駐軍トラックだけ。(1945)》、師岡宏次写真集『オールドカーのある風景』(二玄社、1984年1月10日)より。



『私のなかの東京』の「銀座二十四丁」で、《昭和三、四年にはじまって十三、四年ほどまでをピークとして、太平洋戦争下の十九年秋に海軍へ召集される直前まで続いた私の銀座がよいは、いまからおもえば熱病のようなものであった。》と綴られている野口冨士男の「銀ブラ」時代。

だから、どこの誰とも知らずに視線が合えば会釈をかわす相手も生じてくるわけで、敗戦直後の銀座街頭でそういう一人にゆきあったとき、「やあご無事でしたか、よかったですね」と私は握手をもとめられた。が、それはそれだけのことで、そのときにも私たちは氏名を名乗り合ったりはしなかった。戦前と銀座とはそういう場所で、「銀ブラ」とは、そういうものだった。

と、ここで書かれている敗戦直後の銀座街頭のような、『私のなかの東京』のなかの「東京」が、文字にはなっているかいないかは別にして、『越ヶ谷日記』のあちらこちらにひそんでいる。「銀座二十四丁」で紹介されている野口による芝木好子の『築地川』の書評のマクラ、

学生時代に私は築地小劇場の帰途、何度となく築地川にかかっている亀井橋をわたって銀座へ出た。橋のたもとには小林多喜二が虐殺された築地署があった。川の正面は新橋演舞場で、その左手が東劇である。敗戦直後にも私はおなじ川べりを歩いて、水面に直径三十センチほどもあるクラゲが無数にうかびただよっているのをみた。隅田川にみちる潮がこの掘割川にはいって来るためである。

というような情景を、たとえば東劇の地下へ人を訪ねる日の『越ヶ谷日記』を読んでいるときに頭に思い浮かんだりするのである。



『越ヶ谷日記』で野口冨士男はさまざまな人に会っている。慶應幼稚舎の友人である森武之助(敗戦直後は鎌倉で佐野繁次郎と同居している)、文化学院の友人の山口年臣、紀伊国屋書店出版部の上司の豊田三郎や、十返肇や青山光二に牧屋善三といった「青年藝術派」の仲間や徳田一穂などの文学仲間の名前がさかんに登場する。みんな野口冨士男の読者にはおなじみの名前だ。そんな多くの人びとと、『越ヶ谷日記』に登場するあちらこちらの「東京」、野口冨士男が読んでいる本や買っている本といった、いろいろな固有名詞や風景とが交錯は、のちの野口冨士男の文学の「原石」を見るような感じがする。のちに、いろいろな著作や作品として、「文学」に昇華させていった「原石」は、「原石」しか持っていない生々しさと同時に、「原石」にしかない美しさを持っている。



f:id:foujita:20111122222845j:image

《富本憲吉の装幀画。「巷の空」のために描かれたが刊行されなかったため、後年『しあわせ』に使われた》、図録『野口冨士男と昭和の時代』(東京都近代文学博物館、平成8年10月21日発行)より。『しあわせ』(講談社、平成2年11月)のあとがきにある、

 なお本書の装画だが、私は戦時中の昭和十八年、八百枚の書きおろし長篇(一部を二、三の雑誌に発表)を擱筆して日本出版会へ企画届を添えて出版許可を願い出たところ、不急不要のゆえをもって用紙割当てがもらえなかった。しかし、戦後それをおぼえていてくれた人があって、関西系の一書肆から出版されることになったとき、私は学生時代から友人として親近していた今は亡き富本陽(筆名=陽子)さんを通じて彼女のご尊父富本憲吉氏にご染筆をお願いしてご快諾を得られた。

とある経緯を、『越ヶ谷日記』でヴィヴィッドにたどることができる。昭和21年9月12日に御影文庫から出ることになった長篇(『巷の空』)の装幀者が富本憲吉と決定し、9月16日に野口冨士男は成城の富本邸を訪問する。富本憲吉は不在であったが、文化学院時代の旧友の富本陽子と久闊を叙し、ことづてを頼む。続いて、この日は「青年藝術派」の井上立士の三回忌の前日にあたっていたこともあって、成城に来たついでに狛江の青山光二を訪問している。しかし、『どん底』の芝居を見るからと言って断る青山光二。そして、翌日の9月17日にはやはり文化学院の旧友の山口年臣に戦後初めて会ったりしている。10月10日、富本憲吉の装幀を受け取った日、

富本氏の装幀は、妙にデクデクしていて、一と目見た時には気に入らなかったが、家に戻って、大きな紙に描かれているのを、本の大きさに畳んだりみたりしているうちに、だんだんよくなって来た。やはり、駆け出しの連中の物とはいっしょにならない。一定の技術水準というものは、イヤになるほどどうにもならないものだ。三流の人間が一生懸命にやったものより、一流のいいかげんにやった物のほうがよいというのは、どういうことなのだろう。「年期」という言葉で片付けてしまってよいのだろうか。もちろん、富本氏の仕事がいいかげんだというのではない。その問題とは別に、そういうことを考えさせられたのだ。

というふうに、野口冨士男は書いている。



f:id:foujita:20111122224723j:image

昭和21年10月10日に受け取った富本憲吉の挿画は、野口冨士男の最後の作品集となった『しあわせ』(講談社・平成2年11月22日)に使用された。最後の作品『しあわせ』(初出:「群像」平成2年9月)をタイトルとする本書には、『薄ひざし』(初出:「新文芸」昭和21年6月)と『うしろ姿』(初出:「文明」昭和21年9月)の「越ヶ谷」時代に書かれ、「越ヶ谷」を舞台にした作品が収録されている。





先月末、越谷市立図書館の「野口冨士男文庫」の特別展示を見た。このたびの『越ヶ谷日記』の刊行にちなんだ展示のなかに、平成2年11月26日の日付のある八木義徳の書簡があった。『しあわせ』受贈の所感を綴ったもので、


《敗戦直後のあの混乱期にもかかわらず、静謐といっていいほど文章が静かで落ち着いて、気負いらしいものが全くないのに驚きました。》


《その静謐な文章を支えているのは、越谷という町の持つ「自然」も有力であろうけど、それ以上に母上の死に対する悲しみが太い底流として作品の底を流れているからだろうと思いました。》


《「薄ひざし」から「しあわせ」に到る四十四年間の貴兄の作家としての道程に同時代を生きてきた者の一人として、いまさらながら深い感慨》


《貴兄の「人間を見る眼」はこの四十四年間少しも変っていないのではないか、逆に言えば、貴兄は「薄ひざし」で持った眼を四十四年間一貫して持続してきたのではないかという気さえします。》


……というようなことが書かれてあった(帳面に大急ぎで筆写したので語句はこのままではないかもしれない)。『越ヶ谷日記』を読了して、ズシリと思い出したのがこの八木義徳の手紙にある、44年間の野口冨士男の「作家としての道程」のこと。一読者として、わたしも「いまさらながら深い感慨」、この一語に尽きる感じだった。野口冨士男の最後の作品集となった『しあわせ』の奥付のちょうど3年後、平成5年11月22日に野口冨士男は他界した。生誕百年を記念して刊行された『越ヶ谷日記』の奥付と同じ日付である。

20110521

銀座線で渋谷へ。地下鉄と東横百貨店と東横電車の1930年代渋谷。

昼下がり、神保町を切り上げて半蔵門線に乗りこみ、表参道で銀座線に乗り換えて、渋谷で下車。丸ノ内線の四ツ谷駅の地上に出る瞬間や、同じく丸ノ内線の御茶ノ水駅に入る直前に聖橋のふもとの神田川の脇に出る瞬間とおなじように、終点の渋谷駅に到着する直前の銀座線がトンネルから高架に出る瞬間もいつも胸躍る。



f:id:foujita:20110604131314j:image

荻原二郎《1939年8月9日 東京高速鉄道渋谷駅》、荻原二郎著『昭和10年東京郊外電車ハイキング(下)』RM LIBRARY 71(ネコ・パブリッシング、2005年7月)より。




f:id:foujita:20110604131315j:image

ゾロゾロと人びとが改札の外へと吐き出されていったあとの閑散としたホームで、表参道方面の地下線路をのぞむ。右は普請中の東急文化会館の跡地で、左が宮益坂。青山の高台は地下線路で、銀座線の終点・渋谷駅は山手線の上の高架に位置する。すなわち、まっすぐ進むとおのずと線路のさきは地下線路となり、渋谷は文字どおりに「谷」だということを実感する。現在の渋谷・表参道(当初の駅名は「青山六丁目」)間の開業は昭和13年12月20日。





子供時分から特に気にとめることなく通り過ぎていた、古びた建物のあちらこちらに残っている竣工当時の「1930年代東京」の残骸が嬉しいなと、ここ何年か、折に触れて戦前竣工のターミナル駅とその周辺の見物をたのしんでいる。昭和6年5月竣工の東武ビルディングの浅草駅に夢中になったのを機に(→「日用帳」2009年9月13日付け:id:foujita:20090913)、おのずと思いは、浅草発の地下鉄道がどんどん延びていった「1930年代東京」のありようへと及んでいった。



f:id:foujita:20110604131317j:image

もうすっかりおなじみの杉浦非水のポスターだけれど、いつ見ても何度見ても大好きなポスター。昭和2年12月に浅草・上野間の開通以後、ズンズンと延びゆく地下線路を思うと、このポスターを初めて見たときとまったく同じ胸の高まりを感じずにはいられない。

 毎日汲み出すといふレエルの間の溝に澱んだ水を眺めてゐると、向うからカアがやつて来た。それが停ると、こちらのカアが警笛を鳴らして、無愛想なセメントの壁のなかを走り出した。墜道の天井の灯がこぼれるやうに車窓の上部から掠めて過ぎる。

 駅々には薬やキネマや醤油などの広告が、生々しいセメントの匂ひにすさんだ薄闇の地下道に色彩的な享楽を与へてゐる。商業主義の広告さへ、ここだけではたつた一つの芸術品だ。「いなりちやう」「たはらまち」「あさくさ」と突進して行く先き先きで、それらは快い色調を発散する。

 我々の頭上の大地では、軍隊が行進してゐるかも知れない。積み過ぎた貨物自動車が撓つて走つてゐるかも知れない。どんな素晴らしい出来事がいつ起るかも知れない。けれども、そんなことには白痴の如く無関心な世界がこゝにある。全線一哩三分、ゆつくり走つて五分時の間は、少くとも我々は現実世界から遊離して、ソロモンの壺にでも封じ込まれてゐるやうな妖精じみた感触を全身に感じながら、はるかに知らぬ世界を旅行してゐるのだ。


【上林暁「地下鉄道見参記」(「改造」昭和3年3月号 - 『増補改訂 上林暁全集第十四巻』(筑摩書房、昭和53年7月増補改訂版発行)より】

上林暁が、東大英文科を経て改造社の公募に見事通過して、「改造」の編集者になったのが昭和2年4月のこと。地下鉄はその年の末に開通した次第だった。杉浦非水のことのポスターも同時代に見ていたかな。



昭和2年12月30日に開通した浅草・上野間の日本初の地下鉄道がどんどん延びていって、延びるごとに、上野広小路(昭和5年1月1日開業)に上野松坂屋、三越前(昭和7年4月29日開業)に三越、昭和7年12月24日開業の日本橋と京橋にはそれぞれ白木屋と第一相互館というふうに、地下鉄の建設とデパートがタイアップすることで、地下通路がデパートに直結していった1930年代ならではの都市風景がおもしろいなとつくづく感心してしまう。昭和9年という年は、3月3日に京橋・銀座間、6月21日に銀座・新橋間がそれぞれ開通し、京橋の明治製菓本社(昭和8年5月に新築)のアクセスがますます便利になった年。昭和9年6月以降の、明治製菓宣伝部長・水中亭内田誠は、

この頃は洋傘も、交通機関を巧みに利用しさえすれば、使わないですむ場合が多くなった。現に、大森から京橋の社に通勤するのに、省線電車を新橋で下り、構内を出ず、地下鉄に乗り換えただけで、ひょっこりと社の前に出られるのである。それで濡れなくてすむ。便利になったものだ。

というふうに、「洋傘」というタイトルの小文に綴っている(『緑地帯』(モダン日本社・昭和13年7月)所収)。



f:id:foujita:20110604131318j:image

桑原甲子雄《上野駅前 昭和9年》、桑原甲子雄『東京 1934〜1993』フォトミュゼ(新潮社、1995年9月)より。『夢の町 桑原甲子雄東京写真集』(晶文社、1977年8月)にはこの写真の前のページに、同時期に撮影の地下鉄車内の写真がある。下谷車坂町に住んでいた桑原甲子雄は、同書巻末で《浅草から新橋まで、地下を車が走る今で言う銀座線が全通したのは昭和九年、珍らしくてたまらなかった。》というふうに書きとめていて、そんな実感的な回想が嬉しい。階段の脇に、「地下鉄新橋まで開通」の文字の下に「速い 涼しい地下鉄」というポスターが貼ってある。浅草から新橋まで全通した昭和9年6月21日。そろそろ本格的に暑くなってくる時分。



f:id:foujita:20110604131319j:image

《地下鉄に乗つて銀座へ来た。さてこれからこの娘はどうするか誰も知らない。》、福田勝治『銀座』(玄光社、昭和16年7月5日)より。昭和9年6月に浅草から新橋まで地下鉄道が開通したことで、銀ブラの際に地下鉄が大きな役割を担うこととなった。折に触れて銀ブラをたのしんでいた徳田秋声は昭和14年7月12日の日記に、

 竹葉で食事をし、千疋屋で果物を食べ、中村君ともヂヤアマンベーカレイでしばらく話して別れる。

 この日の暑さ、昏倒しさうである。そこで舞台から奈落へ消えるように、鳩居堂の前から地下へもぐり、上野まで来て、そこから自動車で帰る。地下鉄はちやうど冷房装置の映画館といふところ。

というふうに綴っている(『徳田秋聲全集 補巻』八木書店・2006年7月)。地下鉄を「冷房装置の映画館」に見たてる秋声の都市生活者の視線が素敵(「舞台から奈落へ消えるように」という表現もチャーミング)。銀座に地下鉄が開通して5年、昭和9年の地下鉄の惹句のとおりに「涼しい地下鉄」は東京市民の実感になっていたようだ。



f:id:foujita:20110604131320j:image

国会図書館の端末で入手した新聞記事《地下鉄と高速線と四年目に直接連絡 中旬から漸次簡便に》。「東京朝日新聞」昭和14年8月3日付け紙面。

 帝都の心臓部を縦貫する渋谷―新橋間の「東京高速線」と新橋―浅草間の「地下鉄」が今秋九月十五日頃から新橋駅の地下ホームで連結し、渋谷―浅草間は乗り替へなしの三十分といふスピード運転が開始される(料金は二十銭)既に両線は通し切符を発行してゐるが現在では相互に新橋に来ると一旦地上へ出て、電車通りを横断して再び地下道に入らねばならぬと云ふ不便があるが来る十五日からは地下売店街を通って両開札口が連絡される、更にその後約一ケ月すると前記の如く両線路が接続され、プラットホームは一ケ所になる。

   地下鉄は延長八キロ三分で車輌は五十四台、高速線は長さ六キロ三分で車輌三十台

 これが一線に結ばれた暁は二分半で間隔で両会社の車が疾走することになる。

 東京高速度鉄道が着工してから丁度四年目に住宅街への交通の中心渋谷駅と歓楽街浅草との握手が完成する訳だが、現在新橋駅での乗り換へ客は一日平均七、八千人と見られてゐる。


という次第で、現在、浅草・渋谷間を走っている「東京地下鉄銀座線」は、昭和9年6月に全通した浅草・新橋間が「東京地下鉄」と、昭和13年12月に開通した渋谷から新橋までの地下鉄である「東京高速鉄道」の二つの路線が合併したものなのだった。上記新聞記事が詳述するように、翌昭和14年9月1日に2つの新橋駅が統合されるまでは、地下鉄の乗客は新橋で乗り換える必要があった、しかも新橋でいったん地上に出なければならなかった。それが昭和14年8月15日からは地下のみの移動となり、9月15日頃からそれぞれの路線の線路が連結されて乗り換えの必要がなくなったというのだから、なんと便利になったことだろう。前掲の荻原二郎氏撮影の「東京高速鉄道渋谷駅」の写真はそんな時期のまっただなかの写真ということがわかると、感慨はひとしお。



f:id:foujita:20110604131321j:image

上記新聞記事、《現在及び本月中旬、九月中旬の両地下鉄の連絡横断面》の図を拡大。新橋駅の地下は、渋谷からの「東京高速鉄道」と浅草からの「東京地下鉄」の二つの線路があって、「東京高速鉄道」と「東京地下鉄」のそれぞれの終点駅が「省線新橋駅」を挟むかっこうで位置していた。「東京高速鉄道」の方が地上に近い位置にあった。



f:id:foujita:20110604131322j:image

現在の銀座線新橋駅の地下線路を渋谷方向に向かって撮影。昭和9年6月に浅草・新橋間の「東京地下鉄」が開通後、昭和14年9月「東京高速鉄道」の渋谷・新橋間の線路と接続されるまでの4年間はここが地下鉄の終点だった。線路が微妙にカーブしている左側の壁の向こうに、「東京高速鉄道」時代のホームが残っている。



f:id:foujita:20110604131323j:image


f:id:foujita:20110604131324j:image

ふたたび、福田勝治『銀座』(玄光社、昭和16年7月5日)より、地下鉄を写した写真を2枚。車内の運転手の後ろに制帽をかぶった少年が正面を凝視している姿が見えるのが微笑ましい。昭和14年9月に新橋で乗り換える必要がなくなり、浅草から銀座まで乗り換えなしで地下移動ができるようになった……ということを知ったあとに見ると、銀座駅に停車している地下鉄の「澁谷」の文字がぐっと胸にしみるものがある。「東京地下鉄」と「東京高速鉄道」の合併の背後には、五島慶太に敗れる格好となった、「東京地下鉄」の創立者・早川徳次(はやかわ・のりつぐ)の死闘があったわけで、さらにぐっと胸にしみるものがある。



f:id:foujita:20110604131325j:image

新田潤『東京地下鉄』(富士出版社、昭和17年5月5日)。装釘:牧山京三。早川徳次が東京地下鉄堂株式会社の創設するまでを小説にしたてたもの。ゆまに書房の『コレクション・モダン都市文化 第7巻 円タク・地下鉄』(2005年5月刊)で翻刻されているうえに、かねてよりの愛読書の和田博文著『テクストのモダン都市』(風媒社、1999年6月)で詳述されているのを見て、ムラムラと欲しくなった。新田潤が参照したという『東京地下鉄道史』乾・坤(東京地下鉄道株式会社、昭和9年)もいつか入手したい。

 地下鉄を主題とした小説を書いてみたいと思ったのは大分以前のことである。その頃はまだ新橋から渋谷までの線は開通せず、工事中であった。赤坂に住む私の家には、あの杭打機でI型鉄杭を打ち込むけたたましい金属的な響きが、毎日毎晩、寝しずまった深夜の夜空でさえ震わせて伝わってきた。その音響のために寝つかれないこともあった。散歩に出ては、そのいかにも男性的な、脈々と不思議な血の波打つような工事の現場に長いこと足をとどめて、眺め入ったりした。鉄骨で空高々と組み立てられた櫓の天っぺんから、動力で捲き上げられた重い鉄錘が急速に落されて、I型鉄杭の尻を叩く。と、耳を聾するような激しく金属のかち合う音響と共に、鉄杭は少しずつ地下に入ってゆく。すでに鉄杭の打ち込まれた箇所では、電車通の下に路面打桁を施して切り開く準備にかかったり、それも終った場所では、土揚機が据えられて堀り始めていた。地中から電灯の明りが洩れ、そこらの穴から覗くと人々が地の底で蟻のように動いていた。日支事変のはじまる時分の頃である。工事場附近のおでん屋などにいると、深夜の一時、二時頃になって、そうやって地下で働く人達が上がって来て、ほっと一息いれるので賑わった。十二時頃までは当時附近にあったダンスホール帰りの客などで立て混むその光景や雰囲気と、いかにも強い対照で眺められた。偉大な建設のために汗を流す人々のあけっぴろげな愉快な空気が、さっきまでのジャズ的な匂いの漂っているのを一掃し、隅で酔っている私の眼には何か考えさせられるものとなった。

という、新田潤によるあとがきは、溜池のダンスホール「フロリダ」と新橋・渋谷間を結ぶ地下鉄道の工事が両極的に登場して、「1930年代東京」を感じさせる実感的な筆致であるという点においても、昭和17年という出版年が示すような多分に時局におもねるところがあるという点においても(東京のダンスホールは昭和15年10月をもって当局の指導で閉鎖されていた)、たいへん興味深い。和田博文著『テクストのモダン都市』の「ダンスホール」の項によると、新田潤は《渋谷百軒店の喜楽舞踏場時代からのダンスマニア》だったという(p236)。





さて、表参道で銀座線に乗り換えて、渋谷駅で下車した冒頭に戻る。銀座線の改札から外に出るときのいくつかの通路のなかでは、東横線の改札に向かうこの木造の階段が一番好きだ。階段の脇の窓から後方を見やると、昭和9年11月に開店した東横百貨店の建物がそびえ立っている。現在「東急百貨店東横店・東館」と称されているこの建物は、東京初の鉄道会社直営デパート。昭和6年竣工の東武ビルディングの浅草松屋とおんなじように、多くの補修をほどこされつつも元の建物は竣工当時のまま残っているので、一見したところではゴテゴテと修復された単に古びているだけの建物だけれども、目をこらすとあちらこちらに、竣工当時の姿を見出すことができる。「1930年代東京」の残骸さがしにおいて、絶好の好物件なのだった。


f:id:foujita:20110604131326j:image


そして、この階段を降りた先には、昭和2年8月に開通した東横線の渋谷駅のターミナル。東武電車の終点の浅草駅が東武ビルディングの2階に設けられているのとおんなじように、東横電車の終点の渋谷駅は東横百貨店の2階の高さに位置していて(そして3階の高さに地下鉄の駅)、東武電車と東横電車はそれぞれの「郊外」へと向かって走っている。現在の東横線渋谷駅の開業は昭和2年8月で(ちなみに小田急新宿駅の開業は同年4月)、東武電車が隅田川を越えて浅草に伸びてきたのは昭和6年5月。1920〜30年代のモダン都市東京が21世紀の現在までつながっていると思うと、感慨がひとしお。浅草はスカイツリーの建設、渋谷は都市計画のまっただなか。都市はどんどん変貌してゆく。野口冨士男の『私のなかの東京』(文藝春秋、昭和53年6月)の最初の章「外濠線にのって」(初出:「文學界」昭和51年10月号)の弁慶橋のくだりにある

幼時から現在に至る推移のなかで、私には常に変化する都市が東京だという考えが固定観念となっていて、ここの風景が高速道路の出現くらいには負けぬだけの力をもっているところが気に入っている。ここの高速道路を自然破壊だと言うような人がいれば、私は外濠自体が江戸時代に自然破壊をして人工的に造成されたものであったことを忘れてもらっては困ると言いたい。

という一節をなんとなしに思い出す。



渋谷は東急文化会館とその前のバス乗り場が子供時分から長らくおなじみで、東横線は人生の一時期通学で使っていたのでちょっとばかし懐かしい。が、その後、年を重ねるごとに渋谷は下車することはあっても、通過するだけの町になってしまった。そうして通過を重ねて幾年月、東急文化会館(屋上が懐かしい)が取り壊され、副都心線が開通したと思ったら、今度は東急東横線の渋谷駅は地下に行ってしまうのだそうで、あれよあれよと渋谷は変わっていくらしい。せめて東横線が地下になってしまう前に、東横百貨店と東横線をじっくり観察しておきたいと、都市開発のことを知ったときからずっと思っていた。という次第で、いよいよ懸案の東横百貨店見物が今日実現するのが嬉しくってたまらない。わーいわーいとまずは、なつかしや東急文化会館に向かう古びた歩道橋を直進する。この歩道橋もいつかなくなってしまうのかな。



f:id:foujita:20110604131327j:image

東急文化会館跡地まえから宮益坂と明治通りの交差点へと歩を進めて、現在の東急百貨店東横店東館をのぞむ。この建物が昭和9年11月竣工の東横百貨店の現在の姿。一見どうってことがないけれども、骨組は竣工当時のままなのは、浅草松屋の東武ビルディングとまったくおなじパターンなのだ。



f:id:foujita:20110604131328j:image

《東横百貨店》(渡辺仁・鹿島組・昭9)、都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)より。竣工当時は、いかにも「1930年代東京」という感じの簡素な白亜の建物。窓の幾何学的配置がおしゃれ。渡辺仁は前年5月竣工の京橋の明治製菓の本社ビルの設計者でもある。



f:id:foujita:20110604131329j:image

白亜の建物はピンク色の外装で覆われて、竣工当時の幾何学的窓の配置も今はもう見られなくなってしまったけれども、右奥の角のテラスとその上に掲げられている看板の形状は竣工当時のままだーと、その部分へと接近して興奮する。



f:id:foujita:20110604131330j:image

ふたたび、昭和9年の竣工当時の写真。《東横百貨店・青山通より背面を見る》、『工事画報』昭和9年11月号より。東横百貨店に隣接する右手前の三階建ての建物の窓には「大渋谷」の文字。この手前の青山通りを通って、宮益坂からの市電は、山手線の高架をくぐって終点の渋谷駅前へと入っていた。



f:id:foujita:20110604131331j:image

桑原甲子雄《渋谷駅前交差点》昭和14年、『夢の町 桑原甲子雄東京写真集』(晶文社、1977年8月)より。東横百貨店の上から撮影した写真。桑原甲子雄は下谷車坂町の自宅から地下鉄にのって、はるばる「いっこう不案内」だった渋谷駅まで来て、この写真を撮影した。この写真が撮影されたのは年、前述のとおり新橋駅の線路がつながって、浅草・渋谷間を乗り換えなしで地下移動できることになった昭和14年。桑原甲子雄も珍しがって、はるばる渋谷まで来てしまったに違いないと思う。

宮益坂をくだって来た当時の市電は、宮益橋と省線のガード下を越えてから左へカーブした地点――いまのハチ公前広場のところが終点であったが、広場などとは到底よびがたいほど狭隘な一角で、すこし折返しがはかどらないと青山のほうから来る電車が宮益坂の中途まで数珠つなぎになってしまって、私もしばしば徒歩でくだった一人である。

と、これは野口冨士男『私のなかの東京』(文藝春秋、昭和53年6月)の「芝浦、麻布、渋谷」のなかの一節。



f:id:foujita:20110604131332j:image

『輝く日本 輝くネオン』(整電社製作所、昭和12年4月5日)より。上の写真の渋谷駅前広場をまわれ右して、ふたたび東横百貨店をのぞむと、こんな感じの夜景だった。



f:id:foujita:20110604131333j:image

ふたたび、『工事画報』昭和9年11月号より、《東横百貨店・並木通より正面を見る》。宮益坂の反対側からのぞんだ、竣工当時の東横百貨店の建物。



f:id:foujita:20110619164237j:image


f:id:foujita:20110604131334j:image

上は《建設中の東京高速鉄道(左は宮益坂)》、下が《分断された天現寺線終点・東横百貨店前停車場》、『東京急行電鉄50年史』(東京急行電鉄株式会社、昭和48年4月18日発行)より。上掲の写真の非常階段の手前に継ぎあわされるようにして、現在の銀座線の高架が建設された。高架の下に停車中の天現寺線は大正13年5月に開業し、昭和13年に東京市電に譲渡されるまで、玉川から天現寺まで直通運転をしていた時期があった。社史によると、現在の東急百貨店の東館と西館を結ぶ1階の通路がその名残りだという。今度歩くとき、玉川電車に思いを馳せてみようと思う。

 当時の地下鉄といえば、浅草―上野―銀座―新橋の一本だけで、東洋唯一の地下鉄道といえば喧伝され、目映いようなハイカラな存在だった。文明のシンボルでもあった。

 その地下鉄が、場末の渋谷まで伸びてくるというのだ。山の手第一の繁華地、新宿をさしおいて、わが渋谷を優先してくれるとは。早川徳次(浅草―新橋間の旧東京地下鉄道の創立者)と五島慶太(新橋―渋谷間の旧東京高速鉄道の計画者)との確執など知る由もなかったが、「渋谷に地下鉄」が過分に思われ、その実現の日が待ち遠しくてたまらなかった。あと二年、あと一年……。私の人生は鉄道の開通を待ちわびながら経過したという気がしてならないが、その最初は渋谷への地下鉄だったと思う。

 新橋―渋谷間の地下鉄は、いきなり全線開通とはならず、まず、虎ノ門―青山六丁目(現在の表参道駅のやや渋谷寄り)間で開通した。両端に一駅ずつ未開通区間を残して開通した事情についての詳述は省略するが、とにかく乗りに行った。青山六丁目駅までは渋谷から歩いて十分くらいだったから、わが渋谷の圏内ではあったが、渋谷駅まで通じていないので、いまひとつ物足りなかった。

 年表によれば、

 青山六丁目―虎ノ門 昭和十三年十一月十八日開業

 渋谷―青山六丁目 同年十二月二十日開業

 虎ノ門―新橋 昭和十四年一月十五日開業

 となっている。

 年表と実感は程遠いもので、青山六丁目―渋谷間は、わずか一ヵ月遅れで開通したにすぎないのだが、私は半年ぐらい待たされたような気がしている。よほど待ち遠しかったのであろう。

 かくして、栄えある地下鉄が、渋谷まで来てくれた。

 しかも、渋谷駅の位置!

 渋谷は金シブ(砂鉄)を産する谷、というのが地名のルーツだそうだが、宮益坂と道玄坂にはさまれた谷底にある。だから地下鉄といえども谷底の、さらにその下まで潜る必要はない。それで宮益坂の途中から地上に出て、山手線の駅の上にホームを設けた。山手線は高架、つまり二階にあったから、地下鉄駅は地上三階である。

 これがまた嬉しい。渋谷の地下鉄は、地下ではなく、地上の高いところに発着するのだ。

「東京の渋谷じゃ地下鉄が、ビルヂングの三階から出入りする、ハハのんきだね」

 と唄われたという。……


【宮脇俊三『時刻表昭和史 増補版』(角川文庫・2001年6月)- 第1章「山手線―昭和8年」より】



f:id:foujita:20110604131335j:image

渋谷に地下鉄がやってきたときを回想する宮脇俊三のとっても実感的な文章はなんとすばらしいことだろう! 「東京の渋谷じゃ地下鉄が、ビルヂングの三階から出入りする、ハハのんきだね♪」と現在の写真。銀座線の高架の手前には、先ほど歩いたばかりの、今はなき東急文化会館へつながる渡り廊下。



f:id:foujita:20110604131336j:image

『大東京観光アルバム』(東京地形社、昭和12年4月5日発行)より、《省線渋谷駅の隣りにある、東京横浜電鉄の経営になる百貨店。東京南郊の住宅地を控へ、四通八達せる交通網の基点として、渋谷駅附近の繁昌は目醒しい。》。宮脇俊三が待ち望んでいた地下鉄が昭和13年12月に渋谷に開通する以前の東横百貨店の写真。すなわち、地下鉄の渋谷駅が増築増築される以前は、東横線が渋谷駅に近づくと、こんなふうな清新な白亜の建物の側面が迫ってきたのだ。昭和2年8月に東横電鉄の渋谷駅が開通し、山手線と渋谷川の中間の手狭な場所が東横電鉄の発着場所となった。東横百貨店はその渋谷川に蓋をするようにして建設された。渋谷を出発する東横電車は次の並木橋駅までは渋谷川に沿って走っている。



f:id:foujita:20110604131337j:image

昭和9年11月に東横百貨店が開店し、昭和13年12月には開通し、以後、増築に増築を重ねてゴテゴテ感を増して現在に至っている東急百貨店渋谷店であるけれど、あらためてじっくりと246側から建物全体をのぞんでみる。地下鉄の高架の奥のかつての「東横百貨店」の部分の現在の「東急百貨店渋谷店・東館」の骨組みは竣工当時のままであることをふたたび確認する。



f:id:foujita:20110604131338j:image

と、ふたたび確認したところで、屋上に注目してみると、浅草松屋の東武ビルディングとおなじように、はじっこの煙突とその脇の階段部分が竣工当時のままの姿で残っているということが見てとれて、大興奮。上掲の昭和12年の『大東京観光アルバム』でモクモクと煙を出している煙突が残っている!



f:id:foujita:20110604131339j:image


f:id:foujita:20110604131340j:image

昭和9年11月の竣工当時そのまんまに屋上に煙突が残っているのを発見してしまうと、その近くへ行ってしまいたくなるのが人情というもの。ふたたび明治通りを横断し建物のなかに足を踏み入れて、階段をゼエゼエとのぼる。この階段の内部もたぶん竣工当時のまま。シンプルな階段がなんだかいい感じだ。



f:id:foujita:20110604131341j:image

階段の先は屋上遊園地。右寄りにさきほど地上から見上げていた煙突。左が先ほどゼエゼエと登ってきた階段の出口部分。



f:id:foujita:20110604131342j:image

かつての東横百貨店、現東急百貨店東横店東館の屋上の片隅には「東横稲荷」が祀ってある。



f:id:foujita:20110604131343j:image

屋上のフェンスから、銀座線の高架を見下ろす。東京の渋谷じゃ地下鉄が、ビルヂングの三階から出入りする、ハハのんきだね♪





郊外電車の開通によるモダン都市の拡大という事象を通して「都市とその周縁」といったことを見てゆくのはたのしい。年に何度かの関西遊覧で「すばらしき関西私鉄!」と興奮していたものだけれども、これをそのまま東京に置き換えることで、おのずと関西と対照させることになり、ますます興味深いなあと興奮は続いている。このたび見物の、渋谷の東横百貨店はそのものズバリ、五島慶太が小林一三の阪急百貨店の真似をして建設した、東京初の鉄道会社直営によるターミナル百貨店なのだった。昭和2年8月に渋谷駅に現在の東横線が開通し、渋谷駅にまずは「東横食堂」を開店して、それが発展して、昭和9年11月1日、東横百貨店が開店する。



f:id:foujita:20110619164238j:image

白木正光編著『大東京うまいもの食べある記』(丸ノ内出版社、昭和8年5月15日再版発行=昭和8年4月30日発行)、和田博文監修/近藤裕子編集『コレクション・モダン都市文化 第13巻 グルメ案内記』(ゆまに書房、2005年11月)より。

東横食堂――ガード下から青山七丁目へ上る坂が宮益坂で、下から向つて右側下の東横電車屋上に東横電車直営の東横食堂があります。一般向の大変感じの好い食堂で洋食も廿五銭均一、其他飲物、すしの類、ビール、日本酒もあるので食事時はいつも満員です。猶ほ目黒駅にも東横直営の食堂があります。

『東京急行電鉄50年史』によると、東横食堂は、梅田の阪急食堂を範に、東横電車が渋谷駅を発着するようになった直後の昭和2年12月25日に開店。好評により昭和4年5月、約2倍に拡張、続いて同年9月に目黒駅に「第2東横食堂」を開店した。



渋谷駅とその郊外電車をちょいと追究してみたいなと思い立ったそのとき、まっさきに思い出したのは、大正15年生まれの渋谷育ちの宮脇俊三のことだった(先に抜き書きした『時刻表昭和史』の第1章のタイトルはそのものズバリ「山手線―昭和八年」だ。)。宮脇俊三は大正15年12月に誕生し、昭和3年の春に一家は渋谷に移住した。昭和2年に東横電車の渋谷駅が開通し、東横百貨店にさきがけるようにして「東横食堂」が開業したのとほぼ時をおなじくして、宮脇少年は渋谷にやってきたということになる。という次第で、宮脇俊三の著書としてそのものズバリ、『昭和八年 澁谷驛』というタイトルの本が刊行されていたことを知り、興奮だった。




f:id:foujita:20110619164239j:image

宮脇俊三著『昭和八年 澁谷驛』(PHP研究所、1995年12月)。こうしてはいられないとあわてて取り寄せてみると、宮脇俊三がそれまでに書いていた「昭和初期の渋谷駅」にまつわる文章を再編集したアンソロジーという体裁で、

  • 共著『大正十五年(昭和元年)生まれ』(河出書房新社・1980年)所収「幼少期」
  • 『時刻表昭和史』(角川文庫)の第1章「山手線―昭和八年」
  • 共著『世田谷・たまでん時代』(大正出版・1994年)
  • 『汽車との散歩』(新潮文庫)所収「地下鉄と渋谷」
  • 「私の東京論」(初出:「朝日新聞」1994年5月6日朝刊)

の以上5点に収録されている文章を再編集して纏められた本だった。これに、青山師範の同級生、奥野健男と田村明との鼎談が加わる。全178ページ。


自らあとがきで「昭和初期の渋谷駅」について《とても一冊になるほどの量は書いていない。》と記しているとおりに、量の少なさは否めないのだけれど(宮脇の文章は93ページまで)、宮脇俊三自身の文章のあとに、奥野健男と田村明との書き下ろし(語り下ろし)の鼎談が加わることで(96ページから178ページまで)、宮脇俊三の文章を読んで胸躍らせていた実感的な回想が、同級生三人のおしゃべりによってさらに補強される恰好。このたびの「1930年代渋谷」見物において、絶好の参考文献となった。

 時の断面は昭和八年にする。満州事変から二・二六事件への途中の年であるが、巷には「東京音頭」の大流行が象徴するような風潮もあった。

 この年に、帝都電鉄(現在の京王・井の頭線)が開通した。私は六歳、小学校に上がった年である。その翌年、渋谷の最初のデパート「東横百貨店」(現在の東急百貨店東横店)が開業した。

 東横百貨店のエレベーターが珍しく面白く、タダで乗れるので、私は遊び友だちと一緒に幾度も乗りに行った。エレベーター嬢に「乗っちゃダメ!」と追い返されたこともある。

 帝都電鉄も斬新だった。渋谷駅を出るやトンネルに入り、つぎの神泉駅は半地下で、またトンネルに入るのであった。トンネルが珍しい時代だった。帝都電鉄が自動ドアだったのも驚きで、「この扉[とびら]は自動的[ひとりで]に開閉[あけたて]しますので……」と、ふりがなつきで書かれたセロファンが貼りつけてあった。

 東横線はデパートをターミナルとする鉄道となり、急行電車が運転されていた。停車駅は碑文谷(現在の学芸大学)、自由ヶ丘、田園調布……。「急行」は私たち子どもの憧れだった。

 もちろん渋谷の中心をなすのは山手線の駅で、西側、つまり道玄坂側に駅前広場があった。現在の四分の一ぐらいだった。そこは市電の終点で、都心への三方向の電車が折り返していた。……

と、これは「玉電の思い出」として収録されている文章の一節。かさねがさね、宮脇俊三の実感的な回想のなんとすばらしいことだろう! まさに『昭和八年 澁谷驛』のタイトルが象徴するように、「昭和八年という年は興味ある年だと思うのである」という高見順の『昭和文学盛衰史』のなかの言葉が、そのまんま当てはまるような渋谷駅の風景。



f:id:foujita:20110619164240j:image

師岡宏次《渋谷駅前 1936年》。図録『モダン東京狂詩曲展』(東京都写真美術館、1993年)より。「現在の四分の一ぐらいだった」という道玄坂側の駅前広場を写した写真。『昭和八年 澁谷驛』の座談会(宮脇・田村明・奥野健男)ではこんなふうに語られている。

田村 いまは信じられないけど、渋谷は山手線の両側が、目一杯のところまで全部市街地だったね。そこのところへいろんな細かい店がたくさんあった。だいたい駅前広場っていう考えがなかったんだから。それにクルマもなかったから、駅前広場はいらないんだ。

 いまみたいにあれだけの広場ができたってことは、随分あの辺って変わっちゃったんだよな。一つの空間ごとの建築群がなくなったわけだからね。

宮脇 いまの下北沢みたいなもんだったな。

田村 広場っていうのはクルマのために必要になってくる。だから戦後だね。戦前には広場なんてない。

田村明の言う戦前の渋谷駅前の「いろんな細かい店」のひとつに明治製菓売店があった。明治製菓売店の前を市電が通る。



f:id:foujita:20110619164241j:image

《ハチ公と市電/渋谷駅前》、『杵屋栄二写真集 汽車電車』(プレス・アイゼンバーン、1977年10月10日発行)より。偶然写ってしまった明治製菓売店に狂喜! の写真。大岡昇平の『幼年』(潮出版社・昭和48年5月→講談社文芸文庫・1990年12月)には、

 市電はガードをくぐると左へ曲り、新設の駅の正面が終点になる。同時に玉電も駅を建てた。国電の駅の対面に、新しく開店した明治製菓(二階喫茶室)と共に、市電の終点を三方から囲む形になった。これが今日の駅前広場の原型である。

 無論広さは今日の半分以下で、道玄坂通りへ出る角は「甘栗太郎」だった……

というふうに綴られている。ちなみに、初代ハチ公の銅像の除幕式は昭和9年4月21日に催され、昭和19年10月12日に戦時下の銅鉄回収により取り壊された。昭和23年8月15日、現在のハチ公像の序幕式が盛大に催された(参考文献:図録『開館記念特別展「ハチ公のみた渋谷」展』(白根記念渋谷区郷土博物館・文学館、2005年7月9日発行))。



f:id:foujita:20110619164242j:image

明治製菓渋谷売店の全景、『三十五年史 明治商事株式会社』(昭和32年5月発行)より。渋谷売店の開店は大正14年11月3日。それから時は過ぎゆき、昭和19年4月25日の日記に伊藤整は、

今日天皇御親拝が九段にあり、学校は休み。金もないので昼少し前に出かけ、出がけに渋谷駅前の古本屋に寄る。留守。駅前の東京パン、明治製菓等の店々全部とり壊され、火事場のあとのようになっている。駅附近の建物疎開である。東京都の姿は一日一日と変って行く。それらの店でよく茶を飲み、菓子を食べたりしたことも夢のようである。雑炊食堂前に人が長い行列をしているだけで、この間まではあったコブ茶を一杯飲ませる休み場も見当らない。

と書きとめている(『太平洋戦争日記(二)』新潮社刊)。渋谷店は同年1月10日に強制疎開により閉鎖されていたのだった。この日記の執筆時、ハチ公はまだあったのだなあ。ちなみに、その日記を読むと、伊藤整はかなりの甘党であったことが伺えて、銀座や新宿でも明治製菓にも森永に足を運んでいて微笑ましかった。



f:id:foujita:20110619164243j:image

《昭和9年、建設中の東横百貨店》、『東京急行電鉄50年史』(東京急行電鉄株式会社、昭和48年4月18日発行)より。山手線の高架の右手に東横百貨店の鉄骨。『昭和八年 澁谷驛』の座談会では、大正15年生まれ青山師範学校の同級生が以下のとおりに、当時を回想している。

田村 デパートができる前、斜めに階段がホームに上がってゆくようになっていたね。覚えてる?

