Hatena::ブログ(Diary)

コミュニティから遠く離れてR このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2014-08-31

月末日記 vol.9


月末日記を書くのは去年の十月以来か。


苦手な課題に取り組んだものの、自分の考えていたよりも己の技術が拙くて遅々として進まず、苦手を克服出来ない期間が長く続いた。

一昨年の六月、抑うつ傾向にあるなあと自覚して以後、抑うつ傾向は徐々に募っていって、「このままではいけない」と奮起したのが昨年の十月であったのだが、今振り返ってみるとその判断は適切じゃなかったように思う。

気力がどんどんと失われてゆくのに、タスクをいつも以上に積み上げることでなんとかしようとしていた。

やるべきことを書き出して期限も区切って作業していたので、通常の精神状態の時よりも仕事にまつわる作業は捗るけれども、無力感は増していく一方だった。

それがこの五月、GWで休んだのがいけなかったか、緊張の糸が途切れるというより伸びきったようになり、これまでやれていたことがやれなくなっていき、人と会うことがとても億劫になった。

苦手な課題を克服するまでは、この状態は続くんだろうなあと思う。

出来るようにするしかない。




この数ヶ月間、読んで特に印象深かった本

『尼のような子』 少年アヤ著

尼のような子

尼のような子


『セラピスト』 最相葉月

セラピスト

セラピスト

2013-11-02

月末日記 vol.8

10月はどんと落ちた。

苦手意識のあった課題に取り組もうとしたり、やる気もあったのだが、自分の自覚していなかった穴のようなものを眼前につきつけられるような経験をしてとことん落ちきった。


やがて落ち込みの底を打ったような感触があり、浮上するというほどの体感はないものの、「これはこれで、頭のなかが冷えて集中できるなあ。面白いなあ。」と思える余裕も湧いてきたのが月も変わろうという頃。

11月は浮上するといいなあ。



今月読んだ本

「絵と言葉の一研究」 

寄藤 文平 著

絵と言葉の一研究 「わかりやすい」デザインを考える

絵と言葉の一研究 「わかりやすい」デザインを考える

今月飲んだお酒

新政 No.6 R-type 特別純米無濾過原酒

琵琶のさざ浪 手詰め中取り無ろ過純米吟醸原酒

2013-09-30

月末日記 vol.7

9月はいろいろと壊れた。

電話機、パソコン*1、看板と、次々に不調になったり息途絶えたり。

当たり月だったのであろうか。

看板は手作りで開業以来ずっと使っているもの。つい7月に大幅な修理を終えたばかりだった。

今回の破損は修理してどうにかできるような状態ではなく、新しいものを作りなおさなければならない。


こういう「失う」ということに無用な意味づけをすることなく、そういうこともあると受けとめて前を向いて行きたい。



※7月と8月はバタバタと過ぎてしまい、何も書くことがなかった。本当に。振り返っても書くような事柄が全然思い浮かばない夏でしたー。


今月読んだ本

「カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生」 渋谷 直角 著



今月飲んだお酒

雪中梅」 普通酒

*1:一時まったく起動しなくなったのだが、ある日何をするでもなく起動するようになった。

2013-06-30

月末日記 vol.6

6月は動き始める気配を感じた。

大きな手応えや数字として表れるようなものではないが、「あれ、潮目が少し変化したかな?」と思う。

こうして小さい変化を積み重ねていくしかないのだろう。


今月は短いけどこれでおしまい。

2013-05-31

月末日記 vol.5

5月は変えようとした。

仕事にまつわることで仕様変更をいくつかおこなった。

実際に運用していくのは来月から(明日だね!)。

今月はTokyo Rainbow WeekがあったりIDAHOがあったり(そうそうAQFFもね!)LGBTのトピックスがたくさんあったのだけれど、どこにも出掛けて行かなかった。

どうやって自分を食わせていくかで手一杯で、仕事以外の事へリソースを割くことが出来ない。

もう少し余裕ができたら・・・なんて思っているけれど、そうこうしているうちに人との繋がりは薄れたり断ち切れたりするし、自分自身の問題意識も鈍く錆びついていく実感がある。

錆を落としに。

どこへ。


今月読んだ本

「スタッキング可能」 松田青子 著

スタッキング可能

スタッキング可能


「女中譚」 中島京子

女中譚 (朝日文庫)

女中譚 (朝日文庫)

2013-05-03

月末日記 vol.4

4月は旅に出た。

古い友人と福岡へ。

南には南の文化があって、土地も人も(東や北とは)違う。

こういう土地に生まれ育ったら、わたしは今の自分とまったく違う人間になっていただろうなあと思った。

あたたかく豊かで満たされる(ようによそ者には見え感じた)。

北の人間の暗さを自分が根っこのところで持っていることをあらためて自覚したんだけれども、それも悪いもんじゃない。

暗さっつーのも悪いもんじゃない。

そう思ったりもした。


今月読んだ本

「パン屋の手紙: 往復書簡でたどる設計依頼から建物完成まで」 中村好文、神幸紀 著


「整形前夜」 穂村弘

整形前夜 (講談社文庫)

整形前夜 (講談社文庫)



今月飲んだお酒

「村祐」 紺瑠璃 無濾過本生清酒

「伊予賀儀屋」 無濾過純米生原酒 赤ラベル

「七田」純米 七割五分磨き 雄町 無濾過生

「洌」 純米吟醸

2013-03-30

月末日記 vol.3

3月は抜けだした。


おいしいお酒を飲んでいるうちに、「好き」とか「愛情」のあたたかさのようなものを思い出した。

「好きだわ―」っていう感情が身体に沁み入った。


お酒はわたしのすごく原始的な部分を揺さぶってくれる。


幼稚園に通うような年齢からサイドボードに色とりどりに並べられた洋酒のミニチュアボトルに魅せられ、飲んでみたくて仕方がなかった*1

大学を浪人すると決まった時、おこづかいで「世界の洋酒事典」という本を買って(結構高価だった)母親に怒られたりもした。


変わらずに情熱を抱き注げるもの、それがわたしにとってはお酒で、しんどい時というのは一緒に生きてきた強い記憶があるものに支えられるのかもしれない。


お酒が好きだ。

お酒が好きだなー。



今月読んだ本

「幻滅と別れ話だけで終わらない ライフストーリーの紡ぎ方」 きたやまおさむよしもとばなな

 

幻滅と別れ話だけで終わらない ライフストーリーの紡ぎ方

幻滅と別れ話だけで終わらない ライフストーリーの紡ぎ方


「逃北〜つかれたときは北へ逃げます」 能町みね子 著

逃北―つかれたときは北へ逃げます

逃北―つかれたときは北へ逃げます


今月飲んだお酒

「国権」    1号しぼり 純米 生原酒

「真野鶴」 超辛口純米

「美和桜」 純米吟醸

「真稜」    至 しぼりたて純米

*1:どんな味かは分かるはずもない。ボトルのデザインに惹かれていただけかもしれない。だが、強烈にお酒が飲みたいとずーっと思ってた。

2013-02-28

月末日記 vol.2

2月は沈んでた。

もがき疲れか。


やるべきことを淡々とやる。

そうすれば、光が見えてくるのではないか。

そう信じて、淡々とやる。


確定申告も期日前には提出した。

仕事場もきれいにしている。

日々の業務記録も溜め込んだりせずに、毎日こきこきと書いている。

仕事そのものも昨日より今日、ちょっとずつ進歩している自負はある。


それでも、心は満たされない。

もっともっとと渇望してしまう。


特別な才能がないことは分かっているし、努力すべきことも分かっている。

補うに足る努力が不足していることも承知している。


それでも、この乾いた感じ、ギリギリと胸がきしむ感覚はちょっとバランスが悪いんじゃないのかなー、神様仏様よ。





今月読んだ本

「泥酔懺悔」  朝倉かすみ、瀧波ユカリ、平松洋子室井滋、中島たい子 著

泥酔懺悔

泥酔懺悔


今月飲んだお酒

「金寶」 穏(おだやか)特別純米

「喜楽長」 辛口 純米吟醸

2013-01-31

月末日記 vol.1

1月はもがいた。


仕事のスタイルを再構築してわたしの中に足りない動的な要素を取り入れようとしているのだが、捨てるべきものをなかなか捨てられず苦しんでいる。

もっと積極的に何かを選べばそれを選ぶためには捨てなければならないという局面がもっと鮮やかに浮かんでくるのだろう。


仕事ばかりしていることにふっと倦むことがある。

胸の真ん中にずどーんと悲しみがぶつかってきて押しつぶされそうになる時がある。

自分の「なにかどこか足りない感じ」が不甲斐なくてどうしようもなくなる。

いや、足りないのではなく余計なものを捨てきれず抱えているから苦しいのか。


どっちだろう?

