2009-03-03
■[メモ][アニメ][特撮][勧善懲悪]「勧善懲悪」はダサいのか。

乱暴なお話をしてみたいと思います。
いや何、良く出てくるブログ論壇の「勧善懲悪ダサい、正義の味方ダサい」とされる「アレ」について考えてみるだけです。コレ『ガンダム』以前・以後のアニメシーンの表現によく使われるから、それだけが目立って鬱陶しいコトこの上ないんですが、もうちっと俯瞰すると割とファンのあり方として普遍的に存在してますよね。
典型的には「自分の好きな作品を他と差別化するとき」に便利な言葉として、です。いくつか例を挙げてみましょう。これにあたり、Googleで「勧善懲悪」という単語と何かの作品名を入れて検索、なるべく検索順位の上に現われたモノで一典型が顕われていそうなモノを俎上に上げたいと思います。
基準?コレはもう乱暴なお話ですので、主に「典型的な話に見える」という俺の価値観にならざるをえないです。まずはピックアップしてみて改めて考え直します。
例1)『ウルトラセブン』+「勧善懲悪」
『ウルトラセブン』は本当にこの手の話にはよく引き合いに出されますね。前作『ウルトラマン』に対して主人公モロボシ・ダンが宇宙人であったために、地球人を相対化して見るシーンが多いせいかもしれません。「『ウルトラセブン』はその他のウルトラマンと違い、勧善懲悪でないテーマが…」云々。
特に#42「ノンマルトの使者」はその格好の素材です。
(羊蹄学園大学社会学部講義集 05/09/14)
(2、勧善懲悪への挑戦)
たとえば今でこそ、先住民族との問題はクローズアップされることは多いですが、この当時、しかも地球球侵略の怪獣・宇宙人を倒す正義のウルトラマン…という勧善懲悪の子供向けテレビ番組の王道において、そのような問題に触れるのは稀有であったこと。
この作品は担当した監督とシナリオを書いた金城の「人間って最初から地球人だったのかな」「いやもっと前に本当の地球人がいて、人間が侵略したのかもしれない」というやり取りから金城がシナリオを書き、できあがったという制作の根本から、もうすでに異例であったという点。
「勧善懲悪」を否定するほど稀有だったでしょうか。異例だったでしょうか。この回が『ウルトラセブン』というシリーズの中でもテーマを際立たせる、ドラマ的に質の高いエピソードであるコトは認めます。しかし、視聴者が普段見るにあたり一応の「正義の基準」としている防衛チームを疑うエピソードは他にもありますから、その点だけでこの回だけがシリーズや時代そのものから傑出した作品とするのには賛成できません。
前作『ウルトラマン』においても、#23「故郷は地球」で侵略怪獣が実は変異した地球人宇宙飛行士であった…とやっていますし、『ウルトラセブン』でも早いうちに#6「ダーク・ゾーン」では、侵略する意図もないのに地球とぶつかるから故郷を爆破される宇宙人の話や、中盤の#26「超兵器R1号」で地球人のミサイル実験のせいで狂った怪獣が地球へ復讐しにくる話があったりします。後の『ウルトラマンタロウ』では#38「ウルトラのクリスマスツリー」で#5の怪獣戦で戦災孤児となった少女の話までやっていますし。シリーズ構成において、入るべきスパイスだったと言えるでしょう。
もっと顕著に「勧善懲悪」を越えているという点をクローズアップすれば、『ウルトラQ』の#11「バルンガ」などは星を喰って成長する我々とは次元が一つ違う生態系に生きる生物を提示して、地球人の営みそのものを矮小化して見せるという手法すら使っています。この回では地球人の「正義」を守るためには、正面からの戦いすら放棄して「お引き取り頂く」という決着しかないところまで踏み込んでいますし。(『ウルトラQ』の原点の一つ、『ゴジラ』のストーリーと比較して考えると分かりやすいでしょう)
ココで考えたいのは、「勧善懲悪」というプロット構成上の一つの形です。息災に暮らしている登場人物<A>が、何らかの侵略や攻撃を受けて難儀しているところへ、「正義の味方」が現われて問題を解決する。この場合「勧善」の「善」は<A>にとっての「善」です。懲らしめられる「悪」も<A>にとっての「悪」です。
