2024年のコンセプト

・まぁ基本みんな楽しく生きているだけでいい
家族3人が楽しく暮らせるようにするのが大事すぎて、他は割とどうでもいい感はある。
もうこれだけで基本的に今年は十分。
育児してたらその他の余計なこととかできないのが当たり前ですわ。
だから優秀な成績で修了したりいろんな本を読んだり勉強したり今後のキャリアにつながることをしたりといったことは期待しないでほしい。(目指さないというわけではない)

・惨めさを感じないで日々生きる
まぁ1ポツがありつつも、このことを達成したい。僕は「今日もダメだった」と思って終わる日がデフォルトなんだけれとも、そうじゃなく誇りを持って生きたいわけ。

・現状を受け入れて、常に実現可能な小ステップを実行する
2ポツめを達成するためには、しょっぼい現状を受け入れて現実的にやれることを考える必要がある。
まるで「進捗ダメです」と報告しても怒らず現状のベストを指示してくれる上司のように。
(どうでもいいけど、僕は就職について通常の修士の人より5年遅れているので、仕事に関する話は29歳くらいの精神年齢だと思って聞いていただきたい。たぶん僕の年代で優秀な人は「よき管理職となるためには」みたいなことを考えあるいは実践しているんだろうけど僕はそういう段階にはないということをご承知いただきたい)
早速、「抱負」に挙げた1/3までの課題については、くっそしょぼくなることを受け入れている。
「覚悟した者」は「幸福」であるッ


・問題を解くときだけじゃなくて日常でもそのよい頭を使ったらどうか
・5分で終わることは常にすぐ終わらせる
・eat frog in the morning
いやこれらはそうすべきと分かっているんだが、まぁ気をつけつつも僕はあまり実行できないだろうね。

2024年の抱負

まずね、1年の大計画を元日に立てるのは圧倒的に間違ってるんですよ。
俺ぁ馬鹿だからよぉ、難しーことはわからねぇがよぉ、それが間違ってるってことだけは分かる。
というのは、大それた大目標はそのために日々何をしたらいいかが分からなすぎるから。

ということで達成できそうですぐにでも取り掛かれそうな目標だけ立てる。

(1/16追記)
結構達成しているので偉い。
が、大まかでもいいので目標期日がないとよくないかと思い、目安を記入することにした。
しかし、達成できなくても萎えないことが大事である。

(1/6達成) GP登録する

(1/3達成)1月3日までの課題を期限内に提出する
(1/18達成)授業の動画を観る

(1/15達成)"Freedom Evolves"のChapter 1を読む
(1/10達成)[吉田]問7.1.1を解く
・[吉田]問7.1.3, 4, 5を解く(〜1/23)
・[Goodfellow]p.171-174の字を読む(〜1/17)
(1/16達成)[Harville]15.4節で手を動かす
・[PRML]2.3.1を読む(〜1/19)
・[NLP]Chapter 2を読む(〜1/23)

・深呼吸する(健康によさそうだし気持ちいいから)
・毎日家族を食べさせる

達成できたらまた適宜追加する。
変更もありうべしで。

再読

いや、自分もしてしまうんですが、読書記録とかブログとかで「〇〇を再読」と書くのは少しダサいところはある。「再読」の部分ね。「この本を読むのは今回が初めてじゃありませーん」とか、「この名著を読むのがまさかこの歳になって初めてではありませんよ」ということ。

まぁ確かに必読書を読んでいないことは少し恥ずかしい。これを恥じる気持ちがなければ頑張って教養を高めようというモチベーションも湧いてこない。
「オタク(/その他の属性)で知識がないことは何も恥ずかしいことではない!」というような昨今の風潮には与しない。

再読の人の場合は、確かに一度読んでいるので、「自分はそのような恥ずかしい人ではないですよ」ということだ。確かに自分をそんじょそこらのトーシロと思ってもらっては困る。その気持ちは分かる。

