フリジッド・ガゼット【all the footprints I’ve ever left】 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2010-11-18

[][] 脱ショートスリーパーを目指して

車の中でタバコの火を落として、スーツに穴を空けて、これを契機に禁煙することにして、その秘策を書こうと思っていたのだけど、あまりにも眠くてロクなこと書きそうにないので、寝る。

眠過ぎて頭が痛いのだが、何とか寝ることにする。どうも最近の自分に一番足りていないのは睡眠であったことに気付いたので、寝る。



R.E.M. - Daysleeper

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考えてみれば寝ている間はタバコを吸わないのだから、とっとと寝てしまうのも禁煙の手っちゃー手なんだよな。

一日中寝てればタバコ一本も吸わないで一日が終わるんだけど、さすがに働いている以上そうは出来ない。でもまあ、日中目を覚ましていても眠っているかのような感覚で過ごせば、タバコ吸う気すら起きないんではないかとも思う。

結局今日は夕方以降、何をした訳でもないのにタバコを一本も吸わなかった。

2010-11-17

[][] 「色」も色々、十人十色

印刷物を評価する際、「色」とはとても重要な基準となる。それが絵本であれば原画の、それが写真集であれば被写体の、「色」をどれだけ忠実に再現出来ているか。あるいは作家の感性的な要求にどこまで応えられているか、とにかく編集者も印刷所も「色」と云うものに対して、際限なき追及を続けている。


ところで、そもそも「色」とは一体何なのであろうか。「色」とは物体に入射し反射された光が、観測者の視覚に認識された結果としてのみ存在する。つまり物体そのものにも光そのものにも本質的には「色」は内在しておらず、光と云う刺激を受けた人間の器官が「色」を作り出しているに過ぎないのである。

この為、印刷の製版工程においてしばしば問題となるのが光源である。ある場所で観た際に認識された「色」が、別の場所で観ると違った「色」として認識されるケースがままある。これは一つの対象を異なる特性の光源の下で観ることで起こる現象で、印刷所とクライアントとの合意形成の阻害要因となる。

従って印刷所はクライアントに対し、自社とクライアントとの間での光源の統一を要求することすらある。最低限、自社内部で印刷物を観る際の光源の統一を図る。一つの印刷物の「色」の評価を確定する為には、人間の視覚にその「色」を発生させる刺激要因である光の特性を、可能な限り統一する必要があるからだ。

しかしこれはあくまでも、印刷所とクライアントとの間での合意形成の為のテクニックに過ぎないとも言える。なぜならば、製品として世に流通した印刷物に対して、エンドユーザーがどのような条件下で観るかを指定することは、印刷所はおろか、クライアントやその作品の作家ですら不可能であるからだ。

極論すれば、1,000の印刷物が存在するとするならば、それは1,000通りの光源の下での認識対象となる。つまり一つのオリジナルが印刷物と云う形で複製され世に流通すると云うことは、無数の異なる「色」が世に流通すると云うことですらある。「色」とはかほどに、相対的な要素なのである。


ことほどさように、「色」とは相対的な要素である。従って極論すれば、一つの対象を異なる複数の人間が同じ場所で集まって観ている場合であっても、彼らの眼には別々の「色」が認識されている可能性すらあるのだ。

なぜならば、彼らが立っている位値が別々で異なった角度から対象を観ているのであれば、対象から反射された光は、彼ら一人一人にとって異なった別々の刺激として認識されるからである。さらに言えば、光を刺激として認識し「色」を作り出す器官である色覚も、個々人によって別々に固有のものだからだ。

つまり究極的には、一つの対象物に対して人は他者と全く同じ「色」を感じることは出来ない。そこには常に微細な差異が孕まれてしまう。観る者の色覚、観る立ち位置と角度と云った諸条件によって、「色」は常に微細な差異を孕む。


しかし、それで良いと僕は思う。

なぜならばそのような「色」の複数性とは、すなわち人間の多様性そのものだからである。もし集団の構成要因が一つの対象物に対して同じ「色」を感じているのだとしたらそれは錯覚であるし、そのように錯覚させる存在があるとしたら、それは同質性を強制するファシズムであるとすら言えるだろう。

同じ対象にある人が感じた「色」が美しく、また別の人が感じた「色」が美しくなかったとしても、前者に発生し心に残った美しさを否定することは誰にも出来ないし、してはいけない。我々はそれを肯定するより他ない。なぜなら、「色」とは、そして人間とは、多様であることが当然の存在なのだから。