どっちもだろうか。



今月読んだ本

「ここは退屈迎えに来て」 山内マリコ 著

「奇貨」 松浦理英子

ここは退屈迎えに来て

ここは退屈迎えに来て

奇貨

奇貨


今月飲んだお酒

愛宕の松」 和屋オリジナル 純米大吟醸酒

「喜楽長」  新酒活性にごり酒

「作」 Prototype-G

2011-03-02

インポ体験3

このところ言葉に出来ない感情が降り積もり、一日の終わりに心がすとんと鎮まらない。

春先の心の騒々しさも相まって睡眠障害を起こし始めた。*1

わたしは基本的に寝つきはよくて長時間の睡眠を必要とするタイプなんだけれど、今回の睡眠障害はその原因も把握していたし長く続かないことも分かっているから、あまり気に留めていなかった。

ま、どうしても眠りたくなったらオナニーでもすれば眠れるさ。

そうタカをくくっていたのである。

ところが、勃たないし濡れないしで、身体が反応しない。

「これは、いつぞやのインポ体験にそっくりだなー」そう思い、過去のエントリを読み返してみた。

状況は違えど、今回も抑うつ状態からくる随伴症状のようだ。

そもそも不眠自体が抑うつ状態から生じているんだろう。

モットーがなにせ「やりたいことだけ 自分のことだけ 今のことだけ」なもので、日常生活において「抑える」という要素がとても少ない。

ふだんやりつけない「抑制」なんてことをし始めたものだから、身体のほうが「おい、ちょっといつもと違うじゃねぇか・・・」って言い出したんじゃないか。

ただし、前回と違って、今回はもう少し感情を抑制した状態を持続したいと思っている。

別に今現在セックスパートナーがいるわけじゃないし、不眠さえ乗り切れればインポであってもまったく構わない。

そろそろ臨機応変に感情を抑制できるオトナになりたい。

禁欲的に目標に向かって努力するとか、そういうことをしたいのだ。

もうちょっと踏ん張ってみよう。

しっかし、自分の身体の正直さには呆れてしまったぜ。

過去の記事

2009/3/3 インポ体験

2009/6/27 インポ体験2

*1:前回のインポも春先で今と同じような時期だったから季節的な要因もありそう。

2011-01-30

日本酒愛好会発足!

昨年の5月におじゃまさせていただいたsai_yuさんカップル宅を再び訪問。

季節柄、日本酒を傾けましょうということに。

用意されていたのは新潟は佐渡の銘酒『真野鶴』の無濾過中取り緑紋生、純米吟醸生原酒(さすが!)。

そして、「これ飲んどきゃ大丈夫!」と某koさんが太鼓判を押したという『酒豪伝説』。


f:id:fridas:20110208184118j:image

真野鶴と酒豪伝説の2ショット


それをひとりずつガラスのお銚子にサーブしてくださって、手酌でいただきました。

酒飲みは手酌で自分のペースで飲みたいんです。


f:id:fridas:20110208184117j:image

手酌のイメージからは程遠いオシャレなしつらえ


酒飲みにはたまらない「あて」もたくさん!

へしことかこのわた的なもの(確かこのわたではなかった)とか。

そしてネギをシンプルに焼いたのから浅漬まで、長く晩酌を楽しめるものばかりでした。


f:id:fridas:20110208184113j:image

これまた日本酒に合う肴ばかり

日本酒での酔いって他のお酒とは違う。

空気がしっとりするなあと実感。

レンアイやセックスの話をしつつも、それが人生そのものの話へと繋がっていって、なぜか三人で涙ぐんだりした。

今度、訪問するときには、大切な人と一緒に来たいな。

呼ばれなくても行っちゃうぞ。

2010-11-09

理想のレンアイ

以前に、自分にはポリガミー志向の可能性があるのではないか?といったことを書いた(下記のリンクを参照ください)のだが、その後考えを進めていくうちに、むしろ逆なのではないかと思うようになった。

モノガミックな枠組みが窮屈なのではなく、枠組みが恋人の行動を規定しているのであって、枠組みがなければ恋人がわたしを選択し続けるとは限らないじゃないか、という疑念の生まれる余地があることへの不安なのだ。

多くの人は、おつき合いという関係性に、(人によって内容に差はあっても)お互いが排他的な性愛関係にあるという暗黙の了解事項に、守られているような安心感を感じるのだろうし、実際に今ある関係を壊してまで他の人と恋愛したり、セックスしたりするリスクは負いたくないといわゆる浮気心のストッパーになったりもするのだろう。

しかし、わたしの場合は逆なのだ。

行動を縛るような枠組みなどなくても、瞬間瞬間で常にわたしを選択し続けてほしい、そう願わずにいられない。

わたし自身も、相手を常に欲望し続けていたい。

そんな、非現実的な望みを捨てきれないでいるのだ。

だから、もしも恋人に浮気をされてしまったら「わたしを相手に選んでもらえなかった」のは悲しい。

しかし、そのことで恋人を責める気には多分なれないだろう。そして、別れる理由にはつながらないであろう。

そこではなくて「嘘をつかれた」ということが、今後の信頼関係を揺らがせ、別れを考える理由になるだろう。

たとえ、それがわたしを傷つけまいという理由からつかれた嘘であっても。

「つきあっている」という枠組みなどに縛られず、「あなたがしたいようになーんでもしていいし、どこに行ったっていいのよ。」という状態に置かれてなお、大好きな人にはわたしを選び続けてほしい。


それって・・・

究極のモノガミスト指向じゃん!!


以前に書いたエントリ

ポリガミー指向」の可能性

http://d.hatena.ne.jp/fridas/20070314/1190690968

ポリガミー指向」の可能性 その2

http://d.hatena.ne.jp/fridas/20070316/1190691039

2010-08-31

悲しい

8月も今日で終わりだ。夏が終わってしまうことが悲しいのだろうか。

このところ(1週間ぐらい)やたら悲しい。今朝自分の洗濯物を畳んでいて、ふとクサノさんの洗濯物をよく畳んだなあなんて思い出し、無意味に悲しくなった。生活のひとコマを思い出すのは、喪失感が大きくてかなわないよ。

思いが残っているわけではなくて、愛情を注ぐ対象を失ってしまった欠落した感覚、痛みがしんどいのだ。

だからといって、新しい恋でもしようか、なんて気分にはなれず。

どうしたものか。

2010-08-03

未練

8月。やっと夏だなあと思う。

毎日淡々と仕事をする毎日を過ごしている。

恋が終わったばかりの頃は少し仕事に逃げていたかもしれない。

今は違う。

月曜から土曜まで働き、休日には仕事関連の勉強会へ出かけ、仕事一色と言ってよい生活だけれど楽しい。

それを心から望んでやれているからストレスはないし、ずーっとこの穏やかな生活が続けばいいなと願う。

そして「もう恋愛はいいかもしれない」そう呟いてみる。

どう考えたって、今のままがよい。

そうなんだけれど・・・何度も「もう恋愛はいいなあ」と言葉にしてしまうところをみると、わたしはまだまだ恋愛することを自分の人生から捨て去ってしまえない、未練があるようだ。

毎日、仕事が充実していて楽しい。仕事関係の人や友人との人間関係も淡くはあるがうまくいっている(と思う)。

だけれど、どこか満たされない思いを抱えて、夜更けの月を見上げたりしてしまうのだ。淋しい。好きな人と時間や体験を共有したいなあ。

この思いに蓋をせずに、しんどいけれど生きていくしかないなあ。

2010-06-15

整理しておきたいこと

Lコミュニティと関わっていたい、自分ごととして考え行動していきたいと思っていることを整理してみる。

  • 興味があること
    • この現代の日本の社会の中で、子どもたちがセクシュアリティについて悩んだりしながら生きていくと思うのだけれど、彼らが死を選んだり、精神的に追い詰められたりしないために、自分にできることはあるか。あるとしたらどんなことか?
    • LGBT当事者の情報格差について。年齢、住んでいる地域、インターネットスキルなどの違いによる、見ている世界の違い。
  • 考えていきたいこと
    • 同性婚について。公正証書について。養子縁組について。
    • LGBT当事者が政治家になろうという時のサポートについて。自分はどうしたいのか。何が出来るのか。
  • 求めること
    • セクシュアリティを理由に仕事をやめさせられたり、不利益を被ったりしない職場環境が保証されること。
    • 子ども(大人もだけれどさ)がセクシュアリティを理由にいじめられないこと。悩んで死を選ばないこと。
  • 出来そうだなと思うこと
    • 情報の共有。Lコミュニティだからこそ楽しいこともある。
    • ロールモデルの提示。「レズ」はヘンタイで自然の摂理に反してて結婚もできなくて子供も産めなくて不幸そう…って思うかもしれないけれど、そんなことない。
    • 可視化。「レズ」って本当にいるんだよ。

