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2007-12-02

少女たちのポストモダン - ケータイ小説に見る彼女たちの記号的消費

【A面】犬にかぶらせろ!:ケータイ小説のリアルとは何か?

上記は今回、ケータイ小説への消費態度とはどんなものなのかを考える直接の契機となった。シンプルながらも示唆に富んでいたので、ここに引用させて頂いた。そしてこれを受けて、本エントリではケータイ小説とそのポストモダン的な消費を解析している。そして、その後にケータイ小説から派生する展開を(冗談まじりに)検討した。従って本エントリは2章構成になっていると考えてもらいたい。それでは本文を始めよう。

以下は先述のエントリでも引用されていたid:strange氏のエントリからの一文。

で、ケータイ小説が面白いなあと思うのは、たぶん読者にとって本当はそれが身の回りでリアルに起きていることではなさそうなのに、読者がケータイ小説を「リアルに感じられる」としていること。そして、ほぼ一様にそのことのみを評価していることだ。

読者にとって、ケータイ小説は”リアルかどうか”が重視されるというのは非常におもしろい指摘だと思う。そこで疑問として浮上するのが、「果たして”リアル”とは何だろうか?」という点だ。ここでは便宜的に、”リアル”を次のように定義したい。すなわち、「感情をドライヴさせるもの」と。

志望校の入試の結果発表を見る瞬間の緊張感、好きな女の子と初めてのデートをするときの楽しさ、スポーツの試合が始まる直前の高揚感。これらは標準的な生活をしていれば手に入る普遍的な感情だ。そういったものと同種の感情を、現実ではない擬似的な体験から入手するとき、我われは”リアル”という言葉を用いるのではないかと思う。なぜなら、リアルではない体験に、リアルと同様に感情をドライヴさせられたとき、我われは「リアリティがある」という言葉を用いるからだ。なお、「現実ではない擬似的な体験/リアルではない体験」とは映画やテレビドラマや読書やアニメやゲームなど、広義の虚構を指す。

上記のid:strange氏のエントリにもリンクが張ってあるが、活字中毒Rにて『ダ・ヴィンチ』のケータイ小説特集が引用されている。これを読む限り、ケータイ小説の読者が”リアル”だと感じるのは「出会い系」、「レイプ」、「ホスト」、「キャバクラ」、「死」といったモチーフに接したときのようだ。もしかしたら、そこには「妊娠」や「堕胎」、「暴力」、「自殺」あるいは「自殺未遂」、「ドラッグ」に「薬物依存」と言ったキーワードも追加可能なのかもしれない。いずれにせよ『ダ・ヴィンチ』を信じるならば、ケータイ小説の読者の一部は、こういった「自分自身には起きていないけれど、世界のどこかにはこういうこともあるのだろう」という事象にこそ”リアル”を感じるらしい。つまり、「出会い系」、「レイプ」、「ホスト」、「キャバクラ」などのキーワードとそれに付随・関連するエピソードによって、ケータイ小説の読者は「感情をドライヴさせられている」ということになる。幾分乱暴だが、ここではそのようにまとめてしまおう。

ここまで書いておいて白状するが、id:foxintheforestは話題の『恋空』をはじめとしたケータイ小説なるものを読んだことがない。読んだことがないので、現段階でケータイ小説を考えるにあたってはネット上の風聞を参照するしかないのだが、非常に気になるのがケータイ小説を指して「文章が稚拙」、「物語がワンパターン」という評価が下されることが多いように見受けられる点だ。このうち、前者にはあまり興味を持てない。文章の巧拙というのは、著者の技巧だけではなく読み手の美意識の問題も関わってくるからだ。例えば、ケータイ小説の熱心な読者にとっては、通常の小説文体よりもケータイ小説の文体のほうが素直に読み込めるということを先述の『ダ・ヴィンチ』の特集は明確に示している。ならば、門外漢がケータイ小説の文章を稚拙と指摘することには特別な効力がないように思う。

