分裂勘違い君劇場 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2006-11-20

「真実性を求めて分析・洞察した結果、みなが幸せになれる、政治的に正しい結論になりました」というパターンのブログ記事 10:01 「真実性を求めて分析・洞察した結果、みなが幸せになれる、政治的に正しい結論になりました」というパターンのブログ記事を含むブックマーク 「真実性を求めて分析・洞察した結果、みなが幸せになれる、政治的に正しい結論になりました」というパターンのブログ記事のブックマークコメント

が、実名ブログに多いのは何故なのか?


そもそも、私を含む、ほとんどの人間には、ことの善悪や美醜を評価する能力なんてない。


にもかかわらず、何かを価値評価するような発言がネットにあふれているのは、

(1)自分にその能力があると勘違いしている

(2)無意識的or意識的に権力ゲームをしている

のどちらか、もしくは、両方による。


これを、池内ひろ美氏のブログ炎上事件について書いている404 Blog Not Foundの記事の例で考えてみる。


これは、

トヨタの期間工の若者たちに対して、

離婚コンサルタントの池内ひろ美氏が、

『「トヨタ」を漢字で書けるのか』

『彼らに年間300万円以上も払っているトヨタは偉い』

など、侮辱?することを書いたために、ブログが炎上した。

という事件だ。


池内氏の問題のブログ記事を分析していくと、この問題は、たいていの人間には、理解するのがとても困難であることがすぐに分かる。


池内氏の記事:期間工(トヨタ)

「会社とか経営してんだったら、俺のことも雇ってくださいよ〜」

<<略>>

彼女は、上の言葉を聞いて席を立った。

<<略>>

そして別の店に女3人で座る。

「困ったもんだねー」

「うん。でも私たちも彼らを調子にのせたから、悪かったかな」

「ううん、違うよ!」

強く言葉を発したのは経営者の彼女である。

「向上心がなくて勉強もせず、平日の早い時間から連日飲んでいる男の子なんて、うちでは絶対に雇わない。スタッフにはお願いして仕事をしてもらってんだから。お願いしたくなる子じゃないと雇わない!」

そうだよね。

彼らに年間300万円以上も払っているトヨタは偉い。


それに対して、弾氏はこう書く

確かに今回の池内さんの削除済みenrty、「期間工(トヨタ)」は、はっきり申し上げて弁護のしようがないほど浅はかなentryだったと私は思う。

<<略>>

二つ確かなことは、私は彼らの作った(かも知れない)車に乗り、そして彼らの給与を支払っている会社の株を少ないながら持っているということだ。それだけで、私にとっては職場の彼らを尊敬するに充分な理由だ。酒場の彼らを非難するのも軽蔑するのもいい。しかし彼らの職までその対象とするのは明らかに一線を超えている。


このケースでは、どちらの言い分が、どのくらい正しいのだろうか?


たとえば、「彼らに300万円払うトヨタは偉いのか?」について考えてみる。


まず、第一に、トヨタは、単なる慈善事業で期間工を「雇ってあげている」わけではない。

あくまで、ビジネスで期間工を雇っているわけで、これは、対等な取引でしかない。

取引として割に合わなければ、トヨタは彼らを雇ったりなんかしない。

すなわち、期間工は、トヨタにとって、それだけの価値があるから、トヨタは彼らに300万円を払っているのだ。


この意味で、期間工は、トヨタに対して、なんら引け目を負うようなところはない。

対等な取引なのだから、堂々としていいのである。


さらに言うと、我々がトヨタの車を100万円で購入したとしても、それは慈善活動ではない。

トヨタの車に100万円の価値があるから、それを支払っただけだ。

そして、その100万円の一部は、期間工に支払われる300万円の一部になっているわけで、我々は、トヨタの車を購入することで、間接的に期間工の労働を、「それだけの価値があるもの」として認めているわけだ。


実際に、身銭を切って、彼らの労働の価値を認めるという行為は、口先だけで偽善的に「価値を認めていますよ」などと言うより、はるかにリアルな、ホンモノ性のある価値の認め方だ。


この意味で、期間工の労働は、広く世の中によって、300万円の価値があることを認められているわけであり、世の中に対して、なんら引け目を負うところはない。

そう考えると、「彼らに年間300万円以上も払っているトヨタは偉い。」という池内氏の発言は、ひどい言いがかりであり、暴言であり、侮辱だと思えるだろう。


一方で、「私は彼らの作った(かも知れない)車に乗っている」という理由で、「その車に対して支払った金額以上の敬意を、期間工に対して持つのが当然だ」とする論調も、論理的におかしい。

