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2016-02-28 【読書感想】第154回芥川賞選評(抄録)

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文藝春秋 2016年 03 月号 [雑誌]

文藝春秋 2016年 03 月号 [雑誌]


Kindle版もあります。

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今月号の「文藝春秋」には、受賞作となった本谷有希子さんの『異類婚姻譚(いるいこんいんたん)』と滝口悠生さんの『死んでいない者』の全文と芥川賞の選評が掲載されています。

恒例の選評の抄録です(各選考委員の敬称は略させていただきます)。


宮本輝

 本谷有希子さんの「異類婚姻譚」は、夫婦の顔が似てくることへの気味悪さが、決してとげとげしくない文章で掘り下げられていくが、読み終えて、なんだかほっこりとした感情を呼び起こすのが不思議だ。その不思議さは論理的に説明できないもので、小説とはそうでなければならないと思う。本谷さんは小説家として一皮剥けたのである。

小川洋子

『死んでいない者』を語っているのは誰なのか。もしかしたら滝口さんにも正体はわからないのかもしれない。その不親切ゆえに生じるあいまいさを、私は魅力と受け取った。自在に流動する語り手は、輪郭が堅固でないからこそ、登場人物に対して何の判断も下さず、彼らの心の欠落にそっと忍び込むことができる。どんな出来事も、目に映ったままをただ見るばかりで、余計なことは何も付け加えない。こうした語り手の一貫した態度が、思い出せない、理由がない、説明できない、という否定の形でしか表現できない欠落に、生々しい手触りを与えている。

奥泉光

 受賞作となった『死んでいない者』は、かたりの作りに企み――といっても従来の三人称多元の技法と大きくは隔たってはいないが――のある作品で、自在なかたりの構成が小説世界に時空間の広がりを与えることに成功している。かたりが破綻している箇所があるとの指摘も選考会では出た。たしかに甘いところもあるけれど、総じては手法はうまく生かされ、死者も生者も、老人も子供も、人間も事物も等しく存在の輪郭を与えられ、不思議な叙情性のなかで、それぞれが確固たる手触りを伝えてくる。傑作と呼んでよいと思います。

山田詠美

『ホモサピエンスの瞬間』。「食の軍師」(泉昌之の傑作漫画。小さな食卓に着いた主人公の頭の中で諸葛亮孔明が大仰な食の戦をくり広げる)ならぬ「治療の軍師」のつもりか。実験小説まで行き着けず、実験の段階で終わってしまっている。こういうのは、独自のナンセンス加減によるおもしろさがないと。悦に入った作者の得意顔が目に見えるよう。残念ながら全然おもしろくないよ。


(中略)


(『死んでいない者』について)

 それにしても未成年がこんなに酒飲んで良いの? 私に言われたかないだろうけど。

島田雅彦

 滝口悠生の『死んでいない者』はお通夜の非日常を通じて、誰が誰だかわからない親戚たちの肖像を点描した作品だが、死んでいない者同士が互いを観察し合っているように語り手のポジションが曖昧なところを私は面白がったが、そこに納得がいかなかった人もいた。自分の葬式の一部始終を観察できる人は現実にはいないはずだが、それを小説で試みたら、このようになると思う。

高樹のぶ子

 「家へ」は「死んでいない者」よりさらに人間関係が紛らわしく、名前を書き出して関係図を作らなければ読み進めない。関係図はたびたび上書きされた。この紛らわしさに耐えて読んだが、何のための多人数登場だったのか。読者に人間関係図を強いるほど「純文学」は偉いのか、などと怒るのも大人気ないし。解りやすければ良いものでもないが、伝えたいことのために「可能な限り伝わるように書こう」とする姿勢は必要だろう。

川上弘美

「死んでいない者」は、興味深い小説でした。「何」と「どのように」が、ていねいにかつ意外性をもって協同しあっていた。ただ、4章で川に流されていった存在のことを、私は最後まで消化しきれなかったのです。消化させない、という「どのように」もあるのでしょうが、あえて消化させないという作者の意志のために私が消化できなかったのか、それとも「どのように」の無駄なたゆたいのために消化ができなかったのか、どうしても判断できませんでした。