そしてまた、仮に両者が同じ対象が放つ「色」に等しく美しさを感じたのだとしても、その美しさの意味も各々に異なった文脈であるはずだ。それが人間の多様性と云うものだからだ。その各々に固有の美しさを相互に承認しさえすれば、人は異なる美しさのあり様に触れ新たな発見を得ることが出来るだろう。


それは素晴らしいことであると思う。一つの対象に対して合意形成を図ることを仕事とする印刷人としては、「色」の複数性=人間の多様性に泣かされ続ける日々である。しかし、この社会を生きる一人の人間としては、そのような「色」の複数性=人間の多様性を肯定していきたいと、僕はそう思っている。



Envy - 足枷の色彩 〜 Color Of Fetters

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Envyに対する見方/聴き方も十人十色だと思うが、僕はこの曲が収録された「a dead sinking story」がやっぱり一番好きだ。

近作はもう、テツさんの絶叫パートが単調で煩いだけにしか感じられないのだが、この頃は演奏の密度も濃く絶叫パートもちゃんと聴けた。でも個人的にはやはり、3:21〜からのアルペジオとスポークンワードがたまらない。

実のところEnvyの歌詞にはあまり興味がないのだけど、4:30〜の「間に合うかな…」と云うつぶやきを聴く度に、様々な感情が去来してくる。

およそ文脈も意味性も欠いた、何て事はない凡庸な言葉。でも、だからこそ僕はこの言葉を、その時々の自分の側に引き寄せて、そこから何かを得る。

きっとそれを、「普遍性」と呼ぶのだと、そう思っている。

2010-11-13

[][] SG買ったよ

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イアン・マッケイの愛用ギターと同じ、70年代製Gibson SG Standard White。ブロックインレイってとこがポイント。ディマジオのピックアップ(たぶんスーパーディストーション)とかタップスイッチなんて付けられてしまってる。たぶん前オーナーがHR/HM好きだったのだろう。

これは自分の趣向性とは異なるので、そのうち自分好みに再改造する。昔から中古で買ったギターは必ず改造していた。ちなみに(僕の手先の不器用さを知ってる人なら分かるだろうが)自分でハンダ付けとかは出来ない(笑)。大学生の頃は、やってくれる友人がいたのだが。

つーか何よりもまず、マトモに弾けるようにリハビリしなくちゃな。



Fugazi - Shut The Door

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件の白いSG弾きまくりのマッケイが観れる。しかし最期の方は完全に即興に走っていて凄い。


イアン・マッケイはこう発言している。「音楽業界・レーベルが大打撃を受けて滅亡したとしても、僕は困らないよ」と。他方で、こうも発言している。「僕はレコードレーベルを経営している。バンドの皆に給料を支払い、バンドのメンバーは皆、家も買った。僕らも音楽で生計を立てている」と。

D.I.Y(Do It Yourself)の象徴として神格化されがちなマッケイのディスコードレコード。製作・流通・マネジメントの全てを自分たちで行うことで既存の音楽産業から自由になったのは確か。でも同時に、その方法論を貫徹しつつ再生産可能な収益構造を作り上げたのも確か。経営者/ビジネスパーソンとしてのマッケイも興味深い。

しかし何よりもまず、彼らの収益構造が成り立つのは、良い音楽を作って世界中のファンに届けると云う当たり前の行為があってのことだろう。FUGAZIはたしか、全世界で数百万枚は売っているはずだ(ディスコードは流通が驚異的に良い)。自分たちのやりたいことをやりたいようにやって、その価値が世界中で認められて、それで生計を立てて家まで買っている。

理想の生き方ですな。


Fugazi - Shut The Door

I break the surface so I can breathe

I close my eyes so I can see

I tie my arms to be free

Have you ever been free?

She's not breathing

She's not moving

She's not coming back

I build a fire to stay cool

I burn myself, I am the fuel

I never meant to be cruel

Have you ever been cruel?

She's not breathing

She's not moving

She's not coming back

Shut the door so I can leave

俺はこの殻を破る、息をするために

俺はこの目を閉じる、見えるようになるために

俺はこの手を縛る、自由になるために

君はいままでに自由だったことがあるかい?