どちらかというと現代社会との折り合いより、コミュニティとどう折り合いをつけて生きていくかのほうが自分には簡単ではなくて、どうにかしたいこと。

いかにコミュニティと関わっていくかというよりも、いかに適切な距離をとりつつ関わるのかと言った方がわたしのしたいことに近い。

自分が死なず、人が死なずに生きていくために。

2010-06-02

幸せオーラを浴びる月間 part2

『幸せオーラを浴びる月間』とした5月もおしまい。

もう6月。早いなあ。

今日はすごく爽やかないい天気だった。

天気がいいってだけで幸せな気持ちになる。

こんな風に、本当にささやかなことであっても幸せだと感じることは、たくさんたくさんあるんだけれど、もしも「幸せとは何か?」という問に答えるとしたら、今の私の心情にとても近いのがこちらのブログのエントリー、〆の文章だ。


個人的には、誰かと「人間関係を作りたい」という欲求の基礎にあるのは単純に「相手の喜ぶ顔が見たい」という素朴な感情であって、それに性欲が混じらなければ友人関係、混じれば恋愛になるくらいの感じに思っている。相手が喜ぶ=自分も嬉しい。自分が相手に何かしてあげることで喜ばせようとするのは、相手に感謝されたいといったリターンをまだ期待している向きがあるが、そのうち自分の行為は関係なく相手の嬉しそうな様子、喜ぶ様子を見ているのが楽しくなる。そういう人との関係を大事にしていくのが、当面は私にとっての「幸せ」だ。

Ohnobrog 2 『幸せの条件』より


この文章を読んだ時、私は「うん、うん、そうなのよー。」と深く頷いてしまった。

「幸せ」が立ち上っているような場面に身を置きたい。

というわけで、先週末はkoさん&maさんカップルとご一緒させていただき、飲みました!食べました!!

今回はトントンとよいペースで飲み進み、写真を撮ることを早々に放棄してしまったので写真はありません。

自分にとっての「幸せ」とは何か。

そこのところの軸さえブレなければ、傷ついたって、傷つけたって、失敗したって、タフさがその手からこぼれ落ちずに済む。

そんな気がしている。

2010-06-01

近くて遠い場所

Lコミュニティー*1に対し、どのような場所へどの程度の距離感でコミットメントすべきか、いや、自分がしたいと思っているのか、ずいぶんと長いこと思案している。

クローゼットから出てからしばらくの間、コミュニティーへと出掛ける動機は、こんなだった。

1.情報を得たい(いつどこでどんなイベントをやっているか*2)。

2.自分以外の当事者たちと知り合いたい(友人候補、恋人候補、ロールモデルにしたいような先輩などなど)。

3.セクシュアリティの話題を避けるでも隠すでもない場所に身をおきたい。

4.L&Gカルチャーを享受したい。みんなと楽しい時間をシェアしたい。


・・・そして現在

1.情報はネット経由でかなり得ることが出来るようになった。

2.いろいろな人と知り合い、出会い、恋愛したり別れたり。大切だと思える友人に出会うことが出来た。

3.母親や妹、ヘテロの友人たち、仕事上のつき合いのある信頼できる人にもカムアウトしているので、嘘をついたり隠し事をしているような後ろめたさも窮屈な感じも日常生活でほとんどしなくなった。

4.仕事が忙しくなかなか時間がとれない。興味関心の中心が現在は仕事。なので出掛ける機会はおのずと減少*3


実際に、生活していくだけで、仕事をするだけで毎日が手一杯という状況でもあるんだけれど、そんな限られたリソース(時間とお金)をLコミュニティーへと振り分けるモチベーションが上がらないでいる。

なら、無理に関わらなくたっていいじゃん。

そうなんだけれども、わたしがクローゼットから出るきっかけを与えてくれたのが90年代後半のゲイ・ムーブメントであり、レズビアン・コミュニティーだったものだから、「もう、わたしには必要ないから関わりません」という態度は、なんだか恩知らずな感じというか、自分が必要なときだけ擦り寄って後は知らん振りかよ!みたいなタダ乗り感がぬぐえないのだ。

リソースの分配という感覚は、過去に自分のキャパを超えて、(なおかつ今では自分に適性のないと自覚できる)ファシリテーターをやろうとした苦い経験から得たもの。

やりたいこととできることは違うのだ。

そして、今。

Lコミュニティーには関わっていたいけれど、その関わり方がよく分からず、こうして「遠く離れて」ブログを書いている。

いつか、自分なりの関わり方が見出せるといいなと願いながら。

*1:Lコミュニティーとは何を指すか、というのは定義づけが難しい。LOUD、PA/F SPACE、WWE、DWE、2丁目、クラブイベント、オフ会、映画祭、パレード、まあそのあたりを大雑把にひっくるめてLコミュニティと認識している。

*2:例えば「公正証書の作り方について」のワークショップとか

*3:2丁目は仕事場から徒歩30分圏内だけど行くのは年に2回ぐらい。映画祭やパレードは仕事しだいで行けたり行けなかったり。

2010-05-22

幸せオーラを浴びる月間 part1

3月の初めにクサノさんと別れて以来、ずどーんと、どよーんとしてた。

独りでいると、あれやこれや過去のことも悪いほうへ解釈してしまい、いくない。

そう思い、5月は『幸せオーラを浴びる月間』にすることにしました。第1弾はLブロガー・カップルさんのsai_yuさんのお宅訪問。

噂どおりのパティオのあるメゾネットスタイルの素敵なマンションで、おしゃれだし、静かだし。

おいしいものはたくさんだし、お酒はこれでもかと出てくるし、目いっぱい幸せオーラを注入。お二人はラブラブだから、アタシごときに吸い取られても、屁でもないと思う。

多分。

ほんとに、ほんとに、ごちそうさまでした!!


f:id:fridas:20110208160409j:image

見よ!このゴージャスなテーブルを!!


f:id:fridas:20110208162848j:image

おいものサラダ&お手製のピクルス


f:id:fridas:20110208160408j:image

エスカルゴが入ったプチ・フランス


f:id:fridas:20110208160407j:image

このサラダもタイプだったわー




※第2弾はkoさん&maさんとご一緒する予定。幸せオーラをたっぷり浴びて、じっとりした負のオーラを払拭するぜ。

2010-05-21

デモドル

このブログは削除してしまおうかとも思った。

けれど、思い入れもそれなりにあって、忍びなく、なにか書きたくなったときの場所として凍結させておくことに。

最近、やっと言葉がある程度まとまった形になりつつあります。

半年近く、ネットから遠ざかっていましたが、このままずーっと遮断してしまうのではなくて自分に見合った距離感で付き合うことができるようにと、試行錯誤してみようと思います。

2010-03-12

春を告げる花

あたたかい春の日。早咲きの桜かと思い近づいたら、木蓮の一種のようでした。なんという花なのか。


f:id:fridas:20110208161013j:image


追記:シデコブシ(ヒメコブシ)というのだそうです

2009-12-11

ブログを休止することになったいきさつについて

このブログを読んで、(直接わたしの口からではなく)あることを知り心外だったと、ある人に言われました。

それがこのブログを休止するきっかけでした。

プライベートな部分をどこまで晒すかの線引きが曖昧で、顔が見えない中での感情的なやり取りにおけるタフネスさと細やかさ(デリカシー)に欠けているところがあり、そこのところの危うさは薄々感じてはいたのです。

それで、それまでおこなっていたネット上でのコミュニケーション(このブログやmixitwitterなど)も休むことにしました。


今回経験したことの影響は大きくて、わたしもわたしの周りの人との関係も変わってしまいました。

言葉が出てきにくくなりました。

人と交わること、言葉を発することが怖い。

その気持ちを払拭できたら、また文章を書いてみようと思います。

今まで読んでくださったみなさん、ありがとう。

2009-09-11

いよいよ来週だね!AQFF

2007年に開催されたAQFF(そのときのレビュー)。

会場でオーガナイザーさんが「2年に一回やる予定です」とおっしゃっていたので、ネットなどをチェックしつつ心待ちにしていました。

第1回が春だったもんで、勝手に春かなと思ってたら、今年は秋なんですねー。

けっこう会期の発表が遅くてドキドキしちゃいましたが、いよいよ来週から始まります!


以下はmixiのコミュからの転載。

--------------------------------------------------------------------

■AQFF2009開催決定!