が、自分としてはそういう自分の知的属性を明らかにするためのコミュニケーションというものはダサい、と思ってしまう。
これは自分の社会性の欠如によるものかもしれない。
結局、コミュニケーションは相手の属性を見てしているものだ。
喧嘩をふっかけるなら弱そうな奴に、理解力が低そうな人には説明を丁寧に、社会的ステータスが高そうな人には丁重に、それを適切にできるのが大人であるということだ。
全ての人に対しフラットで事実ベースでしかコミュニケーションしないのは、単に適切でないだけ。
であるからして、自分の知的階級を明らかにして適切なコミュニケーションの助けとするのは、なにもダサいことではないのだろう。「自分はこれを初めて読むような無教養な人間ではない」「よろしい、ならば知的な話を始めよう」

要するに適切な大人になりたくないという僕の子どもじみた意地からなのだが、それでもやっぱり、自分の属性を明らかにしていくコミュニケーションに少しダサさを覚えてしまうのだった。

それに、再読の際に「再読」と言ってばかりいると、自分は読んでいるべきはずの本を本当に初めて読む場合に、「初読」と言えなくなってしまう気がする。
自分は「今ごろこの本を読むような恥ずかしい人間じゃありませーん」と言いすぎると、本当に恥ずかしいところがない人間であるかのように錯覚してしまう。それは結局のところ生きづらくなってしまうような。

でも恥ずかしさって結局最終的に恥ずかしいだけで金取られるわけじゃあるまいし、恥ずかしいことは悪いことではないのではないだろうか。
恥ずかしさとめんどくささは、「それがあると何が悪いのか」ということがよく考えるとよく分からない。
恥ずかしさの哲学、めんどくささの哲学については今後も考えていきたい。

まとまりがないけどこの辺で。

operateとsort

英語の語法について気づいたことを紹介していきたい。

「泥棒」営業中

観光地とかでよく見る看板

Thieves known to operate in this area.

結構決まり文句となっている。
operateが使われるのが面白い。
ODEにはcontrol the functioning of (a machine, process, or system)とある。
何かシステマティックなもの、業務的なものに使われることが多い(e.g. this company operates many factories)と思うが、

仮説1

泥棒という職業の人がその業務を行う的なニュアンスだろうか?

仮説2

あるいは、泥棒は我々一般市民からすると「遠い」存在、異質な存在である。
そういう心理的距離が遠い存在は、何か非人間的、または「機械的」に動いているように感じられるから、operateが使われるのだろうか?

sorted out

我らが愛すべきTube(ロンドン市営地下鉄)に乗る人であれば毎日耳にタコができるほど聞かされている文句が

see it, say it , sorted

である。
要するに、テロ警戒のため、見慣れないものを見かけたら通報してください、という呼びかけなのだが、
注目して欲しいのは"sorted"である。
カエサルの「来た、見た、勝った」に引っ掛けるために、頭韻を踏む必要があったということも当然あるが、イギリス英語では"sort out"を「解決する」の意味でよく使うと思う。separable("sort something out"と言える)。
原義は(sort単独でもsort outでも)「整理する」。
"sort out"の方がよく使う気がするが、sort単独でも「解決する」の意味になる模様。
「順番に並べる」の意味の「ソートする」ではないので注意!
特定の業界で、「整理」が(「論点整理」から転じて?)「(公式・非公式の)見解、建前、解釈」という意味になる(e.g. 「我々の整理では、それは〜ということになっている」)のと少し似ているか。