彼女は息をしていない

彼女は動いていない

彼女は帰ってこない

俺は平静を保つために炎を燃やす

俺は自分を燃やす、俺自身を燃料として

俺は残酷になろうと思ったことはない

君はいままでに残酷だったことがあるかい?

彼女は息をしていない

彼女は動いていない

彼女は帰ってこない

ドアを閉めろ、俺が出ていけるように

2010-11-12

[][] 都会に吹いた一陣のそよ風

普段は老人と妊婦以外には電車で席を譲らない僕が、自分より若い奴に席を譲るなんとことをした。今日、渋谷から上野へ向かう銀座線車中の出来事である。

始発の渋谷駅から僕の隣に乗り合わせた女子中学生二人が、煩く騒いでいた。その内の一人はどことなく、最近女子格闘技観戦で知り合った坂本里奈さんに似た顔付きをしていたのだが、その中学生に至っては財布を広げて「今日こんな持ってるんだー」とかデカい声でおしゃべりし出す。「なんだこいつ?」と、周囲の刺すような視線が向けられていることに、彼女は気付いていない様子だった。

そんな折、赤坂見附駅で老夫婦が乗車してきた。お婆さんの方は件の中学生の横に座れたのだが、お爺さんの分の席は空いていない。すると彼女は、すぐさま立ち上がって席を譲ったのであった。「なんだ、いいとこあるじゃん」と、刺すようだった周囲の視線は少し和んだのだった。僕自身も予想外の行動であったので、ちょっと驚くと同時に素直に感心した。

しかしこの中学生の二人、またもや騒ぎ出す。どうも件の彼女は熱があるらしく、二人で席の譲り合いになっている様子。それで僕は立ち上がって、彼女の肩を叩いて「座りなよ」と譲ってあげたのだった。知人に似てるってのも何かの縁だし、熱があるのに譲るなんて優しいとこあるしと、色々と思うところがあったのだな。

以後は何事もなく時間が過ぎ、僕は何事もなく上野で下車した。会話から察するに、中学生二人は浅草まで向かうようだ。たぶんもう、二度と会うことはないだろう。本当に、明日になれば誰しもが忘れるであろう、後に何も残らない話である。でもこんな小さな物語のおかげで、日常はちょっとだけ美しく彩られる。

これを読んだひろた@福岡さんからは、「都会に一陣のそよ風を吹かせましたな」とのお言葉を頂いた。願わくばこんなような一陣のそよ風を毎日一回は吹かせられるような人間になりたい。と云うよりも、吹かせる機会に遭遇したい。そうすればきっと素敵でかっこいいだろうし、何より日常がちょぴり楽しくなる。



Fishmans - Season

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「日常」に断片化/細分化された「小さな物語」によって、世田谷の空にちょっとしたキャンプのような世界を作り上げたのが、フィッシュマンズ佐藤伸治であった。

しかしどれだけミクロに細分化されようとも、その「小さな物語」は「一人の物語」にはならなかった。つまり、佐藤伸治は加藤亮太の言う「ひきこもりの世界観」に陥ることを、ギリギリの線で回避していたのだ。しかしそれはどこまで行っても「みんなの物語」にもならなかった。つまり、佐藤伸治は「大きな物語」の方向には微塵も接近することはなかった。

「一人」ではなく「二人」。「みんな」でもなく「二人」。「「僕」と「君」」の、「二人」の物語。これが佐藤伸治にとって「物語」の最小単位であり、同時に最大単位でもあった。ここに、90年代的なミニマリズムの極北があるような気がする。


最後に、「それはただの気分さ」と題された、柴崎友香による佐藤伸治詩集「ロングシーズン」の書評から引用することとする。僕などよりずっと、彼らの世界観を素敵な言葉で言い表している。


「世界はうるさすぎ、複雑すぎ、溢れすぎている。けれども、心に残っていくのは小さな事柄と気分くらいのものだ。そしてそこにいるのは、「僕」の気持ちを伝えたい「君」だけ」

佐藤伸治の詩の中に出てくる小さな事柄は、季節や天気や食べ物や音楽や「君」のこと。その言葉は「君」や誰かに向かって、何度も出てくる「ねえ」という感動詞で語りかけられる。小さな幸せや悲しいこと、そのときの気持ちを、とても的確に静かに穏やかに、真摯に伝えようとする。少しの不安とともに」

柴崎友香『よそ見津々』(日本経済新聞出版社、2010年)

