分裂勘違い君劇場 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2008-11-13

日本にほんとうの自由と豊かな文化を根付かせるための具体的な政策  日本にほんとうの自由と豊かな文化を根付かせるための具体的な政策を含むブックマーク  日本にほんとうの自由と豊かな文化を根付かせるための具体的な政策のブックマークコメント


私や梅田氏や小飼氏よりもはるかに日本文学への造詣が深いコトリコ氏は

「自由こそが文学を生み出す」

と喝破しています。


ここで重要なのは、この「自由」の概念が、

単純な自由市場経済によっては実現不可能なものだということです。


梅田氏や小飼氏を金持ちにしてくれた自由市場経済は、

文学を生み出すような自由を、人々から奪ってしまうのです。


なぜでしょうか?


年季の入った腕利きの料理人のやっている料亭の繊細な味付けの料理と、

マクドナルドのジャンクフードでは、

後者の方がはるかにたくさん売れていますが、

だからといって、料亭の繊細な料理よりマクドナルドの方が

優れているということにはなりません。


同様に、販売部数が少ない小説家や、アクセス数がさほどでもないブロガーよりも、

ベストセラー本を書いた梅田氏や、莫大なアクセス数のブログを書いている小飼氏の方が

優れているということにはなりません。


むしろ、ベストセラー本作家や、ホッテントリの常連のブロガーは、

ポテトチップスのようなジャンクフード文章を書いていることが多いのです。


コンビニにあふれるチープなジャンクフードは、味付けがはっきりしていて、バカでも味が分かります。

一方で、子供をハイレベルの料亭に連れて行くと、その繊細な味付けが分からなくて、がっくり来ることがあります。

繊細な料理を味わうには、食べる方にもある程度の鑑賞能力が要求されるのです。


このため、ジャンクフードに比べると、繊細な料理は、市場規模がずっと小さいです。

さらに、通好みの繊細な料理を作れるからといって、その繊細な味は誰にでも理解できるわけではありませんから、

なかなかビジネスとして成立しないことも多いです。


自由市場経済は多数決原理で動いています。

たくさんの人間に価値を評価されないと、なかなかお金を得られません。

そして単純な多数決原理だと、通にしか分からないような

繊細な日本語文章を生み出せる可能性のある文化の担い手には

じゅうぶんなお金が回らず、

彼らは収入を確保するために走り回るワーキングプア状態になりかねず、

実質的に文化を創造する自由を奪われてしまうのです。


自由市場経済では、「原理的に」コトリコ氏のような人間から「自由」を奪ってしまうのです。


これを解決するには、多くの経済学者が支持していると言われる、

「負の所得税」を導入するのがよいのではないでしょうか。

これによって、コトリコ氏の言う「ゴロツキ」の経済的自由も拡大し、

文化の土壌を耕しやすくなるのではないでしょうか。



ここまで、コトリコ氏の

「自由こそが文学を生み出す」

という洞察を元に論を展開してきました。


しかし、コトリコ氏のこの洞察は、どのくらい信憑性のあるものなのでしょうか?

私や梅田氏や小飼氏よりも、コトリコ氏の洞察の方が信ずるに足る理由はなんでしょうか?


それは、今回の「日本語と日本文化」の議論の経緯から、明らかなように思えます。


まず、「日本語の衰退と日本文化」について語るとき、日本語の飜訳不可能性が鍵になります。

英語の一極支配が進んで日本語が亡んでしまっても、日本文化が英語に翻訳可能なものばかりであれば、

日本文化を全部英語に翻訳してしまえば、日本文化は完璧に保存されることになり、

日本文化を守っていくことは十分に可能だからです。


だから、「日本語が亡ぶとき」という水村氏の本についての議論をするとき、id:kotorikotoriko無理に英語に翻訳すると、その文章の魅力が失われてしまうような繊細な日本語文章で、日本語と日本文化について語って見せたことには、大きな意味があります。

体育教師が、生徒たちの前で、見事なダンクシュートを決めて見せながらダンクシュートについて解説したわけです。これがダンクシュートというものだぞ、と実例を示してみせたわけです。


一方で、自分ではダンクシュートができない体育教師が、優れたダンクシュートについて語るのは滑稽です。自分では泳げない水泳教師が水泳理論を語るのも説得力ゼロです。

それも「これこそが、今世紀最高のダンクシュートの本だ!」と言って、生徒たちにダンクシュートの解説本を売りつけて、しかもその本がamazonで1位になって売りきれるのだから、びっくりです。

私や梅田氏や小飼氏がやったのはそれです。私や梅田氏小飼氏の記事は、コトリコ氏の記事に比べ、飜訳することで失われる独特の味などろくにありませんでした。

というか、飜訳することで失われる独特の味をしっかり持っていたと言えるのは、今回の一連の騒動では、コトリコ氏の記事だけだったのではないでしょうか。


もちろん、自分ではダンクシュートができない体育教師が、いままでにたくさんのダンクシュートを見てきており、たくさんのダンクシュート解説本を研究してきたのであれば、もしかしたらそのダンクシュート解説本が実際に今世紀最高のものである可能性はあります。


しかしながら、今回は、そのダンクシュートができない体育教師は、それほど多くのダンクシュートを見てきたというわけでもないのです。


さらにもう一つの問題は、紹介されたダンクシュート解説本には、一部欠陥があったのです。少なくとも、その解説本を薦めるのなら、その欠陥部分について、十分に注意した上で生徒たちに勧めなければ危険です。


にもかかわらず、その危険な欠陥部分を認識する能力もない人間が、そのダンクシュート解説本の評価もろくにできないまま、それを勧めてしまったのです。


もちろん、id:kotorikotorikoのように、自分でダンクシュートを決められる体育教師の勧めるダンクシュート解説本がよい解説本とは限りません。

しかしながら、id:kotorikotorikoの場合、梅田氏や小飼氏や私とは比較にならないほど多くの日本文学の本を読んできており、日本語と日本文学と日本文化についての思索を重ねてきています。

こと、この分野に関する限り、比較にならないほどの知性の開きがあるのです。

知性にはいろいろな種類があり、梅田氏や小飼氏がどんなに頭が良くても、それは所詮、彼らの土俵の上でのことに過ぎません。この分野でもコトリコ氏と対等にものを言えるほどの知性があると思っているのなら、それは思い上がりも甚だしいでしょう。



このように見てみると、少なくとも、私や梅田氏や小飼氏に比べ、

コトリコ氏の方がはるかに日本文学について語る資格があり、

「自由こそが文学を生み出す」

という彼の洞察は、少なくとも私や梅田氏や小飼氏の洞察よりは、はるかに信憑性があると思われます。


参考


コトリコ氏のクリエーターとしての「技量」がわかる彼の昔の作品を紹介します。

彼の文章が、たんなるおふざけでも、ただの個性や才能でもなく、長い時間をかけて徹底した思索と鍛錬によって磨き上げられた「技術」だということがよくわかります。

私や梅田氏や小飼氏では、ちょっとやそっとの努力では、このような文章が書けないことがリアルに分かります。コトリコ氏は、明らかに黒帯、有段者であることが分かります。我々素人では、勝負になりません。

題名は『コトリ・コ・トリコ』で、ハードボイルド童話です。

http://d.hatena.ne.jp/kotorikotoriko/20070705/1183572240