フリジッド・ガゼット【all the footprints I’ve ever left】 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-07-24

[] 雄弁と沈黙

…その内容は、私が有する知識とは異なっているし、故に私における歴史認識とは異なっている。そして、常に複数であり得る歴史に対する「認識」とは違い、歴史に唯一客観のものとして存在する「真実」があり得るのだとして(いや存在すると断言出来るのであるが)もなお、私はその「真実」を知り得る立場にも、語り得る立場にもない。

但し、一つだけ。

沈黙は金であり、雄弁は銀である。この至言に反し、世界は雄弁に語った者が勝者となり、歴史は勝者の歴史として紡がれ、そして語り継がれることが往々である。沈黙は必ずしも、金ではない。であるからこそ、沈黙に託された意思を守る為に、誰かが雄弁に語らなければならないこともまた、確かである。

しかし、雄弁には責任が伴う。自己に対する責任、そして他者に対する責任が。その責任はいついかなる時をもっても、私を含めた万人に降りかかる。故に私はここで筆を置かねばならない。どうやら、私もまた雄弁が過ぎたようだ。


しかし/そして私は、彼女の沈黙を信じる。

2010-12-16

[] 「V一 vs. 高林恭子」観戦記

個人的な思い入れを多分に含めれば、マニー・パッキャオ vs. アントニオ・マルガリートと並ぶ、2010年ベストバウト。


高林の試合を初めて観たのは、六年前のことであった。最初に印象に残ったのは、下北でのedge戦。タウンホールに衝撃音が響くほどのヒザ蹴りをカウンターで貰いながらも、それで怯むことなく攻める姿勢が印象に残って、それで好きな選手となって、追いかけて応援することにした。

レスリング上がりにありがちなクラウチング気味の構えで、徐々に向上してきたとはいえ、打撃が苦手な選手だった。加えて、打撃を嫌がって遠い間合いからタックルに入って、それで切られると云う悪癖のある選手だった。格下と思われたせりに負けた試合などはその典型で、それでその負けた試合の後に通路で号泣していたと云う、そんな選手だった。

それがどう変わったかは、V一戦を観た方になら理解して頂けると思う。


相当に追い込んだ練習をしてきたのだろう。それも打撃を重点的に強化してきたのだと思う。

それは試合開始直後、脇を締めたボクシングスタイルと、そして「表情」を見た瞬間に分かった。獲物を狙う狩人のような目付きだった。自信が内面の変化を呼び起こし、その内面の変化が表情となって外面に現れたのだと、そう確信している(内面の変化に関しては、練習仲間の服部愛子選手が、本人がそれを自覚している旨教えて下さった)。

技術の向上が内面の変化をもたらし、その内面の変化は高い集中力として表出されていたと思う。結果、反応速度と状況判断が向上し、技術的ポテンシャルを全て発揮出来るようになっていた。それはまさにテクニックとメンタルの相乗効果としか言いようがない現象だったと思うし、その相乗効果が表情の変化として結実していたとも思う。

首振りやグライディングなど技術的な面も含めた立ち姿、鋭く伸びるリードジャブやストレート、そして何よりもその表情は、僕の眼にはとても美しいものとして映った。その「美しさ」は、「地味」と云う高林のそれまでの印象を充分に払拭するものであったはずだと、そう願ってやまない。


徹底的にテイクダウンを回避し続けて、切り続けて的確に打撃を当て続けた高林の勝利である。試合が終わった瞬間、自分はそう思った(一緒に観戦していた方も、判定が読み上げられる前に「完封ですね」と僕に話しかけてきた)。これは一切の贔屓目を除いた上での感想であることを断言するが、圧倒的なリングジェネラルシップに加えダメージでも優勢だったはずだ。後にある関係者からも同様の意見を聞いた。

ただいかんせん「挑戦者」が取るべき戦法ではなかったかもしれない。少なくとも「前」に出ていたのがVだったことは確かだからだ(尤も僕の考えでは、V一が前に出続けたのは高林のパンチが当たる距離を嫌ってのことだったと思うが)。いずれにせよ、桜庭戦のガイ・メッツアーを彷彿させる戦い方(これは僕にとってはかなり上位の褒め言葉)で、少なくとも今年見た女子総合の試合では最もテクニカルで、最も語るべき点が多い内容だったと、僕はそう思っている。

