<番外編>自閉症のふたつのスペクトラム−私なりの考察−

前回とりあげた本『自閉症スペクトラム障害』(平岩幹男)(→記事)のなかに、
自閉症の「スペクトラム」についての平岩氏の考え方を述べた部分がありました(pp43-44)

カナー型自閉症を例にとって説明してあります。同心円を描いて真ん中にコア群、その周りにグレーゾーン群、またそれを囲むようにカテゴリー群を考えて、色の濃さがグラデーションで表されています(p44 図2−1)。

 コア群 = 自閉症にもとづく症状があり、それによって社会生活上大きな困難がある
 グレーゾーン群 = 自閉症の症状によって困難はあるが、サポートによってやっていける
 カテゴリー群 = ほぼサポートなしで社会生活を送っている

カテゴリー群の例として、幼児期にカナー型自閉症と診断されたけれども(療育などによって改善し)小学校の通常学級に入学し学校生活を送っている というようなケースが挙げられ、「こうなればもはや障害として扱う必要すらない」(p.44)と書かれています。しかし、このような例でも、思春期にいじめや不登校などの二次障害を起こしてコア群に戻ってくる場合があるとも説明されています。

とてもわかりやすい図解だったのですが、なにか引っかかる部分がありました。
 
専門家の考える自閉症スペクトラム、ある程度統一された考え方というのは、おそらく、自閉症らしい<症状>の強さ、社会生活の困難さの強さを段階別に並べたものなのだろうと考えられます。
私が描いた下手な絵で申し訳ありませんが、赤(困難が大)〜青(困難が小)と並べてみます。

しかし、なんらかの脳の<障害>が考えられる以上、その脳の障害の程度が、重い人から軽い人まで段階別に並べたスペクトラムというものを理論的には考えることができるはずです。
その障害の程度、認知のアンバランスの具合というのは、一生あまりかわらない、その人の個性として持ち続けるという前提で考えるとします。
脳の障害の程度をマルの大きさとして並べてみます。

しろうと感覚としては、障害が重いほど症状も強く、社会生活も困難であろうと思うじゃないですか。こんな風に。

でも、実際は療育によって多くの子どもが<症状>を改善し、カナー型から高機能自閉症型に変わるようになってきています。それは、同じような脳の障害を持っていても、育て方が違えば、症状の出方が異なるということを表しています。

あくまでも理論の上ですが、見かけの症状が重い順から並べたスペクトラムというものを想定した場合、その並びは、育てられ方の違いによって、もともとの脳の個性の強い順から並べたスペクトラムとは全く違う並びになってしまうと考えられます。

前々回に読んだ『ウィニコットがひらく豊かな心理臨床』(川上範夫)(→記事)では、精神分析的な見方を通して、自閉症を「関係性の体験力の不足ないしは不全」と理解しようとしていました。

また、『子どものこころを見つめて』(小倉清・村田豊久)(→記事)の中では、「本来子どもを理解するというのは、発達障碍であれ、何であれ、全部同じ」(p.86)「人はすべからく、発達障害だなぁ」(p.87)といった表現がでできます。

発達障害といわれている症状のもとになっているのは、育ちの過程で生じたわだかまり、滞りのようなものであり、それが表に出てきていると見るのが、なんとなく自然なように思います。認知の障害があると、育ちに滞りが起きやすいという傾向があるけれど、それを補う療育ができるようになってきたということなんだろうと思います。

以前読んだ本『発達障害のいま』(→記事)の中で杉山登志郎氏が主張されていた 発達凸凹 + トラウマ = 発達障害 という説にも一致します。


自閉症のことがあまりわかっていなかった時代には混同されていた認知障害とこころの発達が、ある程度区別して考えられる時代になってきたともいえるのではないでしょうか。

私の考えをもういちど整理してみます。
自閉症にかかわるスペクトラムには二種類あると考えないかということです。
1.認知の障害が重いものから軽いものへと並べたスペクトラム
2. 関係性の発達の困難の重いものから軽いものへと並べたスペクトラム
認知の障害が重いものでも、関係性を引き出すことのできる療育があるし、たとえ認知の障害が軽くても育ちの環境の具合によっては関係性の障害を引き起こすということじゃないかということです。
今の発達障害の診断基準に従えば、認知の障害ではなく関係性の障害の程度にもとづいて診断が降りることになると思います。

発達障害のきっかけとなりうる脳の発達個性はそれとして名前をつけて区別したらいいし、認知特性に合わせた機能訓練や補助ツールの使用を考えたらいいと思います。もしそれをASDと呼ぶのなら、客観的に認知障害の状態がわかる検査方法を早く確立して欲しいものだと思います。
それとは別に、発達障害という症状を起こす関係性の障害について、家族関係を立て直し、社会との関係を作り直し、自分を確立しなおす作業を、地道にすすめていくべきなのだと思います。

そうすれば、自閉症と関連付けられて名づけられた『広汎性発達障害』という言葉はもう必要ないんじゃないでしょうか。
発達障害は、ASDの人にも、それ以外の人にも、だれにでも起こりうる人間の成長のつまづきであろうと思います。そのようなつまづきに対して、適切な新しい名前をつけ、適切な援助をしていったらいいのだと思います。
特に、認知の障害が軽く個性の範囲であるような人の発達障害に対しては、成長の支援ということが大事だと感じています。

しろうとなりの、私のささやかな考察でした。



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