フリジッド・ガゼット【all the footprints I’ve ever left】 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2010-12-16

[] 「V一 vs. 高林恭子」観戦記

個人的な思い入れを多分に含めれば、マニー・パッキャオ vs. アントニオ・マルガリートと並ぶ、2010年ベストバウト。


高林の試合を初めて観たのは、六年前のことであった。最初に印象に残ったのは、下北でのedge戦。タウンホールに衝撃音が響くほどのヒザ蹴りをカウンターで貰いながらも、それで怯むことなく攻める姿勢が印象に残って、それで好きな選手となって、追いかけて応援することにした。

レスリング上がりにありがちなクラウチング気味の構えで、徐々に向上してきたとはいえ、打撃が苦手な選手だった。加えて、打撃を嫌がって遠い間合いからタックルに入って、それで切られると云う悪癖のある選手だった。格下と思われたせりに負けた試合などはその典型で、それでその負けた試合の後に通路で号泣していたと云う、そんな選手だった。

それがどう変わったかは、V一戦を観た方になら理解して頂けると思う。


相当に追い込んだ練習をしてきたのだろう。それも打撃を重点的に強化してきたのだと思う。

それは試合開始直後、脇を締めたボクシングスタイルと、そして「表情」を見た瞬間に分かった。獲物を狙う狩人のような目付きだった。自信が内面の変化を呼び起こし、その内面の変化が表情となって外面に現れたのだと、そう確信している(内面の変化に関しては、練習仲間の服部愛子選手が、本人がそれを自覚している旨教えて下さった)。

技術の向上が内面の変化をもたらし、その内面の変化は高い集中力として表出されていたと思う。結果、反応速度と状況判断が向上し、技術的ポテンシャルを全て発揮出来るようになっていた。それはまさにテクニックとメンタルの相乗効果としか言いようがない現象だったと思うし、その相乗効果が表情の変化として結実していたとも思う。

首振りやグライディングなど技術的な面も含めた立ち姿、鋭く伸びるリードジャブやストレート、そして何よりもその表情は、僕の眼にはとても美しいものとして映った。その「美しさ」は、「地味」と云う高林のそれまでの印象を充分に払拭するものであったはずだと、そう願ってやまない。


徹底的にテイクダウンを回避し続けて、切り続けて的確に打撃を当て続けた高林の勝利である。試合が終わった瞬間、自分はそう思った(一緒に観戦していた方も、判定が読み上げられる前に「完封ですね」と僕に話しかけてきた)。これは一切の贔屓目を除いた上での感想であることを断言するが、圧倒的なリングジェネラルシップに加えダメージでも優勢だったはずだ。後にある関係者からも同様の意見を聞いた。

ただいかんせん「挑戦者」が取るべき戦法ではなかったかもしれない。少なくとも「前」に出ていたのがVだったことは確かだからだ(尤も僕の考えでは、V一が前に出続けたのは高林のパンチが当たる距離を嫌ってのことだったと思うが)。いずれにせよ、桜庭戦のガイ・メッツアーを彷彿させる戦い方(これは僕にとってはかなり上位の褒め言葉)で、少なくとも今年見た女子総合の試合では最もテクニカルで、最も語るべき点が多い内容だったと、僕はそう思っている。

タックルを切られておどおどして試合後に号泣していた高林は、リングの上にはもういなかった。それでも、今回もまた、リングを降りた高林は号泣していたと云う。高林にとってその涙の意味は、歳月を経て全く違うものとなっていただろう。試合後、高林はブログにこう記している。

仲間やファンの方にベルトを巻いてもらうのが私の夢だったので、落胆させてしまって本当にごめんなさい。

http://blog.goo.ne.jp/kyoko-takaba/e/afcfd571f0c231a1d9e996bf0b6ba85c

落胆は…しなかったと言えば嘘になる。しかし自分の「落胆」は、高林が云うような意味におけるそれではなかった。自分の落胆は高林に対して向けられたものではなく、この試合の判定そのものに向けられたものであったからだ。だって、どう見たって勝っていたじゃないか。勝っていた試合を、判定によって奪われただけではないか。


