分裂勘違い君劇場 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2006-04-14

コミュニケーション能力をウリにする人が醜悪な理由 16:25 コミュニケーション能力をウリにする人が醜悪な理由を含むブックマーク コミュニケーション能力をウリにする人が醜悪な理由のブックマークコメント

たいして中身のない人が、コミュニケーション能力を武器に、要領よく立ち回って得意げになってるのって、いやな感じですよね。

あのいやらしさって、どこからくるのでしょう?

もちろん、中身とコミュニケーション能力の両方を兼ね備えた人が理想なわけですが、現実には、どちらかに偏っている人はよくいます。そして、中身かコミュニケーションかのどちらかをウリにして自分の居場所を確保していることがよくあります。

そして、コミュニケーション能力を取り柄に自分の居場所を確保しているタイプの人間って、一見、外面がよく人当たりがいいから、多くの人がだまされるんだけど、いざ、仕事で本格的にコラボレーションすることになったりすると、その精神の腐臭が鼻につくことが多い。

あの腐臭はどこから来ているのでしょうか?


コミュニケーションすれば問題が解決するわけじゃない

よく、「みんなで集まってこの問題を解決しよう」と言って集まるんだけど、何度集まって話し合っても、ろくに状況が改善されないことってありますよね。そういうとき、よく思うのは、一致団結すれば問題が解決されるってもんじゃないということです。個人として問題解決をする能力を持った人同士がコラボレーションして初めて、問題が解決される。

コミュニケーション能力、コラボレーション能力ばかり高くっても、その個人自体に独自の価値創造能力がなければ、具体的な成果を生み出すことに貢献できない。物事を創造する能力を持った人たちがコラボレーションすることで初めて、すばらしい創造がなされる。延々とブレストをつづけて、ろくなアイデアがでないと思ったら、遅刻してきた一人の人間が、あとから一気にグワーと問題を整理して、強力なビジョンと戦略の骨格が出来てしまい、「いままで延々と議論してたのはなんだったの?」なんてことなんて、とてもよくあることで。結局、羊が何十匹集まろうと、たった一匹のオオカミに蹴散らされるんです。自らが価値を持ったオオカミ同士がコミュニケーションし、連係プレーすると、すばらしいものが生まれるけど、自分自身が価値を持たない羊が何十匹、何百匹あつまって、何千時間コミュニケーションしたところで、何かを生み出せるわけじゃないんです。つまり、コミュニケーション自体が価値を生むわけでも何でもないんです


コミュニケーション能力ばかり高い人たちの集うブログはつまらない

それと、コミュニケーション能力ばかり高い人のブログはつまらないことが多いと思いませんか?

コミュニケーション能力は高いし、空気も読めるから、人はそこそこ集まってくるんだけど、肝心のコミュニケートする内容が薄いブログのことです。

そこに群れている人たちは、みんな空気が読める人たちで、わきあいあいとコミュニケーションしている。みんな空気をよく読んで、だれも傷つけないように、みんなの気分がよくなるように、よく計算して発言する。そして、ちょっとでも空気を乱すような発言をだれかがすると、「空気読め」と非難する。

でもね、空気にもいろいろ種類があると思うんですよ。ほんとうにその空気って、そこまでして守るほどの価値があるものなんですかね?

もし、低レベルの空気を後生大事に守って、そこに安住しているのだとしたら、それはとても貧しいことではないですか?そんなしょぼい空気を守るために、「空気読め」って言う人って、言ってる本人は自分の正義を確信しているかもしれないけど、その集団の外から見たら、かなりくだらないですよ。


政治能力を取り柄にする人間たちの繰り広げる愚行

極めつけは、たとえばビジネスとかで、「みんなで協力して新しいマーケットなりサービスなりを創造しよう」と言って集まるときに、マーケット自体、サービス自体を創造することよりも、創造されたマーケットにおいて、自社がおいしいポジションを獲得することばかりに力を入れる人たちの醜悪さ。やたらと根回しして、飲みニケーションして、こそこそ耳打ちして、目配せして、言外に微妙なニュアンスをにおわせて。。。。そんなことばかり。自分の分け前を少しでも大きくすることばかりにエネルギーを費やすものだから、肝心のパイがちっとも焼き上がらない。というか、パイの奪い合いばかりにエネルギーを使ってしまって、パイをおいしく、大きくすることに割り当てられるエネルギーがしょぼいもんだから、できあがったサービスは、かけた工数ほどにすばらしいものにはまずならない。

エネルギーを注ぐべきは、具体的な価値の創造であるべきです。具体的な価値とは、実際に多くの人が、具体的なメリットを感じることであり、実際に必要とすることであり、実際に喜んでお金を払って購入したいと思うほどの魅力的な商品やサービスを作り出したり、人々の実際の生活を豊かにすることです。*1


