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福耳コラム このページをアンテナに追加 RSSフィード


希望とは、あるともいえないし、ないともいえない。 それは道のようなものである。
地上にもともと道はない。 歩く人が多くなれば、それが道なのだ。

<魯迅 「故郷」>

しかし、そのとき、はじめて人は気づくのである。
すべて奪われても、なお、自分が最後の一線で渾身の力をふるってふみとどまれば、
万人に平等に与えられている唯一の、そして本当の武器がなお残っていること。
それは言葉である。もうそれしかない。だが、自分で捨てない限り、これだけはだれも奪うことはできない。

<山本七平 「私の中の日本軍」>

神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように
にぎやかな場所でかかりつづける音楽に 僕はずっと耳を傾けている

<小沢健二 「天使たちのシーン」>

2007-07-02-Mon

続小沢健二批判・自己目的化する批判?

最初はふとしたきっかけで「企業的な社会・セラピー的な社会」を読み、どうもなにやら論旨があやふやでいくらか独善的に見えたのでそう感じた疑問点を彼はポルポトになるのだろうかとして書きました。また、その時に感じた工業とエコロジーについてのひとまずのメモをエコロジーと工業と題して書きました。その時点では、小沢氏が「子どもと昔話」に連載している「うさぎ!」は連載の第三回くらいまでしか読んでいなかった。というのは、どうやら「うさぎ!」は児童文学を企図しているようであり、僕は文学作品というのはできたら一気に読みたいものだし、もし議論の対象にするにしてもそもそも完結しなければ批評できないしするべきではない、と思っているので、いくら小沢ファンとはいえ季刊誌連載を最新号まで逐一フォローすることはいまは取り敢えずいいか、と思っていたわけです。

しかしあるところで先のエントリーのような小沢論文に対する批判を語ったら、それを聞いたやはり小沢ファンの人が、どうも僕が「うさぎ!」を読んでいないからまだ論者の主張を十分に理解していない、と思われたようで、いきなりこれまで「うさぎ!」が掲載された分の「子どもと昔話」をドン!と貸して下さった。僕はこれもなにかの縁と思って、ここまで来たなら取り敢えず既に公になっている分はなんでも目を通そうと思って、メモを取りながら熟読しさっき読み終わったところですが、「うさぎ!」を第七回まで読みとおしてもなお、僕の小沢氏的経済観・社会観への批判的な印象は変わらない。やっぱり小沢氏の議論はいささか粗雑で、論理的に筋が通らないし、彼の言葉が現実に影響を及ぼしたとしたら、そもそも小沢氏のヴィジョンの実現に対しては逆効果であろうと思います。

なんでか。小沢氏の論旨には大きな欠点があって、それは氏が生態系のシステム性についてはあれだけ重視して強調しているのに、他方では経済社会のシステム性についてはまるで議論を避けている、ということ。これが論者は実際には「エコロジー」と「エコノミー」のシステム的性格という共通性に気付いているのに意図的にそれを無視しているならアンフェアな姿勢だと思うし、気づいていないならあまりに不勉強に過ぎる。彼がそもそもこのテーマについて予習した資料が不自然にフィルタリングされているからではないか、と勘繰りたくなるくらいです。

たとえば環境ホルモンが水を媒介にして生態系を攪乱する現象についてはあれだけ詳しく触れているのに、グローバライゼーションによる途上国の工業化が及ぼすシステム的な複雑な波及効果については、非常に話を単純化して一部を切り取って批判している。そもそも経済発展が途上国に悪い影響しか及ぼしていないかのような。そんなはずはないでしょう。子どもの強制労働と環境破壊だけを途上国にもたらして「基地帝国」の資本家が搾取だけしていて、一切現地の貧困状態の改善はないような書き方ですが、もし現実の問題がそんな単純なものならば、途上国で革命でも起こして鎖国して先進国と一切の経済的関係を遮断すれば事態は改善するのでしょうか。そうではないからこそ開発の問題は複雑で、悩ましいんでしょう。各地域・各社会がそれぞれシステムの要素として相補的に機能するようになることには、作用も副作用もある。好ましい一方だけを切り取ることは難しい。でもできるだけ副作用を抑えたい、そのために専門家が調査研究をしているのであって、それを単純に一般化して「専門家はシステムに奉仕するためにいる」みたいな言い方は反知性主義でしかない。