逆に後者は興味深いと言える。なぜなら「物語がワンパターン」という評価は、ケータイ小説の熱心な読者からも指摘されているからだ。

うん、ちょっとね。似たような話がホントに多いんだ。誰かが死んじゃう系の小説が多すぎるよねえ(笑)。

曰く、「誰かが死んじゃう系の小説が多い」。これをそのまま鵜呑みにすれば、ケータイ小説には「誰かが死ぬ」というエピソードを主軸に、作品ごとに異なる特徴を装飾していくというパターン/テンプレート的なものが存在するのではないかと考えることができる。そしてワンパターンという指摘がある以上、多くのケータイ小説で、「出会い系」や「ホスト」、「レイプ」などの似たような要素が頻繁に絡んでいるとも推測できる。つまり、ケータイ小説には、これらの要素の順列組み合わせという側面が少なからずあるのだと考えられる。だからこそ、彼女たちをしてケータイ小説には似たような話が多いと言わしめる。しかし、彼女たちはそれを充分に承知した上でケータイ小説を消費している。それはコジェーヴスノビズムと呼び、ジジェクシニシズムと呼んだものにいくらか似たものなのかもしれない。

ここまでを1度まとめておこう。

ケータイ小説はリアルであることが重視される。”リアル”とは感情をドライヴさせるものであり、読者である彼女たちは「出会い系」や「ホスト」などのキーワードとそれに関連したエピソードにリアリティを感じる。加えてケータイ小説にはこういったキーワード=要素を組み合わせて物語が構築されていくという側面がある。それが彼女たちに似たようなパターンの話が多いと認識させている。そしてそれを理解した上で、彼女たちはケータイ小説を消費している。

さて、ここでひとつの接続を試みたい。

こういった類型的な要素を組み合わせるという手法は何もケータイ小説に限ったものではない。よく知られたところではオタク系コンテンツが挙げられる。

この分野で特徴的なのは”萌え要素”と呼ばれる記号群であり、これらは限りなく類型的だ。キャラクターのデザインを構成する要素としてはネコ耳やメイド服、ツインテールなどが代表的。他にもキャラクターを構成する属性としてのツンデレヤンデレ、幼なじみ、妹など。また、物語を構成する要素にも類型を見て取ることができる。例えば”前世からの因縁/宿命”などといったものはパターンとして存在しており、有名なところでは『AIR』、最近でも『るり色輪廻』といった作品でこういった要素を見ることができる。

なにもオタク系コンテンツではこれらの要素をすべて満たさなければならないという基準があるわけではないが、それでも、消費の上ではこういった類型的な要素の有無が意識されている。以下は『ファウスト』vol.1に収録された、笠井潔によるType-Moon奈須きのこ武内崇へのインタビュー記事からの抜粋だ。

笠井潔:ところで、共同制作だとキャラクターの設定はどちらが主導的なんですか?

奈須きのこ:『月姫』は、原型が自分が以前に書いた小説の没プロットなんですね。だからその主人公の吸血鬼は絶対に必要だと。次に、基本的なギャルゲーのフォーマットから先輩、それから妹を入れようと。当初はそこで終わっていたはずなんですが、打ち合わせで武内君が「メイドを入れたい」と騒ぎ出して、「なら私は割烹着が欲しい」と悪のりして(笑)。そういった単語レベルのアイディアから設定がスタートして一週間くらいでプロットを仕上げました。

武内崇:キャラクターに関して、「妹」であるとか「勝ち気」であるとか、記号の部分に関しては二人で話しながら決めます。たまに自分が「こんなキャラクター出したいから!」と主張して、無理やり入れてもらうこともありますが(笑)、そういった記号的なところから始めて、奈須がそれをプロットに落とし込んで性格を肉づけして、それから自分が絵を入れていって本格的に生きたキャラクターにしていくという作業になりますね。

この引用部からは、ギャルゲーのフォーマットに則ることそれ自体が「月姫」の制作の中でも優先度の高い部分に配置されていたということが見て取れる。引用部には含まれていないが、彼らType-Moonはギャルゲー/ノベルゲームというマーケットの存在に魅力を感じ、そこで勝負をするために以上のような手法を取り入れたということを、このインタビューで語っていた。つまり『月姫』は、オタクによってギャルゲー/ノベルゲームとして消費されることが自覚的に考慮された上で、適度な分量の記号(萌え要素)を散りばめて創られた作品だということができるだろう。

