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ふるきちの、家はあれども帰るを得ず。 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-07-02 勝手に「1984年のUWF」を補足する。

勝手に「1984年のUWF」を補足する。〜「フォロースルーをしない」佐山がなぜ凄かったか。

Number誌連載、柳澤健氏の「1984年のUWF」はその成立と苦闘の内幕を描くことで、リアルタイムで見てきたファンをもうならせる連載となっているが、今回はついに「Uの打撃の本質」に踏み込んできた。

その指摘が正しいことを踏まえたうえで、危惧をも感じたゆえの今回のツイート連打。

連載とともに、ご高覧あれ(^^)。



>今回のNumber誌「1984年のUWF」、元K-1総帥石井和義氏の解説を得て「UWFの蹴りはフォロースルーのない(打ち抜かない)蹴り」ゆえに「致命的なダメージを与えないように蹴られていた」という話なのだが……ここで補足のためhttp://p.twipple.jp/dxHDZ (続


>一つ前のツイートに、Number誌の同じページに載っていた写真掲載しておいた。見ればわかるが、80年代はいえ高速度撮影プロが撮ったであろう写真なのに、佐山の蹴り足が速すぎてブレてはっきり映ってないんである!! この速さで「打ち抜かない」ことがどれほどの技量


必要としていたか、という話なのだ。さらには実際の84年12月5日S・タイガー(佐山)対藤原動画 D 10分前後を見ていただきたい。佐山の蹴りがまたまた速過ぎてどこに当たってるかさえ分からないのだ!! 当時のフイルムの精度の


問題もあるとはいえ、ねえ・・・その次のニードロップにおいてもそうだが、これで藤原に致命傷を負わせない佐山の技量こそが恐ろしいのである。さらにその結末においても・・・ D  これでファン(素人)に「フォロースルーがない」ことを


>見抜けというのが無理(苦笑)。「1984年のUWF」は、Uの打撃が純粋格闘技の打撃とは違うことを分かりやすく述べている。しかし動画を見てもいない読者が「なあんだ、第一次Uって大したことなかったんだ」と思ってしまうことをも僕は恐れる。ゆえに老婆心ながら一筆啓上した次第。(了


>前出の連続ツイート補足。今回の「1984年のUWF」最後において佐山が週プロ誌上で対談してたのは「ダーテイペア」「クラッシャージョウ」で知られる高千穂遥氏だったはず。高千穂氏はこの対談直前に「UWFはプロレスとそうでないものをはっきり分けるべき」と発言しておられました(^^)


未読の方はぜひ「1984年のUWF」をお読みください。

色々な意味面白い連載だと思いますよ(^^)。


ではではまた。

2016-06-26 猪木対アリ40周年にして語る。

アントニオ猪木対モハメッド・アリ40周年〜勝つわけにはいかなかった猪木、負けるわけにはいかなかった猪木

本日言わずと知れたアントニオ猪木対モハメッド・アリから40周年。

ワタシが何か書かないわけがない(苦笑)。


以下、駄文ツイート例によって連打連撃。

ご笑覧あれば幸い。


本日言わずと知れたアントニオ猪木対モハメッド・アリから40周年。さる12日にはアリ氏追悼を兼ねての特番がテレビ朝日で放映され、改めてその歴史的重要性を再認識した人も多かろうと思う。しかしあの番組で欠けてた視点があったような気も。それは「なぜ猪木はあの戦法をとったか」という


視点・・・。そもそも「あの戦法」は昭和17年富田常雄「姿三四郎」中の「すぱあらの章」で三四郎がボクサー相手に使っているものであり、さらには大正8年にあの木村政彦の師・木村又蔵がボクサー相手に用いている(!)ものなのであるhttp://blog.goo.ne.jp/rekisisakka/e/f09e55003a66f6f30fa3e12a652b5bd8


>要は木村又蔵の話を聞きつけた富田常雄が「姿三四郎」にその戦法を盛り込み、それを読んでいた猪木サイドの何者かが猪木にその戦法採用を進言したのではないか、そう思えるのだが・・・僕はズバリそれは「梶原一騎」ではないかと思っていて。猪木と梶原一騎のつながりは77年の「四角い


