東京B級百景〜その5〜 杉田玄白のお墓(榮閑院)@神谷町

◎歴史の課題で杉田玄白と出会う

歴史というものにあまり興味が持てなかった小学6年生のとき。
担任の溝田先生が課題として出したのは歴史上の人物を1人でいいから調べあげて、みんなの前で発表せよ、というものだった。

塾へ週3回(その他に習字教室と3つのサッカーチーム)通っていた僕は、三島市立向山小の神童とまでは言わないまでも、指折りの“できる”少年だった。
アホな“できる”少年がよくそうであるように、僕も多分に漏れず、プライドだけが異様に高く、視野が狭い少年だった。アホな“できる”小学生は自分だけが世界の中心なのだ(おい! お前はいまもそれに近い状態だろという声が聞こえてくるが、そこは一旦横に置いておく)。

さて、そんな状況下で、苦手な歴史の課題が出た。
僕としては、なんとしても「歴史が苦手」ということをごまかしたかった。
王道の織田信長徳川家康ではありきたりのものに終わり、「あいつ意外と普通だな」と思われるのがオチだ。
暗記だけすればいい歴史のテストはよく出来た。なぜなら史実を縦割りにして覚えればいいだけだからだ。ただテストの出来にはあまり関係のない横軸が苦手だった。歴史上の人物や出来事は、時代を縦軸だけではなく横軸でも捉えないと、単に史実を述べるだけに終えてしまう…そう考えると、マイナーな人物を取り上げても、ボロが出るのは目に見えていた。「直江兼続がどう豊臣秀吉と繋がっているのか」という横の話がまったく出来ないのだから。

そこで思いついたのは、お笑い路線だった(たいして面白くもないが、本人は至って真面目にそう考えた)。
歴史の資料集をパラパラとめくると、その風貌でやたらと目立つお爺さんがいた。
そう、それが杉田玄白である。

これだ、と思った。杉田玄白ならあまり深い歴史の知識を求められないだろう。
もし、「なぜ彼を取り上げたのか」と問われれば、こう答えれば良い。「顔が面白いから」と。
「そうか、あいつは勉強も出来るが、そういうユーモアも持っているのだな」と、先生やクラスメイトの心の内が聞こえてくるようだった。

◎お酒を美味しく飲めない理由

そのようにして、杉田玄白を課題で取り上げてからおよそ15年が経った。
自分のプライドの保持のために「利用」してしまった彼に対して、いつも心のどこかで謝りたい気持ちがあった。
大人になり、たとえばお酒の席などで、心の底から楽しめない自分がいる。きっと杉田玄白に対して、後ろめたい気持ちがあるからなのだ。
このままではダメだと思った。たとえば結婚しても、彼に対する後ろめたい気持ちを奥さんに邪推され、「あなた浮気しているんじゃないの?」と喧嘩し、離婚問題にまで発展しかねない。ここら辺で、この後ろめたい気持ちとおさらばしなくてはならない! 

いてもたってもいられず、僕は東京メトロ日比谷線に飛び乗った。


神谷町3番出口

◎話はとことん脱線しつつ、榮閑院にたどり着く

日比谷線神谷町駅の3番出口を出て、国道一号線を上り方面に進む。
すぐに右へと続く路地があったので、右折する。


桜田門通りから路地を望む

「町歩きは、路地こそが面白い」とは幾たる旅人が語ってきたことである。世の常は時代とともに変わる、なんてことはなく、いつの時代もどんな町も路地裏が面白い。


大通りなんか歩くなという警告

アムステルダムでは、路地裏を歩いていたら黒人さんとお話をすること(お金をくれとか、俺はナイフを持っているとかそういう類いのお話だった)が出来たし、シンガポールの路地裏では、俺のを吸ってくれと言う知らない男性の局部を見ることが出来た。
普段では絶対に体験できないような出来事は路地裏にあるのだ!


アムステルダムの路地裏に置きっぱなしの自転車

神谷町のその路地裏には、竹薮やボロい一軒家があった。
港区にそびえ立つビルや高層マンションとのコントラストが素敵である。


厳密にいうと竹薮ではない


高層マンションと味のある一軒家

それらは上海の格差社会を僕に思い出させる。
カズオ・イシグロ著『わたしたちが孤児だったころ早川書房)』や村上もとか著の漫画『龍ーRonー』で1930年頃の上海租界の様子が描かれている。そこでは上海という街のコントラストに焦点が当てられていた。上海租界の明と租界外の暗(租界内においての陽と陰というコントラストもあったが)である。今でも上海という街に行くと、この明と暗が目につく。歴史の息吹のようなものを感じる要素が多く残っているこの街の特徴だろう。ひじょうに感慨深いものがある。


上海のコントラスト

話がそれてしまった。上海と杉田玄白にはなんの縁もゆかりもない。

路地裏をずいずいと進み突き当たりへ。右を向くと正面に現れる愛宕トンネルを無視して、目の前の信号を左折。榮立院や光岳院、興昭院といった浄土宗のお寺を横目に100メートルほど進むと、右手に見えるのが浄土宗榮閑院である。ちなみにこの辺りは、浄土宗と曹洞宗の寺院が乱立している。あまりに寺院が多いため、神谷町と名付けられたのかと思いきや、それは早合点のようだ。港区のポータルサイトによると、神谷町は、三河の国八名郡にある村の名前をとってつけられたものである。

みなさんご存知のように、徳川家康三河にいた。その身近に勤めていた家康の仲間たちは、彼に従って江戸入りし、神谷町つまり今で言う虎ノ門周辺の土地を分け与えられた。彼らの郷里の村の名から、1696年に神谷町と名付けられた(昭和52年に神谷町から虎ノ門へと名が変わり、平成24年の現在では神谷町という町名は地下鉄の駅としてしか残っていない)。


この愛宕トンネル、けっこういいですね

◎必死さが伝わる昨今のお寺事情

さて、榮閑院である。
ここは杉田玄白の墓があるお寺として、有名な浄土宗のお寺である。別名を猿寺という。

が、杉田玄白の顔が猿に酷似しているからその名がついたわけではない。
ひょんなことから預かることになった猿が境内で芸を見せ人気者になったことがその名の由来だと言われている。今ではその人気者の猿はいないので、なんとか人気を上げようと努力している姿がそこここに見受けられた。


人気取りのための看板3連発! それにしても「デス」って!

