『陋巷に在り 8 冥の巻』ISBN:4101281203

昔書いた文章を少しだけ載せる。


陋巷に在り 8 冥の巻』で面白かったことをもうひとつ。それは教育者としての孔子でした。学ぶということは兵士が戦場で戦うと同じ、命をかけることなのだ、ということ。

まぁ、私はそこから程遠いが。比較するのもおこがましい。

2001/12/28のMemo 可能性は無限だというが、残された時間は明らかに有限だ。

基礎物理実験のレポートを採点しています。「これはちょっと…」って言うレポートがあって、「教え方が悪かったのかなぁ」って反省してみる。

でもでもでもさ、そんなに高いこと要求したかな?だって、インターネットを通して30分くらいかければ、その情報は集まってくる。グラフの書き方だって、ちゃーんと渡されているはずのプリントにかいてある。駄目押しで、図を綺麗に書きましょうなんて言ったし。っていうと愚痴になってしまう気がするな。

まぁ、しかたがありません。思うのですが、私はお金を貰ってTAをやっています。しかし、「どこまで」時間をかけて下調べをし、「どこまで」相手に対して教えるべきなのかの基準は曖昧模糊です。

採点だっておそらく1レポートに5分かけようが、40分かけようが点数自体はあまりかわらない。ただ、どこまで私なりの意図、教育的配慮とかいう曖昧なものを入れるかが問題です。「好きなだけやればいいじゃない」っていうけど、少なくとも最低限度のことはやらなければいけない。悪いところは指摘し、これからは改善するように指導し、良いところはほめて、やる気を出させるようにするとか。

私は対して物理学の知識がないし、めんどくさがり屋なので最低限のことしかできないかもしれないし、そんなにたいそうなことをやるつもりもない。けれど、ただ「やらなければいけないとされているからやる」ではなく、私はその一線までやる、という基準を-複数のcriteriaを-持っていたほうが良いのだと思う。そうしなければ、他者と、そして何よりも自分の怠惰な性質に流されるから。

2001/12/07のMemo 知り合いから

知り合いから、私がメールについて書いたことに関して話し合いたいって言ってきた。私はちょっと悪いこと書きすぎたかな〜って思ってちょっと反省していた。だけど、今日会って、その人と話したことはなんか全然関係ない(ちょっとはあるが)ことで私が気にしていたことではありませんでした。


「もういいかげんにしたら?」


って言われるかと思ったのに。そう言われた時のために準備していた言い訳が全てパーです。いや、ちょっとほっとしているけど。

「王様は裸だ」って言われる前に自分が裸であると気がついてしまった王様みたいな気持ちだったのです。王様の裸を誰も気がついてくれなくて、または気がついてもウザイからだれも注意してくれないようなさびしい状況のなかで、裸でもいいのかなぁと逆に考え込んでしまう王様の気分です。って意味わからなすぎ!

2001/12/07のMemo ちなみに

その人は多分こんなとこ見ないのでいろいろ書いちゃいますが。その人は会話が結構幅広い分野でできる人なので私の与太話も楽しそうに(実際楽しいかは不明なのですが)聞いてくれました。

私は結構話しべただと思います。2人でしゃべるのはいいのですが、3人以上で会話するのが苦手です。話してると、それは関係ないよって思われてそう。

人には得意不得意の話題があるわけであって苦手な話題をふられてもいいかげんなことしか言えないのです。

その話題は嫌だってなかなか言えないですからね。どこが面白いのかわかんないので聞いてみると、教えてくれますけど、なんか話の腰を折ってしまったみたいで悪い気もする。往々にして、私の無知が笑いの種になることが多いのですが。

2001/04のMemoの一部

図書館に『数学的経験』 ISBN:4627052103 って本がありました。ちょっと引用しましょう。引用の意図は「笑わない数学者」に似たような文章があるのを思い出せるかということですが。

科学の最高の知性ですら、過度の単純化の魅力に取りつかれてきた。
物理学はやがて、ちょうど曲がり角で、重力、電気力および強い相互
作用と弱い相互作用などの全ての力を統合するであろう1つの、そして
ただ1つの法則を探求することに追いまわされた。生物学者は、
今や生命の秘密が大きな分子の点在する二重らせんから収集される
という予想に魅惑されている。心理学者は共有抑圧に対する治療として
性の解放、不思議薬剤と原始絶叫を順番に処方してきた。一方では宣教師は、
再生のホサナ合唱に参加するという金のかからない申し出で逆襲したい
であろう。


笑わない数学者 MATHEMATICAL GOODBYE』ISBN:4062646145 します。

「数学が何の役に立つんです?」(略)「1度、きいてみたかったんですけどね」

「その質問をおまえは以前にしている」低い声が答えた。「鶯の美しい声に、何の意味があろう?森へ行ってきいてみるが良い。何のためにお前たちは鳴くのかと。何の役にたつのか、とな。すべての美は、それを尋ねる者には、役に立たぬものだ。では、哲学者は何の役に立った?存在の複雑さをベクトルのようなものに置き換えて何になる?心理学者は何の役に立ったかな?解放と処方を入れ替えて、絶叫と抑制の多角形の頂点を一つ移動したに過ぎないではないか。物理学者は、世界中の金を集め、統合というただ一つのマジックさえまだ完成させていない。宗教か政治家はどうだ?戦争が終わらないように敗者を援助する、いやそう言って握手だけの約束をする。誰が何の役に立った?一人でもよい、役に立った者を思い浮かべてみたまえ。よいか……少なくとも数学者だけは、自分たちが役に立つなどとは決して言わなかった。何故なら、それが(略)」

こんなことを書いて何の役に立つのか?上記のような引用をしておいたら如何なる意味も消え去りそうな予感はある。引用を行なう際に、まぁその本の前後は読む。其のときに気が付くことは、普段はなんていいかげんに思考しているのであろうかということ。其のときはいいかげんだと思わなくてもあとで考えると考えるべき多くの要素を忘れ、強引な論理、心地よい結末。それはそれが楽だからかもしれない。

何かを書きたい→そのために調べる→自分の言葉にして書く→ちょっとだけ勉強できる。

これだけじゃ駄目?というような問いかけを誰にしているのか?読んでいる全員に対して?少なくとも自分に対して。

祈り

「祈る」のは「なんのため」
「祈る間は不安から解放される」からとか
「祈りの姿勢が落ち着きを与える」からとか、
そんなふうにパラフレーズしても私は何も得られない。

2001/06/28に書いた。人は何故祈るのか?祈ることはどんな効果があるのか?なかなか興味深いテーマ。