だから、そしてそもそも、(「仲間」はともかく)ファンに対して「ごめんなさい」などと云う必要は、どこにもない。これはこの試合の高林に関してのみに言えることではなく、一般論としてそう言えることである。ファンは競技者に対して、夢を仮託する。これは端的な事実である。「夢はひとり見るものじゃない」。これもその通りである。そしてファンはいつだって、「夢を、力を、勇気を貰いました」とか、そんなようなことを言う存在である。

しかし、格闘技と云う競技は、そして競技者としての夢は、競技者であるあなたのものだ。ファンは金を払って、それを拝見させて頂いているだけの存在である。束の間、競技者としての夢をファンが共有する幸福な瞬間が訪れることもある。競技者としてのあなたの姿に感情を揺らされ、その結果として、自分の内面に夢や力や勇気が生成されることはある。しかし、それでもなお、格闘技と云う競技は競技者であるあなたのものだ。だから、あなたがファンに対して「ごめんなさい」などと言う必要は、どこにもないんだよ。


話しが逸れた。落胆が歓喜に変わる瞬間は、いつか必ず来る。そしてその歓喜は、落胆が深ければ深い分だけ、きっとその何倍もの感動として訪れる。だからこそ自分は、格闘技を観ると云う行為を、そして選手を見守り応援すると云う行為を、いつまでだって続けるつもりなのだ。「夢」はまだ終わっていない。「夢」の続きは、もう始まっている。それで、それだけで充分ではないか。

これ以上の言葉は必要ない。そんな気がするので、この観戦記はここで筆を置くこととする。

2010-11-26

[] 格闘技にとって美とはなにか(上)

吉本隆明まで引いた大仰なタイトルを付けてはみたものの、あまり大したことが書けるとは思ってはいない。と云うか、本来であればもっと専門的な知識を持った人間がやるべき仕事であるとも思うのだが、まあ箸休め程度にどうぞ。


格闘技/プロレス(敢えてこう表記する)の芸術性ってのは昔から考えていることだ。ある種のプロレスなんかは、フィギュアスケートみたいに採点競技にしてしまえばいいくらいに、自分は割と本気で思っていたりする。

まあ競技としての目的が勝敗を競い合う部分にある格闘技に関してはそう云う訳にもいかないのだが、あまり難しく考えずともシンプルに観ていて美しいものを観ていたいと云うこともあり、格闘技を身体芸術として捉える視点は10年以上前から備わっていた気がする。


感情表現としてではなく、身体芸術としての格闘技を考えたとき、自分にとってムエタイと云うジャンルは一挙にその存在感を増してくる。自分は決してムエタイマニアではないがのだ、数少ない観戦経験の中でも、有名なナックモエに関しては必ずその芸術性が印象に残っている。

アタチャイにせよセンチャイにせよ、個々の技がどうこうと云う域に留まらず、より根源的な体捌きのキレや、リングジェネラルシップの握り方、あるいは立ち姿のたたずまいから鍛え抜かれた太腿に至るまで、その全てが美しく感じられたものだ。ナックモエと云うよりはキックボクサーであるが、藤原あらしなども相当に美しい存在であると感じている。

彼らの場合その「美しさ」が「強さ」と不可分の地平で成立している点が素晴らしく、だからアタチャイ vs. 洋平でアタチャイが見せたパフォーマンスなどは、身体芸術としての格闘技と云う観点からすると、自分の観戦歴の中でも屈指のレベルに達していた。