それでいて、小沢氏自身は聖域に立っているかのように社会に審判を下す。「灰色」という悪玉を設定して、自分の主張に反するのはみなその手下だ、とでも言うかのようですが、そういう小沢氏自身が非常に混乱し、矛盾を抱えている。いちいち細かく列記をしないのは、それがあまりに煩雑なほど矛盾した記述が全編にわたっているからですが、例えば社会をコントロールしようとすることについて、小沢氏の側がそれをしようとすることは「人びとの行動」であり、「灰色」がすることは「洗脳」であるという。市場メカニズムについては「灰色」がそれを利用しようとすることは欺瞞であり偽装であり、プライヴェイタイゼーションは陰謀であるが、労働者が自分たちで工場を所有管理することはなにかこう希望に満ちている行為のように書く。すみません、その時点で労働者は資本家になりませんか。労働者が自分たちの必要に応じて行動することは善で資本家が悪だ、という言い方をしたら、その労働者と資本家を分別出来る人は人間の行動を倫理的に処断する非常な権力を持つことになると思いますが、それを誰ができるのでしょうか、具体的に考えたら、これは単なる言葉遊びでしかないように思います。

まず「敵」を設定する。そして残りは「味方」であるとする。そうすると敵味方、同じことをやっていても向こうは悪行でありこちらは善行であるかのような錯覚が生じる。敵の効率主義は反人道的であるが味方の効率主義は人道的であるかのように書かれていますが、同じことではないですか。相手が民主主義国家で市民の価値観に訴えかけることは陰謀であり「ジャーナリストたち」はみなその手下になっていると言いつつ、自分たちがなにかデモをするために非合法なことをするのは正義であるとする。あなたが批判する「敵」よりも、手段を選ばない分どうかと思いますが。社会構築主義も自由市場信奉も法治主義も敵がやれば悪で味方がやれば善だというのなら、その敵と味方を判別できるのは小沢氏でしょうか?

例えば小沢氏は「絵本の国」(「基地帝国」によって広島と長崎に原爆が落とされたというのだからこれは日本でしょうが)から工業が海外に移転することを批判する。「ちゃんとした報酬をもらえる仕事がなくなったから働けなくなっただけの若者を怠け者のようにいうのはおかしい」かのようにいう。ということは先進国に工業があることはよいことなのか。しかし他方で小沢氏は、社会的分業そのものを論難する。修理できるものは修理し、自給自足できるものはしたほうがよいという。分業(それは裏返せば協業であり、つまりは社会が組織的に経済活動を展開すること)はいったい善か悪か。それは程度の問題だというなら、みんなやはりそれは程度の問題だと言うでしょうが、じゃあ「どの程度が社会的に適切なのか」は誰かが決めるのか。小沢氏が決めることができますか?民主主義を称揚する人がそんなことは言わないと思うのだけれど。

まさかそんな傲慢なことをいうつもりはないのだろうけれど、先進国の人々はみんな洗脳されていて自分たちはそうではない、とかのレトリックで批判される社会というのは、そんな単純なものでしょうか。環境保護やリサイクル推進といった目的は誰も文句を言いませんが、その実現のやり方について誰が最適解を知っているというのでしょうか。少なくともちゃんとそれに取り組んでいる専門家の方が小沢氏よりは信頼できると思いますが。小沢氏は、消費者は賢くなるべきだと主張する研究者さえ、「いまあるシステム」に支配されているようなことをおっしゃるが、それこそ小沢氏自身が書いているように、これは実際の問題であって具体的な解決策が求められているときに、「みんなシステムに騙されている」という言い方で抽象論をぶつことに、なにか意味はあるのでしょうか。もちろん、人類社会の存続のために我々のライフスタイルはより環境負荷が少なくなった方がよいのは当たり前ですが、そのためには地道な具体策の検討以外に、なにがあるのでしょうか。「いまあるシステム」全部を否定して代替案の提示をせずにただ現状を変革しようとすることは、破壊運動でしかないと思いますが。

僕は小沢氏が悪意のプロパガンディストだとは思わないですが(ファンとしての欲目かも知れないが)、結果としてそうなってしまってもおかしくないくらい変な論理を彼は使っているように思います。まず社会を敵と味方に分け、社会の問題の原因はあたかも自分以外の他者に外在的にあるかのようなレトリックを巧みに展開し、敵と味方が行為として同じことをしていても向こうは悪でこちらは善だ、と弁別するのははっきりと二重基準ですが、それは「普通の人々」の耳に心地良い。でもそれは、具体的な問題について「もっといい解があるはずだ」と架空の理想を提示して抽象論で攻撃するという極めて安易な論法で、しかも「自分は目覚めている」という甘美なナルチシズムを存分に味わうことができる。僕に対して「資本主義性悪説」をぶつけてきた小沢ファンはすっかり信者になっているようでしたが、こんなことも、おそらく小沢氏は意図せずに、無意識に生み出す言葉でやれてしまっているのではないか。やはり彼は天才だと思いますが、それは芸術的天才であって論理的なものではない。

