希望とは、あるともいえないし、ないともいえない。 それは道のようなものである。
地上にもともと道はない。 歩く人が多くなれば、それが道なのだ。
<魯迅 「故郷」>
しかし、そのとき、はじめて人は気づくのである。
すべて奪われても、なお、自分が最後の一線で渾身の力をふるってふみとどまれば、
万人に平等に与えられている唯一の、そして本当の武器がなお残っていること。
それは言葉である。もうそれしかない。だが、自分で捨てない限り、これだけはだれも奪うことはできない。
<山本七平 「私の中の日本軍」>
神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように
にぎやかな場所でかかりつづける音楽に 僕はずっと耳を傾けている
<小沢健二 「天使たちのシーン」>
2006-10-29-Sun
白衣の魔法使いたち
お二人目のH氏はいわば薬剤の「受け止められよう」の研究。非常に盛り沢山で面白い発表だったのでかいつまむと、近代医療システムが行き渡っていない途上国では、専門家の手を離れて薬剤が広く普及して服用されている。しかしそれを勝手に服用する大衆は専門知識がないから、勝手に薬剤を薬として「読み替えて」しまう。つまり土俗的な呪術的解釈体系に乗せて勝手に解釈してしまうので、冷たい薬は熱に効き、赤い薬は血液に良く、カプセルはなんだかすごく効きそう、注射はもっと効くが危険でもある、という風になる。
専門知識を持った公式セクターから、こうした非公式セクターにどんどん薬が横流しされ、不適切な消費のされ方を薬がしてしまう。つまり、大衆に対しては医者よりも薬そのもののほうがカリスマ性を獲得してしまっているわけである。発表者は、敢えて自ら西洋近代の立場に立つと宣言して、医療知識を持った専門家の目から見て「正しい」薬剤の利用のされ方をどう促進するか、ということに問題を設定し、コメンテーターもその立場でやれポストコロニアルとか世界システムとか、そういうことを言って結局はこれはなかなか難しい問題なので解決策は見つかりませんね、という落ち着き方をしようとしていた。
自分は聞いていて非常に面白く思って、さてポストコロニアルだなんだ世界システムがどうだとかそういう難しい話に何でするのだろうかと思った。この問題は、ブランド論の問題、マーケティングの問題であって、それ以外のものではないと思う。なぜかというと、こういう「薬の読み替え」という現象が起きる根本の原因は、その薬が効く効かないではなく、消費者がその薬が「効くと信じている」、つまり認識のレヴェルの問題だからである。
こうしたことが起きるのは、別に21世紀における旧植民地地域ばかりではない。実はこの問題はほぼ同じ形で明治の日本でも起きたわけである。小生は製薬メーカーの歴史を調べてそれこそ船場道修町の神農さんまで遡ったことがあるから、その辺のことは知らないではない。結局薬剤処方を含む医療サーヴィスが社会に支持されるのは、専門知識を持たない大衆がそのサーヴィスに信を置くからに他ならない。つまり、知識を持った専門家のほうから見たら近代医学が正統でそれ以外は邪道だが、知識を持たない患者の側から見たら近代医学も他の民間療法も、みんなひっくるめて呪術の諸流派のようなものなのである。つまり競合するブランドだ。
だからここで必要なのはマーケティングである。近代医学は、ここで敢えて自らを他とおっつかっつの呪術のひとつとして相対化してみることが必要になる。どいつもこいつもみんな呪い師だと思えば、そこで競争に勝つにはどうすればいいか。自らの提供する薬剤が、消費市場における土俗的医療観・物質観に沿うようにすればいいのである。つまり解熱剤はわざわざきんきんに冷やして飲み、増血剤は血のようにまっかっかでどろどろにし、人気がある著名人を人前でわざわざ治療してみせる。そういうプロモーションが必要であり、それしか必要ではないのである。
小生は別に途上国の大衆を馬鹿にしているわけではない。先進国の消費者だって、医学知識の素人というのは世界中同じようなものなのである。日本の製薬メーカーは、百数十年かけて日本人を魅了し、洗脳してきたからこそ、現時点では一見科学的に理解され評価されているように見えるだけで、実は大衆がこの百年で医学知識を理解したわけではない。そうだったらこんなにサプリメントだなんだと日本で蔓延るわけがないでしょ。
世界中どこでも医学というのは大衆から見たら魔術も同然のファッション産業であって、消費者大衆の心理操作というのは必要なのだ。本当に効く効かないはここでは関係がない。まず効くと信じられることが重要なのである。医学的に適切な薬剤が、適切な用量用法で適切な症状に対応して効くと信じられれば、誰がそれをわざわざ読み替え、横流しするだろうか。
だから素人から見たら、医療は呪術と変わりないのである。なぜジェンナーが大勢の前でわが子に種痘を施術しなければならなかったか。素人たちに信用されなければならなかったからである。だから彼は優れたマーケッター、プロモーターだったと言えるのだ。WHOは、そうした宣伝屋としての医療関係者の苦労を、忘れてしまっているのである。なぜならこうした宣伝は先進国ではすでに昔の思い出となっており、途上国ではまだ誰もちゃんとやろうとしていないからである。
素人がこういうことを口にするのは申し訳ないけれど、どう考えたってこれは産業論のパースペクティヴで見るべきもので、そしてそうやって見ればそんなに難しくないのである。悪いけど小生、ポストコロニアルとか世界システムとかわからんし無理にそれで説明する気力もないし。
思うのは、この研究会の他の発表ならともかく、ことこれだけ営利企業の事業展開と深くかかわる分野を研究するのなら、少しは経営学的知識をも援用されてはいかがということである。それをせずに、俺たちの分野は反体制だとか、金儲けはずるい汚いとか、途上国の貧困へのまなざしがどうとか、そう言ったってなんかの問題解決になるのかよ。たとえば今日の話なら、そうやって問題をポストコロニアル的に解釈して手をつけかねているうちに薬剤の間違った処方でシェラレオネで赤ちゃんが死んでいるかもしれないんでしょ?かわいそうじゃないか。それなら製薬メーカーが巧いマーケティングやって適切な薬剤を販売して儲けて、途上国の人たちの病気が治るほうがいいんじゃないかな。
金儲けって汚いか?じゃあその汚い金を他から貰って海外に行って、ただ人の不幸を見ているだけというフィールドワーカーは、かなり人が悪いよ。研究者は、他人の暮らしを覗かせてもらうという意味でかなり特権的な立場に立たせてもらっている。それを世間のためのソリューションに適応しようと、相手にベネフィットを返そうとすることは無意味なのか?050410