お寺の努力の結晶である看板に誘われるまま進むと、陽のあたらない場所に杉田玄白のお墓があった。


敷地が狭くて、うまく写真が撮れなかった…

◎参考文献は、『解体新書』(酒井シヅ著・講談社学術文庫)と『話し言葉で読める「蘭学事始」』(長尾剛著・PHP文庫)

杉田玄白と言えば、とにかく有名なのが『解体新書』である。
本著は、医学的にはもちろんのこと、日本における西洋文化の拡がりにも多大な影響を与えた。結構偉大な本である。
よく誤解があるのだが、『解体新書』の原書である『ターヘル・アナトミア』はドイツ語の医学書である。杉田玄白前野良沢が手にした、『ターヘル・アナトミア』は、そのオランダ語訳なのだ。つまり、翻訳本の翻訳本である。これは余談だ。

杉田玄白が晩年に執筆した『蘭学事始』には、実際の翻訳の作業においては前野良沢の活躍によるところが大きい旨が書かれている。杉田玄白前野良沢という優れた翻訳家(本業は医者)がいたからこそ『解体新書』が完成したことを認めている。杉田玄白は、翻訳文をまとめ、整理した「編集人」にすぎない。
それでも、『解体新書』をとにかく世に送り出すことに重きを置いていた彼は、自著として出版する。そこから推察できるのは、前野良沢がその学者肌によって『解体新書』の出版にあまり乗り気でなかったということだ。出版後、多数の誤訳が見つかったのだが、それは彼らの知るところであった。つまり、完璧でなくても出版したい杉田玄白と完璧でないまま出版することに乗る気でなかった前野良沢との間には隔たりがあったと考えられる。

この二人の間でどんなやりとりがあったかはわからないが、玄白自身にも「葛藤」がなかったわけではないだろう。僕が杉田玄白に感じていたように、杉田玄白も、同じように前野良沢に対して後ろめたい気持ちを持っていたに違いない。だからこそ、翻訳時の様子を克明に描いた『蘭学事始』を執筆したのだと思う。なんだか、杉田玄白に同情の気持ちが芽生えてきた。

さて、肝心のお墓である。
お墓は、榮閑院の脇道を入ったところにあった。風通しがお世辞にも良いと言えず、陽も当たらないところで寂しそうに建っていた。何だか、彼の後ろめたい気持ちを背負って生きた人生を物語っているようだった。少し、彼のことが気の毒に思えてくる。手を合わせ、深々と礼をして、小学生時代の無礼を詫びた。
と同時に、彼の人生と自分のそれを重ね合わせ、考え込んでしまった…。


嗚呼…けっこうすごい人なのに、雑巾をかけられているなんて…

杉田玄白は同業者だった!

『解体新書』が世に出されるまで、日本の医学というものは東洋医学、つまり漢方を拠り所としていた。そこにはひじょうにたくさんの間違いがあったと、『蘭学事始』に書かれている。
漢方では、胃や腸の位置がデタラメであったし、すい臓など器官として重要なものの多くが見つかってすらいなかった。杉田玄白は、自分が医者としてそんなことも知らずに人を診察していたのかと思うと、愕然としたようだ。そして、この『解体新書』を世に広めることを自分の「定め」だとして、彼の書の出版に奔走する。
先に、杉田玄白が編集作業をしたと書いたが、それに加えて、今で言うマーケティングのようなこともしていたのだ。『解体約図』と呼ばれる宣伝用のパンフレットを販売したのである。

杉田玄白のその編集者魂のようなものに触れ、自分を振り返る。出版業界の末席を汚している僕は、ますます後ろめたい気持ちになった。何がどこでどう繋がるのか、人生はわからないものである。言ってみれば彼と同業なのだが、僕は彼ほどの覚悟を持っているのだろうか、とさらに考え込む。

まさか、後ろめたい気持ちを追い払うために神谷町に行ったのに、ますます後ろめたい気持ちになるとは…。

◎後ろめたい気持ちは、あっさりと去っていった

帰りがけ、神谷町にあるインド料理屋でランチを食べた。
そこには欲望をちっとも隠そうとしないインド人が働いていた。
彼は女性客が帰ろうとする度に、外まで追いかけていき話し掛ける。
迷惑そうな女性客の顔に気づいているのかいないのか、女性が歩き出しているのにも拘らず引っ付いてはなれない。並んで歩き出してどこかへ行ってしまい、数分も帰ってこなかった。
男性の僕に対しては、ドライに振る舞った。うーん、さすがインド人である。



最終的には、なんだかそのインド人に救われた気になって、神谷町の駅ホームへの階段を駆け下りた。



◎後日談(嘘です、榮閑院取材日と同日に行きました)

杉田玄白の墓を見て、いたたまれなくなった。
特に雑巾が掛けられたその姿はけっこうグッときてしまった。このままでは気持ちが晴れない! ということで、築地に行くことにした。


晴れない気分に反して、なんと清々しい良い天気なことか!!

『解体新書』を翻訳した場所である前野良沢の家があったとされる聖ルカ通りの周辺に、「蘭学発祥の地」という記念碑が建てられているという噂を聞きつけたからである。
記念碑! きっと立派なものに違いない!(いや、頼むからせめてそこくらいは立派なものであってくれ!)


新大橋通りを聖路加病院方面へ進む

日刊スポーツ新聞社を過ぎて、東へ200メートルほど行くとそれは見つかった。


道路の向こうにそれらしきものを発見

遠目に見ると、予想した通り立派である。よかった。


徐々に近づいていく

慶応義塾発祥の地」よりも優先順位が低いのは大目に見るとして、ほっと一安心。
もっと近づいて、詳細を見ようとすると、何だか様子がおかしいことに気づく。
あれ? これ文字読めなくない?