2年に一度の開催を目指すAQFF、その第2回目となる開催日と会場が決定致しました!

会期: 2009年9月19日(土)〜23日(水・祝日)

会場: KINEATTIC (キネアティック)

http://www.kineattic.com/access.html

会期は敬老の日、国民の休日、秋分の日で五連休になっています。

今回も前回に負けず劣らず、貴重な作品の数々を準備中です!

最新情報はこのコミュニティおよび公式サイトに掲載しております。どちらもぜひチェックして下さいネ!

http://aqff.jp/

--------------------------------------------------------------------

わたしは、22日(火)にガールズプログラムとドキュメンタリープログラムを観る予定です。

前売りがなくて、当日の最初のプログラムの30分前から整理券配布というシステムらしいので、早めに原宿入りして、新潟館で買い物したりヒルズの長谷川酒店で一杯やったりしようと思います。


※今回から、AQFFの正式名称が「Asian Queer Film&Video Festival in Japan」から「アジアンクィア映画祭」に変わったそうです。

2009-09-02

『語り得ぬもの:村上春樹の女性(レズビアン)表象』

ついったーのTL中で触れられてて、面白そうだなと思い読んでみたよ。

わたしはいわゆる「ハルキスト」ではないけれど、村上春樹の作品の9割ぐらいは読んでます。


※以下「ノルウェイの森」と「スプートニクの恋人」の内容に触れています。未読の方はご注意ください(一応ね)。


村上春樹の小説にはレズビアンが出てくる作品が二つある。

ノルウェイの森」と「スプートニクの恋人」だ。

そのどちらも読んでいるんだけれど、どうしようもない違和感がわたしにはあって、それがなんなのか知りたいなあとは思っていた。


特に「ノルウェイの森」に登場するレズビアン像は、なんというか安っぽくって、レズビアンの女の子とのセックスシーンの描写は、レズビアン・ポルノとして多くの読者に消費されたであろうし、勘ぐればそもそもポルノグラフィックなスパイスとして挿入されたようにも読めて、リアルじゃないとか、レズ=誘惑する変態という偏見とか、それ以前のもの。非常に薄っぺらいなあという印象を受けていた。


また「スプートニクの恋人」は、女性に恋に堕ちてしまった女性が登場するんだけれど、女性だから好きになったわけではない、たまたま女性だっただけみたいなよくあるパターンで、最終的に女性同士の恋愛は成就することなく、主人公のもとへ帰ってくるという結末で、特に性愛の描写があるわけではなし、正直なんで村上春樹がレズビアンを描こうとするのか、その必然性が理解できなかったんだよね。

作中の

「わたしはミュウ*1と交わらなければならない。彼女の身体の内側まで入ってしまわなけれなならないのだ。彼女に私の身体の内側に入ってもらいたいのだ。貪欲なぬめぬめした蛇のように」(206P)

みたいな記述を読むと、まあそんな風なことをまったく思わなくもないけれど*2、「『膣の中を(愛する人の)何物かで埋めてしまいたいっていう飢餓感が女性にはある』っていう意味なのかしらねー、ヘテロ臭いわねー」とその臭気が鼻についちゃって、「あー、なんで春樹はレズを登場させんのかしら?ってむしろ要らないしー」な気分がしてた。


本書では『女性(レズビアン)表象』と括弧書きがついているけれど、女性表象全般について論考されており、レズビアン表象についてはその一部分という感じです。

でも、決して軽んじられているわけではなく折に触れレズビアンの描かれ方について他書からの引用も挿入しながら考察されています。

村上春樹が作品の中で、女性という存在をどう描いてきたか、女性の(性的な)欲望をどう物語の中に織り込んできたかについて、村上春樹の小説の登場人物じゃないけれど、「やれやれ」と文末に付け加えたくなるような淡々としたクールなトーンで語られていきます。


わたしには俯瞰したレビューを書く力はないので、今回はわたし個人が違和感を感じた部分と対応する箇所のみピックアップしてみます。


まず「ノルウェイの森」について

31歳の玲子サンを誘惑する「筋金入りのレズビアン」である13歳の美少女という設定は、著者もちょっと非現実的だよねーって指摘してます。

この女の子には名前が与えられていないんだけれど、そのことに個別性より典型を強化する作用があることを危惧してる。この女の子の描き方はレズビアンに対し読者に嫌悪感と距離を引き起こさせる描写で、異性愛を補完するものとしての役割をするとも。

うん。わたしもそう思った。レズ十把ひとからげ的な雑な扱いだなあと。やれやれ。


ただし、他の女性の登場人物たちがアイデンティティの揺らぎを抱えているのに対し、この女の子はなんせ「筋金入りのレズビアン」だからさ、強烈な自己認識を持っていると肯定的にも評価できるとしてます。

その読みはどうかなーとちょっと疑問に思った。

それから13歳の女の子に誘惑されたという部分は実は玲子サンの妄想だったので、女の子の描写が類型的になったという解釈もできると。

それは、深読みすぎではないだろうか・・・

そんな落ちは嫌だ。妄想なんだからアリでしょってことですか?


「1960年代末の日本でレズビアンは、常に負の表象にさらされ、一方的であり当事者の語りが閉ざされていた時代」

であったと締めくくっている。

時代背景的なことは、あんまり考えてなかった。

わたしたちがリアルだと感じているレズビアン像って現代のごく狭い範囲で出会った人たちのイメージの寄せ集めな訳なんだよね。

当時のレズビアンがおかれた状況として、当事者の語りが封じられて、侮蔑と汚辱の代名詞としてのレズビアンの描写とするならば、納得できなくはないと思った。

ただし、不快ではあるよね。

村上春樹は一貫して安易に共感しないってことを自らに課しているような意地が悪いとも取れる冷徹な描写をしているように私には読める。「非当事者」としての繋がれる部分に光を当てるのではなくて断絶した部分を、闇を照らすような表現を好んでいるように思えるのだが。



次に「スプートニクの恋人

こちらはですね、要は「ノルウェイの森」ではレズビアンとは侮蔑と汚辱の代名詞的な位置づけだったが、時代が下って、「好きになった人がたまたま女だっただけ」って語れるようになって、進歩してよかったねっていう解釈に読めました。

わたしがバカなので理解が違うかもしれません。

なので、あまり言うことはないです。


村上春樹作品では性的欲望を女性が求めたりすると、苦悩したり引き裂かれたり、いつも尋常じゃない感じ。

女がセックスしたいと思うことと、そのことに自覚的であること、そしてそれを行動に移すことは、なんだかもう、死んじゃうぐらいの大事なわけです。

この両作品もそんな感じなんだけれど、女性が主体的に誰かを欲望するというシチュエーションを描きたいと思うと女性同士の方が描きやすいのでしょうか?

それとも、女性が男性を欲望するという視線を描くのは、陳腐になりやすいとか下品に堕ちやすいとかあるんでしょうかね。

別に女性が男性を強く深く求めてもいいと思うんだけれど。

そういう小説は女性の作家が多く描いてるか。

男性からの目線で書くと嘘っぽくなっちゃうのかな。

それを言ったらレズビアンを男性が描いても同じか・・・


本書の中では、村上春樹以外の作家の作品にも触れられています。

このような読みのまとまった著作は多分これが初めてだと思うけど、もっともっと出てくると面白いのにと思いました。

興味を持たれた方、ぜひ読んでみて下さい。

ただし、対象作品をはじめハルキ作品を複数読んでいる人でないとちょっときびしいかもしれません。


村上春樹作品については「海辺のカフカ」中のフェミニストとトランスジェンダーの登場人物の描き方にも突っ込んでみたいところだけれど、長くなるのでやめておきます。ともかくだ。内田樹オジサンがきゃっきゃ喜んで語っているような、素朴なフェミニズム批判ではないという印象です。



語り得ぬもの:村上春樹の女性(レズビアン)表象

語り得ぬもの:村上春樹の女性(レズビアン)表象

大切な人は誰ですか?

