希望とは、あるともいえないし、ないともいえない。 それは道のようなものである。
地上にもともと道はない。 歩く人が多くなれば、それが道なのだ。
<魯迅 「故郷」>
しかし、そのとき、はじめて人は気づくのである。
すべて奪われても、なお、自分が最後の一線で渾身の力をふるってふみとどまれば、
万人に平等に与えられている唯一の、そして本当の武器がなお残っていること。
それは言葉である。もうそれしかない。だが、自分で捨てない限り、これだけはだれも奪うことはできない。
<山本七平 「私の中の日本軍」>
神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように
にぎやかな場所でかかりつづける音楽に 僕はずっと耳を傾けている
<小沢健二 「天使たちのシーン」>
2006-08-05-Sat
適応できない日本人たち
愛読している人気ブログ「分裂勘違い君劇場」(id:fromdusktildawn:20060803:1154571054)で、僕のような「入学容易大学」で不熱心な大学生に経営学(の初歩の初歩)を教えている身としては耳が痛い一節がありました。
ビジネスの正否は、(1)人が欲しがるモノで、(2)しかもまだあまり供給されていないものを、(3)低コストで提供したかどうかで決まるのだ。要は、需給バランスと生産コストの見極めがキモだ。マーケティング、生産性、マネージメント、イノベーション、だ。耳タコだ。
それらは、学校では教えてくれない。なぜかというと、学校の先生というのは、「学校を出て学校に入った人たち」だから、学校以外の世界の原理を知らないからだ。世の中が、マーケティングで生産性でマネージメントでイノベーションになっちまってることを知らない浦島太郎だからだ。学校というところは、浦島太郎が浦島太郎を拡大再生産する工場みたいなもんなのだ。
ひとつ付言しておくと、もちろん「劇場さん」が指摘している上記三点を企業や個人が満たせばすごく大したもんなのですが、世間の多くの企業は、特に中小企業はせめて二つを満たしていれば大いに御の字だよね。ひとつでもなかなかのものです。
それなのに、三点のうちひとつも将来満たせなさそうな人材(それを人材というのかもともかく)を見ていると、非常な力不足を感じて、日本の将来どうなるのか、とも思います。先日もT氏にちょっと愚痴ってしまいましたが、近況を話題にするとつい非常勤先の話が出てしまいますが、ちょっと心が荒んでいるかも知れません。なんかひとしきり四月以来やってきて、無我夢中でやってきたものの休みが入って、ちょっと我に返ると「こういう仕事をする破目になるとはー!」と叫びそうになります。
これまでの日記ではまだしもポジティブな側面を書くようにしていましたが、やる気がない生徒はいつまでたってもやる気が出ません。それも根こそぎやる気がないというか、別に極端な話ではなく、講義中にペンとノートさえ机の上に出さない学生がいます。持って来てないの?と聞くと持って来てさえいないんですよ本当に。少数派としてまだしも真面目な学生もいないではないんですが、その反面こういう学生がいると、こちらはとても不毛なことをやっているような気がして唖然とします。
ベンチャー論のほうは二限連続なので、ある程度学生をふるいにかけるとまともなのが残って、彼らとは共通の文脈を構築する工夫をしてシャツ染めまで漕ぎ着けたのですが、ひとコマだけの経営史のほうは、どうもそこまで行けなかった。まだしも頑張りが利いた学生に、「君はこれだけやったから、大したもんだから後は来なくってもAは上げるよ。」とかやる気を出させるつもりで言ったら、本当に来なくなってしまった。ミスったなあ。
彼らは学んでどうしようとかなんになろうとか、そういうビジョンがまるでないから、機会を設定してもなにをやるでもない。ゆくゆく楽をしようとして最初ちょっと頑張る、ということさえない。ひたすら目立たないように大人しくしていれば、相手が堪忍してくれて可はくれるものという期待だけでじっとしている。ただ、ちょっときついことをいうとむくれるときだけ反応がいい。
だけど二十歳の大人に、「ノートをちゃんと持ってこい。」なんてこちらはとても言う気になれない。ペンを出せ、とかも。それを言うのは本当に相手に対する侮辱だと思うから。だから、「ノートをとったほうが知識として後に残るよ。」とか、「まあ、ノートをとらないのもあなたがたの価値観だけれども。」とか言っても、平然としてただぶすっとして椅子にだらしなく座っている。
以前、西尾先生(id:chuukyuu)が大阪の陸軍幼年学校の最後の入学生だったことを伺って、「優秀な少年でいらしたんですね。」と書いたら、「14歳くらいで人間が優秀かどうかわかるものでしょうか。」と返されたことがあったように思います。確かに、いわゆる学力・知力みたいなものは大人になってもいろんな機会があって努力次第で伸びるものだと思うんですけれど、この4ヶ月で感じたのは、「机に向かう体力・集中力」みたいなものは、もうちょっと早い段階で決まっちゃっているのかも、ということでした。なにしろみんな堪え性がなくって、すぐヘタって突っ伏している。居眠りではないんです。普通に身体を起こして、講師を注視・傾聴する体力がないんですよ。 それはこちらの授業が興味をひくものではないからかも知れませんが、それにしても幾人かはある程度は興味を持っているようなのにでも目がトローンとしてグターッとなって話なんか聴けないようになっている。
