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2013-07-29 映画『風立ちぬ』感想

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あらすじ: 大正から昭和にかけての日本。戦争や大震災、世界恐慌による不景気により、世間は閉塞感に覆われていた。航空機の設計者である堀越二郎はイタリア人飛行機製作者カプローニを尊敬し、いつか美しい飛行機を作り上げたいという野心を抱いていた。関東大震災のさなか汽車で出会った菜穂子とある日再会。二人は恋に落ちるが……

参考リンク:映画『風立ちぬ』公式サイト


2013年20本目。

金曜日の18時台の回を鑑賞。

観客は50人くらいでした。

次の回のレイトショーは、かなり賑わっていた模様。


ネット上で僕が信頼している人たちは軒並み高評価で、かなり楽しみにしていた作品です。

この映画、実際に観るまでは「飛行機が大好きで、自分の飛行機を作りたくてしょうがないんだけれど、それを戦争に利用されてしまう男の葛藤」を描いた映画だと思っていたのです。

なんというか、もっと悲劇的な作品なんだろうな、と。

しかしながら、実際に観てみると「えっ、まだドンパチやらないの?」という感じの120分。

つまんないわけじゃないんですけどね。


この映画を観ていると、「宮崎駿って、『矛盾している』ということについて、ブレない人だよなあ」と感心してしまいます。

宮崎監督は、ちょうど僕の亡くなった父親と同世代。

監督は、「憲法9条堅持!」というような、平和主義者なんですよ、「思想」としては。

でも、僕が観たジブリ映画のなかで、いちばん楽しそうにつくられていたのは『紅の豚』でした。

ヒコーキとヒコーキ乗りと、そんな野郎どもに理解のあるかわいい女の子。

キャッチコピーは「カッコいいとは、こういうことさ」。


この『風立ちぬ』を観ていると、監督の「飛行機愛」に感動してしまいます。

執拗なほどカッコよく描きこまれた、ドイツの飛行機のカッコよさ!

軽やかに空を舞う零戦

もうね、「いやー、オレ、アンチ巨人なんだけど、原監督と坂本と長野と阿部は大好きなんだよね。もちろん松井秀喜も長嶋さんも!」って言っている人を見ているようです。

ほんと、正直すぎるよ宮崎監督!

「戦争は大嫌い」だけど、兵器、少なくとも戦争で使われた飛行機は大好きなんだよね。

ああ、でも僕はそれを責めたいわけじゃなくって、そういう自分の矛盾を率直に映画にしてしまうところが、憎めないというか、凄いな、と圧倒されるところでもあるわけです。


「自然との共生」とか「里山」の大切さを人々に啓蒙しているはずのジブリなのに『風立ちぬ』には、テクノロジーへの信頼というか希望があふれています。

押井守さんは、著書『立喰師、かく語りき。』のなかで、こんな辛辣な宮崎駿評を書いておられます。

押井:この間の『ハウルの動く城』だって、「CG使ってないんだ」って宮さん(宮崎監督)は言い張ってたけど、現場の人間は使いまくってるよ。あの人が知らないだけだよ。まるきり裸の王様じゃないか。それだったら、自分の手で(CGを)やったほうがよっぽどましだ。いや、わかりやすくて面白いから、つい、宮さんを例に出しちゃうんだけどさ(笑)。


 いかに中性洗剤使うのやめたって言ったところで、結局は同じことじゃない。宮さん、別荘に行くとペーパータオルを使ってるんだよ。そのペーパータオルを作るために、どれだけ石油燃やしてると思ってるんだ。やることなすこと、言ってることとやってることが違うだろう。そこは便利にできてるんだよね。自分の言ったことを信じられるってシステムになってるんだもん。

こういう「自分の言ったことを信じられるシステム」って、クリエイターには必要なものかもしれませんけど、「戦闘機は好きだけど、戦争は嫌い!」みたいな話になると、やっぱり「いいのかそれで……」としか言いようがないわけで。


この映画での堀越二郎は、戦争に勝つことよりも、優れた飛行機をつくることが大事な人間として描かれています。

ただし、彼も「自分が開発した飛行機が、戦争に使われる」ことに無自覚なわけではありません。

「それは承知の上」なのです。

それでも、あの時代に優れた飛行機をつくるためには、兵器として以外の選択肢はなかった。

僕が子どもの頃読んだ伝記で、ノーベルは、工事の際の不安定な爆薬による事故があまりに多かったことから、一念発起してダイナマイトを開発したことになっていました。

ところが、世界大戦の時代、ダイナマイトは「便利な兵器」として使われ、結果的にノーベルは巨万の富を築くことになります。

そのことに責任を感じていたノーベルは、「ノーベル賞」の設立を言い遺したのです。

これは子ども向けの話だったので、実際にはノーベルも、ダイナマイトが兵器として利用される可能性を全く想像していなかったとは思えませんが……


この映画の公式サイトの「ストーリー」には、こうあります。

 この映画は、実在の人物、堀越二郎の半生を描く――。

ここにひとつの「落とし穴」があって、堀越二郎という人は確かに実在していて、零戦の設計者であることも事実です。

しかしながら、この映画で語られている堀越二郎の業績以外の部分はほとんどフィクション、なんですよね。

堀辰雄の『風立ちぬ』『菜穂子』の要素が織り交ぜられて、この映画になっているのです。

だから、「実在の人物を使ったフィクション」ということで、本宮ひろ志先生の『夢幻の如く』みたいなものです(……って、知らない人には、余計わかりにくい例えになってしまったな……)


ただ、この映画のなかで、2013年的な価値観で「自分の飛行機が戦争で使われることへの苦悩」みたいなのを描かなかったのは、かえって好感が持てるところでもあったんですけどね。


そもそも、「戦争の道具」=悪として考えるのは、平和な時代を生きている人間の思い上がりなのかもしれません。

僕たちが日頃乗っている「ものすごく安全で快適な飛行機」も、堀越二郎らが敷いてきたレールの上に存在しているわけですから、恩恵も受けているわけです。

敗戦の日から日本はガラッと変わったようなイメージを持ってしまいがちだけれども、ずっと受け継いできているものも、たくさんあります。


だからといって、彼がつくった飛行機が「一機も戻ってこなかった」(=パイロットたちはみな命を落とした)ことに対して、設計者に責任はなかったのか?という疑問もあるわけで。

堀越さんは与えられた環境のなかで、全力をつくした。

最高の飛行機をつくるために。

でも、彼は生き残った。

それは「罪」なのだろうか?