期間工にしたところで、基本的には、ビジネスとして、トヨタというシステムを通じて、労働を世の中に対して売っているのであって、「社会奉仕をしてあげている」わけではないのだ。

これは、あくまで対等な取引なのだから、結局のところ、もちつもたれつの構造なのであり、「我々は、期間工のおかげさまで、車に乗ることができるのだ」という論理はおかしいのだ。


しかし、この話は、これだけでは片付かない。

どこまでも、どこまでも、どこまでも、どこまでも、どこまでも、どこまでも、どこまでも、どこまでも、どこまでも、どこまでも深い構造をしているのだ。


たとえば、プログラミングとは経営判断の集積であるで、

労働とは、単なるお金のためにする以上の温かい人間的意味を備えたものであった。社会という有機的な存在を価値あるものに高めるための絆だった。それが、工場の中で、機械やベルトコンベアーでつくられるようになり、それに都合のよいように画一化され、労働というものの価値が、単なる金を稼ぐための手段に過ぎなくなるところまで転落した。「仕事」という言葉は、単に「金を稼ぐ」というのと同じ意味しか持たない価値のない言葉になった。

とあるように、労働の価値をすべてお金に換算してしまうと、見失ってしまうものがある、という視点がある。

もちろん、この方向で議論を掘り下げると、うんざりするほど話がややこしくなる。


さらに、たとえ、単純に、労働の価値を金に換算する議論だけに絞っても、やはり、ことはどこまでも複雑である。


たとえば、トヨタは、「外国人労働者を受け入れろ」と積極的に主張している。

すなわち、期間工に支払う300万円は、世界的に見れば、アンフェアに高いと思っているのかもしれないということだ。


世界中の顧客に対して車を売っていかなければならない、トヨタの価値観からすれば、中国だろうとインドだろうと日本だろうと、世界中のどこで労働するのであれ、「同じ労働に対しては、同じ賃金が支払われるのが公正だ」と思うのだろう。


もっというと、中国や、インドで働く期間工からすると、自分たちは、日本で働く期間工と同じ仕事をしているのに、なぜ、自分たちに支払われる給料は、はるかに少ないのか、納得できないものがあるだろう。


一方で、日本の期間工にしてみれば、生活コストの高い日本と、生活コストが激安の中国やインドの期間工で同じ給料では、やってられない、という事情がある。衣食住の費用も遊興費も、全部高いのである。


さらに、それを主張する日本の期間工に対して、途上国の労働者は、それだけ贅沢な生活環境にいれば、生活コストが高いのは当たり前であり、同じ労働をしながら、なぜ、日本の期間工だけが、それほどまでに贅沢な生活環境を享受できるのか、それこそが、不公平なのだ、と言うかも知れない。実際、途上国では日本人がゴミとして捨てた、古いテレビやラジカセを日本から輸入し、大事な家財として、修理しながら使い続けるような低コストの生活をしていたりするくらいなのだから。


この議論を突き詰めると、結局、日本のような生活コストの高い国では、期間工のような労働では、そもそも、彼らが当たり前のように享受する贅沢な生活水準に見合った付加価値を生産するのは、困難である、というところに行き着く。


そうすると、より多くの日本の労働者は、高付加価値の労働者、たとえば、腕利きの財務、法務、エンジニア、人事、企画、プロマネ、経営、といった、高度なスキルを要求される職種を目指さなければならない、という話になってくる。


つまり、どの社会でも、ある一定数のunskilled worker(高付加価値のスキルを持たない労働者)は、必要なのだが、その国でだれもが享受できて当たり前とされている生活レベルによって、許容可能なunskilled workerの数というのは、異なっている、という議論になる。日本のように、山奥まで立派な道路や橋や交通手段が整備され、ド田舎だろうが、安宿だろうが、上下水道も電気も安定供給され、冷暖房もたいてい完備され、モノもサービスもやたらと高級なものをそろえるのが「健康で文化的な最低限度の生活」とみなされるような国においては、社会が許容できるunskilled workerの数がずっと少ないわけだ。