かなり気安くなったので、ふっと思って「君、相当生活リズムが乱れているだろう。」と聴いてみると、「わかりますか?」と返す学生ばかりだった。夜更かしとかそういうことのようで、決して生活苦に追われてバイトしているから、とかそういうものではない。そういう中国人学生はいるようですが、日本人学生は単に生活が乱れているだけだ。
「そんなことではなんにも出来やしないよ。勉強だって頭に入らない。東大や早稲田の学生だって君たちとは別に知能がそう差があるわけではないと思うけれど、暮らしがしっかりしていて、授業をちゃんと聞いて、ちゃんとノートにとって、たまに見返す習慣があるだけだよ。」と言ってしまった。
きついようだが、事実だからな。しかし生活指導を大学生に向かってやるのは僭越な話しだし、そんなお金も貰っていないので、最後にちょこっと言っただけに留まった。でも、そもそも自分の心身を最低限机に迎える程度にメインテナンスできない人に、誰かがなにかをさせようと思わないだろうに。
数少ない機会に彼らの語彙などを伺ってみた経験から考えれば、どうも僕の世代なら中学一年生くらいで学習段階が留まっている。いわゆる「中1ショック」で落ちこぼれて、それから約八年、どうにもならないままここまで来たのだろうか。それは急に起きたこととも思いにくいから、つまりは小中高の積み重ねの全体で取り返すことができなかったのだろう、とも考えられる。
「そんなことじゃこれから社会に出てどうするんだ駄目じゃないか、」ということを言いたいわけではない。それも各人の選択だから、と自分は考える。近代工業社会に自分を合わせるばかりが人生ではない、と普段から自分は考えている。だから「ノートとペンを鞄に入れて登校して、それを机の上に出して板書を書き写せ、」というような説教は自分はしない。それは講師として僭越というものだ。
でもこれからの彼らの人生を考えると、ある種の知的作業に対して全く習熟していない人材は、やはり資本主義社会ではあまり高い社会的処遇は受けられまい。それも自分はかなり蓋然性が高いと確信している。彼らが大学の講義に適応していない理由は、ただ「学校の授業にはまらない個性」というようなものでは絶対にない。それはやはり取り組む姿勢を見ていれば察しがつく。彼らはひたすらなにに対しても未開発なのである。
そして悪いことに彼らは人生に不貞腐れてしまっている。いまさら「がんばる」ことは世間に日和ることだとでも思っているかのように。彼らのプライドの傷つきが彼らにとってのいままでの不運や不遇が仮に原因であっても、それを克服することができるのは本人の自主性と積極性だけである以上、やはりここで問われるべきは本人の責任なのであるのに。
「そういう彼らの興味を引き出すような面白い授業をすれば、すべきだ、そうできていない講師のほうが開き直っていいのか。」と言われそうですが、そういう試みは一部の学生に対しては僕は成功して、残りについては失敗というか、未だ成功していない段階である。だから、まるで努力していないわけではないと言いたい。ただ、その論法を使うと、無限に教育の不成功の原因を教える側に設定できてしまうが、そっちで考えるなら、せめてもうちょっとシステム的にアプローチできないものか。
僕一人が厳しいことを言っても、もし他の教員が大学の単位取得、留年させない、卒業させる、という目標設定を優先して、はっちゃはちゃな学生に申し訳程度の穴埋め小テストを出して、期末にはほとんど「事前に答えをそのまんま教える」ような試験をして単位を与えてしまっているなら、学生はいくらでもそっちに逃げてしまう。あるいは逃げ切れると思ってしまう。そうだからこそ、講義にノートも持ってこないで平然としてしまう。脅しもなにも効かない。
彼らは僕も他の講師と同じように結局は最後には甘やかして可はくれると思っている。そうはすまいぞと思うが、大学組織や他の教員との足並みの乱れが発生して紹介してくださった先生に迷惑が及ぶ可能性を思うと、摩擦は生じさせないほうがいいのかな、とか怯みそうになる。
しかし僕は、そういう学生側の開き直りをそのまんま見過ごして単位を与えることが、結局相手の人格に対して一番不誠実な対応ではないかと思う。学生全員が僕の課題をこなせなかったのなら僕のレベル設定の不都合もあるかも知れないが、ある程度の割合の学生はちゃんと対応できたのだから、そのちゃんとした学生とはやはりメリハリをはっきり出さなければならない。それはやはり、不可か可かぎりぎりのところをもっと身に沁みさせることかな、と思うが。
T氏には「きつい言い方をするとすごい御人好しの講師に見える」と言われて、まあその指摘が親切なのはわかるのですが、自分はやはりまとまった講義を半年やるというのは相手の人生にかかわる大事な経験だと思うので、それをやりきる前から割り切って妥協してハードルを下げたくないのです。ただの意地かもしれないけれど、ここで安易に丸わかり八百長穴埋めテストをやってお茶を濁すような講師になるために、十年も経営学を人より余計にやりこんだわけじゃないのです。