政治ゲームの勝者の自己正当化のインチキ

弱肉強食の利害闘争が正当化される唯一の根拠は、それによって、全体の価値創造、すなわち全体の豊かさの総量が大きくなることです。

弱肉強食が人間本来の姿なのだ、などというのは、まったく理由にならないです。そんなくだらない理由で過酷な資本主義社会の犠牲者の痛みを正当化するなど、恥知らずどころか、罪悪ですらある。近年の進化人類学研究の成果が明らかにしたように、そんなものは、醜い政治ゲームの強者に都合の良いようにでっち上げられた神話にすぎない。

唯一の正しい競争とは、価値創造の競争でなければならない。

だから、コミュニケーション能力や政治能力を駆使して、価値創造ゲームではなく、価値分配ゲームばかりやろうとする人間は、醜く、下劣なんだと思う。

まして、自分自身はたいして価値を生み出さないくせに、そのコミュニケーション能力や政治力を駆使して、要領よく立ち回り、価値の分け前にあずかり、おいしい立ち位置を手に入れ、でかい顔をして、その醜い能力を誇り、恥ずかしげもなく「空気読め」など言う奴らは、人間のクズだと断じて良いでしょう。


政治ゲームやってて楽しいですか?

なにより、あなた、政治ゲームをやってて楽しいですか?ワクワクしますか?心躍りますか?そんなの退屈じゃないですか?

政治ゲームやコミュニケーションゲームで要領よく立ち回って、「空気読め」とか言う人間を見て、魅力を感じます?

そんなことより、みんなが心から盛り上がれるイベントや旅行の企画をした方が楽しくないですか?人々が心から欲しがるような、輝く魅力をもった商品やサービスのアイデアをふくらませ、企画を練り上げ、魂込めて開発した方が、ずっと気持ちが高揚しませんか?そして、そのイベントの参加者や、サービスのユーザが心から喜んでいる姿を見る方が、楽しくないですか?


コミュニケーション能力はあくまで家来に過ぎない

コミュニケーション能力や政治能力が正当化されるのは、その能力が、価値創造の道具として使われる場合においてのみです。

ここで、「価値」と呼んでいるものの正体は、人間の利害と感情の構造を形成する損得と喜怒哀楽における、「得」と「喜楽」を生み出すもののことです。

各人が持っている価値創造能力を組み立てて、より大きな価値を生み出すために使ってこそ、コミュニケーション能力や政治力はすばらしい能力となる。その能力自体が無条件にすばらしいわけではないのです。

コミュニケーション能力や政治能力は、あくまで価値創造という殿様の家来でしかなく、それ自体が殿様の席にどっかりと座り込んででかい顔をするなど、許されない行為だと思うのです。


空気は価値創造のために読む

そして、自分が価値を生み出すためには、まずは、具体的に何が価値であるかを感じ取り、見いださなければなりません。自分がやった行為は、それが誰かほかの人たちの喜び、幸せ、楽しさ、得になって初めて、それが価値になるのであって、その行為自体が絶対的な価値を持つことなどあり得ません。

だから、そのために、空気を読む能力が必要なのです。コミュニケーション能力や政治能力が必要なのです。空気を読み、何が価値であるかを的確に感じ取り、空気の中で価値があるとみなされるものを生み出す能力を育て、自らを築き上げるためにこそ、空気を読む能力が必要とされる。どこに向けて価値創造をすればいいのか、その方向性を正しく舵取りするためにこそ、複雑に絡み合った利害と感情の構造を読み取る能力が必要とされるのです。


政治力は価値を組み立てる接着剤

また、そうして育てた自分の価値創造能力を、他者の価値創造能力と的確に組み合わせ、より大きく実りある創造を、コラボレーションによって生み出すためにこそ、コミュニケーション能力や政治能力が必要なのです。

たいした価値も生み出さずに、自分に都合のいいように空気を操縦したり、空気サーフィンしたりして、「賢いやつ、優れたやつ、強いやつが勝つようにできているのが世の中なんだ」などと、したり顔をする人間は、控えめに言って、歩く汚物です。自分が鼻が曲がりそうな悪臭を放っていることに気がつかない、恥知らずで惨めな生き物です。

P.F.ドラッカーも言うように、単に部下を管理することがマネージメントではありません。単に部下と密にコミュニケーションし、人心を掌握することがマネージメントではないのです。自分の組織が円滑に運営されていればマネージメントが成功しているなどと考えるのは、大きな勘違いなんです。部下たちの創造する価値を集めて組み立て、個々の価値の総和よりもはるかに大きな価値を創造出来なければ、マネージャーの仕事をしたことにはならないのです。


人間関係を豊かにするためにコミュニケーション能力を磨くのは愚か

自分自身に魅力がないのに、いくらたくさん友達を増やしても、意味がありません。豊かな人間関係とは、お互いが素直に尊敬しあえる関係です。尊敬すべきものを何も持っていない人間を、無理矢理持ち上げあう関係は、単に貧しい人間関係の取り繕いに過ぎません。お互いに尊敬する努力をしなければならない時点で終わってます。

そんな欺瞞に満ちた敬意を払ってもらってうれしいですか?