堀江敏幸

 滝口悠生さんの「死んでいない者」で展開されているのは、孫が十人もいる老人の通夜の席で共有された複数の意識の波を、少し宙に浮いて自在に移動する視点のシェアだ。「誰かが死んだ時は通常の短絡が短絡でなく、安直が安直でなく感じ入る」。顔の似通った喪服の親族たちが揃って出かける銭湯の湯船にさえ、此岸と彼岸を短絡するしなやかな言葉の仮橋が見える。

村上龍

 選考会で、ある選考委員から、ある候補作について、「この作品が意図するところを、作者は充分に描き切れていない」というようなニュアンスの発言があり、わたしは思わず「それって、才能がないということですよね」と、ミもフタもないことを言ってしまった。そのあと、「作家の才能とは何だとう」ということを、選考会が続く間、ぼんやりと考えていた。これまでそんなことをまじめに考えたことはなかった。


(中略)


 個人的意見だが、作家の才能とは、「どれだけ緻密に、また徹底して、読者・読み手の側に立てるか」ということではないだろうか。言うまでもないことだが、それは「読者へのサービス」などとはまったく意味合いが違う。


 今回も、候補作の評価が軒並み高めだったこともあり、選評も比較的穏やかな感じでした。

 授賞作が二作とも「話題先行型」というよりも「芥川賞の選考委員が好きそうな、緻密な人間描写が特徴的な作品」だったこともあり、候補作それぞれに少しずつコメントしておしまい、という選評が半分くらいです。

 今回はあえて「ツッコミ選評」に徹した山田詠美さんと、「作家の才能」についての考察を書いていた村上龍さんが目立っていたくらいかな。

 山田さんの「高校生がこんなに酒飲んでいいの?」というツッコミには、僕も「まさか山田さんにそれを言われるとは!」と、苦笑してしまいました。

 まあでもほんと、昔は障子に陰茎を突き刺すと「文学的」「衝撃的」なんて言われていたみたいですけど(残念ながら、僕はその時代のことを伝聞でしか知らないのですが、映像として想像すると、コントにしかならない……)、いまや、フィクションのなかでも(成人ですら)喫煙がバッシングされる世の中ですからね……『死んでいない者』が「子供たちに悪影響を与える」という政治的な理由で批判される、というのは、十分ありえそう。

 あと、宮本輝さんが、本谷有希子さんの作品に対して、「小説家として一皮剥けた」と書いておられるのを読んで、僕は内心、「こういう作品ばっかり選考委員が褒めるから、世の中の『純文学』って、どんどんディテール勝負のつまらないものばかりになっていくのではないか」と内心思ったのです。

 

参考リンク:【読書感想】異類婚姻譚(いるいこんいんたん) ☆☆☆ (琥珀色の戯言)


第135回の芥川賞の選評で、石原慎太郎さんは、本谷有希子さんの『生きてるだけで、愛。』について、こう仰っています。

石原慎太郎

「私は本谷有希子氏の『生きてるだけで、愛。』を一番面白く読めた。主題は病的な時代の男と女の虚無の相乗の孤独といえるが、他の多くの選者の意見は、いかにも芝居仕立てに過ぎるということだった」


 最近の選評を読んでいて思うのは、今の選考委員って、技術的な面では、本当に素晴らしい面々が揃っているんですよ。

 ただ、なんというか、読み手の側からみた「面白さ」や「ダイナミズム」に目を向ける人が少ないような気がするのです。

 本谷有希子さんの作品の面白さは「いかにも芝居仕立てなところ」なのに、こうして「一皮剥けた」結果が、普通につまらない「純文学」であるのなら、芥川賞は、本谷有希子という才能を殺してしまったのではなかろうか。

 まあ、本谷さんは本谷さんなりに考えや計算があっての、この受賞作なんだろうな、とも思うのですけど。

 なんだか見当違いのことばかり言っている、などと思い込んでいた石原慎太郎さんなのですが、今はなんだか、あのマッチョな選評が懐かしい。

 なんのかんの言いながら、あの人が、いちばん「時代の空気」を読めていたのかもしれません。


追伸:選考委員の皆様、『異類婚姻譚』のネタバレしすぎです!!

(今回は、選評より先に受賞作を読むことをおすすめします)

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