小沢氏が自分で書いているけれども、「そんなことをやれば歴史が逆戻りするようなものだ」とか、「人間が殖え過ぎてしまったんだ」という批判が知り合いから寄せられたそうですが、僕もやはりそう思います。少なくとも小沢氏は、「もう豊かになった先進国のライフスタイル」にだけあるいは通じる批判を「まだ豊かになっていない途上国のライフスタイル」にまで当てはめようとしている。しかしそれは彼が批判する欧米白人文明の他人種蔑視の論理とそう変わらないように見えます。つまり「お前たちのライフスタイルがどうあるべきかはこちらで決めてやる」という意味で。やっぱり、「怪物を批判することで怪物になってしまっている」のではないでしょうか。でも、工業化そのものを批判してしまったら、途上国の人々はどうやって貧困から抜け出すのですか。そして小沢氏はエコツーリズムも批判する、途上国の人々の暮らしをコントロールするものだと言って。そして「世界の飢えている人の半分は農民だ」と言いながら、農業が肥料や農薬を使ったり作物の選択や大規模化で生産性を追求しようとすること、それはもちろん手段は適切に吟味されるべきですが、その目的そのものも批判する*1。では、途上国は成長を目指さず、従ってなんの「途上」にもないという生き方がいいというのですか。でもそれは、もう豊かになったから、管理や操作や制御やコントロールがうざったくなったから言える先進国のエゴではないのですか。

もちろん多国籍企業と途上国政府の癒着で現地の人々が迫害されるようなことはあるべきではない。しかしそれは、先進国の側が「そもそもあなたたちはそんなに豊かさを目指すべきではない」というような価値観の押しつけで対処すべきではなく、厳正な行政施策を支援することでなされるべきではないのですか。しかし小沢氏のような「反経済合理性原理主義」的立場からの意見は、最もそれらの問題の解決から遠いのではないでしょうか。そもそも組織的管理とか制御とかを洗脳であるかのように論難し、心理学が権力に奉仕「してしまっている」という人たちからは、社会はみんな衆愚なのかも知れないけれども、小沢氏もその社会のシステムの一部を構成しているのであれば、それこそ「現実の問題を具体的に」と口だけではなく、実際に考えることからやればいいのではないですか。

小沢氏が「企業的な社会、セラピー的な社会」で書かれた「ロバ交通社会モデル」だって、どこか小コミュニティでなら荒唐無稽とも言えないかもしれない。ロバ一頭当たりの輸送力と消費カロリーの比較、糞害の対策、牧草と水の確保、その輸送は自動車でやるのか、あるいは現地に自生しているもので補うためにはどれほどの牧草地がどのような配置で必要か、厩はどうするか、そこから調べて考えてみることは、それこそネット社会で簡単ではないにしろ不可能ではないと思う。確か母方の御実家が牧場をされているという噂を伺ったことがありますが、御親族に話を聞くことも無駄ではないのでは。もしかしたら山村地域の小観光都市でなら、氏の嫌いなエコツーリズム的に展開すれば、ある程度は自動車を代替できるかも知れないという可能性もゼロではないと思います。いまあるライフスタイルの批判は、代替的なライフスタイルの提案以外の手段では難しいのではないでしょうか。児童文学として「ロバはいいよね」と書かれることの後に、それをされるおつもりだったのかも知れないけれども。

なんでくどくどこういう問題に僕がこだわるかと言いますと、僕が大学で教えていて、時折学生の一部から「そもそもビジネスはお金儲けを追求する悪ではないのか」という疑問をぶつけられるからです。それへの反論をここで書くとまた膨大になるから今日は書きませんが、少なくとも我々の社会はビジネスの存在によっていまあって、それを続けるにしろ、そこから脱するにしろ、実効性があるのは「現実の問題を考えること」であって、それにつながる道程として「まず概念から整備すること」を考えよう、そう学生にも説明をしようと僕は思っていますが、小沢氏が展開されているような架空の理想論を以て現実の複雑なシステムを部分的に論難することは、それとは違うと思います。でもこのはなしも、「灰色の手下」のたわごとかも知れません。価値観まるごと、フレーム全体を問題にされるならば、後はもう、お互いが宗教だと考えるべきかも知れませんが。

小沢氏の社会批判、それはもしかしたら、論難自体が自己目的化してはいないか。あるいは、その行為によってある人間集団が一体感を生じることを目的としているのではないか。その集団の手段としての反近代、反知性主義、そしてルサンチマンの正当化ではないか、と懼れます。僕は反近代でも反知性主義でも、個人の生き方としてなにも問題はないと思いますが、それを社会に訴えかけるとき、特に「熱狂的ファン」がいる方がそれを行うときに、ファンのためではなく、もしかしたらプロパガンディストになってしまう人に対して、ちょっと危惧を憶えるときがあります。


自分で読み返してみて、あー俺はイタイ小沢ファンだな、と我ながら思った。その点については十分自覚しているので、そこへの御批判はあらかじめ謝絶します。

後日付記:このエントリーに関しては、稲葉振一郎先生の「地図と磁石」第二部 政治学的公共性論 第1回 グローバル化と産業化の道の行方という文章が大いに関連していて、非常に勉強になりますので、よろしければこちらをもご覧下さい。

*1:カゴメ野菜生活はどのように栽培された野菜を原料にしていたのでしょうか?