フリジッド・ガゼット【all the footprints I’ve ever left】 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2010-11-26

[] 格闘技にとって美とはなにか(上)

吉本隆明まで引いた大仰なタイトルを付けてはみたものの、あまり大したことが書けるとは思ってはいない。と云うか、本来であればもっと専門的な知識を持った人間がやるべき仕事であるとも思うのだが、まあ箸休め程度にどうぞ。


格闘技/プロレス(敢えてこう表記する)の芸術性ってのは昔から考えていることだ。ある種のプロレスなんかは、フィギュアスケートみたいに採点競技にしてしまえばいいくらいに、自分は割と本気で思っていたりする。

まあ競技としての目的が勝敗を競い合う部分にある格闘技に関してはそう云う訳にもいかないのだが、あまり難しく考えずともシンプルに観ていて美しいものを観ていたいと云うこともあり、格闘技を身体芸術として捉える視点は10年以上前から備わっていた気がする。


感情表現としてではなく、身体芸術としての格闘技を考えたとき、自分にとってムエタイと云うジャンルは一挙にその存在感を増してくる。自分は決してムエタイマニアではないがのだ、数少ない観戦経験の中でも、有名なナックモエに関しては必ずその芸術性が印象に残っている。

アタチャイにせよセンチャイにせよ、個々の技がどうこうと云う域に留まらず、より根源的な体捌きのキレや、リングジェネラルシップの握り方、あるいは立ち姿のたたずまいから鍛え抜かれた太腿に至るまで、その全てが美しく感じられたものだ。ナックモエと云うよりはキックボクサーであるが、藤原あらしなども相当に美しい存在であると感じている。

彼らの場合その「美しさ」が「強さ」と不可分の地平で成立している点が素晴らしく、だからアタチャイ vs. 洋平でアタチャイが見せたパフォーマンスなどは、身体芸術としての格闘技と云う観点からすると、自分の観戦歴の中でも屈指のレベルに達していた。


アタチャイ・フェアテックス vs. 桜井洋平

D


総合格闘技の方に眼を向けると、ヒョードルの体捌きと独特のリズム感なんかも、自分の眼には非常に高水準の「芸術作品」として完成されているなと云う印象を受ける。それはもちろんパウンドを打つ際の表情等を含めてのことだから、格闘技を感情表現と身体芸術と云う二つの側面に二元論的に切り分けてしまうことは出来ないのだけど、いわゆる「観る側」からの語られ方は前者の側からの視点にやや偏ってしまっている印象を受ける(と云うか自分なんかまさにそうである/あった、と云う自戒を込めて)。

これは試合/興行を見せる側にも言えることだと思っていて、たとえば佐藤大輔の煽りVの功罪と云うものも、そのような観点から考え直すことは出来まいか。ヒョードルのパウンドはあくまでもヒョードルのパウンドと云う「事物そのもの」でしかなく、そこにどのような意味を見出すか(あるいは見出さないか)は観る側に委ねられているはずなのだが、そこに「氷の拳」と云う「言葉」を付帯することによって、予め決定されてしまった「意味」が発生してしまっている。観る側の感情のフォーカスを、ある程度決まり切った方向に誘導してしまっている。

まあだからこそ佐藤大輔の煽りVは、それ自体が固有の(感情表現を伴う)「芸術作品」として価値が立っているとも言えるのであるが、いずれにしても、興行と云う全体性としてのそれにせよ、試合/選手と云う細部としてのそれにせよ、広義の「送り手」/「伝える側」が演出方法や言葉によって発生させる意味性が、本来は多様であって然るべき観る者の受容の仕方を一定の方向に制約し、ときにその自由性を阻害してしまっている側面はあるのではないだろうか。


と云うようなことを、最近マーク・ロスコジャクソン・ポロックの抽象表現主義芸術についてオベンキョーしている内に思い至ったのであるが、そこから女子格闘技、特に高橋藍を中心に簡潔に書こうと思っていたら、案の定前置きが長くなってしまった。こうなるともう簡潔に書けそうもないので、続きは項を改めるとする。

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