2010-11-10

[][] 眠気が津波のように押し寄せてます

トラブル処理二件。他、色々。


津波のように押し寄せる仕事の…ってこれは強引なこじつけなのだが(笑)、

ともかくそんな感じの久々の超残業でさっき帰ってきた。


それで今、表題のような状態なので、すんません、

今日もおやすみなさい。



Manic Street Preachers - tsunami

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表題や上段の方があとづけで、端的に帰ってきたらこれを聴きたくなった

だけであると云う。ふとこのメロディを思い出してね。理由は分からない。

何となく、だな。いや精神分析しても何も出てこないと思うよ(笑)。


マニックスは基本的に嫌いではないのだが、今の気分も込みで言うと

リッチーの歌詞云々はどうでも良く(あの時期はサウンド・プロダクションが

あまり好きではない)、「Everything Must Go」は名盤であることは

認めるが、色んな意味でちょっと五月蝿過ぎる。聴いてて疲れる。


結局のところ、昔も今も一番好きなのはこの曲が入った

「This Is My Truth Tell Me Yours」と云うことになる。


要するに、一番売れたアルバムが一番好きであると云う、

何のひねりもないオチになってしまう訳だが、つまり僕にとっての

マニックスはこう云う美メロ以外あまり語るところのない

バンドであると云うことなのかもしれないな。


でもこの曲のメロディは本当に好き。掛け値なく素晴らしいと思う。

2010-11-09

[][] SGを買うことにした

風邪気味で集中出来ないので、またも一回休み

(って言うほど手抜きしてる感じもしないのだが)。


そうそう、SGは買うことにしたよ。

明日行って、売れ残ってればね。


あれこれ難しく考えるこたない。

自分の中の軸が揺らがなければ、それでいいじゃん。

ハードコアってのは、そう云うもんだ。



Minor Threat - Filler

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Minor Threatはライブ映像がいいな。

ここにはあんま映ってないけど、ギター弾いてるのは後にあの

バッド・レリジョンに加入するブライアン・ベイカーです。


当時はお客さん、モッシュ&ダイブしまくりだった。

でもFugazi以降、マッケイはそう云う行為を極端に嫌うようになる。


一見すると、一貫性がないようにも思える。でもマッケイが言う

ストレート・エッジ」とは、そもそも「反暴力」を示すものだった。

なのに後に暴力性を帯びてしまったシーンを象徴するものが

モッシュ&ダイブだった。だからマッケイはそれを嫌った。


つまりFugaziとはマッケイが自らの意図に反して産み出して

しまったシーンに対する内省と自己否定だったのであり、それは端的に

言って反動以外の何かではなかったのだけど、でもマッケイの中の

軸=ハードコアは微塵も揺らいではいない訳だ。


これは、その活動の原点となるMinor Threatの一曲目。

歌詞を読み返すとあまりにもナイーブ過ぎるような気もするのだけど、

"Filler"をドラッグやアルコールのダブルミーニングとも解釈すると、

18のガキにそう唄わせるだけの状況(とそれに対するマッケイの

疎外感)が当時のパンクシーンなるものにあったのだろう。


What happened to you?

お前に何が起きたんだ?

You're not the same

いつもと違う

Something in your head

お前の頭の中で

Made a violent change

何かが極端に変わったんだな

It's in your head

お前の頭の中で

FILLER

人を引き寄せる魅力的なもの

You call it religion

お前はそれを宗教と呼ぶ

You're full of shit

お前はクソまみれ

FILLER

人を引き寄せる魅力的なもの

Was she really worth it?

彼女は良い女か?

She cost you your life

彼女はお前の人生をダメにする

You'll never leave her side

お前は決して彼女から離れない

She's gonna be your wife

彼女と結婚するだろう

It's in your head

お前の頭の中で

FILLER

人をひきつける魅力

You call it romance

お前はそれをロマンスと呼ぶ

お前はクソまみれ

FILLER

人を引き寄せる魅力的なもの

Your brain is clay

お前の脳ミソは泥だ

What's going on?

何をしているんだ?

