琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

「インターネット文学」の可能性について

昨日のエントリを書きながら考えたことをとりとめもなく書いてみます。

僕はこうして7年くらいネット上で書いているのですが(でもあまり上手くならない、悲しいことに)、ネット上に「小説」めいたものを書くたびに、なんというかこう、「せっかくパソコンやネットというツールを使うのだから、もっと新しいことができないかなあ」なんてことを考えるのです。「紙で書いているものをディスプレイの上に表示して、上手いとか面白いとかやっているだけなのって、ちょっともったいないのではないか、と。
そう思いながらも、僕自身は本の呪縛から逃れられない人間なので、「パソコンやネットでしかできないこと」をなかなか発見できないんですよね。
まあ、長い間考えていると、いくつ「インターネット文学」の可能性に関して思いついたことがあるので、それらについて書いてみようと思います。
このエントリは、基本的に与太話として読み流してくださいね。
「文学とは……」というような仰々しい話じゃなく、「せっかくこういうツールがあるんだから、なんか面白いことできないかと考えてみた」だけなので。


(1)フォントを簡単に変えられる。

これは、「パソコン上のテキストのメリット」として、かなり昔から実際に利用されてきていますね。
いわゆるテキストサイト時代は、「フォントいじり」がひとつの象徴でもありました。
ただ、あまりに濫用されてしまったため、現在では「フォントいじり=つまらない」というイメージすら持たれています。
使いかたを工夫すれば、まだ十分「使える」のではないかと思うのですが。


(2)音を出せる、絵がリアルタイムで表示できる。

個人レベルでは難しい話かもしれませんが、『かまいたちの夜』みたいな演出が可能になる、ということです。
これは、「ならゲームやればいいじゃん」という結論になってしまうかもしれませんが、インタラクティブ性を持たない「小説」でも、演出として使うことができないだろうか。


(3)テキストの表示のスピード、タイミングを変えられる。

マンガでも、ページをめくったとたんに大ゴマで「ドーン!」というパターンがありますよね(小説でやる人もいますけど)。
読むスピードはひとそれぞれだから、あまりに書き手側がコントロールしようとすると、「そんなら映画観るよ」って話になってしまうのかなあ。


(4)書き手と読み手の双方向性

ストーリーに「読者の意見」を反映していく方法など。これはもうずっと以前に筒井康隆さんが『朝のガスパール』で実践されています。
でも、それで小説そのものが「面白くなる」かと言われると……小説って、多数決で書かれるものじゃないですしね。「その小説の周辺」は面白くなるのかもしれませんが。


(5)「縦書きで右端から、横書きで左から右」という「本における文字の流れの常識」からの解放

実は、これに挑戦しているテキストをいくつか読んだことがあるのですが、実感としては「読みにくい」。なんかうまいやり方があるんじゃないかなあ、と思うのだけど、具体的な方法はなかなか……


(6)「この先がどのくらいあるのかわからない」

個人的には、これが「インターネット文学」のいちばん大きなメリットになりうるのではないか、と思っています。
本というのは、なるべく先を読まないようにしていても、厚さやページ数で、「あとどのくらいで終わるのか」がわかってしまいますよね。映画でも、だいたい「上映時間は90分〜長くて180分」というのがあらかじめわかっています。最近はだいたいの映画で「上映時間」がアナウンスされていたりしますしね。以前、「終了○分前にあなたは驚く!」ってアナウンスしていた映画がありました。それは宣伝手法としては有効なのかもしれないけど、観ている側としては、「ということは、○分前までは、こっちをミスリードしようという内容なわけだな」と構えてしまいます。そういう状態で、いくら「どんでん返し」を見せようとしても、結局、「予想を上回る」可能性はかなり低い。「これびっくり箱だから」ってあらかじめ言われて開ければ、そりゃあ驚かないよ。
ページ数や上映時間による「読者の確実な予測」を排除することができるというのは、インターネット文学の大きな可能性ではないかと。
……でも、それを言うなら「テレビゲームも同じ」なわけですよね。
実際、「いきなり犯人がわかって、30分で終わる『意外な』推理ゲーム」とか、ラスボスだと思ったらまた次のボスが出てくる、プレイ時間300時間オーバーの「そろそろエンディングだろうという予想を裏切る」超大作なんていうのが、本当に面白くなるのかと言われると、やっぱり難しいのかなあ。

「前衛的な文学」としてなら、そういうのもアリだとは思いますけど……
『ミスト』や『ハプニング』や『好きだ、』を観てみると、「ハリウッド映画なんてマンネリ!もうウンザリ!」って日頃言っているはずなのに、あの「ハリウッド映画的なもの」は、良くも悪くも「最大公約数の観客がそれなりに納得できるフォーマット」なのだな、と考えずにはいられなくなります。


こうして並べてみると、やはり僕の考えが及ぶ範囲というのは、基本的に、「過去の書籍文学の限界を超えられないもの」なのかなあ、という気がしてくるのですよね。
生まれたときからインターネットが存在しているのが当たり前の世代は、もっと新しいことを仕掛けてくるのではないか、と半分期待し、半分妬ましく感じつつ、新しい「インターネット文学」の登場を待ちたいと思います。

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