 あんなところにデパートができたっていうのは、衝撃的だったね。デパートは市内にしかないという感じだからさ。

宮脇 銀座か新宿までいかないとなかったからね。

田村 いまではターミナルデパートは常識だけどさ。あんな電車にくっついて、ターミナルにデパートがあるというのが、衝撃的だった。

奥野 阪急をまねしたって。

田村 そうでしょ。だから大阪式なのよ。東京にはなかった。まねしたというより、小林一三がこちらに来て指導したんだ。

宮脇 そして地下鉄ができて、浅草とつながった。

東横電鉄の開通直後から渋谷駅を見てきた三人にとって、白亜の東横百貨店はさぞかし輝いて見えたことだろう。三人が青山師範学校に入学したのは昭和8年。まさに東横百貨店が建設のまっただなか。入学当時は「青山五丁目」の市電の停留所のところに位置していた学校が、昭和11年に碑文谷に移転することとなった。東横線で通学することになった宮脇俊三は、

 東横線は諸施設が立派で、速度も速く、急行が運転されていた。その頃、急行用のガソリンカーが投入され、人気があった。私たちは何本もの電車をやりすごしてガソリンカーに乗った。しかも、ターミナルの渋谷駅に百貨店がある。生意気になりかけていた私たちは玩具売場をウロついたりしながら帰ったのである。

と回想している(「玉電の思い出」)。



f:id:foujita:20110619203807j:image

《沿線案内 東横.目蒲.玉川電車》(昭和12年3月)の表紙。昭和11年9月から急行電車として華々しくデビュウしたガソリンカーが表紙に描かれている。



f:id:foujita:20110619164244j:image

《東横電車のガソリンカー/東横渋谷駅ホーム》、『杵屋栄二写真集 汽車電車』(プレス・アイゼンバーン、1977年10月10日発行)より。宮脇少年を魅了してやまなかったガソリンカーにはとっくに大人だった杵屋栄二も魅せられていたようで、こんなに素敵な写真を撮っている。



f:id:foujita:20110619164245j:image

『杵屋栄二写真集 汽車電車』より、《建設中の東京高速鉄道とその電車》。昭和13年12月に地下鉄が渋谷にやってくる前夜の写真。はるか向こうに白亜の東横百貨店が見える。



f:id:foujita:20110619164246j:image

『杵屋栄二写真集 汽車電車』より、《サボが慶応の校章を模した日吉行き・渋谷駅》。上の二枚の写真と同時代の東横電鉄の渋谷駅のホームの向こう側には、地下鉄建設工事以前の東横百貨店が写る。「趣味の浴衣地陳列」の垂れ幕が下がっている。東急電鉄は沿線に学校を誘致することで拡大していった。昭和9年5月に移転が開始された日吉の慶應予科はその代表的なものだった。『東京急行鉄道50年史』を参照すると、最初の学校誘致はそれまで浅草区蔵前にあった東京高等工業学校(現東京工業大学)で、大正13年4月に大岡山に移転し現在に至っている。



f:id:foujita:20110619164247j:image


f:id:foujita:20110619164248j:image

《慶應義塾大学 日吉予科校舎 曽弥中條事務所・清水組・昭10》、都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)より。同年に創刊したアオイ書房の『書窓』昭和10年7月10日発行(第1巻第4号)には、上司小剣が「日記より」という文章に、《六月一日。日吉へ苺を摘みに行く。》、《慶應義塾予科の校舎が美しい白亜の色を中空によこたへて、鉄骨鉄筋コンクリートの大建築は、根から生えたやう》と書いている。目黒に住んでいた小剣は東横電車に乗って、日吉にピクニックに出かけたのだった。



f:id:foujita:20110619164249j:image

おなじく『建築の東京』より、《府立青山師範学校(東京府・上遠組・昭和10)》。宮益坂を上がったところにあった市電の車庫(青山車庫)の近くに住んでいた宮脇俊三は、学校が碑文谷に移転したことで、東横線に乗って通学するようになった。学校の移転と同時に東横線の駅名も「碑文谷」から「青山師範」に改称になった(現在の「学芸大学」)。

自分の学校の名前が駅名になったのが嬉しくて、胸を張って改札口で定期券を見せた。新校舎は鉄筋三階建の立派なもので、駅から歩いて十分ぐらいのところにあった。付近にはまだ畑が多く、私たちは学校の帰り道、石ころを拾っては肥溜めに向かって投げ、ボチャンと飛沫が散ると、ストライクだと言ったり、どうだとばかり腕をあげて力こぶをつくる格好をしたりした。いまで言うガッツ・ポーズだが、これはポパイの影響であった。

と、これは『昭和八年 澁谷驛』に「昭和初期の時代」として収録されいる文章の一節。同級生の三分の二ほどが東横線を利用していたという。「玉電の思い出」として収録されてゐる文章には、《私たち東横線で通学する生徒たちは玉電通学組に対して優越感を抱いていた。それは主として鉄道の差による。》という。モダン都市の象徴のような東横線に対して、急行もなく大半が路面電車の玉川電車は《鄙びて田舎くさかった》。





昭和2年8月に渋谷駅に開通した東横電車、昭和9年11月に開店した東横百貨店、昭和13年12月に渋谷にやってきた地下鉄に思いを馳せたところで、ふたたび東急百貨店渋谷店東館の屋上に戻って、ふたたび外に出る。


f:id:foujita:20110619164250j:image


と、ここで、246側から建物全体をのぞんで、地下鉄の高架の奥のかつての「東横百貨店」の部分の現在の「東急百貨店渋谷店・東館」の骨組みは竣工当時のままであることをふたたび確認して、ふたたび悦に入る。



東横百貨店は渋谷川に蓋をしてその上に建てられたモダン建築。その渋谷川については、前掲の宮脇俊三『昭和八年 澁谷驛』所収の、大正15年生まれ青山師範学校同級生トリオの、宮脇・田村明・奥野健男の座談会「渋谷での思い出」では以下のように語られている。

奥野 明治神宮というのは、いつできたの?

宮脇 大正九年だったかな。

奥野 広大な土地でしょう。それで全国から木を集めたんだ。だからあれだけ大きな森になったわけだね。

宮脇 あそこには、湧き水もあるからね。清正井といって名水百選になっている。

奥野 加藤清正の下屋敷か何かがあったんだよ。渋谷川はあそこが源流だと言うね。

田村 表参道をいくと、川が下を流れるのが見えてたね。

奥野 参道橋だ。それでずっといって、東横百貨店の地下を通るんだ。そして、線路があって、川っぷちにトン平という飲み屋があったね。トン平の便所というと、下見ると川があってさ、本当の厠なんだよね。ジャーッと処分して(笑)。

宮脇 大きいのをすると、ボーンと落っこっていくのが気持ちよかったよ(笑)。もちろん、戦後のことだけれど。

大岡昇平の『幼年』では、《新宿御苑内の池、明治神宮内の池や、原宿、千駄ヶ谷方面を水源に持つ野川であるが、新宿大木戸から玉川上水の余水を引いていた。末は古川橋、一の橋、二の橋、赤羽橋を経て、名を古川、赤羽川と変えて、竹橋で東京湾に注ぐ。》と端的に解説されている。



f:id:foujita:20110619164251j:image

『しぶや酔虎伝――とん平35年の歩み』(「とん平」35周年記念文集刊行会、昭和37年7月24日)。宮脇俊三たちの座談でその名が挙がっているように、渋谷川といえば思い出づるは「とん平」のこと。戸板康二がたのしげな筆致でちょくちょく回想している酒場(古川ロッパの「とん平最後の日」でおなじみ)。開店は昭和21年11月19日。演劇人や映画人の溜まり場になったきっかけは筈見恒夫にあったという。戸板康二は『回想の戦中戦後』(青蛙房、昭和54年6月)で、

 そのころ、田園調布に辰野隆、八木隆一郎、筈見恒夫、早川清がいた。自由ヶ丘に、久保栄がいた。緑ケ丘に伊馬春部がいた。渋谷の神泉に三村伸太郎がいた。永福町に伊藤熹朔がいた。

 つまり東横線と帝都線(のちの井の頭線)沿線の住人は、渋谷で飲むのが、いちばん便利なのである。

 そこでたむろしたのが、駅の近くの渋谷川に沿った、とん平であった……

というふうに綴っている。ターミナル駅・渋谷。駅に入る直前の銀座線の高架からは「とん平」の看板が見えた。当時は「川」であった渋谷川はいつのまにか埋め立てられ宮下公園の遊歩道となっている。上掲の座談会で語られているとおりに、この記念文集では何人ものひとがその「厠」について言及している。


現在は埋めたてられた「とん平」沿いの渋谷川は、稲荷橋あたりから姿をあらわし、明治通りと東横線の高架に沿ってチョロチョロと流れている。このあたりは、大岡昇平が『幼年』において仔細に綴っており、また、『私のなかの東京』の「芝浦、麻布、渋谷」では野口冨士男は麻布界隈から渋谷川に沿って歩いて、渋谷に到着している。



f:id:foujita:20110619164252j:image

『大東京區分圖 三十五區之内 澁谷區詳細圖』(昭和16年1月5日初版印刷)より、渋谷駅から並木橋附近を拡大。東横百貨店のある渋谷駅から東横線と山手線とが渋谷川を挟んで、山手線は地面を東横線は高架を次の停車駅、恵比寿、並木橋に向かって走ってゆく。現在の明治通り沿いには市電の天現寺線。



大岡昇平の『幼年』と野口冨士男の『私のなかの東京』に思いを馳せるべく、渋谷川に沿って、ちょいと歩いてみることに決めた。東横線の渋谷と代官山の間にはかつて「並木橋駅」があった(昭和21年5月廃止)、というわけで、まずは並木橋を目指して歩いてゆく。宮脇俊三著『昭和八年澁谷驛』所収の座談会では、前掲の「とん平」のくだりあと渋谷川へと話題が移って、

田村 そうだ、川と思ってなかったんだな、僕らは。目黒川はまだ川だけど、渋谷川って完全にドブだと思ってたから、川の名前があるというのを、後から発見してさ(笑)。

奥野 あそこにあるお寺は、清流寺。清い流れの(笑)。

宮脇 昔は水車が回っていたって言うけど。

奥野 古川橋のところにいくと、淀んでいるものね。

田村 だから土地利用が、かなり厳しかったんだ。土地を目一杯利用しようという思想だ。要するに。

奥野 渋谷川の川沿いには、小さい工場がたくさんあったね。

田村 そうだね、あそこらへんだね。

奥野 だから高見順なんか、大いに書いてる。

田村 それだけ川を運河として利用してるんだよね、明治初めの工場というのは。輸送のため、道路というのはほとんどないんだから。そうすると川沿いってわりあい便利なの。川でもないような川がけっこう役に立っていた。

というふうにおしゃべりが続いている。なんやかやで読み逃している高見順の『いやな感じ』を読まねばと思う。そうか、明治通りというのは渋谷川に沿っているということなのだなと、しごく当たり前のことに歩いていると、なんだかとってもウキウキしてくる。かつて、渋谷川に沿って走っていた都電「天現寺線」にも思いを馳せる。



f:id:foujita:20110619164254j:image

明治通りをテクテク歩いて、ほどなくして並木橋に到る。東横線の渋谷駅の次にかつて並木橋という駅があった。宮脇俊三『昭和八年 澁谷驛』所収の座談会で奥野健男が、《東横線、ほんとは恵比寿から出るはずだった。そうすれば、あんな急に途中から曲がる必要がなかった。並木橋のところから、キキーッとあれ、ものすごい音をたてて、曲がってたからね。》

と語っているように、並木橋を過ぎたところで急カーブになるのは今も変わらない。代官山からしょっちゅう歩いている道だけれど、駅はどのあたりだったのだろうと立ちどまったのは今日が初めて。



f:id:foujita:20110619164255j:image


f:id:foujita:20110619164257j:image

西尾克三郎『ライカ鉄道写真全集 4』(プレス・アイゼンバーン、1994年4月)より、上の写真が《L-630 東京横浜電鉄 キハ8 下り桜木町行急行 渋谷―並木橋 昭和11/1936-8》、下の写真が《L-631 東京横浜電鉄 キハ8 下り桜木町行急行 キハ6 上り渋谷行急行 並木橋駅 昭和11/1936-8》。杵屋栄二の写真に写っていたのと同じ流線型の電車が東横百貨店を背後に並木橋にやってきた! 線路の右側には渋谷川があって、ここに沿って天現寺線が走っていたけれど、当時は専用線の電車が子供にとってはとってもモダンだった(昭和8年8月開通の現在の井の頭線の帝都電鉄も宮脇俊三は大好きだった)。とにかくも流線型の急行電車は当時最高にかっこよかったのだ。



f:id:foujita:20110619164258j:image

《山手線を渡る渋谷高架橋工事》、『東京急行電鉄50年史』より。人生の一時期通学に使っていたくらいだし、渋谷発ないし渋谷着の東横線には数えきれないくらい乗っていたけれど、一度も思いを馳せることなどなかった代官山から渋谷間の高架が、今回の観察を機にしみじみおもしろいなと思うようになった。山手線を横断するようにして渋谷に入る東横電車は、延長1083メートルにも渡る鉄筋コンクリートを構築する必要があった。



明治通りを並木橋交差点で右折して、渋谷川を越えて代官山の方向へ直進すると、ほどなくして、山手線の線路の上に架かる陸橋に出る。この陸橋が「猿楽橋」。代官山から渋谷に向かって歩くとき、たまに渡る機会のあるこの陸橋が前々から大好きだった。



f:id:foujita:20110619164259j:image

その猿楽橋から急カーブを描いた直後の東横線の高架を眺める。




f:id:foujita:20110619164300j:image

猿楽橋から地面へ。山手線の線路を眺める。大阪町歩きの折に、梅田の次の駅の「高架線の中津」を歩いたときのことをなんとはなしに思い出した。ターミナル駅の次の駅附近の独特のちょっとひなびた雰囲気がいつもなんだか好きだ。



f:id:foujita:20110619164301j:image


f:id:foujita:20110619164302j:image

猿楽橋を堪能したあと、山手線と東横線の間の道を歩いて、渋谷駅前に戻る。大岡昇平の『幼年』を思い出しながら、いい気分で渋谷駅に戻る。





f:id:foujita:20110619164303j:image

先ほど線路をはさんだ反対側に位置する246の歩道橋から東急百貨店東横店をのぞむ。東横百貨店の建物、すなわち現在の「東館」の建物にツギハギのようにして増築に増築を重ねて、現在に至っている東急百貨店東横店。「東館」手前の銀座線の高架駅に沿うようにして増築された「西館」と山手線と東横線の線路に沿うようにして「東館」と「西館」の直角になっているのが「南館」。「西館」の前身が昭和13年竣工の玉電ビル。「南館」は社史では「渋谷駅西口ビル」と表記されていて、昭和45年10月1日に営業を開始している。玉電は前年5月に廃止されているので、この渋谷駅西口ビルの完成をもって、渋谷駅はほぼ現在の姿になったといえる。



f:id:foujita:20110619164304j:image

《渋谷に進出した東京横浜電鉄(中ほどが本社、後方が東横百貨店)》、『東京急行電鉄50年史』より。昭和11年10月22日、五島慶太の東京横浜電鉄は玉川電気鉄道を傘下に収めた。



f:id:foujita:20110619164305j:image

《建設中の玉電ビル・東京高速鉄道車庫線》、『東京急行電鉄50年史』より。地下鉄の橋梁工事のサマとその車庫の様子がチャーミングな写真。玉川電車が東急に合併されてまず実施されたのは、昭和12年、玉川線渋谷駅と木造の玉電食堂を改築して玉電ビルを建設することだった。すなわち、昭和13年12月に銀座線が渋谷にやってくるのと連動するようにして、線路の反対側では玉電ビルの建築と東京高速鉄道の車庫が建設されていたのだった。

玉川電気鉄道が東京横浜電鉄に合併された直後の昭和13年12月20日に東京高速鉄道が同ビルの3階へ、翌14年6月1日には東京横浜電鉄の所管となった玉川線が同じく2階へ乗入れた。さらに同年9月20日、帝都電鉄線(井之頭線)との連絡橋も開通した。こうして、玉川電気鉄道が建設に着手した玉電ビルは、東京横浜電鉄によって総合駅としての機能を発揮することになったのである。

と、玉電ビルの建設が現在のターミナル駅としての渋谷駅の基礎となっていることを『東京急行電鉄50年史』は解説している。戦前は4階建てだった玉電ビルは戦後増築されて、現在の東急百貨店東横店の西館となった。



f:id:foujita:20110619202451j:image

《渋谷二十五時》、『六浦光雄作品集』(朝日新聞社、昭和48年11月20日発行)より。



f:id:foujita:20110619202450j:image

《スモッグのなかの女》、『六浦光雄作品集』(朝日新聞社、昭和48年11月20日発行)より。《午前7時、渋谷、東横デパート前の往来。早出の勤め人たちが白い息をはきはき、駅をつつんだスモッグのなかに消えてゆく。》。

20110326

都電20系統のバスに乗って、池之端七軒町で下車。上野から浅草へ。

今日は早起きして、上野まで歩くことに前々から決めていた。高速道路の高架下の神田川を渡り、前を通りかかるといつもそこはかとなく嬉しい川口アパートメントを見物したあと、野口冨士男の真似をして永井荷風の『狐』に思いをはせつつ金剛坂から伝通院へ向かい、蝸牛庵を左手に善光寺坂をくだって、秋声の『新世帯』や『黴』や三島霜川を思い、春日駅に出て菊坂の左の道をゆき、本郷森川町の秋声旧宅の前を通って、本郷三丁目から湯島、上野に到る……という、前々からのお気に入りの歩行コースをひさしぶりに歩いてみたいなと、ここ数日、この土曜日を心待ちにしていた。


そんなこんなで、いざ当日の朝を迎えて、まずは神田川方面へと歩いてゆく。強風のなかを必死の形相でゼエゼエと歩いて、向かい風に全身を襲われ、「あゝ おまへはなにをして来たのだと、吹き来る風が私に云ふ……」というような心境になったところで、高架下の神田川にさしかかったのだったが、こんな強風ではとてもではないけれど落ちついて歩けないなあ、無念ではあるけれども予定を変えた方がよさそうだ、あ、そうだ、ひさしぶりにあのバスに乗ってみようかなと思いついた。江戸川橋の停留所から音羽通りを通り、護国寺前で右折後、不忍通りをひたすら直進し、上野松坂屋が終点の都バスはかねてからのお気に入りであった。と、予定変更を思いついたとたん、にわかに元気を取り戻し、江戸川橋のバス停へと意気揚々と歩を進める。


都バスに乗るたのしみは、かつての都電に思いを馳せるたのしみでもある。神田川に架かる江戸川橋は、江戸川橋から須田町を結ぶ20系統と早稲田と厩橋を結ぶ39系統が交差していた。江戸川橋が始発の20系統は、江戸川橋から護国寺に到り、右折して、大塚仲町、氷川下町、丸山町、駕篭町……というふうに不忍通りをひたすら直進し、千駄木、上野公園、広小路、万世橋、終点の須田町に到る。現在の都バス「上58」系統(早稲田〜上野松坂屋)は、江戸川橋から先がかつての都電20系統をそのままなぞっている恰好なのだ。



f:id:foujita:20110410163737j:image

《東京日日新聞附録 大東京最新明細地図 隣接町村合併記念》(昭和7年11月1日発行「東京日日新聞」第20197号 東京市内附録)より、江戸川橋界隈を拡大。当時の東京市電20系統は、矢来下から護国寺前が「音羽線」、護国寺前から駕篭町が「護国寺線」、駕篭町(千石1丁目)から上野公園が「動坂線」という名で呼ばれていた。


さて、大塚仲町の交差点の右下に「文理科大学」の文字が見える。この地図の発行される1年前の昭和6年10月、英国留学から帰国した福原麟太郎は東京文理科大学の助教授に就任している。この年の8月、帰朝直後の福原麟太郎は小石川区第六天町に一家を構え、敗戦時までこの町の住人だった。第六天町は、大塚仲町の交差点をこの地図でいうと右斜め下を行った先。春日通り沿いはわたしはあまりなじみのない界隈だけれど、戦前の福原麟太郎の生活圏だなと思うと、それだけで愛着が湧いてくる。



f:id:foujita:20110410163736j:image

《文理科大学》、『大東京写真案内』(博文館、昭和8年7月)の「小石川区」のページに掲載。《大塚窪町の新緑の樹林に囲まれた一廓にある。昭和四年、広島の文理大と同時に開設されたもので、従来の高等師範と併置され、我が国師範教育の最高権威。近く市電大塚線を超えた向側茗荷谷に後藤新平男創設になる拓殖大学があり、お茶の水高師も、やがてお向ひの兵器支廠跡へ引越の筈。》という解説が添えられている。市電の「大塚線」は、大塚から伝通院を春日通りをまっすぐに走る路線。大塚駅から「都02」のバスに乗って、終点の錦糸町までゆくのもたのしそうだな、と明日のバス遊覧の夢が広がる。



f:id:foujita:20110410163735j:image

昭和7年10月、東京市が郊外の隣接町村を合併して15区から35区に広がったのを記念して発行された版画集、『大東京百景 版画集』(日本風景版画会、昭和7年10月1日)より、横堀角次郎による版画と小文、《御茶の水高女の候補地》。

 竹早町に下車すると、すぐ前に高等小学校の建物がそびえてゐる。屋上にサイレンの装置がして有る、これから植物園の方へ下つて行くと共同印刷の新建築が有るとのことだ。電車道をそのまゝ大塚の方へ進む。文理科大学前、右がはがその入口で女子アパートがそびえて居る。左がはは、市営バスの車庫大きなタンクが目につく。一寸先へ進むと右がはに窪町小学校、左に茗渓会館、坂道を下つたところが窪町、右がはに高大な新築の建物が見える。女子高等師範である。庭に入つて今歩いて来た道を望んで、この図とした。

 図の右がは、新築中の茗渓会館、煙突は女子アパートと窪町小学校、木の間の坂道を自動車や電車が通る。この庭は草原で、子供が蟲を追つたりして遊んで居る。職工の住むバラツクは震災直後を想ひうかべる風景だが、工事の出来上がつた暁には、立派な物にならう。又この附近は学校街として落付た発展ぶりを見ると思ふ。

当時の町並みが髣髴としてくる気がする。



と、戦前昭和の福原麟太郎の生活圏ということで、「学校街として落付た発展ぶり」を見せていたこの界隈をちょいと追ってみたくなった。紙上のモダン東京探索の際にいつもたいへん重用している都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)を参照すると、この界隈はやはり四角い学校の建物がたくさん登場している。



f:id:foujita:20110410163734j:image

《同潤会女子アパート》(同潤会・大阪橋本組・昭5)。1930年代のはじまりとともに誕生した大塚の同潤会の女子アパート。こちらのサイト(http://www.metropolis-tokyo.com/doujunkai/ap/otsuka/01.html)を眺めてにうっとり。



f:id:foujita:20110410163733j:image


f:id:foujita:20110410163817j:image

上が《茗渓会館》(曾禰中條建築事務所・戸田組・昭7)で、下が《東京女子高等師範学校》(文部省・清水組・昭7)。いずれも、上掲の『大東京百景』当時、すなわち、35区の「大東京」成立時には竣工直後の真新しい建物だったわけだ。福原麟太郎がこの界隈に居を構えたのは、古い原っぱや職工のバラックと荘厳な近代建築とが混在している時期で、それは「東京35区」の縮図だったのかもと思う。



f:id:foujita:20110410163816j:image

《大塚消防署》(警視庁・水内長吉・昭和6)。そして、上掲の大塚仲町の交差点の近くに大塚消防署のチャーミングな建物がそびえたっているのだった。これも1930年代東京!



f:id:foujita:20110411220931j:image

路上観察学会『昭和の東京 路上観察者の記憶』(ビジネス社、2009年1月)の60ページを開くと、林丈二さんが旧大塚消防署であるところの「小石川消防署」を紹介している!

藤森先生に聞くと、ロマネスク建築の真似みたいな様式に、ルネッサンス風の装飾がついて、とにかくデタラメでおもしろい建築だという。デタラメでおもしろいから保存されないのか、残念ながら現存せず。

林さんの絶妙な解説ににんまり。



そして、大塚といえばまっさきに思い出すのは、野口冨士男の小説『風のない日々』のこと。野口冨士男著『いま道のべに』(講談社、昭和56年11月)の一篇、「狐――大塚」(初出:「群像」昭和56年4月)では、

「伝通院のあたりまで行ってください」

 私はN君と眼の前に地下鉄丸の内線の駅もある新大塚のバス停あたりまで歩いてからタクシーを拾うと、運転手に告げた。

 取材のための歩行にあたって私はタクシーを利用することはめったにないので、それは例外中の例外であったが、大塚から伝通院までの間にはなんの関心もなかったからでもある。

荷風の生家のあった金剛寺坂から伝通院に到る道を歩くのは、野口冨士男の文章を読んで知ったたのしみなのだったが、伝通院に向かうときに横断する春日通りの左方向、すなわち福原麟太郎が戦前に住んでいた界隈のことをいままでほとんど気にとめたことがなかったのは、野口冨士男の《大塚から伝通院までの間にはなんの関心もなかった》に無意識のうちに感化されていたせいかも。しかし、例外的にタクシーで通過しつつも、伝通院の手前の界隈について、上掲の一節のすぐあとに、

大塚の花柳界あたりにも地形の高低があるが、春日通りも通り自体は平面でも左右はかなり落差のある低地で、いわゆる馬の骨の背の部分にあたる。小石川四丁目から左へくだる大きな坂は一名禿坂ともいわれる吹上坂で、坂下には徳永直が『太陽のない街』に書いた共同印刷がいまでもあるし、反対に右側の社会福祉会館と茗台中学の間をくだる幅の狭い石段の急坂は庚申坂で、坂下から逆に正面へ登る急坂が切支丹坂だから、そのあたりはまさに坂のある町々である。

と、緻密にヴィヴィッドに綴ってくれるのが、いかにも野口冨士男なのだった。この庚申坂と切支丹坂のある町がまさに福原麟太郎が戦前に居を構えていた「第六天町」。





午前9時半、「池之端二丁目」で下車。停留所のまんまえに「旧都電停留所(池之端七軒町)」の看板とともに、「都電7500形(7506号車)」の車両がフェンスの向こうに鎮座していて、「おお!」と思わず小走り。都バスに乗ってかつての都電に思いを馳せた直後に目の当たりにすると、ひときわ嬉しくって、頬が緩む。

 昭和30年代の都電全盛期の時代には、20系統(江戸橋〜須田町)、37系統(三田〜千駄木二丁目)、40系統(神明町車庫前〜銀座七町目)と三つの路線が走っていた区間でしたが、昭和42年(1967年)12月に37、40系統が廃止、昭和46年(1971年)3月には20系統も廃止になり、池之端七軒町(廃止時は池之端二丁目に改称)の停留場は姿を消しました。

 平成20年3月、都電停留所だったこの場所に都電車両を展示し、地域の歴史が学べ、まちのランドマークとなる児童遊園として整備しました。

という説明書きをフムフムと読む。



f:id:foujita:20110410163815j:image

看板の解説に添えられていた写真。「20系統」が停車中。「昭和45年1月1日撮影」とあった。雑誌『東京人』2007年5月号《特集・昭和30年代、都電のゆく町》にて、加藤丈夫さんが20系統に乗った通学時を、《私は千駄木小学校と開成の中学高校に通った七年間、東大赤門前から19番に乗って上富士前町に行き、そこで20番に乗り換えて道灌山下まで行った。帰りはその日の天候と気分次第で、団子坂を上り森鴎外の観潮楼の横を抜けて家まで徒歩で帰ることもあったし、道灌山下から池ノ端七軒町まで行き、そこから東大の構内を歩いて抜けることもあった。》というふうに回想している。いいなあ……。20系統は、お父上の加藤謙一の通勤コース(大日本雄辯會講談社)でもあったのは確実。




f:id:foujita:20110410163814j:image

と、本棚の奥に眠っていた雑誌『東京人』2007年5月号《特集・昭和30年代、都電のゆく町》をひさびさにとりだしてみると、たいへん充実した誌面に感激だった。表紙は、《建設中の東京タワーを背景に、赤羽橋を走る3系統。昭和33年5月撮影(写真・伊藤昭)》。


このたび、ひさびさに『東京人』の都電特集を参照してみたら、20系統がちょくちょく登場しているのがとても嬉しかった。昭和26年に神明車庫前に転宅した近藤富枝さんは、《叔母の嫁いだ菊富士ホテルには20番の江戸川橋行に乗り、次の上富士前町で19番に乗りかえ本郷三丁目によく通った。》とのこと(p34)。この文章の隣りに、《上富士前町を走る20系統。昭和43年12月撮影(写真・荻原二郎)》が配置されていて(p35)、いつもながらに荻原二郎先生の写真はなんとすばらしいのだろう! そして、神明車庫の建物がなんとなくモダンなのが嬉しい。神明車庫は現在「神明町車庫跡公園」になっていることを知ったことも興奮だった。さらに、この公園には「乙2 昭和16年製造。木製2軸電動貨車乙1形の2両のうち1両」と「6043 昭和24年製造。荒川線で走り続け、53年に廃車」が保存されているのこと(p104)。いつか絶対に行く!


都電20系統は「コレクター訪問」のページでも詳述されていて(p64-65)、そして圧巻が、出口裕弘さんの『都電、市電、ポンポン蒸気 ある遠景』(p86-91)。書き出しからして、

「上野公園」で乗って「音羽三丁目」で降りる。これが行き、帰りはその逆だ。系統番号20の都電が、前後三年間、私の通勤の足だった。

というから、たまらない。昭和26年から29年の三年間、堀切菖蒲園駅から京成線で上野へ出て、公園下の停留所で20番の都電に乗る、という通勤コースだった。

……二十二歳の新米教師は、「上野公園」と記された停留所で須田町から来た20番の都電に乗った。電車は不忍池のすぐ東側をしばらく専用路線で北西に向かって走り、まず「池之端七軒町」に停まる。ここまでが台東区、次の「根津宮永町」から文京区になる。「根津八重垣町」「団子坂下」「駒込坂下町」「道灌山下」「駒込動坂町」「神明車庫前」「上富士前町」「駕籠町」「丸山町」「氷川下町」「大塚仲町」「護国寺」そして「音羽三丁目」(この路線、みごとに文京区の北半分を縁取っている)。

そして、このあと、《都電ならぬ都バスが、まことに忠実に、昔の道を走り、昔のとおりに乗客を運んでいた》ことを報告している。まさにそのとおり、現在の都バス「上58」系統(早稲田〜上野松坂屋)がかつての都電20系統をそのまんまなぞっているのは、かえすがえすもたのしいことだ。




f:id:foujita:20110410163813j:image

野口冨士男『白鷺』(大日本雄弁会講談社、昭和24年5月15日)。装幀:岡鹿之助。「池之端七軒町」と聞いて、すぐに思い出すのは野口冨士男の短篇小説『池ノ端七軒町』のこと。初出は「日本文学」昭和24年1月号で、本書『白鷺』に収録され、『野口冨士男自選小説全集』(河出書房新社、平成3年7月)に再録されている。初出誌の「日本文学」は和田芳恵が編集していた雑誌。『池ノ端七軒町』執筆当時について、野口冨士男は、

 敗戦直後のことだが、私は凧屋の娘が少女時代に凧揚げをしていて知り合った少年と、戦争を間にはさんで恋仲になるというプロットの小説を書くために、東京の地図をひろげてみたことがある。その地図は、戦災で焼失した地域がピンク色で示されているものであったが、私は作中人物に凧揚げをさせるためになるべく宏大な感じのする広場をさがしものとめて、代々木練兵場でもない、戸山ヶ原でもないと迷った末に不忍池をえらんだ。

 不忍池で凧揚げをするなどという設定は私に関するかぎり、実際に上野を歩いたのではとうてい想いつかない。地図から得たヒントであり、その上にふくらんだロマンであったから、原稿を書いている途中で何度か現地へ行ってみたい誘惑にかられても、ついにその欲望をおさえ通して、記憶のなかにある上野だけで書き上げてしまった。自身のイメージを、大事にしたかったからであった。

と書いている(「都内あるき」(初出:「朝日新聞」昭和48年3月10日-『断崖のはての空』(河出書房新社・昭和57年2月)所収)。




f:id:foujita:20110410163842j:image

野口冨士男が愛用していた『コンサイス 東京都35区区分地図帖 戦災焼失区域表示』(日本地図株式会社、昭和21年9月15日発行)の復刻版(日地出版株式会社、1985年3月10日発行)より、池之端七軒町界隈を拡大。こうして部分だけ取り出すとわかりにくいけれども、上野公園のまわりが「戦災焼失区域」のピンク色に覆われている一方で、上野公園だけがすっぽりと抜けている。隣接する「池之端七軒町」はピンクに染まっていて、戦災で焼失してしまった町のそのすぐ隣りの上野公園一帯は戦前のままの風景だった。その鮮やかなコントラスト。そんな東京地誌を根底にした小説の効果は見事なほど。




f:id:foujita:20110410163841j:image

『建築の東京』で見つけた《池の端 松方日ソ給油所》の写真、竣工年月日記載なし。この道路の向こう側の斜め右あたりに池之端七軒町の停留所があった模様。このガソリンスタンドも戦災にあってしまったのかな。





そんなこんなで、午前9時半、池之端二丁目で下車して、上野公園の敷地に沿って、本日最初の目的地「国立国際こども図書館」に向かって、ゆっくりと歩いてゆく。



f:id:foujita:20110410163840j:image

前掲の《東京日日新聞附録 大東京最新明細地図 隣接町村合併記念》より、池之端七軒町と上野公園を拡大。この地図の左端の池之端七軒町から、最上部真ん中に位置する図書館に向かう。


この道は前々から大のお気に入りの散歩コースなので、たまに歩く機会があるとそれだけで嬉しい。バス停の先の森鴎外旧居跡の「水月ホテル鴎外荘」のところで左折し、ほどなくして並びに、昭和4年竣工の「旧忍旅館」の建物。清水坂をのぼって、芸大の脇に出る。風に揺れる木々の葉のザワザワした音だけがかすかに響いていて、空気はひんやりと頬に心地よく、そしてどこまでも静寂で、ここ二週間というもの気が滅入ってばかりだったけれども、こうして静かな路地を歩いていると、だいぶ気持ちが平静になってくる気がする。たとえて言うならばチェーホフを読んでいるような感覚。なんとはなしに『ワーニャおじさん』のラストのソーニャのセリフが頭に思い浮かんだ。


近代建築もよいけれども、お寺の木造の建物もいいな、いいなと歩を進めて、いい気分で遠回りをして、寛永寺の手前で右折して、図書館の前に到着。今日は通常より30分遅れの午前10時の開館と貼り紙があり、それまでの数分、並びの黒田記念館を眺めて、道路を横断して、博物館動物園駅の建物をゆるりと見物して、ふたたび図書館に戻ると、ちょうど扉が開いたところ。



f:id:foujita:20110410163839j:image

博物館動物園駅の壁の向こうに黒田記念館の建物が見える。このランプは去年2010年に復元されたものだという。ランプの下の解説プレートに、昭和8年の竣工時は6灯の照明器具が三方に開いた出入口を照らしていたのが、戦時下に金属供出により撤去された、とある。



f:id:foujita:20110410202521j:image

ふたたび、路上観察学会『昭和の東京 路上観察者の記憶』の66ページを開くと、またもや林丈二さんが今度は「京成博物館動物園駅」を紹介している。

石の壁にピラミッド状の屋根。国会議事堂を真似たような駅だが、実際はこの駅のほうが議事堂より三年早く完成した。一度だけホームに下りてみたことがあるが、戦前の匂いがした。地下にあった駅は廃止されたが、駅舎は現在も保存されている。

京成が日暮里から延びて上野に達したのが昭和8年12月10日、「上野公園駅」の開業と同時に博物館動物園駅と寛永寺坂駅が誕生した。上野の地下の「東京昭和八年」。



f:id:foujita:20110410202522j:image

展覧会図録『高梨豊 光のフィールドノート』(東京国立近代美術館、会期:2009年1月20日-3月23日)の76ページを開くと、「戦前の匂い」がする博物館動物園駅のホームの写真(1986年撮影)。隣りのページの銀座線稲荷町駅の写真が配置されていたりと、グッとくる写真のオンパレードで宝物の図録なのだった。博物館動物園駅は1997年4月1日に休止され、2004年4月1日に廃止となったというから、結構最近まであったのだなあ。一方、「寛永寺坂駅」は昭和28年2月23日、小津安二郎の『東京物語』と同年に廃止されている。




正午過ぎ。カリカリと図書館で調べものを済ませて、ふたたび外に出る。あいかわらず風は強いけれども、よいお天気。あいかわらず空は真っ青だ。博物館の前の道を直進し、両大師橋を渡って、旧下車坂町の地に降り立つ。



f:id:foujita:20110410163916j:image


f:id:foujita:20110410163915j:image


f:id:foujita:20110410163914j:image


f:id:foujita:20110410163912j:image

小津安二郎『東京物語』(昭和28年11月3日封切)より、寛永寺の門前に座って、南京豆を頬張っていた笠智衆と東山千栄子が、両大師橋を渡って、代書屋をしている同郷の旧友・十朱久雄を訪ねるまでのシークエンス。両大師橋の下の広大な線路は映らず、おなじみのローアングルでのショットで、東京の空が引き立つ感じ。橋梁はまったく別になってしまっても、両大師橋を渡っているときは、いつもこの映画そのまんまの高大な空を感じる。



f:id:foujita:20110410163946j:image

前掲の『コンサイス 東京都35区区分地図帖 戦災焼失区域表示』の「浅草区、下谷区」のページより、上野から浅草までの道のりを拡大。戦災焼失区域を示すピンク色の浅草と、ピンクに染まっていない上野とのコントラスト。



f:id:foujita:20110410182530j:image

桑原甲子雄《下谷区上野両大師橋》(昭和11年)。下谷区車坂町の住人だった桑原甲子雄にとって、両大師橋は庭のようなもので、何枚も写真を撮っている。桑原甲子雄『東京 1934〜1993』フォトミュゼ(新潮社、1995年9月)の巻末の著者解説で、《この階段を上がった橋の上から、レールが何十本も流れているのを見おろし、往き来する汽車や電車を眺めて飽きなかった》と回想して、両大師橋を《上野公園の高台から線路をまたいで下町へ降りてゆく陸橋》と定義づけている。




両大師橋からぐるっと、旧下車坂町の地に降りたち、浅草に向かうべく、「かっぱ橋本通り」の入口に差しかかると、目の前に建設中のスカイツリーがそびえたっていて、それはそれは見事な光景だった。業平橋のスカイツリーがここからこんなに間近に見えるとは思わなんだ。にぎやかで古びた商店街の光景が目に愉しく、途中ちょっとしたおやつを買ったりなんかしつつ、スカイツリーを眼前にいい気分で浅草に向かって、通りを直進する。この「かっぱ橋本通り」を直進すると、国際通りの公園六区入口に行きつく。ここから、浅草に入るコースが前々から大好きだーと思わず小走りになって信号を渡って、六区に入る。おなじみの250円の弁当屋の前を通るとそれだけでいつもなぜかニヤニヤしてしまう(買ったことはないけど)。