良くできた「勧善懲悪」話、共感をよびうる「勧善懲悪」話というのは、この<A>に視聴者がどのくらい感情移入できるかという一点に尽きます。シリーズ作品の場合この<A>は必ずしも主人公ばかりでなく、サブキャラクターだったりゲストキャラクターだったりするでしょう。あるいはそれがイコール視聴者である場合も当然考えられます。
その上で、上記引用した「ノンマルトの使者」論が良くないのは、この話の<A>が誰かというコトを有耶無耶にしているコトです。
「ドラマ」とは本来日本語で言うと「葛藤」です。複数の登場人物が持つ各々の「正義」が衝突したところに出る齟齬をどう解決するか…なワケで、設定がいくら優れていてもドラマが創出されていなければ、共感を呼ぶコトは困難です。そのため『ウルトラセブン』においてもいつも同じ<A>では成立しないのは当然で、この回においては第一にモロボシ・ダンが葛藤するタネとして、地球人であるはずの人間が正当な住民であるかどうかを問うのです。モロボシ・ダンはこの作品では人間によって立っていますから、この場合モロボシ・ダン+人間が<A>です。それはそのまま視聴者でもあります。そのためにダンに付随するキャラクターとしてキリヤマ隊長やアンヌ隊員の葛藤も描かれます。
この回の優れた描写の一つが、そういう設定でありながらノンマルトたちは自ら一切何かを言うワケでなく、いつも通りの侵略宇宙人のようにしか振舞わないコトです。ノンマルト自体は<A>に参加してこない。彼らの見た目も表情すら読み取れない不気味な姿で襲ってくるだけで、あくまで代弁者と思われる少年の霊が叫ぶのみ。
コレにより視聴者はギリギリ、ノンマルトを倒すコトに違和感こそ覚えても、嫌悪感を感じない仕組みになっています。
だからこそこのエピソードは『ウルトラセブン』の枠内にいられるのだし、「勧善懲悪」のヒーローモノとして、いつもの『ウルトラセブン』として視聴者と同じ「地球人」=「人間」=<A>が生き延びるという安心につながるのです。テーマとしての「勧善懲悪」への懐疑は提示していますが、物語の構成法としてのそれは否定していないのを認識するべきでしょう。
重ねて確認します。『ウルトラセブン』はヒーローモノとして「勧善懲悪」のフォーマットには乗っています。
一方、この1967〜8年という時代状況も、「20世紀」云々という出版物やコラムにおいては「高度経済成長期」の仕上げとして生活がどんどん良くなった、希望にあふれた時代だと括られるコトが多いです。しかしながら公害問題も徐々にクローズアップされ、大日本帝国のファシズムを打倒して平和をもたらしたはずのアメリカも、ベトナムの泥沼にはまっているのを誰もが目にしています。上記ブログで触れられている先住民族が、自覚的に日本国と対峙を始めた時期でもあります。
浮かれた平和を享受しているだけではいけない、という空気は十分にあったはずです。日本国単一民族というフィクションに懐疑的な視点も既に存在していたのです。『ウルトラセブン』が特異的だったのではなく、子供向け番組であった『ウルトラセブン』にすら、こういう話が現われたと言えるのではないでしょうか。
改めて当時のアニメや特撮にとどまらず、報道やメディア状況を調べる必要はありますが、差し当って傍証になりそうなのが、ほぼ同時期となる1968年の夏休みに公開された東映のアニメ映画『太陽の王子ホルスの大冒険』(監督・高畑勲)です。
東映のアニメ映画は題材を非常に広い範囲から取材しており、長編第一作『白蛇伝』(1958)は中国説話かと思えば、森鴎外の小説から『安寿と厨子王丸』(1961)、古事記が題材の『わんぱく王子の大蛇退治』(1963)などがあります。
そんな中で、この『ホルス』の原案はアイヌ説話でした。完成した作品には断片的にしかそれが残っていませんが、ともかくも上記ブログが言うほど先住民族(当時は日本の中の少数部族として見ていたのでしょうが)に対して、誰も注目していなかったワケでもないとは言えるでしょう。東映は当時から大メジャーであり、題材選び一つ取っても観客からあまりに乖離したテーマを持ってくると思えないからです。
主人公たちは突如現れた悪魔に踏みにじられ、恐怖政治の下でおびえている…という構図はやはりアイヌの歴史と重ね合わせて考えると、「侵略者=日本人」という視点を導き出すコトは可能でしょう。アイヌ出身でなかった高畑勲はその説話の原作者たちに感情を移入せずに、組合活動のフィードバックからか労働者賛歌を組み入れたために、「侵略者=資本家」となってしまっているようにも読めますが。
