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2011-01-26 「自殺や過労死するくらいなら仕事辞めろ」

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参考リンク:過労死や自殺するくらいなら仕事辞めろよ こればかりは社畜の考えが分からん(アルファルファモザイク)

「自殺や過労死するくらいなら仕事辞めろ」

僕もそう思います。

ときにこの参考リンクに書かれているような「酷い職場」なら。

もし彼が、この支社長に「そのやり方には、ついていけません」と、ひとこと言えれば、少しは変わっていたのだろうか?

でも、僕はこんなことも考えてしまうのです。

この支社長自身は、彼に特別に目をかけていて「使える社員」として鍛えていたつもりなのかもしれない、と。

もちろん、支社長の彼への扱いそのものは間違っているのですが、もし、彼がこの仕打ちに耐え抜いて出世すれば「若いころに支社長に鍛えられたおかげで、ここまで来ることができました」と言った可能性もあります。


「もう少しがんばれ」と「がんばりすぎるな」の境界はどこにあるのか?

僕には、それがよくわからないんですよ。

僕は就職して15年くらいになりますが、最初の1年くらいは、本当に仕事がキツくて、24時間いつでもポケベルが鳴り、病院に呼び出され、上司に怒られる生活がつらかったし、毎日24時を過ぎ、ボロボロになって家に帰ってきては、「もう、明日は職場に行くのをやめよう……」と思っていました。

同僚には「急患をみると血がたぎる」という人もいたので、僕自身の適性の問題でもあったのでしょうが、少なくとも同級生の3人は1年以内に離職し、その後も何人かは自ら命を絶ちました。

もっとも、こういうのは、ある程度の経験と技術を要求される職場では、特別な話ではないのかもしれません。


僕は「とにかくがんばれ」という人は嫌いだけど、その一方で、「がんばらなくていいよ」という人にも、その優しさに感謝する一方で、「そういうわけにもいかないんだよ」と反発してしまいます。

無理しないで、鼻歌交じりで成果を出せればいいのだけれど、どんな世界でも、高いレベルを目指すのであれば、「限界ギリギリ」あるいは「限界を超える」ことが求められてくるのです。

普通に車を運転するのであれば、「安全運転」で良いけれど、F1レーサーを目指すのであれば、「事故が起こるギリギリのライン」を走ることを要求されます。

「車幅の感覚は、ぶつけてみないとわからない」

僕が運転しはじめたとき、よく耳にした言葉です。

同じように、人間って、自分のことでも、いや、自分のことならばなおさら、「限界」って、自分ではよくわからないような気がします。

いま、ものすごく仕事がキツイけど、これが「限界」なのか?

ここで仕事をやめていいのか?

これを乗り切ったら、自分はレベルアップできるのではないか?

「限界っぽいもの」の前で、すぐに立ちすくんで引き返してしまうようでは、ずっと「同じところをぐるぐると回っているだけ」になってしまうのではないか?

僕は以前、こんな「金メダリストの練習風景」の記事を読んだことがあります。

『Number』(文藝春秋)542号に掲載されていた、長野五輪の金メダリスト、男子スピードスケートの清水選手の記事「清水宏保〜もう一度金メダル〜」より。

 清水のトレーニングは、目を覆いたくなるほど過酷である。特に自転車のローラーを使う無酸素系のトレーニングは、心拍数を生命的限界の220ぐらいにまで上げ、筋肉と脳への酸素の供給を絶ちきるのだ。酸素の供給を絶たれた筋肉は痙攣を起こし、脳は脳死寸前のブラックアウト状態になる。目の前の光が消える一歩手前で自転車を降りるが、苦しみのあまり地べたをのたうち回り、意識が回復するとまた同じことを繰り返す。初めてこの練習を見たときは、不覚にも涙がこぼれた。

「やる方だってイヤですよ。このトレーニングの時は前日からドキドキしますもん。でも、筋肉を破壊しないと新しい筋肉が再生されない。ただ単に筋肉の破壊なら電気ショックを与えても出来ます。でも無酸素系のトレーニングで同時に脳も変容していかないと、いくら筋肉を鍛えても指令を出す脳の限界値が低ければ、意味がなくなってしまう。」(「」内は清水選手の発言)

これはもう「本人がやりたい(というか、やらなくてはならないと思っている)から、やっている」のかもしれませんが、世の中には、こんなことまでして「頂点」を目指している人もいます。

その一方で、東京オリンピックで銅メダルを獲得したものの、その後の周囲の期待に応えようとするあまり、大きなプレッシャーがかかり、結果的に自ら死を選んでしまった、円谷幸吉というマラソンランナーがいます。

では、僕たちは、清水選手には「がんばれ!」、円谷選手には「もうがんばらなくてもいい」と声をかけるべきだったのか?