ジャングルからではと思われているだろうが、実際にはさにあらず。ちょうど猪木対アリのプロジェクトが進行している76年前半にして「マットの獅子王」という作品猪木プッシュを行っているのであるhttp://www.myagent.ne.jp/~bonkura/70s/70index.html これから格闘技世界一路線を追求


>していこうという猪木のその第2戦であるところのアリ戦において、梶原一騎が危ない橋を渡らせるだろうか、という話でもあるのだ。「猪木さん、ここであんた一か八かの大勝負でいいのか? これから先の方が大事じゃないのかね? 『アリと戦った男』としての名前でもって、これから


>やっていくんなら、今回危ない橋は渡るべきではないんじゃないのか?」・・・実際、このあと猪木の異種格闘技路線の最終地点を自分の子飼いの極真空手選手(それは結局ウイリー・ウイリアムスに託された)との対決に置こうとしていた梶原一騎としては意地でもここで猪木をアリに負けさせる


>わけにはいかなかった。それゆえの「あの戦法」進言であり、猪木もそれを受け入れたのではないのか・・・それが僕の推測であり、今回の論旨の一つでもあったのが、ここで一つ予想外の要素が(苦笑)。今回出た別冊宝島「プロレス真実の扉」http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000007369535&Action_id=121&Sza_id=A0


猪木対アリ戦をジャッジ面から様々に斬った内容が主で、それはそれで非常に興味深かったのだが、僕にとっては「アリの肉声テープ」の復元全文が最も目を惹く。来日前、猪木戦をエキシビションとすることを望みながら「リアルでやるというならリアルでやる」とも言ってる内容でその意味でも


>気になるところだが、僕にとっての一番のポイントは、アリがこう語っているところなんである・・・リアルというのは、ボクサーじゃない猪木は打たれるような賭けに出ず床に寝転がり」「(リアルの)場合には床に寝転がるとか、やっていいこと・いけないことについての規則が課せられる」


・・・何と試合のための来日前に、アリは「猪木がマットに寝転がるかもしれない」との予想をすでに立てていたのである!! 先日のテレ朝特番でも流れたアリの猪木に対する「臆病者!」は「やはり予想通りマットに寝転がりやがったな、臆病者め」の意だったのである・・・さて、なぜ猪木


>はアリに予想された行動をとってまで、マットに寝転がる戦法を取らねばならなかったのか・・・を考える前に、「実は猪木は勝つわけにいかなかった」ことを指摘しておこう。先述の別冊宝島「プロレス真実の扉」において、新間寿氏はこんな証言をしているのだ。ジャッジの合計得点ルール


>扱い次第では猪木が勝っていた(合計得点でなく、三者三様のジャッジなのを理由にドローにした)ことを指摘されて「それについては、勝ちでなくて良かったと思うね、本当に・・・。もし勝っていたら、私は新日本を辞めなくてはいけなくなっていた」としているのである。これはどういう


ことなのか。周辺の文章を読むと、新間氏は「ルール問題の度重なる変更を理由に、ギャラの後金120万ドルの支払いを中止させてもらったが、勝っていればそうはいかなかった」と言っているのだ。しかしそれなら判定だろうがKО&ギブアップだろうが、猪木は勝つわけにはいかなかった


>のではないのか・・・そもそもこの試合柳澤健氏が名著「1976年のアントニオ猪木」で指摘したように、「エキシビション(プロレスと言い換えてもいい)の形でアリを呼び寄せ、その実リアルファイトを申し入れた」ものだった。もし猪木が勝っていれば、アリ側は当初の契約暴露し、告訴する


>ことさえ出来たはずなんである。そうなってしまえば、猪木&新日本はすべての信用を失い、破滅に追い込まれる・・・猪木は勝つわけにはいかなかった。これは猪木にとっては最初から「勝利なきリアルファイト」だったのである。一方のアリの方はどうか。実はアリの方は猪木をKОする


>ことは可能だった。「失礼にもキングオブキングスの俺様にあの黄色いペリカン野郎はエキシビションといって呼び寄せながら、直前でリアルを申し入れてきやがった。あんまり腹が立ったから正義の鉄槌を食らわしてやったのだ」・・・アリの側はそう言い立てることがいくらでもできるのだ。


