修正点

最近2つの失敗をした。
一つプロセスの問題であったものを、インプットの問題と読み違えたこと。一つは、ブロセスのメカニズムに関する仮説を大きく外したこと。もうひとつあるか、これもプロセスの問題を、インプットの問題としたもの。
どれも、最終的には仮説を偽であると実証した点では、失敗ではない。これは、これまでの自分の考え方。ただし、そのせいで、真実にたどり着くのが遅れたという点で失敗であった、というのが今の焦燥。
今までの自分の世界観は、価値ある真実にたどり着くのは誰であっても(必ずしも自分でなくとも)よい。というものであった。この感覚は、とても大切なことであるように思うし、失いたくない。
一方で、一番に真実にたどり着く、できる限り早く真実にたどり着く、が第一優先である世界があり、自分はそれに適応できていないし、そのための経験と手持ちの方法論が貧弱である、というのが今感じていること。
経験がないことについては焦ってはいないが、経験を効率よく積むためにインプットするべきものがある。
それが俯瞰的視野であり、具体的にはフレームワークであったり、各種の法則であったりするのであろう。
ルールに捕らわれないことに気を付けながら、それらをインプットするのが、直近の課題である。…が最近は十分に思考する時間がない。つらい。

おまけ人生と人生フェルマータ の続き

で。仕事のことを考えたとして。

仮に良い意味のおまけ人生観を取り戻したとして、それが、よい仕事とよいリーダーにつながる理屈はなに?


そもそも仕事をちゃんとしたい動機ってなんなんだ?ありきたりなのをとりあえず一つ書いてみると
シナリオ①
仕事をして、リーダーをする以上(これはもう前提条件として)、すっきりしゃっきりやっていないと、精神的に気持ち悪いから。気持よく人生を過ごすためには、気持ちいい仕事/リーダシップ/マネージメントをしなくてはならない。

仕事とリーダーが無条件っていうのは、呑んじゃっていいかな…。考えるのめんどくさいから、呑んじゃってもいいような気がしているのが今。でも、考えずに呑んじゃうってことは、つまり無気力無責任ということなのでは。無気力が生んだ役割に、無気力を否定して向き合うのは矛盾しないか?

ここの問題点は、今はこの矛盾に実感的な痛さ伴っていないため、あいまいなままにして、将来苦しむだろうってことだ。将来の苦しみに目が向かない今の自分は、「仕事とリーダーの役割が降ってくるのは、(周囲との相対的な観点から)不可抗力か(しようがないか)」と思っている。もっと言えば、おだてられて、役につかされようとしている(そしてそれがまんざらでもない)のがさらに問題。ようするに、仕事とリーダーの仕事の大変さを実感できないうちに、甘い話だけで引き受けそうになっている。もちろんそのなかに楽しさもあるだろうけど(これいまの文脈では蛇足だけどたぶん大事)。

で、なにも考えずに引き受けた自分と、その尻拭いをする未来の自分の対立。苦しくなったら、もともと適当(適当な自分が、だけど)に引き受けた仕事だし、という逃げ道ができることになる。ナイスじゃないな。

ということは、仕事/リーダーの辛さがヤダから、仕事/リーダー引き受けないという、終始無気力バージョンか(別に考えた結果だから無気力ではないけど)、仕事/リーダーは自分で選んだ道、という納得を得ておくかのどちらかの必要がある。

この話は、間延びしたフェルマータはつらいよというところから始まっているので、前者はじり貧だとして、後者の可能性を探ることになる。ここで登場するのが、"もちろんその中に楽しさもあるだろうけど"という蛇足だった部分。これがなけりゃ、仕事を増やす意味がない。で、仕事もリーダーもやったことがない!ということは、ロールモデルを探して参考にするしかない。

すると、自分の人生で出会った人の中で尊敬できる人とは?というところに、話は戻ってくる。戻ってくるとは、こちらに帰ってきた直後までは、こういうことをちゃんと考えていたという意味で。

ぱっと思いつく人でだいたいこんな感じ

K先生⇒教授
Dr.M⇒マネージャ、研究者、技術者
Aさん⇒研究者、求道者
Fさん⇒マネージャ
Wさん⇒研究者/実験者
Cさん⇒研究者(実験者としては実感がない)
Sさん⇒実験者

この中で、今の自分は自分にとってどこに位置する、と考えてみればいいのでは。最終的にどこに入っていたいのか?今の自分はよくてCさんの位置かもしれない。いや、ただの皮肉屋に落ちてるから、どこにも入れないかな…。

K先生⇒教授
Dr.M⇒マネージャ、研究者、技術者
Aさん⇒研究者、求道者
Fさん⇒マネージャ
Wさん⇒研究者/実験者
Cさん⇒研究者(実験者としては実感がない)
Sさん⇒実験者
あたし⇒皮肉屋

いやすぎる…。目標としてはこんな感じ?