誰が、この2人の間に「境界線」を引けるのでしょうか?

人手が足りない職場っていうのは本当に「優しさ」を維持するのが難しくて、同僚の女性の「産休」でさえも、「これ以上仕事や当直が増えるのか……」と、内心呪いたくなることもありました。

そんな状況を自覚していればいるほど、自分が「辞める側」になるには覚悟が必要です。

世の中には、たぶん、「仕事を辞めるよりも、自殺や過労死を選んだほうがラク」という精神状態があるのだと思います。

個人的には「死にたい」という気持ちが自然にわいてくるようになったら、仕事は投げ出して、休むべきだと考えています。

ただ、結局のところ、そういう明らかなサインが無い場合には、「もう少しがんばれ」と「がんばりすぎるな」というのは、リアルタイムではよくわからないものだと思うのです。

後になって、「もう少しがんばれば良かったのに」「がんばりすぎなければ良かったのに」という「結論」が出るだけで。

「自殺や過労死するくらいなら仕事辞めろ」

たしかにその通りなんですよ。

でも、他人には「もう仕事辞めたら」ってアドバイスできても、自分のこととなると、なかなか「限界」ってわからないし、自分の「限界」を認めるのは難しい。

どうすればいいのだろうなあ、と悩んだまま、僕の思考は堂々巡りするばかりです。



僕のTwitterはこちらです。

http://twitter.com/fujipon2

たなかたなか 2011/01/26 15:37 給料の具体的な額と、また受け取るであろう将来性で考えるだけでしょ。高所得でいたい高所得になりたいなら、キツイのを諦めた時点で終わり。まぁ、贅沢な悩みだとおもうなぁ。世界中のほとんどは、アメリカでさえ、低所得でキツくて不幸のままなんですから、だから、宗教があったり、愛を求めたりするわけですし。とにかく、楽な高所得はないし、あったとしたら、民衆に恨まれるだけです。

ymyymy 2011/01/26 15:50 そもそも仕事に「限界」まで労力をかける必要があるのか?という疑問があります。
人間の限界の6割くらいの労力で社会がまわるようにしないと、いずれは破綻する気がするんですけど。

矢吹浩輔矢吹浩輔 2011/01/26 16:00 「自殺」とは自分を殺すことであり、「自死」ではないのです。人が人を殺す理由・・・もちろん、快楽犯もいるでしょうが、大概の場合それは怨恨にあると思います。「自殺」を選ぶ人は「仕事が上手くこなせない自分」「同僚に比べふがいない自分」を殺してやりたいほどに憎み、殺そうとするのです。「自殺や過労死するくらいなら仕事辞めろ」という意見はもっともですが、過労死は自分の限界を超えてしまったときに突然襲い掛かる不幸ですし、自殺は仕事を辞めることが出来ないまま自分を憎悪することで生まれる感情だと言うことは本人以外に理解しがたいものだろうと思うのです。私もどうすればよいのか、悩んでいます。自分にも他人にも。

GreenTGreenT 2011/01/26 21:14 ここでは仕事をスポーツに例えていますが、外的要因の多さや予想外のアクシデントの存在から考えて、私は登山に例えるほうが近いと思っています。
登山では一部の上級者以外は限界まで挑戦するのは避けるべき行為でありますし、上級者であっても様々な保険やサポートがついてはじめて限界に挑戦できます。
仕事もそのようなもので、経験者のサポートを得て、自分の可能な領域がわかってから、すこしずつすすめる物ではないでしょうか。

