「お座敷遊びは楽しいぞ」 月刊「フォーサイト」 2002年3月号 「遊んで暮らそう 第5回」 

京都の流儀 (翼の王国books)

京都の流儀 (翼の王国books)

ここ10年ほど、年に数回の割合で、お座敷遊びをしている。まわった花街は、東京では赤坂、新橋、神楽坂、円山町。京都の祇園町、宮川町。金沢の主計町、東茶屋町など。「一見さん、お断り」の京都に限らず、料亭やお茶屋のなじみ客に知人がいなければ足を向けにくい場所であるがゆえに、知っている店の数を競うことはしない。一花街、一軒だ。

いわゆる芸者遊びをしているわけではない。芸者衆の芸を愛でるのだ。新興の温泉場ならともかく、日本舞踊家和楽器演奏者ともいえる有名花街の芸者衆は、数少ない伝統文化の継承者になりつつある。文字通り、寝る間を惜しんで朝から晩まで稽古をし、夜は屏風の前でそれを披露する厳しい毎日。それでもにこやかにお座敷を務める芸者衆に会うと、多くの日本人が捨て去った伝統文化だけでなく、勤勉や努力を重んずるという失われた日本の精神風土にも出会えた気がして、時に罪悪感や喪失感さえ抱くことがある。

ともあれ、お座敷は同じ料金の高級クラブなどに比べてはるかに楽しい。月とすっぽんだ。高度成長期から銀座などのクラブは、取締役という役職だが、じつは単なるサラリーマンや中小事業家など、自己の目標は達したが今一つ満たされない思いを抱いた男達が、ちやほやされるためにお金を使うところだ。社会から認知されない多数の成功者を、水商売のエリートたる銀座ホステスが誉めそやす。成長期に生まれた新興勢力は、新興の遊び場を必要としていたのだ。

一方、お座敷の多くには真のエリートの匂いがする。花街の多くが明治期に発展し、「階級」としての政官財軍が大衆と一線を画して遊ぶ場所であった。少し前の官僚接待は負の例証だ。当時、彼らは社会的にすでにエリートとして認知されていたから、あらためて街場のホステスにお世辞をいわれて喜ぶ必要はなかったのだろう。

しかし、昭和の官僚のほとんどはホンモノのお座敷遊びを知らなかった。せいぜい、「バンドさん」と呼ばれる電気ギター弾きを呼んでのカラオケ、サルやイヌなどのかぶりものをしての変装パーティなどである。密室であるお座敷特有の空間所有感をあじわうことに終始した。

芸者衆は芸を披露するのが本業だ。日本舞踊は日本料理と同様、料理である舞踊だけではなく、器としての着物や帯、髪型や化粧、季節感などもふくめて楽しむものだ。黒紋付が色紋付にかわるのは正月半ばだが、この頃に花街を訪れると、仕事を本格的にはじめようかな、などと思う。

年に一度、芸者衆がかくし芸を披露する「おばけ」は節分の行事。日頃、日本舞踊を舞っている彼女達が水戸黄門一行やマハラジャに変装してお座敷を廻る。本人達も楽しんでいるようだが、芸者衆の隠し芸が終わって、お座敷で次の芸者たちを待ちながら一杯やるのも春らしい趣である。

舞を見終わったら、くどくどと手柄話をしながら呑むのも良いが、お座敷遊びをするべきだ。入門はジャンケンに踊りと節をつけて遊ぶ各種の拳。国性爺合戦に題材をとった「とらとら」は、トラは槍持ちに、槍持ちは老母に、老母はトラに負ける。囃しが止まったらそれぞれのポーズをとる。負けたら罰杯が待っているのは学生コンパと同様。

金沢はお座敷太鼓が面白い。三味線に合わせて客が太鼓を叩く。簡単な曲からはじまり、通うほどに複雑な曲になるのだが、難度のバランスが絶妙だ。太鼓で拳をすることもある。ほろ酔いの三半規管をためすことになる。

お座敷は、日本の季節と土地、近世史と世相が色濃く反映される場所だ。外資系企業に二十年も勤め、自己のアイデンティティが問われる外国人相手の仕事をしていた僕には、どんな経営書よりも役に立った。とはいえ遊びは遊び。家内の手前、役に立たせなければならなかったという事情もある。苦しい胸中を察してくだされ。

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ほぼ10年前の記事である。自分も若かったなあと感心する。いまでは祇園町しか行かなくなったし、御座敷で芸舞妓の芸をさほど愛でることもない。「とらとら」などのお座敷遊びもまったくしなくなった。それでは何をしに祇園町に行くかというと、なんとなく実家に帰ったような気がするからだ。

男も女も自宅以外に帰る場所を持つべきだと思う。疲れたとき、行き詰ったときに、子供の教育や住宅ローンの話などをしなくてもよい、自宅以外の場所があってもよいはずだ。歳をとっても、いつでも迎えてくれる気軽なバーや居酒屋があればよいのだが、ほとんどのお店の寿命は人間のそれより短い。

京都の花街は町自体がお店に相当するし、開店以来何百年もたっている。自分が死ぬまで、自宅以外に帰る場所を確保するという意味ではここしかないのかもしれない。