そもそも、内容のない人間と友達になってくれる人間など、たかがしれています。魅力的な人間を知り合いに増やしたところで、単なる知り合い以上の関係にはなれません。

コミュニケーション能力を磨いたり、友達を増やそうとする時間とエネルギーがあったら、その時間を、自分自身を充実させるのに使うべきです。自分自身が魅力的な人物になれば、コミュニケーションの仕方が少々不器用でも、魅力的な人がたくさん集まってくるものです。そして、お互いが尊敬しあえる、豊かな人間関係が自然とできあがるものなのです。

コミュニケーションが不器用なのに、豊かな人間関係を築けている人に共通する特徴は、まず、その人が、具体的な価値を生み出せる能力を持っているということです。たとえば、みんなが必要とするシステムのアーキテクチャをシンプルで美しくタフに設計する能力です。たとえば、iPODのようなみんながほしがる洗練されたデザインを創造できる能力です。お客さんの容姿にぴったり合ったセンスのいいヘアスタイルに手際よくカットする能力です。たとえば、複雑な法律問題を鮮やかに片付けられる能力です。たとえば、面白い漫画や小説を書ける能力です。たとえば、iTunesのような具体的なビジネスモデルを構築できる能力です。強烈に個性的な魅力を放つ雑誌をまとめ上げる編集能力です。そして、それによって、人から強く必要とされるということです。そして、素直で、正直で、謙虚で、思慮深く、ユーモアを解するということです。

そして、それによって築かれた、充実した人間関係の特徴は、愚痴や不幸ではなく、挑戦、冒険、洞察、高揚、歓喜を共有するという特徴があります。

限られた自分の時間とエネルギーを、コミュニケーション能力や、人間関係能力に投資するのは、人生における投資戦略として、賢い方法とは言えないのです。コミュニケーション能力などではなく、自分自身の具体的な価値創造能力を鍛え上げることに時間とエネルギーを投資すべきなのです。


腐った空気に適応すべきではない。むしろ孤独の中で力を蓄えろ

そして、価値を生み出す空気こそが、健やかな空気の唯一の定義です。その空気の住人の価値創造能力をより大きく育ててくれる空気こそが、健全な空気なのです。なんの価値も生み出さない、なんの成長ももたらさないダラダラした空気は、そのへんの自販機で容易に手に入る、安っぽい缶コーヒーやタバコと大して変わらない、単なる嗜好品です。もちろん、人が気分良く缶コーヒーを飲んで息抜きをしているのに、わざわざそれをひっくり返して人々の気分を害するのは、ヤボというものでしょう。しかし、逆に言えば、それはその程度のものでしかないわけです。毎日毎日、たむろしてダラダラと缶コーヒーを飲んでいるだけの羊の群れは、そんなご大層な価値のあるものじゃない。それは、あくまで、息抜きとして行う分にはいいですが、息抜き以上の時間をダラダラとそこで費やし、コミュニティーに受け入れられている快適さに安住している人間は、腐敗している。

そんな人たちに仲間はずれにされることは、恥どころかむしろ誇りです。

そんな腐った空気には、早めに見切りをつけ、さっさと別の集団へ移り住むべきでしょう。学生などで、それができない状況にある場合は、そんな集団の空気に染まるぐらいなら、むしろ孤独を楽しむ方法を見つけるべきです。そんな腐った空気は、乗りこなしたり操縦したりするほどの価値はありません。そんな空気を読める能力などたいして価値はありません。そんなことより、孤独の中で粘り強く自分を練り上げ、じっくりと力を蓄え、価値創造の力を築きあげることに専念すべきでしょう。やがて自分の中が価値で満たされ、泉のようにあふれ出し、すべての生命にあまねく光を注ぐ太陽のように、あふれ出た価値を人々に分け与えないではいられなくなるまで。。。

それが、腐ったミカンがぐちゃぐちゃに詰め込まれた箱だということに気づいたら、そこから自分を取り出さなければなりません。

軽蔑すべきときに軽蔑すべきものを軽蔑する勇気を持たないと、自分自身を腐敗させ、台無しにしてしまうことになるのですから

*1:日本経済の将来は暗いの明るいの、財政政策がどーたら、中国やインドに追いつかれるだの、国際競争力がどーたらという議論がありますが、経済にとってもっとも重要なのは、貿易収支でもなければ国際競争力でもなければ、少子化や高齢化ですらありません。経済にとって最も重要なのは、つまるところ「生産性」です。すなわち、単位時間あたりの、価値生産の分量が最終的に経済を決定するのです。共産主義国家がのきなみ没落したのは、価値の創造ではなく、価値の分配ばかりやっていたからです。一時期、中南米の経済が悲惨な状態に陥ったのは、価値の創造をおろそかにして、分配ばかりに力を入れたからです。日本の将来も、結局は、いかにして、国民国家のエネルギーを、不毛な価値の分配ゲームで消耗させずに、みんなのエネルギーを価値創造に向かうような流れに持って行くかにかかっていると思うのです。

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