琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

僕たちが得意気に撒き散らしているものは。

簡単な問題だ。
ある有名人が若くして亡くなったとしよう。それに対して、次のようなリアクションをWEBに書く人がいる。さて、これを読んだ人はどう思うか?

(1)よく知らないけど、御冥福をお祈りします。
(2)みんなよく知りもしないくせに「残念」とか書いてるんじゃねえよ。
(3)若くして人が死んだからって、そんなに大騒ぎしてどうするんだ。オレはもう人が死ぬのには慣れたよ。
(4)みんなアクセス稼ぎなんだろ?

<それぞれに対する、僕の印象>
(1)よく知らないのなら、御冥福を祈る必要なんてないだろうし、そもそも「よく知らない」なんて、誰に対して言い訳をしているんだ?

(2)ふうん、じゃあ、そんなふうに君が事実を指摘することによって、誰かが幸せになるのかね?

(3)人生経験を誇るのは結構ですが、そのネタに他人の死を利用するのはやめましょう。亡くなった方の知り合いだって、見ていないとは限りませんよ。

(4)とか書いてるお前だって、アクセス稼ぎなんだろ?

僕がバカなのか融通が利かないのかはわかりませんけどね、亡くなった人に対して、生前に恨みがある相手でもないのにもかかわらず、謙虚な姿勢をとれない人というのは、傍からみているとすごくみっともない気がするんですよ。知ったかぶりたい、あるいは、自慢をしたいのなら、他のネタでやればいいじゃないか。どうして、そのことに傷ついている人たちに対して、優しくなれないのだ。それは、いつか自分に戻ってくる刃だとは、思わないのか?
そもそも「人間の死に慣れている」なんて、葬式の準備に役立つ以外、良いことなんて何一つありゃしないよ。

…とか書いても、わかんない人にはわかんないんだよね、きっと。というか、そういう人は、たぶんここ読んでないだろうし。とりあえず閑古鳥サイトですが、読んでくれる人には恵まれているのだ。
それにしても、葬式で故人の死因を聞いて「私は体に気をつけなきゃ」とか遺族に言う人って、感じ悪いと思わないのかなあ。そういうのを考えるのは自然なのかもしれないけど、自分の頭の中で処理すればいいことのはずなのに。じゃあ、故人は自己管理が甘かったから亡くなったのか?と。

「書評」を書く意味

http://d.hatena.ne.jp/akichu/20051106#p1
↑のコメント欄を読んでいて、どうしてなんだろうなあ、とずっと考えていました。僕もときどき本とか映画とかゲームとかの「感想」を書くので。
「素人の感想を読む理由」というのは、僕のなかではけっこうハッキリしていて、ひとつは、素人のほうが「しがらみ」がないために、いわゆるメディア内での批評より率直な感想を述べていることが多いということ、そして、もうひとつの理由というのは、ある物事の「平均点」を算出するには、「より多くの意見」に触れるというのが、ものすごく大事だと考えていることです。
実際、WEB上で後悔されている「書評」や「感想」の大部分は、「とるに足らないもの」であり「情報としての価値は低い」のですが、それが10人、50人、100人と集まってくると、そこには、ある種の「傾向」というのが見出せます。要するに、素人ひとりの「面白い」という意見にはとりたてて意味はなくても、100人中70人の「面白い」という意見の集積には、意味が出てくるのではないか、と。たとえ、その70人のなかで、「単体として読む価値のある意見」は、ごくひとにぎりだったとしても。
世論調査のアンケートでの「街の人の声」を観ても、みんなたいしたことを言っているわけではないのだけれど、それを集計したものには、それなりの「価値」があるのと同じことなのかもしれません。「7割の人が賛成!」と。
しかしながら、「なぜ書くのか?」と問われたら、「自分の記録として」という面もあるにせよ、やっぱり、「この人は観る眼がある!」と誰かに言ってもらったり、共感してもらいたい、という気持ちもあるのです。他人の意見に関しては、「統計的な素材」だと思っているくせにね。
もちろん、ネットの中には自分と好みが似ていたり、この人が薦めるものであれば、ちょっと自分の趣味とは違いそうだけど手にとってみようか、という魅力的な「素人書評家」もいらっしゃるのですけど。ただその場合は、どちらかというと「書評としての魅力」よりも、「書き手自身の魅力」のほうが、影響は大きいのではないかなあ。
いずれにしても、「書評を書く人」は"only one"を志向し、「書評を読む人」は、それを"one of them"だと考えがちであるというのは、間違いないように思われます。
書き手っていうのは、その苦労の割には、得ることができるものは少ない、あらためてそんな気がしてきます。

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