両大師橋をくだって、上野から浅草まで直進してきた「かっぱ橋本通り」は、浅草区の旧町名の「芝崎町」と「田島町」の境界になっている。荷風の『ひかげの花』(初出:「中央公論」昭和9年8月)に登場する、《浅草芝崎町の天岳院に日輪寺という大きな寺のあるあたり、重に素人家のつづいた横町》の《洗濯屋の二階》のことを思い出して、六区に入り、続いて《横町の片側は日輪寺のトタンの塀であるが、彼方に輝く燈火を目当に、街の物音の聞える方へと歩いて行くと、じきに松竹座前の大通に出る。》というくだりを思い出しつつ、ひさしぶりに、ローヤル珈琲店にゆく。



f:id:foujita:20110410183345j:image

ふたたび桑原甲子雄の写真、《浅草公園六区帝国館横》(昭和10年)。桑原甲子雄『東京 1934〜1993』フォトミュゼ(新潮社、1995年9月)の巻末の著者解説は、《現在の ROX ビルが建っているあたり。左は松竹座。帝国館の隣は富士館。富士館のサイレントのチャンバラ映画には耽溺した。町田旭昇、鈴木梅龍といった弁士の名をおぼえている》。




ローヤル珈琲店でコーヒーを飲んで、サンドイッチをつまむ。ローヤル珈琲店はずいぶんひさしぶりだったけれども、あいかわらず居心地がよいなあ! と上機嫌になって、ふたたび外に出て、浅草名画座の前を通りかかり、メラメラと近日の来訪を決意しつつ、本日2番目の目的地、浅草三業会館へとズンズンと歩を進めて、午後2時より「雲助蔵出し」。本日は『やかん』『佐野山』『お若伊之助』の三席なり。


午後4時過ぎ。ふたたび外に出て、雲助さんの落語会があんまりすばらしかったので、すっかりハイになってしまい、吾妻橋に向かって、駆け足。叫びたいくらいにすばらしかったので、思わず走ってしまった次第であった。前々から琴線に触れて仕方のない東武ビルディング裏手の東武線の高架下を通り、吾妻橋を渡ると、スカイツリー見物の人びとで歩道は結構混みあっている。本所吾妻橋から、ふたたびバスに乗る。業平橋・新橋間を走る「業10」の都バスは、これまたかねてよりお気に入り路線。のんびり銀座へと小一時間揺られてゆくのだった。朝からハリきって疲れてきたのかいつのまにかスヤスヤと寝入ってしまい、目を覚ましたら、バスはちょうど晴海にさしかかったところ。銀座4丁目の2つ手前の築地6丁目のバス停で下車して、のんびり歩を進めて三原橋に到着したところで、日没。いい一日だったなあと、午後6時。



f:id:foujita:20110410165656j:image

前掲の『コンサイス 東京都35区区分地図帖 戦災焼失区域表示』の「日本橋区、京橋区」のページより、月島と築地界隈を拡大。「業10」のバスにのって勝鬨橋や月島を通ることで体感する「水の東京」が格別なのだった。月島や築地界隈は大部分が戦災の被害にあっていない。




f:id:foujita:20110410163942j:image


f:id:foujita:20110410163941j:image

小津安二郎『長屋紳士録』(昭和22年5月20日封切)より。築地本願寺の裏手の水辺で釣りをする子供たち。

20100927

秋日和関西遊覧その3:武庫川から阪神国道へ。住吉と御影。

(※前回の2010年9月26日付けの関西遊覧日記の続き。午前のバスに乗ってモダン大阪遊覧のあとに続く、午後の阪神間遊覧日記です。)


武庫川から阪神国道へ。大庄町の村野藤吾。浜田車庫発野田行きのバスに乗り、「阪神国道線」に思いを馳せる。


正午過ぎ、大阪市バスを難波で下車したところで、本日の大阪町歩きはおしまい。午後からは、極私的「阪神間モダニズム」探索なのだった。という次第で、まずは難波から阪神なんば線に乗って、尼崎方面へ向かう。かつて「西大阪線」という名称だった阪神電車は、尼崎から西九条まで運行していた。以前に一度だけ乗ったことがあって懐かしいのだったが(2008年6月)、その西大阪線は今や大阪難波にまで伸びて、2009年3月に「阪神なんば線」となり、近鉄電車と連絡して奈良と神戸を1本で結んでいる。



f:id:foujita:20110225215702j:image

午前中に掲載の戦前の《阪神電車沿線案内》の反対側の表紙。阪神沿線の風物が表と裏の全体にチャーミングに図案化されている。


f:id:foujita:20110213160047j:image

この《阪神電車沿線案内》より、千鳥橋・尼崎間を拡大。阪神西大阪線はかつては「伝法線」という名称で、大正13(1924)年1月に大物・伝法間が開通し、同年8月に伝法・千鳥橋間が開通し、昭和3(1928)年12月28日に大物・尼崎間が開通した。昭和39年5月に伝法・西九条間が開通して「西大阪線」となるまで、ながらく「伝法線」がこの経路を運行していた。


難波からの電車は近鉄の車両だった。大混雑だった車内は大阪ドームの最寄り駅で一気に閑散となったところで、九条にさしかかり、安治川を渡る。いつか安治川界隈を歩いてみたいものだなあと、車窓をたのしみつつ将来の大阪町歩きに思いを馳せているうちに、伝法駅を発車して、電車は新淀川を横断。

 姫島、大和田の村々は、昔から川魚の本場で、特に大和田の「鯉つかみ」は有名であつた。昔はこゝを大物と呼んで、大阪における船舶の集散地であつた。それに大野、福、難波、九條、野田など……みな川魚が盛んであつた。勝間浦の海苔、野田のうなぎ、九條、野田の蜆貝、木津難波の蛤……と「摂津志」は書いている。

 しかし、いまでは、魚の棲むやうな川筋は全くなくなつてしまつた。諸川から吐き出す土砂のため年々海は浅くなつて行く。石油船の音響で魚類は追ひまくられる。工場からは油を流して、川といふ川はみな汚水を湛へる。それに地形の変遷、新淀川の開墾、埋立、或ひは閘門の築造など自然水流は澱んで動かなくなり、魚の棲息によい條件は何一つとしてなくなつてしまつた。

と、これは、北尾鐐之助の『近代大阪』(創元社、昭和7年12月刊)所収の「新淀川漫歩」のなかの一節。海に程近い新淀川の水面の上をゆきつつ、工場の密集地帯を車窓からのぞむのはそれだけでたのしい。ここに限らず、電車で新淀川を渡るのはいつだって特別の瞬間で、いつもクッと身構えてしまう。


f:id:foujita:20110213160046j:image

大物で阪神本線に合流して、次は尼崎。いつもなぜか心惹かれる旭硝子の工場を車内から撮影。尼崎駅界隈から海の方向の眺め、工場の眺めがいつも大好き。尼崎駅直前のどこかの工場では煉瓦ののこぎり屋根工場をはじめとして、見どころたっぷりの工場を散見できて、「おお!」と興奮だった。あっという間に通過してしまい、残念。


f:id:foujita:20110213160045j:image

阪神電車を武庫川で下車。この駅を下車するのは5年ぶり。武庫川の上に架かるという独特の駅構造が嬉しい。


f:id:foujita:20110213160044j:image

改札の外に出ると、ホームの裏手が武庫川に架かる橋になっている。


f:id:foujita:20110213160042j:image


f:id:foujita:20110213160253j:image

駅の外に出て、さア、5年ぶりに古本屋さんの「街の草」へ参りましょう! と、日曜日の午後ののんびりした駅前の雰囲気に和みつつ、テクテクと歩いてゆく。



5年ぶりに訪れた「街の草」は5年前に初めて訪れたときとまったく変わらないたたずまい。その変わらない風情にたいへん和む、昼下がりのひととき。あれこれ迷った末の、本日のお買い物は、竹内勝太郎と秋山清の詩集。昨日の長瀬の古本屋の小野十三郎に引き続いて、詩集ばかり買っている。


f:id:foujita:20110213160252j:image

街の草を背にふたたび元来た道を戻る。商店街のアーケードの端っこの酒屋さんの「アサヒビール」の看板が素敵。


そのアーケードを直進し、左折すれば武庫川駅という線路沿いの道を右折して、阪神電車の高架をくぐって、隣駅の尼崎センタープール前駅の方向へとテクテク歩く。「尼崎センタープール」というのは、競泳場ではなくて競艇場なのだそうだ。


今朝、阪神電車で野田へゆき、野田から天六行きの阪神バスに乗って、かつての「阪神北大阪線」の路線をたどって、近代大阪を走っていた路面電車を頭に思い浮かべて悦に入っていた。北大阪線には、2009年3月の関西遊覧の折に、北尾鐐之助の『近代大阪』所収の「高架線の中津」の真似をして中津を歩いたときに、初めて思いが及んだのだったが、その一方、2009年12月に、戦前の《阪神電車沿線案内》を参照しながら、梅田から三宮に移動したときには、東神戸から野田の間を運行していた路面電車、すなわち「阪神国道線」の存在に初めて目を見開かされて、いつの日か、阪神国道を走る阪神バスに乗って、阪神国道線に思いを馳せてみたいなとフツフツと思ったものだった。都バスに乗りながら、かつての都電に思いを馳せるのとおんなじように。と、将来の「阪神間モダン探索」のたのしみに胸は躍るばかりだったのだけれど、このたびの秋日和関西遊覧においては、北大阪線のバスに乗るという長年(でもないが)の夢が実現をみたわけで、勢いにのって、阪神国道線の方も実行に移せないものかどうかと思いついたところで、本日午後の行程表が綿密に練り上げられたのであった。


という次第で、阪神電車を下車し、阪神バスに乗るべく阪神国道に向かって歩いてゆくことになったのであるが、なんとまあ嬉しいことに、阪神電車の線路と阪神国道の間に位置する、水明公園と蓬川公園という名の公園に阪神国道線の往年の車両が保管されているというではありませんか(Wikipedia を参照して知った)。阪神国道を走る阪神バスに乗って「阪神国道線」に思いを馳せる、その前に往年の車両を見ることができるのはもオツなことだなア! と、知ったとたんに大喜びだった。これは行かないわけにはいかない。


f:id:foujita:20110213160251j:image

武庫川からテクテク歩いて、阪神電車のガード下をくぐり、隣駅の尼崎センタープール前駅近くにたどりついた。競艇場を右手に阪神国道の方向へちょいと直進した先、ちょうど競艇場の裏手に位置するように水明公園がある。


f:id:foujita:20110213160250j:image

本当に阪神国道線の電車が保管されているのかしらと不安になりつつ、おそるおそる園内に足を踏み入れる。もしここに電車がなかったらその絶望からわたしは立ち直れるだろうかと心配だったのだが、すぐに、隅にひっそりと阪神国道線の車体らしきものがあるのが視界に入り、心配は一瞬で払拭し、思わず小走り。ずいぶん色褪せていて、哀愁すらただよっているが、電車は本当にあった!


f:id:foujita:20110213160249j:image

間近で見ると、ますます色褪せている阪神国道線の車体。これは「71形」という車体。《この阪神電車は、昭和2年7月西野田〜東神戸間が開通して以来、昭和50年5月までの48年間、私達の足として長年親しまれてきたことを記念し、郷土の歴史の一環として保存、展示するものです。この電車は昭和12年2月汽車会社で生まれました。…(後略)…》という説明書きが付されている。


f:id:foujita:20110213160447j:image

《71形77号甲子園線(昭和11年11月3日)》、小林庄三『神戸市電・阪神国道線』(トンボ出版、1998年2月1日)より。阪神間モダンを体現するかのような写真。車内にはたくさんの帽子をかぶった子供たち。阪神パークに行楽に出かける家族連れ。


f:id:foujita:20110213161515j:image

上掲の《阪神電車沿線案内》より、甲子園附近を拡大。戦前の阪神沿線でもっとも胸躍るのは、もっともにぎやかな甲子園界隈だ。上甲子園駅から国道線の支線というかたちで「甲子園線」というのがかつて運行していた。


f:id:foujita:20110213145451j:image

《完成せる浜甲子園健康住宅経営地》、『工事画報 昭和十一年版』(株式会社大林組、昭和11年6月25日)より。上掲の「71形」と同時代の浜甲子園の住宅地。


f:id:foujita:20110213160446j:image

同じく、小林庄三『神戸市電・阪神国道線』より、《71形71号甲子園テニスコート前(昭和12年5月16日)》。出来たてほやほやの「71形」は、庭球場の近くを走っている。たぶん「71形」が一番輝いていた時代。


f:id:foujita:20110206220102j:image

と、ここで、今朝、野田から天六まで阪神バスに乗って思いを馳せていた北大阪線の「71形」を思い出して、小林庄三『神戸市電・阪神国道線』に掲載の《71形73号天神橋筋六丁目(昭和48年9月25日)》を再掲。こちらは昭和50年5月の引退を間近に控えている時期。



一見ごくありふれた住宅街という雰囲気だけれど、尼崎センタープール前駅から阪神国道に向かって歩く途中に位置する尼崎市大庄町は、絶好の「阪神間モダニズム」スポットなのだった。1930年代の阪神間と大阪市中の道路を走っていた「71形」が保存展示されている水明公園だけでも大喜びなのに、水明公園を出て阪神国道に向かって歩を進めて二番目の交差点の左先に位置する「尼崎市立大庄小学校」はきれいに補修されてはいるけれども、1930年代阪神間モダン建築のありようを濃厚に残しており、さらに、その大庄小学校の隣りには「尼崎市立大庄公民館」が、すなわち昭和12年竣工の村野藤吾の設計による旧大庄村役場が鎮座している。


f:id:foujita:20110213160445j:image

水明公園を出て阪神国道に向かって歩を進めて二番目の交差点を右折して、歩道橋の上から大庄小学校と大庄小学校をのぞむ。建築もすばらしいけれども、阪神間に来るといつもまっさきに感激するのは、低山の連なりの眺め。しばし眺めて、いつも心がスーッとなる。


f:id:foujita:20110213160444j:image

大庄小学校を正面からのぞむ。このいかにもモダンな形状と窓の配置が嬉しい。阪神間モダン探索のわが必携書、「阪神間モダニズム」展実行委員会編『阪神間モダニズム』(淡交社、1997年10月)所収の、梅宮弘光氏の論考「阪神間の公共建築 ポピュラリティーの表象」がかねてより大のお気に入り。

 日本の近代化過程でポピュラー・アーキテクチャーが出現する時期は、阪神間では都市化に拍車がかかる時期である。鉄道や私鉄の敷設など明治初期以降順次進められてきた阪神間の交通整備は、昭和二年(一九二七)の阪神国道開通で基本的骨格が完成する。こうした基盤の上に、ポピュラー・アーキテクチャーとしての公共建築が出現するのである。

かねてから思い入れたっぷりの御影公会堂も阪神国道沿いだったことを思い出す。

 急激な人口増加にともない、昭和期に入ると阪神間でも多くの鉄筋コンクリート造の小学校校舎が建築された。その設計が基本的には標準化されていたのは、すべての子どもの就学を求め、階級、男女、貧富の差のない単一的な教育課程がめざされた小学校という施設は、教科書やカリキュラムと同様に国民化のための装置だからである。阪神間の小学校校舎の設計には、清水栄二や古塚正治といった自営建築家も関わっていて個性的な意匠もみられるが、そうした微差をはるかに超えて国家規模のポピュラリティ―が覆っていたのである。

と、大庄小学校はまさにそんな「阪神間モダニズム」の典型の建物。同書に紹介されている学校建築を眺めて、今後も折に触れ、学校建築を軸に阪神間を歩くのもいいかもと将来の遊覧のたのしみが広がる。


f:id:foujita:20110213160443j:image

村野藤吾の大庄村役場(左)と大庄小学校(右)の間の道路に架かる歩道橋から、右手の大庄小学校を望む。昭和2年5月18日に阪神国道が開通し、やや遅れて同年7月1日に阪神国道線が開業した。モダンな外観を残している小学校を遠くから眺めながら、上掲の1930年代の「71形」の車内に乗って甲子園に行楽に出かける子供たちのことをなんとはなしに思い出すのだった。


f:id:foujita:20110213160639j:image

歩道橋に立って右手には大庄小学校、そして左手には旧大庄村役場、現・尼崎市立大庄公民館。


f:id:foujita:20110213160638j:image

村野藤吾による昭和12年設計の大庄村役場は、村野にとって最初の庁舎作品であった(『村野藤吾 建築案内』)。ワオッと路面に降りて、大庄村役場の建物に向かって小走り。上の写真に写る左の塔の真下に行ってみると、歩道橋上から眺めていたときは想像もできなかったような曲線になっていて、いざ目の当たりにすると、その流線型が実に見事に道路の形状と調和している。


f:id:foujita:20110213160637j:image

その脇道を直進して、まわれ右。背後からのぞむと、またもや想像もしていなかったような複雑な造形が目にたのしい。『村野藤吾 建築案内』(TOTO 出版、2009年11月)によると(越後島研一氏の解説)、

小規模だが造形は複雑で、方向により異なる表情が目を楽しませる。背後の西側では、階段状を目立たせ、その足下の平屋部分の壁面が、敷地に沿って流れていた水路(現在は道路)をなぞって湾曲。塔も、頂部は打ち放しコンクリートの櫓となり、側面にはレリーフがある。外装が当時の彼が好んだ塩焼きタイルで、基本は焦げ茶色だが、近づくほどに、赤っぽくも、黒っぽくも見える。

とのことで、フムフムとうなづくことしきり。かつて小川が流れていたという道路から建物をのぞむと、建物全体が船舶のような表情をも見せる。


f:id:foujita:20110213160636j:image

左端の塔の真下に立って、建物を見上げる。


f:id:foujita:20110213160634j:image

やや後ろに下がって、大庄村役場の入口をのぞむ。『村野藤吾 建築案内』所収の解説によると、高くない塔が立ち前面に中庭のある設計は、村野が渡欧した折に感動したストックホルム市庁舎(ラグナル・エストベリ設計・1923年)に似ているとのことで、気になって取り急ぎ Wikipedia を参照してみたところ、ストックホルム市庁舎は早稲田大学の大隈講堂の建築にも影響を与えていると知った。大隈講堂も正面左の塔が目に愉しい建物。近代建築の影響の連鎖がおもしろいなアとしみじみ。


f:id:foujita:20110213161000j:image

上の写真の右端に写るエントランスの天井は、いざその真下に行ってみると、またもや想像もしていなかった曲線を描いている。


f:id:foujita:20110213160959j:image

このエントランスの後ろにゆき、建物の左手にはこんなレリーフが。


f:id:foujita:20110213160958j:image

そして、エントランスの正面上部にあるレリーフ。細部の尽きない面白さに建物見物の興奮も尽きないのだった。


炎天下の下、武庫群大庄村界隈における「阪神間モダニズム」に興奮のあまり、阪神国道沿いに向かうその前にちょいと足を伸ばすことにして、大庄小学校の裏手の道をテクテクと武庫川を背中に、蓬川に向かって歩く。せっかくなので、蓬川公園の「71形」の見物にも行ってみることに決めた。村野藤吾に興奮のあまりボルテージがあがり、思わず足を伸ばしてしまったが、炎天下のこれといった視覚的たのしみの見当たらない直線道路を歩いて、蓬川公園に到着するころには息も絶え絶え、園内にひっそりと保存されている「71形」を目の当たりにしても、先ほどの水明公園のときほどには意気はあがらない。


f:id:foujita:20110213160957j:image

「71形」の近くのベンチでちょいと休憩。静かな日曜日の午後。


f:id:foujita:20110213160956j:image

蓬川公園をあとにして、阪神国道に向かってテクテク。「崇徳院」という住居表示を目にしたとたん、頭のなかが落語の『崇徳院』一色になる。「瀬をはやみ〜」という志ん朝の声が頭のなかに鳴り響く。


f:id:foujita:20110213161027j:image

と、「瀬をはやみ〜」を頭のなかで鳴り響かせながら、炎天下の道路を無心に歩いて、ようやく念願の阪神国道に到着。特になんということもないような国道沿いの殺風景な町並みであるが、いざ目の当たりにすると、万感胸に迫るものがある。それほどまでにわたしの阪神国道に対する思いは深い。



武庫川駅を下車して、尼崎センタープールから阪神国道に向かってテクテク歩いて、旧大庄村役場から蓬川公園に向かって歩いて、崇徳院を経由して、阪神国道に到着し、歩道橋の上に立つ。


f:id:foujita:20110217213945j:image

阪神国道の歩道橋から六甲の山なみをのぞむ。住居表示ではここは「尼崎市浜田町」。阪神国道沿いの、あえて浜田町まで歩いてきたのは、その地名に親しみが湧いたというわけではなくて、阪神国道線に思いを馳せつつ、阪神国道を通るバスに乗ってみたいなと思いついたあとで、「浜田車庫」の存在を知ったのがきっかけだった。阪神国道線には昭和2年7月1日の開業当初から「浜田車庫前」という駅があり、それが現在の阪神バスの停留所の名として残っているのを知って、ちょいと興奮だった。


f:id:foujita:20110217213944j:image

《浜田車庫(昭和49年3月16日)》、小林庄三『神戸市電・阪神国道線』(トンボ出版、1998年2月1日)より。かつて「浜田車庫」には国道線の車両がたくさん停まっていた。先ほど、水明公園と蓬川公園で立て続けに目にした「71形」もこの車庫にたくさん停まっていた。


f:id:foujita:20110217213943j:image

感激だったのは、かつて国道線の電車がたくさん停まっていた浜田車庫は現在は阪神バスの車庫としてそのまま継続しているということ。そして、さらに感激だったのは、かつての浜田車庫の広大な土地の一部が「阪神タイガース浜田球場」という名の野球場になっているということ。阪神電車沿いの甲子園球場のことは知っていたが、阪神国道沿いにも阪神の球場があったとは、このたび阪神国道来訪を決意するまでまったく知らなかった。



関西に来ると、いつもなぜか、現存、非現存を問わず、球場のある(あった)場所をちょいと遠くからのぞむのがたのしい。前々から、阪神電車の車窓から甲子園が見えてくる瞬間が大好きだったけれど、南海電車の難波から見えた球場跡、阪急電車から見えた西宮球場の跡地、森ノ宮駅の近くの日生球場に、うっかり寝てしまい見逃してしまった近鉄電車の藤井寺球場……。阪神本線沿いに甲子園球場が威容を誇る一方で、殺風景な阪神国道沿いには車庫の裏手にひっそりと阪神の球場があるというのがいいではありませんか、と阪神国道から浜田球場をのぞむのをたのしみにしていたものだった。念願かなって、やれ嬉しや。


f:id:foujita:20110217213942j:image

歩道橋の上から浜田球場をのぞんで、道路を横断して、次は現在の「浜田車庫」をのぞむ。外からはよく見えないけれども、阪神バスの車庫。


f:id:foujita:20110225191044j:image

前掲の《阪神電車沿線案内》より、阪神国道線の浜田車庫・野田間を拡大。画像不鮮明ではあるけれども、左端の浜田車庫の隣駅は西難波で、その手前に蓬川が流れている。朝の「北大阪線」の野田・天六間に引き続いて、本日2本目の阪神バスは昼下がりの「国道線」の浜田車庫・野田間のバス。「北大阪線」と同様に、こちらの「国道線」も野田までゆくバスは本数が極端に少ない(午後は12時40分、14時30分、16時20分で、最終が19時30分)。「阪神杭瀬駅北」「阪神尼崎」行きは本数が多いのだけれど、ここはぜひとも野田行きにこだわりたかった。


f:id:foujita:20110217213941j:image

バス停前のベンチにぼんやり腰かけて、浜田車庫発野田駅行きのバスが来るのをを待つ。御堂筋を通る大阪市バス103系統に乗る前は、堂島川沿いの喫茶店でコーヒーを飲むことができたけれども、こちらはこれといった店は見当たらない。大阪の「都市の中心」と阪神国道沿いの「都市の周縁」という、「モダン関西」当時そのまんまの感覚をヴィヴィッドに体感したひとときだったともいえる。


f:id:foujita:20110217214115j:image

時刻表が指し示す14時30分が近づいてもバスがやってくる気配はまったくなく、本当にバスは来るのだろうかと不安になっていたら、時計の針が2時半をまわったとたんに何の前触れもなく正面の浜田車庫からものすごい勢いでバスが突進してきて、びっくりであった。


ともかくも、浜田車庫発野田行きのバスに無事に乗りこんで、ほっと胸をなでおろす。ほかに乗客はおらず、貸切状態でバスは阪神国道を淀川に向かって、疾走してゆく。かつての阪神国道線の路線図の上を走るバスに乗って、野田へと向かう。


f:id:foujita:20110216230609j:image

《阪神国道》、『西日本現代風景』(「大阪毎日新聞」附録、昭和6年9月5日発行)より、《大阪西野田から、神戸敏間まで、二五・九キロ、中央には阪国電車、高速度、緩速度二ツの車道、それを区切るプラタナスの並木、日本一の近代的大道路である》。



さて、阪神国道といえば、まっさきに思い出すのは、なんといってもダンス・ホール!


f:id:foujita:20110217220328j:image

《尼崎ダンスホール》、照明学会編『照明日本』(社団法人照明学会、昭和11年11月28日)に掲載の写真、ゆまに書房「コレクション・モダン都市文化」第21巻『モダン都市の電飾』(2006年12月15日)より。


f:id:foujita:20110217221706j:image

《阪神会館 ダンスパレス(竣工:昭和5年12月、設計:貞永直儀)》、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日)に掲載の写真、『復刻版 近代建築画譜〈近畿篇〉』(不二出版、2007年6月25日)より。住所は「兵庫県川辺郡小田村杭瀬」。


北尾鐐之助著『近代大阪』(創元社、昭和7年12月)に、「国道筋の夜に」と題した章がある。

 ……ダンス・パレス!

 さう云ひさへすれば、タクシーは黙つてハンドルを西に切る。

 大阪では、いま猶ほダンス・ホールは許可されてゐない。しかし、大阪のどこにゐても、ホールの名さへ云へば、タクシーは、直ちに阪神国道に向つて走る。それほど国道筋のダンス・ホールは普遍化されてゐる。

 車が野田阪神の踏切を越して、愈よ国道筋に出ると、急に速度を増して、真暗な淀川大橋の上を辷る。神崎大橋=左門殿橋を越しさへすれば、すぐそこが杭瀬。……兵庫県である。

 大阪に近いところ……自動車の走るによいところ……地所の安いところ……附近の静かなところ、さういふ條件が、ダンス・ホールの殆どすべてを阪神国道筋に集合させた。

 壮快なドライヴ。スピードを享楽しつゝ、微醺の顔に冷たい風を受けて、久しぶりにポルモールでも吹かせながら、夜の闇を辷つて行くと云つたやうなことは、なるほど、いかにもダンス・ホールへ!。といふ安価な人生修業にぴつたり来る。

 車がとまる。

 田舎のホテルか、乃至は診療所と云つた形ちの白い建物が、国道筋から少し離れて、夜の闇の中へぼんやりと描き出されてゐる。低い照明が少し下へ落ちて、苅稲のつゞみと、引つ傾いた案山子などが照らされてゐる。かういふ場合、その白い建物の中から、やゝ急テムポな、フオツクス・トロツトでも響いて来ると、本当の狐の棲家でもあるらしく、あはれにも、をかしくなつて来るのだが、彼等はいさゝか傾いた靴の踵を苦にしながら、鷹揚に、田圃の間を通ずる広い小石にステツプを踏んで行く。

関西モダニズムを語る上ではずせないトピックのひとつが、大阪の周縁のダンス・ホール。瀬川昌久著『増補決定版 ジャズで踊って 舶来音楽芸能史』(清流出版、2005年10月)によると、《大正十四年春ごろの大阪のダンスホールは、東京よりもむしろさかんだった》(p115)。大正15年には、大阪のダンスホールは爛熟を極め、年末の天皇崩御の際も「ジャズで踊って」というありさま。昭和2年に大阪府警は取締に乗り出し、同年3月24日に規制により大阪市内のダンスホールが閉鎖され、以後、昭和15年の全国のホールが閉鎖されるまで大阪市内にダンスホールが復活することはなかった。そして、昭和2年の規制以降、「大阪との行政区域の境界スレスレ」に次々とダンス・ホールが誕生していった。

昭和三年以降、兵庫県の杭瀬、尼ヶ崎、宝塚、奈良県生駒などの数カ所に、豪壮なダンスホールが続々建設されたが、その経営者はすべて大阪人、ダンサーもほとんどが大阪を根城とし、お客も九分どおりは大阪から吸収しよう、という計画だった。この作戦はみごと図に当たって、人里離れた県境筋に、いくつかの華麗な踊りの殿堂が不夜城のごとくに現出したのである。(p115)

北尾鐐之助の『近代大阪』の「国道筋の夜に」はまさにそのまっただ中のルポルタージュ。


一方、東京でも警視庁の取り締まりはあったものの、都内にダンス・ホールは数カ所残され、その頂点に君臨していたのが、昭和4年に開業した溜池の「フロリダ」。玉川一郎『CM漫談史 附 欧米CMのぞき』(星書房、昭和38年10月)には、《東京のダンス・ホールが目立ちはじめたのは、昭和三年頃であったろう。大阪で先に流行り出していたのだが、その筋の弾圧を受けたダンサーが、大挙東上したものだという。ひと頃は四十ヶ所もダンス・ホールが出来たが、色々の弊害が起こり、昭和五年頃には、八ヶ所に整理され、健全な? 発達を遂げたのである。》という証言がある。


すなわち、大阪における昭和2年のダンス・ホール規制が、東京におけるダンス・ホールの発展と、大阪の周縁のダンス・ホールの乱立とを同時にもたらし、東京と関西のそれぞれの1930年代を特徴づけていったということになる。昨日は、生駒ケーブルに乗って、昭和4年10月の大阪市内でのカフェーの規制を受け、昭和5年4月に生駒舞踏場が開場し、生駒の「歓楽地」としての側面が増したことに思いを馳せていたばかり。大阪での規制により、「大阪との行政区域のスレスレ」の地域が歓楽地化していったという事象は、「関西モダニズム」を思ううえで興味津々のトピックで、モダン大阪を歩くのと同じ比重で、大阪の周縁をあちらこちら歩くことで、極私的「関西モダニズム」探索(の真似ごと)を続けていきたいなと思わずにはいられない。


f:id:foujita:20110217220944j:image

《ダンス・ホール(阪神方面)》、同じく『西日本現代風景』より。写真の隣りに添えられている解説は、《大阪では許されないので、今では兵庫県の名物のやうになり尼崎に四ツ、宝塚に一ツ、西宮に一ツ、神戸に四ツほど開かれ、数十名のダンサーが脂粉の香を漂はせて、ジャズに合せて踊り狂ふ、一階ホールに入れば爛熟した世紀末的な匂ひがプンと鼻をつく》。


f:id:foujita:20110217220945j:image

上の写真の左上にある、舞台上のジャズバンドの写真が嬉しい。ジャズで踊って!


f:id:foujita:20110217222345j:image

川西英《ダンスホール》(昭和7年6月2日)、図録『特別展 川西英と神戸の版画』(神戸市立小磯良平記念美術館、1999年10月)より。昭和6年の『西日本現代風景』に写っているダンス・ホールと同じホールをスケッチしたものと思われる。ダンサーたちが待機している椅子の背もたれ、ステージの周囲の装飾がまったくおんなじ。



ダンス・ホールとジャズに思いを馳せながら、阪神国道をバスに揺られてトロトロと、野田へ向かう。これまでの歩行の疲れでトロトロとなっていたが、いよいよ本日の何度目かの決定的瞬間、淀川大橋を渡る瞬間がやってくる! と、淀川の直前で急に目が覚めるのだった。


f:id:foujita:20110216230052j:image

絵葉書《淀川大橋 阪神国道電車沿線》。


f:id:foujita:20110224223017j:image

淀川大橋を渡りながら、向かって右手に見えるのは、阪神電車の鉄橋。


f:id:foujita:20110216231312j:image

《新淀川の架橋線》、北尾鐐之助『近代大阪』(創元社、昭和7年12月)の「新淀川漫歩」のページに掲載の図版。関西遊覧の大きなたのしみのひとつが、淀川に架かる橋を渡ること。新幹線で新大阪に到着した直後に渡る東海道線の鉄橋、阪急電車が並走して十三で分岐する直前の淀川の鉄橋(逆方向の十三から梅田に向かうときに収束する鉄橋)、先ほど乗ったばかりの阪神電車の伝法から福に到るまでの鉄橋。


f:id:foujita:20110224223216j:image

さて、淀川大橋を渡ったのは今日が初めてだった。橋を渡って興奮しているうちに、あっという間に対岸に来てしまい、後ろを振り返って、淀川大橋を見つめる。


午後3時過ぎ。淀川大橋を渡れば、野田はすぐそこ。今朝に「北大阪線」に思いを馳せるべく乗った天六行きのバスが停まっていたバス停に、浜田車庫発の「国道線」が到着した格好なのだった。


f:id:foujita:20110224223407j:image

杵屋栄二《阪神電車野田駅、左は北大阪線、右は阪神国道線》、『杵屋栄二写真集 汽車電車』(プレス・アイゼンバーン、1977年10月10日発行)より。《自転車の少ない時代は、電車の価値も高く阪神間では、阪急、省線、阪神が並走しているところに、さらに阪神国道にまで電車が走り、それぞれに利用された時代だった》と解説されている。阪神電車の要ともいえる野田の地には、昔も今も阪神の本社がある。


f:id:foujita:20110216230246j:image

『大阪バス』第3巻第10号(大阪乗合自動車株式会社、昭和12年10月)の裏表紙の見返しに掲載の「阪神ホテル」の広告。野田の北大阪線沿いに位置していたらしい。



阪神電車を住吉で下車して、高架下を御影まで歩く。御影から阪神国道を歩いて、御影公会堂で夕食。


浜田車庫発野田阪神行きの阪神バスにのって淀川大橋を渡る、という本日午後の一大イヴェントを心ゆくまで満喫したところで、このたびの関西遊覧の全行程が終了し、残りのスケージュール表は白紙だった。

さて、日没まであと2時間ほど間がある。大阪でのんびりするという手もあったけれども、せっかく阪神電車の要ともいうべき野田の地に立っているのだから、あともう少し阪神電車を味わいたいという気になってきた。と、ここでふと思いついたのは、これまでずっと懸案だった、昭和4年の高架化当時のモダーンな姿をそのままに残す住吉駅の駅舎見物。そうだ、阪神電車に乗って、住吉に行こう! と、野田からイソイソと三宮行きの阪神電車に乗りこむ。


f:id:foujita:20110224205743j:image

朝に梅田から阪神電車に乗ったときは、淀川を渡る直前の野田で下車したのだったが、今度はいきなり野田から阪神電車に乗るという人生初の経験を心ゆくまで満喫する。先ほど、阪神国道線に思いを馳せつつバスで横断した淀川大橋が向こうに見える!


f:id:foujita:20110224205742j:image

阪神電車の淀川の鉄橋は海に近いこともあって、ひときわ絶景だ。電車が川を渡るだけでハイになる身にとっては、いつだってこの鉄橋には大興奮だ! と淀川大橋を見つめる時間が長く続くということがただただ単純に嬉しい。


と、淀川を渡り、歌舞伎や文楽でおなじみなのでいつもその駅名を聞くだけで嬉しい大物と尼崎をふたたび通ることができて、尼崎附近の工場の眺望をふたたび堪能することができて、なんて嬉しいことだろう! 先ほど近くを通った尼崎センタープール、正午過ぎに下車した武庫川……というふうに、同日二度連続の阪神電車での移動がたのしくて仕方がない。そして、いつもながらに、甲子園球場が見えると気持ちがフワフワだ。


f:id:foujita:20110224205738j:image

そんなこんなで、阪神電車の車内ではボルテージがあがりっぱなし。途中で各駅停車(だったかな)に乗り換えて、住吉に下車。


東京山の手育ちの戸板康二の実家が、父の転勤により昭和7年から昭和12年までの約五年間、阪神間の住吉にあった、というくだりに前々から愛着たっぷりで、「阪神間モダニズム」のまっただなかの時期に、年3度の休暇に阪神間に「帰省」していたという「阪神間の戸板康二」にまつわる諸々のことを追究したいと思い続けて、幾年月。戸板康二の阪神間の「実家」があったのが、ここ住吉。初めて下車することができて、こんなに嬉しいことはない。


f:id:foujita:20110224205736j:image


f:id:foujita:20110224205735j:image

電車が行ってしまうと、住吉駅はいたって静かだ。去年12月末に、梅田から阪神電車に乗って三宮に向かったときに、『阪神電気鉄道百年史』(阪神電気鉄道株式会社、2005年12月)を参照して、昭和4年7月15日の大石―住吉間の高架化は、阪神電車にとってきわまてエポック・メイキングなことだった、ということを学んだ。


f:id:foujita:20110224205838j:image


f:id:foujita:20110224205837j:image

その昭和4年の高架化当時の姿がそのまま残っているのは、なんと嬉しいことだろう。写真で見ただけでもうっとりだったけれども、実際にこのモダーンな丸窓が施されている階段を下ってみると、さらに胸は躍る。


f:id:foujita:20110224205836j:image

昭和7年から昭和12年までの戸板康二は、通っていた三田が長期休暇に入ると、そのたびにここ住吉に「帰省」して、関西遊覧を満喫して、大阪のいい芝居をたくさん見ることができた。その足場である「実家」に行くときにいつもこの階段を下っていたのだ。……と、前々から愛着たっぷりの「阪神間モダニズムの戸板康二」を思って、静かな住吉駅の階段にて万感胸に迫るものがあった。


f:id:foujita:20110224205835j:image

ただ、住吉駅に下車することだけが目的だったので、住吉駅を降りると、これといった用事はなく、とりあえず先ほど下った階段を外側から眺める。


f:id:foujita:20110224205834j:image

昭和4年の高架化をかみしめるべく、ちょいと離れた場所から、その高架線路をのぞむ。



戸板康二の実家が、父の転勤により昭和7年から昭和12年までの約五年間、阪神間の住吉にあった当時の「実家」の住所は、当時の慶應義塾の名簿には「神戸市外住吉村畔倉」と記載されている。「畔倉」は現在の住吉宮町の2丁目と3丁目にあたるそうなので(未確認)、とりあえず、その住居表示の地点を適当に歩いてみる。


f:id:foujita:20110224205910j:image

これといった特徴のない住宅街なので、あまり実感は湧いてこないのだけれど、やはり六甲の連なりには心がスーッとなるなあと、山に向かうといい気分。1930年代阪神間にて、東京育ちの戸板康二もこの山を見て、「ああ関西だなあ」と思っていたに違いないと思う。


f:id:foujita:20110224205909j:image

取り急ぎ、図書館でコピーしてきた「大正十二年側図昭和七年修正側図」の地図より、住吉と御影のあたりを拡大。戸板康二の「実家」は、阪神電車の住吉駅と阪神国道の間の地点か?