タックルを切られておどおどして試合後に号泣していた高林は、リングの上にはもういなかった。それでも、今回もまた、リングを降りた高林は号泣していたと云う。高林にとってその涙の意味は、歳月を経て全く違うものとなっていただろう。試合後、高林はブログにこう記している。

仲間やファンの方にベルトを巻いてもらうのが私の夢だったので、落胆させてしまって本当にごめんなさい。

http://blog.goo.ne.jp/kyoko-takaba/e/afcfd571f0c231a1d9e996bf0b6ba85c

落胆は…しなかったと言えば嘘になる。しかし自分の「落胆」は、高林が云うような意味におけるそれではなかった。自分の落胆は高林に対して向けられたものではなく、この試合の判定そのものに向けられたものであったからだ。だって、どう見たって勝っていたじゃないか。勝っていた試合を、判定によって奪われただけではないか。


だから、そしてそもそも、(「仲間」はともかく)ファンに対して「ごめんなさい」などと云う必要は、どこにもない。これはこの試合の高林に関してのみに言えることではなく、一般論としてそう言えることである。ファンは競技者に対して、夢を仮託する。これは端的な事実である。「夢はひとり見るものじゃない」。これもその通りである。そしてファンはいつだって、「夢を、力を、勇気を貰いました」とか、そんなようなことを言う存在である。

しかし、格闘技と云う競技は、そして競技者としての夢は、競技者であるあなたのものだ。ファンは金を払って、それを拝見させて頂いているだけの存在である。束の間、競技者としての夢をファンが共有する幸福な瞬間が訪れることもある。競技者としてのあなたの姿に感情を揺らされ、その結果として、自分の内面に夢や力や勇気が生成されることはある。しかし、それでもなお、格闘技と云う競技は競技者であるあなたのものだ。だから、あなたがファンに対して「ごめんなさい」などと言う必要は、どこにもないんだよ。


話しが逸れた。落胆が歓喜に変わる瞬間は、いつか必ず来る。そしてその歓喜は、落胆が深ければ深い分だけ、きっとその何倍もの感動として訪れる。だからこそ自分は、格闘技を観ると云う行為を、そして選手を見守り応援すると云う行為を、いつまでだって続けるつもりなのだ。「夢」はまだ終わっていない。「夢」の続きは、もう始まっている。それで、それだけで充分ではないか。

これ以上の言葉は必要ない。そんな気がするので、この観戦記はここで筆を置くこととする。

2010-12-12

[] 激情系とブラックメタルの幸福な結婚

空洞(クウドウ)

空洞(クウドウ)

ブラックメタルを基調としつつも、そこに90年代以降のハードコアの豊饒な成果を惜しみなく導入することで、「いわゆるメタル」の域に留まらないサウンドスケープを達成している。

たとえば、叙情派ニュースクールや激情系ハードコアの影響が色濃い、ギターの音作り。音圧は高いものの、一音一音の分離が聴き分けられる程度に歪みが抑制されている。その為、激しい中でも単音/和音/分散和音の使い分けが際立ち、結果として混沌としつつも情感豊かなエモーションが表現されている。

またリズムパターンが豊富で、この手のエクストリームミュージックにありがちな単調さを回避することに成功している。具体的には一曲の中での、ツーバスブラストからスラッジコア的スローパートまでの使い分け。曲全体の展開に激しい起伏が発生し、それはそのまま、聴き手の感情に振れ幅の大きい起伏を発生させる。

特筆すべきは演奏力の高さなのだが、それは決して自己目的化してしまってはいない。たとえばギターの早弾きフレーズは、彼らにおいては決してテクニックのひけらかしではなく、切迫感や悲壮感を喚起する、感情表現の手法として成立している。それはもちろんブラストビートも然りである。


個人的に印象深いのがM5「諦めに届かぬ反復行動」。以前V.A "ARTICLE OF PARADE" に収録されていた曲のリアレンジであるが、当時よりもさらに壮大な楽曲へと進化している。