tooshatoosha 2011/01/27 00:24 スポーツ選手を例にしているが、全くもっておかしな話だと書いてて気づかないのでしょうか?
スポーツ選手のトレーニングにはトレーナーやコーチなど誰かがついているものです。限界を超えて、まして死ぬ可能性があるかもしれないほどの過酷なトレーニングを一人で行うとは考えれません。
では実際の労働環境には「こいつの働き方はヤバい、このままだと死んでしまう可能性がある」と正確に判断できる人間ははたして居るのでしょうか。
自分の身体や心の状態を正確に診断できる人がどれだけ居るのでしょうか。
年収が億単位の高所得者なら話は別です。綱渡りのような生活をしなければ得られない収入でしょう。
ですが年収300万〜500万程度の人間が綱渡りを要求される状態は狂っているとしか言えませんね。

一部の業界は構造的に長時間労働、低賃金でないと実現しないようですが、そういう人たちは「好き」でその環境を選択しているので、何も言えません・・・

ryo618ryo618 2011/01/27 00:42 自分の仕事の生産性を真に上げたいという軸がぶれなければこの問題は解決するはずです。

自分の限界以上に負荷をかければどこかで生産性が落ちるはずです。その時が休むべき時です。

恐らく限界以上に頑張ってしまう人は自分の軸を持たず他人の評価に左右される人だと思います。人に褒められたら喜び、けなされたら落ち込んでしまう人は他人の評価を軸としそのままそれを自分の評価にしてしまう人です。

そういった人達は自分を省みないまま人の所為にして仕事を行ってしまうのです。

自分の仕事が何を生産し、それを真に生産できているか「自分で」評価するという自分の軸を持つ必要があります。

主観的に言えば自分で考えようとせずに他人に甘えているようにみえます。休むべき時に休むのもまたプロの仕事だと思います。

いっちぃいっちぃ 2011/01/27 00:53 最後は逃げるをことを決定してからがんばるのは良いことだと思います。
自分でライン引いて、ここまではがんばる。ここまでいったら逃げる。のような。
最終的に自分で逃げないと誰も逃がしてくれないですから。

kasihara1kasihara1 2011/01/27 02:15 スポーツ選手や特殊な職場にいる人は、限界ギリギリまでがんばる必要があるかもしれない。
ただ、普通の会社に務めている人は、無理してF1レーサーなんて目指さなくていいんだよ。
それを強要する日本企業の体質がよくないと思うんだよね。
会社なんて所詮、自分の会社の利益を最優先にする団体なんだから、死ぬ思いしてがんばった結果は、会社の利益にしかならない。
それよりも、正しいがんばり方をする事のほうが重要。
間違ったがんばり方をさせる日本の会社は多くて、間違ったがんばり方をしても、きちんと成長できない。

あと、このブログの記者は、元記事読んでいるんですかねぇ〜。
どう見ても、支社長は最低の上司にしか見えないんですが・・・。
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20110118/257500/

laclefdorlaclefdor 2011/01/27 02:29 >「もう少しがんばれ」と「がんばりすぎるな」の境界はどこにあるのか?
定時に帰れるかどうか、でしょうね。

通りすがり通りすがり 2011/01/27 09:33 危険を侵してF1で走りの頂点を目指すのかは本人が決めること。
人に「お前、F1選手になれ」って勝手に言われて、無理を強いられて、事故って死亡ってのがおかしいんだよ。
頂点を目指さなきゃ満足できないって人は、自分の意思で無理をして頂点を目指せばいい。
言い方は汚いが、潰れるのも自己責任なので。
最初の話も、マラソン選手の話も、問題なのは外圧によって潰れてしまっていること。

kokorohamoekokorohamoe 2011/01/27 10:03 最近は、もっと頑張れ >> もっと楽しめよ。  頑張るんじゃない、楽しむんだよ。 自分が楽しめると思ったことを仕事にして、楽しんでいけば、それが頑張るってことなんだよ。  日本人の言うガンバルは 耐えるになっちゃってる。

