琥珀色の戯言

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ソロモンの偽証 後篇・裁判 ☆☆☆


あらすじ
被告人大出俊次(清水尋也)の出廷拒否により校内裁判の開廷が危ぶまれる中、神原和彦(板垣瑞生)は大出の出廷に全力を尽くす。同様に藤野涼子藤野涼子)も浅井松子(富田望生)の死後、沈黙を続ける三宅樹理(石井杏奈)に証人として校内裁判に出廷するよう呼び掛ける。涼子は柏木卓也(望月歩)が亡くなった晩、卓也の自宅に公衆電話から4回の電話があったと知り……。


参考リンク:映画『ソロモンの偽証』オフィシャルサイト


※『前篇・事件』の僕の感想はこちらです。


 2015年10作目。
 大雨のなか、火曜日のレイトショーを観賞。
 観客は20人くらい。「前篇」を観たら、やっぱりどうなるのか気になるのかな。
 僕は原作を読んでいたけれど、映画の結末も見届けたくなったし。


 この映画『ソロモンの偽証』、単行本で3冊(しかもけっこう分厚い)、文庫だと6冊にもなる長い原作を前後篇の4時間半でまとめるのは大変だったのだろうな、ということが伝わってくるのです。
 ただ、それが観客に伝わってくるというのは、映画単体でみれば、よくできているとは言いがたいのではないか、とも感じました。
 でも、もし自分が作れといわれても、こんなふうにしかつくれないだろうな、とも思う。
 中島哲也監督みたいに、いきなりミュージカルにしてしまえる人は、そんなにいないだろうし。


 で、いろんな人物(「大出グループ」の残りの2人のこととか、陪審員や廷吏を担当した生徒のこととか)の描写を簡略化したり、裁判での証言もシンプルにしているわりには、けっこうムダなところに時間を使っているようにも見えました。
 主人公・涼子が父親に裁判についての協力を頼むシーンで、「じゃあ、何でも言うことを聞くから、大出くんに裁判に出てって、わたしが直接頼んでくる!」と泣きながら家を飛び出していくのですが、それをお父さんが追いかけるシーンが長い長い。おまけに途中で不自然な大雨まで降ってきて、僕は客席で吹き出しそうになってしまいました。いくらなんでも古すぎるだろこの演出……
 前篇のときも書いたのですが、この1970年代のテレビドラマっぽい演出は、舞台になった時代を意識したものなのでしょうか(といっても、この作品は1990年代前半の設定なのですが)。


 「学級裁判」のことが、ひたすら美化されていて、「学校の伝説」になっているとか(まあそれはわからなくもないのだけれど)、「あの裁判の後、うちの学校ではイジメや不登校がなくなった」とか登場人物が言うのに、かなり興醒めしてしまったんですよね。
 そんなことはありえないよ。ちょっと時間が経てば、同じような問題が起こるはずだ。人は、人の集団は、そんなに劇的に変われるものではない。
 そもそも、「イベントとして、同じクラスの生徒を裁く」というやり方は、裁く側にも、裁かれる側にも「痛み」をもたらさずにはいられないはずです。事実がわかってスッキリするところはあるかもしれないけれど、それで不信や嫌悪感がすべて取り除かれるわけでもない。というか、涼子ちゃんは「スッキリ」なのかもしれないけれど、あの証言がすべて事実なら、全く「スッキリ」なんかしないというか、「めんどうなヤツにターゲットにされてしまうと、理不尽にキツい目に遭わされてしまうんだよな……」としか思えない。
 ああいうヤツとは、関わらないに限る。
 まあ、そういう発想は「大人だから」なんですけどね。


 僕が大人になってしまったからなのかもしれないけれど、この作品の「真相」って、「サイコパス野郎の被害を受けた、自虐中学生日記」だとしか思えないんですよ。
 

 僕としては、黒木華さん(同じ先生役の『幕が上がる』との違いには驚かされます。やっぱりすごいなこの人)が演じていた森内先生と、小日向文世さんが演じていた校長先生の境遇について、考えてしまいました。
 森内先生は、たしかに経験が浅かったし、生徒に対して「真摯に向き合おうとしなかった」のかもしれません。でも、そんな完璧な教師なんてそうそういるもんじゃないし、たぶん、「普通の若い教師」なのだと思う。多少のトラブルがありながらも経験を積んでいけば、成長・成熟して、「良い先生」になっていったのではなかろうか。
 校長先生は経験もあって、生徒を守るためにいくつかの選択をしたのだけれど、結果的に、それが裏目に出てしまった。
 僕には、2人が「悪い教師」には見えなかったし、彼らは運が悪かっただけのような気がしてなりません。
 「柏木卓也がいなかったクラスの先生」たちが、彼らを責めているのをみて、僕は「結局、人生って運みたいなものに左右されるところが大きすぎるよな……」と考えずにはいられませんでした。
 みんな、そんなに立派な人間じゃないはずなのに、こんな状況にならなかったのは、運が良かっただけなのに、「水に落ちた犬」を、嬉々として叩いて、自分を守ろうとする。
「あいつが無能だったから」だと。


 僕がこの『ソロモンの偽証』の原作から受け取ったのは、「世の中には、理不尽な悪意を他者に振りかざしてくる人がいる。残念ながら、それはまぎれもない現実だ。それを知って、どう生き延びていくか(「逃げる」という選択肢を含めて)を考えてほしい」というメッセージだったんですよ。


 この映画版は「きれいなテーマ」を設定しようとして、かえって、嘘くささが目立ってしまって残念。
 ちょっと説明しすぎというか、現代パートの必要性がわからない(というか、無いほうが良いと思う)映画でした。


 それにしても、あんなふうに悪意を振りかざす人間というのは、「迷惑」以外のなにものでもないな。

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