コーラス深めにかけたクリーントーンアルペジオから始まり、やがて三連符の轟音ウォール・オブ・サウンドへと至るこの一曲は、音源においてもライブにおいても彼らの代表曲としての地位を確立している。


それにしても、これだけのサウンドスケープをスリーピースで実現しているのには驚かされる。決して録音技術でズルをしているのではないことは、ライブを観れば一目瞭然である。この点も忘れずに付記しておきたい。


COHOL myspace: http://www.myspace.com/cohol6

COHOL youtube : http://www.youtube.com/watch?v=Kdo68HJcmcc

2010-11-26

[] 格闘技にとって美とはなにか(上)

吉本隆明まで引いた大仰なタイトルを付けてはみたものの、あまり大したことが書けるとは思ってはいない。と云うか、本来であればもっと専門的な知識を持った人間がやるべき仕事であるとも思うのだが、まあ箸休め程度にどうぞ。


格闘技/プロレス(敢えてこう表記する)の芸術性ってのは昔から考えていることだ。ある種のプロレスなんかは、フィギュアスケートみたいに採点競技にしてしまえばいいくらいに、自分は割と本気で思っていたりする。

まあ競技としての目的が勝敗を競い合う部分にある格闘技に関してはそう云う訳にもいかないのだが、あまり難しく考えずともシンプルに観ていて美しいものを観ていたいと云うこともあり、格闘技を身体芸術として捉える視点は10年以上前から備わっていた気がする。


感情表現としてではなく、身体芸術としての格闘技を考えたとき、自分にとってムエタイと云うジャンルは一挙にその存在感を増してくる。自分は決してムエタイマニアではないがのだ、数少ない観戦経験の中でも、有名なナックモエに関しては必ずその芸術性が印象に残っている。

アタチャイにせよセンチャイにせよ、個々の技がどうこうと云う域に留まらず、より根源的な体捌きのキレや、リングジェネラルシップの握り方、あるいは立ち姿のたたずまいから鍛え抜かれた太腿に至るまで、その全てが美しく感じられたものだ。ナックモエと云うよりはキックボクサーであるが、藤原あらしなども相当に美しい存在であると感じている。

彼らの場合その「美しさ」が「強さ」と不可分の地平で成立している点が素晴らしく、だからアタチャイ vs. 洋平でアタチャイが見せたパフォーマンスなどは、身体芸術としての格闘技と云う観点からすると、自分の観戦歴の中でも屈指のレベルに達していた。


アタチャイ・フェアテックス vs. 桜井洋平

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総合格闘技の方に眼を向けると、ヒョードルの体捌きと独特のリズム感なんかも、自分の眼には非常に高水準の「芸術作品」として完成されているなと云う印象を受ける。それはもちろんパウンドを打つ際の表情等を含めてのことだから、格闘技を感情表現と身体芸術と云う二つの側面に二元論的に切り分けてしまうことは出来ないのだけど、いわゆる「観る側」からの語られ方は前者の側からの視点にやや偏ってしまっている印象を受ける(と云うか自分なんかまさにそうである/あった、と云う自戒を込めて)。

これは試合/興行を見せる側にも言えることだと思っていて、たとえば佐藤大輔の煽りVの功罪と云うものも、そのような観点から考え直すことは出来まいか。ヒョードルのパウンドはあくまでもヒョードルのパウンドと云う「事物そのもの」でしかなく、そこにどのような意味を見出すか(あるいは見出さないか)は観る側に委ねられているはずなのだが、そこに「氷の拳」と云う「言葉」を付帯することによって、予め決定されてしまった「意味」が発生してしまっている。観る側の感情のフォーカスを、ある程度決まり切った方向に誘導してしまっている。

まあだからこそ佐藤大輔の煽りVは、それ自体が固有の(感情表現を伴う)「芸術作品」として価値が立っているとも言えるのであるが、いずれにしても、興行と云う全体性としてのそれにせよ、試合/選手と云う細部としてのそれにせよ、広義の「送り手」/「伝える側」が演出方法や言葉によって発生させる意味性が、本来は多様であって然るべき観る者の受容の仕方を一定の方向に制約し、ときにその自由性を阻害してしまっている側面はあるのではないだろうか。


