ドッグフードをこってみた

先日ホームセンターで買ってきた、激安ドッグフード。最近、太り気味の愛犬ポチ郎は明らかに栄養過多であるため、コイツを食わせる事にした・・・

が、しかし・・・

食わない、まずいと顔が鬼のように行っているのである。

こしゃくなヤツ!

食うまで、ほったらかしにしてやろうと思ったが、仕方ないので、ジャッキーを細切れにして入れてみた・・・

すると・・・

ブリーダー問題。

国内のブリーダー問題がTVニュースに。

これを観て、哀しかった。

悪質なのは、金儲けのために彼等をまるで

物扱いのように量産、処分されていた事。


一方、歴史あるイギリスでは愛犬のために

その繁殖方法や彼等の情操教育にまで気を配る

法制度が確立されている事も報道されていた。


日本でも当然一刻の猶予なく法的にその制度を

整え、日本古来の犬種の保護にも力を注いで欲

しい。


彼等は話せない。

彼等は我等を頼るしか活きる術はない。

彼等は献身的に愛してくれる。

彼等は共に生きてくれる。

彼等は共に悲喜コモゴモに付き合ってくれる。


本当に大切にしたい。

大切に共に生き抜いて行きたい家族であり友。



そのニュース、戦争よりも哀しい出来事だった。


人間のアサマシサ、拝金主義の餓鬼道に堕ちた

輩の汚物めいた動きその所業に憤りとヤルセナイ

感情はついつい理性を凌駕してしまった。

散歩。

ワンちゃんにとって、最も待ちわびている一つの日課

一つでしょう。

中にはご主人様の顔色を伺いながら、共に散歩を愉しむ

彼等の姿には、他人の当方にもその光景は微笑ましくも

あり、幸せそうな尻尾の振幅に人を和ませるえもいわれぬ

平和を感じるものです。



愛犬の情操は、日々の散歩でも培われているようです。

たとえ雨の日でも、ご主人たちとの散歩ほど彼等にとって

心地よい日課はないのでしょうね。


大切にしてあげたい日課の一つです。

アヒルのガー君。

 彼(私は彼をオスだと決め付けていました)は
他人の飼いアヒル

多分ご主人様から名前も付けられていた事でしょう。

しかし、私は彼をガー君と呼んで意思の疎通を図って
おりましたね。

それには理由があります。

と言うのは彼との初対面のおり、私は彼にガー君と
声をかけると、ガーガーと鳴きながら愛嬌のある尾を

振り、接近してきたからなのです。

バリ、人なつっこい彼でした。


季節は夏でした。

大き目のタライに水がはってあり、水鳥ガー君の憩いの
ひと時を少しでも演出してあげようとする飼い主の

ささやかな愛情が彼のその姿と相まって、何となく
ホノボノとさせてくれたものでした。

彼との何度かの対面があってからしばらくして、
大雨が降った後、彼が行方不明。


次の朝。近くの河川でアヒルが川面を気持ちよく
泳いでいました。

私が声をかけてみたら、かのアヒル君こちらを見たような
気にしたような。

飛べないアヒルは、地上との段差が4mほどあるその河川
からは、容易に近寄る事は出来ません。

彼は困っている様子もなく、声をかける前の仕草に戻り、
河川を下っていきました。

都会の薄汚れた街中での出来事です。

蒙古の牧羊犬。

古来、モンゴル高原では遊牧以外の生活手段はなかった。

厳しい自然がそれを余儀なくさせているのだ。



つまり土を下手にほじくると、そこには再び植物が生えなくなる。

乾燥した強い風と標高のあるその土地では日本では想像できないほど

の厳しい自然の摂理が地平線の彼方まで充満している。



必然、遊牧になる。しかも単に放牧ではいけない。

一ヶ所に長期間の滞在は自然破壊につながるからだ。



家畜も限定される。

牛では遊牧は速度に問題があり、羊なら具合がよいと。



単に羊だけだと、これまた一ヶ所の草を食い尽くすまでじっとする事

がある。そこで山羊を混ぜる。

山羊は歩行しながら草を食む、羊は移動する山羊を追って一緒に

移動する。



モンゴル高原を旅するときには、注意しなければならない事がある。

それは、牧羊犬。

縄張り意識と上下関係に厳しく、よそ者は先ず敵と認識する。

狼相手の彼らは必然、獰猛が基本。



で、どのように注意するのか。

接待を受ける事になった遊牧家族の客人となり、広々とした大地で用

を足さなくてはならないのだ。



牧羊犬はそれを食って始めて同胞である事を認識する。



風土の違いや環境は、彼等に接する掟を知らないととんでもない事に

なるという。

人生の相棒。

 野生を離れたオオカミをいくら頑張って育てても、犬のように
はならないのでそうだ。

彼らは犬以上にランクを気にする。

王者の振る舞いは勿論の事、一度従う側になれば犬のような
フレンドシップではないそうで、卑屈なまでにそのランクを
意識するとか。

野生とはその様に彼らの行動を限定してしまう。

たとえ野生を離れて何世代に及んだとしても彼等に宿る
それは彼等にその様な態度を強いるのである。

当然と言えば当然なのかもしれない。

何故なら、集団で生き抜く彼らの行動の最も大切な部分、即ち
食料の確保は、狩をするにしても喰っている最中でも、周りに気を
配らなければならない。

子孫繁栄にしても、野生は彼等に厳しい環境しか提供しない。

生き抜くためには気が抜けないのである。

縄張りの保全。身の危険を与えるような敵への配慮。

それらは彼らを遊ばせるゆとりを奪いこそすれ、決して
甘やかしてはくれない。


他方、野犬化した犬を再び家畜化することは、簡単な様である。

犬は元来人と共に生きていける、才能を持っているのかも
しれない。

それはオオカミと比較した場合の事ではあるが。


だからこそ、我々人間は彼らを、犬をムヤミヤタラニ捨てる
訳には行かない。

興味が失せたからといって、保健所で処理してもらうなどとは
持っての外である。

そんな輩に人として、否生物としてこの世に生きる資格などない。

それなら、イッソのこと殺して食ってやった方がまだしも救われる。


彼らは人類にとって最も近しい相棒なのだ。


こんなに人に馴れ、共生をた易く行なえる動物など他には
いない。

人の気を診るにも敏で、感情も豊かで正しく相棒なのである。

愛しむべき相棒。

彼らこそが犬なのだ。