1930年代の阪神電車沿線の新興住宅地の、住吉と御影に関しては、宇野浩二の『大阪人間』(初出:「文藝春秋」昭和26年2月、『宇野浩二全集 第9巻』所収)に、1930年代当時の実感がヴィヴィッドに活写されている。時は昭和7年10月、主人公は東京駅を午前8時に出る「ツバメ」に乗って、午後4時大阪に到着。「戎橋の北詰の『あしべ屋』という宿屋」に到着後、道頓堀界隈を歩いていると、天王寺中学の同窓の友人にバッタリ遭遇。彼は京町堀の京町ビルの2階に一室借りて、建築私財を扱う商社を経営している実業家で、御影に邸宅を構えており、阪神電車で大阪へ通勤している。久闊を叙した二人は新地で飲み明かしたあと、阪神国道で御影の邸宅へと向かう。興味深いのがその翌朝のくだり。

深見が、大阪に帰るために、建設社に出る竹木と一しよに、竹木の家を出たのは、午前九時頃であつた。家を出てしばらく行つたところで、竹木は、「途中で茶アでも飲んでいこか、」といつた。……

 さて、駅まで行くうちに、喫茶店らしきものは一軒もないばかりでなく、あれから後、竹木が『茶』のことを一と言もいはないので、深見はますます妙な気がした。

 やがて、駅につくと、竹木は、やはり、だまつて、(自分はパスを持つてゐるので、)深見のために、大阪までの切符を買つた。

 電車に乗つてからも、竹木は、まだ、だまつてゐたが、電車が次の駅につくと、「おい、ここで、ちよつと、おりよ、」と、竹木が、いつたので、深見は、ますます、不思議な気がしたが、竹木につづいて、電車をおりた。住吉といふ札が出ていた。

 その住吉の駅からまつすぐつづいてゐる道を、深見は、竹木とならんで、あるきながら、竹木がさきにいつた『茶ア』をのむ所(喫茶店)はこの町にあるのかしら、と思つた。 まつすぐな、長い、広い、一本道であつた。両側は、生け垣つづきで、みな同じ形をしてゐるやうに見える家が並んでゐる。

 さて、その長い道を、無言であるいてゐる間に、竹木が、いきなり、

「……御影を、社長重役級の住んでる町にすると、(おれも社長や、)ここは、中流のサラリイマンの住んでる町や、」といつた。

 それきり、二人は、無言で、長い広い町を、あるきつづけた。さうして、町ははづれらしいところまで来た時、突然、また、

「ここ、左、」と、竹木は、いひながら、横町にまがつた。

 その横町は、今まであるいて来た単調なほど規則ただしく家のならんだ町の裏にはひると、こんな所に草のはえたあき地があつて、そのあき地に、はなればなれに、むさくるしい家のたつてゐる場所があるのか、と思はれるやうな所であつた。あき地が広いわりに、家は四五軒たつてゐるだけで、その中で二階のあるのは一軒だけである。……

友人(竹木)は、自宅のある御影の隣りの住吉に妾宅を構えているのだが、その御影と住吉の描写がヴィヴィッドで、絶好の「阪神間モダニズム」資料となっている。


f:id:foujita:20110224205906j:image

そんな1930年代の阪神電車沿線の住吉と御影に思いを馳せつつ、住吉から隣駅の御影に向かって、高架沿いを歩いてゆくことに。



御影駅前でちょいと休憩のあと、勢いにのって、今度は阪神国道を神戸方面に向かって、テクテク歩いてゆく。阪神電車の御影の次の駅は石屋川。石屋川といえば、御影公会堂の最寄駅。今日はコーヒーばかり飲んでしまって、昼食を食べ損ねてしまった。午後5時半の開店と同時に、御影公会堂地下の食堂へ夕食を食べにゆくことに決めた。そして、阪神国道をテクテク歩いて、ふいに右手に御影公会堂の建物が登場した瞬間の歓喜といったらなかった。


「阪神間モダニズム」展実行委員会編『阪神間モダニズム』(淡交社、1997年10月)所収の、梅宮弘光氏の論考「阪神間の公共建築 ポピュラリティーの表象」に、

日本の近代化過程でポピュラー・アーキテクチャーが出現する時期は、阪神間では都市化に拍車がかかる時期である。鉄道や私鉄の敷設など明治初期以降順次進められてきた阪神間の交通整備は、昭和二年(一九二七)の阪神国道開通で基本的骨格が完成する。こうした基盤の上に、ポピュラー・アーキテクチャーとしての公共建築が出現するのである。

というくだりがあるのだけれど、御影公会堂が阪神国道沿いの建物だということをこれまでうっかり見落としていたことに気づいたのだった。阪神国道を歩いてたどりついたことで初めて、阪神国道沿いの近代建築、ということを実感した。この「実感」はとても得難い体験だった。



f:id:foujita:20110225190120j:image

前掲の《阪神電車沿線案内》より、住吉・御影・石屋川間を拡大。御影公会堂に沿って阪神国道線が走っていて、この路線図から判断すると、御影公会堂の最寄りの駅は、石屋川沿いに位置する「上石屋」。国道線をここで下車すると、まん前に公会堂の建物があったのだなあと夢想して、それだけでたのしい。


f:id:foujita:20110224211004j:image

無事に日没前に御影公会堂に到着できたので、思う存分建物見物をたのしむことができた。2005年7月に初めて阪神間遊覧に出かけたとき、もっともたのしみにしていたのが、この御影公会堂の地下食堂だった。昭和8年竣工の御影公会堂は「阪神間モダニズム」を象徴する近代建築。初めて出かけた御影公会堂があんまり素敵だったので、以来ずっと愛着たっぷりだったけれども、今回の来訪は二度目、実に5年ぶり。


f:id:foujita:20110224211003j:image

開店まで間があるので、石屋川沿いを散歩。いつもながらに、川辺を歩いて低山の連なりを正面にのぞむのが眼福。


f:id:foujita:20110219233050j:image

《御影公会堂(竣工:昭和8年3月、設計:清水栄二)》、『近代建築画譜』に掲載の写真。



f:id:foujita:20110224223633j:image

午後5時半の開店と同時に、御影公会堂の地下の食堂(正式名称は「御影公会堂食堂」)に入り、早めの夕食。洋食の定食と赤ワインを1杯だけ。食堂は5年前の夏に昼食に訪れたときとまったくおなじように、近所の人びとがきままに食べに来ていて、とてもよい雰囲気。そのまったく変わらないたたずまいに心が洗われたところで、外に出ると、あたりはすっかり暗闇。と、ここでこのたびの阪神間遊覧の幕が閉じた。



さる方がご提供くださった、御影公会堂食堂の写真より。


f:id:foujita:20110224213418j:image

阪神国道と直角に石屋川を背に、御影公会堂を左側面から見上げた写真。清水栄二の斬新な建築。


f:id:foujita:20110224213419j:image

建物正面の左端の円柱部分が吹き抜けになっていて、地下食堂から見上げるとサンルームのようになっている。いざ地下の食堂の椅子に座ると、日中はその日当たりに驚くくらい。地下なのに自然光がふりそそぐ。


f:id:foujita:20110224213417j:image

地下食堂の入口。古びた半円の天井と円柱とともに、昔の洋食屋のように、食品サンプルの並んだひなびたショウケースが味わい深い。


f:id:foujita:20110224213416j:image

食堂の店内は、入口からは想像もできなかったような、シックな空間。この写真は日中の写真。天井のシャンデリアとともに、上の写真の吹き抜け部分から自然光が降り注いでいる。


f:id:foujita:20110224213446j:image

紙ナフキンの紋様と「御影公会堂食堂」の文字もシック!

20100926

秋日和関西遊覧その2:バスに乗ってモダン大阪観光。

寝坊することなく無事に朝食を済ませて、早々に宿をチェックアウト、午前7時過ぎ、いつものように、渡辺橋に立ち、正面から朝日新聞社の建物を眺める。今日も昨日に引き続き、絵に描いたような秋日和。


f:id:foujita:20110206215704j:image

たまには気分を変えてほかの地区に泊まって、大阪のほかの眺めを楽しみたいという気もしなくはないのだけれど、渡辺橋から見る朝の朝日ビルディングの眺めが大好きなあまりに、大阪の宿はいつも堂島界隈なのだった。いつものように朝日ビルディングをしばし眺めたあとで、くるっとまわれ右をして、朝日ビルディングを背後に梅田駅に向かって、ズンズンと歩を進める。刻々と変化している渡辺橋からの眺めは、次に来るときはどんなふうになっているかな。





阪神バスにのって、野田から中津を経由して天神橋筋六丁目へ。解体中の新京阪ビルディングを眺める。


午前7時30分、梅田駅で阪神電車の各駅停車に乗りこむ。梅田から阪神電車に乗ると、福島の次の野田の手前で地下線路から地上に出て、野田のあと、淀川の大眺望が眼前に開ける瞬間をいつも心待ちにしているのだけれども、今日は残念ながら、淀川の手前の野田で下車せねばならぬのだった。


f:id:foujita:20110213143528j:image

戦前のリーフレット《阪神電車沿線案内》。スポーツや動物園に花火等々の行楽と合わせて、のこぎり屋根の工場や神社の鳥居など、あらゆる沿線の風物がチャーミングに図案化されているサマに頬が緩む。印行年月日は詳らかではないけれど、御堂筋線が天王寺に達しているので、昭和13年4月以降の印行。


f:id:foujita:20110213143527j:image

上掲の《阪神電車沿線案内》より、梅田・野田間を拡大。沿線案内を見ると一目瞭然、阪神本線の路線上の野田駅は、路面電車の北大阪線と国道線の起点であり、阪神電車の要といえる地点なのだった。去年の春先、北尾鐐之助の『近代大阪』の真似をして中津を歩いた折に、中津界隈を走っていた路面電車のことを初めて心に刻んだ。その「阪神北大阪線」がこの沿線案内にクッキリと書きこまれている。野田を出発して中津を経由して、天六に到る、淀川に沿って弧を描くように。そして、天六は「新京阪」の始発駅でもある。


「阪神北大阪線」の開業は大正3年8月1日で、昭和50年5月6日に廃止。昭和45年の万博開催の直前の昭和44年12月に地下鉄堺筋線が開通し、阪急千里線に乗り入れることとなり、これを機に天神橋筋六丁目の駅は地下になった(このとき駅名が「天神橋」から「天神橋筋六丁目」に改称)。大正15年6月に「新京阪ビルディング」が竣工する以前からこの地を走っていた「阪神北大阪線」、天六駅が地上から地下になったあとも約5年間存続していた「阪神北大阪線」。かつての「新京阪ビルディング」であるところの「天六阪急ビル」に愛着たっぷりの身としては、近代大阪の名脇役に数えたい「阪神北大阪線」にもおのずと親しみが湧くのだった。



f:id:foujita:20110206215655j:image

その「阪神北大阪線」とおんなじ道を走るバスが現在も運行されていると知って、ぜひとも乗ってみたいなとずっと思っていた。その夢がいよいよ今日かなうのだ、と胸を熱くしながら阪神電車を野田駅で下車した次第。野田駅から天六駅までの「阪神北大阪線」と同じ道を走るバスは一日に5本しか運行していない。野田発午前6時35分、7時20分、8時10分のあとは18時55分、最終は20時05分。なにがなんでも午前8時10分野田発天六行きのバスには乗り遅れるわけにはいかない! というわけで気合い十分、30分も早くに着いてしまった。


f:id:foujita:20110206215654j:image

イソイソと改札を出て、歩道橋からバスターミナルを見下ろす。道路の形状がいかにもかつて路面電車の線路が敷設されていたことを彷彿とさせて、ふつふつと嬉しい。向こうの道路のカーブもいかにも路面電車が走っていた感じがするなあと、しばし歩道橋から道路を見下ろす。それにしても今日もいい天気。



f:id:foujita:20110206215651j:image

《野田阪神(昭和48年9月28日)》、小林庄三『神戸市電・阪神国道線』(トンボ出版、1998年2月1日)より。阪神国道線の廃止(昭和50年5月6日)を間近に控えた野田駅を写した写真。



f:id:foujita:20110206215845j:image


f:id:foujita:20110206215937j:image


f:id:foujita:20110206215931j:image

野田発天六行きの阪神バスがようやくやって来た。イソイソと乗りこんで、発車を待つ。発車時刻の午前8時10分、計5名の乗客を乗せて、バスは出発。



f:id:foujita:20110206215926j:image

ぼんやりとバスに揺られて、いい気分になりつつも、中津が近づくにつれて、クッと身構えずにはいられない。中津を通過するという決定的瞬間を堪能したかったので、ぼんやりしているわけにはいかない。と、くっと身構えたところで、北尾鐐之助の『近代大阪』でおなじみの線路沿いの鉄骨が眼前に迫ってきたときの歓喜といったらなかった。ワオ! と背後を振り返って、ふつふつと嬉しい。



f:id:foujita:20110206215923j:image

《1形25号中津(昭和31年2月28日)》、上掲の『神戸市電・阪神国道線』より。そう、まさにこの写真が脳裏にまざまざと浮かんだ瞬間だった。



f:id:foujita:20110206215922j:image

《中津町附近の線路交錯》、北尾鐐之助『近代大阪』(創元社、昭和7年12月)所収「高架線の中津」に掲載の地図を拡大。

 私はもう十年以上も、毎日の如く朝夕電車の窓から、この辺の風景を眺めてゐるが、私はこの辺における高架電車の上に縦横に張り廻された架空線や、架線柱が、鉄橋の繋桁柱と交錯した複雑な鉄の交響楽に心を惹かれる。

 実際梅田駅引込線の上に高く盛り上つた跨線橋の附近は、中津橋通りの大道路と、阪急電車の二ツの高架線と、も一ツ北大阪線と、この四ツの鉄橋が並行に重なり合つて、貨物線路の上を越してゐるので、その繋桁の重なるところほど、少しばかり位置を変へることによつて、いろいろと異つた線條の構図[コンポジシヨン]を作るところはない。

と、これは北尾鐐之助による「高架線の中津」の一節。



f:id:foujita:20110206220102j:image

《71形73号天神橋筋六丁目(昭和48年9月25日)》、同じく『神戸市電・阪神国道線』より。バスに揺られながら、かつてここを走っていた路面電車の北大阪線の気分にひたって、大阪市中の道路を満喫してすっかり上機嫌になっているうちに、終点の天神橋筋六丁目に到着。この写真の奥には、大正15年竣工の「新京阪ビル」であるところの「天六阪急ビル」が見える。天神橋の駅が地下になったのは境筋線の開通する昭和44年12月なので(同時に、駅の名称も「天神橋」から「天神橋筋六丁目」に変更となった)、この写真が撮影された時点では天六ビルは駅としての役割はすでに終えていたけれども、その後も長らくこの地にとどまっていた。2007年4月にわたしが初めてこの場所に来た姿のままで。



f:id:foujita:20110224222347j:image

《新京阪ビルディング》(竣工:大正15年6月、設計:渡辺節建築事務所)、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日)に掲載の写真、『復刻版 近代建築画譜〈近畿篇〉』(不二出版、2007年6月25日)より。大正15年の「大大阪」を象徴する近代建築であるところの「新京阪ビルディング」、現在の「天六阪急ビル」はわたしにとっては「関西モダン」に開眼した記念すべき建物である。この建物が取り壊し予定であることを知り、去年12月にあわてて見物に出かけたことはまだ記憶に新しい。



f:id:foujita:20110206220100j:image

と、この写真は去年2009年12月撮影の写真。わたしがこの建物を初めて目の当たりにしたのは2007年4月のことだった。南森町から天神橋筋商店街をのんびり歩いたあとに到着した天六阪急ビルという名の建物がかつてはターミナル駅だったことを知り、「おお!」と感興が湧いて、建物をじっくり観察してみると、駅の名残りを残す細部の数々がいかにも「関西モダン」だなアと大感激だった。



f:id:foujita:20110206220059j:image

野田発の阪神バスは中津を経由して、終点の天神橋筋六丁目に到着し、今、天六ビルはどうなっているのだろうと、思わず走ってビルの前に行ってみると、おお! ビル全体が工事幕で覆われている。しかし、すっぽりと覆われつつも、ビルの形状そのものはまだ残っていて、ジーンと感激。正真正銘、今日が本当の見納めかも。



そうだ、今日こそが正真正銘の、天六阪急ビルの見納めなのだと胸を熱くしつつ、2007年4月に初めてこの地に来たときとまったくおんなじように、ビルのまわりをぐるりと一周してみることにすると、正面は幕で覆われているけるけれども、裏手からは建物の残骸をのぞむことができて、大感激だった。


f:id:foujita:20110206220056j:image

天六ビル裏手から建物内部をのぞむと、むきだしのコンクリートがいかにも駅のホームの残骸であることが見てとれるのが嬉しい。天神橋筋六丁目駅が地上だった往時の名残りをいまだ濃厚に残している。


f:id:foujita:20110206220146j:image

昭和43年7月17日撮影の天神橋筋六丁目駅の写真。《かつて新京阪の本拠地であった天神橋も支線となって寂しかった。》、『P-6 阪急でんてつ デイ100物語』(プレス・アイゼンバーン、1974年8月20日)より。


f:id:foujita:20110206220145j:image

上の昭和43年7月撮影の写真に写る「P-6」車両の上部に見える駅のホーム上部の窓の格子が、ここに鮮やかに見ることができるのだ。


f:id:foujita:20110206220144j:image

こちらは、2009年12月に撮影の写真。ビルが健在だった当時は、ホーム上部の窓の格子はここからはのぞめなかった。取り壊しが始まったことで、それまで隠れていた近代建築の断片が姿を現したというのは、歌舞伎座の別館とまったく同じパターンなのだった。

【備考:歌舞伎座の別館については「戸板康二ノート」に記録:http://toita1214.exblog.jp/14670479/



溝口健二の『浪華悲歌』(昭和11年5月28日封切・第一映画)に「大阪の地下鉄」としてスクリーンに映る車両が実は「新京阪鉄道 P-6 形電車」という車両であること、「大阪の地下鉄の駅」として映る駅が実は「京阪京都駅」、現在の大宮駅であることに気づいたのを機に、現在の「天六阪急ビル」、すなわちかつて「新京阪」の本拠地だった「新京阪ビルディング」にますます愛着を抱くようになった。2007年4月に天神橋筋商店街の終点として初めて目の当たりにした「天六阪急ビル」からつながるいろいろなことにますます興味津々になった。


大正12年に「京阪」の子会社として「新京阪」が発足し、大正15年6月に天神橋筋六丁目に「新京阪ビルディング」が竣工し、ここに本社を置く。昭和5年9月に親会社の「京阪」に合併されたあとも、「新京阪」は天六を本拠地として、どんどん京都へ路線を伸ばしてゆき、昭和6年3月31日には『浪華悲歌』のロケ地の「京阪京都駅」が終着駅になり、それまで終点だった西院から終点までの線路は日本で二番目に古い地下鉄道となった(三番目が昭和8年5月に開通の大阪地下鉄)。現在の阪急京都線はかつて、京阪の子会社の「新京阪」の路線だった(昭和18年10月に国策により京阪と阪急が合併、昭和24年12月に分離するも、新京阪のみ阪急にもとに残った)。その「新京阪」のシンボル的存在だったのが、『浪華悲歌』で「大阪の地下鉄」として登場していた「P-6」車両なのだ。昭和48年3月に廃車となるまで、長らくこの路線を走っていた。極私的「関西モダニズム」の「P-6」にはこの先も関西遊覧のたびに折に触れ、思いを馳せることになると思う。


f:id:foujita:20110206220143j:image

『旅』第10巻第10号(日本旅行協会、昭和8年10月1日発行)より、「駅スタムプ展覧会」に掲載の天神橋駅のスタンプ。記事には《大阪終点の天神橋駅と地下鉄、工業地帯/京都駅特急電車(三十四分)、嵐山へ、千里山へ》との説明が付されている。「P-6」が天神橋駅を出発、淀川を渡って、淀川に沿って京都へ向かう。スタンプに描かれている天神橋駅のホームのサマが、取り壊し中の「天六阪急ビル」の残骸とまったく同じ形状をしていて、お見事。「P-6」の車両も見事に図案化されている!



f:id:foujita:20110206220142j:image

と、昭和8年の「駅スタプム展覧会」を胸に、このまま「新京阪」に乗って京都に行きたいところだったけれども、今日のところはイソイソと地下鉄の天六駅の階段を下ってゆく。1日乗車券850円を購入すれば、大阪地下鉄と大阪市バスが乗り放題だ! 次は大阪市内を2本のバスに乗って「大大阪観光」をする予定であるので、谷町線のホームへと小走り、ふたたび大阪駅前へ向かう。


地下鉄の車内では、本日森ノ宮で不発弾の処理をしていますので、電車の運行は云々……というアナウンスが流れていた。なんとはなしに「近代大阪」をおもっているうちに、電車はあっという間に東梅田駅に到着。





大阪市バス62系統に乗って、北尾鐐之助の「乗合バス遊覧記」の1930年代大阪をおもう。空堀商店街から松屋町へ。


天六から谷町線に乗って東梅田で下車して、イソイソと地上に出て、ふたたび大阪駅前にやって来た。このたびの大阪遊覧にあたって綿密に練り上げた自作の行程表の指し示すがままにバス乗り場へと直行し、午前9時41分、大阪市バス62系統、住吉車庫前行きのバスに乗りこむ。


本日2本目のバスは大阪市営バス。先ほどの阪神バスと打って変わって、こちらはだいぶ乗客が多い。2005年の夏以来、年に一回以上、関西遊覧に出かけるようになった。数年目にしてようやく、長らく念願だった大阪バス遊覧が実現して、こんなに嬉しいことはない。記念すべき人生初の大阪市内バス移動である、「阪神北大阪線」の経路を走る阪神バスを「新京阪ビルディング」解体現場見学をもって締めくくり、ふたたび大阪駅前に戻ってきたところで、本日2本目のバスは、大阪駅発住吉車庫行きの62系統なのだった。


f:id:foujita:20110213143526j:image


f:id:foujita:20110213143525j:image

北尾鐐之助『近代大阪』近畿景観第三編(創元社、昭和7年12月25日)。装幀:高岡徳太郎。わたしの書棚にあるのは、海野弘の解説が付された『覆刻版 近代大阪』(創元社、1989年3月20日)の方。


さて、大阪バス遊覧の、わが絶好の参考書は、北尾鐐之助著『近代大阪』(創元社、昭和7年12月)所収の「乗合バス遊覧記」。1930年代大阪の北尾鐐之助は案内嬢と二人きりで「十二人乗りの大型自動車」に乗って、午前9時、大阪駅を出発する。まずは阪急百貨店、曽根崎警察署の建築、お初天神の由来がアナウンスされ、天満天神で下車したあと、難波橋を渡って中之島公会堂、土佐堀通りに沿って、株式取引所、大阪逓信局、天神橋、京阪電車停車場、天満橋、大手前、そして大阪城で二度目の下車……という行程をたどる。昭和6年に復元された大阪城は「モダン大阪」のシンボル、したがって、昭和7年12月に刊行の『近代大阪』に登場する大阪城は当時はきわめて現代的なトピックだった(高岡徳太郎の装幀でも、函・本体ともにその表紙にしっかり図案化されている)。北尾鐐之助の乗る「十二人乗りの大型自動車」での大阪遊覧はまだほんの序の口。このあともどんどん南下して、10時半には上六から西にまわって生國魂神社前に降り立ったりする。以降、大阪市中をこれでもかと走りまくり、午後3時に境筋を北上したところで、6時間にも渡る「乗合バス遊覧」が締めくくられる。


f:id:foujita:20110213144410j:image

《大阪名所遊覧自動車 名所案内》(大阪乗合自動車株式会社発行)。具体的な印行年月日は詳らかでないけれども、1920〜30年代のリーフレット。路面電車とバス等の車両が並行する道路には、自転車や歩行者のみならず、馬車も走っている。そして、大阪市中には様々の近代建築!


f:id:foujita:20110213144409j:image

上掲のリーフレットを広げると、大阪市内の乗合バス遊覧の行程がチャーミングな絵地図になっている。北尾鐐之助の「乗合バス遊覧」はまさにこの絵地図全体を縦横無尽に駆け巡っている。


1930年代大阪の都市風景、消えた近代建築と今も健在の近代建築、その双方の織りなす都市風景を胸に、北尾鐐之助のルポルタージュの文字を追う快楽といったら! 北尾鐐之助の『近代大阪』を手にして以来、「乗合バス遊覧記」とおんなじ行程で大阪遊覧をしてみたいなとずっと思っていた。北尾鐐之助の6時間におよぶ「1930年代大阪」移動を一度に全部ではなくて、部分部分をピックアップして、小出しに今後の大阪遊覧に採り入れてみたいなと思った。

と、そこで、このたび目にとまったのが、大阪市営バス62系統。大阪駅から御堂筋を南下して大江橋を通り、淀屋橋で左折、つまり東へ曲がり、北浜、天神橋を通り、天満橋で右折してふたたび南下して、右手に大阪府庁、左手に大阪城公園をのぞみながら上町筋を南下……という行程が、昭和7年刊の『近代大阪』における「乗合バス遊覧記」の出だしとまったくおんなじだ!

それから、1930年代大阪の遊覧バスといえば思い出すのは、矢倉茂雄『人生初年兵』(P.C.L.・昭和10年12月封切)という映画。佐々木邦の同名のユーモア小説の映画化で、ムーランルージュにいた伊馬鵜平が永見柳二とともに脚本を担当している。紙恭輔が音楽を担当し、藤原釜足と宇留木浩が主演コンビで、水上玲子や神田千鶴子が出演し、徳川夢声も脇を固めていて、いかにも P.C.L.気分が横溢している。東京が舞台だけど、終盤、新聞社とデパートのタイアップで、新聞記者とデパートの売り子が大勢で大阪へ遊覧に出かける。東京と大阪の両方が登場する1930年代の都会映画として、はたまた広告やデパート、新聞や出版、ユーモア小説、軽演劇等、1930年代をとりまくあれこれを考察する上でもなかなかの逸品で、しかも資料性のみならず、映画的にもなかなかの佳品だった(徳川夢声著『あかるみ十五年』でも好意的に回想されている)。大阪遊覧のくだりでは、まさに北尾鐐之助の「乗合バス遊覧」の実写版の1930年代大阪のバス遊覧が記録されていて、大注目!


f:id:foujita:20110215230450j:image

矢倉茂雄『人生初年兵』(P.C.L.・昭和10年12月封切)より。一行が大阪駅に到着し、さっそく「乗合バス遊覧」がはじまる。その最初のショットに映るのは阪急百貨店。


f:id:foujita:20110215230451j:image

新聞社の招待で、デパートの売り子たちが大勢うちそろって、乗合バスに乗りこむ。新聞社(上司は徳川夢声)の新入社員コンビの藤原釜足と宇留木浩、女子社員の神田千鶴子がシートに並ぶ。このあと、「乗合バス遊覧」のシークエンスでは、紙恭輔の音楽に乗って、数々の大阪の都市風景が映し出されて、その楽しいことといったら! 大阪乗合自動車の PR も兼ねているのは間違いない。



北尾鐐之助の『近代大阪』と昭和10年封切の P.C.L. 映画の『人生初年兵』を胸に、午前9時41分、大阪市バス62系統、大阪駅発住吉車庫行きに意気揚々と乗りこんで、バスはいよいよ大阪駅を出発。梅田新道を通り、大江橋に到り、堂島川を渡り、左手には大阪市役所(建て替え前の近代建築を見たかった!)、おなじみの淀屋橋を渡り左折、北浜、天神橋、天満橋に……といった景色を、いつもの歩行者の視点とは違うバスの車窓からの文字どおりの「高みの見物」で、パノラマのように風景が移行してゆく。


f:id:foujita:20110213145208j:image

《大江橋》、『工事画報 昭和十一年版』(株式会社大林組、昭和11年6月25日発行)より。


と、そんな諸々の「モダン関西」文献で目にした1930年代大阪風景を胸に、秋日和の大阪の町並みを見下ろしてすっかり大興奮。北尾鐐之助の『近代大阪』や P.C.L. 映画の『人生初年兵』を見て大阪のバスにむやみに心ときめかしていたときとまったくおんなじボルテージで大興奮。もう「キャー!」と叫びたいくらいだ。なんて素晴らしいのだろう! もはや写真を撮る余裕はなく、そのパノラマ風景にランランと目を輝かせているうちに、天満橋でバスは右折し、このあとは上町筋を南下、もうあっという間に、左手には大阪城公園、右手には大阪府庁。去年12月にこのあたりを歩いた楽しき時間に思いを馳せて、もう胸がいっぱい。

あ、馬場町角の JOBK の建物があった場所だ、ここを過ぎると、難波宮跡、「国立病院前」のバス停は、大阪市に仮住まいをしていた後藤明生が上本町六丁目行きのバスに乗車したバス停だ! と、急に後藤明生の『しんとく問答』(講談社、1995年10月)のことを思い出して、ふつふつと嬉しい。《大阪の「某私立大学」に新設された文芸学部で「明治大正文学の講義」(月・水・金)》を講じることになった男は、聖マリア大聖堂から100メートルくらいの七階建てのマンションの六階に住んでおり(「マーラーの夜」)、《マンションから市バスの停留所(国立大阪病院前)までの、難波宮跡公園沿いの歩道は、幅もゆったりしており、なかなかのもの》なのだそうだ(「四天王寺ワッソ」)。

大学へ行く日は国立病院前から上六(上本町六丁目)まで市バスに乗りますが、途中、バスの窓から(進行方向右側すなわち西側に)西鶴の墓のある誓願寺の門が見えます。門だけでなく、門の中、正面突き当りのあたりに立っている西鶴の墓石も見えます。(「俊徳道」)

というふうに、「国立病院前」から上本町六丁目までバスに乗っていた後藤明生よろしく、わたしも車窓から専願寺を眺めたいところだったけれども、それは後日のおたのしみ、今日は専念寺の直前の停留所、上本町4丁目で下車。


北尾鐐之助の『近代大阪』所収の「乗合バス遊覧記」めぐりは、今回は大阪駅から上本町4丁目まで。あっという間だったけど、ああ、楽しかった! これから先、何度でも乗りたい!


f:id:foujita:20110213150307j:image

『大阪遊覧バス』(大阪乗合自動車株式会社、昭和10年7月印行)。上掲のリーフレットは絵地図だったけれども、こちらは全18ページの小冊子。紙面にあふれんばかりにレイアウトされたモノクロ写真がおしゃれ!


f:id:foujita:20110213150306j:image

と、この『大阪遊覧バス』のページを開くと、こんな感じに「大阪名所」がひしめいている!



戦前の紙もの探索をしつつの年に何度かの関西遊覧、これから先、折に触れてバスに乗って、大阪24区を巡ってみたい、いつも心に北尾鐐之助の「乗合バス遊覧記」を! と、「!」を連発して胸を熱くしたところで、テクテクと谷町筋の方向へと歩を進める。


上本町4丁目でバスを下車したのは、大阪市内の観光地ではないどこかの界隈を歩いてみたいなと、愛用の『でっか字まっぷ 大阪24区』(昭文社刊)を眺めて、空堀商店街を歩いて松屋町筋に到る、という行程がふと目にとまったから。「空堀」という道の名前は、三輪正道さんが川崎彰彦のことを綴った散文を読んで以来、ずっと心に残っていた。「からほり」という軽やかな音とともに不思議と深く印象に残っていた。

三輪正道著『酔夢行』(編集工房ノア、2001年12月)所収「信濃橋だより」に、「夕方、谷町の空堀どおりのすかんぽという店にいるから」と言われて、三輪さんが地下鉄を谷町四丁目で下車して、谷町筋を南下して川崎彰彦をたずねるくだりがある。そして、「すかんぽ」の次の店、谷町筋の「うれしの」のカウンターをあとにした二人は「谷四の改札」で解散する。《物書きという人に初めて身近に接した感激とともに》、三輪正道は谷四のプラットフォームの反対側の川崎彰彦に会釈する。三輪正道は天王寺へ、川崎彰彦は天満橋から京阪に乗って帰宅するのだ。《あの晩、川崎さんは谷四から乗ったが、天満橋まで地下鉄代をけちって、「うれしの」から夜の谷町筋をよく歩いたとか。》。ここに限らず、編集工房ノアの三輪正道さんの3冊の散文集におけるちょっとしたくだりを目にして、実際に行ってみたくなった場所はまだまだたくさんあるので、おたのしみはまだまだこれからなのだった。三輪正道さんの本は、わたしにとっては関西遊覧の手引書にもなっている。


f:id:foujita:20110213150428j:image

《最新大大阪市街地図》(和楽路屋、昭和13年7月10日発行)より、この界隈を拡大。


と、まあ、ほんの思いつきで歩いてみることにしたこの界隈であったが、いざ歩きだしてみたら、古いたぶん戦前からの木造見物が多数見受けられるのと路面のちょっとした起伏が、とても好ましく、なんだか妙に胸が躍るものがあった。先ほどのバスの車窓からの大阪市中見学と両極に、大阪の路地歩きが嬉しくってたまらなかった。


f:id:foujita:20110213150427j:image

バス停から通りを直進し、空堀商店街に入るべく右折した路地。写真には雰囲気がうまく写らないのだけれど、一気に大好きになったこの界隈。今住んでいる東京のとある町になんとなく雰囲気が似ている気がして、勝手に親近感を抱く。


f:id:foujita:20110213150426j:image

上の路地を左折して、向こう側に商店街のアーケードが見える。まだ9時台なので、空いているお店は少ないのだけれど、早商いのお店で食料品を買っている人びとでほどよく賑わっている。いずれまた、違う時間帯に歩いてみたいなと思った。今度はどんな雰囲気なのかな。


f:id:foujita:20110213150649j:image

ほどなくして大通りに到る。谷町筋だ。谷町筋から松屋町筋まで、商店街は続いて、ただ歩いているだけでたのしくて、気持ちがフワフワしてくる。


f:id:foujita:20110213150424j:image

歩きながらふと右を見やると、今歩いている商店街がちょっとした高台になっていることに気づく。こんな感じの道路の起伏がなんだか琴線に触れるのだった。



何を買ったわけでもなく、どこのお店に入ったわけでもないのに、空堀商店街の歩行をたんへん満喫したところで、松屋町筋に到着。見た目にも明らかに人形店や玩具店がひしめいているサマにワクワク、ウムなるほど、ここは東京に置き換えると、日本橋人形町ないしは浅草橋といったところなのだなあと納得したところで、松屋町筋をちょっと歩いた先の通りがかりに、よさそうな雰囲気のカフェを見かけたので、ちょいと休憩してゆくことに。店内は、近所の人びとがくつろいでいるサマがとてもよい雰囲気で、空堀商店街に引き続いて、いつまでも上機嫌。ふだんの日曜日、早起きしてちょっとだけ散歩してコーヒーを飲んで本を読んで、そのあと朝市で食料品を調達して帰宅、ということをよくするのだけれど、旅行先の松屋町のカフェで、ふとそんな自らの日常生活を思い出して、「大阪の日常」気分にひたったのがなんとも嬉しく、至福だった。


松屋町はふりがなを振ると「まつやまち」だけど発音は「まっちゃまち」らしい、とカフェで知った。コーヒーをすすりながら、愛用の『でっか字まっぷ 大阪24区』(昭文社刊)を眺めていたら、「まっちゃまち駅」に行く前に、阪神高速道路の高架下のを見に行きたくなったので、ちょいと足を伸ばす。



f:id:foujita:20110213150748j:image

じっくりと東横堀川の水面を眺めるのは初めてだったかと思う。この橋を渡ると向こうは島之内。島之内も歩いたことのない界隈。

 西横堀は、島之内と船場とでは、多少、河岸の景観が違ふやうである。船場に入ると、さすがに商品のうごきが多いのか、河岸につないだ船の数も、川幅を狭めてゐるばかりでなく、どうかすると、川につくられた護岸のコンクリートの上から、川の中へずつとさしかけをつくつて、春水先生の小石を敷く代りに、何かの細工場を作つてゐるのがある。夜などは、こゝに煌々とはだか電球などが吊り下げられて、夜徹し、何かを削る音などが聞えてゐる。

 しかし、島之内附近は、まだ西横堀川らしい床しい景観を残してゐる。殊に御池橋附近などは、前を漕いで行く船が、さながらに自分の庭の中を通る感じである。それが東横堀になると、川幅もずつと広くなり、橋も高く、両岸の建築も、近代式のコンクリートとか、天幕に磨硝子だとかいふのが倉庫のあちこちに交つて見える。川筋をずつと上つて、本町橋附近になると、例の手拭製造の布さらしがあちこちにある。両岸の家の屋根の上は、見上ぐるやうな高い干場に、柄模様の長い布の瀧が流してある。

 いつたい東横堀に架つてゐる橋はみな高い。土地が高いのと、一つはこゝは大阪城の外濠で、水面までが深いという点もあらう。それにこゝのは、いはゆる公儀橋で、町の費用ではなく、悉く公儀の費用で架けられたものだつた。

と、これは北尾鐐之助『近代大阪』(昭和7年12月)所収の「河川雑記」の一節。



f:id:foujita:20110213150747j:image

北尾鐐之助の『近代大阪』をおもいつつ、東横堀川沿いを、松屋町駅に向かって歩く。長堀通に架かる末吉橋がいかにも近代建築だ。北尾鐐之助は「河川雑記」の冒頭に、

 橋の架け替へといふことは、河のためでなくして、陸上交通のためにすることである。随つて、陸の上からみれば、道路の高低がなくなり、幅員がずつと広くなり、欄干が立派になる。しかし一面水の上からみると、橋が低くなり、橋脚が大きくなり、川の上が暗くなる。

 大阪は水都だといふが、都市としての交通が発達すればするほど、ある意味に於て、河川は衰退するといふことになる。

というふうに書いている。大阪町歩きの折に橋に遭遇するたびに思い出してしまいそうな、卓見に満ちた一節。



f:id:foujita:20110213150740j:image

松屋町駅で長堀鶴見緑地線に乗って、心斎橋で御堂筋線に乗り換えて、淀屋橋で下車。いつもいつも、地下鉄御堂筋線のドーム天井が嬉しくってたまらない。2000年12月に初めて大阪に出かけたとき、御堂筋線のモダンな天井に感嘆しきりだった。地下鉄御堂筋線のドーム天井は、わたしにとっての大阪の原風景という感じがする。


f:id:foujita:20110214232712j:image

杵屋栄二《大阪地下鉄》、『杵屋栄二写真集 汽車電車』(プレス・アイゼンバーン、1977年10月10日発行)より。本書は、昭和9年から昭和13年にかけて撮影した汽車電車の写真集。この写真の脇に、

川の街と言われる大阪の地下鉄は、最初の開業区間の梅田、心斎橋間で堂島、土佐堀、長堀の三つの川の下をくぐるだけに、東京の地下鉄にくらべ深い。その関係もあって梅田、淀屋橋、心斎橋3駅のドーム形のホームは、これまた大阪の自慢の種と言ってよいものであった。

という解説が添えられている。1930年代大阪にやってきた杵屋栄二は、出来たてほやほやの大阪地下鉄のホームを目の当たりして、さぞかし目を輝かせたことであろう。2000年末に初めて大阪の地下鉄に乗った日のわたしもたぶん杵屋栄二と同じくらいに目を輝かせていたものだった。と、御堂筋線のドーム天井には誰もが目を輝かせずにはいられないのだ。銀座線の低い天井に鉄筋がストライプ状になっている東京地下鉄にだって、愛着はたっぷりだけれども。





大江橋界隈を歩いて、堂ビルのプラトン社の山名文夫をおもう。御堂筋をバスに乗って難波へ。


午前10時半。御堂筋線を淀屋橋で下車してイソイソと地上に出て、大阪市バス62系統に乗って走り過ぎたばかりの淀屋橋の上に立つ。先ほどは車窓から見た景色を、あらためて橋の欄干から眺める。


f:id:foujita:20110213150914j:image

淀屋橋から生駒山をのぞむ。山のてっぺんに林立する鉄塔がかすかに見えて、感無量。昨日あの鉄塔の真下を歩いたのが遠い昔のように感じる。


大江橋を渡りながら、右前方に堂島ビルディングをのぞむ。だいぶ補修がほどこされていて、一見したところでは見逃してしまいがちだけれども、大正9年12月竣工の「1920年代大阪」を代表する近代建築なのだ。


f:id:foujita:20110213150913j:image

絵葉書《(大阪名所)大江橋畔に聳ゆる堂島ビルディング》。建物の様子は様変わりしているけれども、建物の規模は変わっていないはずで、大江橋を渡りながら、だんだん堂ビルが近づいてくると、この絵葉書の画像がまざまざと脳裏に浮かんできた。


f:id:foujita:20110213150912j:image

大江橋北詰の信号を渡って、道路の対岸から堂ビルを眺める。ビルのガラス面がキラキラ輝いている。1階にはドトール。


f:id:foujita:20110213150911j:image

大正9年竣工の堂ビルの隣りには、昭和11年竣工の大阪市交通局曽根崎変電所の建物が見える。曽根崎変電所のコンクリートの建物がいかにもモダン! 道路越しに眺めただけで、早くも惚れ惚れ。あとでじっくり見物するのがたのしみだとメラメラと燃える。


f:id:foujita:20110213150910j:image

道路を横断して、まずは堂ビルの入口に立つ。あまりにも真新しいので、近代建築だとはにわかにはわからないけれども、エントランスの天井にうっすらとモダン建築の名残が伺える、ような気がする。


f:id:foujita:20110213151058j:image

ビルの紋章には竣工の年「1920」の文字が刻まれている。


堂島ビルディングというと、ほんの一時期(大正14年5月から大正15年12月まで)、プラトン社が事務所を構えていたビルということで、前々からとても気になっていた。『モダニズム出版社の光芒 プラトン社の一九二〇年代』(淡交社、平成12年6月)によると、堂ビルの5階は中山文化研究所の施設で占められ、夜は「クラブ白粉」「クラブ石鹸」の広告塔が川面に輝いていたという(小野高裕「第一部 プラトン社の軌跡 4 堂ビル・馬渕町時代」p68)。


f:id:foujita:20110213151057j:image

図録《山名文夫と熊田精華展 絵と言葉のセンチメンタル》(目黒区美術館、2006年6月24日-9月3日)。堂ビルのプラトン社に思いを馳せるきっかけになったのは、この図録に収録されている、山名文夫の熊田精華宛て書簡がきっかけだった。

同図録で翻刻されている、山名文夫が熊田精華に宛てた書簡は、大正12年11月から昭和52年までの計68通で、最後の手紙は昭和52年5月2日付けの綾子夫人への悔み状。ふたりの交友は生涯に渡っていた。その最初の1通、大正12年11月24日付けの書簡は「女性 プラトン社」の封筒と便箋が使用されている(目黒区美術館での展覧会のときにガラスケース越しにうっとり見とれていたものだった)。当時のプラトン社の住所は「大阪市東区谷町五丁目」。