このメッセージが録音されたテープだと、テロ対策なので当然自信ありげに、
See it. Say it. Sorted.
とはっきり言い切ってる感じで言いきっているのに対し、
人間がリアルタイムで読み上げるアナウンスの中で読み上げてるときは、
やはり生きている人間なので、
「"sorted"とか言うけどさー、そんな爆発物かもしれないものを我々だけで解決できるかよ……
はーあ、そんな変なものの対処させられたくね〜〜〜」
という気持ちがどうしても現れてしまうからか、なんとなく逃げるように
see it, say it, sorted
と「決まり文句なのでしかたなく読んでますよー」という雰囲気を出して読んでいるのが面白い。

worldという単語の「月下の世界」という意味

worldという単語は、人々が暮らすこの世の中、あるいはもっと広く(より物理学・哲学的な)一切の事象が起こる舞台としての、価値中立的な「世界」の意味の他に、spiritualな世界、天上の世界、神の世界と対置される「現世」「月下の(sublunar)世界」(さらに狭めて)「世俗社会」の意味がある。
この意味で使われる時は、たいてい、語り手または語り手が語っている人々の「現世的なるもの」に対する否定的な価値判断が込められている。

the world(名詞)

例文

renunciation of the world, followed by isolation in a life of prayer

祈りを中心とした孤独な暮らしをともなう現世の否定
この意味については、ODEではhuman and social interactionという説明が与えられている。

worldly(形容詞)

his ambition for worldly success

現世的な成功を求める彼の野望
(現世的な成功=富や地位、名誉)

間接疑問文と取るか関係代名詞節ととるかで意味が異なるケース

I don't know what we should purchase.という文において、"what"は間接疑問文(節)を導く疑問詞とも解釈できるし、関係代名詞とも解釈できるわけだけど、この2つは意味において区別できないかと思っていたが、ChatGPTと会話する中で、文脈によっては違う意味を持ちうることに気がついた。
違う意味を持つというか、正確に言うと、ある解釈の下では、関係代名詞としてしか解釈できないケースがある、ということ。

具体的には、間接疑問文の場合には解釈は1つだと思うのだけど、関係代名詞ととる場合、間接疑問文の場合の解釈とは別に、ある種の文脈の下で別の意味を持ちうる。

まず、間接疑問文とみる場合、「何を買うべきか分からない」という意味になる。当たり前の解釈である。
関係代名詞の場合も、「何を買うべきかわからない」という解釈は当然可能で、特段別の文脈が指定されていない限り、こう解釈するのが自然ではある。
だが、たとえば次のようなシチュエーションを考えてほしい:
ハロウィンの飾り付けのために何を買うか、グループで相談している。
誰かが「そうだ!スーパーカリフラジリスティックスティック(棒)を買ったらどうだろう」と言う。
自分はスーパーカリフラジリスティックスティック(棒)なるものは聞いたこともないし、知らない。
が、自分以外の他の人はわかったようで、「そうだそうだ」「それを買おう」などと言っている。
どうも自分が知らないだけで、他の人はスーパーカリフラジリスティックスティック(棒)を買うことでまとまったようだ。

こういうようなシチュエーションの場合でも、
I don't know what we should purchase.
ということができる。
しかし、この場合、この文は「何を買うべきか分からない」という意味ではない。
「何を買うべきか」は決まっているのだから。それはスーパーカリフラジリスティックスティック(棒)だ。
ここでは、その「みんなが合意した我々が買うべきもの(=スーパーカリフラジリスティックスティック(棒))」のことを、自分は知らない、という意味だ。
文脈を全部盛り込んで意訳すると、訳文としては「我々が買うことになっているスーパーカリフラジリスティックスティック(棒)なるものがいったい何なのか、自分には分からない」とでもなるだろうか。
ここでは「我々が買うことになっているもの」はスーパーカリフラジリスティックスティック(棒)に置き換え可能である。ここで「我々が買うことになっているもの」という確定記述は、単に指示的に使われている。これはキース・ドネラン(Keith Donnellan)が記述の指示的用法として指摘したもの。(たとえば、我々が買うことになっているものが「スーパーカリフラジリスティックスティック(棒)」だと思っていたのは私だけで、実はみんなが買うべきと合意したものは「カリフラワー」であり、カリフラワーであれば私も知っていた、という状況を考える。このとき、"I don't know what we should purchase"というときに"what we should purchase"は客観的な事実に基づいて「カリフラワー」と解されるべきではない。事実私はカリフラワーのことくらいは知ってるのだから。ここではwhat we should purchaseは単に「スーパーカリフラジリスティックスティック(棒)」を指し示す目的で指示的に使われており、通常の確定記述とは区別されるべきである)