昨日、友人と話していたら元カノジョの話題がちらっと出た。

元カノジョとは、連絡を取り合うこともなく関係が切れていて、偶然にL&G映画祭のホワイエで見かけて私のほうから一方的に二言ぐらい声を掛けたのが最後。

そのときの様子なんかからしても元気でやっているんだろうとてっきり思っていたんだけれど、どうやらそうでもないようで少し驚いた。

もうわたしにできることも、掛ける言葉も何も残っていないのだけれども。

友人はわたしに元カノジョの気持ちを伝えてくれようとして「(付き合っていた当時)友達の中には、それは彼女(わたしのこと)が悪いよ。そんな彼女とは別れた方がいい」って言う人も多かったけれど、あなた(その友人のこと)の「レンアイにどっちだけが悪いってことはない。どっちもどっちだと思うよ」という言葉が、一番うなずけたと元カノジョが言っていたと教えてくれた。

友達にレンアイ相談をして、彼女のことを悪く言われると、文句を言いつつも「そんな悪い人じゃないよ」とかばいたくなったりするけれど、元カノジョもそんな感じだっただろうか。

そんな話を聞きつつ、レンアイしてケンカして友人に相談すると、「そんな酷いオンナ、別れなさいよ!」的な展開になりがちで、そうなってしまうと、カノジョだけではなく相談されたカノジョの友人まるごと、ごっそり関係が切れてしまったりするなあ、なんて考えてた。

そうだろうとも。

多分、わたし相当にひどいオンナってことになっているであろうと想像できた。

あ、すんごいひどいことしたって意味じゃないですよ。

すれ違い度がはんぱなかったんですよ。

お互い、求めるもの、価値観、いろいろなことが違いすぎて、相手の事情を慮る想像力が、ふたりともガス欠状態で。

カノジョとのほうが親しいAさんやBさんやCさんにも、ひどいオンナだと思われているのであろうことを想像してしまい、仕方ないこととはいえ、夕べはちょっと凹みました。

最近になり、そういうしがらみはあまり気にせずコンタクトを取ってみよう!なんて思いかけていたところだったので、どうしたものか…と思考は停止。

レンアイ相談って無意識に自分にとって都合の悪いことはショートカットしがちだし、文句言いつつもカノジョの側のプライバシーもあるからなんて考えて、問題の核心に近いカノジョの事情を隠したりするので、片方だけの話を聞いていると事実とかなり食い違うことがあります。

そこんところ、うまく乗り越えて、人と繋がれないものだろうか。

それはきれいごとでしょうか?

可能性をバシっと閉じ切ってしまうのではなく広がる余地を残しつつ、自分にとって大切な人、そして親しみを分け合える人とコミットメントする方法を考えています。

なにかと狭い、狭すぎるレズビアン・コミュニティ。

カノジョと別れるたんびに友人とも切れてたんじゃ、そのうち身動きが取れなくなります。

元カノジョとばったり出くわすのが嫌でコミュニティに顔出しにくくなるなんてよくある話。

タフになるしかないんすかねー。

※先週、以前におつき合いしていた人がわたしの後におつき合いされていた方がされているお店で食事してきました。意外なことにわたしのことを覚えていてくれて「○○ちゃん?」って声を掛けてくださいました。ほんのり嬉しかったです。こういう再会は心が温まります。

*1:22歳の小説家志望のすみれが恋をした17歳年上の女性

*2:わたし自身はどちらかというと折り重なった二人の身体の境界線が溶けてなくなってしまう感じが切実に欲しい感覚。でもこれって女同士で肌質が近しいってのもあるかも。あの感覚のひりひりぞくぞくする感じ、いいですよねー。

2009-08-04

第3回まんこ座談会レポ

先月の連休の中日に第3回まんこ座談会を開いたよ。

あー、あれからもう3週間以上経っちゃったんだなあ。

あの頃はほら、こんなだったもんで、レポ書く余裕なしだったんだよね。

今回は、秋に行われる第22回ウーマンズ・ウィークエンドに、このまんこ座談会的なのをワークショップとしてやろうよっていう企画があって、その打ち合わせも兼ねていたので、もうまんこ語りは白熱!!

結局、ワークショップの進行原稿を作成し終えたのは朝7時だった。

夜が明けてからは、みんな異様なテンションで「これやりながら、この曲流したい〜」とか大盛り上がりでさ、冷静になってみてそれが果たして盛り上がるのかどうかは、リハやってみないと分からないけれど、でも多分面白いと思うー。

まあ、そういう訳で、酔ってしまって話したかったことが話せなかったーってなるのが嫌だったから、事前に話したいことを文章にしてみたの。

以下は、ミクシーの日記に上げたもののコピペ。

1.「美しい」まんこ、「萌える」まんことは?

男性にとってのまんこは客体だが女性にとってのまんこは主体。

「どんなまんこがよいか、好きか」という品定め的な視点ではないまんこ語りを。

わたしには軽い醜貌恐怖があって、まんこ周辺はコンプレックス的要素が濃縮されてるエリアでもある。

「どんなまんこだって美しいわ!」という政治的に正しそうなお話ではない、ぶっちゃけたトークを。

2.インポについて

ここんところやっと快復傾向にあるのだが、まだまだ勃ちが悪いです。

さらっさらしてます。

インポの意味について考えたい。

インポがもたらす変化について、良いことも悪いことも。

3.セックスしない身体とセックスする身体の違い。

わたしはかれこれ10ヶ月ぐらいセックスしていない。過去には3年ぐらいセックスしてないこともあった。

今後もセックスしない生活がデフォルトになるだろう。

三砂ちづるなどに代表される無邪気な身体論は、女はセックスし子供を生むことで心身の健康が保たれるような主張を展開するが、実際にセックスすることで得られる身体的精神的効用とはあるのか、あるとしたらどんなことか、そして、それを他の行為や身体操作で置き換えられる可能性について考えてみたい。

mixiの日記より転記)

これら3つの話題については話したような、話さないようなって感じ。なんせ、トークが膨らむし、飛ぶし、ひとつのところに留まってなんかいないぜ!って勢いだったから。

1の話がらみでいうと・・・

自分のまんこのコンプレックスについて語りだしたとき、なんだか急に悲しくなってしまってわたし泣いてしまったのさ。

Mさんに「どうしてそう(汚いとか醜いとか)思うの?人と比べたわけじゃないんでしょ?」と言われたんだけれども、小学生ぐらいのとき、わたしには自分のまんこがどんどん毛で覆われてゆくのが嫌で嫌で、色もくすんでゆくのが恥ずかしくって仕方がなかった。そんなのは自分だけなんじゃないかって思い込んでた。どうしてそう思うようになったのかは今になってもうまく説明できない。

大人になって少なくない数の色々なまんこを見てきて、自分のまんこは割と普通っていうか、もっとキャラ立ってるまんこってたくさんあるなあって分かったんだけれど、だからって自分のまんこを肯定できるようになったかというと、それはまた別の話。

Mさんに「それだけまんこが貶められているってことなのよ!」と言語化してもらったんだけれど、根っこはそういうことなんだろう。

2の話は、あんましうまく膨らませられなかった。

インポは多分緩解傾向にあると思うんだけれど、なぜかオナニーの回数は激減。「んもー、いまわたし、オナニー氷河期ですよー」って言ったのは覚えてるんだけど。はは。

3の話は、けっこういい膨らみになったと思う。この辺の切り口からボディワーク的な要素をワークショップに入れてみようという流れが出来たし。

それにしても、Mさんのしてくれた、たちの悪いタチの話は面白かったなあ。

わたし、KちゃんとMちゃんカポー相手に馬乗りになって恥骨結合を緩めるときの体位とか実演しちゃったりした。

酔ってたなー。楽しかったなー。


Kちゃんが見事に書記してくれて、Mちゃんは会話の段落を区切るように、ナイスなタイミングでキャッチーなコピーをつけてくれて、朝7時まで一滴も飲んでないこの二人のおかげで、座談会がいい具合に締まってるんだと思う。ホント感謝。

話の途中で、「うちら今夜何回『まんこ』って言っただろうねー?」てKちゃんが言ってたけど、マジ1万回級だったよ。あの夜は。

2009-07-22

切ない週末

社交のかいがあり、ちょっといいなあって思う人がいて、お食事に誘ってみたりしていたんだけれど、わたしが距離を縮めすぎちゃったみたいで、やんわりと釘を刺す「これからはお友達として食事に行きましょう」というメールをいただいた。

あー、なんにも始まらないまま、終わってしまったよ*1

そんな先週末。

久しぶりに抱きかけてた恋心がしぼんでしまった、そんな時に映画祭でモトカノとモトモトカノと遭遇。

モトカノは友達に囲まれて楽しそうで。

モトモトカノは彼女さんと一緒でシアワセそうで。

自営の私は人と予定をなかなか合わせられず、今年も一人で映画祭へ出かけたんだけれど、一人で映画観るのは全然平気なんだけれど、珍しくそんなシアワセオーラに当てられて、切なくなってしまった。

「淋しい」とか「孤独感」というのとは少し違ってて、ちょっと胸がきゅーんとなるっていうか、切ないなあっていう感じ。

会場でお会いしたお友達のお友達に「一人で来るなんて、強いんだねー」と言われたんだけれど、マジ弱ってたときだっただけにその言葉が刺さった。

「仕事が忙しいから、人と予定を合わせられないだけですよー」と笑顔で答えたけれど、心中は穏やかではなかった。

わたしは確かに誰かと一緒じゃないと行動できないとか、淋しいとか、そんなタイプじゃないんだけれど、そのことと今こうして彼女がいないことと、結びついていることなんだろうか?と自問する。

多分少しは関係しているんだろう。

そういう性分は変えようがないことかもしれないけれど、自覚はしておいた方がいいのだろうなあと思わされた週末でした。

*1:チキンは卒業だぜって感じで気負いすぎたのかもしれないです。でも、冷静になって考えるとその方とは確かにおつき合いするよりも友達でいた方がしっくり来るような気がだんだんしてきてます。結果オーライかなー。

2009-07-14

チキンの魂、四十まで

さてさて、モトカノと仕事上の関わりもなくなり(後任者へ引継ぎ)、いつでも新たな恋を始められる体勢だけは万全な今日この頃。

いつになく気合十分で、社交してます。

レンアイ妄想としては、知り合ってから徐々に仲良くなって恋が育っていく感じのレンアイをしたいんだけれど、恋って啓示でも降りたかのように突然やってくるというか、落ちてしまうというか。

そうじゃないですか?