さて、萌え要素とは、はてなダイアリーのキーワードには「萌えを喚起させるファクターの含有」のことだと記されている。では、萌えとは一体何なのだろうか。Wikipediaの「萌え」の項を見ると、第一文が非常によくにまとまっているのでそれを引用したい。

スラングとしての萌え(もえ)とは、オタク文化において、アニメ・漫画・ゲーム等様々な媒体における、対象への好意・傾倒・執着・興奮等のある種の感情を表す言葉。

ここでは上記をより端的にし、再定義しようと思う。萌えは、アニメやマンガ、ゲームなどのフィクションに感情を動かされたときに発生する。ならばすなわち、萌えとは「感情をドライヴさせるもの」だと言うことができるだろう。

さて、このエントリの最初のほうで、ケータイ小説の読者が感じる”リアル”とは「感情をドライヴさせるもの」であると定義した。従って、ケータイ小説を読む彼女たちが感じる”リアル”もオタクたちが”萌える”ことも、広い意味では、フィクションによって感情をドライヴさせられているということだと考えることができる。

さらにケータイ小説は類型的な話が多く、「出会い系」や「ホスト」といったいくつかの代表的な要素をメインとした順列組み合わせによって成り立っているという側面があると先述した。これは、オタク系文化の萌え要素の在り方と似ていると考えることはできないだろうか。我田引水のようで気が引けるが、ケータイ小説のそのような在り方は東浩紀が提唱したデータベース消費とよく似ているように感じる。だとすれば、ケータイ小説の順列組み合わせとは読者である彼女たちに”リアル”を感じさせるよう最適化された手法だ。

活字中毒Rにて引用された『ダ・ヴィンチ』のケータイ小説読者インタビューは、人が死ぬ話ばかりのケータイ小説に飽きたとしながらも、「ホスト」や「キャバクラ」など、要素の組み合わせを変えればまだ楽しめるという彼女たちの声で締めくくられる。それはまるで、次々と萌え要素を組み替えて消費されるオタク系コンテンツのようでもある。

このようにケータイ小説はオタク系文化の在り方と似ている。ともに局所的なジャンルではあるが、大きな物語が衰退してしまったポストモダンの特徴がよく表れた現象なのではないかと思う。

ここからは個人的に気になっているポイントを考察し、検討してみたい。

90年代以降のオタク系文化には、二次創作などをはじめとした”物語が複数化されてしまう空間”が存在する。簡単に言ってしまえば、原作がオリジナルではなく二次創作の素材として消費されるようになり、その素材が二次創作だけでなく次の原作を生んでいくという現象である。

例を挙げよう。『新世紀エヴァンゲリオン』の原作が大量の二次創作を生む。そのとき原作と二次創作は、等価に他の同時代の作家に影響を与える。そこでは『エヴァ』の後継となるような原作が生まれ、それがまた二次創作を生みつつ、次の原作を生む。”物語が複数化されてしまう空間”とはこの循環を指している。そして、この運動が萌え要素データベースを肥沃にしていく。

この循環の果てにオリジナルのオリジナルたる所以が希薄になり、作家の作家性も同様に希釈されていく。なぜなら、「大きな物語」の持つ力が薄まって「小さな物語」が乱立しているポストモダンにおいては、オリジナルも二次創作も等価に消費されてしまうからだ。作家/原作の固有性は、もはや神話の中の幻想となってしまう。

そこで、作家の神話性/物語の一回性を回復するために新しい想像力が生まれた。これを東浩紀は「ゲーム的リアリズム」と呼び、「マルチエンドをどう文学的に処理するか」という問題だと言い換えていた。マルチエンドとは、原作によって作り上げられた作品世界が二次創作によって複数化され、断片化していく様を捉えた表現だと思ってもらえればいい。これは何もノベルゲームに限った話ではないのだから。この想像力に基づいた作品として桜坂洋の『All You Need Is Kill』や舞城王太郎による『九十九十九』、細田守による『時をかける少女』などが挙げられる。