K先生⇒教授
Dr.M⇒マネージャ、研究者、技術者
Aさん⇒研究者、求道者
あたし⇒研究者、マネージャ
Fさん⇒マネージャ
Wさん⇒研究者/実験者
Cさん⇒研究者(実験者としては実感がない)
Sさん⇒実験者

これ、実際に書いてみると、30代半ばで達成の目標って感じだけど。もうあんま時間ないんだけど。

こういう仲間になれことを想像したら、楽しくなりそうですか?At;の語り口、Dr.Mの瞳になれそうですか。なりたいですか。はい、なりたいですね。間違いないな。なれるならなりたい、で十分。具体的な目標に落としてく。

おまけ人生と人生フェルマータ

やっぱり組織のために頑張る的な目標で、自分のやる気を(持続的に)焚き付けることはできないような気がする。そもそもそんな無理なこと考えるなという声もあるかもしれないが、みんな果たしてどうやってんのかなと途方に暮れたときに、おそるおそる手を出してみたい誘惑にはかられるものなのだ。人間弱気になるときはある。

とはいえ、このままでもだめだ、という気持ちもある。会社に対してというのではない。家族に対して?家族に対してという妙な責任感や負担感があるわけでもないが…。家族がいることで、まだ人生まだまだ続くんだなということを、思い知らされた、というのが近いか。人生の長さを直視せざるをえない。

人生終わったものだと思っていた。おまけ人生フェルマータだもん。だけど、無気力で過ごすには長すぎるかもしれない。と言って人生が簡単に円満に終わる予定もないし(別に特別終わってほしいわけでも、終わらせたいわけでもないが。終わったらいいなとは思っているけど)。間延びしたフェルマータで乗り切れるほど甘いもんじゃないかもしれないよ。技術的な問題ではなく、精神的な意味で。無気力疲れ、というようなものか。今まさにそんな雰囲気もある。何かに力を入れようとすると自動ブレーキがかかる的な。おまけ人生観がむしろタガになってしまっているような。

むしろおまけ人生なんだから、たがをはずしませんか?もう一度見直して。まもるもの?ないじゃん、別に。おまけなんだもん。という本来の意味に。おまけ人生と、人生フェルマータを分離しなおす。おまけ人生は軽やかに、フェルマータは優雅に。だるっだるじゃなく。

今は昔と同じ。ただの皮肉屋になっているよ。だるっだる。

という軸が定まっていれば、他人にどう思われようが知ったことではない、という状態に戻れるでしょうかね。

自分が進めている研究に他人が合流すること

基礎研究というのは、見向きもされない。
大学にいる間に学んだ大事なことの一つはこれだと思う。見向きもされないという事実と、それでも自分が大切だと思ったり、未来があると思ったら、くじけず気にせず続ける忍耐力だ。鈍感力かもしれないが。
それだけに、誰かが合流してきたときの喜びはひとしおだ。自分が構築して初めて可視化させたデータのとり方を、教えてほしいと頼まれるのは最高のモチベーション向上薬になる。日々の地味な活動に対するご褒美だ。
面白いことに、最初に教えを請いに来るのは、たいてい、普段は全く興味のなさそうにしている人だったりする。逆に、普段から、おもしろそうなことをやってますね、すごいですねと、おべんちゃらを言う人は、こない。あるいは周りが来だしてからくる。おそらく、技術との距離感の図り方が分からないのだろう。
なににせよ、自分の開発した技術がメインストリームになる感覚というのは、得も言われぬものがある。

こういう新技術を構築している時のアピールの仕方についてだが、自分は、この技術は必ず役に立つはずだと確信をもってやるから、誇大宣伝はあまりしない。まず玄人だけに参入してきてほしいから、という気持ちがあるからだと思う。その点、技術構築が未熟な段階で、最大限のアピールをかけるタイプの人とはアプローチが異なる。ただ、そういう方法論も理解はできる。未来の成果に対して今の投資を呼び込むには大切なことだ。でも、いろいろ雑音が入るし、修正にも面倒がかかるから、個人的にはあまり好きではないというだけだ。

これからは、そうやって投資を引き出す立場にまわるのだろうな。ちょっとめんどくさいと思ってしまう。そこらへんが転換点。

人はすべからく自分を嫌悪しているという妄想

この人は自分を嫌悪しているのではないか、という感情を常に抱えて生きている。年を取るごとに、そのようなことはないと理性で修正はかけられるようになった。しかし、反射的に感じる部分は変わらない。死ねばいいのに、と常に思われている。

