希望とは、あるともいえないし、ないともいえない。 それは道のようなものである。
地上にもともと道はない。 歩く人が多くなれば、それが道なのだ。
<魯迅 「故郷」>
しかし、そのとき、はじめて人は気づくのである。
すべて奪われても、なお、自分が最後の一線で渾身の力をふるってふみとどまれば、
万人に平等に与えられている唯一の、そして本当の武器がなお残っていること。
それは言葉である。もうそれしかない。だが、自分で捨てない限り、これだけはだれも奪うことはできない。
<山本七平 「私の中の日本軍」>
神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように
にぎやかな場所でかかりつづける音楽に 僕はずっと耳を傾けている
<小沢健二 「天使たちのシーン」>
2011-04-13-Wed
複製情報としての自分
この二、三年でまたひときわ学生さんのコピペへの抵抗が薄れてきたような印象があります。むしろレポートやレジュメはまずコピペしてなんぼ、という層がかなりいる。どういうレベルの大学だから、ではなく、自分の観測範囲では学生さんに触れる機会があるどこの大学にもいる。他大の知り合いに訊いてもまんべんなくいる。もちろん、「それをやっていては自分を鍛えることにならない」とわかっているので、敢えてそれにばかり頼らない学生さんもまた少なからずいるのですが、その人たちだけを相手にしているわけではないですからね。
いくつか原因を推測すると、まず「平成生まれ」の世代からはいよいよ「家庭で小さい頃からネットをするのが当たり前」になっていて、ものすごくスムーズにぱっぱぱっぱと検索することに慣れていること。なんか考えようとするときにはとりあえずポケットからケータイを出してさっとキーワードを入力してささっと結果を走り読みしている。最近はグーグル直結のスマートフォンでなおさら素早くなりましたですね。手品師が鳩を出すより早くググる。これ自体は便利だし悪いことじゃないかもしれないけれど、それをそのまんまレポートにされても困る。でも近頃の強者は、どうもスマートフォンの内部だけでブラウザを使って検索・エディター上の新規文書にコピペ・表題と氏名をつけてレポートがフィルとしては完成、大学でプリントアウト、なんてやってます。もちろんこんなの素通りさせませんよこちらは。
コピペがなんでもいかんというのではないです。例えばナントカという会社について調べよ、みたいな課題を出したとします。そうしたらその会社の基礎データ、何年創業とか従業員何人とか売上高何億円とかの情報は、そこのサイトからコピペするしかないですよね。むかしなら四季報を「丸写し」したところですが。でもそれで終わってしまうのはいかん。出典を明らかにして、こっからここまではそこから持ってきました、それをふまえて自分はそう考える、まで行かないんですよね。
「そんな課題を出すのがいけない」というのはもちろんです。以前は個別具体的なテーマに絡めて、自分の頭で考えよう、それをしなければ始まらない、というところへ追い詰めるのがもう少しやりやすかった。しかしここ数年の間でも、ネット上のコンテンツが本当に充実してきて近頃は、いろんな人が「自分としてはこう考えるのだが」という文章が豊富に検索できて、かなりマニアックなテーマに絡めても、なんか文章が転がっているんですよ。そしてそれはなかなかの実感がこもったおもしろい論考であったりする。もちろんこれもこちらはコピペと看破しますが、犯意云々はさておき、問題の本質は学生さんにとって前進の助けになるかということであって、これも、学生さんが参考にするのならばむしろいいことなんだけど、それを貼ることのその先に行けないんだよなあ。
そうか、つまり「既にそれなりの意見が世の中にあるなら若い学生である自分はこれに乗っかるのが一番無難だ」という思いもあるんだろうな。そしてそれはつまりは、自分のオリジナリティにさしたる期待も価値も感じられない時代、ということかも知れない。
しかしそれならせめて、わかってコピペして欲しいという事例さえある。学生さんのレポートの中に、その学生さんがわからないまま書いている部分、意味を知らない語彙が混ざっているのを発表中に指摘すると、「ここは引用なので。」と答えられる、なんて経験をすると愕然としますな。意味がわからないままに引用をして文字数を稼ぐなよ、引用するからには意味も調べなさい、とかね。
情報源としての自分、あるいは情報処理アルゴリズムとしての自分にはさしたる価値はない、なぜなら既にネットという世界には少々自分ががんばっても意味が無いほどの既存のコンテンツがあるから、と思うのかな。小さい頃からグーグルがあるのが当然の世代はそうなのかな。
どこかで読んだのですが、ヴェートーヴェンと同じ頃の音楽家で、ノイローゼになった作曲家がいたという。音階はドレミファソラシの7種類しかない、その有限の要素を組み合わせて、人々が美しいと思うような旋律はもう考え尽くされてしまった!自分がなにかメロディーを紡ごうとしても、どれも既に誰かが譜面にしている!!
自分はなにかのコピーでしかないし、それならコピーに徹する方が、変にオリジナリティを出してボロを出すリスクを冒すよりはましだ。そう思っちゃうんだろうか。研究者をやっていると一番遠いメンタリティになるので*1、そういう気分が共感できなくなっているのかも。
でもそういう人ばかりになると、次の時代のための創造は誰がやるんだろうかのう。それもグーグルに頼もうか。
だからこそ、フィールドを歩いて、未だデータ化されていないオリジナルに触れられる人材を育てたいと思っていますが。20101220
*1:人による?