そして、7通目の大正14(1925)年4月17日付けの書簡で、山名文夫は熊田精華にプラトン社の移転を報告する。プラトン社の便箋には「大阪市堂嶋舩大工町堂嶋ビルデイング四階」の文字が印刷されている。

プラトン社も堂ビルに変りました。

こゝには森永のキャンデーストア

があるのでおひるはそこで食べられて便利ですが便利すぎて

ポケットがぐすぐす云つて困っています。

堂ビルの森永キャンデーストア! 続く、同年5月18日付け書簡では、

今キャンデーストアへおひるのパンをたべに行つて来ました。

心配しないで下さい。僕はキャンデーストアで歯のわるくなるほどいろいろ

おいしいお菓子思つてゐるのですが、おひると、それから

だれかが たとへば 森本でも銀行をサボつて訪ねて来た時になどに行く位です。

と云つてキャンデーストアのせいではないのですけども僕はむしばで困つて

ゐます。(中略)

キャンデーストアでよくいつしよになる西洋婦人があります。少し端麗すぎて

近寄りがたいところがあるますがそれは美しい婦人です。

なんて書いている。同書簡には、

久しぶりで夜の町を歩きました。皇太子殿下の奉迎のかざりがまだそのまゝに

なつてゐます。市庁舎のイルミネーシヨン、中ノ島公園の噴水のイルミネーシヨン

みんな風俗なものですがなんとなくそのほのあかるい中を歩いてゐると、

そして逆行でくろく見える人の中の歩いてゐると、かるい気持になります。

というくだりもあり、当時の大阪の都市風景が髣髴とする。そして、次の同月28日付書簡は日記ふうのお手紙、ところどころに堂ビルのキャンデーストアが登場している。

五月二十六日午後 堂ビルにて

今キャンデーストアからかへつてきました。

西洋人はきてゐませんでした。もうながいこと見ないです。

けれどどうだつていいんですよ。

キャンデーストアはきたないところです。夏になつてくるとさらにそんな気がして

アイスクリームだつて ちつともつめたい気がしません。

五月二十八日午後

丁度 四時です 帰りたい気持、つかれた気持にたまらない三時四時。

キャンデーストアで イチゴをたべて来ました

まだ少し若いいちごでおいしくありませんでした。あなたにあげないでおき

ませふ。もつとおいしくなつたらいつしよにたべにゆきませふ。(中略)

今日のおひるの時 あの西洋婦人が来てゐました。今日は一人で そして丁度ぼくの

テーブルからはうしろすがたをみるだけでした。今日は少し黒つぽい服をきて

短い断髪とそのために長くみえる頸すじが美きれいでした。

なんてあまりしやべるといちごだけではすませなくなりますからやめておきます。

森永キャンデーストアにもだんだん飽いてきたところで、初夏から真夏になり、同年7月16日付け書簡では、山名青年は夏バテ気味。

この頃は気候が変ですね。

身体が又悪くて元気がありません。

モリナガにはいい夏の食べものがなくて困つてゐます。

おひるのパンもちっともおいしくない。

アイスクリームと来てはすつかり田舎式です。

心斎橋の丹平ファーマシーのアイスクリームはおいしいですよ。

夏がすぎないうちにあそびにいらつしやい。

けれど等身大のヤンキーの人形が入口に立つてゐて折々ベルを

ならすので恐縮します。

云々と、プラトン社の山名文夫青年の手紙を目にすると、「モダン心斎橋」にも思いを馳せずにはいられない。同年8月末、山名文夫は宝塚まで築地小劇場の公演を見に行ったりもしている。ああ、一九二〇年代日本。


f:id:foujita:20110213154254j:image

《大阪堂ビルキャンデーストア―》、『森永五十五年史』(森永製菓株式会社、昭和29年12月20日発行)より。

当社は、小売店の指導と製品の宣伝普及のためモデルストアーを設けることにした。大正十二年四月三日、東京丸ビル正面玄関脇にその第一店が森永キャンデーストアーの名称で開かれた。総面積百坪、カウンター、テーブル、椅子陳列棚等設備の大部分をアメリカから輸入し、全森永製品の小売販売は勿論、ココア、コーヒー、アイスクリーム等の飲料からサンドウィッチの軽食まで簡易で衛生的なサービスを行ひ、店員の訓練には特に細心の留意が払われた。つゞいて同年八月大阪堂ビルに、又十二月には銀座六丁目にキャンデーストアが開設された。ソーダファウンテンを持った大規模な直営菓子店の出現は東京、大阪市民を魅了するに十分であった。

ちなみに、心斎橋に森永キャンデーストアが開店したのは昭和4年3月。大阪市内では堂ビルのあとは高麗橋キャンデーストアが開店している(昭和2年12月)。


f:id:foujita:20110213151056j:image


f:id:foujita:20110213151055j:image

《堂島ビルディング》(竣工:大正9年12月、設計:竹中工務店)、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日)に掲載の写真。



堂ビル見物を満喫したところで(外から眺めただけでも思いこみたっぷりに堪能)、ふたたび大江橋北詰に戻り、堂島川沿いに天満橋の方角に向ってちょいと歩を進める。川沿いに「なかおか珈琲」という喫茶店があって、なかなかいい感じの風情。堂ビルの1階のドトールで森永キャンデーストアに思いを馳せるという当初の計画をあっさり取り下げて、あとでここでコーヒーを飲んでひと休みしたいなと、ますます気持ちがワクワクしたところで左折して、堂ビルの裏道へと入ると、いよいよ曽根崎変電所の建物が眼前に迫って来た!


f:id:foujita:20110213151054j:image

正面からではなくて、あえて裏手から曽根崎変電所の建物に近づいてゆく。


f:id:foujita:20110213151245j:image

なんてかっこいい建物! この尋常でない造形美はいったい! と、ただただ感嘆。しばしたたずむ。そして、このような素晴らしい建物がたくさん残っている大阪という都市にあらためて感嘆だ。


f:id:foujita:20110213151244j:image

と、ジーンと感動しながらたたずんでいたら、変電所の向こうに見える建物がふと目にとまり、「おや?」と思う。


f:id:foujita:20110213151243j:image

向こう側に見える建物も明らかに特徴的な近代建築。いったいあれは何かしら! と、あわてて『でっか字まっぷ 大阪24区』(昭文社)を取り出して確認すると、どうやら「大江ビルヂング」という建物らしい。


f:id:foujita:20110213151242j:image

こうしてはいられないと、曽根崎変電所を一周して、大江ビルヂングの正面へ行ってみる。堂ビルと変電所のことで頭がいっぱいで、大江ビルヂングのことは見逃してしまっていたので、思わぬタイミングで未知の近代建築に遭遇した格好だった。


f:id:foujita:20110213151240j:image

《大江ビルヂング(竣工:大正10年9月、設計:葛野建築事務所)》、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日)に掲載の写真。大江ビルヂングは堂ビルと同じく1920年代の建物でありながらも、堂ビルと違って、竣工当時そのまんまの外観であるようだ。ビルの向こうに見える、平屋の木造の建物が味わい深い。建物の前には自転車がたくさん。裁判所はすぐ近く。場所がら弁護士の事務所が多数入居していたという。


f:id:foujita:20110213151431j:image

大江ビルヂングのまん前にあった古びた町内掲示板が目にとまる。「絹笠町掲示板」とある。現在は「西天満2丁目」というそっけない町名になってしまったけれども、かつてこの界隈は「絹笠町」と言ったらしい。


f:id:foujita:20110213151430j:image

《最新大大阪市街地図》(和楽路屋、昭和13年7月10日発行)より、堂ビル界隈を拡大。


と、この地図を眺めて、胸にふつふつと思い浮かぶのは、またしても北尾鐐之助の『近代大阪』(創元社、昭和7年12月)だ。この本が刊行されたのは、御堂筋に地下鉄が開通する直前だった。北尾鐐之助の伝える「近代大阪」は、昭和8年5月の地下鉄開通前のそれである。

 阪急前から大江橋までの道路は、地下鉄の工事がすつかり整頓しても、当分は、両側の建築が出来上らないであらう。広い空地と、板囲いが多い。道路ばかり出来ても、これでは都会に遠い郊外の新開地に何等異らない。

 あるとき、梅田新道のカフヱ・ブラジレイロで、熱いコーヒーを飲みながら、相対する四ツ辻の一角を領した、相互保険会社建築地――といふ、大きな板囲ひを何気なくみてゐると、その空地の中から一点の雲なき夏の夕空に向つて、すーつと、一條の煙りが上つたやうな気がした。

 私はすぐ猟奇的な考へに耽り始めた。カフヱを出て、その方に歩きながら、広い板囲ひの周囲をめぐつて、小さな穴から窺ふと、地下鉄工事の響き、ギヤソリンの煙り、油に光つたアスフアルト道、凄じい警笛、さう云つた一切のものは忽然と消え失せて、板囲ひの中にみゆるものは、身の丈けを歿するやうな茫々たる草原であつた。そして、この都会の秘密原野の中程に、何と驚くべきことには、一枚の油紙を屋根とした小屋がつくられ、わづかに上体をそこに突込んで一人の半裸体の女が寝てゐる。茶碗、鍋、バケツ、空缶、薪、一切のものがそこの草のなかに乱雑に投げだされてゐる。

 大都会……大阪の中央道路[メイン・ストリート]。その一角にある秘密原野。

 私は、尚ほ板囲ひの周囲をめぐつて、一体これらの遊牧民が、人知れずどこから入つたかといふことを確かめやうとした。そして梅田新道の交差点、最も交通の輻輳する舗道の一角で、なるほど、地面を一尺あまり低く掘つて、板囲ひの下をわづかに這ひ出るほどの穴が出来してあり、その穴は、用心深く手頃な石でふさいであるのを発見した。

と、このくだりは、「梅田、曽根崎」の幕切れ。


f:id:foujita:20110213151841j:image

《太平ビルディング(設計:吉武長一、竣工:大正14年5月)》、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日)に掲載の写真。上掲の「梅田、曽根崎新地」にあるとおり、ある日の北尾鐐之助は、このビルの1階の喫茶店チェーン「ブラジレイロ」で梅田新道の交差点を眺めていた。

その「ブラジレイロ」が出していたハウスオーガン、日本前線社の『前線』という雑誌に一時期夢中になっていたことがあった。あっと驚く「モダン都市文化」な誌面で、日本近代文学館の閲覧室で実物を目の当たりにしたときの歓喜といったらなかった。詩人をはじめとする文学者との絡み具合がなにかと見どころたっぷりで、ずっと気になっている。「ブラジレイロ」の『前線』のことを知ったのは、富士正晴『竹内勝太郎の形成』(未來社、1977年1月)で、昭和7年6月に、『前線』から竹内勝太郎に「近代フランス文芸の横顔(枚数御自由)」なる原稿依頼が来ているのを見たのがきっかけだった。富士正晴によると、《これは、ブラジル珈琲の宣伝のためのチェーンストア、喫茶店ブラジレイロの宣伝的意味合いの、はなはだ贅沢な、全頁横組のいわゆるモダンな雑誌であった。この註文は尾関岩二の紹介によるものであった。(p513)》とのこと。


f:id:foujita:20110214231546j:image

杵屋栄二《大阪市電2000形/梅田新道》、『杵屋栄二写真集 汽車電車』(プレス・アイゼンバーン、1977年10月10日発行)より。左に写る建物は太平ビルで、1階の「ブラジレイロ」の看板がわずかに見える。このブラジレイロの店内で、北尾鐐之助も『前線』に載っている竹内勝太郎の文章を目にしたことがあったかもしれない。


f:id:foujita:20110213151429j:image

絵葉書《(大阪名所)交通街路整然たる堂ビル附近》。地下鉄開通後の「整然たる」御堂筋を、梅田新道の交差点から堂ビル方面をのぞんだ構図。ブラジレイロでコーヒーを飲んだあと堂ビルに向かうととしたら、こんな視覚を目にすることになる。

北尾鐐之助の『近代大阪』所収の「中之島公園夕景」には、

 私は、支庁近くの堂島川に架つた可動堰が、あの辺りの眼界を狭くしながらも、どこか今までにない、モダンな風景を作りだしてゐることに心を惹かれることがある。四辺がだんだんと黄昏れ行つてこの可動堰の上に電燈の点るころ、北に控訴院の赤煉瓦の雄大な建物を背景にして、広い石の面を背景にとつた線の構成には、一種の魅力をもつてゐる。

 また、この橋上から、西の夕やけ空を望んだ景色もすて難い。市庁や、堂ビルや、朝日ビルの美しい燈火と、大江橋、渡辺橋を距てゝ、水に落ちる夕陽と、夕空に描き出される地下鉄工事のクレーヱンの線などが、いくたび、私をして、足をそこに運ばせた

というふうに、大江橋界隈のことが綴られている。1930年代大阪の北尾鐐之助に思いを馳せながら、大阪の町中に立つのはいつだって格別だ。

それから、「赤煉瓦の雄大な建物」の控訴院に絡めて、『近代大阪』所収の「中之島界隈」に以下のようなくだりがある。

……夕陽をうけて真赤に立つてゐる私の好きな控訴院の高塔をみてゐると、あの塔の上に巣をつくつてゐた一羽の鷹のことを想ひ出す。

 いつであつたか、新聞社の伝書鳩が、規則正しく環状線を描きながら、午後の運動をつゞけてゐたとき、突然その列が乱れて、鳩は忽ち見霞むやうな高空に舞ひ上り、更に塵の如く飛散して、悉くいづれかへ姿を消したことがあつた。

 みると、中空高く一点の黒子を描いてゐた一羽の隼は、忽ち弾丸のやうに、大気を突き切つて、生駒方面に逃るゝ二三羽の犠牲者を追ひつゝ、まつしぐらに飛ぶのを見た。

 展開された空の悲劇である。

 ……畜生ツ、またやりをつたー。

 さう云つて、新聞社の鳩係りは、赤い旗を振りながら、口惜しさうに空の一角を眺める。

 その当時、この一羽の隼は、どれほど新聞社の鳩班の脅威となつたことであつたらう。その鷹は、あの高塔の上に巣を作つて、ときどきこの大都会の大空高く、悠々と飛揚しながら、鋭い眼を光らせて下界を瞰下ろしてゐたのである。

 私のために、これほど大きく、これほどすさまじくおもはれた鳥はなかつた。その鷹もいつしかいまではなくなつてしまつた。

鳩、受難! 生駒山を背に堂島川の上の大江橋に立つと、ひとつ先の橋は、今朝にまっさきに立った渡辺橋。渡辺橋の上に立って、正面から朝日新聞社の建物を眺めるのも大好きだし、ちょいと離れて淀屋橋の欄干から朝日ビルディングの建物を見やるのもいつも大好き。堂島アバンザに出かけて、かつての大阪毎日新聞社に思いを馳せるのが嬉しくて、大阪に出かけると、荷物になるというのにいつもついジュンク堂で本をごっそり買い込んでしまう。大阪毎日新聞社には、震災後の大正13年の1月から6月まで、『文楽の研究』前夜の三宅周太郎が通勤していた。その年の6月、築地小劇場が開場し、翌7月に三宅は東京日日新聞に転じた。山名文夫が関西に巡業中の築地小劇場の公演を宝塚で見たのは翌14年の8月末のこと……というふうに、とめどなく思いが及んでゆく。


f:id:foujita:20110216225352j:image

絵葉書《(大阪)巍然たる大阪控訴院の大景》。


f:id:foujita:20110215230452j:image

矢倉茂雄『人生初年兵』(P.C.L.・昭和10年12月封切)の大阪バス遊覧のシークエンスより、だぶん難波橋を渡っているときのショット。真ん中に見えるのがたぶん堂ビルで、右手前の建物がたぶん控訴院だ! 堂ビルの左にアドバルーンが高々と掲げられているのが見える。


f:id:foujita:20110216225659j:image

《大阪大江ビル屋上のアドバルーン》、『味の素沿革史』(味の素株式会社、昭和26年3月10日発行)、「第五章 広告及び宣伝」より。「ゴシンモツは味の素」のアドバルーンが大阪の夜空に輝いている。「味の素」の下にうっすらとクラブ化粧品らしきネオンが見える。この写真に写っている広告塔が、『モダニズム出版社の光芒 プラトン社の一九二〇年代』(淡交社、平成12年6月)に紹介されていた、夜になると堂島川の川面に輝いてい堂ビルの「クラブ白粉」「クラブ石鹸」の広告塔だと思われる。



大江橋北詰には、すばらしき近代建築が3つもひしめいていて、興奮しっぱなしだった。興奮しすぎたので、ちょいと気を鎮めようと、先ほどの計画どおりに、堂島川沿いに位置する「なかおか珈琲」というお店でコーヒーを飲んで、ひと休み。オフィス街の日曜日の喫茶店は閑散としている。平日の店内はどんな感じなのかな、ワイワイガヤガヤしているのかなと、ふだんの店内に思いを馳せながら、静かな店内でコーヒーをすすって、すっかりいい気分。「なかおかブレンド」500円はとてもおいしかった。本日午前中の1杯目のコーヒーの松屋町のカフェと両極的に、閑散としたオフィス街の休日の閑散とした喫茶店での時間も格別だった。町歩きの折にちょいと気が向くと、すぐにいい感じの喫茶店に行き当ってコーヒーを飲むことのできる大阪の町のなんとすばらしいこと!

と、近代建築を堪能したあとで堂島川沿いでコーヒーをすすって、大阪への愛で全身が満たされたところで、時刻はちょうど正午。計画どおりに、本日2本目の大阪市バス、103系統の大阪駅発なんば行きのバスに乗らねばならぬので、乗り損ねたら大変なのでちょいと早めに堂ビル前の大江橋停留所に立つ。御堂筋を南下するバスは本数が少なく、1時間に1、2本なのだった。御堂筋をバスで走りたい! という一念のもと、ぜひとも乗ってみたいバスだった。


f:id:foujita:20110213151428j:image

先ほどの62系統のバスは淀屋橋で左折してしまったけれども、103系統は御堂筋をそのまま直進。ほどなくして、右手にガスビルの建物が見えてきた瞬間の歓喜といったらなかった。今回はカメラを構えて準備万端、キャッ、ガスビル! と思った瞬間にシャッターを切ったら、なんとか写っていてよかった。またいつの日か、ガスビル食堂に行きたいなと思う。


大江橋から御堂筋をバスで走って、あっという間に終点の難波に到着。こちらもあっという間だったけど、ああ、たのしかった! このたびの大阪市バスはこれにておしまい。今度の大阪遊覧のときは、どの路線に乗ってみようかな。


(つづく)

20100925

秋日和関西遊覧その1:東海道線旅行図会。近鉄電車でモダン奈良。

午前7時20分、新幹線に乗って東京駅を出発、関西1泊2日の遠足へ出かける。車窓は青い青い空、絵に描いたような秋日和。


明治40年の『東海道線旅行図会』を見ながら、新幹線に乗って関西へ


f:id:foujita:20101207223712j:image

田山花袋・小栗風葉・沼波瓊音・小杉未醒『東海道線旅行図会』(修文館、明治40年7月27日)。切符が図案化された表紙ににんまり。この本のゆくたてを綴った沼波瓊音の「分間紀行」というタイトルの巻末の文章がとびきりたのしくて、川村伸秀さんの編集による、国書刊行会の《知の自由人叢書》の沼波瓊音『意匠ひろひ』(2006年8月刊)で初めて読んだときから大好きな文章だった。このたびの東海道移動を記念して、ずっと念願だった本書を購った。


『大辞林』は「分間絵図(ぶんけんえず)」を、《実測図をもとに、絵画的な表現を取り入れて作製した絵地図。江戸時代、主に旅行案内地図として用いられた。一六九〇年刊「東海道分間絵図」が有名。》と定義している。『東海道線旅行図会』巻末の沼波瓊音による「文間旅行」によると、瓊音が「明治の分間図」を作ろうではないかと大いにハリきったのは、ここに名前の挙がっている菱川師宣の『東海道分間地図』がきっかけだった。

 僕が文部省に居た時同僚の人が昨夜古本屋で分間図を買つたと言つて誇りかに卓子の上へ置いたので、僕等は寄つてたかつて繰りひろげて見たが実に居ながら旅をする様で言ふべからず趣味を覚えた。そして此時僕は今の汽車旅行も斯ういふ組織の絵図を持て行つたら奈何に趣味があるだらうと偶と思つた。それから道楽気が出て帝国図書館へも行き種々な分間図を見たがその内菱川師宣の「東海道分間絵図」といふのが最も気に入つた。これは大きな折本で五冊になつて居り、筆意も雄大で実に心持のよい出来である。

そして、明治39年秋、沼波瓊音と小栗風葉が塩原へ紅葉を見に行ったとき、瓊音が「一つ我々が明治の分間図を作ってみようじゃないか」と言いだし、風葉はすぐさま乗り気になる。帰京後まもなく瓊音と風葉は、《天下の旅仙で、日本中の各駅の名を殆ど空で知つて居り、地図を見ても何処と何処との間が凡そ何町といふと迄一目で解るといふ大通》の田山花袋を訪れ、花袋も仲間に加わる。明けて明治40年、瓊音に話を聞いた小杉未醒は、《面白い是非遣る助手は要らぬ一人で遣るという意気込み》。

これで愈役者は揃うた。正劇で行くと「汽笛一声新橋を」の楽隊で幕開く、本舞台一面新橋停車場一二等待合室の場、ストーブの前に弧を画いた四人、髭もぢやの顔して耳まで附いた狐の皮を頸に巻附け紫の風呂敷包を抱へた大の男が花袋君、鳥打を冠つた色艶の馬鹿に好い小の男が風葉君、ひよろひよろと背が高うて、よく頭の取れる杖を今日も突いて居るのが未醒君。而して顎の尖つた総領面をして至極御安直にズック鞄を肩に引懸けたのが斯く申す拙者奴だ。

というふうにして、明治40年の雛の節句、4人は東海道線に乗りこんだ。「明治の分間絵図」であるところの修文館刊の『東海道線旅行図会』のそもそもの発端は、沼波瓊音なのだった。




f:id:foujita:20101207223713j:image

未醒の絵がキュートで頬が緩むことこの上ない。たとえば、はじまりの新橋附近はこんな感じ。このページには、「東京」という前書付きの子規の句「紫の灯を灯しけり春の宵」が下部にあしらってある。というように、全編にわたって古今の句を見られるのもゆかしい。

新橋停車場を離れると、右に芝の家並、其向ふが愛宕山、左に東京湾、煉瓦建の製造所が相櫛比して、夜になれば電気や瓦斯の光で昼を欺くやう。自分は「大都の入口」と云ふ事に就いて、嘗て恁う書いた事がある。「一体大都の入口と云ふものは妙に人の心を騒がすもので、始めての者なら無論恐と不安とを感じやう、然し住慣れた者が余所から帰つて、活動の元気の充渡つた大都の姿を入口から望んだ時には誰しも心強い一種の快感を覚えるものだ。其癖町へ入つて了ふと何でも無くなる。」云々と。是は他から東京へ入る者の感じである。東京から他へ出る者も、東京市中に居る中は何とも感じないが、さて汽車に乗つて新橋を離れる、而して、品川間近に行く間に品川間近に行く間に振返つて東京の市街を眺めると、つくづく大都と云ふ感が起る。失意の者は此時始めて苦痛から脱却し得たやうになつて息を吐くだらう、得意の者は頼もしい恋人とでも別れるやうに後髪を引かれ、且つ前途に対して一種の寂寞な感を覚えるだらう。

   鳥 が 鳴 く 吾 妻 男 の つ ま わ か れ

      悲 し く あ り け ん 年 の を な が み

                    (万葉集)

絵地図はすべて未醒が引き受け、紀行文は、はじまりの新橋から程ヶ谷までを風葉が執筆し、大船から江の島までを花袋が書いて……というふうに、花袋、風葉、瓊音の3人が分担している。




f:id:foujita:20101207223714j:image

遊郭、海苔とり、並行する京浜電車、やがて富士の山。其角の「品川も連に珍らし雁の声」の句が添えられてある。

新橋より東海道線に乗つて来た者は、品川駅を離れ、加茂真淵翁や沢庵和尚の墓所の前を過ぎ、広濶なる野外に出づれば始めて富士の山嶺を見るならん。嬋妍たる美人が帳を掲げて半面を現すが如し。

東海道新幹線の線路は、品川で東海道線の線路を離れて、小田原前でふたたび合流する。新幹線に乗るときはいつも、多摩川を渡るあたりでいつのまにか居眠りをしている。




f:id:foujita:20101207223715j:image

「風雅でも無く洒落でも無くしやうこと無しの山科に由良之助が侘住居」の山科。「ムヽ又御無用と止めたは、修業者の手の内か、振り上げたこの手のうちか」の挿絵が嬉しい。いつも居眠りばかりだけど、浜名湖の景色やら、名古屋近くの独特の町並みやら名鉄の様子など、それなりに新幹線で好きな車窓はあるのだけれど、今回はコンコンと寝入ってしまい、京都直前でやっと目が覚めたというていたらく。




f:id:foujita:20101207223716j:image

せっかく明治40年の『東海道線旅行図会』を購ったばかりだというのに、今回の新幹線の東海道移動では品川から京都直前まで睡眠に熱中してしまい、車窓に思いを馳せるということをほとんど出来ず、無念であった。ま、なにはともあれ、無事京都着。




ちなみに、沼波瓊音とおなじように、昭和10年代、明治製菓の宣伝部長、内田誠が菱川師宣の東海道分間絵図に大いに魅せられていたのだった。

東海道分間絵図


 奈良、京都への旅行の直前に、偶然、「東海道分間絵図」を見たのだからおかしい。格別珍づらしいものでもあるまいから不思議でもなんでもなからうが、これも何かの因縁のやうな気がした。

 元禄三年の刊本で、折本仕立五冊、表紙を紺地に金泥の模様にした美しい本で、最後に「紙御望みの御方は御誂次第何紙にしても仕追上可致候」と記してゐる。近頃一時豪華本など称するものが流行したが、いまだ何紙にしても御誂次第と壮語したものあるを聞かない。如何にも泰平逸楽のさま手に取る如く見えるやうに思ふ。

 内容は菱川師宣の筆、地図を絵にかいたやうなもの、「三分、一町之積り」の割であるらしい。

 武家町人貴賤貧富通行の情景、閑雅素朴の山河、なまじいな旅行記を読むよりは旅心をそゝること大である。

 各巻毎に一、二ケ処は見せ場あり、一巻江戸と近郊、二巻富士山、三巻大井川の渡、五巻近江八景(大津のせいらん。ゑい山ぼせつ。石川秋月。やぼせのきはん。せ田夕照。から崎夜雨。かた田らくがん。三井ばんせう。)がそれなのだ。大津を過ぎ、京に近く、大谷のところには、「此へん池川とて針、仏絵いろいろ有」と書き入れて、道中の塵埃をあびてゐる大津絵の数々をしのばせ、後世の我々を羨ましがらせる。

 かういう図会を懐中にして、東海道を旅行するたのしみは、「つばめ」の展望車に、コロナの煙をふかすの比ではあるまい。


【内田誠『いかるがの巣』(石原求龍堂、昭和18年6月)所収(p64-65)】

大の古書好きだった内田誠の面目躍如たる一文。この内田誠の東海道分間絵図と、わたしの『東海道線旅行図会』に対する思いはまったくおんなじ。これから先、東海道を旅行するたびに内田水中亭よろしく懐中にしのばせたいくらいに、沼波瓊音の肝入りの『東海道線旅行図会』が大のお気に入りなのだった。





午前9時40分。起き抜けで頭がぼんやりしたまま、新幹線を下車して、近鉄京都線の改札へと向かう。




f:id:foujita:20101207223717j:image

無事に近鉄京都線のホームに到着。「遷都1300年」の奈良行きの電車が停車するホームは、秋の行楽の人びとで大混雑だった。新幹線での睡眠で頭がぼんやり。ホームのコーヒーショップでエスプレッソをすすって、目を覚ます。




f:id:foujita:20101207223718j:image

これから乗る午前10時00分発の近鉄京都線の特急電車はすでにホームに停車中。ヴィヴィッドな発色の車体がチャーミング。去年年末の上本町から乗ったビスタカーを思い出す。すばらしき関西私鉄! と車体を目にしたとたんに、目が覚める。




f:id:foujita:20101207223719j:image

近鉄ホームから、JR京都駅方面をのぞむ。青い青い空の、絵に描いたような秋日和。空を見上げて、正真正銘バッチリ目が覚めた。




近鉄京都線で京都から奈良へ。昭和3年11月開業の奈良電車にのって「モダン関西」をおもう。



『東海道線旅行図会』の明治40年当時、京都から奈良へ向かう電車は奈良鉄道だけだった。田山花袋『日本一周 前編』(博文館、大正3年4月)には、

 京都から奈良に行く汽車は、七條から南に向つて走つてゐる。先づ伏見の町を掠めて、伏見、桃山、木幡などといふ停車場を通つて、そして宇治に行つてゐる。

 伏見の町は、今、人口三萬以上を算してゐる。電車が京都の東寺前から札ノ辻、稲荷、初世橋、竹田、榛島、丹波橋を経て、小橋の終点まで行つてゐる。賃銭はわづかに七銭である。今では、伏見は殆ど京都市の一部を成してゐると言つても好い位である。

というふうにして、当時の奈良鉄道沿線の遊覧が綴られている。




f:id:foujita:20101207223720j:image

図録『JR奈良線111年記念 パノラマ地図と鉄道旅行』(宇治市歴史資料館、2007年9月29日発行)。《宇治市域における鉄道の歩みと観光地・宇治の近代を振り返ります。》という趣旨の展覧会。明治から戦前昭和にいたる鉄道旅行にちなむ紙モノと吉田初三郎の紹介、宇治市域を走る奈良鉄道・京阪宇治線・奈良電車について、モダン関西における宇治観光、巻末に大正11年の宇治・京都の地形図……といった内容で、ハテどうだろうと申しこんだ図録であったが、いざ届いてみたら、なかなかの逸品で満足、満足。


と、このたびの奈良電での宇治近郊通過を記念して購ったこの図録によると、明治22年8月、東海道線全通の翌月に京都と奈良を結ぶ奈良鉄道の設立が認可され、京都岡崎で第4回内国勧業博覧会が開催された明治28年に、9月の京都・伏見間を最初に次々に開通してゆき、翌明治29年4月18日に奈良まで開通した。それまで、京都・奈良間は明治23年に乗合馬車が開業し5時間で結んでいたが、奈良鉄道の開通により両者の距離は1時間50分に短縮されたという。明治38年に関西鉄道と合併し、明治40年10月、国有鉄道の奈良線となった。宇治市域の茶園を縦断することで奈良鉄道の買収に手間取ったこと、明治33年には茶園が汽車の煤煙により焼失して賠償問題に発展……といった挿話もここに合わせて紹介されている。《茶園を横切り一直線にすすむ汽車。まさに宇治ならではの光景なのだが、あまり相性が良いとは言えなかったようだ。》。


……などと、取り急ぎ先行の奈良鉄道に思いを馳せたところで、さて、これから乗る電車は、昭和3年11月に開業の「奈良電気鉄道」、通称「奈良電」は、昭和38年10月1日に近鉄に合併されて「近鉄京都線」となった電車。「奈良電車が開業したのは昭和3年11月、折しも御大典の真っ最中。「モダン関西」探索の真似ごとをするたびに、毎回必ず「御大典ブームをとりまく京阪神モダン都市文化の形成」といったことに思いを馳せる機会がある。新京阪の高槻と京都西院間が開通したのも昭和3年11月だった。阪神沿線では「御大典阪神大博覧会」の会場として阪神パークが開業している。奈良電」は、いつも馬鹿の一つ覚えで心ときめかしている「モダン都市とその行楽」の典型なのだった。



電車に乗っての遠足のたびに、その行程や行き先にちなんだ戦前の紙モノをいくつか見繕うのが毎回のお決まり。紙モノからうかびあがる「モダン都市の行楽」「郊外の拡大」といったことに、馬鹿の一つ覚えで夢中なのだった。このたびまっさきに購ったのが、この《奈良電車沿線案内》。


f:id:foujita:20101207223721j:image


印行年月の記載はないけれども、裏面に「自昭和三年十二月五日 至昭和四年三月末日 大阪(上六)京都間 割引賃金 六拾八銭」という記載があるので、昭和3年11月3日の奈良電車開業当時の発行とわかる。

開業当初の十一月は、ちょうど天皇即位礼と大嘗祭、すなわち昭和の大典期間中で、終了後これらの会場が翌年三月まで一般公開された。全国から京都や桃山御陵・橿原神宮などへの参拝者がおとずれたこともあって、予想以上の乗客を集めた。だが、沿線人口の少なさからその後は乗客が伸びず、「カラ電」と呼ばれたことは今も地元の語り草である。

というくだりが、上掲の宇治市歴史資料館の図録にある。この沿線案内は、大典後の昭和4年3月までの多くの参拝者、すなわち観光客を対象に配布されていたとみてよさそう。



f:id:foujita:20101207223722j:image

全体を広げると、こんな感じの鳥瞰図が眼前に広がる。左下に作者として「S.UCHIDA」の名が記されている。内田紫鳳の作品。



宇治市歴史資料館の図録には、吉田初三郎による『奈良電気沿線名所図絵』が実物大で紹介されている。おなじく昭和3年の開通時に配布された沿線案内であり、このたび購った内田紫鳳による沿線案内とおなじく、昭和3年年末から翌年3月までの御大典後の沿線を訪れた人びとの多くが手にしていたに違いない。これら1920年代後半の「モダン都市の行楽」にちなむ紙モノを目にしているうちに、京都から奈良までの近鉄京都線での移動がますます待ち遠しくなり、胸が躍ることこの上なかった。



f:id:foujita:20101207223723j:image

午前10時00分発、近鉄京都線の特急電車の指定席に乗りこんで、発車を待つ。コーヒーショップでエスプレッソをすすったおかげで、先ほどまでの新幹線での睡眠の余波によるぼんやり状態を脱することができて、すっかり頭がクリアーに。愛用の『日本鉄道旅行地図帳 大阪』(新潮社刊)所載の地図を広げて、虎視眈眈と発車を待つのだった。




f:id:foujita:20101207223724j:image

上掲の《奈良電車沿線案内》より、京都から伏見を拡大。観光客で満載の近鉄京都線の特急電車の車内では、電車が発車して車窓から東寺が見えたとたんに、どよめきが広がって微笑ましかった。関西の電車に乗ると、車窓から見える山の連なりを見ただけで、いつも心がスーっとなる。



f:id:foujita:20101207223725j:image

上鳥羽口駅を通過して、鴨川を渡って、次は竹田駅。『日本鉄道旅行地図帳』所載の地図を見ながら電車に乗るときは、いつも川を渡る瞬間がたのしくって仕方がない。竹田駅は、沿線案内にあるように昭和3年11月の開業当時は「城南宮前」という駅名だった(昭和15年4月に「奈良電竹田」、昭和38年10月の近鉄合併時に現在の「竹田」となる)。



f:id:foujita:20101207223726j:image

この写真は、宇治川を渡る直前に見えた京阪宇治線の高架。近鉄京都線に乗りこんで『日本鉄道旅行地図帳』の地図を眺めて、まず心が躍ったのが、JR奈良線と京阪電車とが並行したり交差したりしているということ。そんなわけで、車窓に京阪やJRの線路が見えてくると、それだけでなんだかとても嬉しかった。



f:id:foujita:20101207223727j:image

上掲の《奈良電車沿線案内》より、伏見駅から宇治川付近を拡大。桃山御陵前の奈良電車本社と宇治川の鉄橋、というふうに、近代建築的に大興奮ゾーン。そして、中書島で本線と宇治線とに分岐する京阪電車、奈良電と並行している奈良線のサマに感興が湧くのだった。



f:id:foujita:20101207223728j:image

一方、上掲図録所載の吉田初三郎による『奈良電気沿線名所図絵』より、伏見から宇治川の鉄橋を拡大。こちらでは、堀内駅から宇治川を渡るまでの線路が高架になっていることがリアルに表現されている。宇治川左岸から京都までは計画当初は地上線だったが、監督官庁から参道は通行人が多いからと反対を受け、地元の酒造業界からは地下水が枯れるからと反対を受け、最終的に高架線が採用された……という来歴を知ったあとに眺めると(参考文献:『関西の鉄道 No.44 近畿日本鉄道 特集 Part10 京都線 懐しの奈良電』(関西鉄道研究会、平成15年1月))、初三郎描く高架がひときわ味わい深い。



f:id:foujita:20101207223729j:image

《奈良電車本社》(竣工:昭和3年10月、設計:増田建築事務所)、『近代建築画譜』(近代建築画譜刊行会、昭和11年9月15日)に掲載の写真、『復刻版 近代建築画譜〈近畿篇〉』(不二出版、2007年6月25日)より。



f:id:foujita:20101207223730j:image


f:id:foujita:20101207223731j:image

《澱川橋梁正面(左岸側)》と《完成した澱川橋梁》、奈良電気鉄道株式会社編『奈良電鉄社史』(近畿日本鉄道株式会社、昭和38年12月10日発行)より。



f:id:foujita:20101207223732j:image


f:id:foujita:20101207223733j:image

心待ちにしていた宇治川の鉄橋を渡る瞬間は「あっ」という間に終わってしまって、もう一度渡りたい! と悶えてしまったほど。いつの日か、特急ではなくて普通電車で近鉄京都線に乗って、じっくりと澱川橋梁を渡る瞬間を味わってみたいなと思った。



f:id:foujita:20101207223734j:image

真ん中に木津川を渡る奈良電車、ほぼ並行するように奈良線が走り、大阪からのトンネルを経て弧を描くように関西本線が走る。のどかな盆地の風景。



f:id:foujita:20101207223735j:image

近鉄京都線は3つの川を渡る。鴨川、宇治川を経て、ここは木津川。



f:id:foujita:20101207223736j:image

木津川を渡ってすぐの新田辺に近鉄の車庫がある。一見どうってことがないけれども、この車庫は奈良電開通前の昭和3年5月20日竣工のまぎれもない近代建築! 『関西の鉄道 No.44』所載の高山禮蔵「奈良電雑記帳」に、《屋根が半円形なのはかつての京王電鉄井ノ頭線(旧帝都電鉄)永福町車庫の収容庫が有名であったが、現在は他に移転し、バスの車庫に転用されている由。これは昭和8年の建築であり、新田辺車庫の方が5年も早く建っているのが注目される。》というくだりがある。残念ながらその永福町の車庫はすでに取り壊されているようだ。



f:id:foujita:20101207223737j:image

次の停車駅、西大寺に向かって疾走しているときの車窓。奈良に近づくにつれて、心なしか車窓も「まほろば」感を増しているような気がする。折口信夫を読みたくなってきたなア、などと適当なことを思いながら、ぼんやり眺める。



f:id:foujita:20101207223738j:image

西大寺の1つ前の駅、平城の奈良県営競輪場を車窓から無事にのぞむとができて、こんなに嬉しいことはない。今日も空にはアドバルン。奈良電沿線で一番たのしみにしていたのは実はこの競輪場かもしれない。西大寺の競輪場といえば、小津安二郎の『小早川家の秋』で長らくわたしのなかでおなじみだった。というわけで、競輪には特に縁のない人生を過ごしている身ではあるけれども、かねて西大寺の競輪場には愛着たっぷり。こんなに嬉しいことはない。



f:id:foujita:20101227204044j:image


f:id:foujita:20101227204043j:image


f:id:foujita:20101227204042j:image

小津安二郎『小早川家の秋』(東宝・昭和36年10月29日封切)より、浪花千栄子と鴈治郎が西大寺の競輪場へゆくシークエンス。京都祇園に住む浪花千栄子と伏見の造り酒屋の鴈治郎。真夏のある日、ふたりは奈良電車にのって競輪場に出かけたに違いないッ。



f:id:foujita:20101207223742j:image

上掲沿線案内より、西大寺から終点奈良付近を拡大。



f:id:foujita:20101207223743j:image

西大寺から奈良に向かう途中、新大宮から平城京跡が見えて、一気に奈良気分が盛り上がる。「遷都1300年」、たくさんの人びとが青い空の下、巨大な建物に向かって歩いていた。



f:id:foujita:20101207223744j:image

午前10時34分、終点奈良駅に到着。たくさんの乗客が一斉に地上に上がったあとの、閑散とした地下のホーム。近鉄奈良線と京都線とが並んで停車中。このあと午後はこの奈良線に乗るのだ。