それが、わたしには抱えきれない。

突然生まれた熱情を抑えるのが下手くそで、ぐあーっと肥大してしまい、相手のことをよく知らないまま、自分の幻想を投影させて、どんどん恋心を募らせてしまいがち。

そうなるのが嫌だから、いまひとつレンアイに対し腰が引けちゃうのだ。

正直言って、怖い。

そんなヘタレな自分が満開状態になってしまうことが。

そういうのは、もうやめにしたいんだけれど、じゃあどうすればいいのかがいまいち分からない。



つーか、「どうしていいか分かんなーい」とか、かわいこぶって言ってる場合じゃないですね。

四十なんですから。

おし。具体的にどうすればいいか考えよう。

まず、体力をつけること。恋愛するには体力は大事。わたしは特に恋愛初期症状における睡眠障害が出やすいので(一日2、3時間しか眠れなくなってしまったりする)、なるだけそうならないように工夫して、多少の睡眠不足も乗り越えられる基礎体力をつけるべし!

→夕食の内容と時間を見直す。消化のよいあっさりしたものを中心に。寝る直前に食べないようにする。朝、せっかく起きているんだから公園を散歩するなり、走るなりしようぜ。

次に、暇な時間を持て余さない。暇だとついついレンアイ妄想劇場が脳内で展開されてしまう。幸い、仕事はいくらでもある。ここぞとばかりに仕事をしようぜ。

それから、人と会おう。ひとりでくよくよしていても始まらない。ついつい仕事に逃げ込みすぎて、引きこもりっぱなしになりがちだけれど、それってやっぱよくない。基本的なコミュニケーションスキルが低下してしまうし。人と会うとリアルなコミュニケーションの感覚が再認識できて、肥大した妄想はおのずと萎縮していく気がする。太陽が高く昇ると影が小さくなるように。妄想を捨て、陽のあたるところへ出よう!


チキンの魂は四十までで卒業。

恋に落ちちゃっても大丈夫な体力をつけて、神様が降らせたもう「恋の縁」をしっかりキャッチしたい。

ご近所づきあい

先週の土曜、自宅から1分程のところにあるワインバーで、以前にオフ会でご一緒したKさん&Mさんカップルと飲みました。

私の仕事の都合と先方もお仕事だったので、22時スタートという遅い始まり。

2時間ほど楽しく飲んで、「また飲みましょう!」と声を掛け合い、解散。

とことこ1分歩けば、もう自宅。

こういうの、いいなあと思いました。

わたしは自営業で、店を開けて閉めるまで全部ひとりでやっていて、労働時間がすんご長いんだけれども、仕事が終わるともうくたくたで、さあこれから2丁目行こうとか余力は残ってない。

仕事場から2丁目までは20分も歩けば着くんですけどね・・・

ふだん、ついつい仕事ばかりしてしまい、引きこもりがちなわたしとしては、人と人との繋がりが、生活に密着した場所でゆるやかに持てると、とてもいいなあ、あり難いなあと思ったのでした。

しっかし、近所のバーでとてもおいしいワインを飲みながら「親指をどう使うか?」とかさ、普通に話せるのってすごい楽しかったよー。

2009-06-27

越境すること トランスもしくはハイブリット

ここのところ、境界線について考えている。


「あっち」と「こっち」に境界線を引く。

ごちゃごちゃに混ざってしまわないように。

どこになにがあるか分かんないと不便だから。

誰にとって不便なのか?

まあ、所有者とか管理者とか、支配者とかだよ、多分。


母集団に何らかの条件付けをして二分する、あるいは何某かの要素を持つものを抽出する。

それらのおこないは現実的には完璧にやるのは困難な作業だ。

たいてい「これってどっち?えっとどこにも当てはまらないや・・・」っていう個体が現れて、「とりあえず、こっちいっといてー」ってな、いい加減な現場の判断でどうにか体裁を保とうとする。

そういう局面をいくつか経験すると、「このラインってほんと意味あんのか?」とか疑問も湧いたりするけれど、境界線の意義を問うことの対費用効果を考えたりして、境界線はその場にあり続けるってことも多い。

そもそも誰かの(あるいはある集団の)利便性(もしくは利益)のために引かれた境界線ってやつは、なかなか消し去りがたいし、「お断りだよ!」って意思表明をしても、誰かが無邪気に「あ、線消えちゃってて分かりにくかったですね。すみません。」なんて言ってぴーっと引いてくることもあるわけで。


まあ、境界線はしぶとい。


境界線を越える。

境界線上にとどまる。

境界線など気にせず、「あっち」の人でもあり「こっち」の人でもある。

という選択肢があるのだということに、あるカテゴリーの中に居続けると気がつきにくい。そういう発想が湧きにくい。


境界線が自らの目の前に存在するとき、わたしはこれらの選択肢があることを踏まえ十分検討した上で意思決定しているだろうか?

そういう視点に気づかせてくれるのは、現実にトランス(越境する)もしくはハイブリット(境界線を無効化する)な存在だ。

わたしは、トランスもしくはハイブリットな存在に、惹きつけられ触発される。


で、ですね。

なんでこんなことを考えたり文字にしたいと思ったりしたかなんだけど、それは数年前に読んだ本(『女は何を欲望するか』内田樹*1)がきっかけって言えばきっかけなんである。

その本の中では、「境界線を越えるもの、ハイブリットな存在」を、人が恐れ嫌悪し排除するのが当然な「人間の文明が許容しない存在」として、もう全否定なんだよね。

何回か読み返すうちに、反証可能なパートがいくつも見えてきたし、もういいかって気分ではあるんだけれど、一度言語化して、今後の思考の材料にしたいとも思えたので、書いてみる。


以下の引用は『女は何を欲望するか』内田樹著 p196-p198 映画『エイリアン4』をフェミニズム映画論的に読み解くくだりの一部。

 「怪物」とは、「怪物」という独立したカテゴリーに帰属するものを指すものではない。複数の種族の属性を同時に備えているようなものを私たちは「怪物」と呼ぶのである。

 キマイラ、スフィンクス、グリフォン、ぬえ、といった伝説的な怪物は、さまざまな動物のパターンからなる一種のコラージュである。フランケンシュタインの怪物は人間と非人間の境界におり、狼男は自然と文明の境界におり、屍鬼や吸血鬼や死霊たちは「幽明の境」に蟠踞する。見世物小屋をにぎわすフリークスたち(蛇女、たこ娘、半魚人、髭娘)はそれぞれ二つの種の混淆体である。人間のわずかな想像力が生み出した怪物たちはすべて「カテゴリーの境界を守らぬものたち」である

わたしたち人間の想像力で産み落とされたハイブリットな「怪物」たちは、物語の中で怖れられている一方だろうか?

それならばなぜ、人は時代を越えて「怪物」たちの登場する物語を編み出し、そして愛し続けるのだろうか?


なぜ境界線を行き来するものは私たちを恐怖させるのか?