それは自分にとっては当たり前すぎて、最近ではあまり悩むということはない。しかし、そのようなことを象徴するような夢を見たために、久しぶりそれについて考えた。

高校時代の後輩(卒業以来会ってもいない)を呼び出して、事務的なお願いをする。待ち合わせ場所の駅前には、その後輩の同期の人たちもいて、後輩は駅から出てくるなり、彼らと楽しそうに再開を喜び合う。そのあと少し離れて立っているこちらに気がつく。一瞬表情が崩れかけるが、笑顔で挨拶をしてくる。どんな依頼かと怪訝な表情。自分と後輩は一緒に歩きだす。歩きながら依頼を伝える。そして、こんなつまらない用事で呼び出してすまなかったと付け足すと、後輩は、そう思うなら呼び出すなという表情を一瞬浮かべた後に、にこやかにそんなことはないですと言う。

というような夢だ。このあとすぐ目が覚めて、思わず苦笑してしまった。この夢からの気づきは、この問題が、他人が自分のことを嫌っている「気がする、かもしれない」といった話ではなくて、もはや他人の嫌悪を自ら「捻出している」ということなのだな、ということである。

なぜ自分は、他人に自分を嫌悪しているという感情を探してしまうのだろう。そもそも自分は他人に対して、無差別に嫌悪の感情を抱くのかと言えば、そんなことはないわけである(と考えて、修正をかけるのが理性の部分であるわけだが)。それでも、反射は、一瞬の表情やしぐさを、嫌悪の表れとして捉えたがる。

①傷つかないように予防的に安全を見てるのか。自分が好きだと思っていても、実は相手には嫌われていた、というのが後から分かるとつらいから、という仕組み。

②嫌悪されていることが確認できると安心するのか。もともとの自己評価が低く、他人からの評価が高いと不安になったり、期待を裏切れないというストレスを抱えるために、他人の評価をどん底に落としておきたくなる、という心理。評価が高いとと書いたが、初対面の人、つまり自分への評価が良いも悪いもない状態、というのがすでに「高い」くくりに入るのだが。

この話に結論はまだない。②が比較的しっくりくるような気がするけど、最近は過去の自分をほじくり返すというような作業をしておらず、ぱっとこれというものを思い浮かべられない。ま、ただ、自分は自ら探しに行っている、という客観的な視点を認識できたことで、理性的なコントロールの根拠が一つふえたかな、と思う。

おまけがおまけであるために

おまけ人生と思ってやりはじめたのにも関わらず、はやくも責任のある役割につけられそうになっている、のかもしれない。

評価されることはまんざらでもない。

しかしよく考えろ。もう人生あきらめたと思って、今の生き方を始めたんじゃなかったか。なんとなくでストレスのかかる道に踏み込んでいいのか?しかもべつに好きでも嫌いでもない道。どうせ本気でやるならこの道、でも本気でできないと思って降りた人生、その道でもないところに踏み込むのか?

べつに昔に決めたことなんか、いまがよければいくらだって変えていいんだ。そういう問題じゃないんだ。ただ、頑張れない自分というのを受け入れて降りたのに、その自分についてそれ以上なにも進展していない状態で、のど元過ぎればっていうだけで新しいことを始めるのは、おかしいんでないか。

それが心底楽しいんだというならやればいいが。そうでなくても、楽しくなるかもしれないと少しでも思うのなら、やればいいが。しかし今のところ、正直どうでもいいことだろう。正直どうでもいいことを、組織の都合でやらされるというだけで、ただちょっとおだてられたからってやるのはどうですか。

そこに私のやりたいことはあるのか。そこで私は成長したいとおもうのか?そもそも私は成長したいと思えるのか、思うのか?

まだ時間はあるから、考えよう。また、考えよう。結論は一緒でも、よく考えよう。そういうのは、とても大事だ。

FBアプリをアンインストールしたら

スマホからFBアプリをアンインストールしたら、すごく快適になった。もともと"ともだち"がいいねした他人の投稿がどんどん出てくる画面に辟易していたのだけど、よく考えたらそもそも"ともだち"の動向自体あまり興味がないことに気が付いたため。あれば惰性で見てしまうのでアンインストールしたら、"FBひらいてどうでもいいなという感想を抱く"というルーチンが生活から消滅してとても快適になった。
yahooニュースとはてなは、距離を置こうとしてもついつい見ちゃうんだけど、FBはそういう中毒性すらなくて、ほんとに興味なかったのに見てたんだなと逆に感心した。