内田誠に思いを馳せながら、奈良ホテルで閑雅な昼食。初三郎の鳥瞰図に導かれて、奈良駅へ。



たいへん心待ちにしていた奈良電での移動は格別であったなアとハイになって地上に出る。いつもながらに、関西遊覧においては、関西私鉄での単なる「移動」が、戦前の沿線案内を参照しつつの「移動」がたのしくってしかたがない。もはや、行き先よりも移動そのものが遊覧のメインになっているのであったが、さてさて、なにはともあれ無事に奈良に到着。子供時分に一度行ったきりで、東大寺やら興福寺やら鹿やらを見たのは覚えてはいるものの、奈良はほとんど未知の土地なのだった。近鉄奈良駅の改札を出て、地上にあがり、このたびの目的地である奈良ホテルの方向へとテクテク歩いてゆく。




f:id:foujita:20101207223745j:image

鳥瞰図《奈良》(奈良市観光課発行、昭和8年4月15日)。このたびの関西遊覧にあたって購った戦前の紙モノ・その2。この鳥瞰図をわが奈良歩行の導き手としたい。



f:id:foujita:20101207223746j:image

外国人の遊覧客のために英語での表記が添えられている。奈良は古代日本を色濃く印象づけるゆえに、今も昔も多くの外国人が観光に訪れる。そのことでかえって、独特のモダンさが醸し出されているような気がする。



f:id:foujita:20101207223747j:image

このたびの目的地は奈良ホテル。近鉄電車を下車して地上にあがり、まずは猿沢池に向かって、歩いてゆく。土産売場が軒を連ねるアーケードの商店街がどこかひなびていて、なかなか味わい深い。子供時分に奈良を訪れたときに親にねだったものの買ってもらえなかったビニール製の動く鹿のぬいぐるみが、今もなおたくさん売られているではないか……とひとり懐かしむ。



f:id:foujita:20101207223748j:image

駅前のひなびた商店街を直進して左折。ところどころ古い建物や近代建築が残っているのが嬉しくて、手元の戦前の鳥瞰図の頃からある建物かなあと思いを馳せる。



f:id:foujita:20101207223749j:image

そして、猿沢池が視界に入ると、絵に描いたような奈良風景が眼前に広がる。



f:id:foujita:20101207223750j:image f:id:foujita:20101207223751j:image

鈴木信太郎『お祭りの太鼓』(朝日新聞社、昭和24年4月25日)の表紙と裏表紙に描かれた《奈良公園 猿沢池》。絵に描いたような奈良風景を鈴木信太郎が絵に描くと、この本の表紙になる。





ほとんど未知の土地の奈良へこのたび出かけようと思ったのは、近鉄京都線に乗りたいというのもあったけれども、数か月前のとある古書展で入手した奈良ホテルの観光案内がきっかけだった。



f:id:foujita:20101207223752j:image

《奈良ホテル御案内》(鉄道省直営奈良ホテル発行)。印行年月は明記されていないけれども、戦前であることは確実。観光案内や沿線案内といった戦前の紙ものが体現するところの「モダン都市の行楽」にはいつだって胸躍る。この小冊子の冒頭に、

奈良驛から眞直に公園に入つて、猿澤の池から少し先きの、春日神社の一の鳥居の前を右へ折れると、寶池を隔てゝ美しい宮殿風の建物が見えます。それが奈良ホテルでございます。

と「ホテルの位置」の説明があるので、このとおりに猿沢池を背後に右折して一の鳥居を確認して直進すると、荒池の水面が眼前に開ける。



f:id:foujita:20101207223753j:image

木立の向こうにうっすらと見える奈良ホテルの建物をのぞんで、うっとり。



f:id:foujita:20101207223754j:image

上の写真を撮ったところにこの案内板がある。



f:id:foujita:20101227203538j:image

上掲の《奈良ホテル観光案内》の表紙を広げる。この写真の中央に写る橋の上あたりで、上の案内板を眺めていたということになる。



f:id:foujita:20101207223756j:image

奈良ホテルの入口にたどりついた。



f:id:foujita:20101207223757j:image

見るからにクラシカルな奈良ホテルの建物が視界に入ってきた。



f:id:foujita:20101207223758j:image

戦前の《奈良ホテル御案内》で見ていた写真とまったくおんなじ風景が眼前に現出して、ますます気が逸るのだった。




戦前の奈良ホテルというと、谷崎潤一郎の『細雪』に悪しざまに描写されているのが強く印象に残っていたものだったけれども、ここ数年は、奈良ホテルというといつもなんとはなしに明治製菓の宣伝部長、内田誠のことを思い出している。昭和16年3月に『遊魚集』を刊行後、内田誠は佐々木茂索、宮田重雄、益田義信と古美術鑑賞のため、奈良・京洛を訪れたのを機に、古美術に夢中になり、その後、関西を頻繁に訪問するようになった。以降、その随筆も『遊魚集』とはがらっと違う古美術を対象としたものが多くなり、明治製菓宣伝部の部下で『遊魚集』の編集を担当した戸板康二を寂しがらせた。戸板青年は、『遊魚集』が体現するところのモダン都市東京が通底している内田誠のディレッタントぶりが大好きだったのだ。



f:id:foujita:20101207223759j:image

内田誠『いかるがの巣』(石原求龍堂、昭和18年6月20日)。表紙・扉題字:幸田露伴。

「いかるがの巣」は「遊魚集」(小山書店版)に次ぐ内田さんの五冊目の随筆集であります。主に法隆寺・東大寺など古社寺にゆかりのある最近の短章を収めました。なかの写真も御自身で撮られたものです。装釘は豪奢を避け簡素を旨としました。表紙は厚い鳥の子に木版で、胡粉で刷りました。蓋ひの薄紙をとつて、ためつすがめつすると光の加減で鹿の絵が見えたりかくれたりします。時がたつにつれて胡粉は錆び、鹿は自然に浮きだしてきます。矯激な文字に疲れを覚えるこのごろ珍しく閑雅な随筆集です。

と、これは本に挟み込んであった読者カードに記載の出版書肆による文章(全文)。今はすっかり表紙の鹿は浮きだしている。


奈良散策の折に、内田誠が定宿にしていたのが奈良ホテル。

 暮色が天香久山、耳無山に迫つてゐた。新口村のあたりは雪であつた。三輪の里も白かつた。奈良についた時は闇の中に氷雨の音がきこえてきた。

 一日中ニュースを聞かなかつた我々は夜のラジオを待ちかねてゐた。奈良ホテルの階段下の人気のない一隅で、我々は刻々に傾きつゝあるマニラの運命を知つた。それは正月二日のことであつた。

 三日の朝、部屋のカーテンを開けると、興福寺の塔、若草山のあたりは寒ざむと曇り、窓に近く雪がちらちらと舞つてゐた。食事を済ませ玄関に出た頃は、既にして粉雪がふりしきつてゐた。

 遠い薄墨をはいたような山の下、彼方には法隆寺、此方には薬師寺などがあると指さしてゐる耳に階段下のラジオが時ならぬに、ぽんぽん、ぽんと鳴りだしたその音は何か喜びにみちてゐた。

 戸外の雪もしんしんと、朝の玄関は塵も立たず静かだつた。

 皇軍がマニラを落としたのであつた。マニラが陥落したのであつた。ラジオに拍手し、万歳をさけぶも一人ではもの足りず、昂奮してだれでもよいから手を握りあつて、喜びを分ちたかつたのだが、合ひ憎くあたりには、帳場で熱心に事務をとつてゐる一人の男の外、だれもゐなかつた。……中略……

 間のなく雪は小やみとなり、やがてからつとした天気になつてきた。我々は春日神社に詣づるためにホテルをでかけた。

『いかるがの巣』所収の「三日の九時」と題された文章には、太平洋戦争下の当時の情勢と合わせて、昭和17年の正月の奈良ホテルが登場している。



それから、竹中郁が堀辰雄に奈良ホテルをすすめたという挿話も嬉しいかぎり。近畿日本鉄道宣伝課発行の『真珠』で、竹中郁と足立巻一の対談に以下のくだりがある。

足立 奈良ホテルはどうです? 堀辰雄が奈良へ来たときはあそこに泊っていますが、お会いになりましたか?

竹中 いや、しかし堀君に奈良ホテルをすすめたのはぼくのような気がする。あの天平ふうを加味したところはいい意味でハイカラで、よくある植民地ふうの和洋混淆より上等だ。それというのも天平文化が本質的に西洋くさいものだからと思うよ。それに設備があまり能率的でなくできているところもいい。


【竹中郁・足立巻一対談「歩きもうけとくたびれもうけ」- 季刊『真珠』23号(昭和32年7月1日、近畿日本鉄道宣伝課)】



f:id:foujita:20101207223800j:image

そんなこんなで、内田水中亭と竹中郁に思いをはせつつ、奈良ホテルへと足を踏み入れる。



f:id:foujita:20101207223801j:image

昼食の時間までまだしばらく間がある。ゆるりとホテル散策をすべく、資料室があるという2階へと歩を進める。シンと静まりかえる室内。



f:id:foujita:20101207223802j:image

資料室を見学して、そこに展示のあった数々の紙モノを目にして、古書展での蒐集を夢見つつ、ふたたび廊下に出る。窓から外を見ると、先ほどから見上げていた建物の新たな視覚を得ることができて、目にたのしい。


廊下を歩くだけで、滞在客の気分を味わって、悦に入る。上掲の戦前の《奈良ホテル御案内》に「眺望の美と閑静なる境域」というサブタイトルのもと、

何と申しましても奈良ホテルが第一の特長と致しますところは、俗塵を離れた、閑静にして頗る眺望の優れた境域を占めて居る点でありまして、ヴエランダの椅子に腰を降し、或は客室の窓に倚つて春日山や若草山を背景とした奈良公園の翠緑に対しますと、心身ともに清雅な自然の美と静けさに溶けゆくでありませうし、月明の夜、遠近に鳴く鹿の声が聞える時など一層の静寂を感ぜられる事でありませう。

というふうに紹介がされているけれども、まさにその通り、廊下を歩いているだけで「眺望の美と閑静なる境域」なのだった。



f:id:foujita:20101207223803j:image


f:id:foujita:20101207223804j:image

上掲《奈良ホテル御案内》に掲載の客室写真を眺めて、内田水中亭の奈良滞在に思いを馳せる。「都会生活の方々に」として、

日々黄塵万丈の都会生活をせられつゝある方々にとりまして、心身の御休養、御気晴らしの為めに、週末の一両日を割いて、塵煙を断つた静寂の地に、自然を楽しまれることは、極めて緊要のことでございますが、其の御安息の場所として、奈良ホテルは何時でも、平和と静穏を保つて御待ち受け致して居ります。

という旨招待がある。内田誠もまさしくこんな感じに奈良ホテルでくつろいでいたのだろうなあと思う。





廊下を歩いているだけで滞在客気分を味わっていい気持ちになり、窓からのあちこちの眺望を満喫しているうちに、すっかり「眺望の美と閑静なる境域」に陶然なのだった。



f:id:foujita:20101207223805j:image

などと、内田誠気分にひたっていい気持になっていたところで、階段の吹き抜けのところに到着。ソファに座って、休息。



f:id:foujita:20101207223806j:image

壁には絵画が陳列されている。吉田初三郎の奈良鳥瞰図の原画が展示されている!



f:id:foujita:20101207223807j:image

ワオ! と歩を進めて、間近で凝視。



f:id:foujita:20101207223808j:image

額の表面にラベルで場所が表示してある。これまで歩いてきた、猿沢池、一の鳥居、荒池、そして奈良ホテル。



f:id:foujita:20101207223809j:image

奈良線の奈良駅の建物(竣工:昭和8年12月)が描かれているので、昭和9年以降の鳥瞰図ということになる。初三郎の鳥瞰図に描かれた奈良駅を見て、モクモクと奈良駅の見物に行きたくなったところで、昼食の時間。予約している1階の「メインダイニングルーム『三笠』」へと向かう。





昼間っからワインを飲んで、サンルームからの眺望と閑雅な昼食を満喫したところで、ふたたび外に出る。




f:id:foujita:20101207223810j:image

廊下を歩いたり、窓からの景色を眺めたり、ロビーのソファに座ったり、壁面の吉田初三郎の鳥瞰図を眺め、そしてレストランでのひととき。ごく短時間の滞在だったけれども、奈良ホテルでの非日常のひとときはたいそうすばらしいことであった。鹿の脇を通って、その糞を踏みながら、入口近くの高台からホテルをのぞんで、奈良ホテルを見納め。



ホテル前から、12時55分発のバスにのって、JR奈良駅へと向かう。先ほど歩いた道を今度はバスの車窓から見下ろす。はとバス気分で奈良市街を満喫。バスの車窓から、猿沢池とは逆の方向から五重塔が見えて、その前には公園の景色が広がり、鹿が思い思いにくつろいでいる。そんな絵に描いたような奈良風景が嬉しい。



f:id:foujita:20101207223811j:image

『ホームライフ』第4巻第5号(昭和13年5月1日発行)。表紙:鈴木信太郎。絵に描いたような奈良風景を絵に描いた鈴木信太郎。内田誠とともに奈良というと思いだすのは鈴木信太郎だ。



f:id:foujita:20101207223812j:image

奈良ホテルの壁面の吉田初三郎描く奈良市鳥瞰図に思いを馳せながら、バスは奈良駅へと向かい、あっという間にバスは奈良駅前に到着。



f:id:foujita:20101207223813j:image

バス停の正面には、吉田初三郎の鳥瞰図そのまんまの奈良駅の建物が! と興奮のあまり、つい小走り。



f:id:foujita:20101207223814j:image

奈良ホテル同様に、和洋折衷の独特の建築に興味津々。



f:id:foujita:20101207223815j:image

全体的は和洋折衷でありながらも、細部の意匠はなかなかモダンだったりもする。現在の奈良駅の駅舎は隣りにあり、かつての奈良駅は観光案内所として保存されている。建物のなかに入り、高い天井を見上げる。窓から見る空が美しい。



f:id:foujita:20101207223816j:image


f:id:foujita:20101207223817j:image


f:id:foujita:20101207223818j:image

《鉄道省奈良駅》、『工事画報 昭和十年版』(株式会社大林組、昭和10年9月20日発行)より。





奈良駅を思う存分満喫したところで、先ほど下車した近鉄奈良駅に向かってテクテク歩く。ほんの少しの奈良訪問ではあったけれども、いかにもな奈良風景のまっただ中にいるだけで、絶好の気晴らし、ずいぶん和んだ秋日和のひとときだった。


編集工房ノアの『海鳴り 21』(2009年6月1日発行)を、去年8月と12月に三月書房を訪れた折に2回続けて頂戴していて、そのあとはいずれも新京極のスタンドでいい気分で繰っていたものだった。その二度にわたるスタンドでの『海鳴り 21』にて、庄野至さんの「夜行列車と蜜柑」を読んだ。庄野至さんの文章を通して二度にわたってうっすらと奈良散策への憧れが喚起されたところで、今年2010年になった次第だった。


庄野至の「夜行列車と蜜柑」は奈良散策が情景として織りこまれている。その書き出しは、

 私たち夫婦が奈良に出かけたのは、二月の風のない、暖かい日だった。

 これといって目的がある訳ではないが、あまりにも天気がいいので、好きな奈良にでも行って少し歩きたくなった。近鉄奈良駅に着いたら、もう十二時過ぎ。

「今日は、どの辺りを歩こうか」

「新薬師寺にでもする?」と妻が。

「それなら、破石の蕎麦屋に寄ろう」

このあと、新薬師寺に近い破石というバス停留所、その前にある「観」という古い蕎麦屋、寺の帰りに寄る高畑の旧志賀直哉邸横の「ガーデン喫茶店」へと夫妻は移動してゆく。そして、喫茶店での語らいの場面となる。


喫茶店のご主人の父君は、昭和初期、大阪の株屋だったそう。気分は一気に横光利一の『家族会議』(佐野繁次郎の挿絵)なのだったが、父君は奈良の上高畑の住宅地が気に入って、玉出から引っ越してきたのだという。と、ここで、土地不案内のわたしは地図で「玉出」の位置を確認する。あっ、帝塚山近くの阪堺線のあたりだと、去年2月の関西遊覧の折の南海電車と阪堺線に乗った日のことを懐かしく思い出す。そして、庄野至の掌編に登場する喫茶店の父君が奈良に移住してきた昭和初期という時代に思いを馳せる。モダン都市の周縁、郊外住宅地の拡大の典型がここにある。


喫茶店のご主人との語らいのなかで、著者の昭和二十年代の著者が語られてゆく。「奈良」が通過点として登場する。

「私が会社に入って間もない頃でした。昭和二十年代の終わりです。初めての東京出張の帰りのことです。その時代、たしか急行大和といって東京を夜十一時発の夜行列車で、名古屋までは東海道線を走り、名古屋から関西本線になって四日市や亀山、そして奈良を通り最後は大阪の湊町に到着する列車があったんです。二月の終わり頃だったと思います。私は一人で東京駅からその夜行列車に乗ったんです」

と、この「眠っていても明日の朝には天王寺に着く」夜行列車でのボックスシートにおける、東京から大阪に帰る語り手と静岡から奈良へ向かう少女とのひとときの会話がとても素敵なのだった。


この掌編の庄野至さんのように、《これといって目的がある訳ではないが、あまりにも天気がいいので、好きな奈良にでも行って少し歩きたくなった》というふうにして、大阪や京都を起点にしつつも、ちょいと足を伸ばすというふうにして、近鉄電車に乗って、少しずつ奈良を歩いてみるということを今後続けていきたいな思った。そして、大正から昭和初期にかけての「モダン関西」探索を徐々に深めていければと思う。このたびの秋日和の奈良ホテルはその絶好の前奏になった気がする。




ふたたび西大寺を通過して『小早川家の秋』をおもう。生駒ケーブルにのって、生駒山上へ。



奈良ホテルでの閑雅な昼食のあとの午後は生駒山ピクニックという計画。




f:id:foujita:20101222231753j:image

《大軌参急沿線案内》、このたびの関西遊覧を記念して購った紙もの・その3。関西遊覧の一番のたのしみは、関西私鉄で京阪神と奈良を移動することにあるといっても過言でない。わたしの近鉄乗車は、去年の年末に上本町からビスタカーにのって橿原神宮へ出かけたのをきっかけにはじまった。これから少しずつ、「モダン関西」における近鉄沿線を追究したいのだった。

【「日用帳」関連記事 →去年12月の関西遊覧での近鉄電車:id:foujita:20091230#p4



f:id:foujita:20101222231754j:image

大阪、京都、奈良、三重を「大軌」傘下の路線が、まさに網の目のように張り巡らされている。山の間を線路が敷設され、いくつものトンネルを通過する。明治43年設立の「大阪軌道鉄道」は、昭和19年6月に現在の「近畿日本鉄道」となった。



f:id:foujita:20101222231755j:image

そんなこんなで、「奈良電」の近鉄京都線のあと、午後は「大軌」の近鉄奈良線だ! と張り切って乗りこんで、電車は奈良駅を出発。目的地は生駒山。奈良と大阪の県境の生駒山のてっぺんには飛行塔。このあと、ケーブルカーにのってこの飛行塔の真下へゆくのだ。



f:id:foujita:20101222231756j:image

電車が西大寺に近づいたところで、こうしてはいられないと立ち上がって、先頭車両から窓を凝視。京都線と奈良線と橿原線が分岐する大和西大寺駅の線路が思っていた以上に目にたのしくて、ワオ! と大興奮の瞬間。



f:id:foujita:20101222231757j:image


f:id:foujita:20101222231758j:image

と、ここでふたたび、小津安二郎『小早川家の秋』(昭和36年10月29日封切)より、鴈治郎と浪花千栄子が西大寺の競輪場へゆくシークエンスを思い起こしてみる。伏見の造り酒屋の主人・鴈治郎と京都の女・浪花千栄子はおそらく奈良電にのって西大寺の競輪場へ行ったのだろう。


このあと、暑いなか出かけたというのに競輪はハズレ、気晴らしに大阪にでも行こうかというようなことを鴈治郎は言う。結局鴈治郎の体調が思わしくなく、京都に戻ったということがあとで判明するのだが、なるほど、西大寺は京都へも大阪へもどちらへゆくにも好立地なのだなあと、ただそれだけのことが、土地不案内の身にとっては、実際に出かけてみるとイキイキと実感できて、小津安二郎唯一の関西映画であるところの『小早川家の秋』のリアリティがいいな、いいなと思った。伏見の造り酒屋の末娘・司葉子は大阪城の見えるオフィスに勤めている。京阪電車通勤生活、かな。



f:id:foujita:20101222231759j:image

電車が西大寺を発車したところで、ふたたび先頭車両から虎視眈眈と様子をうかがっていたら、近鉄奈良線と近鉄京都線の分岐点を目の当たりにして、ふたたびワオ! と大興奮。それぞれの線路から、それぞれの電車がこちらに向かって走っている!





奈良駅では閑散としていた車内は西大寺で急に混雑。昭和初期、遊園地や温泉のみならず、市川右太衛門プロダクションの撮影所のあったあやめ池を通り過ぎて、電車は生駒駅に到着。上掲の戦前昭和の《大軌参急沿線案内》の裏面に記載の観光案内の「生駒山」の項は、

 大阪府と奈良県との分水嶺で、西麓は神武天皇御東征の古戦場。山腹には霊験を以て聞えた聖天さんが鎮座ましまし、畿内の霊峰とされてゐる。

 山上には海抜六百四十二米、広さ三十万坪、十一ケ国を展望し得る遊園地で大飛行塔、ベルグ・ハウス、航空灯台、最新の運動具、無料休憩所があり、その間に縦横に遊歩道が開けてゐて、理想的な高原の楽園である。市内は三十度以上の炎暑に喘ぐ盛夏でも、この山上は廿五度内外の暑さ知らずでテント村も開設される。

 山上から仕貴山、又は高安山に至る約九粁の縦走路は、大和河内を脚下から見る壮快なハイキング・コースである。

というふうに紹介されている。生駒はあやめ池と同じく、大軌、すなわち戦前の近鉄沿線における「モダン関西の行楽」の典型だった。さあ、生駒の「モダン関西」探索だ! とつい駆け足になって改札を出て、生駒ケーブルの乗場に向かって、小走り。



f:id:foujita:20101222231800j:image

《奈良・あやめ池・生駒山》(大軌参急電鉄発行)。上がモダンガールと鹿、まん中が女学生とあやめ池遊園地の観覧車、下が生駒山上の飛行塔。A3強のサイズの一枚紙を折りたたんだリーフレットを開くと、一面全体が奈良、その裏面の上半分があやめ池で下半分が生駒山上の紹介、というふうになっている。今はなき、あやめ池遊園地の詳細がわかって、たいへん興味深い。



f:id:foujita:20101222231801j:image

戦前の観光リーフレットを参照しながら、「モダン関西の行楽」探索をするのは格別だ。このリーフレットを開くと、生駒山上でピクニックをたのしむモダンガールたち。草の上のモダンガールの向こう側にはバンガローやテント村といったキャンプ施設が見え、そのさらに向こうには生駒山上のシンボルの飛行塔。この写真の下には、

 二千五百年の日本歴史をその懐に育んだと云ふ山。大阪の山と云ふ感じの最も深い峯通り……。

 それが生駒山である。続いて生駒と云えば聖天とトンネルが連想され、天幕村とベルグハウスが……。夏と生駒……。

 生駒の景観はその山頂の展望だ。奈良一帯の古都がすぐそこに眠つてゐる。木津、宇治、桂の三川合流点から、山崎、男山の隘路が見下ろされる。天気のよい日は遠く京洛の巷。淀川の流域を引いて遠く煙る大阪の市中。飛んで六甲の山々。更に遠く紀和山脈の連亘。葛城、金剛、二上の山々と、殆ど近畿のすべてが、眼下に集る。やがて夜ともなり、航空標識灯がその閃光を四方に投げかける頃、奈良三條通の灯火が一線を引き、遥に京の街も明るんで、脚下には大阪の大都市が間近にルビーとまたゝくネオンの光をちりばめ星をバラまいたやうに点滅を見せる。遠く神戸の街は暗黒の海に映え輝いて見える。

   春 風 に 生 駒 の 山 の 峯 は れ て

      へ だ て ぬ 雲 や 桜 な る ら ん    法印定為

   生 駒 山 か げ ま だ 峰 に 別 れ ぬ を

      浪 華 の 海 は 月 に な り け り    上田秋成

というふうな文章が添えらている。生駒山を中心に語られる関西地勢が、大軌の宣伝部の文案家によってイキイキと綴られているのを目の当たりにすることで、現在の観光への思いをも喚起される。愉しきかな。



f:id:foujita:20101222231802j:image

同じく、大軌発行の観光リーフレット《生駒山上御案内》を広げると、草の上のモダンガールたちの座っていた位置を俯瞰するような構図になっている。奈良から急行15分(上本町からは20分)、生駒で下車してケーブルカーにのって15分で生駒山上。山のてっぺんには飛行塔があり、山の斜面の広大な敷地に、テント村、サンマ―ハウス、バンガローの設備がある。



f:id:foujita:20101222231803j:image

さらに大阪毎日新聞社による、生駒山の俯瞰写真、《生駒山遊園地》、『西日本現代風景』(「大阪毎日新聞」附録、昭和6年9月5日発行)より。《大軌電車が経営して、海抜六四二メートルの山麓からケーブルカーを通じこゝに飛行塔、サンマ―ハウス、ローラースケート場などを作り数万本の桜樹を植栽した》とある。





去年8月に深い考えもなくその場の思いつきで乗った叡山ケーブルにたいへん感激してからというもの(当時の「日用帳」:id:foujita:20090815#p2)、関西のケーブルカーにもう夢中、関西遊覧の大きなたのしみになっている。町中からすぐに山の麓まで行けて、山上ハイキングをたのしめるという山に囲まれた関西ならではの都市構造が、関東の人間にとってはしみじみおもしろいのだった。このたびの生駒ケーブルは、去年12月の極寒の六甲ケーブルに引き続いて(当時の「日用帳」:id:foujita:20091229#p3)、三度目のケーブルカーとなる。


前々から六甲ケーブルの次は生駒ケーブルと心に決めていたので、上掲のとおりに、手元には戦前の紙ものがだいぶ溜まってきていて、準備はバッチリ。乗る前から乗った気になってしまいそうな勢いであったが、六甲ケーブルから数カ月を経て、本日の秋日和、ケーブルカーに乗るのにもっともふさわしい天候だ! そんなこんなで、近鉄奈良線を生駒で下車して、ケーブルカーの乗場へ小走り。



f:id:foujita:20101222231804j:image

生駒ケーブルは、大正7年8月29日開業。大正11年1月25日に大阪電気軌道の経営下に入り、以後、行楽地として開発され、ここに典型的「モダン関西の行楽」が展開してゆくこととなる。生駒山上遊園地の開業は、昭和4年3月。

本線は大正十一年一月生駒鋼索鉄道より譲受後同年八月十四日其の終点宝山寺より延長して生駒山嶺に至る五十鎖の単線電気鋼索鉄道敷設免許を申請し、同十三年二月二日に至り免許されたのである。

と、この一節は『大阪電気軌道株式会社三十年史』(昭和15年12月刊)にある。『大正期鉄道史資料 第2期 第11巻 大阪電気鉄道三十年史』(日本経済評論社、1992年9月20日)に翻刻されている本書が、このたびの生駒ピクニックの参考書。



f:id:foujita:20101222231805j:image

大正7年の生駒山ケーブルの開業時は、鳥居前から宝山寺の一駅だけだった。ケーブルカーが生駒山上まで延長したのは昭和4年3月27日、生駒山上遊園地の開業と時を同じくしている。その名残りで、山頂まで行くためにはいったん宝山寺で下車して、乗り換えねばならない。ウムなるほどと、まずは鳥居前から宝山寺までのケーブルカーに乗りこむのだった。



f:id:foujita:20101222231806j:image

午後2時00分、鳥居前をケーブルカーが出発。線路が徐々に傾斜を強めてゆく斜面を見下ろすのはいつもたのしい。下山する犬の形をしたケーブルカーとすれ違った直後の写真。



f:id:foujita:20101222231807j:image

先ほどすれ違った下山中のケーブルカーはすっかりはるか麓へと行ってしまった。線路の形が感興たっぷり。この線路については、『大阪電気軌道株式会社三十年史』に、

 此の延長戦の竣功と同時に当社が豫ねて造成中の生駒山上遊園地が完成したので、両者相俟つて、多くの乗客を迎ふることゝなつた。

 また是れより先鋼索線鳥居前、宝山寺間の単線を複線に変更することゝなり、大正十三年九月九日施工認可を受け同十四年十二月工事に着手し、翌年十二月下旬竣功した。それで同月三十日運転を開始して、生駒聖天参詣の為益々増加する乗客に備へたのである。

とある。つまり、これは、生駒山上遊園地の竣工に先立って、昭和への改元とほぼ同時に複線化した線路なのだった。ちなみに同年の、大正15年8月には上本町に大軌ビルヂングが竣工していて、また6月にはあやめ池遊園地が開園している。破竹の勢いの大軌の「モダン関西」。



f:id:foujita:20101222231808j:image

鳥居前から5分、ケーブルカーは宝山寺駅にあっという間に到着。下車したあとの急勾配の階段がいつも嬉しい。



f:id:foujita:20101222231809j:image

山上行きのケーブルは4分後に出発の次の電車ではなくて、その次の20分後の電車に乗ることにして、いったん外に出て、駅舎のあちらこちらを観察。宝山寺の時点ですでに絶景かな、絶景かな、なのだった(高低差は146メートル)。古びた駅の屋根が嬉しい。



f:id:foujita:20101222231810j:image


f:id:foujita:20101222231811j:image


f:id:foujita:20101222231812j:image

近鉄生駒ケーブルは、開業の生駒鋼索鉄道により大正7年8月29日に鳥居前・宝山寺間にて開設されたことを発祥とする。生駒鋼索鉄道の役員は創立当初から大軌役員の大部分が兼務しており、大正11年1月に合併に至った。

 同線は既記の如く大正二年九月十九日現在の鳥居前宝山寺間に鋼索鉄道を敷設する免許を得て居たが、愈々其の機熟して大正三年七月十日生駒鋼索鉄道株式会社として創立せられたのである。然しながら当時に於ては我国は勿論東洋に於てもケーブルカーなるものは香港に唯一ケ所あつたのみで、之に関する設計資料などは勿論文献も殆んどない有様であつたので之が計画実施には非常な苦心を払ひ、独得の考案を以て我国最初のケーブルカーを完成したのである。我国開国以来殆んど総ての文明の利器が輸入品を以て充てられた中にあつてケーブルカーに限つて、其の最初のものが全く独自の設計製作によつて生れたといふことは、斯界のため万丈の気を吐くものといつてよからう。

さらに、鳥居前・宝山寺間は日本最古のケーブルカーなのだった。宝山寺駅の細部の意匠は、大正7年の開業時のものなのかなと、あちらこちら観察をたのしむ。



f:id:foujita:20101222231814j:image

《開通当時の生駒鋼索鉄道ケーブルカー》、『近畿日本鉄道50年のあゆみ』(近畿日本鉄道株式会社、昭和35年9月16日)より。




f:id:foujita:20101222231815j:image

大正7年8月に開業の日本最古のケーブル、鳥居前・宝山寺間の「宝山寺線」の次は、昭和4年3月に生駒山上遊園地の開業と同時に開通した、宝山寺・生駒山上間の「山上線」。鉄道会社による「モダン都市の行楽」の典型の生駒山上遊園地は今も「スカイランドいこま」の名で健在。鉄道会社の経営による古き遊園地が大好きだ。山上線を目の当たりにして、さらにハイになる。



f:id:foujita:20101222231816j:image

午後2時29分、宝山寺を出発して、次の駅は梅屋敷。しばしトンネルを通過する。



f:id:foujita:20101222231817j:image

次の駅は霞ヶ丘。線路はどんどん傾斜を増してゆく。



f:id:foujita:20101222231818j:image

いよいよ、生駒山上はすぐそこ。



f:id:foujita:20101222231819j:image

午後2時36分、念願の生駒山上に到着。青い青い空の下、飛行塔がグルグルまわってい る! わーいわーいと、生駒山上遊園地に向かって、小走り。




生駒山上遊園地の飛行塔。上空から関西をのぞむ。生駒山上の鉄塔群と旧天文台。



奈良から近鉄電車にのって、京都線との分岐点である西大寺で興奮したりして、大阪との県境となる生駒山の手前に位置する生駒で下車して、生駒ケーブルにのって、午後3時前、山上に到着した。




f:id:foujita:20101223175250j:image

前掲の《大軌参急沿線案内》より、生駒山附近を拡大。生駒山の下を長いトンネルが貫通している。現在の近鉄奈良線は、大正3年7月に開通している。大阪と奈良を最短距離で結ぶためにはどうしても生駒トンネルを掘る必要があった。明治44年6月に着手された工事の難事業については、近鉄の社史に詳しい。昭和39年7月にルート変更されるまで、生駒と石切の間に「鷲尾」という駅があった。そして、生駒山の斜面に沿ってケーブルカーが敷設され、そのてっぺんには飛行塔がグルグルまわっている!




f:id:foujita:20101223175251j:image


f:id:foujita:20101223175252j:image

『旅』第10巻第11号(昭和8年11月1日発行)に掲載の、村上昭房「スタムプの旅 大軌・参宮電車の巻」より。上の生駒駅のスタンプにはトンネルとケーブルカーと遠くに見える飛行塔が、下の生駒山上駅のスタンプにはケーブルカーと間近に見える回転中の飛行塔が描かれていて、なんともチャーミング! 生駒トンネルが完成して、大正3年7月に大阪・奈良間が晴れて開通し、大軌における「モダン関西」の拡大、すなわち「郊外」の開発や「行楽」の建設といった事業が展開してゆくこととなったのだ。昭和4年3月の生駒山上遊園地のチャーミングな飛行塔は、大軌すなわち近鉄における「モダン関西」の絶好のシンボルといえそう! と、馬鹿の一つ覚えの「モダン都市の行楽」に夢中になるあまりに飛行塔を思うとそれだけで胸が躍ってしまい、行く前から大はしゃぎしていたものだった。



ケーブルカーを下車して生駒山上に到着、改札をでるとそこは「スカイランドいこま」、すなわち生駒山上遊園地。鳥居前での看板の印象、ケーブルカーの閑散とした車内とは裏腹に、いざたどりついてみたら、いかにも近所の家族連れといった行楽客が気ままにくつろいでいて、のんびりと賑わっている。古きよき遊園地の典型がそこにあった。



f:id:foujita:20101223175253j:image

飛行塔に向かって、わーいわーいと駈け出してゆくその前に、遊園地の入口附近に位置するかつての生駒山宇宙科学博物館(1999年に閉館)の建物は吉阪隆正の設計(昭和44年)。吉阪はアテネ・フランセでおなじみの建築家。



f:id:foujita:20101223175254j:image

そして、満を持してという感じに、飛行塔に向かって歩を進める。昭和4年3月の開業以来、飛行塔は今も現役。極上の「モダン関西」資料なのだった。





昭和4年3月開業の生駒山上遊園地の大飛行塔は、日本にある最古の遊戯機械であるという。この飛行塔に関しては、とびきりの名著、中藤保則著『遊園地の文化史』(自由現代社、昭和59年9月)の「第二章 大型遊戯機械の父 土井万蔵氏」に詳述されている。

生駒山の開山自体が、大飛行塔の完成と時を同じくしたのだから、工事には大変な労力と苦労が必要だった。山麓の石切から強力がすべて資材を肩にかついであがったという。この飛行塔は構造そのものもきわめてユニークな特色をもっていた。上部はエレベーターであがる展望台になっているのである。その頂上から4本のアークがのび、定員12名の飛行機が4機吊り下げられている。発注は大軌電気鉄道(株)(現在の近畿日本鉄道(株))。生駒山上に高さ40メートル、直径20メートルの偉容をあらわした時は、ちょっとしたセンセーションをまきおこしたに違いない。

鉄骨部分は松尾橋梁、エレベーターは日立製作所が分担したが、飛行塔の製作は土井万蔵氏の(株)土井文化運動機製作所が請け負い、《当時名を高めつつあった“土井の飛行塔”の精華ともいうべきものである。》



f:id:foujita:20101223175255j:image

《建設中の飛行塔》、中藤保則著『遊園地の文化史』、「第二章 大型遊戯機械の父 土井万蔵氏」に掲載の写真。《張り出したアームの上に、人間が4人乗っている。鳶職と思われるが、工事の雰囲気が伝わってくるような貴重な写真である。》と著者の中藤氏は紹介している。



f:id:foujita:20101223175256j:image

そして、隣りのページに掲載の写真、《完成した大飛行塔 昭和4年3月》。著者も注目しているとおり、「森永ミルクキャラメル」の広告にワオ!



同書によると、土井万蔵氏は大正半ばより大型遊戯機械の製作を手がけるようになり、大正7年の東京電気協会主催の「東京電気博」にサークリングウェーブを出品したのを皮切りに、大正9年に京阪電鉄千里山山頂に設置された飛行塔が最初の大型遊戯機械だった。その後、各地の遊園地に遊戯を設置し、あちこちの博覧会に出展を重ねて、昭和4年の生駒山頂大飛行塔へと至った。土井万蔵氏による大型遊戯機械の多くは現在はほとんど失われているけれども、今も生駒山頂に飛行塔が健在であることのすばらしさ! 戦前のモダン都市を取りまく紙もの資料でおなじみの飛行塔を今も見られることのすばらしさ!