と云うようなことを、最近マーク・ロスコジャクソン・ポロックの抽象表現主義芸術についてオベンキョーしている内に思い至ったのであるが、そこから女子格闘技、特に高橋藍を中心に簡潔に書こうと思っていたら、案の定前置きが長くなってしまった。こうなるともう簡潔に書けそうもないので、続きは項を改めるとする。

2010-11-25

[] 消え入りそうな小さな声で

北朝鮮砲撃事件の報に触れた際に想起したのは、高校二年時の韓国への修学旅行のことであった。それも、板門店で銃を片手に38度線越しにこちらを凝視する北朝鮮兵士のことではなく、現地で仲良くなって色々な話をしてくれた韓国人のガイドさんのこと。

日本語が話せる彼女とは、旅程を共にする中で打ち解けていって、だんだん二人っきりで話す時間が増えていった。昔恋人が兵役に取られて、結局そのまま別れてしまったと云う過去を話す彼女は、とても切なそうだった。帰国の途に就く空港での別れ際、いきなり頬にキスされて、照れ笑いを見せたのが僕で、泣き笑いを見せたのが彼女。

新聞を読んだりニュースを見ていたりしていたら、すっかり忘却していた一連の出来事が、少しずつ少しずつ追憶されてきた。そして、亡くなられた民間人二人への哀悼が胸に去来するより先に、彼女は元気に幸せに暮らしているだろうかと思いを馳せる、そんな自分がいまここにいる。


なるほど、柴崎友香が見出した佐藤伸治の世界観とはこう云うものであったのかと、少々合点がいった気がする。普段は人並に政治的なるものについて考えを巡らせる僕なのに、いままさに戦争が起きるやもしれない状況になってしまうと逆に、蘇る記憶と思い浮かぶ言葉はそんな個人的な「小さな物語」くらいしかなくなってしまう。

だから、もし仮に昨日、日本にミサイルが飛んできていたとしても、自分と自分の身の周りの人間に危害がない限り、自分にとっての2010年11月24日とはすなわち、日付が変わる瞬間を待っていたかのようなタイミングで届いた祝辞とか、スペルを間違えてしまったハッピーバースデイのコメントとか、そんなようなものとしてのみ記憶されていたに違いない。

そう、この煩さすぎて、複雑すぎて、溢れすぎた世界において、15年経ってもなお心に残っていくものなんて、きっとそんな些細で私的な出来事との集積くらいなんだろう。声高に「戦争反対」を叫ぶのが苦手な僕は、そんな些細で私的な出来事をこうやってナラティブとして日記に書き記している方が楽しいし、好きだ。


イアン・マッケイが言うように、それがアパシーと紙一重の、悪い意味における政治性であることくらい、僕だって分かっている。世界がかくも悲惨になっているのに、どうして自分の半径二メートルの世界をそこまで肯定出来るのかと、そう問い詰められたら返す言葉もない。でも他方で、こうも思うのだ。

僕は亡くなられた民間人二人に対しては「傍観者」でしか有り得ないが、親密になったガイドさんに対しては多少なりとも「当事者」としての意識を持ち得るのではないか、と。人を政治的たらしめる当事者性の媒介がそんな些細で私的なものであっても、それでいいではないか、と。ついついそんなことを呟いてみたくなってしまう。消え入りそうな小さな声で。

そして僕は、あのガイドさんには元気に幸せに暮らしていて欲しいと心の底から思うから、この事件が戦争へと発展しないで欲しいと心の底から願ってやまない。でも僕は声高に「戦争反対」を叫ぶのは苦手だから、消え入りそうな小さな声の自分が考えていることを言葉にすることしか出来ない。


でも、それでいいではないか。ちょっとだけ大きな声で、そんな主張をしてみよう。



Belle & Sebastian - I Fought In a War

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いままさに戦争が起きようとしていても、否、戦争が起きようとしているからこそ、誕生日を祝い祝われ、感謝し感謝される、そんな思いを忘れない人間でありたい。そしてまた、その逆も然り。