アタチャイ・フェアテックス vs. 桜井洋平

D


総合格闘技の方に眼を向けると、ヒョードルの体捌きと独特のリズム感なんかも、自分の眼には非常に高水準の「芸術作品」として完成されているなと云う印象を受ける。それはもちろんパウンドを打つ際の表情等を含めてのことだから、格闘技を感情表現と身体芸術と云う二つの側面に二元論的に切り分けてしまうことは出来ないのだけど、いわゆる「観る側」からの語られ方は前者の側からの視点にやや偏ってしまっている印象を受ける(と云うか自分なんかまさにそうである/あった、と云う自戒を込めて)。

これは試合/興行を見せる側にも言えることだと思っていて、たとえば佐藤大輔の煽りVの功罪と云うものも、そのような観点から考え直すことは出来まいか。ヒョードルのパウンドはあくまでもヒョードルのパウンドと云う「事物そのもの」でしかなく、そこにどのような意味を見出すか(あるいは見出さないか)は観る側に委ねられているはずなのだが、そこに「氷の拳」と云う「言葉」を付帯することによって、予め決定されてしまった「意味」が発生してしまっている。観る側の感情のフォーカスを、ある程度決まり切った方向に誘導してしまっている。

まあだからこそ佐藤大輔の煽りVは、それ自体が固有の(感情表現を伴う)「芸術作品」として価値が立っているとも言えるのであるが、いずれにしても、興行と云う全体性としてのそれにせよ、試合/選手と云う細部としてのそれにせよ、広義の「送り手」/「伝える側」が演出方法や言葉によって発生させる意味性が、本来は多様であって然るべき観る者の受容の仕方を一定の方向に制約し、ときにその自由性を阻害してしまっている側面はあるのではないだろうか。


と云うようなことを、最近マーク・ロスコジャクソン・ポロックの抽象表現主義芸術についてオベンキョーしている内に思い至ったのであるが、そこから女子格闘技、特に高橋藍を中心に簡潔に書こうと思っていたら、案の定前置きが長くなってしまった。こうなるともう簡潔に書けそうもないので、続きは項を改めるとする。

2010-10-20

[] 佐々木亜希「殴る女たち」(2010、草思社)

佐々木さんの本を読んだ。まず、いきなりまえがきで「そこにいる選手たちが、何を思い、どんなことを感じながら試合を行っていたのか」とあって、そこで早くも違和感を感じてしまった。


結局のところ、加藤亮太が断罪するロッキンオン・ジャパンの「二万字インタビュー」と同じなんだよな。

書いた本人が意図していなくとも、結果として選手の人生観や戦う意味を、商品性のある物語としてパッケージングしてしまっているような気がしてならない。特にHIROKO、石岡、久江、RENAの話に顕著。格闘技のおかげで逸脱行動を止めましたと云う、格闘技を「ロック」に置き換えてもまんま通じるような「物語」。

そりゃ確かに彼女らのような若くて可愛くて強い女性の物語化された人生は、さぞかし読む者の興味を引くだろうし、一定量の「共感」を集めるに違いない。「必要悪」とまでは言い過ぎかもしれないけれど、こういう「二万字インタビュー」は、今の格闘技界にとって必要なものだとも思う。

昨今は亀田一家の「家族愛」や「兄弟愛」のような物語化されない「ベタ」な話が広く大衆に支持される時代であるとは云え、「内藤大助物語」だってそれなりの視聴率を集める訳だ。そして、後者のような物語を渇望する類の若者はいつの時代にも一定量はいると思うから、パイの少ない格闘技界において彼らのような消費者を取り込む為には、佐々木さんのようなアプローチはまだ有効なのだとも思う。

かかる観点からすると、佐々木さんの手付きはまだ甘いとも言えると思う。もっと選手の人生を過剰に装飾することは幾らでも可能だったはずで、それをしなかったのは佐々木さんなりの女子格闘技に対する誠実さの表出なのかなとも思う。TBSあたりがドキュメンタリーやったら、この程度の物語化では済まなかった(が故により効果的だった)んじゃないかな。