「モダン都市」時代の一側面として、各地の博覧会や遊園地の存在がある。鉄道会社をはじめとする、多くの企業や実業家が関係して、それぞれの利害が形成されて誕生した、モダン都市の「装置」に興味津々なのだった。たとえば、開業当時、生駒山頂の大飛行塔には「森永ミルクキャラメル」の広告がほどこされることで、その広告費が遊園地の財源の一部になっていた。そんな近代日本の産業の連関に目がはなせない。




f:id:foujita:20101223175257j:image

絵葉書《躍進日本大博覧會子供の國》。飛行塔のみならず、博覧会に設置された物体のすべてに森永製菓の広告がほどこされている。中藤氏の『遊園地の文化史』に掲載の生駒山頂の大飛行塔の「森永ミルクキャメル」の写真を見て、かねてより私蔵していたこの絵葉書を思い出した。




f:id:foujita:20101223175258j:image

現在の大飛行塔には森永製菓の広告は設置されていない。遊園地の案内板には、アサヒビールとコカコーラの広告。




f:id:foujita:20101223175259j:image


f:id:foujita:20101223175300j:image

飛行塔の麓にたどりついて、真下から見上げる。




f:id:foujita:20101223175301j:image

飛行塔の入口。乗車券は500円。奥の三角屋根の売場へ乗り物のチケットを買いにゆく。





そして、まっさきに飛行塔に乗り込んだ、と言いたいところだったけど、「空中ダンボ」にたいへん惹かれるものがあり、まずはこちらに乗って、のんびり空中遊覧をしてみたいと思った。ダンボは400円、500円の飛行塔と合わせて、計900円のチケットを買う。



f:id:foujita:20101223175302j:image

わーいわーいと、レールの上を移動するダンボの下に吊られた観覧車のような車で空中を移動する装置、に乗りこむ。ギコギコと古びたレールの下を古びた車体がゆるやかに移動する。と、発車したとたん、窓からは先ほど眺めていた、遊園地の入口にある宇宙科学博物館の建物が見える、屋根はあんなふうになっていたのだなあとはしゃぐ。



f:id:foujita:20101223175303j:image

時折風に揺られる車体にそこはかとなく恐怖心をおぼえつつも、素晴らしすぎる絶景に心が震える。風が吹くたびに身体も震える。



f:id:foujita:20101223175304j:image

やがて、視界には大阪湾の水面が! 海面がキラキラ輝いている。それにしても、なんて素晴らしいのだろう! 気分はすっかり空中遊泳。

 眼を遠く放つと、前方は生駒に限られてゐるが、その左の方は、緩やかな山や丘が濃藍に煙つて、その間の平地から、淀川が二、三度屈曲して。ゆるりと流れてゐるのが見える。京都は、もとより雲霧に包まれて望めない。晴れても見えないだらう。――近畿の平野は、思ひの外に廣くない。たゞ水田が多いのが、豊饒な感じを与へる。

 機はその水田に蜻蛉のやうな影を落として、一気に生駒の右肩をめがけた。

 生駒はなかなか馬鹿に出来ない山だ。大軌の線路が、山麓の彼方で、フッと消えてゐる。あの長いトンネルに入つたのだらう。吾らも初めての山を、上げ舵を取つて飛んだ。

 右手には、河内の山続き、高野の方まで藍鼠の山波が見える。ふと気付くと、見送りのブレゲー機がその藍鼠の山波の上を濃鉛色の翼を伸べて、ほど近く雁行してゐる。が、暫らくすると、だんだん遅れて見えなくなつてしまつた。

 生駒ほどの山でも、山にかゝると機体に鳥渡揺れが来る。少くとも来るやうな気がする。山の形なりに風が吹くからださうだ。僅かだが、前進してゐる機が、時々スッスッと落される。ランチに乗つて、波を越える時位の感じだ。――最初のこの上下動に接して、私も少し気持がよくなかつた。が、生駒は無事に裏へ越えた。聖天様を祀つた中腹と、ケーブル・カアの上り路とが、左りに斜走して見える。大軌の線路が、その下あたりから、又電柱の毛を植ゑて続く。

 いよいよ大和平原だ。春ならば菜種咲く、慕はしの大和平野だ。今は矢張り緑一帯。

 奈良が思ひ做しか、古色を帯びて見える。……


【久米正雄「東海空中行」-『微苦笑随筆』(文藝春秋新社、昭和28年3月8日)所収】

と、これは久米正雄が大阪から朝日新聞社の飛行機にのって、東京朝日の「ドイツ船のやうな」建物の上を一旋回したりしつつ、立川の飛行場に到着した日のことを綴った空中遊覧日記(初出誌を見たい!)。生駒山頂のダンボの下をギコギコと移動しながらの関西の絶景は、まさにちょっとした空中散歩だった。





ふだんはまったく食べないのに、遊園地に来ると、なぜかむしょうにソフトクリームが食べたくなる。ベンチに座ってペロリと、チョコレイトとバニラのツートンカラーのソフトクリーム(250円)でのどをうるおしたところで、さア、いよいよ大飛行塔へ!



f:id:foujita:20101223175305j:image

と、いさんで、飛行塔へと歩を進める。



f:id:foujita:20101223175306j:image

飛行塔の入口の係員待機スペース。飛行塔と同じく昭和4年当時からあったに違いない。ほどこされた補修が味わい深い。映画館の切符売場のような小窓がふさがれていて、左の窓が現在使用中。三色に塗られた建造物はかつては石造りの灰色をしていたのかな。



f:id:foujita:20101223175307j:image

大飛行塔の本体は昭和4年当時のものが現役だけれど、車体の方がさすがに新しくなっている。下部に「SKYLAND IKOMA」と印字されている。



f:id:foujita:20101223175308j:image

飛行塔に乗りこんだ直後の写真。先ほど楽しんでいたダンボがすぐそこに見える。



f:id:foujita:20101223175311j:image

鉄塔のまわりを車体がクルクル回りつつ、徐々に速度を速めて、徐々に高度を増してゆく。あっという間に、先ほどのダンボのはるか上方に来ていることに気づく。



f:id:foujita:20101223181316j:image

絶景かな、絶景かなと、馬鹿の一つ覚え状態で大喜び……と言いたいところであったが、ギコギコと鈍い音が塔の周りに響き渡り、高度と速度を増すばかりでなく、次第に傾斜を強めてゆく車体。その車体には強風が容赦なく吹きつけ、さらに揺れを激しくさせる。恐怖心におののいているうちに、絶景なのはもうわかったから、早く地面に戻りたいと、そんなことばかり思っているのだった。無念。





ふたたび無事に地面に戻ることができて、こんなに嬉しいことはなかった。気を取り直して、遊園地の外へと散歩する。飛行塔に勝るとも劣らないくらい、たのしみにしていた鉄塔見物へと歩を進める。



f:id:foujita:20101223175312j:image

《寒冷線上のテレビ塔群》、カメラ:入江泰吉、季刊『真珠』第35号(近畿日本鉄道宣伝課、昭和35年7月1日)に掲載のグラビア。《寒冷線生駒山は、海抜642メートル。山上には左からNHK、NHK教育、毎日、関西、朝日、読売の6本のテレビ塔が聳え、中央にあかるく輝いているのが、生駒山のシンボルの東洋一の飛行塔。左手の山を縫って見えがくれしているのが、大阪、奈良を結ぶドライブウェイです。》



f:id:foujita:20101223175313j:image

テレビ塔のグラビアのある『真珠』第35号の表紙画は石川滋彦によるもので、大阪と名古屋を結ぶビスタカーが桑名の水郷を通過するところをスケッチしたもの。



去年12月末、上本町からビスタカーに乗って橿原神宮へ行ったときのよろこびは今でもとっても鮮烈。上本町を出発して、さっそく感激だったのが生駒山の鉄塔郡だった。低山の連なりに向かうようにしてなだらかに走り、布施で線路は二又に分かれて、ビスタカーは生駒山からどんどん遠ざかってゆく。やがて鉄塔が視界から消える。この一連の車窓がいつまでも忘れられないものがあって、いつかあの鉄塔の真下に行ってみたいなと思ったものだった。いよいよ今日、その夢が叶うのだ。



f:id:foujita:20101223175314j:image

と、胸を熱くしながら、青い空の下、そびえたつ鉄塔を見上げる。アホみたいにいつまでも見上げる。



f:id:foujita:20101223175315j:image

林立する鉄塔の前には「abc ch6」や「朝日放送生駒送信所」といったプレートがある。フムフムと次から次へと歩を進めては、振り返ったりする。



f:id:foujita:20101223175316j:image

このあたりは登山コースの砂利道になっているけれども、通行人はほとんど見られず、いたって静かな昼下がりだった。遊園地の喧噪のあとではなおのこと。



f:id:foujita:20101223175317j:image

ジャリジャリと歩いて視界から鉄塔が消えた頃、かつての「生駒山天文博物館」の建物が眼前にあらわれる。右が博物館で、左が戦前からある京都大学天文台。



f:id:foujita:20101223175318j:image

《生駒山上》、近畿日本鉄道発行のパンフレットの表紙に写る「生駒山天文博物館」は昭和26年7月7日の開館。京都大学天文台に隣接していた航空道場の建物を転用したという。戦後の復興のシンボル的存在だったのかも。《飛行塔から稜線を南へ約300m、京都大学天文台に接して最近開設されました。天文学の初歩を非常にわかりやすく理解出来るとともに、特種の題目についての研究指導も受けられる「僕らの科学教室」です。》



f:id:foujita:20101223175319j:image


f:id:foujita:20101223175320j:image

とりわけ、旧京大太陽観測所の建物が実に味わい深いのであった。



f:id:foujita:20101223175321j:image

旧天文博物館の建物の前でぐるっと右折して、遊園地の方角へと戻る。いつのまにか車道に出ていて、新鮮な気分でふたたび遊園地の敷地へと入る。



f:id:foujita:20101223175322j:image

昭和14年4月に開業の「生駒山観光ホテル」のパンフレット。テレビ塔、旧天文博物館をめぐって、裏口から遊園地の四季に入ったとき、ふとこのパンフレットの表紙に描かれている絵を思い出した。

 当社は生駒山上に疾く遊園地を造成したが、最近に於ては山上及び附近に既記の如く当社をはじめ各方面の新施設が続々実現するに伴ひ登山客の一層増加を見るに及び、之等登山客及び夏期避暑客のため豫て計画中の観光ホテルを癒直営することになつたが、ホテルの本格的建築は現下時局のため支障あるから、暫定的に山上に於て久しく営業を続けて来た料亭大市全館を昭和十三年夏譲受け、その内外に改装を施し、更に新設備を整へ全く面目一新の上昭和十四年一月開業した。

 現在の客室は和洋両間合せて十八室を有し、別に大食堂の設けあり、又別館として当社の山の家三十余の建物をも便宜使用してゐる。開業以来当社の乗客本位をモットーにしての勉強振りは一般に好感を与へ、利用者は日と共に増加する盛況である。

と、この生駒山観光ホテルについての資料は、開業1年後に刊行の『大阪電気軌道株式会社三十年史』(昭和15年12月刊)くらいしか今のところ見ておらず、正確な位置についてはよくわからない。



f:id:foujita:20101223175323j:image

上掲パンフレットに掲載の、ホテル前面を写した写真。向こう側にうっすらと飛行塔が見える。




f:id:foujita:20101223175324j:image

と、その飛行塔を背後に、ケーブルの改札へと向かう。空はあいかわず真っ青だ。




宝山寺から生駒駅へ歩く。生駒オペラと花街の風情。小野十三郎の詩を読みながら、夜の大阪市内へ。



生駒山上からケーブルにのって、宝山寺で下車。まだまだ時間はたっぷり。帰りは、宝山寺からテクテク参道をくだって、散歩がてらのんびり生駒駅まで歩いてゆくことにした。



生駒といえば、大正10年のほんの一時期上演されていた「生駒歌劇」を思い出さずにはいられない。浅草オペラ、蒲田映画を経て昭和4年、沢田正二郎没後に新国劇に入った秋月正夫によるメモワール『蛙の寝言』(山ノ手書房、昭和31年8月)には、秋月正夫が「生駒歌劇」当時、

……浅草時代と違って日曜祭日以外は一回公園でしたから、暇もあって久しぶりにのんびりとした日を送ることが出来ました。参道から一歩裏路へ入れば、生駒山頂の樹木の緑は美しく、眼も醒めるような景色が連って空気は良し、鴬や名も知らない小鳥の囀りを耳にしながら下駄履きで山へ入り、時には小指程の松茸を見つけて子供のように喜んだり、鼓滝? のある遠い裏山へまで散歩に出かけました。またこの辺りには灌漑用の池が所々にあるので、粗末な釣具で小鮒を釣ったり泳いだりしました。

というふうな休日を過ごしていたことを綴られている。また、《劇場の近くには呑屋の別嬪さんが大勢網を張っているのですが、そのような所には誰一人出入りする者はなく……》とも書いている。



このたびの、生駒ケーブル観光にあたっては、鈴木勇一郎氏の論考、『生駒山宝山寺前の形成と大阪電気軌道の郊外開発』(「ヒストリア」第205号(大阪歴史学会、2007年6月)所収)が読み応えがあって、たいへん面白かった上にたいへん勉強になり、ますます「モダン関西」探索への思いがふつふつと沸きあがる、嬉しい文献だった。


鈴木勇一郎氏の『生駒山宝山寺前の形成と大阪電気軌道の郊外開発』を読んで目から鱗だったのが、郊外の私鉄においてはかねてより社寺への参詣が重要な行楽となっていたが、社寺参詣には得てして遊郭などの花街が結びついていたということ。大軌の生駒の場合は、昭和4年3月の生駒山頂遊園地開業前は、

他の私鉄各社が「グラウンドや遊園地」といった当時の新たに勃興しつつあった俸給生活者をはじめとする郊外での住民を主な対象とする衛生的で健康的な家庭を背景とした郊外行楽開発を本格的に展開し始めていたのに対して、大軌では宝山寺と生駒芸妓という旧態依然とした参詣と花街という遊楽に依存した状況が続いていた。

という状況だった。しかし、生駒ケーブルの延長とともに遊園地や避暑地の造成といった「衛生的で健康的な」行楽地の開発が進んでいる一方で、

……生駒は奈良県内にありながら、「繁枯も大阪の影響を鋭敏に感受」する「全く歓楽と信仰の都市であり換言すれば、大阪市民の歓楽と迷信の対象」となっていたのであった。こうして門前町としての生駒の展開は、都内大阪の動向に大きく左右される構造を持つようになっていった。それが端的に表れたのが、ダンスホールの設置をめぐる経緯であった。

というふうにして、昭和2年3月24日に規制により大阪市内のダンスホールが閉鎖され、昭和4年10月にはカフェーの規制も強化されたことで、昭和5年4月、生駒新地に生駒舞踏場が開場している。大阪での規制に合わせて、生駒の歓楽地としての側面はさらに強化されていたのだった。ダンスホールというと、尼崎のそれをまっさきに思い出すけれども、そんな大阪の周縁の歓楽地をも合わせて、「モダン都市とその周縁」を今後少しずつ追究していきたいなと思う。



f:id:foujita:20101223222928j:image

ケーブルカーを宝山寺駅で下車して、参道に出ると、「観光生駒」の文字。生駒ケーブルの沿線には、山頂の子供たちの遊園地と、宝山寺参道の花街が併存しており、その古くからの「行楽」の両極が昔も今も健在なのだなアと、感心しきり。



f:id:foujita:20101223222929j:image

風情ただよう参道は時折階段状になっていて、まっすぐに下方に伸びている。なにやら艶めかしい旅館が散見できる。



f:id:foujita:20101223222930j:image

ゆっくりと下りながらの建物見物がたのしい。色町特有の建物が味わい深い、などと、何を見ても「色町特有」に見えてしまうのだった。



f:id:foujita:20101223223122j:image

あまりに長い下り坂、時折後ろを振り返ると、今まで歩いてきた道がはるか遠くに見える。そろそろ夕刻が近づいている。





生駒駅前でコーヒーを飲んで休憩したあと、近鉄電車に乗って、大阪へ向かう。生駒から長いトンネルを通過し、次は石切。持参の『日本鉄道旅行地図帳 関西1』(新潮社刊)を参照すると、石切から瓢箪山にかけての線路上に「車窓絶景100選」として、《身構えよう、ドーンと開けるなにわ平野の大眺望》と注記されている。こうしてはいられないと、電車が石切を出発して、本当に身構えていると、本当にもう見事な絶景だ!



f:id:foujita:20101223223243j:image

車窓から見える遠方の大阪の町並みはニューヨークのよう。それにしても、なんてすばらしかったことだろう。





石切・額田間の車窓の興奮冷めやらぬまま、電車はどんどん大阪に近づいてゆく。花園にラグビー場が作られたのは昭和4年、生駒山上遊園地の同年のことだった、また同時期、昭和4年から7年にかけて、同じく大軌の沿線開発の結果、今里新地が花街として急速に発展したという、と、上掲の鈴木勇一郎氏の『生駒山宝山寺前の形成と大阪電気軌道の郊外開発』を思い起しているうちに、ふと去年の冬休みに、上本町からビスタカーに乗ったときのことを思い出した。あのとき、ビスタカーから見えた生駒山上の鉄塔の真下に今日行ってきたばかりだけれど、では近鉄電車からの生駒山上の眺めはどんなだったっけ、もう一度見たいなと急に思いついて、いてもたってもいられなくなったそのとき、電車はちょうど布施に到着。



f:id:foujita:20101223223242j:image

まだ日没までには間がある。布施で突発的に下車して、あのときのビスタカーと同じ線路を走っている電車に乗り込む。次の駅は俊徳道。かろうじて、車窓から生駒山の鉄塔がはるか遠くに見えた。冬のあの日、もうちょっとクッキリ見えていた印象だったけれども、冬の空気が澄んでいたからなのか、わたしが鉄塔に過剰に反応したからのか、どうか。



俊徳道という駅名で思い出すのは、後藤明生の『しんとく問答』。上本町から近鉄電車に乗って、長瀬の近畿大学へ通って文学を講じていた後藤明生に思いを馳せるべく、長瀬で下車して、大阪行きの電車に乗り換えることにする。と、長瀬で下車してみたら、駅のホームに古本屋の大きな看板があって、こうしてはいられないと、せっかくなのでその古本屋に行ってみることにした。近畿大学に向かう途中にある古本屋、日之出書房。後藤明生も買い物したことあったのかな。



f:id:foujita:20101223223239j:image

日之出書房にて、急に読みたくなったしまい、家に絶対にあるのに「現代詩手帖」の小野十三郎の詩集を買ってしまった。長瀬駅に戻ったら、もうすっかり日が暮れていた。



f:id:foujita:20101223223238j:image

車内で小野十三郎の詩集を繰っていたら、いつのまにか電車は地下に入っていた。堺筋線に乗り換えるべく、日本橋で下車。文楽のポスターが嬉しい。いつか国立文楽劇場で文楽を見たいと思い続けて十年以上だけれど、いまだに機会がめぐってこない。たまにしか来る機会のない大阪では、今はどうしても劇場よりも町に興味津々。いつの日か、大阪で文楽を見たい。



f:id:foujita:20101223223237j:image

大阪で初めてお好み焼きを食べたのは、淡路の「ふじ」というお店だった。なんておいしいのだろう! と感激のあまり、大阪ではどこでもおいしいに違いないのに、お好み焼きはいつも「ふじ」なのだった。というわけで、阪急京都線沿線の淡路駅近くでビールをグビグビ飲んだあとで、梅田に出る。夜なので十三からの淀川の車窓がよく見えなくて今日は残念。我ながらしつこいけれども、梅田駅の改札はなんてすばらしいのだろう! と関西に来るたびにしょうこりもなく大興奮なのだった。



京都で始まった本日の関西遊覧、終着点は梅田なり。たくさん歩いて、ずいぶんくたびれた。イソイソと定宿へと向かう。

20100813

続・桐生遊覧日記:のこぎり屋根と成瀬巳喜男と南川潤。吾妻橋の夜。


桐生市立図書館の地域資料室で、昔の町並み探索


午前9時。宿を引き払って徒歩数分、イソイソと桐生市立図書館へ向かう。野間清治の石碑をフムフムと眺めてから、館内に足を踏み入れる。子供時分に休日が来るたびに出かけていた、都内のとある図書館(建て替えられて今は新しくなっている)とよく似た雰囲気だなアと、高い天井の下でしばしたたずむ。日本のミッドセンチュリーというような公共の建物がいつも好きだ。壁や床がひんやりと薄暗い。二階の地域資料室へと突進して、南川潤をとりまく戦前昭和の文壇資料を読みふけったあと、桐生の昔の写真が載っている本を眺める。




f:id:foujita:20101010231644j:image

天利秀雄監修『明治・大正・昭和 思い出のアルバム 桐生』(あかぎ出版、1982年9月)より、《初期の町並み》として見開きに掲載されている写真。通りのずっと奥の右沿いに小さく見える望楼が、成瀬巳喜男の『妻の心』に映っていたのとおんなじだ! とまずは望楼に興奮、手前に大きく見えるモスクのような丸屋根も目を引く。




f:id:foujita:20101010231645j:image

同書に、《昭和最初期の足利銀行と金善ビル》として掲載されている写真。丸屋根は足利銀行の屋根。《大正に建てられたこの建物も街のシンボルだった》とある。残念ながら足利銀行の丸屋根はもう残っていないけれども、向こうに見える金善ビルは今も桐生の本町通りのシンボル的な存在。今日はこれからこのあたりを歩くのだと、図書館の閲覧室で胸躍らす。




f:id:foujita:20101010231646j:image

成瀬巳喜男『妻の心』(昭和31年5月3日封切・東宝)の最初のショット。映画の舞台となる桐生の本町通りを俯瞰したショットではじまる。『妻の心』で初めて桐生の町を目にしたとき、この望楼が鮮烈な印象だった。




f:id:foujita:20101010231647j:image


f:id:foujita:20101010231648j:image

というわけで、閲覧室で望楼を探し、とりあえず発見したのが、この2枚。上が上掲書より《三丁目の望楼》、下は『桐生のあゆみ』(桐生市役所、昭和36年4月)より《望楼 昭和3・4完成(本町3丁目)》、現在の本町分署とのこと。




f:id:foujita:20101010231649j:image

吉田初三郎《桐生市鳥瞰図》(昭和9年10月30日発行)より、望楼を探してみると、「警察署」のところに小さいながらもしっかりと描きこまれてある。そして、桐生川に沿って桐生駅に向かって煙をモクモク吐き出して走っている汽車の絵が愛らしい。桐生川から分岐して、線路と平行に流れている川は埋め立てられ、今は「コロンバス通り」となっていて、たとえば「川岸町」という町名や「新川公園」にその名残りを見出すことができる。図書館に来るときに横断した道路もかつては川だったのだなアと、東京や大阪とおなじように、町歩きをしながらかつての「水辺」に思いを馳せるのはたのしい。




f:id:foujita:20101010231650j:image

《新庁舎の落成》、小林一好監修『写真集 桐生市80年 1921〜2001』(あかぎ出版、2001年5月)より。桐生の市制が始まった大正10年に落成の桐生市役所。「1920年代日本」における桐生、ということを思う絶好の建物、洋風木造瓦葺2階建ての桐生市役所。




f:id:foujita:20101010231651j:image

昔の町並み写真と初三郎の鳥瞰図を対照するのにすっかり夢中。初三郎の鳥瞰図から桐生市役所を探す。かつて市役所は、西桐生の駅から徒歩数分の「織物同業組合」の建物の北側に建っていた。市役所の建物はなくなってしまったけれども、正確には「織物協同組合」の建物は「桐生織物記念館」として今も健在だ! というわけで、今日帰るときに西桐生の駅に向かう途中、最後に見物に出かけるとしようとハリきる。





などと、昔の写真を眺めているだけで、桐生観光のよろこび全開であったが、昨日の日没前後の錦桜橋からJRの線路下に到るまでの「のこぎり屋根」めぐりの余韻がずっと胸にくすぶっている。なにかよい資料はないかしらとふと思いたって、ガバッと立ち上がり、NDC520 あたりを適当に眺めてゆくと、『のこぎり屋根シンポジウム のこぎり屋根のあるまち桐生からの発信 実施報告書』(ファッションタウン桐生推進協議会/桐生商工会議所/財団法人日本ファッション協会発行、2003年3月)、というA4判の全92ページの冊子を発見、「どれどれ」と手にとってみると、なかなかの充実度で「桐生の町に今もたくさん残る『のこぎり屋根』って、なんだろう?」というようないたってぼんやりした疑問というほどでもない気持ちに、余すことなく対応してくれていて、資料としても読み物としてもモクモクとおもしろくて、これはすばらしい! と大興奮だった。



同書の「前書」は、《ノコギリ屋根は、産業革命の繊維業発展に伴って考案された屋根構造で、日本では明治年間から使われ始めた。おもに工場として、用いられてきたため、工場というと、一般的にノコギリ屋根を連想されるのではないだろうか。》というふうにしてはじまる。次章から、桐生の織物業と、機屋工場としての「のこぎり屋根」工場の明治期から戦後昭和にかけての推移について論じられており、「とりあえず知りたかったことはここに全部書いてある!」とランランと読みふけっては、ノートにあれこれメモ。歴史と伝統のある町の繁栄(その後の「衰退」をも含めて)の歴史・地誌・建物・産業などを自分なりに把握して、近代日本の概観(の真似ごと)をしているつもりになる、というようなことに夢中なのだった。



『のこぎり屋根シンポジウム』の「桐生織物業とノコギリ屋根工場(機屋工場)」によると(p9)、大正期の世界大戦の好況は桐生においても例外ではなく、大正8(1919)年がその絶頂だった。好況を反映するようにして、力織機に電力が普及するようになり、機械性工場の増加が桐生の町なかの「のこぎり屋根」を増加させることになり、ここで1920年代を迎える。桐生の「のこぎり屋根」を語るということは、「1920年代日本」を語ることにもなるのだなアと、近代日本の産業を通した町並みや交通や商業の絡みにワクワク。このあとの町歩きがますますたのしみになるというもの。


第一次大戦の好況の反映としての「のこぎり屋根」の増加は、1920年代の不況期にはいかなる展開を見せたかというと、好況時にも増して、不況時は「のこぎり屋根」がますます増加してゆくこととなった。これは、不況期には価格を安くし量産化する必要からさらに工場化が促進したため。

力織機の上にジャガードを乗せ動力で運転するということは、高い天井を必要とするし、すばやく織り疵を見つけ品質の良い織物を織り出すにも北面からの光を取り入れることが重要であり、のこぎり屋根はうってつけの工場建築であった。(p11)

同書の第2章「ノコギリ屋根の特徴」によると、桐生におけるノコギリ屋根の90%が北面から光を取り入れる構造になっているという。

この北側採光は、直射日光がほとんど入らず、一日中、変動の少ない光環境が得られ、その上、照度分布も均一である。ノコギリ屋根がつくられた、明治から昭和半ばにかけては、今のように電気は普及しておらず、安定した照度は得られなかった。そういった時代にあって、北側採光は、必要不可欠だったといえる。(p16)

昭和初期の大不況を迎えても、桐生の「のこぎり屋根」は減少することなく、むしろ桐生産地では昭和10年に景気の絶頂期を迎えていて、昭和10年という年は「のこぎり屋根」がひときわ急増した年だった(同書に掲載のグラフで昭和10年が群を抜いていることが一目でわかる)。すなわち、《昭和10年代前後は、桐生産地の黄金時代であったし、同時にノコギリ屋根の全盛期でもあった(p13)》。戦時下は織物業は転廃業を余儀なくされたが、戦後復活、昭和30年代は順調に発展していたが、昭和40年代から急速に減退し、現在に至っているという。



……というような、桐生における「のこぎり屋根」をとりまく変遷をきわめて大雑把に概観しただけでも、これまで何気なく通り過ぎては「いいな、いいな」と眺めていた桐生の町並みにいっそう親しみが湧くのだった。桐生に市制が敷かれたのは大正10(1921)年7月2日、このとき上掲写真の市役所が竣工している。単純に図式化してしまうと、「桐生市」のあゆみは、「のこぎり屋根」がますますの増加していった1920年代とスタートをともにしているというわけなのだった。


昨日の夕方に見物した大正6(1917)年竣工の「旧模範工場桐生撚糸合資会社事務所棟」であるところの絹撚記念館は、第一次大戦の大正の好況時、いよいよ桐生の織物業が隆盛しているときに建てられた建物だ。昨日の日没時にワインを飲む直前にたたずんだ、現在は美容室になっているかつての「旧堀祐織物工場」の「のこぎり屋根」は大正10年の建物、『のこぎり屋根シンポジウム』でが概観したとおりに、不況時のますます機械化が増大した時期を象徴するような立派な工場だったと、今になって思う。


昭和の不況時にもグングン成長した桐生の織物業、上毛電鉄とモダーンな駅舎の西桐生駅の開業は昭和3年、昭和7年には東武と連絡するようになった。昭和7年は、桐生の「のこぎり屋根」が最高潮だった年、桐生市の上水道が給水を開始したのも昭和7年だった、と、昨日の午後に大川美術館のあとに水道山排水地の麓をいい気分で歩いたことを懐かしく思い出す。昭和19年3月、南川潤がそれまで住んでいた大森を引き払って夫人の実家のあった桐生に疎開し、昭和30年9月に没するまで桐生の「文化人」として、桐生の町に暮らした。成瀬巳喜男の『妻の心』の封切は翌昭和31年5月。桐生の織物業の戦後の隆盛の時期を迎える頃の桐生の町並みが記録されている。……というようなことを思って、昨日の町歩きがますますよい思い出となって心に残り、そして、今日のこれから日没までの町歩きがますます楽しみになる、図書館の閲覧室のひとときだった。



そんなこんなで、桐生市立図書館の地域資料コーナーを満喫したところで、ふたたび外に出ると、もわっと蒸し暑い。西桐生駅の待合室で昨日入手してからというものたいへん重宝するあまりに、早くもボロボロになりつつある『駅からめぐる近代化遺産 桐生市まちなか散策案内図』(桐生市教育委員会 文化財保護課)を開いてみると、図書館の近くに1軒だけ「のこぎり屋根」が残っている。さっそく行ってみる。




f:id:foujita:20101010231652j:image

蔦に覆われて廃墟感のただよう「のこぎり屋根」。『のこぎり屋根シンポジウム』に掲載の全リストによると、これは戦前の織物工場、採光面は北を向いている。今日はこのあと、思う存分「のこぎり屋根」をめぐる、その絶好の序奏。




f:id:foujita:20101010231653j:image

JR両毛線の桐生駅を横断して、駅の反対側へ向かうその途中、高架を湘南電車の車両が走っているので「おっ」となる。緑と橙のツートンカラーの湘南電車が東海道線の線路を走っている光景は2006年3月をもって見ることはなくなったけれども、こんなところで走っていたのだなあとちょっと感激。東武のことしか頭になかったけれども、いつか両毛線にも乗ってみたい気がする。




f:id:foujita:20101010231654j:image

《昭和30年代の第1踏切付近》、小林一好監修『写真集 桐生市80年 1921〜2001』(あかぎ出版、2001年5月)より。今はなんとなく殺風景な桐生駅周辺だけれど、高架化の前はなかなかの風情。





「のこぎり屋根」を見物しつつ桐生の路地を歩いて、旧レース工場の採光のもとで昼食。



午前11時半。桐生駅前からバスに乗って、本町1丁目の停留所で下車。駅前から末広通りを直進して、本町通りとの交差点で右折して、山に向って直進。ほどなくして目当ての停留所にたどりついた。末広通りはかつては商店がひしめいていたと思しき駅前の繁華街だけれど、今では半分以上が営業をやめている様子、古くて素敵な建物がたくさん残っているので、バスの車窓からの建物見物がたのしい分、これらの店舗が現在も営業中だったらどんなによかっただろうと思う。左折して直進する本町通りは、桐生のメインストリート。こちらもところどころに残る近代建築が見どころたっぷり、あっ、金善ビル! あとで心ゆくまで見物できればいいなと思ったところで、目当ての停留所に到着。降りたとたんに、いかにも古びた木造建築が林立しているのが目にたのしい。ふつふつと嬉しい。




f:id:foujita:20101010231655j:image

車のたくさん通る本町通りを避けて、これから静かな路地を歩くとしようとした、まさにそのとき、大川美術館の茂田井武のポスターに遭遇して、昨日の大川美術館を思い出して、嬉しい。今回の桐生町歩きにおいては、この茂田井武のポスターにあちらこちらで遭遇して、そのたびにいい気分になっていた。




f:id:foujita:20101010231656j:image

本町通りの脇の、桐生川に向かった路地へと入ってしばらく歩いたところで遭遇した「のこぎり屋根」。見るからに古びた木造建築はあちらこちらで健在。このあたりは東久方町で多くの「のこぎり屋根」が残っている。戦前の建物が多い。




f:id:foujita:20101010231657j:image

せっかくなので桐生川を見にゆく。これは稲荷橋の上から桐生川の向こう側に見えた「のこぎり屋根」。川沿いの工場の採光面は法則どおりに北側。『まちなか散策マップ』には「南川潤住宅」の記載もあり、桐生川の向こう側が終の棲家だったのだなあと、稲荷橋に立って「南川潤住宅」の方をしばし眺めた。川沿いに立つと、周囲の山なみがひときわ目にたのしい。




f:id:foujita:20101010231658j:image

ふたたびもと来た道を戻り、東久方町の「のこぎり屋根」をめぐる。採光面の窓が北面を向いているサマがよく見える。窓の格子が味わい深い。これは昭和30年代の建物であるようだ。




f:id:foujita:20101010231659j:image

路地の向こうにかろうじて見える「のこぎり屋根」。古い蔵が林立しているのが嬉しい。あの屋根の向こうには桐生川が流れている。採光面が西を向いている珍しい例。瓦屋根のこの工場は昭和23年の建物。




f:id:foujita:20101010231700j:image

くっきりした瓦が見た目にも鮮やかな「のこぎり屋根」。法則どおりに北面に向かって採光の窓が据えられている。外壁は「南京」。路地沿いの窓の幾何学的配置が美しい建物で、しばし見とれてしまった。




f:id:foujita:20101010231701j:image

『桐生本町一・二丁目まち歩きマップ』(桐生市都市計画課発行)によると、この建物は「旧住善織物工場」で現存する市内唯一の鉄筋コンクリート造りの「のこぎり屋根」工場とのこと。大正11年の建築で、4つの「のこぎり屋根」が連なる比較的大規模の工場。屋根はスレートとトタン。現在はアトリエとして使用されている。




f:id:foujita:20101010231702j:image


f:id:foujita:20101010231703j:image

東久方町界隈のこれまでの「のこぎり屋根」めぐりで、ひときわ感激したのが、この建物。外壁の大谷石がハッとするほどの美しくさ。さいわい駐車場からじっくり見物することができた。昭和2年築の斎憲テキスタイルの工場で、現在はワイン貯蔵庫として使用されている。昭和初期の5棟の大規模な工場は、『のこぎり屋根シンポジウム』で見た昭和初期の桐生織物の隆盛を象徴しているかのよう。





東久方町界隈の「のこぎり屋根」めぐりのひとまずのゴールは、現在「ベーカリーカフェレンガ」として営業中の、「旧金谷レース工業株式会社鋸屋根工場」。『まちなか散策マップ』には、《金谷レース工業の前身である旧金芳織物により大正8年に建築された市内に現存する唯一の煉瓦造鋸屋根工場です。現在はベーカリーカフェレンガのパン工房、店舗として活用されています。》と解説されている。観光と食事と休憩とを同時に満たすことのできる「ベーカリーカフェ―レンガ」、観光客としては見逃すわけにはいかぬのだった。




f:id:foujita:20101010231704j:image

盆地ならではのねっとりとした温気のなかを練り歩いて、さすがに疲れたかなという頃に、旧金谷レース工業の工場の「ベーカリーカフェレンガ」の建物が見えてきた! 屋根はスレート、外壁はレンガの4棟の工場。採光はやはり北向き。




f:id:foujita:20101010231705j:image

今まで数件の「のこぎり屋根」をめぐったあとで目の当たりにすることで、桐生唯一の外壁がレンガの「のこぎり屋根」工場で、ちょっと新鮮な感覚。大正8年、第一次大戦の好況時、いよいよ桐生の市制施行がせまって、いよいよ織物業の産地として隆盛をきわめる頃の建物。桐生の「大正」をおもう。




f:id:foujita:20101010231706j:image

大正8年の「のこぎり屋根」のレンガ工場の隣りの事務所棟は、昭和6年のスクラッチタイル張りの南国ふうの建物。丸窓などの、いかにも昭和初期の細部の意匠が目にたのしい。こちらでは、桐生の「1930年代」をおもう。




建物の前は駐車場、時分どきでもあるので、店内はたくさんのお客さんで賑わっていた。今まで桐生を歩いていて、ここまで活気に満ちている場所は初めてかも。わーいわーいと足を踏み入れて、本日の昼食とする。パンはとてもおいしく、店内はとても居心地がよくて、なにもかもがすばらしかった。




f:id:foujita:20101010231707j:image


f:id:foujita:20101010231708j:image

昨日の夕方からずっと「のこぎり屋根」にのめりこんでいたあとで、初めて工場の内部に入ることができて、感激もひとしお。北側に向かう採光面を見上げて、ふつふつと嬉しい。高い天井の開放的な空間で、往年の工場を彷彿とさせる穏やかな採光が美しい。食後のコーヒーをすすりつつ、その空間を心から満喫するのだった。





成瀬巳喜男の『妻の心』のロケ地めぐり。桐生の路地を歩いて、成瀬巳喜男の映画設計をおもう。



旧金谷レース工場の「ベーカリーカフェレンガ」でたっぷり休憩して英気を養ったところで、ふたたび本町通りに出て、ビュンビュン車が通る本町通りの歩道を直進して、次々に目に映る低層の古い建物をたのしみつつ徒歩数分、『桐生まちなか散策マップ 駅からめぐる近代化遺産』にて華々しく紹介されている「有鄰館(旧矢野蔵郡)」と「矢野園(矢野本店店舗及び店蔵」のまん前にたどりついたときは、万感胸に迫るものがあった。しばし陶然とたたずむ。




f:id:foujita:20101017145904j:image

向って左の煉瓦の建物は、《江戸から大正期に建築され、酒・醤油・味噌などの醸造や商品の保管に使用されていました。現在はまちなみ保存の拠点「有鄰館」として多目的な活用がされています。》と解説されていて、右手の見るからに古い商店建築は《近江(滋賀)より江戸時代に来桐した矢野氏の2代目久左衛門がこの地に店を構え現在に至っています。店蔵は明治23年以前の建築と考えられ南側に接する店舗は大正5年建築の江戸風商家構えとなっています。》とのこと。



と、「有鄰館」と「矢野園」の建物のまん前にたどりついて、万感胸に迫るものがあったのは、これらの建物が、成瀬巳喜男の『妻の心』のスクリーンそのまんまだったから。




f:id:foujita:20101017145905j:image

成瀬巳喜男『妻の心』(昭和31年5月3日封切・東宝)より、上は映画の冒頭に写る、自転車に乗る桐生の老舗の薬屋の主人・小林桂樹。




f:id:foujita:20101017145906j:image


f:id:foujita:20101017150020j:image

こちらは映画のラスト。いかにも成瀬巳喜男の典型という感じに、冒頭と同じロケ地が登場するという円環的手法。上は、本町通りを行き交う妻と夫・高峰秀子と小林桂樹。高峰秀子の左手に見える「矢野園」の建物には「キリンビール」の看板、小林桂樹の背後に見える商店に「明治コナミルク」の看板がうっすらと見える。『妻の心』に登場するビールは瓶や看板のすべてが「キリンビール」。明治製菓タイアップは目を凝らしてやっと発見できる程度だけれど、いくつか見受けられて、にんまりだった。




f:id:foujita:20101017150021j:image

『妻の心』のラストはひと波乱を経て、和解へと日常へと収束する高峰秀子と小林桂樹を象徴するような、「矢野園」の向かいの通り(恵比寿通り)へと入ってゆくショット。




f:id:foujita:20101017150023j:image

映画と同じアングルで「矢野園」と脇の路地をのぞんでみる。路地の奥の蔵が『妻の心』当時とまったく変わっておらず、感激なのだった。現在の「矢野園」正面の「キリンビール」の大きな看板が、いかにも古びているのに、しかも「キリンビール」なのに、スクリーンには登場していないのはなぜだろう。




f:id:foujita:20101017150024j:image

『妻の心』のラストに映る高峰秀子と小林桂樹の背後の路地が、今もまったくおんなじ風情で、いつまでも感激にひたる。しばし歩を進めて、静かな路地を満喫。





「旧金谷レース工場」での昼食をもって、「のこぎり屋根」工場めぐりをひとまず切り上げて、午後は成瀬巳喜男の『妻の心』のロケ地訪問といこうではないかと、「有鄰館」と「矢野園」の建物の前で大いにハリきる。「矢野園」脇の小路からふたたび本町通りへと戻り、上掲の『妻の心』ラストの高峰秀子と小林桂樹のショットそのまんまに、本町通りを横断したその先の「恵比寿通り」を直進する。恵比寿通りを直進すると、「山手通り」に行き当たる。山手通りは、桐生の町の高台と平地の境目に位置する車道で、西桐生駅から大川美術館に向かうときも、この山手通りを左折して高台に入っていたのだった。



このたびの夏休みの桐生ピクニックにあたって、成瀬巳喜男の『妻の心』を舐めるようにじっくりと見直して、桐生町歩きでひときわたのしみにしていたのが『妻の心』のロケ地めぐりだった。映画の冒頭に映る本町通りは、桐生を一度訪れたあとで見れば、今も映画の町並みが濃厚に残っているので、すぐに本町通りであることがわかるのだったが、映画のクライマックスの、高峰秀子と三船敏郎の雨宿りのシークエンスのロケ地について、桐生が岡公園であることと雨宿りをする建物が現存しているということは、「成瀬映画に登場する風景写真(http://www5c.biglobe.ne.jp/~nuage001/photoindex.htm)」の『妻の心』の項(http://www5c.biglobe.ne.jp/~nuage001/photo25tsumanokokoro.htm)のおかげで知ることができて、大感激だった。絶対に行く! と、『妻の心』ロケ地めぐりがますますたのしみになった。


という次第で、桐生が岡公園が待ち遠しい! と、恵比寿通りをズンズン直進し、ほどなくして車がビュンビュン走る山手通りに行きついた。道路を横断した正面が高台になっていて、その崖に沿うようにして、車道の脇に一段高く歩道が敷かれ、ちょっとした散歩道になっている。この散歩道を、『妻の心』の高峰秀子と三船敏郎が歩いていたのだ。と、いざたどりついてみたらいかにも『妻の心』のスクリーンでおなじみの景色が眼前に広がり、いざたどり着いてみると、さらに興奮なのだった。車に轢かれないように気をつけながら、小走りして道路を横断、一段高い歩道へと上がり、崖に沿って歩を進める。




f:id:foujita:20101017150025j:image

と、山手通りを右折して崖に沿うようにして敷かれた一段高い歩道をしばらく歩いてゆくと、『妻の心』で高峰秀子と三船敏郎が並んで歩いていた場所だと確認できる地点に行き当たる。映画では、向こう側からこちらに向かうようにして、二人は並んで歩いてきたのだった。




f:id:foujita:20101017150026j:image


f:id:foujita:20101017150027j:image

『妻の心』より、向こう側から高峰秀子と三船敏郎が歩いて来るところ。映画当時は、丘の斜面がいかにも造成仕立てな雰囲気。今はだいぶ古色蒼然としている。右手に写る歩道から道路に降りる石段の形状はまったくおんなじで、向こうに見える山の斜面の様子も『妻の心』当時とまったくおんなじ、一段高い歩道から見下ろす桐生の町並み、建物の屋根が連なる様子もまったくおんなじだ!




f:id:foujita:20101017150028j:image

このシークエンスの撮影スナップが、『高峰秀子』(キネマ旬報社、2010年3月30日)の『妻の心』のページに掲載されている。

「三船さんと私がドブみたいな用水路の側を歩いてるシーンを撮る時、三船さんがドブに落っこちゃったの(笑)。二人で話しながら歩いてるのに、三船さんがちっとも私の顔を見ないから、成瀬さんが「三船君、ちゃんと高峰さんの顔を見て!」って言ったら、三船さん、私の顔を見ながらだんだん後ずさりして、しまいにドブにはまっちゃった。そういう真面目な人でした。でもこの時の三船さんはとっても良かったですよ」