「何を買うべきか分からない」という普通の解釈と、文脈限定的なこの解釈が異なる点は、普通の解釈だと何を買うべきかは特定されていない(少なくとも自分には)のに対し、この特異な解釈では、何を買うべきかは決まっている。決まっているけど、「知らない」だけ。
whatを関係代名詞として使う場合、疑問詞ではないので、このように「何を〜」という意味にならないで特定された買うべきものを名指すことも当然可能となるわけだ。

また、この2つの解釈で、"know"の意味も異なっていることに注意。
「何を買うべきかわからない」の解釈だと、"know"は「分かる」「理解した状態である」という意味で使われている。
一方、「買うことになっているもの(特定されている)が何なのか自分には分からない」の解釈での"know"は、「見知っている」「見たことがある」「どういうものか認識できる」の意味である。
https://dictionary.cambridge.org/dictionary/learner-english/knowにある(HAVE INFORMATION)と(BE FAMILIAR WITH)の違い。


まぁそんなこんなで、大概の場合"I don't know what〜"式の文の"what"が疑問詞か関係代名詞かはどっちと思っても意味は変わらないのだけれど、ある種の文脈の下でこの文が、whatが関係代名詞としてしか解釈できないような意味を持ちうることをみた。

National Gallearyで前期ルネサンスの祭壇画など

自分は地図を直観的な思考だけで読み解くのが苦手なので*1National Galleryでまだ全然行ったことない地下のエリアがあることに気がついて行ってみた。

Lorenzo Monaco, The Coronation of the Virgin
Lorenzo Monaco | The Coronation of the Virgin | NG1897 | National Gallery, London
Lorenzo Monaco | Adoring Saints: Left Main Tier Panel | NG215 | National Gallery, London
Lorenzo Monaco | Adoring Saints: Right Main Tier Panel | NG216 | National Gallery, London
(三連祭壇画(triptych)です)
色とりどりの服が鮮やかで美しい。
ルネサンスには属さないのかな?
でも人物の表情には硬さとかはあるけど人間らしさも感じられ、美しい作品と思った。
天使の羽もきれい。

Sassettaの一連の作品
Sassetta (active by 1427; died 1450) | National Gallery, London
Saint Francis and the Poor Knight, and Francis's Visionではなんか空飛ぶお城が描かれてるし、なんかすごい。
ある種のちのシュルレアリスムの作品みたい。
Sasettaは前期ルネサンス

Fra Filippo Lippi, The Annunciation
Fra Filippo Lippi | The Annunciation | NG666 | National Gallery, London
マリアの謙譲の姿勢と、大天使ガブリエルの気品がある姿が優美で美しい。

Sandro Botticelli, The Adoration of the Kings
Sandro Botticelli | The Adoration of the Kings | NG1033 | National Gallery, London
ボッティチェリのこんな作品があるとは知らなかった。
大胆な構図と遠近法が印象的。
個人的に聖母子や聖人が小さく描写されている作品が好き。
右の方の3色の馬は、それぞれ色も違うがうやうやしくお辞儀しているようにも見え、それぞれの人種を代表する3人として描かれることも多い東方三博士に呼応しているのか?と思った。
なお、こちらの高階, 絵里加. <東方三博士の礼拝>図像における異邦人表現. 人文學報 2011, 100: 13-32によれば、このように三博士が異人種を代表する者たちとして表象されるようになったのは14-15世紀にかけて定着したものであるとのこと。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/148035/1/100_13.pdf


他にも色々気になったのがあるんですが、書いてると無限に時間が飛んでくのでこのへんで。

*1:右に行って、次に左、とか論理的に思考した上で進むべき方向を表現することはできるが…