特攻隊の基地が宮崎にもあった

私の祖父は、戦時中空港で働いていました。

飛行機の整備をしていたと聞いています。本人は私が高校生のとき亡くなったこともあり、詳しい話を直接きいたことはありません。

空襲が激しくなって母の家族が近郊の農家の離れに疎開したときも、祖父はその疎開先から自転車で空港へ通っていたというのは笑い話として聞いていました。私が知っている晩年の祖父も、いつもどこでも自転車でした。

その空港が、特攻隊の基地であったということを、最近知りました。

何か別なことを調べていたとき、たまたまヒットしたページからです(リンクしようと思ったのですが、同じところにたどり着けなくてごめんなさい)。

宮崎空港は今でも帰省に使います。18歳で郷里を出てからもう何十回降り立ったかわかりません。でも、このような場所が空港の敷地の中にあるとは知りませんでした。

 宮崎特攻基地慰霊碑(私が撮ってきた写真です2014年1月撮影)
 

先日その場所に母といっしょに行ってきました。碑文には、この場所(宮崎空港)が、旧海軍赤江飛行場宮崎海軍航空隊の跡地であることが記され、この場所から特攻として旅立って行った戦士の名前を刻んだ別の石碑もいっしょにありました。石碑に続く短い通路の両脇には桜の木が植えられ、根元には特攻菊という別名を持つ草花が育てられていました。

碑によると、この場所からは特攻のほか、台湾沖の航空戦に参加した飛行機も飛び立ったことが書かれています。特攻は海軍と陸軍の両方があったようです。

その飛行機の整備を、祖父が担っていた。。。。

祖父が私たちに、いやおそらく母にさえ何も語らずに他界してしまったということが、逆に重い現実になっていくのを感じました。
祖父がそこで経験していたものは、自分の命を国の命運のために差し出すという、いのちのやりとりの一部始終であったのに違いないからです。

戦闘機が目的地に届くために機体の整備をし、(おそらく片道分の)燃料を入れ、若者たちをひとり、またひとり送り出すという務めを果たしてきたのかと思うと、胸の奥が痛みました。


本人が何も語らなかった分、こうやって碑文が残されていることが、何よりの証拠として私の胸に刻まれました。あわせて、この本も手に入れました。

宮崎の戦争遺跡―旧陸・海軍の飛行場跡を歩く― (みやざき文庫74) (みやざき文庫 74)『宮崎の戦争遺跡』(福田鉄文、鉱脈社2010)この本によると、宮崎空港の前身である赤江飛行場のほかに、現在自衛隊の基地として使われている新田原も特攻の基地だったようです。宮崎県内には軍関係の飛行場が9つあり、落下傘部隊の練習場だったり、水上飛行機の基地だったりと、こういう方面にはあまり詳しくない私にも興味深い内容でした。

特攻といえば鹿児島の知覧や鹿屋がよく知られていて、そのほかにはないのだと思いこんでいました。こんな身近なところにあったことに驚いたとともに、どうして学校の郷土史の時間に教えられてこなかったんだろうと思いました。

石碑のある場所は空港の敷地内にあり、ターミナルビルから歩いて数分ですが、空港で働いている方々の職場の中を通っていく格好になります。慰霊のために訪れる人に限って一般人の立ち入りを許可しているようでした。特にチェックはありませんが警備会社の車は止まっていました(私たちが敷地内で迷って別なところをうろうろしていたので車が来たのかもしれません)。この記事を読んで訪れる人が増えるとうれしいのですが、どうか静かにお参りしてあげて欲しいです。