という高峰秀子の談話が添えられていて、たいへん微笑ましい。このシーンに限らず、『妻の心』では映画全体で三船敏郎の好演が実にいいのだった。




f:id:foujita:20101017150029j:image


f:id:foujita:20101017150030j:image

上掲のショットのあと、三船敏郎と高峰秀子がアップになったあとで、スクリーンはふたたび遠景となる。



f:id:foujita:20101017150031j:image


f:id:foujita:20101017150032j:image

と、そんな『妻の心』のシークエンスを胸に反芻しながら、もと来た歩道をいい気分で歩いてみる。今は崖の石垣が鬱蒼となっているけれども、地勢はまったくおなじ。『妻の心』のスクリーンに映る大きな木と、この写真に写る大きな木は同じ木かな、どうかな。




f:id:foujita:20101017150033j:image

以上のシークエンスの後日、高峰秀子と三船敏郎はふたたび同じ場所を二人で歩いて、今度は丘の上の公園を散歩し、通り雨にあってしばし二人きりで雨宿りをするという、映画のクライマックスを迎える。三船敏郎は前回とおなじ背広姿だけれど、高峰秀子の着物は縞に変わっている。先ほどの石段の斜めに丘の上へと続く坂道があり、この日の二人は丘の上へと登ってゆく。




f:id:foujita:20101017150034j:image

と、『妻の心』のシークエンスを追憶しつつ、坂道を登ってゆくと、写真の石段がある。あまりに鬱蒼としていて、あまりに人気がなくて、このまま直進して大丈夫なのかちょっと不安になりつつも、ゼエゼエと登ってゆくと……。



石段の先には、ただっぴろい公園というか広場があり、この広場が「桐生が丘遊園地・動物園」の入口になっている。これまで桐生の町を歩いてきて、これほど多くの子供たちを見たのは初めてというくらいに子供たちが大勢ワアワア駆け回っている。家族づれの行楽客が思い思いにくつろいでいるサマがとてもいい雰囲気だった。公園には飛行機などと乗物がいくつか置いてある(電車があったら嬉しかった)。広場の脇に動物園の入口があり、さらに高台にゆくと遊園地があるらしい。昔ならではの遊園地が好きなので、体力と気温と湿度と時間に余裕があったら、ぜひとも行ってみたかった。残念。




f:id:foujita:20101017150035j:image

吉田初三郎《桐生市鳥瞰図》(昭和9年10月30日発行)より、「桐生岡公園」附近を拡大。土地の造成の感じがリアル。鳥瞰図の裏面に記載されている解説の「市内及近郊の名所旧跡」の項に、「桐生岡公園」は、

宮本町にある丘陵にして勅撰拾遺和歌集に載れる清原元輔の

  朝 ま た き 桐 生 の 岡 に 立 つ 雉 は 千 代 の ひ つ ぎ の は じ め な り け り

と詠ぜし皇家吉端の勝地と稱せらる。櫻、躑躅の名所として世に聞え、造園の巧を極め配する假山奇石四阿を以てし四季の花木妍を競ふて行樂の人を慰め各種の禽獣など飼ひて一人の感興を添へり。又園内には記念碑銅像軍事参考館等諸所に散在せり。

と解説されている。動物園は戦前からあったらしい。




f:id:foujita:20101017150036j:image


f:id:foujita:20101017150037j:image

実際に歩いてみると、『妻の心』の高峰秀子と三船敏郎はずいぶん急な坂道を登ったものだと感心してしまうが、二人はここで通り雨に合い、しばし「小憩所」で雨宿りをする。



f:id:foujita:20101017150038j:image

と、「成瀬映画に登場する風景写真(http://www5c.biglobe.ne.jp/~nuage001/photoindex.htm)」の『妻の心』の項(http://www5c.biglobe.ne.jp/~nuage001/photo25tsumanokokoro.htm)にあるとおりに、『妻の心』で高峰秀子と三船敏郎が雨宿りをする喫茶休憩所の、外枠だけが現存しているのだった。ワオ! とこの建物が視界に入った瞬間、よろこびのあまり思わず小走りしてしまった。この写真の松は、『妻の心』のスクリーンに映る松と同じ木かな、どうかな。




f:id:foujita:20101017150040j:image


f:id:foujita:20101017150042j:image


f:id:foujita:20101017150041j:image

『妻の心』では椅子とテーブルが配置されていて、窓のガラスの形状もなかなか洒落ていて、ここではキリンビールも飲むことができるらしい。高峰秀子と友人・杉葉子とその兄・三船敏郎は、昔は三人でこのあたりをよく散歩したという。懐かしく談笑しているうちに、三船敏郎が何か言いだそうとして、二人の間に緊張が走ったところで、売店のおばちゃんがひょっこり登場して、結局何も言いだせない三船敏郎。雰囲気をぶち壊しにするおばちゃんの右下には「明治オレンジジュース」の箱が置いてある。雨がやんだところのショットでは、壁面にキリンビールのポスター。ロケと思われる売店の店内だけれど、キリンビールに明治製菓としっかりとタイアップ広告がほどこされているのが微笑ましい。




f:id:foujita:20101017150043j:image

と、ロケと思われるけれども、小道具の配置がなかなか洒落ていて、中古智らスタッフがなにかしら映画用に作りなおしているように見える『妻の心』の喫茶休憩所。今では写真のようにガランとしている。




f:id:foujita:20101017150044j:image


f:id:foujita:20101017150045j:image

しかし、休憩所から広場をのぞむと、『妻の心』当時も現在もまったくおんなじ雰囲気の、子供たちの遊び場なのだった。





山手通りを背後に、ふたたび本町通りに向かって、テクテク歩いてゆく。場所の特定はできないのだけれど、いかにも成瀬巳喜男が『妻の心』で記録している桐生の路地を、勝手な思い込みだけれどあちらこちらで鮮やかに体感できて、いつまでも上機嫌。山手通りに沿って、「のこぎり屋根」などいくつか見物に行きたい建物があったというのに、頭のなかはすっかり成瀬巳喜男のことでいっぱいなのだった。『妻の心』の冒頭とラストに映る本町通りを目指して、適当に路地を曲がってジグザグに歩いてゆく。




f:id:foujita:20101017150046j:image


f:id:foujita:20101017150047j:image


f:id:foujita:20101017150048j:image

『妻の心』の十字路のシークエンス。老舗の薬屋の嫁の高峰秀子にはたまに遊びに行くよき相談相手の昔からの友人・杉葉子がいて、そのお兄さんが銀行員(足利銀行?)の三船敏郎。絶妙な距離感で並んで歩いている二人は、とある十字路で分かれる。振り返る三船敏郎と、振り返ることなくスタスタと歩いてゆく高峰秀子。そこはかとなく高峰秀子を恋慕している三船の好演がいい! この十字路はどこなのか、わたしには判断ができなかったのだけれど、もちろん町並みはずいぶん変わっていはいるけれども、背後に写る瓦屋根の民家とか、町の周りの山の感じは今でも鮮やかに体感できる気がする。




f:id:foujita:20101017150049j:image

こちらは、映画が始まったばかりの頃、桐生の路地を歩く高峰秀子。背後の山の形状が上掲の十字路のシークエンスのときと同じ!




f:id:foujita:20101017150050j:image

三船敏郎が歩いているこの通りの柱に「カニ川小路」と書いてある。桐生駅から本町通りに向かうバスでしばし走っていたJRの線路と平行の桐生の繁華街の末広通りと平行している、線路寄りの通りであることを事前に調べていたのだけれど、今回は行き損ねてしまった。がっくり。




f:id:foujita:20101017150051j:image

高峰秀子が友人・杉葉子を訪問するショット。妹と同居している三船敏郎がドブ掃除をしている。こんな感じの路地を、「のこぎり屋根」工場めぐりの折に何度も歩いていたような気がする。





そんなこんなで、恵比寿通りではない道をテクテク適当に曲がったりしながら、本町通りへと向かっていたので、先ほどよりだいぶ駅寄りのところに出た。金善ビルはすぐそこにあった。




f:id:foujita:20101017150052j:image

『妻の心』の最初のショットは前掲の本町通りを俯瞰したショットで、その次のショットが、この金善ビル沿いの商店を写したショット。




f:id:foujita:20101017150053j:image

本町通りを横断して、金善ビルを眺める。『桐生市まちなか散策案内図』には、《明治9年創業の金善織物により大正10年頃に地下1階地上5階建てとして建築されました。初期の鉄筋コンクリート製ビルとして建築されました。初期の鉄筋コンクリート製ビルとして貴重な建物です。現在は一部が飲食店として活用されています。》と解説されている。




f:id:foujita:20101017150054j:image

『妻の心』のショットと同じ角度で、金善ビルを眺めてみるべく、少し遠のいてみると、金善ビルの並びはコンビニエンスストアになっていたりと、瓦屋根の風情は残っていないけれども、靴とバッグを商う「マルカツ」の屋号がいまでも健在で興奮だった。




f:id:foujita:20101017150055j:image

《桐生市内を走る毛武自動車のバス》、『東武鉄道百年史』(東武鉄道株式会社発行、平成10年9月)の412ページに掲載の絵葉書。表面に「(桐生名物)桐生市本町通」と記載されている。昭和初期の本町通りを写す絵葉書に写る金善ビルの向こうには、モスクのような足利銀行の建物。





成瀬巳喜男が『妻の心』の舞台を桐生に設定した経緯については、たいへん気になりながらも未調査なのだけれど、取り急ぎ『成瀬巳喜男 演出術』(ワイズ出版、1997年7月)を参照すると、『妻の心』の脚本を単独で執筆した井手俊郎は、《あれは東京の街じゃなくて、千葉とか群馬を舞台にしたものがやりたくて桐生へ行ったら、そこが気に入ったんですね。》と証言している。一方、『映畫読本 成瀬巳喜男』(フィルムアート社、1995年1月)の『妻の心』の項で、田中眞澄が、《舞台を地方の小都市に移し、家族の人員をふやし、その結果、ヒロインは妻であると同時に嫁の立場でもある。人の出入りの多い商家の設定は過去の東京下町ものに類似して、東京に薄れつつあった下町的環境を、地方都市に求めたともいえる。》と解説していて、たいへん興味深かった。


桐生の町なかを歩いていると、何度も何度も「東京の昔」を歩いている気分になって、昨日から浮かれっぱなしだった。そして、桐生を歩きながら、『妻の心』に限らず、漠然と成瀬巳喜男の映画を見ているような気分になって悦に入っていた。こんな風景、こんな家屋、こんな路地を成瀬巳喜男の「東京の昔」を写すスクリーンで何度も見ていたような気がする。


成瀬巳喜男と路地というと、大の愛読書、蓮實重彦・中古智『成瀬巳喜男の設計』リュミエール叢書7(筑摩書房、1990年6月30日)の以下のくだりをいつも思い出す。

―――成瀬さんの映画には細い露地がたくさん出てきて、よく、小津安二郎監督が「巳喜ちゃんは、露地がうめえな」と敬服されていたようですが、同じ露地でも、セットの場合とロケの場合と二つあるわけですね。

中古 そういうことになりますな。

―――すると、杉村さんが歩いていて、角をまがるまでがロケーション、まがって細い道になるとセットということが起るわけですか。

中古 そうなんです。そういうときは、キャメラの玉井さんの腕の見せどころで、画面ごとの画調を統一させるわけです。そこらあたりにデザイナーとして私の苦労もあるんです。監督もそうでしょうが、われわれも、ステージのセット装置の発想には、どうしてもロケハンが必要となります。……

と、ここで語られているのは『晩菊』の路地とセットのことだけれど、同じく中古智と玉井正夫コンビの『妻の心』にも見事に当てはまる。「ここまでがロケーション、このあとはセット」という流れが、『妻の心』においても実に見事なのだった。




f:id:foujita:20101017150056j:image

映画の冒頭、桐生の本町通りのショットが2つ続いたあと、3つ目のショットは高峰秀子の嫁ぎ先の老舗の薬屋のセット。ここでロケから鮮やかにセットへと移行している。




f:id:foujita:20101017150057j:image

店内から路地をのぞむショットも実によいのだった。薬屋の店内のタイアップ満載と思われる商品の配置も目にたのしく、こちら側を向いている端っこのキューピー人形がチャーミングで頬が緩む。中古智の美術の本領発揮といった感じ。




f:id:foujita:20101017150058j:image


f:id:foujita:20101017150059j:image

店の裏の自宅家屋との境目に立つ、薬屋主人・小林桂樹と洗濯ものを干す妻・高峰秀子。と、このお店の裏のセットもすばらしくて、しみじみ感嘆なのだった。




f:id:foujita:20101017150100j:image

《『妻の心』セット出来上がり見学 右から中古智、玉井正夫、一人おいて成瀬巳喜男、堀川弘通》、蓮實重彦・中古智『成瀬巳喜男の設計』リュミエール叢書7(筑摩書房、1990年6月30日)より。このたびの桐生遊覧にあたって、ロケ地めぐりをすべく『妻の心』を舐めるように見たことで、あらためて「成瀬巳喜男の設計」に開眼した気がして、胸が熱くなった。





「芭蕉」で南川潤をおもう。桐生倶楽部から町を迂回して西桐生駅へ。吾妻橋のビアホールでビールを飲む。




ふたたび本町通りに戻り、金善ビルを眺めたところで、成瀬巳喜男の『妻の心』ロケ地めぐりはおしまい。ここでちょいとひと休みをすべく、かねてからの計画どおりに金善ビルの裏手あたりにある「芭蕉」という名の古い喫茶洋食店へゆく。




f:id:foujita:20101018230245j:image

「芭蕉」は見るからに古びた民家風のたたずまいで、桐生の路地のあちらこちらで何度も目にしている三角の瓦屋根が嬉しい。『桐生まちなか散策マップ』によると、《昭和12年当初の建物は雪国の夏の作業小屋の材を使用し建てられました。美術、建築に造詣の深い店主により創業から幾多の改装を経て店内は迷路のようです。棟方志功最大の壁画が公開されています。》とのこと。金善ビルの裏手という場所がいいかにも散策に合間に立ち寄るのにぴったりなのだった。



2年前に初めて桐生に行ったのはちょうど、南川潤の戦前都会小説を手当たり次第にホクホクと読んでいた頃だった。南川潤の作品で愛着があるのは、彼が文壇的にもっとも輝いていた昭和十年代の一連の都会小説、つまり大森在住の頃の諸作品で、昭和19年3月に桐生に疎開したっきり東京に戻ることなく、昭和30年9月に急死した南川潤の桐生時代の作品には残念ながらいまのところは好きな作品にめぐりあったことがないのだけれど、南川潤とおなじように昭和十年代の世相のもとで都会小説を書いた文学者たち、すなわち野口冨士男とその周辺を偏愛する身にとっては、当時の若き流行作家で、「三田文学」で嘱目されていた南川潤は常に気になる存在である。「芭蕉」は南川潤が桐生時代に贔屓にしていたお店ということを、前回桐生に行ったときは把握していなかったので、ぜひとも行ってみたいなと思っていた。


そんなこんなで、いつもだったらひるんでしまうたたずまいだったけれども、南川潤を偲びたかったし、そろそろ涼しいところでしばし休憩したかったしで、勇気をだして「芭蕉」に足を踏み入れて、まさに「迷路のような」店内に入ってゆくと、一見の価値ありの稀有な空間。いざテーブルに座ってみたら、いかにも南川潤が座っていたようなたたずまい。まさに時間がとまったような感覚で、そして、不思議ととっても落ち着く。




f:id:foujita:20101018230246j:image

《女優島崎由起子と芭蕉にて(昭和25年6月)》、『南川潤年譜 ―附 アルバム・追想―』(南川潤文学碑建設委員会、1977年9月)の口絵に掲載の写真。同年、南川潤の『顔役』(初出誌不明)が、衣笠貞之助『殺人者の顔』(東宝・昭和25年4月16日封切)として映画化された際に、『映画ファン』同年7月号で主演女優と対談した際のスナップ。



と、上掲のスナップ写真を2年前から見慣れていたので、「芭蕉」の店内が今でもまったくおなじ印象でジーンと嬉しかった。民芸調で一見したところでは混沌としているけれども、いざ座ってみると、ここまで居心地がよいとは思わなんだというくらいに、居心地がよい。ジャリジャリと荒削りの氷がのどに心地よいシャーベットは素朴な味わいが嬉しく、シャーベットで涼をとったあとで、熱いコーヒーをすすって、スーッと生命が延びるよう。学生の頃に毎週のように長居していた、とある薄暗い喫茶店の穴ごもりの感覚をなんとはなしに思い出して、思えば遠くまで来たもんだ、とちょっと懐かしかった。





2010年がやってきて、冬が過ぎて春になり、初夏が近づいた頃、大川美術館の《茂田井武 ton paris 展》の開催を知り、これを機に桐生を再訪できたらいいなと思った矢先に、絶妙なタイミングで、桐生タイムス社が桐生を舞台にしている南川潤の『窓ひらく季節』(臼井書房、昭和23年9月5日)の復刻版を500円で頒布していることを教えて下さった方があった。こうしてはいれられないとさっそく桐生タイムス社に電話で問い合わせてみると、すぐさまお届け下さり、無事に入手することができて、やれ嬉しや、だった。




f:id:foujita:20101018230247j:image

『窓ひらく季節 復刻版』(桐生タイムス社、2009年6月発行)。南川潤『窓ひらく季節』女学生文庫第1篇(臼井書房、昭和23年9月5日)の復刻。表紙の挿絵には「NAMIKO」のサインがある。


古本海ねこ(http://www.umi-neko.com/index.html)さんの目録(http://www.umi-neko.com/umi-neko/soleil/himawari.htm)によると、南川潤の『窓ひらく季節』は「ひまわり」昭和22年1月の創刊号より同年末まで連載、雑誌には中原淳一や田代光の挿絵がほどこされている! 桐生に疎開して戦後を迎えた作家と若者たちとの交流を小説仕立てで綴ったもので、たとえば「芭蕉」をモデルにしているお店が

“椿”というその西洋料理店は、本町四丁目の裏通にある。西洋料理店と云えば、ガラス窓の光つている洋風の店がまえを想像するであろうが、この家は知つているものでもうつかり通れば見のがしてしまいそうな、裏通りの家並にまぎれた古風な日本づくりなのである。眞ん中に墨の字で“つばき”と書いた障子格子を二枚立てた片方がいつもあいている。薄ぐらい階下は小間仕切、二階に座敷が二つある。

というふうにして登場している(p43)。



初出誌が「ひまわり」で、臼井書房の「女学生文庫」の最初の本ということで、清く正しく美しい少女小説を期待していたので、作品そのものは肩すかしだったものの、東京から桐生にやってきた南川潤の桐生の町を見つめる実感的な描写に出会えたことはとても嬉しいことだった。南川潤が桐生に疎開直後に最初に住んだ宮本町の高台の吾妻公園に、昭和52年9月、南川潤文学碑が建立された。以下のくだりの一節、「何かしら故郷のようにこの街を愛する心になつている」の文字が刻まれている。

 私が、東京大森から、妻の縁故をたよつてこの街に疎開したのは、昭和十九年の春、もうまる二年以上になる。今では、どうやら住みついたという感じだ。私のように、東京で生れ、東京で育つた人間には、いかに疎開とは云つても、全くの田舎ぐらしは出來ない。この街の、何から何まで東京の殖民地のような、東京のイミテーションみたいな都會風なればこそ、今日のように落付いて暮す氣にもなつたのであろう。その上、東京のイミテーションでほんものゝ東京にすぐれたもの、それは山々がとりまいている惠まれた自然という環境だつた。ことに私の家あたり、東京で云えば郊外の住宅地、そこはもうすぐに、とりまいた山の山裾にあたるのだ。私の家のすぐ裏手には、だるま山という美しい姿の山が北をふさいでいる。そのすぐ下に、サナトリウム、養老院などがあり、山續きに、忠靈塔のある山は、水道山と云つて、配水塔のあるところでもある。このあたり一帯、市指定の風致區域だつた。云わば東京のイミテーションみたいな街が、こじんまりとまるで箱庭みたいに、自然という山脈のとりかこんだ環境の中におかれているといつたぐあいだ。私は東京からの來訪者に、この街を自慢する。

 どうだ、美しい街だろう、

 誰もそれにうなづいてくれる。

 美しい街。わたしはほんとうにそう思つている。今では、疎開者の空々しい気持でなく、何かしら故郷のようにこの街を愛する心になつている。私は、まだ多分しばらくの間は、この街におちつくことだろう。(p3-4)

東京っ子・南川潤が桐生に寄せる思いが率直に語られていて、「東京のイミテーション」という言葉を今の桐生の町でも鮮やかに実感できる気がする。当時の桐生が「イミテート」していた当時の東京、すなわち「モダン東京」を今の桐生のあちらこちらで体感した気になっていたわが桐生遊覧を思い起こしたくなるくだりなのだった。





「芭蕉」ですっかりくつろいで、ふたたび外に出て、本町通りへと戻る。日が暮れるまで、まだだいぶ時間がある。もうちょっと桐生の町を歩きたいなと、「芭蕉」で『桐生まちなか散策マップ』を眺めて、検討の末、旧金谷レース工場の「ベーカリーカフェ レンガ」のあとは成瀬巳喜男の『妻の心』で頭がいっぱいで、坂口安吾が昭和27年2月に転居してきた本町通り沿いの「旧書上商店」の前を何気なく通り過ぎてしまったので、もう一度じっくり見ておきたい気もしたのだけれど、もう残りわずかの桐生遊覧は歩いたことのない道を行ってみようと思って、「桐生倶楽部」の建物を見にゆくことに決めた。本町通りを直進し、末広町通りの交差点を左折して、しばらくすると、右手に「桐生倶楽部」の建物が見えてきた。




f:id:foujita:20101018230248j:image

古い建物が桐生のあちらこちらに保存状態よく残っているということに、あらためて感嘆なのだった。桐生倶楽部の建物に関しては、『桐生まちなか散策マップ』では《大正8年、社団法人桐生倶楽部により会員のための社交場として建築されたモダンな建物です。明治33年に桐生懇話会として結成した桐生倶楽部は桐生の近代化や文化向上に貢献し現在も活動を続けています。》と解説されている。昭和20年代の桐生の代表的な文化人として尽力した南川潤にいかにも似つかわしいような、モダンな建物。




f:id:foujita:20101018230249j:image

《桐生倶楽部青年部の仲間と撮る》、『南川潤年譜 ―附 アルバム・追想―』より。桐生倶楽部の前庭で撮影の写真。桐生タイムス社により復刻された上掲の『窓ひらく季節』に描かれている桐生の青年たちとの交流は、昭和22年3月に発足した「桐生倶楽部青年部」の雰囲気をよく伝えている。




f:id:foujita:20101018230250j:image

おなじく『南川潤年譜』より、《桐生高校の講演後、桐生倶楽部にて十返肇と長編小説「行為の女」について語る南川潤(昭和30年9月)》。昭和30年9月17日、桐生の「文化人」南川潤の懇請で十返肇が講演のため桐生を訪れた。久闊を叙した二人であったが、このあと一週間もしないうちに南川潤は急死する(9月22日歿)。昭和32年の三回忌に、丸岡明と間宮茂輔が講師として招かれ、桐生倶楽部で追悼会が開催されている。




f:id:foujita:20101018230252j:image

桐生倶楽部の建物を末広町通り沿いからのぞむ。正面のみならず、側面もみどころたっぷり。




勢いにのって、そのまま末広町通りを桐生川に向かって直進する。桐生タイムス社の社屋の前をとおりかかったときは、南川潤著『窓ひらく季節』の復刻版を送っていただいて勝手に親近感を抱いていたので、ちょっとうれしかった。通りを左折して、たくさんのお客さんで賑わっているウチヤマ洋菓子店でお土産をみつくろったあと、ふたたび本町通りを目指すべく、直進。




f:id:foujita:20101018230253j:image


f:id:foujita:20101018230254j:image

手持ちの『桐生まちなか散策マップ』には掲載されていないので、思わぬタイミングで遭遇した格好の「カトリック桐生教会」。童話に出てくるような素敵なたたずまいでびっくり。しばし立ち止って眺めていたら、空がどんよりしてきた。




カトリック教会を背後に歩を進めて、今度は、いきなり立派な「のこぎり屋根」群に遭遇した。昨日の夕方から今日の正午前にかけて「のこぎり屋根」工場めぐりに夢中になっていたというのに、成瀬巳喜男の『妻の心』のことで頭がいっぱいになってしまって、「のこぎり屋根」のことをすっかり忘れていたなアと、脇の路地から見上げてうっとり。


f:id:foujita:20101018230255j:image

この建物は「織物参考館」で、『桐生まちなか散策マップ』によると、《大正13年創業の森秀織物の工場施設を博物館として公開しています。実際使われていた織機に触れ織物や染色等の体験も出来ます。敷地内には森島家の主屋や蔵等も含め機屋の構成が整っています。》とのこと。昭和元年と昭和36年築の工場が同じ敷地にあり、昭和36年の建物が「織物参考館」になっているとのこと。屋根の採光は北向き。



本町通りに戻って、末広町通りをテクテク歩いて、適当なところで右折して、西桐生駅を目指す。このたびの桐生遊覧は「桐生織物記念館」の建物で締めくくられることとなった。



f:id:foujita:20101018230256j:image



f:id:foujita:20101018230257j:image



f:id:foujita:20101018230258j:image

いろいろ寄り道したけれども、桐生といえば「のこぎり屋根」と織物産業、ということで、絶好の締めとなった。吉田初三郎が桐生鳥瞰図を描いたのと同年の昭和9年の建物。「桐生倶楽部」の建物が桐生の「大正」であるとすれば、こちらは桐生の「昭和モダン」。細部の意匠が目に愉しい。もうすっかりボロボロになってしまった『桐生まちなか散策マップ』には《昭和9年、桐生織物協同組合により建設された二階建、屋根は青緑色の日本洋瓦葺き、外壁はスクラッチタイル張りの洋風建築です。現在は桐生織物記念館として織物関係の展示、販売を行っています。》と解説されている。


「織物参考館」と同様に、この「織物記念館」も、今回は時間と体力と気力の都合で、敷地外からの見物にとどめたのだったけれども、今度は張り切って見学してみっちりお勉強したいなと、いつになるかわからないけれども次回の桐生遊覧がたのしみ。近代産業遺産とともに、町歩きをするのはいつも極上にたのしい。





午後4時過ぎ。電車の時間に無事に間に合って、西桐生駅の待合室でふうっとひと休み。駅の売店で「ノコギリ屋根サブレ」なるお菓子を買って、よろこぶ。


f:id:foujita:20101018230259j:image

桐生の菓子店「青柳」製。なんてチャーミング! と興奮のあまり、帰宅後、撮影。





午後6時50分、浅草駅着。「りょうもう」38号を降りて、わーいわーいと改札に向かって小走り。桐生観光を思う存分満喫しつつも、いざ電車が隅田川に近づいてくると、東京に帰って来たことが、浅草の地に降り立つことが嬉しくってたまらない。



f:id:foujita:20101018230300j:image

昨日の朝、東武電車に乗りこむ直前に見上げていた松屋の入口に再び立つ。日が暮れて、ネオンが輝いていて、ふつふつと嬉しい。




f:id:foujita:20101019211928j:image

『輝く日本 輝くネオン』(整電社製作所、昭和12年4月5日)。「コレクション・モダン都市文化」第21巻、西村将洋編『モダン都市の電飾』(ゆまに書房、2006年12月)で知って以来念願だっ本。夜の東京を歩くと、なんとはなしにこの本を思い出す。室内で眺める「モダン都市東京」の輝くネオン。




f:id:foujita:20101018230301j:image

同書に《浅草吾嬬橋々畔の夜景》として掲載の写真。「浅草松屋」の下に「スポーツランド」の文字。松屋の屋上も電飾が施されていて、隅田川の向こう岸からもよく見えたに違いない。東武ビルディングの浅草松屋の左に位置する神谷バーの電飾もキッチュ。道路の市電の線路も夜の暗闇のなか、まぶしい。桐生の夜みたいにかつては浅草の夜も暗闇が濃かったのかな。




f:id:foujita:20101018230302j:image.

1930年代の浅草の夜に思いを馳せながら、桐生遊覧の打ち上げはアサヒビールだてんで、「ビールは吾妻橋」の吾妻橋をアサヒビールに向かって歩く。業平橋のスカイツリーを見つめる。




f:id:foujita:20101018230303j:image

桑原甲子雄《隅田川吾妻橋上》1950年代、桑原甲子雄『東京 1934〜1993』(新潮社、1995年9月より)。巻末の写真家のコメントに《これは好きな写真だ。吾妻橋の上で、おばさんの様子から冬であることがわかる。橋の向うは墨田区。今のアサヒビールは、屋上に大きな金色のシンボルの彫刻が目を引くが、当時はこんな建物だった。》とある。




f:id:foujita:20101018230304j:image

《吾妻橋ビアホール》、『大日本麦酒株式会社三十年史』(大日本麦酒株式会社、昭和11年3月)より。わたしが吾妻橋を訪れるようになった頃には「大きな金色のシンボルの彫刻」になってしまったけれども、ここに来ると、いつも「吾妻橋ビアホール」の建物が頭に浮かんで、勝手に1930年代気分にひたっている。




f:id:foujita:20101019211929j:image

「太陽」第313号・1987年11月《特集 モダンシティストーリー[東京・大阪・神戸]》の『東京・大阪レトロ紀行』に掲載の横山良一撮影の吾妻橋ビアホール。《明治半ば以後、カフェと並んで食と結びついた社交場としてビアホールが人気を呼んだ。ここは大正時代の木造ビアホールを一九三一(昭和六)年に改築したもの。下町の憩いの場と言う雰囲気はそのままである。》





アサヒビールの建物のふもとの建物の3階の「ハーモニック」のカウンターでヒューガルデンホワイトの生をクーッと飲みほして数十分、ベルビュークリークで締めて、いい気分でふたたび吾妻橋に渡って、夜風にあたる。



f:id:foujita:20101019220232j:image

次に浅草から東武電車に乗るのはいつになるかな。吾妻橋の真ん中で、向こうの鉄橋を渡る東武電車をしばし眺める。

20100812

夏休み桐生遊覧:東武電車と大川美術館と上毛電鉄。錦桜橋に立つ。

午前7時50分。銀座線を終点の浅草駅で下車。改札を出て、吸い込まれるようにクネクネとひなびた地下通路をつたってゆく。この地下通路ひさしぶり、と心持ちよくウカウカと突きあたりの階段をあがりアーケードの下に出て、角のエクセルシオールカフェでひと休み。窓の向こうの浅草松屋の東武ビルディングの建物をいい気分で眺める。


今年の夏休みは、桐生ピクニックに出かけることに前々から決めていた。桐生に出かけるのは、今回が2度目。初めて桐生を訪れたのは2008年3月、浅草から東武電車に乗ってどこか遠くへ行きたいなと思い立って、かねてより気になっていた大川美術館だけを目当てに出かけみたら、ことのほか桐生の町並みが気に入ってしまって、以来ずっと桐生のことが心に残っていた。雨が降っていてあまりじっくり町を歩けなかったという心残りがあったので、いずれ再訪して今度は思う存分歩いてみたいものだと思い続けて幾年月、2年数ヶ月後にこうしてめでたく実現とあいなった。

【→ 前回の桐生遊覧日記:id:foujita:20080320



電車に乗っての遠足のたびに、その行程や行き先にちなんだ戦前の紙モノをいくつか見繕うのが毎回のお決まり。戦前の紙モノから浮かび上がる「モダン都市の行楽」のようなものに、勝手な思い込みで夢中になっている。このたびの桐生ピクニックに際しても、張り切っていろいろと入手していて、かばんのなかのクリアファイルには、このたび購った紙モノがはさみこんである。窓の向こうの浅草松屋の建物を見やりながら、コーヒー片手にクリアファイルの紙モノを広げて、しばし眺めて悦に入る。赤城行きの東武電車の特急は8時50分発。まだちょっとばかし時間がある。




f:id:foujita:20100923142247j:image

このたび購った紙モノその1。東武電車発行《浅草雷門より 日光と鬼怒川 川治温泉へ》。戦前の東武電車発行の、日光、鬼怒川温泉、川治温泉の観光案内のリーフレット。両面印刷の一枚の大きな紙が十等分に折りこんである。




f:id:foujita:20100923142248j:image

上掲の観光案内を広げると、浅草雷門駅(昭和20年10月に「浅草駅」に改称して現在に至る)が2階に入る東武ビルディング(昭和6年5月竣工)をとらえた航空写真があしらってある。この写真が実に見事。隅田川沿いにそびえたつ白亜の大建築の東武ビルディングが浅草の古い町並みのなかでかなりの異彩を放っている。浅草通り沿いの神谷バーと地下鉄浅草駅のビルも目立っている。




f:id:foujita:20100923142249j:image

2階の窓の向かいに見える東武ビルディングの眺めが嬉しかったエクセルシオールカフェは、上掲の観光案内の真ん中の折り目にかかっている、真新しい白い建物の並びに位置している。道路をはさんだ向かいは竣工当時の東武ビルディングビルで、2階の駅部分にアーチ形の大窓が連続して並んでいるのが大きな特色だった。今は補修されて、このアーチ形の大窓は外からは見えない。




コーヒーを飲んで遠足に向けての英気を養い、戦前の紙モノを眺めて遊覧気分を盛り上げたところで、電車に乗るまでの間、ちょっとだけ浅草松屋の東武ビルディングを観察すべく、外に出る。昭和6年5月竣工の東武ビルディングをテナントとして松屋が開業したのは同年11月のこと。そんな「浅草昭和6年」にはかねてから愛着たっぷり。

【→「日用帳」関係記事:id:foujita:20090913




f:id:foujita:20100923142250j:image

エクセルシオールカフェの2階の窓から見えたネオン看板。だいぶ黒ずんでいる昭和感ただようネオン看板が前々からなんだか好きだ。ブラインド状の鉄筋で全面補修されたビルディングだけれど、目をこらしてみるとうっすらとかつての半円アーチの大窓が見えるような、見えないような……。




f:id:foujita:20100923142526j:image

吾妻橋交差点から東武ビルディングを望む。この交差点に立つのは、今年のお正月休みに松屋の古本市に出かけて以来。毎回たのしみにしていた年2回の古本市は今年1月をもって終了したのみならず、浅草松屋は営業を縮小し、今は3階までの営業になってしまった。特にありがたがったりもせずに、古い階段を嬉々と7階までのぼって古本市に出かけていた頃がなつかしい。古本市のあと、閑散とした屋上から隅田川を眺めていた頃がなつかしい。とにかくも、昭和6年竣工の東武ビルディングよ、永遠なれと心から願わずにはいれれぬ。




f:id:foujita:20100923142529j:image

荻原二郎《浅草 東武浅草駅前》(昭和44年8月2日撮影)、三好好三編著『よみがえる東京 都電が走った昭和の街角』(学研パブリッシング、2010年5月)に掲載の写真より。この画像は途中で切れてしまっているけれど、同書に掲載されている写真は、2階の浅草駅から隅田川の鉄橋に向かう東武電車がビルの奥からにょろっと出てくる瞬間をとらえている実にすばらしいもの。昭和44年当時は、建物の左右両面にあしらってある半円アーチの大窓が外部からも見えていて、竣工当時の姿を誇示していたことがわかる。




f:id:foujita:20100923142527j:image

現在の東武ビルディングは、ストライプ状の鉄筋で覆われていて、一見したところでは竣工当時の石造りのモダン建築の姿は隠れてしまっているけれども、その分、はるか遠くから覗きこむようなモダン東京の残骸探索がいつもたのしい。ビルの先端部分には、昔も今も、半円アーチ状のネオンサイン。上掲の昭和44年当時、ネオンサインは「日光 鬼怒川・川治」というふうに今回購った戦前の沿線案内とまったく同じ行楽地となっている。補修がほどこされた現在は「浅草駅 東武電車」の表示の下に長方形のネオンサインが増設され、「日光 鬼怒川 会津高原 伊勢崎 桐生」の文字がある。これから出かける桐生の文字もここに華々しく掲げられているのが嬉しい。



そんなこんなで、いよいよ東武ビルのなかに足を踏み入れて、エスカレーターをあがって2階の浅草駅ホームへ。売店でおやつ(エヴィアンと森永ミルクキャラメル)を買って、イソイソと改札を抜ける。




f:id:foujita:20100923142530j:image


f:id:foujita:20100923142531j:image

電車に乗る前にホームを見渡す。建物の内部に入ると、補修前は外側からも見えた半円アーチ形の窓を見ることができる。内部に入ると、昭和6年の竣工当時の姿を鮮明に体感できて、たまに浅草から東武電車に乗る機会があるとそれだけで嬉しい。ホームの半円状の太い柱にも、竣工時の「1930年東京」を感じる。




f:id:foujita:20100923142532j:image

本日乗車の8時50分発浅草発赤城行き特急「りょうもう5号」はすでにホームに停車中。電車の正面の、「伊勢崎線全通100周年」の文字とともにスカイツリーがあしらってあるヘッドマークに目がとまる。この特急「りょうもう5号」に乗って2時間、終点の赤城駅で下車、赤城で上毛電鉄に乗り換えて10分、本日の目的地は終点の西桐生なり。





東武電車とモダン東京の周縁。浅草から東武電車にのって桐生へ向かう。



午前8時50分。浅草発赤城行き特急「りょうもう5号」に乗りこんで、折りたたみ式のテーブルをえいっとセッティングし、買ったばかりのエヴィアンを置いて、座席を軽くリクライニングさせて遠足気分を盛り上げたところで、電車はゆるやかに出発。あともう少しで、隅田川の鉄橋を渡る瞬間がやってくる! と思うと、しょうこりもなく嬉しくってたまらない。




f:id:foujita:20100923142533j:image

このたび購った紙モノその2。《東武鐡道(電車)沿線案内》、鉄道交通社印行。伊勢崎線の終点がまだ業平橋の浅草駅である一方、日光線はすでに開通しているので、昭和4年4月以降、昭和6年5月以前の印行の沿線案内。だだっ広い関東平野をひたすら走る東武電車。関西私鉄と違って山は遠い。




今年2010年は「伊勢崎線全通100周年」であるということを、浅草駅のホームに停車中の特急「りょうもう5号」のヘッドマークで初めて知って、モクモクと感興がわいてきた。これはよい機会と、このたび購った《東武鐡道(電車)沿線案内》を眺めながら、東武伊勢崎線の百年を概観するとするかなと、『東武鉄道百年史』(東武鉄道株式会社発行、平成10年9月30日)をフムフムと参照してみると……。



東武鉄道の設立は明治30(1897)年にさかのぼり、明治32(1899)年8月に、北千住・久喜間で営業を開始、開業当初は西新井、草加、越ヶ谷、粕壁、杉戸の5駅だった。草加以下4駅は日光街道の宿場をそのまま踏襲し、西新井は参拝客への便宜をはかって創設されたもの。以降、文字どおりの紆余曲折を経て、明治43(1910)年7月13日、《主計画路線の浅草〜伊勢崎間113.1kmを、東京から両毛機業地への最短距離として完成させた》。




f:id:foujita:20100923142659j:image

上掲の沿線案内より、浅草附近を拡大。この沿線案内の印行当時、伊勢崎線の始発は現在の業平橋の場所にあり、ここを長らく「浅草駅」と称していた。昭和6年5月に東武ビルディングの竣工とともに、伊勢崎線の始発は現在の浅草駅に伸びて、このとき初めて東武電車は隅田川を渡ることができた。



現業平橋の浅草駅は、明治35(1902)年の開業当初は「吾妻橋」という名称だった。明治32(1899)年8月に北千住・久喜間で開業を開始した伊勢崎線は、明治35(1902)年4月に、堀切、鐘ヶ淵、白鬚、曳舟、吾妻橋の5駅を新設して、第2ステージに入った。東武電車はグングンと東京の中心を目指す。



が、明治35年(1902)年に新設された吾妻橋停車場は、明治37(1905)年4月5日にいったん廃止されている。これは、同日に曳舟・亀戸間の東武亀戸線が開通し、《総武鉄道亀戸から本所(現錦糸町)〜両国橋(現両国、37年開設)へと列車直通乗り入れ運転を開始し、同時に曳舟〜吾妻橋間の営業をいったん廃止した》ことによる(『東武鉄道百年史』)。開業間もない一時期、伊勢崎線の始発駅は両国橋だった。上掲の沿線案内の、曳舟・亀戸・両国橋の点と線は、その名残りととることもできる。両国橋駅の近くに描かれている、辰野金吾設計の国技館がチャーミング!




f:id:foujita:20100923142700j:image

《国技館 辰野葛西建築事務所 大8》、都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)より。




f:id:foujita:20100923142701j:image

小泉癸巳男《版画東京百景 第五十九景 春場所の国技館》(昭和10年1月作)、『版画東京百景』(講談社、昭和58年3月25日)より。同書巻末の、飯沢匡の解説に、

当時新聞記者たちは、国技館と言わずに、大鉄傘と言っていた。つまり鉄骨の傘という意味で、これも近代を現していた。相撲は二場所しかなかったので、その間、秋は菊人形などの催し物会場であった。階段を登らずにラセン式に高い場所に上っていったり、降りたりして、菊人形を楽しむ仕組みになっており、最後に「十二段返し」という芝居の名場面をジオラマ風に展開して見せる「だし物」があり、国技館の菊人形は東京名物であった。現在は日本大学の講堂になっている。

とある。モダン都市の祝祭空間だったのだなアとうっとり。昭和33年に日本大学の所有になった「大鉄傘」は、この本が刊行された頃に解体工事が始まっている。この場所に今はシアターΧの入っている建物がある。