なんとか角度をつけて読みやすく! と思っても、なかなか文字が写らない…

そう、石盤に彫られた文字(杉田玄白前野良沢らの功績を讃えた文章)がかなり読みづらいシロモノなのである。ここまでくるともう、運命(さだめ)ということを考えざるを得ない。杉田玄白は、そういう運命の人間なのだ、と。嗚呼。

そこへいくと、やはり僕も…いや、それについては…これ以上考えないようにしよう!

急ぎ足で築地駅に戻ると、昼間から酒に酔っぱらったおじさんが植木の中で座っていた。

その姿を見て、気を引き締めて生きようと思った。


この築地駅の文字が何かの象徴に思えてならない…

東京B級百景〜その4〜 江戸前寿司「三ッ木」へ@門前仲町

◎どうしても行きたかったバスフィッシング

中学校の修学旅行は京都であった。
当時の僕は京都などめっきり興味がなく、いかに修学旅行を楽しむかで悩んでいた。先生は、いくつかのプランを提示してくる。他県の奈良や女子が色めき立つ嵐山などもあったが、僕にとっては奈良も京都と代わり映えせず、嵐山のジャニーズショップにも興味はない。寺なのか神社なのかの区別すらもつかないガキだった。アイドルに興味を持つ女子ではなく、そんな女子に恋心を抱くマセたガキでもなかった。
しばらく地図帳との睨み合いが続く。社会の時間となれば、堂々と45分間も地図帳を眺めた。
そこで一筋の光明を見いだす。滋賀県・琵琶湖である。

そうか、琵琶湖で釣りをすればいいのか…。僕は世紀の大発見をしたかのように嬉しくなった。
が、先生がたのお赦しを得られる保証はない。滋賀県へ釣りに行くプランなど一蹴されることも考えられる、いや、むしろその可能性の方が高いだろう。
さらには、距離という問題もあった。隣県とはいえ、かなり遠かったのだ。形式だけでも、京都の寺院を見てから、琵琶湖に向かうのでは、時間的に厳しいものがある。つまり、琵琶湖だけのプランを考える必要があったのだ。

そこで釣り好きの友人と捏ち上げたのは、「環境問題」だった。
琵琶湖、湖南の東岸に位置する、琵琶湖博物館において琵琶湖の環境問題を調べにいくというプランを練り上げたのである。当時の琵琶湖では、富栄養化の影響でアオコが発生するという問題が起きていた。中学校内では比較的優等生として通っていた僕のそのプランは、見事に認められることになった。

だが、竿の問題があった。ブラックバスを狙ったルアーフィッシングを目的としていたのだが、竿は1メートル80センチ程度ある。2つに分けられる竿でも1メートル近くあった。これでは、先生方に、本来の目的がバレてしまう…。また、コンパクトに収納できる「振り出し竿」と呼ばれる竿もあったのだが、変なこだわりを持った僕はそんな外道なものには手を出したくないと意地を張った。(ルアーフィッシング用の振り出し竿にはロクなものがないと思っていた)

路頭に迷うある日、中古竿を扱う隣町の釣り具屋に遠征に出た。そこで、運命的な出会いがあった。4つに分けられる継ぎ竿が売られていたのだ。これならば50センチにも満たないので、鞄に隠すことができた。こうして、まんまと琵琶湖でバスフィッシングをすることに成功したのである。


琵琶湖の湖畔にて。朝日に照らされる蓬莱山。

◎身分不相応のお店は緊張する

そのおじさんは、いきなり話に入ってきた。びっくりした僕は顔が引き攣っていたに違いない。声もうわずっていただろう。多少の嫌悪の空気も出してしまっていたかもしれない。
それでも構わず、お座席から僕らの座るカウンターへやってきた…。

江戸和竿・松本東作のお店を浅草稲荷町に訪ねておよそひと月。
江戸和竿が飾られているという門前仲町にある三ツ木という江戸前寿司の店を訪れた。作家・山本一力が、小説『銀シャリ』の題材とした主人がいる寿司屋でもある。


門前仲町駅から徒歩2分、江戸前寿司「三ッ木」

門構えからして敷居が高く、ましてや文豪の行きつけとあっては、恐るるに十分だった。こんな若造が入っていいものかと、おそるおそる店内へと足を踏み入れる。若い衆がカウンターの中で忙しなく働いているが、客はお座席に1人だけ。音楽やラジオなどはかかっておらず、店内には包丁の立てる音だけが鳴り響く。
その雰囲気に一瞬たじろぐも、なんとかカウンターまで進み腰をかける。若い衆が何かを言っているが、頭に入ってこない。おしぼりを渡され、飲み物を「何か飲みますか」と尋ねられる。お茶をいただき、一息つくとようやく落ち着いてくる。
店内を見渡すと、お客のように見えるおじさんは、なぜか寿司ではなく、幕の内弁当を頬張っていた。さすが江戸は違う、と、ごちりそうになる。
さらにカウンター奥の壁にまで目をやると、そこには和竿が飾られていた。よかった、ここで間違いない…。
「これ、江戸和竿ですよね? 知り合いの編集者の人に、このお店に江戸和竿が飾られているから行ってごらんと勧められて、来ました」
そう言うと、若い衆は、
「そうなんですか、たまにそういう方もいらっしゃいますね。で、何にしますか?」
と、少し素っ気なく答えた。あまりベラベラと話すと親方にでも怒られるのだろうか。
季節おまかせにぎり(3500円)を注文し、しばし待つ。


店内に飾られた江戸和竿

◎美味しい! はずなのに、味が頭に回ってこない

「実は先日、松本東作さんのお店に行ってきたんですが、東作さんには会えませんでした。今考えれば、当たり前すよね。東作さんが店頭に立っている訳ありませんでした…」
そう言うと、さきほどまで、お弁当を頬張っていたおじさんが急に話に入ってきた。
「まぁな、6代目はもうかなり年がいっているし、最近ではほとんど人前に顔も出さないらしいからなぁ…」と語りながら、向かいのカウンター席に座る。
僕が「釣り文化資料館」に行った話をすると、おじさんは竿師「泰地屋東作」の経緯を事細かく語り始める。さも近所の知り合いの話をするかのようだった。
いったいこの人は誰なんだ…。その疑念が頭を駆け巡り、なかなか話を噛み砕くことができない。
一品目の、大トロが出てくる。
これがまた美味い! のだけれど、その美味さの余韻に浸ることができない。おじさんの話が次々と浴びせられるからである。