ただし、僕はそう云う物語を必要としていないし、またそう云う手付きで格闘技を(あるいはロックを)語るのも好きじゃない。

いや本当に、そーゆーのにあんま興味が持てない(と云うか可能な限り持てないような人間でいたい)んだよ、僕は。選手が何の為に何を思って戦ってるのかなんて観る側には関係ない話じゃん。そんなんやってる本人以外はどこまで行っても「分かったつもり」になれるだけなんだから。

つまりSM嬢でウイスキー漬けのHIROKOが、リストカッターで男性依存症の石岡が、喧嘩好きで夜遊び好きの久江が、ひきこもりでコミュニケーション不全のRENAが、「格闘技によって変われました/救われました」と云うような「物語」を、ありがたがって拝聴する気が今の僕にはないんだな。そして、それを克服することが彼女らの「戦う意味」なんですと言われても、今の僕は「はーそうですか」としか思えないんだな。

その選手の戦う意味や戦ってるときの思いなんてのはその選手の為だけにあるのであって、重要なのは戦う選手の姿を観た自分が何をどう感じるかだと僕は思うのだけど。

僕が先日の茂木さんの試合後の涙に感動したのも、別にその涙の意味に「共感」したからではなくて、逆にその涙が示す格闘技に対する情熱が羨ましかったからだ。先日ある格闘家、いやもうもって回った言い方をやめると石岡沙織の試合を観て内的葛藤が解消されたのに至っては、石岡が「ただそこにいるから」と云う、魔法としか言いようのない理由に過ぎない訳で。


そう、僕が選手を応援するのは、スペシャルな「物語」とスペシャルな「戦う意味」を持っているからではなく、リングと云う「いまここ」でしかあり得ないタイミングで光り輝いている姿から、ポジティブな感情をいっぱい貰えるからなんだよな。

石岡にしたって、去年の藤井戦前後の、自分の置かれた状況を真剣に楽しんでいる姿に人間らしさを感じたからあんな批評文を書いたのだけど、僕はこの本を読むまで彼女の人生なんて何一つ知らなかった。

もっと言うと、edge戦でカウンターでヒザ蹴り貰いながらもタックルに入るタカバの勇敢な姿勢とか、RENA戦で軌道の美しい左ミドルを蹴りながらニタニタ笑う高橋藍とか、そう云う物語性とは無縁の地平で選手の人間性が垣間見れる瞬間こそが、僕が女子格闘技/女子格闘家に惹かれる理由の殆どなんだ。

まあ女子格闘技において「物語性」に惹かれるほぼ唯一の選手は辻結花なんだけど、それは端的に女子総合と云うジャンルにおいて完結された物語を彼女が紡いできて、「ただそこにいるから」と云うだけで万人に感動を与える域にまで達しているからであって、二度目のアンナ・ミシェル・ダバレス戦を観て皆が流した涙の理由を、この本で記述されたようなレスリング時代の過去まで遡る必要は全くない訳だ。


話が長くなったので、結論を。

佐々木さんの本に対しては、意義は理解できるけれど、因って立つ格闘技観が違うとしか言いようがない。いまの僕も選手と云う「人」からアプローチする書き方をしているので、佐々木さんの本から何か得るものがあるかと思ったけれど、残念ながら期待ほどの成果はなかった。

それは繰り返しになるけど、因って立つ格闘技観が違うからだし、もっと言うとプロとして書いている彼女と、草の根の立場からしか書けない僕の立ち位置の違いでもあると思う。佐々木さんと僕では、女子格闘技に見出す「意味」のありかが違うし、違わざるを得ない。

この前メールくれた友人の言葉を借りると、同じ選手の「生」を書くのにしても、彼女は「せい(生命・ライフ)」を書いていて、僕は「なま(ありのまま・ライブ)」を書いている。その違い。

そしてそれは決定的な違いでもあると思うのだけど、でも僕は違っていて当たり前だと思うし、それでいいいのだと思う。佐々木さんがまえがきで記しているように、女子格闘技には「さまざまな見方があり、さまざまな取り上げ方がある」のだから。