「殉死すべきだ」とは思わない。

だけど、生きていることに対して「なぜ?」と感じた人も、たくさんいたはずです。

いや、実際には、堀越さんよりも、もっと「なぜ生き残ったの?」という人がたくさんいたのが、あの戦争だったのだろうけど。

原爆をつくった人たちとか「偉人」ですからね、「世界の歴史」では。


さて、長々ととりとめのないことを書いてしまいましたが、このあとはネタバレ感想です。

まだおつきあいいただける方はどうぞ。


本当にネタバレですよ!

 僕のなかでは、庵野監督が声をあてていることもあって、「ああ、堀越二郎は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の碇シンジみたいなものだな」という結論に達しました。

 本人は良かれと思ったことをやった、目の前の人を助けたい、幸せにしたいと思ってベストを尽くしたことで、結果的にサードインパクトのきっかけとなってしまった。 

 それでも、彼がやったことは「罪」なのか?

 それを、結果だけで判断しても良いのか?

 その一方で、「それならしょうがない」と犠牲になった人たちは、納得できるのか?

 結局のところ、「客観的にみることができれば、誰も悪くないんだろうけれど、感情的な引っかかりみたいなものはずっと残るし、割り切るのは難しい」のです。

 堀越二郎零戦をつくらなくても、誰かが同じようなものを、たぶんつくっていたのだとしても。


もちろんこれは「戦争映画」ではありません。

「純愛映画」だとしても、あまりにもアナクロすぎる。


「仕事と家族とどっちを取るの?」なんて質問はばかげている。両方取れるようにすべきだ!

……なんてカッコつけて言っている僕なのですが、本当に仕事に打ち込んでいる人間にとっては、「家族どころではない」のかもしれないなあ、なんて自信が無くなってきたのも事実です。


ずっと不眠不休で仕事をしていたらしい二郎が菜緒子の待つ家に戻ってきて、すぐに菜緒子の横で眠ってしまうシーンを観ながら、僕は病気で入院していた母を見舞いに来た父親が、いつも病室ですぐに寝てしまっていたのを思い出しました。

子供心に「どうせすぐ寝るんだったら、来なくていいんじゃない?」なんて憤っていたのです。

僕もこの年になってみると、それでも見舞いに来て、そして、母の顔を見ると安心して寝てしまっていた父親の不器用な愛情が、なんだかとても尊いもののように思えてきました。

当時、母親は「家で寝てればいいのにねえ」っていつも苦笑していたものです。


あと、いちばん涙が出てしょうがなかったのが、菜緒子の喀血を聞いて家に駆けつける電車のなかで、二郎が泣きながら仕事をしているシーンでした。

あれはもう、「仕事熱心」なんじゃなくて、「菜緒子のことを考えていると押しつぶされそうで、正気でいるために仕事をせずにはいられなくて、でも、そんな自分が嫌で嫌でしょうがない、という姿なんですよ。

僕も、親の葬式が終わった直後に病院で患者さんの死亡確認をしなければならなくなったときに「なんで自分はここでこんなことをやっているのだろう?」と、家に帰って涙が止まらなくなったことがありました。

僕は堀越二郎のような天才ではないけれど、凡人でも凡人なりに、いろんなしがらみとか捨てられないものも抱えているのです。


 この物語の最後に、ある登場人物が、堀越二郎に、こう言うのです。

 君は、生きねばならない。

 その言葉、画面の向こう側から、僕に語りかけられたような気がしたのです。


 あの戦争でも、阪神淡路、そして東日本の震災でも、ひとりの人間は、大きな歴史の流れとか災害に対して、無力なのです。

 どんなに全力を尽くしても、抗うことができないこともある。

 いや、むしろそんなことだらけです。

(本当に抗った人の多くは、抹殺され、忘れ去られてしまいました)

 それでも、人はその中で、自分なりに生きていこうとし、自分にはどうしようもなかったことに対しても「責任」を感じずにはいられない。

 「生きろ」でも「生きていい」でもなく「生きねばならない」。

 それはたぶん、生き残ってしまった人間の務め、みたいなものなのではないでしょうか。


 いろんな矛盾とか、罪の意識を抱えながらも、生きねばならない。 

 生きることそのものが、生きている人間の死者への罪滅ぼしなのだから。


 これが「正しい」かどうか、僕にはよくわからないんですよ。

 生きている人間の側の、思い上がりのような気もするし。

 いろんな解釈がある映画だと思うしね。


 もしかしたら、「堀越二郎の生きかたが、正しいのかどうかわからない」という疑問を投げかけること、そして、「では、自分はどう生きるべきなのか?」と考えさせることこそが、この映画で宮崎駿という「矛盾の人」が目指したことなのかもしれません。

 「答えはない」ことが、「答え」なんだ。

 宮崎駿もまた、72歳になっても、悩んでいる。



 風立ちぬ、いざ生きめやも。