その意味で、いまの日本社会は、過剰なunskilled workerを抱えており、人々がunskilldedなフリーターや期間工に抱く、本能的な嫌悪感も、この意味ではある程度正当化されるところもあるのかもしれない。

なぜなら、多すぎるunskilled workerのコストは、間接的に、社会全体が負担しているからだ。

「世界的に見れば年収100万円分の価値の労働しかしていない人間」に、最低賃金法や外国人労働者規制などの法システムを通じて、300万円払わざるを得ないようにしている分のツケは、結局は、その社会の消費者が、分担して負担しているのだ。これは、ある種、消費者から、unskilled workerへの所得移転とも見なせる。ようは、消費者からぼったくった金で、unskilled workerの賃金を補填しているわけである。


そして、このような、日本社会の空気の中に漂うunskilled workerへの嫌悪感によって、より多くの子供たちや若者が、unskilledなフリーターや期間工にならないように、skilled workerになろうとする動機付けをされるのなら、それは、それで、社会の自浄作用の一つなのではないか、という見方も出来る。


しかし、一方で、unskilled workerは、単に多すぎるのが問題なだけであって、どの社会であれ、一定数は、必ず必要なのである。すなわち、どの社会であっても、unskilled workerの存在によって「も」支えられているという事実は動かないわけで、そういう人間たちに対する軽蔑感情を持つ、というのは、とても健全な社会ではないし、効用があるからと言って、とても正当化されるようなものではない。


さらに、そもそも、どの社会にも、もともと高付加価値の労働者に向いていない人間といういうのが一定数いて、そういう人たちにまで、高付加価値の労働者になることを、強要する社会というのは、きわめてストレスフルな社会であり、そんな無理な社会では、やたらと鬱病と自殺者が増えていくだろう。


だとすると、そもそも、分不相応に贅沢な生活水準の方が、問題なのであって、無理して付加価値生産を増やすことより、生活コストを下げることを模索すべきだ、という議論もできる。実際、100円ショップや100円コンビニなどが普及してきているし。


もちろん、さらに全く別の視点もあって、池内氏の友達の経営者さんの発言が、単なる暴言であるかというと、そうとも言い切れない。経営者という職業は、ごく短い時間の間に、人を評価する能力がなければ、立ちゆかない。この意味で、「酒場で、話をしただけで、何が分かる」、というのは、言いがかりであって、そんな短い間でも、その人間の労働者としてのレベルをある程度見抜いてしまうのが、経営者という生き物なのだ。

ただし、それは、その経営者の仕事感情からすれば、という話であって、彼女の産業分野における労働倫理基準から言えば、その期間工たちから感じ取れる労働観は、明らかにダメダメなのだろうが、その期間工が、彼女の職場で働いていない限り、それは取り立てて問題ではない。その期間工をビジネスとして受け入れる職場がある限り、それはそれで、成立しているものなのだから、外野がとやかく言うことではない。一方で、「雇ってくださいよ〜」と言われた、その経営者さんが、自分の労働倫理基準に照らして、「ああいうヤツは、労働者としてダメだ。」という感想をいだくのも、それほどおかしなことでもないし、それをネットに書いてはいけない、というのも、窮屈すぎだろう。


。。。。と、この調子で、この問題を掘り下げていくと、どこまでも、どこまでも、どこまでも、深くて、ややこしい構造をしているのが分かる。


そして、私を含めた、ほとんどの人間は、このような、一見シンプルに見える問題の裏側に広がっている、どうしょうもなくややこしい構造なんかに、いちいち思いを馳せることなく、一見、冷静に物事を分析し、鋭い洞察を示しているようでありながら、よくよく考えると、かなーーーり浅はかな発言を、ネットに垂れ流し続けている。


このことを、直感的に理解している、良識ある人間の多くは、物事に対して、安易に価値判断をせず、沈黙を守るか、単に「この問題を理解していないのですが、これを見た印象では、自分はこう感じました」と、自分の、脊髄反射的に浮かんだ、動物的感情を述べるにとどめる。

なぜなら、自分が理解も把握もできないほど複雑なことに対して、なんらかの価値判断を示すのは、醜悪なほど傲慢だからだ。


しかし、これは、実質的な言論統制である。なぜなら、この世の中の、多くのことは、容易に理解ができないほど深くて複雑な構造をしており、「浅はか」なことを言ってはいけないのだとしたら、結局、何も言えなくなってしまうからだ。