 その理由をレヴィ=ストロースは簡潔にこう述べている。「いかなるものであれ分類はカオスにまさる」。

 古来、人間は二項対立によるデジタルな二分法を無数に積み重ねることによって、アナログでアモルファスな世界を分節し、記号化し、カタログ化し、理解し、所有し、支配してきた。それは「野生の思考」からコンピュータにおける「ビット」の概念まで変わらない。「アナログな連続体をデジタルな二項に切りさばく」のが人間の思考パターンである。それが「知」であり、それによって構築されたものを私たちは「文明」と呼んでいる。これまで人間はそのようにして生きてきたし、たぶんこれからもそのようにして生きてゆくだろう。

 そうである以上、デジタルな対立を無効化してアナログな連続性を回復しようとするハイブリットに嫌悪と恐怖を覚えるのは、「人間として」当然の反応なのである。

デジタル化というのは粗にするということであり、だいたいの全体像が継承されるようデータを圧縮するということでしょ。

把握し取り扱いをしやすくするためのひとつの便法であって、それを「文明」と言い切ってしまうのは乱暴ではないの?


私たちはハイブリットを「怪物」として恐れ、嫌い、排除する。それは人間の社会がカオスに線を引くことによってはじめて成立するからである。「Aであり同時にBであるもの」を人間の文明は許容しない。 

初期設定が間違っているように思う。「人間の社会」がではなく「把握したい誰かにとっての社会」が、ではないか?



この文章(引用した部分)が、ずーっと気になってた。

わたしを戸惑わせたのは、ハイブリットな存在に対し簡単に「気持ち悪い」と言えてしまう素朴さである。

ハイブリットな存在は本当に気持ち悪いのか?

以降、わたしは日々の中で「カテゴリーの境界を守らぬものたち」=越境(トランス)するものたち、そして「Aであり同時にBであるもの」=ハイブリットな存在を今まで以上に意識するようになった。

そして自分の中に、トランスもしくはハイブリットな要素がどこら辺に散らばっているのか気になり始め、また頑なに境界線を越えないようにしている部分がありそうだということにも気づき始めた。

あるカテゴリーに無理やり押し込められたり、カテゴリーにふさわしい何らかのふるまいを強いられることに対し窮屈さや違和感を感じることはあっても、目の前の境界線を越えることや線上にとどまるという発想が今までのわたしには、まったくと言っていいほどになかったので、まだ視界が開けていないもどかしさはあるけれど、少しずつ思考を積み重ねたい。

思考が進んだら追記していきます。



今回新書版を読んで気になった箇所


新書版のためのまえがきより

(単行本が書かれた時期と)今ではフェミニズムを取り巻く知的状況はずいぶん様変わりしました。フェミニズムは今ではもうメディアや学術研究の場での中心的な論件ではなくなっています。

え、そうなの?


大学ではまだ教科書的に「ジェンダー・スタディーズ」が教えられていますけれど、そのステイタスは一時期の「マルクス主義経済学」に近いものがあります。喫緊の社会問題を論じるときに「父権性イデオロギー」や「社会学的に構築されたジェンダー」が社会システムの不調和の原因であるというような説明をしても、耳を傾ける人はもうほとんどいません。これほど短絡的に社会理論が威信を失ったのも珍しいケースでしょう。

え、え、そうなの?

こうだとはにわかに信じがたいが、アカデミズムの中のことは門外漢だからなあ…

この記述のリアリティーを、うろうろして確認してみたいところ。




■昨年新書が出た際にネット上でも書評がたくさんアップされたけれど、わたしが思考の助けにしたブログがこちら↓

幻燈機

『女はファーストフードとスローフード、どちらを欲望するか?』

http://miyukinatsu.blog.so-net.ne.jp/2006-04-25

Ohnobulog2

『「ミソジニー」といかに付き合うか』

http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20080413/1208054577


空中キャンプ

『「女は何を欲望するか?」/内田樹

http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20080518#p1



■このエントリに出てきた本はこちら↓

女は何を欲望するか?

女は何を欲望するか?

女は何を欲望するか? (角川oneテーマ21)

女は何を欲望するか? (角川oneテーマ21)


※アカデミズムの世界でのウチダ先生の位置づけがどんなものかは、わたしは知らない。だけれど、わたしの業界ではウチダ先生的な素朴な身体論がむしろメインストリームで、マジでヤバいことを言う人が現実にわんさかいるのである。黙殺できるほど小さな勢力ではない以上、反証できるように思考を鍛えておく必要はあるとひりひりと感じている。

インポ体験2

以前にインポになった話を書いた。

あれから早4ヶ月。

少し前に「あー、もう治ってきたな」という感覚が唐突に湧いてきた。

徐々に変化して、とかではなく。

インポになった当時、どうして勃たなくなったのかなんてたいして疑問にも感じず、「アタシも歳なのね…」ぐらいにしか考えてなかったんだけれど(それほど困っていなかったし)、今回インポを脱しつつあるという状態に身を置いてみて結構新鮮な感覚があったので、ちょっと書いておく。


恋をしたとき、周りが輝いて見えてみんなが優しく感じられて、自分自身も人に対しいつも以上に優しくしたくなるような、そんな精神状態になるけれど、ちょっとそれによく似た状態が訪れたんだよね。

根拠なき多幸感というか。

身体の方は、まだセックスしてないから実戦可能かは定かでないんだけれど、多分濡れも十分で、陰核が勃起しても痛くないと思う(陰核は勃たないか、勃ってもヒリヒリして痛かった)。

でね、インポ治ったね、よかった、よかった。で話は終わらなくて、どうして回復してきたか、そしてわたしにとってのセックスの意味(の大きな部分)というのが、今回の経験から見えてきたように思う。


まずね、インポになった当時、わたしは昨年の秋に別れた彼女ともう付き合うことは出来ないとしても友人として新しい関係を築いていけないか模索している最中だった。

別れは彼女から一方的に切り出され、ろくに話し合う機会ももてないまま終わってしまったこともあって、わたしは別れた後も彼女に思いが残ってた。

わたしとしては7年ぶりに好きになった人だったし、このまま縁が途切れるのは嫌だったんだ。

で、いろいろあって繋がりは切れてしまうことなく、わたしの店に彼女が月に2回ぐらい訪ねてくるようになり、店が終わった後時々一緒にご飯を食べたり、休日に遊んだりすることもあった。

でね、その過程でわたしはかなり無理をしてしまったんだよ、今にして思うと。

近づきすぎるとぶつかるというのは経験上分かっていたから、程よい距離を保つよう心がけつつ、どんな言動が彼女の逆鱗に触れるのかだいたい読めてきたので、先回りしてそうならないように言動に自己規制かけて、それでも切れられることはあって、そんなときは気にしないふりをして、なんとかなだめてコトをなるだけ穏便に済まそうと。

いい人ぶったんですよ。

でもそういう状態になってるってことに自覚も乏しくて初めは気がつかなかったんだけれど、なんかおっかしーなーって思い始めたのがだいたいインポ発症の頃。

そしてインポから回復する少し前から、そういうことはやめよう、なるだけ穏やかな付き合いはしたいけれど、言いたいことは言おう、そう思って実行するようになった。

結果的には致命的なぶつかり合いをして、それによって生じたわだかまりを乗り越えられないまま、もう会うのは無理だなと感じるようになったんだけれど。

そう思えるようになってからまもなく、身体に瑞々しいものが溢れるようで、まるで恋愛初期のような感覚が訪れた*2

誰に頼まれたわけでもないのに、自分の感情を曲げてまで、ぶつかり合いを避けようとしたわたしの態度は、ちょっと病的で、「自分が悪かったわー」と振り返って思う。

今回のインポは、自分で自分に規制を(これはほとんど無意識に)かけて、抑うつ状態に沈み込んでいく過程の随伴症状としてのインポだったんじゃないか。

わたしにとってセックスという行為は「信頼関係が成り立っている相手と親密感を分け合う行為」なんだ。

なのに、わたしはもうダメになった人となんとか繋がりを維持しようとして「信頼関係」も「親密感」も手放してしまった。

その歪みが身体症状として、出現した。

そういうことだったんじゃないか。


ぐちゃぐちゃ書いたけれど、要は「インポ治ってよかったね」という話でした。

*1:内容は「フェミニズムのどのあたりが戦略ミスであり、どこらへんが次世代へと引き継ぐべき価値のある理論なのか」を「フェミニズムに賛成で反対」というビミョーなスタンスで論じたもの。今回は引用部分に限って触れたけれど、他にも突っ込みどころはたくさんあって、そのすべてに対し、まともに取り合うのは骨が折れるんだけれど、ウチダ先生はマジだし、かなり戦略的にケンカ売ってる。一回ぐらいは読んでみてもいいと思います。

*2:今回の経験から、「恋をするとは、特定の何者かに欲情することである」って言っちゃってもいいような気がしてきたよ。そんぐらい、今回の身体感覚と恋愛の初期症状は近しいものでした。少なくとも二つはパラレルなものではなく地続きのものだわ。