しかしやはりあの日本人学生たちを見ていると無力感に襲われます。それを企業勤めの友人に言うと、「まだ精神的に子供だから、自分がなんの知識や技能も身につけないでいると、社会に出てとんでもないことになるのがわからないのじゃないか。」と言う。
自分も最初はそう考えていたんだけれど、でもどうもそうではないようである。だって、「このままではあなた方は社会に出て、なにも市場で競争力がある財を提供できないので、大変なことになるよ。」という警告自体が、難しくて理解できないとか、ピンと来ないということはないと思う。彼らは妙に得体の知れない不安感だけは大いに感じているようである。
それでもなにか彼らが前向きに行動に移すことができないのは、どうもひとえに習慣の力なのだ。当たり前のことが出来ない。講義を受けていて、最初はよくわけがわからなくても、まめにペンとノートで(という注記を書かなければいけないというのがよくわからんが)板書して、それで少しずつ、理解していくし、理解という行為が自分をどう変えるかを身体で学んでいく。
そのためには、朝はちゃんとした時間に起きなければならないし、朝ごはんもちゃんと食べなければならない。そのためには夜は夜でちゃんと時間を考えて寝なければならないし、休息もとらなければならない。普段から規則正しい(というのも実は気恥ずかしいほど自分だっていい加減不規則な生活ですけれど)というか、目的達成のためには日頃から当たり前に見えることでも着実に積み重ねて準備をしておかなければならない。
世間でそこそこ「優秀」とか言われている学校に入って出る人たちをこの十数年山ほど見てきたけれども、彼らの中の一部には確かに、身体をそんなに労わらなくても馬力があって成果を出せる人はいる。しかしたいていの凡人は、やはり普段からそれなりの準備をしておかなければどうしようもない。暮らしが崩れていてはなにも出来ないし、暮らしはそれだけ致命的なことでありながら、それを崩さないために必要なことは余りに当たり前のことなのだ。
しかしその「当たり前のこと」が彼らは出来ない。何度も言うのは気恥ずかしいけれど、大学にノートとペンを持ってこない。これはなんだろうか、つまり彼らがそれだけ自分を見捨てているということであって、そこに至るまでは彼らにとって不運な環境やなんかもあったのかも知れないけれども、でもそこで同情できないほど彼らは「当たり前」を放棄してしまっている。
それを元気付けたり勇気付けたり、ということは大学でやるにはあまりにあまりに基礎的なことである。そういうのは義務教育期間でやってもらいたかったが、現実にそれが出来ないのだから大学にいまそれが求められているのかもしれないが。
でもやって当然の「当たり前」のことが出来なくなっている人に、それをさせるようになる教育とはどういうものか、まだ僕も、そして世間もよくわからないのではないか。いい大人なんだもの、相手は。
そして経営学は、そういう「やって当たり前のこと」はちゃんとこなして、その先で「当たり前でないこと」をいかにうまくやって、人が上げられない成果を上げようとするか、という方法論なんだけれども、その手前の「やって当然、当たり前なんであって、それをしても人並みにしかならない」ことをさせるのは、マネジメントというほどのものでもない。その意味で、「分裂勘違い君劇場」さんの言う、「新しい時代のリテラシー」であるマーケティング、生産性、マネージメント、イノベーション、それらのことをちゃんと教えることが経営学教師としての僕の仕事であるべきなんだけれども、どうもその遥か手前でまず、日本人は「近代」というシステムというか文化にちゃんと適応しなければならない。それは多分都市化社会で生きる知恵とかそういうことなんだけれども、教えなければ社会のある種の価値観を持つ集団出身の若者の身には付かない。考えてみればどんな人間も生まれたときは野性ですからね。
現代社会では「新しい時代のリテラシー」の手前での、そういう最低限のセルフコントロールは、して当然であって、そうであるのに現代社会はそれをシステマチックに世代間伝達するノウハウをまだ健全に構築していないのだろうか。現代社会に必要なリテラシーは、社会が未だ豊かでない時代にこそ必要性が実感され、身につけようとする人こそいたのでしょうが、その必要性はやがて意識されにくくなるのか。そうやって「まず自分を制御する習慣を身に付けてこそ近代に適応できるという社会的共通理解」が壊れたとき、現代経営学も無効になるのか。
なんか思いが積もりすぎて記述がメタメタになってしまいましたが。これからの経営学教師としてはどうすればいいんだろう。あまり悩み過ぎないようにしたい。
付記:このエントリーに関しては、一年ほど経過して、いろいろ考えも深まりましたので、別のエントリーでまたそれをまとめました。出来たらそちらもご覧下さい。
(後日追記)このエントリーにある大学は、このエントリーを最初に書いた当時の自分のバイト先であって、現在の勤務先とは関係がありません。
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