そう云う意味では、書き手として自分の因って立つ価値観と立ち位置を、改めて確認する良い契機となった一冊だったと思う。そして実は僕はまだたいして書けてもいないのだから、少しでも佐々木さんに追いつけるように僕は僕の書くべきことを書くしかないのだとも思った。そう云う意味では、背中を押される一冊でもあった。

2010-10-16

[] 藤井さんのこと

マニアからは何かと評判の悪い藤井惠。僕も嫌いな選手だった。でも実は僕は今の彼女は嫌いではない。特に思い入れを持って見てる訳じゃないけど、ベラトールで戦う姿はフラットな視点で応援している。優勝してくれればいいなと思っている。

僕の目には、北米で試合をすることを決めた時点で、藤井さんの中で覚悟か固まったのだと云う印象を受けている。それはまあ端的に言えば一線を引く覚悟である。名実ともに世界の女子格闘技の頂点を極めることで、自分の花道を自分で飾ろうと云う、そんな覚悟を僕は感じとった。


その覚悟が固まった契機は、主に二つあると僕は考えている。

一つは、昨年の石岡戦。狭いけど熱気あふれる会場であれだけの声援を浴びて試合する体験って、実は初めてだったんじゃないか。あれ以来藤井惠は変わったと、そう言っていた関係者を僕は知っている。これはややボカした書き方になってしまうが、今年に入って、ある若手強豪選手との対戦オファーを、藤井さんは受諾していたらしい。それは結局諸事情で実現しなかったのだけど、藤井さんが自分より若い強豪に胸を貸すと云うリスクを負う覚悟を決めたのも、石岡戦の体験があったからこそではないかと思っている。

そしてもう一つは、今年の辻結花の敗戦。辻ちゃんの敗戦を間近で見ていた藤井さんは、泣いていたらしい。その涙の真意は僕には分からない。ただ自分なりに想像するに、ある種の喪失感があったんのではないか。辻結花と藤井惠は、女子総合の黎明と云う同じ風景を映す際の、ポジとネガ(どっちがどっちだと捉えるかはファンそれぞれによって違うだろうが)。辻の時代の終わり=藤井の時代の終わりであることを、直感的に悟ったのではないだろうか。

「辻さんの分まで…」。ベラトールで戦う藤井さんの胸の内には、多少なりともそのような感情があるに違いないと、僕はそう確信している。


なればもう、過去をあれこれ言っても仕方がない。女子の軽量級なら日本が世界最高水準であることを、思う存分に証明してくれればいいと、本当にそう思っている。思えば藤井惠の格闘技人生も、ある種の孤高を貫いたものであったとも思う。そのベクトルは辻結花の孤高とは全く逆の方向を向いていて、ファンの期待や思い入れを回避する方向に作用してしまったのが、ちょっと残念ではあるのだけど。

藤井さんからポジティブな感情をたくさん貰って、その「恩返し」をしたいと思うほどのファンがどれだけいるのか…とは、もはや問わずにおこう。それもまた一人の格闘家の姿、一人の人間の生き方。僕はそれを肯定はしないけれど、いまさら積極的に否定する気もしない。

ベラトールで頑張れ、藤井惠。

2010-10-11

[] 10.10 ジュエルス - 「石岡沙織 vs. セリーナ」観戦記

・もう恒例となった感もあるが、激励賞を石岡に出した。最近は名前呼び間違えられなくなった(笑)。


・セリーナのセコンドにはヨアキム・ハンセン。もうジュエルスの会場でハンセン見るのは恒例となった。


・試合前、セリーナ陣営に何らかのトラブルがあって開始遅れる。石岡は柔軟体操をして待っていたが、これが妙に色っぽかった(と連れの女性陣が言っていた)。

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・石岡のローは切れていた。カウンターでジャブ刺し込まれる場面もあったが、特にダメージはなかったと思う。先に投げてテイクダウンしたのは石岡だが、たぶんセリーナ下になるの厭わないタイプ。すぐにスイープして上を取り返していた。1Rは石岡がハーフで凌ぐ場面が長かった。特に下から何か出来た訳でもないが、結果としてここでパスさせなかったのが勝因の一つかも。

