当事者×セラピストについて

 
 障害当事者としての経験とセラピストとしての経験の療法を持つ「当事者セラピスト」の人たちによる出版物がいくつか出ている。
 
 私自身、2つの経験を持つ人たちは、当事者としての経験があるために、セラピストにしてほしいこと、してほしくないこと、を主観的経験から語れる力と、一方で、セラピストとしての文化圏における論理を知っているので、必要な変容に向けた働きかけができる力を持っているため、客観主義的な専門職性に対して、主観的経験の重要性を説得的に言うことができる立場の人たちではないかと考えたりしている。

 だけど一方で、主観的経験の一般化のむずかしさを指摘されたり、専門職性についての教養の深さを試されることもあったりし、やはり当事者性と専門職性をクロスブリッジするのはそう容易いことでもないのだろうとも思う。

 近年、当事者×セラピストという立場の人がつながりあって、立場性を共有しあう機会が増えてきているようだ。それはたぶん共有しあうに値する、困難な経験がそこにあるからなのだと思う。

 セラピストは、それを改善する立場にあり、当事者×セラピストの人たちは、そうした志向性も共有している。だから、自らの当事者経験を生かして、セラピストや家族、同じ経験を持つ当事者の人たちに、メッセージを伝えようとし、出版物を作ってきたりもしたのだろう。

 当事者×セラピストという立場性を持つ人たちが、当事者としての経験を、セラピストとしての志向性を持ち、否定的な経験とばかりせずに、肯定的な経験と塗り替えられる道筋を幾重にも見出してくれることで、障害を持った人にとって、当事者性が根付いたリハビリテーションを受ける機会の増加にもつながっていくことになるのかもしれない。




 
 

 
 

「障害受容」について考えること

 これから先、人が土地を選び、人を選び、場を選び、暮らしを生成するところで、つながりを持てず、生きづらさや暮らしずらさを感じる人とともにあるような、そういうところを作っていきたいと思っているが、これまでの自分の研究知見と何か関係しているのか、とも思い、少し考えてみる。
 「障害受容」というのは、上田敏の定義によれば、最終ゴール地点として、「積極的な生活態度に至ること」とあり、納得いく生活をつくっていこうとする主体性を持てているかどうか、といったその人の生活態度に着目している。これはもっといえば、障害を生きる、ということの意味や価値にかかわることだから、実存的な問いかけを常にしてくるものだということは「障害受容からの自由」(CBR)で書いたことだった。
 「障害受容再考」(三輪書店)では障害受容という言葉の支援者側の使用法に疑問を持ち、支援者が都合よく用いることの背景にある「支援モデル」について疑問を呈した。それは端的にいうと「個人モデル」であり、個人の能力に着目し、その変容を求めるアプローチをしようとするので、変えられなかった状況の正当化のためにこの言葉が用いられてしまっている、といったことだった。
 もう1点は「障害受容」は個人の変容を求める言葉であるため、他者・社会の変容することの必要性に着目していないため、本人に過負荷のかかる概念であるといった「障害の社会モデル」の観点からの指摘にもつなげた。「障害の社会モデル」は社会の変容を責任を追及するモデルであり、障害者権利条約の障害概念にも採用されているモデルであり、障害のある人の「人権」概念にも寄与している。
 それに関連して、ソーシャルワークがご専門の中島康晴さんは、新自由主義的社会への批判論の展開になかで「障害受容」問題(能力・効率主義的な価値観の受容)を取り扱っており、政治・社会思想レベルまでその問題は広がるのだなと感じた。
 「障害受容」から派生してくることは、単に障害のある人が障害を受容しているとかしていないとか、どんなステップがあるかとか、なにがあれば促進できるかとか、そういうことではなくて、人が自分の人生をつくっていく過程にかかわる、実存的な問いだったり、支援モデルがどのような社会を構想すべきかとか、人権とは何が守られいればよいのかとか、ともに生きる在り方など、様々な課題群を提供してくれているのだと思う。

「中途障害者の生活の再編成に関する先行研究の検討」を読んで

大島埴生他著「中途障害者の生活の再編成に関する先行研究の検討」川崎医療福祉学会誌27−2:247−258 を読んでの諸々。

これは読んでよかった。先行研究を、研究には、医学モデルに基づく研究、生活モデルに基づく研究、社会モデルに基づく研究、個人史に着目研究、インペアメントに伴う体験に着目した研究にカテゴリ化している。

そのうえで、援助志向ー当事者志向、個人ー社会の4象限を作って、それらを位置付けている。

作業療法は、このカテゴリ化でいうと、どうやら医学モデルから生活モデルに移行している印象がある。福祉の言説に近似してきている感じだなと。

また、私が行ってきたのは、社会モデル・当事者志向だと自分では思っているが、著者は、障害の社会モデルについて、

障害の社会モデルは、生活の再編成を論じるうえで欠かすことができない、それは、たとえ当事者が障害の肯定的意味を見出し、社会的活動に従事したいと考えたとしても社会がそれを受容しない限り障害(ディスアビリティ)は残存しつづけるから。特に医学モデルで推奨されるリハの継続やセルフマネジメントが健常者への同化傾向を暗に肯定し、自身の障害を否定しかねないという点は医学モデルの中では十分に議論されていない点(251)