「で、誰の紹介で来たんだ?」
4貫ほど食したあと、聞かれる。
そこでようやく気づいた。まさか、この人が…。
「えっと、○○さんという、良くしてもらっている方がいてその人に」
「あぁ、○○君ね、そうか彼の紹介できたのか」
やっぱりそうだ、ようやく合点がいった。彼がこの店の親方であり、『銀シャリ』のモデルであり、江戸和竿の持ち主であるのだ。心の中で謝った、「すみません、そこらへんの迷惑な酔っぱらいかと思っていました」と。と同時に、若い衆を少しうらむ。だったら、若い衆も言ってくれればいいのに、そんなそぶりを少しも見せなかったじゃないか!(若い衆から親方へむやみに話し掛けてはいけないのかもしれない)

なぜ「継ぎ竿」というものが必要だったかを熱弁してくれた。
江戸和竿の名門である「泰地屋東作」は1788年の創業である。当時、釣り竿というと、延べ竿(一本の竹)だった。それを持ち運びに便利なようコンパクトに収納できるようにした「継ぎ竿」を売り出したのが、「泰地屋東作」だった。当時、なぜそんな「継ぎ竿」が成功したのか、おじさん、いや、三ッ木の主人である三ッ木新吉さんは教えてくれた。
「当時の釣り好きは、仕事に行くフリをして釣りに興じた。けれど、それは女房が許さない。そこで、袖の下に竿を隠す必要があったんだよ。それが継ぎ竿が流行った理由だよ」
それを聞いたとき、僕は中学の修学旅行を思い出した! そう、冒頭に書いた修学旅行の顛末である。当時の僕と江戸の釣り好きたちは同じことを考えていたのである。
嬉しくなって、僕も熱弁する。当時の修学旅行のこと、マレーシアくんだりまで怪魚を釣りに行ったこと、よく天城の山中へアマゴ釣りに行くことなど。


河津で釣ったヤマメ(アマゴでなく)。*ピントが合っていない…
◎あっさりと和竿製作現場へを足を踏み入れる

矢継ぎ早に話しながら、美味い寿司(その味はあまり詳しく覚えていない…もういちど行かなくては)を食べ終えると、おじさんは江戸和竿を作る作業場へと案内してくれた。そう、彼自身も江戸和竿職人であるのだ。江戸和竿4代目竿治に師事し、「新治」として活躍している。(「竿治」も暖簾分けした東作一門である)


並べられた材料の布袋竹や真竹、矢竹など

中国語の張り紙が貼られ、いかにも怪しそうな古いマンションを行くと、その一室が作業場となっていた。
中へ進むと、所狭しと竹が並べられている。漆や和竿作りに欠かせない、さまざまな道具も並べられている。
どういう和竿が良いものか、どういうものが悪いものかなど、実際の竿をもって教えてくださった。芸術品などと最近では言われるようだが、やっぱり道具は使ってなんぼの世界であるし、いくら良品でも、使い手との相性が良くなければ、それは一級品ではないと言う。
なるほど、確かにいくら一級品だと言われているものでも、使う人によっては、それがてんで使い物にならないときもある。
どんな世界でも同じことが言えるだろう。とても大切なことだ。
だからこそ、手作りというものの良さがあるのだとも思える。手作りという個性がなければ、相性は産まれない。たとえ機械製品である一級品とまるっきり同じものを作れたとしても、それはある1人にとっては一級品かもしれないが、その他大勢にとっては単なる機械製品以上にはなりづらいのである。
「誰にとっても使いやすい」は「誰にとっても2級品」と陥りやすいということかもしれない。


床にタナゴ竿を並べて、「良い竿とは」を解説してくれた

三ツ木新吉さんはいつでも修行に来て良い、いつでも教えてやると言ってくれた。ぜひともお願いしたいところなのだが、僕にはけっこう強めのアレルギー持ちであるから、漆に耐えられるか不安である。さらには時間もあまり割けないので、いまのところ保留にしてある。

「我こそ学びたい!」というかたが本ブログ読者でいれば、ぜひ教えてくださいね。すぐにでも紹介します。そんな感じで、B級百景「江戸和竿シリーズ」(いつのまにそんなシリーズに!?)は、いったん完結。次回は、あの有名人のお墓に行きます!

東京B級百景〜その3〜浅草稲荷町・和竿の店「東作本店」@稲荷町

◎使われて初めて「道具」に意味が生まれる

「おまえさんみたいに、写真に撮ったってしょうがないんだよ」
店内を写真で撮っていると、店主に怒られてしまった…。


銀座線稲荷町駅を出て、清洲橋通りを南に向かう。

最近では芸術品だとか伝統工芸品だとか言われるようになった和竿であるが、やはりその本質は「道具」である。資料館に大切に飾られただけでは、道具としての役割を全うしているとは言いがたい。当たり前だ。
『江戸和竿職人歴史と技を語る』(平凡社)のなかで、泰地屋東作の6代目にあたる松本三郎氏は「3代目までの東作の和竿はほとんど残っていない」という。もちろん関東大震災東京大空襲があったためだとも言えるが、それに加え「道具」としての和竿を、作る側も使う側も心得ていた点にあるのだという。
さらに氏は、和竿とカーボンロッドなどの機械製品との違いを同書のなかで次のように語っている。
「これは化学製品ではまずあり得ないことなんだけれど、和竿は釣り人と一緒に歳をとってくれるんです。竹と漆の色艶は五年、十年と使えば使うほどよくなっていく。深みのあるいい色に育っていきます」
つまり、和竿は使うほどにその良さを増すと言うのである。「もったいない」などと言って、蔵にとっておく人間など少ないことは容易に見当がつくのである。


町の風景にとけ込む江戸和竿の老舗。


近づくと、こんな感じ。一見すると、釣具屋に見えない!?