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・攻防が続く中でブレイクがあって、連れの何人かが「ブレイクのタイミングがおかしい」と言っていたが、どっち有利の裁定でもなかったと思うので(セリーナが上奪い返した瞬間、石岡が十字仕掛けたタイミング)気にならなかった。


・あと、客席から石岡に声援(と云うよりアドバイス)を送る茂木さんがうるさかった(笑)。いや、たとえばトイカツの声援兼アドバイスとかあーゆーのは会場の花だと思うので、むしろもっとやって欲しいのだけど。ただ知らないファンに「何? あのうるさい客」とか思われてなければいいな、と(後ろで見てた客がそんなようなこと言ってたので)。


・2R開始早々、石岡が打撃で何か効かせたぽい(良く観てなかった)。投げて上になる石岡。途中返される場面もあったが、全般的にほぼトップキープしていたと思う。ハーフからパスしつつ、アームロック、十字、フロントチョークなど。キャッチは入らなかったと記憶しているが(と煮え切らないのはメモ取ってた訳じゃないから)、きっちりパスしてマウントまで奪った。

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・石岡 def セリーナ。2R判定3-0。試合後の涙のマイクは写真撮ってなかった。GBRのジュエルスレポのトップ写真でも見てくれ(一部で笑い)。

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・石岡、下になって何か出来た訳でもない。ただ、ロールフェスで深津から一本取って湯浅に善戦したセリーナ相手に2Rトップから攻勢に出れたのは評価すべきではないかと思う…てなことを言ったら茂木さんに言ったら「セリーナはボトムからポジション意識せずに動くタイプだったから」と云うような指摘をされた。贔屓目はときに目を曇らせることを自戒。


・これはある種の指導方針批判にもなってしまいそうなので、部外者でしかも素人の自分が言うのは大変気が引けるのだが、石岡はトータルファイターたらんとし過ぎなのではないだろうか。目指すところが高いのは良く分かる。ただ打撃か立ちレスか寝技か、まず特化した武器を身につけて欲しいなと、実は前々から思っていた。


・話を戻すと、僕にはとてもいい試合に映りましたよ。試合自体の意味も、結果も、内容も。12月に繋がる部分も大きかったと思うし、何より石岡がこの舞台に帰ってきてくれたことそのものが嬉しかった。


うん、まあ嬉しかったさ。こんな風に思ってた石岡がまたこの舞台に戻ってきてくれたからさ。

http://d.hatena.ne.jp/frigidstar/20090727/p1

2010-10-10

[] 「茂木康子 vs. 富松恵美」観戦記

先週のプロ柔術の、茂木さんの試合の観戦記の続き。

http://d.hatena.ne.jp/frigidstar/20101003/p1


f:id:frigidstar:20101004191950j:image:w185,h213,leftこの日はパンクラスディファ興行で北岡 vs. 弘中と云う黄金カードがあった。記念すべきGCM ‐ パンクラス交流戦の第二弾だし、何より弘中は好きな選手で昔から観ている。日程がかぶりさえしなければ、見に行きたかった。

でも僕は茂木さんの試合を見に行った。茂木さんからチケット買って、茂木さんの試合を見に行くことを選択した。茂木さんには最近ちょっとした私事でお世話になったこともあり、茂木さんの応援に行きたかった。だからパンクラスではなく、プロ柔術に行った。


それで、茂木さんは富松選手に負けた。僕の目には下から仕掛けて試合を動かそうとしていたのは茂木さんの方だったように映ったが、傍目には不甲斐ない試合に映ったかもしれない(そう言っている関係者がいるとあとで聞いた)。

