『語り得ぬもの:村上春樹の女性(レズビアン)表象』

ついったーのTL中で触れられてて、面白そうだなと思い読んでみたよ。
わたしはいわゆる「ハルキスト」ではないけれど、村上春樹の作品の9割ぐらいは読んでます。


※以下「ノルウェイの森」と「スプートニクの恋人」の内容に触れています。未読の方はご注意ください(一応ね)。


村上春樹の小説にはレズビアンが出てくる作品が二つある。
ノルウェイの森」と「スプートニクの恋人」だ。
そのどちらも読んでいるんだけれど、どうしようもない違和感がわたしにはあって、それがなんなのか知りたいなあとは思っていた。


特に「ノルウェイの森」に登場するレズビアン像は、なんというか安っぽくって、レズビアンの女の子とのセックスシーンの描写は、レズビアン・ポルノとして多くの読者に消費されたであろうし、勘ぐればそもそもポルノグラフィックなスパイスとして挿入されたようにも読めて、リアルじゃないとか、レズ=誘惑する変態という偏見とか、それ以前のもの。非常に薄っぺらいなあという印象を受けていた。


また「スプートニクの恋人」は、女性に恋に堕ちてしまった女性が登場するんだけれど、女性だから好きになったわけではない、たまたま女性だっただけみたいなよくあるパターンで、最終的に女性同士の恋愛は成就することなく、主人公のもとへ帰ってくるという結末で、特に性愛の描写があるわけではなし、正直なんで村上春樹レズビアンを描こうとするのか、その必然性が理解できなかったんだよね。
作中の

「わたしはミュウ*1と交わらなければならない。彼女の身体の内側まで入ってしまわなけれなならないのだ。彼女に私の身体の内側に入ってもらいたいのだ。貪欲なぬめぬめした蛇のように」(206P)

みたいな記述を読むと、まあそんな風なことをまったく思わなくもないけれど*2、「『膣の中を(愛する人の)何物かで埋めてしまいたいっていう飢餓感が女性にはある』っていう意味なのかしらねー、ヘテロ臭いわねー」とその臭気が鼻についちゃって、「あー、なんで春樹はレズを登場させんのかしら?ってむしろ要らないしー」な気分がしてた。


本書では『女性(レズビアン)表象』と括弧書きがついているけれど、女性表象全般について論考されており、レズビアン表象についてはその一部分という感じです。
でも、決して軽んじられているわけではなく折に触れレズビアンの描かれ方について他書からの引用も挿入しながら考察されています。

村上春樹が作品の中で、女性という存在をどう描いてきたか、女性の(性的な)欲望をどう物語の中に織り込んできたかについて、村上春樹の小説の登場人物じゃないけれど、「やれやれ」と文末に付け加えたくなるような淡々としたクールなトーンで語られていきます。


わたしには俯瞰したレビューを書く力はないので、今回はわたし個人が違和感を感じた部分と対応する箇所のみピックアップしてみます。


まず「ノルウェイの森」について

31歳の玲子サンを誘惑する「筋金入りのレズビアン」である13歳の美少女という設定は、著者もちょっと非現実的だよねーって指摘してます。

この女の子には名前が与えられていないんだけれど、そのことに個別性より典型を強化する作用があることを危惧してる。この女の子の描き方はレズビアンに対し読者に嫌悪感と距離を引き起こさせる描写で、異性愛を補完するものとしての役割をするとも。

うん。わたしもそう思った。レズ十把ひとからげ的な雑な扱いだなあと。やれやれ。


ただし、他の女性の登場人物たちがアイデンティティの揺らぎを抱えているのに対し、この女の子はなんせ「筋金入りのレズビアン」だからさ、強烈な自己認識を持っていると肯定的にも評価できるとしてます。

その読みはどうかなーとちょっと疑問に思った。

それから13歳の女の子に誘惑されたという部分は実は玲子サンの妄想だったので、女の子の描写が類型的になったという解釈もできると。

それは、深読みすぎではないだろうか・・・
そんな落ちは嫌だ。妄想なんだからアリでしょってことですか?

「1960年代末の日本でレズビアンは、常に負の表象にさらされ、一方的であり当事者の語りが閉ざされていた時代」

であったと締めくくっている。

時代背景的なことは、あんまり考えてなかった。
わたしたちがリアルだと感じているレズビアン像って現代のごく狭い範囲で出会った人たちのイメージの寄せ集めな訳なんだよね。
当時のレズビアンがおかれた状況として、当事者の語りが封じられて、侮蔑と汚辱の代名詞としてのレズビアンの描写とするならば、納得できなくはないと思った。

ただし、不快ではあるよね。

村上春樹は一貫して安易に共感しないってことを自らに課しているような意地が悪いとも取れる冷徹な描写をしているように私には読める。「非当事者」としての繋がれる部分に光を当てるのではなくて断絶した部分を、闇を照らすような表現を好んでいるように思えるのだが。



次に「スプートニクの恋人
こちらはですね、要は「ノルウェイの森」ではレズビアンとは侮蔑と汚辱の代名詞的な位置づけだったが、時代が下って、「好きになった人がたまたま女だっただけ」って語れるようになって、進歩してよかったねっていう解釈に読めました。
わたしがバカなので理解が違うかもしれません。

なので、あまり言うことはないです。


村上春樹作品では性的欲望を女性が求めたりすると、苦悩したり引き裂かれたり、いつも尋常じゃない感じ。
女がセックスしたいと思うことと、そのことに自覚的であること、そしてそれを行動に移すことは、なんだかもう、死んじゃうぐらいの大事なわけです。

この両作品もそんな感じなんだけれど、女性が主体的に誰かを欲望するというシチュエーションを描きたいと思うと女性同士の方が描きやすいのでしょうか?

それとも、女性が男性を欲望するという視線を描くのは、陳腐になりやすいとか下品に堕ちやすいとかあるんでしょうかね。

別に女性が男性を強く深く求めてもいいと思うんだけれど。
そういう小説は女性の作家が多く描いてるか。
男性からの目線で書くと嘘っぽくなっちゃうのかな。
それを言ったらレズビアンを男性が描いても同じか・・・


本書の中では、村上春樹以外の作家の作品にも触れられています。
このような読みのまとまった著作は多分これが初めてだと思うけど、もっともっと出てくると面白いのにと思いました。

興味を持たれた方、ぜひ読んでみて下さい。
ただし、対象作品をはじめハルキ作品を複数読んでいる人でないとちょっときびしいかもしれません。


村上春樹作品については「海辺のカフカ」中のフェミニストトランスジェンダーの登場人物の描き方にも突っ込んでみたいところだけれど、長くなるのでやめておきます。ともかくだ。内田樹オジサンがきゃっきゃ喜んで語っているような、素朴なフェミニズム批判ではないという印象です。



語り得ぬもの:村上春樹の女性(レズビアン)表象

語り得ぬもの:村上春樹の女性(レズビアン)表象

*1:22歳の小説家志望のすみれが恋をした17歳年上の女性

*2:わたし自身はどちらかというと折り重なった二人の身体の境界線が溶けてなくなってしまう感じが切実に欲しい感覚。でもこれって女同士で肌質が近しいってのもあるかも。あの感覚のひりひりぞくぞくする感じ、いいですよねー。