◎いなり町、東作本店

銀座線・稲荷町駅を出て、清洲橋通りを南に向かう。ものの数十秒で東作本店は見えてくる。
店には所狭しと和竿が陳列され、入りきらない安価な商品などは軒先に並べられている。

西暦1788年(天明8年)初代泰地屋東作・松本三郎兵衛が日本初の釣具店を下谷広徳寺門前(現在、東京都台東区東上野3丁目)に開店してから223年(2011年現在)、いなり町東作本店は和竿の美と伝統と共に、日本の釣り具の歴史を歩んできた。6代目をはじめ職人たちが精魂を傾けて制作した本物の和竿が売られている。初心者の方には、和竿の扱いなど懇切丁寧にご説明してくれるらしい。(東作本店のホームページを参照)

覗くと店には、客は1人もいなかった。
おそるおそる、狭い店内へと足を踏み入れる。

店の奥にある小部屋では40〜50代の男性と女性の2人が発注作業や伝票の整理やひっきりなしにかかってくる電話注文の対応などをこなしている。
電話の相手はほとんどお得意さんのようで、「京都の〇〇町のとこの●●さん」という固有名詞が飛び交う。
邪魔してはいけないと思いつつ、タイミングを見て主人らしき男性に声をかける。

「和竿に興味があります。ブログ用に写真などを撮りながら見学したいのですが、大丈夫でしょうか?」
「あぁ、勝手にしな」


無造作に置かれた和竿に数万円の値札が…

◎さりげなく置かれた8万円の竿から感じる粋

先に挙げた書のなかで、松本三郎氏がこう言っている。
「それまでの竿屋っていうのは、客を信用しなかったわけではないけど、製品大事(原文ママ)でみんな奥にしまい込んで、お客が見たいと言わなければあまり手に持たしてくれなかった。
それを手の届くところに置いて、ものによっては紐で天井からぶら下げて、どうぞ誰でも自由に触ってくださいって変えちゃったんです」

そのような企業精神というか、家業精神があるのだろう、お客に干渉しようという素振りがない。
「勝手に見たいものがあれば手に取りな。なんかあれば言ってください」
とだけ付け加え、2人とも自分の作業に没頭している。

その言葉に甘え、店内の商品をじっくりと見学し写真を撮る。
お、これは見事だなと思うものは、だいたいが3万円以上する。数十本継ぎの「タナゴ竿」などには、先日見た「釣り文化資料館」にあるような製品と代わり映えしないように思える商品もある。さりげなく、陳列されている竿が、値札を見ると7万も8万もする。コンビニだと数千円する、iTunesカードやUSBメモリなどは、万引き防止のために、レジの裏に置かれる。それを鑑みると、ものすごいことだ。


いろいろな和竿が所狭しと並ぶ。個人的には、やはりタナゴ竿が気になる。

◎一度踏み入れたら戻れない世界

その中でも、気になったのはルアー用の投げ竿だ。自分のアマゴのルアー釣りに使えるのか、天城山中の渓流に思いを馳せながらじっくりと手に取った。

「いいですね、この竿。残念ながら給料が少ない身分なもので、なかなか思い切って購入できないのですが、経済的な余裕ができたらこれ買いたいです」
思い切って、店の男性に声をかける。すると、彼は少しだけ身を乗り出し話す。

「おまえさんみたいに、写真に撮ったってしょうがないんだよ」
怒られてしまった、と思ったがそうでもないようだ。
「やっぱり道具は使わないと。見るもんじゃないね。その投げ竿は、おまえさんいたいな若いやつが作っているやつだよ。神奈川の田舎の方で、作業しているんだが、なかなかに筋がいいね。もちろんそれだけでは食っていけないから、アルバイトとか他に仕事しているがな」
「そうなんですか、お恥ずかしながら、僕は最近和竿に興味を持ち始めたばかりで…。あの、6代目はこの建物の上階にいらっしゃる…わけないですよね?」
「もちろん。僕は6代目の甥っ子にあたるんだけど、6代目は最近ではめったに人前に出たがらないよ」
「やはりそうですよね、その若い職人さんっていうのは、神奈川のどの辺りなんですか? よろしければぜひお話してみたいです」
僕は直球で聞いてみた。
「元来、職人ってのは、人前に出たがらないから、難しいんじゃないかなぁ」
やんわりと断られる。

「でも、やっぱりいいもんだよ和竿は。おまえさんも一度買って使ってみたら最後だよ、もうカーボンロッドには戻れなくなるよ」
そう言うと、また店の奥に戻っていった。


ルアー用の投げ竿

◎忘れていた教訓

しばらく店内を見学させてもらったあと、お礼を言って店を出た。

稲荷町の駅に向かう道すがら、何度も店主の言葉が頭の中を駆け巡る。

「写真に撮ったって仕方ない…」
それは、わかっているつもりだった。

僕はバックパッカーをして30ヵ国以上を渡り歩いてきたが、そのときの経験則として、写真や映像で見るのと実物を見るのは、まるきり違うと感じた。
そのことをこれからの生活や仕事の教訓としようと肝に銘じている。が、しばらく日本で忙しない日々を送るうちに、どの教訓をどこかへ置き忘れていたようだ。


そんな風にして、店を後にした

写真を撮る事自体を責められたというわけではない気がする。
先の店主は、僕のそんな心のうちを、知らぬ間に見透かして、そのセリフを吐いたのではないか…。

銀座線・稲荷町駅の渋谷行きのホームに降り立つと、ちょうど扉が閉まるところだった。
僕は慌てて列車に駆け込む。銀座線はその歴史を噛み締めるようにけたたましい音を立て、前時代的に激しく揺れながら、僕を乗せて渋谷へと向かった。

東京B級百景〜その2〜「かちどき 橋の資料館」@勝どき

「目はぎょろっとしていて、身長はそうね、だいたい150センチくらいだったかしら、私と同じくらいだから。中肉中背で、自転車で移動してるみたいだったわ。次こそは絶対捕まえてやるんだから。もう、悔しくて仕方ない」


「かちどき 橋の資料館」という名前ながら、
駅は築地のほうが利便性が高い(主観)。

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

その日は館長が体調不良のため不在。
代わりに、勝鬨橋の説明をして下さったのは、管理のおばさんだった。


かちどきではなく、「かちとき」なのか!?