茂木さんの試合が終わって気が抜けてしまった僕は、twitterでの速報もストップして、ロビーへと足を運んだ。そうしたら、そこには茂木さんがいた。

茂木さんは、泣いていた。泣きながら「悔しいよー」と言っていた。


本当に悔しかったのだろう。あるいは、悔しさ以外の別の感情も去来していたのかもしれない。

でも、その涙の本当の意味は、茂木さんにしか分からないことなのだと思う。少なくとも僕には、茂木さんの悔しさも苦悩も、その本当の意味は理解することは出来ない。どれだけ分かろうとしても、せいぜい「分かったつもり」にしかなれない。

でも僕らファンは、いやこの言い方はずるいな、少なくとも僕は、その涙から何かを受け取ることは出来た。受け取って、自分にとってその涙を見たことの意味を、自分のものとして引き受けることは出来た気がする。


僕は、羨ましかった。こう云うと非常に失礼な物言いになってしまうかもしれないし、本人には申し訳なくも思う。でも事実として、茂木さんの泣いている姿を見た瞬間、悔しさよりも羨ましさが先立つ、そんな感情が僕の胸には去来したのだ。

茂木さんくらいの年齢になって、負けたことに涙を流すくらい悔しがれる対象があるって、本当にいいなと思った。羨ましいなと思った。自分にも茂木さんみたいに、涙を流すくらい悔しがれる対象があるといいなって、そう思った。

それが何であるかはまだ見えてこないし、いますぐ見つかるとは思えない。でも僕は、見つけたい。見つかったらいいな。いつか見つけてみせる。そう思った。


そう思った結果として何を為すか、あとは僕の領域における「格闘」だ。何も為せないのでは本当に申し訳ない。自分にとって茂木さんにとっての格闘技みたいな何かをいつか見つけることが、きっと茂木さんへの恩返しになるのだと思う。

格闘技を観ること自体は本当に楽しい。そこに意味はなくとも、一生の趣味として続けられると思う。でも、少なくともいまの自分にとって「格闘技」を観ることに何か「意味」があるのだとしたら、そうやって選手に対して自分なりのやり方で「人」として向き合うことにあるのかなとも、僕は思う。

次は、勝って喜びの笑顔に包まれた茂木さんの姿を見てみたい。その方が茂木さんが見て貰いたい姿だと思うし、それを見れば、勝って笑顔になるような自分にとっての何かを見つける、そんなポジティブな勇気を僕は貰えると思うから。


そう思った自分の感情を書き記すことでもって、茂木さんの試合の「観戦記」の代替とする。

2010-10-03

[] プロ柔術Gi2010 - 茂木康子 vs. 富松恵美

茂木康子 vs. 富松恵美。アドバン二つ差で富松勝利。茂木の下からの仕掛け際を狙っていた感のある富松。バックは奪わせなかった茂木、最後まで下からの仕掛けを諦めなかったが、アドバン差を覆すことはできなかった(twitterより)。


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写真はこちらから。http://f.hatena.ne.jp/frigidstar/10.10.03%20Gi%E8%8C%82%E6%9C%A8/


[] NO-GI無差別級ジャパンオープントーナメント - 佐々木憂流迦

佐々木憂流迦 vs. 岩本康義。ウルカ勝利、リアチョーク。序盤素早い動きでアドバン二つ奪ったウルカだが、岩本のガードをなかなか崩せず。だが最後は一瞬の隙を逃さずバック奪ってきっちり一本(twitterより)。

マテウス・イリエ・ネキオ vs. 佐々木憂流迦。4-2でマテウス。スピーディな動きと下からのチョークで見せ場作ったウルカ。中盤、十字で伸ばされ絶体絶命だったが奇跡的に凌ぎ切る。しかし結果はマテウス判定勝ち。電光表示が間違っていたので最初ウルカ勝利だと思ってぬか喜びしてしまった(twitterより)。


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写真はこちらから。http://f.hatena.ne.jp/frigidstar/10.10.03%20Gi%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%82%AB/


マテウス vs. ウルカが、今日の私的ベストバウトでした。