ゲーム的リアリズム」とは、敢えてゲーム的な複数の”生”と複数の”私”を用いることによって、物語が複数化されてしまう世界=ポストモダンを描写するものだ。「ゲーム的な複数の生」とは、例えば『スーパーマリオブラザーズ』でそれぞれのマリオが異なるルートを通ってゴールを目指したり、異なる方法で死んだりするようなものだと理解すればいい。言い換えれば、ゲームをプレイするたびに生成される、「異なる可能性の世界」である。

そのとき、物語はプレイヤーレヴェルとキャラクターレヴェルに二層化される。キャラクターレヴェルの物語とは、先ほどの例で言えばマリオの視点のことだ。異なる可能性の世界にいるそれぞれのマリオがどのような生を送るのか。それを描写したものがキャラクターレヴェルの物語ということになる。

これに対してプレイヤーレヴェルの物語とは、キャラクターの視点をメタレヴェルに俯瞰するものだ。例に沿って説明しよう。ゲーム世界のマリオたちは1人1人がそれぞれ異なる生を送り、死んでいく。しかしキャラクターを操作するプレイヤーは、マリオたちの死を”1回のゲームプレイ”として経験する。プレイヤーレヴェルの物語とはそのようなメタ視点で綴られる物語である。

そして「異なる可能性の世界」をもう一度言い換えるなら、それは「小さな物語」になる。「小さな物語」が乱立する世界とは、先述したようにポストモダンである。あるいはそれは、もはや「小さな物語」になってしまった原作(=大きな物語)と、小さな物語としての地位を獲得した二次創作が、ともに等価に消費されるマルチエンドな世界でもある。

まとめよう。「ゲーム的リアリズム」では、物語を語るためにゲーム的な複数の”生”と複数の”私”が用いられる。そしてその上を横断するメタレヴェルの経験そのものを物語に取り込む。言い換えれば、“複数化され、反復される世界”を描き、その上に”反復できないプレイヤー自身の1回の経験”というレイヤーを被せる。これによって「ゲーム的リアリズム」は、物語が複数化されてしまう世界で物語の一回性を回復するのだ。先述した「ゲーム的リアリズム」に基づく作品群の主人公たちは、複数化された世界で複数の自己を抱えながらもそれを俯瞰し、ただ1回の経験を得て成長していく。

このエントリで述べてきたように、ケータイ小説はその在り方も消費のされ方もオタク系コンテンツに似ている。ならばケータイ小説も、マルチエンド的な消費の流れの中に存在していると考えることができるだろう。だとすれば、物語の一回性を回復するための「ゲーム的リアリズム」を、ここにも見ることができるのかもしれない。言うなれば「ケータイ小説的リアリズム」とでも言うべきものを。

というのは半分以上が冗談なのだが、サブカルチャー文脈に目ざとい小説家センセイなら、こういったことを平気な顔をしてやりかねないなと本気で思うのだ。誰のことか。それは舞城王太郎だ。彼が作品に取り込む現実は、ネット文化やポストモダンや学校襲撃、それに猫殺しだけではない。例えば、数年前の10代〜20代の女性たちの文化に対して、彼は『好き好き大好き超愛してる。』で『世界の中心で、愛をさけぶ』を向こうに回しつつ、舞城らしい愛に溢れたメタフィクションを仕上げてしまった。芥川賞の選評では石原慎太郎にタイトルだけで却下されていたけれど。

当時の『セカチュー』と言えば、今のケータイ小説のポジションにあたるものだったと思う。『好き好き大好き超愛してる。』は装丁まで明らかに若い女性の文化を意識し、ピンクでラメでキラキラしたものになっていたことを思い出す。だから舞城がケータイ小説カルチャーを自作に取り込んだとき、単行本はラインストーンで飾られることになるのかもしれない。そしてそこで語られるのは、似たようなケータイ小説たち=複数化された物語の間を反復する、彼女たちの生の一回性を祝福するリアリズムになるだろう*1。ぼくは今、そんな白昼夢を見ている。

*1:機会があれば自分で書いてみるのもおもしろいかもしれない