You picked up a bible

お前は聖書を手に取って

And now you're gone

消えていく

It's in your head

お前の頭の中で

FILLER

人をひきつける魅力

You call it religion

お前はそれを宗教と呼ぶ

You're full of shit

お前はクソまみれ

FILLER

人を引き寄せる魅力的なもの

2010-11-08

[][] SGはまだ買ってない

欲しいことは欲しいんだが、果たしてこれは

今の自分に必要なものなんだろうかと云う逡巡がある。


そしてまた、今の自分のお金の使い道として

正しいのかと云う逡巡も。自分の為に使うお金は、

もう少し後にとっておいても良いのではないか。


そんなこと思ってるうちに、いつの間にか売れちゃってるん

だろうな。いつもだいたいそんな感じだった。でもたぶん、今回は

買えなくても後悔しない。そんな気がする。


トークライブの話も「WORST」の話の続きも書きたいし、

頭の中ではだいたいまとまってるんだが。困ったことに体調が

悪いので、今日は書き上げられそうにない。


ネタが枯れて困ったときは、イアン・マッケイの

お言葉に頼ることとする。



Fugazi - Turnover(Live 1991)

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イアン・マッケイと彼のディスコード・レコードの活動方針を

一言で言うと「反商業主義」なのだけど、ではディスコードがビジネスとして

成立していないかと云うと、これがまったくそんなことはないのである。


この時期のFugaziは口コミで10万枚売ってメジャーから

お誘いがかかっていたが、マッケイはそれを一蹴してD.I.Yの道を貫いた。

製作から流通、ライブ活動に至る全てを自分たちでマネジメントし、

自分たちでコントロールする道を選んだのである。

メジャーレーベルの海をうまいこと航海できるバンドは一握りで、ほとんどは何らかの妥協を強いられているんだよ。でも、俺たちは音楽に対するクリエイティヴ・コントロールを手放すことは絶対に嫌だったんだ・・・

大体、誰かから金を受け取るっていうことは、借りを作るってことなんだ。監視と投資の対象になるってことなんだ。で、投資(メジャーレーベルから貰える契約金)っていうのは最終的にそこから利益を上げるってことが目的で、利益が上がりそうに無かったら、あれこれやり方を変えようとして、何とか儲けを出そうとする。

つまり、そういう状況に陥ったら、何らかの妥協を強いられるのは目に見えているわけだから、投資を受けるときはその覚悟が必要なんだよ。フガジはそういう妥協をのむつもりは無かったから、(メジャーの誘いを)全部断ったんだ。

Fugazi / イアン・マッケイ BUZZ Vol.41 April 2003から引用)

そんなやり方で地元・ワシントンD.C周辺のバンドのみをリリースする

なんつー究極のインディ原理主義に固執し続けていながら、ディスコード

は25年間活動を続けるだけの収益を上げているのである。はっきり言って

イアン・マッケイはビジネス・パーソンとしても優秀な人物である。


なぜディスコードがインディペンデントの理想形とされるのかと云うと、

端的にそれが原理主義とビジネスを両立しているからである。


そこを無視してマッケイとディスコードを語ることは出来ない。


[] 高橋ヒロシ「WORST」を考える vol.2

最新の25巻においては、本格化した武装戦線とE.M.O.Dの抗争が描かれている。

しかし、その過程の諸エピソ−ド、たとえば藤代拓海がE.M.O.Dの溜まり場に乗り込むシーンや、小林一善がタイマンを中断して相手を助けるシーンは、全て前出のプラトニックな価値観に完全に回収し得る(と云うかそこから機械的に導出されている)ものに過ぎない。

だから、物語性の密度低下も、それらを同じ作中で既に見てきたかのようなデジャブ感に襲われてしまうのも、致し方がないことである。ただしこの抗争劇には、それ以上に物足りない点がある。すなわち、そこに価値観の対立が存在しないことである。

武装戦線もE.M.O.Dも結局は、伝統や渡世の義理人情を紐帯とするプラトニックな共同体であり、その両者の衝突には価値観の対立が予め存在しない。予め認め合っていた双方が、喧嘩と云う通過儀礼を通してその理解を再確認すると云う、高橋ヒロシ作品(あるいは不良漫画全般)においてクリシェと化したオチが、容易に読めてしまう。早くも一善は相手のことを「キョーダイ」とか呼んでるし。

予め価値観が同じ者同士で「おれたち(やっぱり)価値観同じだね」って再確認することが、いわゆる「共生」ではないことは論を待たない。「共生」と云うものは本来的には、(大仰に言えば)人種であるとか宗教であるとか、そう云った属性や価値意識を異にする集団がお互いの存在を承認し、尊重することを意味していなければならないからだ。


vol.3へ続く。