「……で、ここに橋が必要になったわけ。と言っても、ここに荷物の集積場があったから、橋は大型船が入れる開閉式でないとダメだったの」

おばさんの近所のうわさ話をするような語り口、それに、既に見た館内の資料やビデオ以上の説明がなかったことが少し気になったが、僕は素直に聞いていた。
が、なかなかに長舌で、時間がかかる。
次第に次の約束の時間が迫ってきた。

でも、「そろそろ、行きます」のひとことが言えなかった。

顔はさすがに彼女のほうを見ているものの、僕の体は半身状態。
おそらくおばさんも感づいているはずだ、この子は帰りたがっている、と。
それでも、盲目的に彼女はあくまでしゃべり続けた。

(何とかしなければ、本格的に帰れないゾ)

そこで僕は壁に貼られている展示資料に質問をする方法をとることにした。
すなわち、徐々に入り口に近いそれへと歩んで行くのだ。


入り口に近いほうの資料に関して質問していきます。

ものの10分ほどで入り口まで行くことができた。作戦が功を奏したかに見えたが、次のひと言で、「ふりだしに戻る」をひいてしまう。

「あ、それでは、この資料頂いていきますね、ブログ記事の参考にさせて頂きます、ありがとうございました」
僕は入り口にあったパンフレットを手に取り、引導を渡したつもりだった。が、これが失敗だった。

「あら、色々と資料が欲しいのね。そういえば、ポストカードがあるからこっちへおいでなさいよ」
再び、資料館の奥へ連れ戻されてしまい、
「そうそう、このポストカードなんだけど、持っていっちゃうおじさんがいるのよ。だからすぐに在庫切れになっちゃうのよ…」またしてもとうとうと語り出す。
曖昧に頷いていると、今度は、勝鬨橋に関係のない話に突入した。ん? いや、関係あるのか?
「そのおじさんはね、目はぎょろっとしていて、身長はそうね、だいたい150センチくらいだったかしら、私と同じくらいだから…。中肉中背で、自転車で移動してるみたいだったわ。次こそは絶対捕まえてやるんだから。もう、悔しくて仕方ない。というか、この資料館が無料なのをいいことに、けっこう変なおじさんが来るのよね。それも酔っぱらいが多いの。お酒臭くて嫌になっちゃうわ。ほら、隅田川沿いのあたりってけっこう昼間っから飲んだっくれてるひと多いじゃない? ああいう人が集ってきちゃうの」
その後も永遠とグチを語り、僕はなかなか帰れなかった。

よし、他の見物人がきたら、それをキッカケに帰ろう、そう決意づるも、なかなか新客が来ない。
始めに一日の利用者の平均を尋ねたとき、「そうね、平日だと、だいたい100人ほどかしら」と得意げに語っていたはずなのになぁ。※そもそもこの質問が、この語りのトリガーとなった。

(もう限界だ、僕の作り笑顔は枯渇状態だよ、おばさん!)

と、そんなとき、一人のおじさんが入ってきた。
おじさんが僕らの前を横切ったとき、ぷうんと臭ってくる。あれ、お酒臭いゾ!

僕はひそひそ声で言う。
「おばさん、お酒臭いっすね、もしかしたら、またやられるかもですよ! 監視したほうがいいですよ!」
「そ、そうね、もう悔しい思いは充分だわ。悪いけど、この続きはまた今度ゆっくり」
やった! と、僕は踵を返そうとすると、再度呼び止められた。

「そうだ、勝鬨橋の内部に入れるツアーもあるから、それにも参加しなさいね、待ってるわ」

「え、あ、はい、ありがとうございました!」
なんとか最後の笑顔を振り絞って、乗り切った。


僕の救世主のおじさん。勝鬨橋で写真を撮っていると、
フラフラしながら歩いて行った。

勝鬨」の名前の由来は、「かちときの渡し」に由来します。
月島の発展にともない、築地との間で人びとの往来が盛んになりました。
当時、人びとは永代橋を渡り、門前仲町を通るという遠回りを強いられていたのですが、渡し船日露戦争の勝利の記念として設けられることになりました。
戦に勝った時にあげる声のことを“かちどき”と呼んでいたため、その渡し舟は「かちときの渡し」と名付けられます。
時代は移り変わり、やがて関東大震災が起き、その際に大混乱が起きてしまいました。
これを機に、渡し船の代わりに橋が架けられることになりました。
そこで、橋に渡し船の名前がつけられることになったのです。

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この勝鬨橋は大型船が通行できるよう跳開式の可動橋です。
跳開式とは、読んで字の如く、ハの字にパカっと開く橋のことです。
その角度およそ70度。その間、橋は通行止めになります。


さあ、100分の一のジオラマが動き出します!


徐々に…


開いて、開いて…70度に!


そして船が通ります!

このあたりの事情はウィキペディアにも書かれていますし、あるいは『こち亀』でも、取り上げられていたので、詳しくはそちらをご覧頂ければと思いますが、以下の点は大変興味深かったので詳述します。

勝鬨橋は定期的に開閉するのではありませんでした。申請方式だったのです。
船は事前に申請して許可を取り、通行するのです。
信号や電車のように、決まった間隔で閉じたり開いたりすることはありません。
すなわち、船の都合で開閉するわけです。
にも拘らず、その通行料は「無料」だったそうです。もともと通ることができた海路に、あとから橋を架けたので、当然の処遇として受け止められていたそうですが、現代に置き換えるとけっこうすごい話ではないでしょうか。


風速23メートルでも約900tの橋桁を持ち上げるモーター。125馬力。

排他的経済水域(自国の沿岸から200海里までの様々な権利を持つというもの)というものがありますが、これは勝鬨橋の理念と相反しています。
つまり、その土地に暮らすものの権利と利用者のそれとを比べ、前者を優先させたのが、この排他的経済水域であり、後者を優先させたのが勝鬨橋
そこから見えるのは、江戸の人びとの「いき」というやつです。
「いき」とは、人情でもって洗練された振る舞いをする美的感覚を指します。まさにこの勝鬨橋は、「いき」なのだと思います。
もちろん、排他的経済水域のような理路整然とした概念も、世界を潤滑に動かすには必要なこととは思います。が、そうした世の中において、何か生きづらさを感じるのは僕だけではないはずです。もっともっと、世の中には「いき」という、生活に“伸びしろ”をもたらすものが必要なのではないでしょうか?