コレは一種の思考ゲームに過ぎません。ただ、『ウルトラセブン』だけが特異的な視点を持ち少数民族からの視点を含んでいるとは思えないのです。まして「勧善懲悪」の作劇自体は否定などしていないのです。
引き続きつらつらと、この「勧善懲悪」は切って捨てるようなモノなのかどうかを考えていきます。(つづく)
■[メモ][クリッピング]その他、「勧善懲悪」用法について疑問に思う記事クリップ本日版。

「ガンダム」+「勧善懲悪」
<アニメ「機動戦士ガンダム」シリーズ総監督の富野由悠季さん…人類の革新 ニュータイプが地球を滅亡から救う>
(スポーツ報知 08/03/03)
◆勧善懲悪の既成概念をぶっ壊した
日大芸術学部では映画学科に在籍した富野さん。子どものころ読んだ手塚治虫の漫画に描かれた未来の世界に衝撃を受け、映画製作を志望していたが果たせず、アニメ演出家に転じた。「僕は劣等生。作家性がない。仮面ライダーやウルトラマン(のようなキャラクター)も作れなかった」と話すが、ドラマ性にこだわり既成概念を覆す試みを必ず盛り込む革新的な作風は、映画志向から来ているものだろう。
富野さんが「ガンダム」で訴えた「善悪とは、立場や視点によって変わる」という勧善懲悪ドラマへの挑戦は、それ以前から続いていた。実質的な初監督作品「海のトリトン」(1972年)は、ラストで主人公のトリトンこそが侵略者の立場だったという衝撃の事実が判明。「無敵超人ザンボット3」(77年)では、主人公が敵と戦い、地球を守っても、逆に侵略者を呼びこんだと非難され孤立。肉親や友人が次々と戦死するなど、アニメらしからぬ重いストーリーが話題を呼んだ。
<製作者の背伸び。ゆえに失笑アニメ By 茄子@ドーマンセーマン>
(amazon.co.jp「機動戦士ガンダム00 (1) DVD」 カスタマーレビュー 08/09/22)
ユニオン、人革連、AEUという組織を態々設定しているにもかかわらず、その3者の関係が極めて浅いものになっている。それに行動としての差別化、個性化がない。それゆえにドラマとしてきわめて単調である。(中略)なんとなく3国が手を結びました、というものだけである。これは、敵怪獣3体が急に合体して強くなるという、昔からの勧善懲悪ものにありがちな描写と何ら変わりはない。
戦争ドラマ、群像劇ドラマを描く能力は、彼らにはなかった。あるいは足りなかったんだろう。だからこその背伸びなんだろうが、見る目のある側からすれば、失笑もの苦笑ものにしかならない。中二病という言葉を知っているだろうか?中二のときにやりそうな今思えば恥ずかしいことだ。それに近い。無理に自分の力量以上のもの、題材を選んだために、自分のいい部分を完全に殺してしまった。そして、あとあとで見れば(彼らがもっと戦争や歴史についての認識を高められれば)、なんと恥ずかしいことをしたものだろうと思うだろう。
「仮面ライダー」+「勧善懲悪」
1 名前: 名無しより愛をこめて 投稿日:2008/01/17(木) 17:28:48 ID:uZLgHg7K0
平成ライダーはストーリーが売りになっていたが電王はただの勧善懲悪で観る気がしなかった。
キバはストーリー性を重視した以前のような形に戻るのだろうか?
「中二病」+「勧善懲悪」
(個人サイト「ユ メ ミ ナ ト・妖鬼海産都市」07/11/03)
仙水の「世の中に善と悪があると信じていたんだ。戦争も良い国と悪い国が戦っていると思ってた。可愛いだろ?だが、違ってた。オレが護ろうとしたものさえクズだった―――― 」は名台詞。この辺りの影響を受けたかはわからんが、俺の書く話で勧善懲悪ものはほとんどないな。
(善良な市民の2006年総括-(3)本田透と「涼宮ハルヒ」〜「萌え」の袋小路)
「ナデシコ」の場合は「自分たちは70年代のアニメのような勧善懲悪の世界には共感しないからOK」というメッセージが、
こうして探していくと、無数の人に憎まれているようです、「勧善懲悪」。なぜそこまで憎まれ、貶められ、否定されるのか。日本における物語類型としては江戸時代にその源流があるようですが、近代の流れの中で大衆に訴える効果的な作話法であり、現代においてもこうしてネットで掃いて捨てるほど批判されるくらい定番パターンなのに。