IkedaYIkedaY 2011/01/27 12:18 頑張ってみたら壊れた精神障害者のおいらが一言。
頑張る頑張らないの量や質や限界とかは個人差・仕事の種類の差が大きすぎて一言では言えない。
また自殺まで行っちゃう場合ってのは、衝動的なのも含めて健常者の思考が及ばない状態だからね。
「自殺や過労死するのも仕方ない、当然だ」とかが正しいと思ってしまうわけだ。
おかしいだろ?おかしいんだもん

mritu47mritu47 2011/01/27 17:19 逃げることも大事だと思うし、でも多少なりとも無理をしないと何も得ることはできないとも思うし。その加減が難しい。
ずっとガンバレガンバレと言われ、我慢は美徳と教えられてきたので、逃げるのは卑怯と根本的なところで思ってる気がします。
私も今の会社がしんどくて、でもこれぐらいなんてことないのでは?という思いと、壊れる前にやめなきゃやばいという思いがあって、とりあえずギリギリまで頑張ってみようと決めたのですが、どこが自分のギリギリなのかよくわかりません。
なんにしても、「死んだら楽になれるかなぁ」と思うようになったら、辞めた方がいいですよね、きっと。

kota2009kota2009 2011/01/28 07:26 自分の能力を伸ばす努力は必要です。そのためには、自分が限界と思っているラインを超えようとすることも必要。北島選手のように能動的にその努力をする場合と、上司に叱られて受動的にする場合とでは辛さが天と地ほどに異なる。

VOLKSVOLKS 2011/01/29 00:17 最前線の産婦人科医です。
辞めたり休んだりするくらいなら、壊れる方が増しという精神状態があることを理解します。
それくらいじゃないと、休める理由にならない。産休や新婚旅行くらいじゃあ、休めないんですよ。「ああ、あの人も落ちたか・・・」と同情を集めるくらいになって初めて、戦線離脱可能なんです。
最近はちょっとましになりましたけどね。
価値観が自分にないんです。外にある。「ここまでいったら休むのもしょうがない」レベルを自分でひけないんだと思います。他の人がどう思うか、で基準が決まっているんです。

定時で帰る・・・?定時って何時でしたっけ(笑)?できれば3泊はしたくないっていう世界で、定時とか非現実的なこと言われると自分の世界の異常さに気が付くものの、そこから逃げることについて、想像ができない自分がいます。
「あの人が辞める」と聞くと抜け駆けされた気がするくせに、自分は辞める勇気がありません。
日本の産婦人科医療はそんな崩壊1歩前の人たちが担っているって事、世の中の人は知らないんだろうなあ・・・
自分のしょっぱさにも気づいたエントリでした。

ちっちちっち 2011/05/03 02:34 今頃コメントしてもいいでしょうか。
「ノルウェイの森」の時コメントしたのを今頃思い出して、見返していてこちらまで来ちゃいました。このブログはとてもいいですね〜。

自分の限界に線を引く・・ということについては、私も何度も考えさせられたことがあります。
私はたぶん遺伝的にうつ病などになりやすい素因があると思っていますが、幸いなったことはありません。でも、これからのことはわかりません。

退職に限らず、人には「これは限界だ」と悟って環境なり人間関係なりを交通整理しなくてはならない局面があるように思います。
そのポイントをつかまえられれば心を病まずに済んで、つかまえそこなうと心を病んでしまうのではないでしょうか。そして病(コントロール不能状態)の結果としての自殺の可能性が出てくる。

私は今までポイントをつかんだことが2度あって、1回目は今までなかったようなタイプの体の不調で悟り、2回目は、自分の家の食器を半分割ったところで、我にかえりました。2度とも腹を決めて、人生の交通整理を敢行しました。

でも、本当にうつ病になって苦しんだ経験のある友人は、そのポイントをつかむのは難しいと言っていました。

考えてみると、私は子どもの時から10代、20代、30代・・と何度か偶然、精神を病んだ人とある程度深く接する機会があり、そこから学んでいたことがあったから助かったように思います。
そういうことがなかったら、おそらくうまくポイントをつかめなかったと思います。

そもそも、自分で自分の精神の限界のポイントをつかむことは難しい(人によっても精神の強さや危険度は違いますし)ということを前提に、その方法について青少年のうちからある程度教育もなされるべきだし、色々なケースから大人も日ごろから議論したり心づもったり研修的なものを受けたりしておくべきことではないかと私は思います。

なんていうか、いつかくるかもしれない災害への備えみたいなものが必要なのではないかと思うのですが。