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ポストカードを持って行ってしまうおじさんの話に戻ります。
おばさんは、目を離したスキに何度も被害にあっている、と訴えてきましたが、そこに人情が足りないからなのでは? と思いました。
「おじさーん、また来たの? ポストカードは一人1枚までだけど、無料だからさ、ほら持って行きなよ。もっと欲しかったらまたあした来てちょうだいね」人情でもって先手を取ったら、持って行くものも持って行けなくなるのではないでしょうか?


勝鬨橋だけポストカードがない。日によっては、その他の2つ「永代橋」「清洲橋」もないこともある。

今回長々とこの「いき」について書いてきたのには、理由があります。
実は今回の取材、本当は「おさかな普及センター資料館」でした。資料館に着いたのは12時頃。
素朴なトビラを開き、見学しようとすると、管理人のらしきおじさんに「13時からセミナーがあるから入れません」とだけ言われ、追い出されました。
あるいは、15分くらい見学させてくれてもいいだろうに、それが無理でも、「ごめんねまた来てね」とか少しくらい話を聞いてくれてもだろうに、勝手に入ってくるなと言わんばかりの表情でした。
たまたま隣に「かちどき橋の資料館」があったので、そちらに行ったという経緯。

ですから、なんとなくそういうメッセージを込めて記事を書こうと思ったのでありました。


ほんとうはこっちのほうが興味あったんだけどなぁ、もう行かない! (たぶん)


追記:「かちどき 橋の資料館」にいるおばさんはとてもいい人ですし、自分の仕事の誇りを持っていらっしゃる方でもあります。ただ、僕に時間がなかっただけですので(こんな書き方になってしまいました、すみません…)、みなさんもぜひお気軽に足をお運びくださいネ◎ 入場無料ですから!

東京B級百景〜その1〜「釣り文化資料館」@新宿 曙橋

●手作り釣具の思い出

小学生の頃、庭に植えてある竹で釣り竿をつくった。

庭を牛耳っている祖父母に了解を得て、ちょうど良いサイズのものを選び根本で伐採。強度が出るようにと、物置の屋根で天日干し(その効果はなぞ)をし、枝葉を削ぎ落とす。手を握るグリップ部分には、タオルを巻きガムテープで補強(雨の日のことは考えていない)。仕上げに(これがもっとも神経を使うところ)竿先に道糸を付ける。
この仕上げにかなり苦心した。小学生にしてみれば、難易度が高かったようだ。失敗してはやり直す。
「竹自体に穴をあける」「節の段差を利用する」「ヤスリで切り込みを入れる」など。どれもメリットがあれば必ずデメリットもついてきた。
試行錯誤が続いたが、ついに完璧といえるような方法は見つからないまま、市販品であるカーボンロッドを使うようになった。

中学生になって、周囲がにわかに釣りブームの兆しを見せたので、僕は普通の釣りに飽きた。
そこでバルサ材を用いた手作りルアーの作製に没頭した。
竿づくりが小学生にとって難しかったのと同じように、ルアーづくりは中学生にとってハードルが高かった。
少し釣りから遠ざかった。

進学した高校のすぐ近くに城池と呼ばれる、農業用のため池があった。
ふたたび僕の中で「釣り熱」がわき上がった。
1限が始まるまで(時には、1限をさぼって)釣りに興じた。その時間を勉強に充てられたのならば、東大に進学し、いまごろは官僚にでもなっていただろう。なっていないだろう。

一応、高校は進学校に通っていたので、普通の人(?)が多く、釣りに行く奴なんて僕の他にひとりかふたりくらいだった。そのためか、あるいは高校生はそれなりにお金があることが手伝ってか、もっぱら市販品を使っての釣りになった。

大学生になって僕がハマったのは渓流。沢登りと釣り。そしてヤマメやアマゴの美しさと美味さ。
そこに手作り釣具が入り込むすき間はなかった。

僕にとっての手作り釣具の歴史である。

●さあ、釣り文化資料館へ、いざ行かん! のはずが…

曙橋駅A1出口を出る。

靖国通りを背にし、住宅街へ歩を進める。特に用事がなく、急ぐ必要はなかった。
せっかくなので曙橋周辺がどんな町なのかと、きょろきょろあたりを見渡しながら資料館へ向かうことにした。

すぐに興味深いものに遭遇。「岡本印房」という店である。

そこには「全国印章技術大会第一位の店」とあった。その名称にも興味をそそられるが、もっと注目してほしいのはその文字が店の看板に刷り込まれていることである。
「◯◯金賞受賞しました!」「◯◯誌に紹介されました!」などの勲章や謳い文句は、取ってつけたような看板に貼付けるのが世の常というものであろう。
しかし、この店は全力でもって、この「第一位」を押してくるのである。なんたる自信!
もはや、全国印章技術大会で優勝したからお店を出したかのようだ。
(どんだけだよ…)とツッコミをいれながら、僕は小馬鹿にしないではいられなかった。たいしたことないやつに限って、大層なことを書きたがる。きっとその大会なんて、屁みたいなものに違いない。

屁みたいだと思いながらも、やはり気になる。
さっそく調べてみると、社団法人全日本印章業協会が主催する「全日本印章業組合連合会全国大会」は隔年で行われ、次回開催は来年9月に中国地方で開催予定で、第19回を数える。
驚く事なかれ、あのサッカーW杯も現在19回であるから、それが4年に一度という条件はあるにしろ、歴史の深さはあのW杯と同レベルなのである。調べれば調べるほど奥が深いことがわかってくる。
さらに、オリンピックばりにゴム印の部、木口実印の部、版下の部など細かいカテゴリー分けがあり、きちんとした予選会の地方大会まである厳格な競技大会だった。

「岡本印房」のホームページによると、同店は労働大臣賞を最年少受賞した印章作家、岡山尚山氏のお店らしい。(詳細はこちら
なんと! 国家レベルの話だったのか! なるほど、思い切って看板に刷り込んだだけあって、すごい人のようだ。僕は屁みたいなんて言って後悔した。屁みたいなのは僕のほうだ。屁だけでなく「み」も出た話はこちら

