2006-08-14 公園の条件
魯迅公園に行った。
樹木が植えられ、池が作られ、よくある一般的な公園。
木の元にはベンチが作られ、たくさんの人が休んでいる。
それだけである。
ただ眺めるための風景が存在して、それを見るためのスペースがあって、人が散歩するための舗装された道がある。
ただそれだけである。
散策していて面白くない。
ベンチにいる人は、トランプで賭け事やっている人や歌を歌っている人がいる。
それは、この公園だけの風景ではない。
街中のベンチの至るところで繰り返される風景。
この公園に欠如しているものは敷地の高低差。
それに伴い、利用者の自由な選択の余地のなさ。
小高い丘があってそこを上ったり、滑り降りたり、高いトコロから、あたりを見回したり。
疲れたら、ベンチじゃなくて、自分で見つけたお気に入りのスペースで休んだり。
芝生の上で寝転がって、青空をカラダ一杯に感じたり。
こういった利用者の自由意志を許容する場所が公園のありかたなのではないか。
決まり事や、危険の多い街中で抑えつけられた人間の自由意志の開放の場所ともいえる。
東京の立川市にある昭和記念公園がまさに、高低差に富み、四季折々の植物が楽しめる良い公園だったと今思いだされる。
そういう公園が当たり前すぎて、その良さに気付いてなかった。
魯迅公園がその良さを私に気付かせてくれた。
2006-08-10 楽しんじゃえばいいじゃない
■[2006フランスWS]
ボールと人さえ集まれば、すぐにサッカーを始めている。
作業中でも、みんなで笑いながら、楽しそうにやる。
水のかけ合いをしたり、泥の塗りあいをしたり・・・。
昼休み2時間は当たり前で、フランス人にとって楽しむ事が生活の大切な要素なのだ。
フランス人は楽しむのが第一で、仕事も勉強もその次。
遊びの延長が勉強になったり、仕事にもなっているようにも思う。
フランス人はバカンスを楽しむために、仕事をしているって聞いたこともある。
パリを走っていたバスの運転手は、ロックを聴きながら楽しそうに仕事してたっけ。
こういう運転手なら、自分もなってもいいかなと思わせるほどに、楽しそうだった。
輪を乱さずに、調和を考えて作業をこなすのが日本人の性質。
輪を大切にするから、それほど楽しくなくても、ちょっぴり辛くても集団行動ができる。
だから、日本の街中を楽しそうに歩いているサラリーマンなんてみたことない。
そして、日本で楽しそうに掃除をしている掃除のおばちゃんなんて見たことない。
家族の笑顔が見られる風景が少ない。
そういう環境だから、自然とその場の空気も重くなる。
それが蓄積された結果の今の日本の無力感にもなっているのかな。
フランスを思うイメージは明るくて。
日本を思うイメージは薄暗い。
楽しめないことをやったり、楽しめるのに、身勝手につまらなそうにやるのは辞めよう。
楽しむなんて、気持ちの切り替えでいくらでもできる。
楽しそうな人達のいる場所は、素敵に見えてくる。
見ているほうも、うれしくなってくる。
楽しむことの大切さをフランス人に教わった気がする。
2006-08-06 記憶を刻む壁
■[2006フランスWS]
リヨンの町並みで見つけた壁。
そこには、一枚の扉と住所番号の表札が残る。
仕上げがはがれ、むき出しになったレンガも印象的だ。
この風景を見て、私は想像する。
ここには以前どんな建物が建っていたのだろうか?
どんな人が暮らし、ここで何を見ていたのだろうかと。
神社やお寺を訪れたとき。
そこの歴史を思いだす。
過去から現在へと続く時間の流れの壮大さを思う。
そして、今自分はそのものと立ち会っていると実感し、言い知れぬ感動を覚える。
そんな感動にも似た感覚をこの壁から感じた。
そして、こうした街中で暮らしたら、人間味のある優しい人になれるだろうとも思う。
何でも、すぐに新しくなって、過去の記憶の片鱗なんて、コレポッチも残らない日本のような場所で育ったら。
短絡的で、今しか見ることのできない人になるであろう。
それは悲しいことだ。
私が今滞在している、上海がまさに良い例だ。
経済発展の名の元に建て替えラッシュ。
街中にはゴミがあふれ。
道行く人は気にもとめない。
そして、何でもすぐに捨てる。
ものに対する愛がない。
悲しい。
その場所の記憶を宿した場所は、きっと良い場所なのである。
2006-07-24 060724日記宣言
空き地に生える雑草は、そのままにしておけば見る見るうちに伸びきって。
あたり一面を覆いつくす。
日々の生活をただ、ダラダラと過ごしていては、雑草の伸びきった空き地のように。
意思もなく、目的もないただの荒地になってしまう。
日記を書けば、一日を振り返る。
その日を心の中で繰り返し整理をする。
自分を振り返ってみることができる。
何事もやりっぱなしではいけないのだ。
なにかしらの意味を持って、又は必然を持って起こることを見逃したくはない。
だから、例え平凡な一日であろうとも、私は日記をつける。
そうすると、きっと平凡な一日にも何かしらの出来事があったことにきづくはずだ。
そうやって、自分を知る努力をしよう。
一日たりとも、無駄な一日はないのだから。
2006-07-03 意思疎通の障害から
中国にいて、意思の疎通が上手くいかない時があります。
そういう、ちょっとしたヒッカカリが積み重なると、その人に対して優しくできませんね。
中国人は特に、自己を大切にする人達ですから、その障害は大きいです。
今日は、そのひっかかりが溜まりに溜まってその中国人と衝突しました。
知らず知らずの内に、自分がこうあるべきだという考えを他人に押し付けてしまったのかもしれません。
人を見るには、良いトコロを汲み取ってその点を大切に対話をしなければいけないのでしょう。
良さを知って、その気持ちを忘れずにいれば優しく接せられる気がします。
それぞれに良くしていこうと考えて、行動しているはずなのですから。
自分と関わりのある人は、自分の鏡です。
まずは、私から意識を変えて接していきます。
異文化の人との交流は、私をたくましくさせてくれるのです。
明日からもがんばります。