まさにそのとおりだと思うし、これまでいろいろなところで自分も主張してきたことではあるなと。作業療法では、新しい定義にもみられるように、個人の価値や意味が重要視されているが、その一番の盲点は「ディスアビリティ」問題だと思う。「作業的公正・不公正」概念はどのように対応しているのか、よく確認したいところ。

最後に、研究の方向性の理想形として「統合型」が示されて、「社会構築主義のアプローチに身体性を据える現象学的研究を加えたアプローチ」「社会システムの脆弱性という「水平な社会的側面」と、混乱させられた身体の弱さという「垂直な存在論的側面」を結合させるという研究の視座」(253)としている。

こちらも同感。

研究方法としては、エスノグラフィックな行動観察をとおした現象学的分析が有効ではないかと最後に言及している。

そうだな、と思う。それと併せて、上述に戻ると、障害の社会モデル的視座からの基本原則的な議論も必要なのだろうかと。ただそれについては、WHOで推進しているHRBAを活用するということがよいのかもしれない。

ブログ再開

ふと思い立ち、ブログを再開することにしました。

twitterだとそんなに長い独語はつぶやけないし、FaceBookは他者を意識するので独語をだらだらと書く媒体にはならない。突然浮上したのが放置していたはてなブログだったというわけです。それをtwitterと連動することもできるわけですもんね。

親のための新しい音楽の教科書

親のための新しい音楽の教科書


目からウロコの作業料理の本 作業療法覚書

目からウロコの作業料理の本 作業療法覚書

 以前、ある会合に参加した際、作業療法の中で認知症の人に計算や漢字の模倣が課題として出され、その人は苛立ちからか、それをぐしゃぐしゃにする場面のビデオ放映が流れた。その会合にいた作業療法士は私だけだったらしく、どう思うかと聞かれ、困惑してしまった。作業の力は作られたものではなく、自然的なものの中にあるのでは…冷や汗をかきながら答えた。
 山根先生ならどのように答えていたかと思う。本書には冒頭、作業療法を「おもてなし」とし、「平凡で豊かな日常性にこそ、構造化された通常の治療では得られない、自然な治癒力を引き出す力が秘められている」(p17)と書かれてある。そして「楽しい作業」ではなく「楽しく作業」する工夫をすることの大切さが言われる(p19)。つまり平凡な日常性に輝きを差し込ませる配慮こそが作業療法ということになろうか。
本書は普通の本ではない。愛着を覚え、特別な存在に思えてくる。なぜなら、随所に山根先生の粋な遊び心が顕れ、読む人に色彩や温度をもたらしてくれるからである。その一つが詩である。
じぶんの「からだ」の存在 じぶんが在ることの確からしさ 「ああ…そうか」 「これでいいのか」「これでもいいんだ」
これは、平凡な日常性に光射す大事な素材である「身」についての詩の一部であるが、光射す手前で大事なことは「じぶんが在ることの確からしさ」なのだと味わいとともに気づかされる。
「身」の他にも六つの作業料理の素材が紹介される。「食」「植」「土」「音」「描」「言」である。なぜこの七つなのだろうかと不思議に思ったのだが、よくよく考えてみると、これらの素材はどれも装いのない裸の自分と密接になれるものなのだ。「食」は命と直結し、(p114)、「植」は「育て」「食べ」「委ね」(pp119-123)、食物の命の営みに思わず心踊らされる存在であるし、「土」は、植物を育む一方で、粘り気のある感触が心地良く安心感や退行感をもたらしてくれる(p154)。「音」は自分の情動を表現し、伝え(p182)、「描」はことばにならない想いをあらわすことができ(p205)、「言」はひとの体験に意味の輪郭を与え、確かなものにしてくれる(p236)。
これら七つの素材を用いた作業療法レシピが数多く紹介されているのも本書の特徴である。しかもそのレシピは、どれも簡単で、素材の持ち味が存分に生かされた大変魅力的なものばかりである。1つ紹介をすると「音」レシピのなかに「伝想太鼓」がある。長胴の和太鼓を両側から二人で呼応しながら打ち合うものだが、八丈太鼓に触発されてできたプログラムだそうだ。八丈太鼓の経験があるが、これは音の鼓動とリズムによるまさに対話である。八丈太鼓までプログラムに!?という驚きとともに、ひとが音を用いる本来的な理由と機能が生かされたプログラムと腑に落ち、感激した。
本書は「治る」「治す」というとらわれを超えて、「病いを生きる」「病いも生きる」(p17)といった「病い」に対する肯定性を基盤にしているからこそ、ひとと日常的作業の間に在る緩やかな病いの恢復の力能について一貫して言葉にされていると感じる。作業を扱う専門家を自負する作業療法士なら読むべき一冊である。

障害学のアイデンティティ―日本における障害者運動の歴史から

障害学のアイデンティティ―日本における障害者運動の歴史から

堀智久氏よりご恵贈賜りました。ありがとうございました。
楽しみです(^^)

福祉と贈与―全身性障害者・新田勲と介護者たち

福祉と贈与―全身性障害者・新田勲と介護者たち

著者の深田耕一郎先生からご恵贈賜りました。

編著者でおられる富山大学の伊藤智樹先生よりご恵贈賜りました。

どちらの本も読み始めたばかりですが、思索の深度からして、素晴らしい本と感じます。深く納得のできる本だと思います。しっかり読み進めたいと思います。