この意味で、ネットには、言論の自由はない。

少なくとも、言論の自由は、私を含めた、浅はかで恥知らずな人間にしか与えられていない。


ただ、言論の自由を確保するには、それよりも、さらに醜悪な方法がある。

それは、「自分が有利になるように、政治的に発言する」ということだ。


結局のところ、ほとんどの人間が、問題の構造を把握できず、必然的に「浅はか」なことしか言えないような言論空間においては、発言の正しさは、その「真実性」によってではなく、「その発言が、権力ゲームにおいて、誰を有利にするか」によって決定される。


池内氏のブログの炎上事件のケースで言えば、まず第一に、池内氏サイドに味方するか、期間工サイドに味方するか、ということから始まり、その後にいる、膨大な数の人間の、誰を有利にし、誰を不利にするのか、ということだ。


そして、人は、単に「真実性」の高い発言を「正しい」と感じるのではなく、「自分」、「自分の信念」、「自分の支持するもの」を、正当化し、有利にしてくれるものに共感し、「正しい」と感じ、支持する。


だから、権力ゲームにおいて、できるだけ多くの人間を「有利に」するような結論に持っていけば、それが真実性から遠いところにあっても、ネットにおいて叩かれることはない。


ただ、もちろん、この問題自体も、世の中のたいていの問題が複雑な構造をしてるということの、例外ではない。


たとえば、人々は、本能的に「真実性」に惹かれるものであり、「真実性」を追い求める姿勢なしに、誰かを正当化するような権力ゲームをしても、人々に支持される、というような単純なものではない。


それが真実である必要はないが、少なくとも、

「真実を追い求めて問題を分析した結果、みんなが幸せになれるような、政治的に正しい結論にたどり着きました」

という筋書きにする必要があるのだ。


そして、DISるつもりは全くなく、端的な事実として、弾氏のブログ記事には、このパターンがとても多い。


ここで問題となるのが、たいていの真実が、複雑すぎて、たいていの人間に把握することができないものである以上、

「真実性を求めて分析し、洞察を重ねた結果、○○になりました。」という記事の結論部分は、いかようにも捏造できてしまうということだ。

そして、そのことを利用して、弾氏はこのパターンをひたすら繰り返す。


そして、これは、弾氏に限らず、実名でやっている、多くのブログが、多かれ少なかれ、その傾向になっている。


しかし、これはある種、宿命なのだ。


なぜなら、人々がブログ記事に惹かれるのは、そこに「真実性」を感じるからである以上、ブログ記事は「真実性」を追求してみせねばならないし、自分の政治的立場を確保するには、結論は「政治的に正しい」ものでなければならないからだ。


もちろん、政治性を保つのは、必要なことだ。すなわち、自分の立場や、世の中のさまざまな人たちの立場を考えて発言をするのは当たり前のことだ。

また、真実性の追求も必要だ。すなわち、先入観無く現実を直視しようという姿勢も、あって当然である。


しかし、気色悪いのは、政治性と真実性をつなぐ部分である。

すなわち、「政治的に都合のいい結果を導き出すために真実性を構築しよう」という、無意識的な心の動きが、イヤらしいのである。

真実性というのは、「どれほど政治的に都合の悪いことでも、現実を直視しよう」という態度から醸し出されるモノなので、真実性を追求する部分が、この無意識的な政治的下心によって形作られているのが感じられると、いかにもインチキ臭く、興ざめしてしまうのだ。


だから、結局のところこれは、ブロガーが、この構造にどこまで自覚的に記事を書けるか、という問題なのだろう。

ブロガーは、真実性を追求する部分においては、できるだけ政治性を捨てる潔さを保つ姿勢がないとヤラセ臭くなるし、それをできるかぎりやったとしても、まだ残ってしまう臭みについては、「結局のところ、真実らしく見えるのは、真実ではないし、結論も、政治的に、こういうところに持って行かざるをえないんだけどね。」というスタンスを、どこかに入れて脱臭しないと、やはり臭う。


どっかの匿名ブログみたいに、「当劇場では、偏見と矛盾と誤謬だらけの過激な極論とアジテーションを上映します。真に受けないでくださいね。」などという断り書きを書いておくわけにもいかないし、なかなか難しい問題ではあると思うけど。