2009-06-17

とりとめのないこと

トピックとしては少し古い話題になるけれど、このところ「異性愛者へ12の質問」や「陵辱ゲームの法規制の動き」をめぐるネット上でのやりとりをウォッチしていて、自分なりに感じたことや考えたことをサスペンドせずに暫定的でもよいから言語化したいなあなんて考えてた。

考えれば考えるほど、思考は拡散してしまい、レイプファンタジーやレイプという行為そのものについてや、レイプという犯罪とその罰則についてとか、「今、そういう話してんじゃねぇし」的なところをぐるぐると回り続けて出口が見つからない。

そんなこんなしていたら昨日ぐらいからインポが治ってきました。

社会的な問題から個人的な問題まで、触れ幅が広い今日この頃です。

んで、ブログなどネット上でテキストを公開するということへのわたしなりのスタンスについて考えるところがあって、うだうだ考えていたんだけれど、その辺のところがこちらのブログにわたしの思考よりずーっと深くまとまられておりましたので、(わたしなりの考えもそのうち書くかもしれないけれど)、リンクさせてもらいました。



ここのところの気持ちをざっくり言ってしまうと、ネットで情報収集して議論をウォッチしてっていう、自分からは何も発言しない、行動しない態度ってどうなのよ?っていうハナシなんだけど。

まるで他人事みたいな、受身な態度。

「いろいろ教えてください!」的な情報泥棒。

「わたし頭悪いからよく分からないんです」」的な思考停止。

自分が嫌っていたものに、今なっているんじゃない?

ってことなんだよね。


言語化する作業はなかなか進まないんだけれど、忙しさに紛れてそのままお蔵入りにならないようにしたい。

自分事としてどう感じ、どう考えたか。

人に聞く前に自分で文献読んだりして調べる。

自分なりの思考を言語化できたら、他者と意見交換して揉まれる。

そんなことを考えてます。


異性愛者へ12の質問?なにそれ?」って人はこちらを参照のこと

異性愛者へ12の質問」発言アーカイブ

http://www42.atwiki.jp/hetero12q/pages/1.html

10000%未熟者なわたしもこうありたいです

隠フェミニスト記(仮)

【未熟者の戦略】無知の知=無知だから気がつく知

http://d.hatena.ne.jp/nagano_haru/20090616/1245156813

2009-05-20

遠くからIDAHO

IDAHO(International Day Against Homophobia 国際反ホモフォビアの日)のことを知ったのは2006年の5月17日を一日か二日過ぎた日で、マイミクのマイミクさんの日記経由でだった。

その方はPSPでモンハンばかりしているふたりの男の子のお母さんで、多分異性愛者だと思うんだけれど、「同性愛者が同性愛者であるという理由で差別されることはあってはならないし、このような日をきっかけにしてふだんそんなことを考えもしない人たちが同性愛嫌悪の問題について知ったり考えたりしてほしいと思う。このような活動はとても意義があると思うんだよー。」といった内容の日記で、当時のトップ画像もレインボー地に「ホモフォビアにNO!5月17日」と書かれたIDAHOアイコンだった。

非当事者の方がそんな風に思い、日記を書いて、読んでいる他の方に呼びかけている(寄せられたコメントも賛同する方がほとんどで、数も多かった)ということに、感銘を受けたんだけれども、IDAHOの存在を非当事者から教えられたことにショックを受けたりもした。

当時のわたしは、レズビアンコミュニティと接触がなく、LGBTの友人知人とも没交渉に近く、仕事ばかりしていて、mixiも始めたばかりだった。

食べていくことに精一杯だったんだけども、それ以降「こういうの、ちょっとヤバイなあ」と感じ始めて、仕事が落ち着くにつれ、少しずつコミュニティと接触したりこのブログを始めてみたりしだした。

IDAHOが近づくと、同性愛嫌悪について、反同性愛嫌悪について、考えてみる。

今年は地元でも街頭アクションがあって実際に知っている方が参加されたので、活動自体を身近に感じたし「自分は同性愛嫌悪について何を感じ、考えているか。誰に何を伝えたいか?」を言語化したいなあと思ってたんだけども、なかなかまとまらない。

まとまらないので、とりあえずIDAHOアクションの様子のレポートや関連記事のリンクを貼っときます。


東京での街頭アクションの様子

"多様な性”にYES!各地でシンポや街頭アピール

http://www.labornetjp.org/news/2009/0517hokoku

「フツーに生きてるGAYの日常」より

http://akaboshi07.blog44.fc2.com/blog-category-104.html

ホモフォビアに関連して

「押して、押して、押し倒されろ!」より『ホモフォビアとお国柄』

http://yuichikawa.blog28.fc2.com/blog-entry-1492.html

↑のエントリ中で紹介されている以下のテキストも読んでみてください。

モスクワのゲイ・プライド・マーチ「スラヴィック・プライド09」で起こったことまとめ -みやきち日記

http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20090518/1242580199

映画「ミルク」レビュー 私はゲイが嫌いだ

http://www.eigaseikatu.com/imp/25358/513766/


街頭アクションで読み上げられたメッセージはこちらで読むことができます。


同性愛嫌悪の現状(同性愛者であるという理由で処刑されたり投獄されたりする国が、パレードで暴力行為が横行したり不当に逮捕される国が、今現在もあるということ。同性愛者であるという理由でいじめに遭ったり、自殺を考えたり実際に自殺してしまったりする青少年がいるということ。などなど。)を知り、伝えるということは、政治的で大問題のようで、「大事だとは思うんだけど、ちょっと私には荷が重いかな…」という躊躇を生みやすい。

私自身、何かを発言したり、文字に書いたりしようとすると、すんごい考えてしまうし、労力もけっこう使う。

でも、でも。

「わたしは何を感じ、考え、何ができるか、何をしたいか」という極めて個人的な着火点から生まれたふるまいやおこないが、つながり成長していくようなことだではないか。


わたしが同性愛嫌悪について考えてみて、頭をよぎったこと。

「同性愛嫌悪をなかったことにしたいのって当事者だよな。」ということ。

非当事者の中には(例えば異性愛者で同性愛嫌悪がある人とか)「同性愛者」を気持ち悪い、見たくない、なかったことにしたいと思う人がいるかもしれないが、「同性愛嫌悪」をなかったことにしたいとは思わないだろう。

「○○ってレズなんだってー」とからかう様な口調で言われて、「あ、あー、そうなんだー」と固まった顔で返答してしまうとき。

「こんな風に腕組んでたらレズかと思われちゃうかなー」とヘテロ女子に無邪気に言われて「お、おー、そんなことないんちゃうん」と口ごもってしまうとき。

「結婚、なんでしないのー?まさかレズじゃないよね?」と冗談口調で言われて、「違いますよー」と答えながら腋の下から汗が噴出してしまうとき。

「いちいち反応しないでおこう。スルーするのが一番(安全)さ。」そう心の中でつぶやく。

「さっきの、なかったことにしよ」

そういうのが、んもーとにかくわたしは嫌だ。

処世術とは思えない。

自分はしたくない。

まずは「同性愛嫌悪をなかったことにしたい」がなくなるといいなと個人的には思います。

2009-05-08

過去の恋愛から学ぶな

好きな人ができた。

仲良くなりたい。

相手のことを知りたい。


好きになってほしい。



恋人とケンカした。

何かを言って怒らせてしまった。

何かを言われて不機嫌になってしまった。


仲直りしたい。



そんなとき、前にも似たような経験をしたなあと過去の一場面がふーっとよみがえることがある。

「あの時はこう言って失敗したんだよな」とかなんとか…

恋愛ほど過去の経験に縛られてしまう行いはない。



しかし

相手が変わればすべてが変わるのだ。


そのことを忘れちゃいけない。


『過去の恋愛から学ぶな』

それが、わたしが恋愛から学んだことだ。

恋愛経験には何ひとつ無駄なものなんかないし、どんな体験も血となり肉となり骨となって、人を成長させてくれる。

しかし、そのことと、データとして断片的な過去の出来事に参照価値があるか否かという問題はまた別の話。

過去のその場面で何かを言った(やった)わたし(あなた)はもうこの世にはいないのだ。

たとえ一週間でも一ヶ月でも時が経てば人はその分だけ成長する。


恋愛においては、いかに過去の経験に縛られず、今目の前にいるこの人とコミュニケーションできるか、そのことに意識的でいられるかが大切だと思う。


ついでに言うと未来のわたし(あなた)はまだ存在していない。

だから、将来こうしたいんだよ、こうしようよーとかなんとか、未来予想図を語りすぎるのは危うい。


今、この瞬間に、この現場で、何をするか、何を言うか。

そこに集中したい。

過去に縛られるのも、未来ばかり夢見るのも、もう止めにしようぜ。