メッセやメールくれた方、mixiにコメント付けてくれた方、本当にありがとうございました。

2010-11-24

[][] 僕が生まれた日の賛歌 2010

今日で31歳。

何かに自分の過去を投影して魅かれたり考えたり書いたりするのはもううんざりだし、「人生の中で一番楽しかった時期は」との問いには「いま」と応えられる健康的な人間でありたいのだが、村上春樹の言う「35歳問題」に直面するのはこれでもまだ先のことなのだと云う。

そしてこれは、僕の人生の中で今日と云う日の為だけに用意された一曲。こんな後ろ向きな人間ではありたくないのだが、これも運命だと思って載せておくこととする。



Aimee Mann - 31 Today

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Thirty-one today

今日で31歳

What a thing to say

ああ、何てことなの

Drinking Guinness in the afternoon

昼下がりにギネスを飲んで

Taking shelter in the black cocoon

黒い覆いの下に避難している


I thought my life would be different somehow

こんなはずじゃなかったわたしの人生

I thought my life would be better by now

今頃はもっとましな人生になっているはずだと思っていた

I thought my life would be different somehow

こんなはずじゃなかったわたしの人生

I thought my life would be better by now

今頃はもっとましな人生になっているはずだと思っていた

But it's not,

でもそうじゃない

and I don't know where to turn

そしてわたしはどっちに方向転換すればいいのかわからない

2010-11-19

[][] 我が禁煙(上)

もう面倒なので禁煙の秘策とは何なのか、端的に結論から先に書く。それはすなわち、チュッパチャップスでタバコを代替する、と云う策である。

いや、先日ある人に言われたのよ。「そんなにチュッパチャプスが好きなら、タバコの代わりに舐めてれば禁煙出来るんじゃないですか?」と。その時はあまり深く考えなかったのだけど、いざ禁煙の必要性に迫られた瞬間、この言葉を想起したのであった。

折も折、ちょうど金銭的にも余裕のなくなってきたタイミングでもあったので、この際だから禁煙することによる経済効果も考えてみようと思った。以下、その試算を記す。



f:id:frigidstar:20101120014345j:image:h270,w180 vs. f:id:frigidstar:20101120014344j:image:h270,w180


まずは、それぞれの単価を割り出してみる。


【タバコ】(一箱)420円くらい÷20本≒21円/本

【チュッパチャップス】(一個)42円÷1個=42円/個


この時点では、タバコの一本あたり単価はチュッパチャップスのそれの半値であることが分かる。しかし、ここからそれぞれを味わう時間あたりの単価を割り出してみると、事態は全く異なった様相を呈してくる。


【タバコ】一本21円÷(一本吸うのに)5分くらい≒4.2円/分

【チュッパチャップス】一個42円÷(一個舐めるのに)20分くらい≒2円/分


ここで両者は逆転し、チュッパチャップスの一分あたり単価はタバコのそれの半値であることが分かる。しかも、チュッパチャップスを舐めるのに要する20分とは、あくまでも最低限の時間であり、実際は舐めようと思えば30分でも一時間でも舐めていられるものである(先日映画を観ながら舐めた際は、2時間くらい咥えていた)。

つまり結論として、チュッパチャップスのコストパフォーマンスはタバコの二倍か、もしくはそれ以上であると云う衝撃の事実が判明したのである。


そんな訳で早速近所のコンビニでチュッパチャップスを大人買い(笑)して、今日から本格的に禁煙を始めることとした。

したのだが、ここでまたしても新たなる衝撃の事実に直面したのである。


(続く)



エレクトリカルパレード

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チュッパチャップス本山こと、本山雅志の屈託のない笑顔が大好きだ。

シャビにも匹敵する才能を持ちながら、結局その生涯において一度もワールドカップの舞台を踏むことも、海外移籍を果たすことすらもなさそうな本山。

それを「挫折」と言えるのかどうかは本人のみぞ知るところであるが、少なくとも彼の屈託のない笑顔からは、そのような後悔や諦念は感じさせない。いまここを肯定し愛する者のみが持ち得る邪気のない明るさが、彼の笑顔にはある。

だから僕は、本山雅志の屈託のない笑顔が大好きだ。