希望とは、あるともいえないし、ないともいえない。 それは道のようなものである。
地上にもともと道はない。 歩く人が多くなれば、それが道なのだ。
<魯迅 「故郷」>
しかし、そのとき、はじめて人は気づくのである。
すべて奪われても、なお、自分が最後の一線で渾身の力をふるってふみとどまれば、
万人に平等に与えられている唯一の、そして本当の武器がなお残っていること。
それは言葉である。もうそれしかない。だが、自分で捨てない限り、これだけはだれも奪うことはできない。
<山本七平 「私の中の日本軍」>
神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように
にぎやかな場所でかかりつづける音楽に 僕はずっと耳を傾けている
<小沢健二 「天使たちのシーン」>
2012-02-05-Sun
フィールドで涵養される自尊心
サブゼミ的な試みをやってみたことの効果というのが、中小企業の事業の現場を見る実地教育、フィールドサーヴェイ体験というもの以前に、どうも別のものがあるような気がしてきて、それについて考えてみようと思った。なにかというと、いろんな大人にあったことで、若い人たちの自尊感情、セルフ・エスティームが向上する気がする。
自分の目に映るかなりの優等生でも、あんまり自分自身のことをよく評価していないことがある。若者によくある劣等感というのも度が過ぎている気がする。特にエスカレーターを上ってきた若い人は、スポーツ挫折組も多く、なんかみんなどこかで自分を馬鹿にしている。自分に自信がない。入試を経験していない人にこの傾向は強いように見える。
それを、いろんな大人の方たちがかまってくださることによって、自分たちは鍛えられ、そしてかまわれるだけの自分への期待を感じて、それなりに変わってきたように思う。手間かけやがって、と思うんですが。
やたら「褒めて伸ばせ」とか、耳にする。でも、大して褒めるほどでもないことを褒めるほど、褒め言葉が嘘っぽくなり、対象は自分がまともに相手にされていない、と感じるようになり、よけい自尊感情が傷ついているように見えるんだが。
どうせたいしたことがない自分でもいれたどうせたいしたことがない環境のどうせたいしたことがない話を聞くことを頑張ってもどうせたいした成果は上がらん、と思っていたら、そりゃなんの努力もせんわな。ていうことはやっぱり、セルフ・エスティームの問題は前提として改善されるべきだよね。自分自身を馬鹿にしているような人が、努力なんかするわけないじゃんね。
だから、本気で褒められるだけの根拠を作るために、街に出さなくてはいけない。教室のような人工環境では大して褒められるようなことは起きない。起きっこない。
サブゼミ参加者がなかなかいい方向に変わってきたのは、最初のほうと違って、僕に正解を教わろうとも、僕が思う正解をなぞろうともしなくなって、自分で考えようとしだしたことですね。
若い人たちをフィールドに連れて行くことのメリットというのは、仮説構築・検証のサイクルが早いから(ていうかキャンパスではそもそも検証ができないよね)、仮説センスが育ちやすいと言うことなんだと思うんだよね。
それと、小生のフィールドサーヴェイの特徴というのは、予習はしても予定はしないんだよね。あんまりマニュアル的「見学」をすると、なんちうか、ペットショップ感というか、及第点には達した、という感じにはなるんだけど、天井知らずに伸びる可能性がなくなる。参加者たちも、本当の自身にならないというか、タスクをこなした、みたいな感じになる。
人工環境でできることには、当たり前だが限界がある、ということですか。110925