名古屋に「印章歴史館」なるものがあるそうなので、機会があれば訪れてみたい。

●脱線は続くよ、どこまでも

いちど頭の中が脱線してしまうと、なかなか元には戻らない。
そのあと、やけに目についたのが、字のデザイン。どうしてだか曙橋から釣り資料館に向かう道中には面白いそれが多かった(多いと言うか、頭の中がそういうモードになっていたからだろうけど)。

なぜか「山」だけが大きい。書体も少し異なる。なにか意味があるのだろうか。

こちらはこの「野」の字がかっこいいなぁ。
そんな文字を眺めながら、こんな大仏さまや…

こんな素敵な坂を超えると、ありました。

ででーんと。

ここが「釣り文化資料館」の入っている、(株)週刊つりニュースの社屋です。

●受付で書かされた閲覧者名簿の住所欄は、どれも「◯◯区」としか書かれていなかった

都営新宿線曙橋駅から歩いて5分ほどにある「釣り文化資料館」は週刊釣りニュースの創設者、船津重人氏が開設した釣り分野では全国初の公開施設である。
受付で住所と名前を書いていざ、資料室へ。ここはなんと無料で入れるという素晴らしい施設。
それにも拘らず、資料室は誰もいなかったので、じっくりと見学することができた。
受付の親切な女性に聞いたところ、閲覧者は多いときで一日5人程度。少ないときは一週間誰も来ないこともあるそう。趣味での利用者が多いとのことだ。

館内には、氏が収集してきた各種和竿(わさお)、魚籠(びく)などをはじめ、伝統的な釣り具が多数展示されている。和竿は国産の竹である布袋竹(ほていちく)や真竹、丸節などを用いた釣り竿を指す。
その歴史はおよそ200〜300年前。和竿の一種であり東京近辺で流行った「江戸和竿」は開祖と呼ばれる松本東作(元紀州藩士・松本三郎兵衛)が天明8年(1788年)に下谷いなり町で創業したと言われている。もっとも、この和竿という呼称自体は昭和40年頃に、西洋からの六角竿と区別するために名付けられたものである。
釣りの文化はその歴史を遡ると、紀元前8000年頃の石器時代には存在したとされているほど長いが、この「釣り文化資料館」はその長い歴史の中の1700年末〜1990年頃の資料を中心に並んでいる。
その資料構成は主に初代館長である船津重人氏のコレクションが4分の3、残りが有志から寄贈されたもの、といったところだ。

先にも書いたが、大学生以来、僕にとって釣りといえばもっぱら渓流でのルアー釣りである。主なターゲットはアマゴ、ヤマメ。その釣りの中で感じていたことは、「釣りは釣れればいいというものではない」ということだった。
「渓流の織り成す水の音を感じるだけでいい」「どんな道具でどんな釣り方をするかが大切」などなど…。

それと同じようなことを、釣り文化資料館に出てくる偉人たちが語っているように感じられて嬉しかった。それだけでも来る価値があったというもの。

そのことが最も如実に感じられたのが和竿である。
和竿の開祖である松本東作らを筆頭とした職人たちはただ釣果を求めるためだけに、竿作りの技を深めていったわけではない。

「釣りびとをいかに楽しませるか」をあらゆる側面から考え抜いたのだ。

ときに、真の腕を試させるために、あえてアタリを取りづらい竿を作った。
ときに、いざ魚が掛かっても取り込むのにひと際、苦労するであろう軟らかい竿を追求した。

それだけではない。和竿は“お洒落”にも気を遣っていた。
見よ、この装飾を。お見事のひと言である。

このタナゴ竿には、小さくてきれいなものが多い。
お洒落な小物として、女性にも人気が出てもおかしくはないほどだ。

グリップのところがお洒落な青鱚(キス)竿。

松本東作の弟子の弟子の弟子の弟子にあたる寿代作による比較的新しいタナゴ竿。

東作の名を襲名した、銀座東作による真鮒竿。

入れ物もまさに芸術だ。

竹と漆で出来たこの和竿は一生物と言われる。使い終わったら乾拭きでさっと拭く、それだけで20-30年は平気で保つ。ただ釣りを楽しむだけでなく、伝統工芸品としての価値の重みをも兼ね備えた代物なのである。

●もう2つ、気になったこと

和竿職人には松本東作などのような職業職人がだけでなく、趣味が高じてその技を極めた者がいることも、感慨深かった。
孤舟(こしゅう)はその代表である。彼は大阪の中央郵便局に勤めながら技を極め、大阪だけでなく関東でも押しも押されぬ人気作者となった。

昨今では働き方の転換期などと呼ばれて久しいが、その体現者たちの多くはこの「趣味が高じて…」というものが多いように思う。
有名なところで言うと、勝手に崇拝している東京カリ〜番長など、なんとも嫉妬したくなる「趣味が高じて…」である。あ〜うらやましい!

そういえば、寄贈者のなかに松田節子という女性の名前があった。
「山ガール」の次は「釣りガール」という話をたまに耳にするが、なかなかその波はやってこない。
もし、本当に「釣りガール」が大きな潮流になったのならば、その先駆者は児島玲子ではなく松田節子ということにしてほしい。(なんとなく…)

●小学生には難しかった竿先

僕が小学生のころ、大変苦労した竿先(穂先)は、やはり和竿づくりにおいてもっとも重要な箇所の一つらしい。
「竿先のみ素材を変える」「鯨穂を継いだもの」「削り穂やソリッド穂とよばれる、溝を利用するもの」など実に多種多少な手法がある。
くじらほ? そんなもの小学生の僕が知る由もない。

さらに竹は火であぶり、素手でもって曲がりや歪みを修正する。その微妙な感覚は極めるのに20-30年とかかり、本当に納得がいくものが作れるようになるには、一生かかるとも言われる。

10歳の僕に出来るはずもなかろう。

資料館の前にある「闇坂」をくだり、帰路についた。その先に灯りがあることを期待して。
僕も「趣味が高じて」何かを生み出したいものだ。