>日本のファンは今に至るも、猪木ががんじがらめのルールを破ってでもアリをぶちのめしてくれることを望んでいただろう。しかし「ルール破りをする」可能性があったのはアリの方だったのである猪木としては、その危険性は何としてでも避けなければならなかった・・・アリにいかに


>さげすまれようが、猪木相手に予想されている「あの戦法」を取らざるを得なかったのである・・・しかし、アリの側にも誤算はあった。臆病にも寝転がりながらおびえるペリカン野郎をしり目に、ののしりながらの15Rを終えたっていい、そう思っていたのに、何とペリカン野郎はあの


不安定姿勢から何度となく何十度となく強烈なキックを見舞ってきたのだ・・・。アリの左足をミミズばれに追いやったそのキックこそが猪木の意地であった。そして唯一この試合においてアリにダメージを与え得る方法であった。そもそも寝転がった姿勢からタックルの態勢になり、アリを


>テイクダウンさせることは恐ろしく困難なことであったろう。さらにテイクダウンしたところで、ロープブレイクフリーであり、何度でもアリはロープに逃げ得る。そしてそのエスケープは採点に反映されることはない・・・。「がんじがらめのルール」より、ロープエスケープフリーこそが猪木


>最大の敵であったのだ(猪木対アリの9年後、第一次Uがロープエスケープをロストポイント対象にしたのは必然にして画期的であった)。「勝ってはいけない」「KОされたらなお最悪」それでいて「アリにダメージを与えなければメンツが立たない」状況の中で、「寝ながら蹴る」ことは猪木


>とって唯一にして最善の選択であったのだ・・・試合中は猪木にいら立ち罵り続けていたアリが、試合後にはその舌鋒を振るうことなかったのも、猪木必死の抵抗(それはまさに「モハメッド・アリという巨大な存在への抵抗」であった)に感嘆し、理解を示したからではなかったか。そして猪木


>とっては「アリ戦」以降の戦いはより重要ものとなった。アリ戦で得たその世界的知名度をテコに、その戦いで失ったものを取り返し、それ以上のものを勝ち取るための戦いが始まったのだ。「あの戦法」を猪木に進言したかもしれない(?)梶原一騎を伴走させた異種格闘技路線、梶原をタイガー


マスク路線で封じたうえでのIWGP構想、そして政界出馬……プロレスラーが、プロレスラーであった者が、どこまで行けるのか、どこまで高みを目指せるのかを証明するための戦いが始まったのである。……その戦いに猪木は勝ったのか敗れたのか、それは猪木を見続けてきた僕らが知っている。


>そして、猪木がいつかかつての好敵手・盟友たちの待つ彼岸へと旅立つ時、我々の頭の中には、アリから贈られたあの曲が(後日追記・まあ実際には新間氏が強引に買い取ったようなんだが・苦笑→http://kakutolog.cocolog-nifty.com/kakuto/2016/06/post-5e0f.html)流れるのだろう、きっと。

D

D


・・・で、ここで終われば美しいのかもだけど、そうはいかないのがワタシのツイート(苦笑)。この試合(アリ戦)にセコンドにつきながら、この後に展開された猪木の異種格闘技路線には一度も姿を現さなかった人物がいる。それは、言わずと知れた「カール・ゴッチ」・・・。ゴッチは、先だって


>テレ朝特番でも試合終盤「フォールしろ!」「勝て!!」と叫ぶ場面が紹介されていた。ピンフォールはこの試合でも決着手段として認められていたし、その昔は絞め・関節によるタップ勝ちも「フォール」と呼んでいたようなのでそれ自体不思議ではない。問題はなぜ「終盤」でゴッチはそれを


>叫ばざるを得なかったか、なのである。あるいは猪木はゴッチに「あの戦法」について「中盤までだ。終盤は決めに行く」と伝えていたのかもしれない。ゴッチが中盤まで「あの戦法」に文句をつけず、終盤になって焦りの叫びを上げずにいられなかったのはそれゆえではないのか。ゴッチにとっては


自分が信じて打ち込んできたキャッチレスリングの優位性を満天下に示す絶好のチャンスであった。ゴッチならロープブレイクの場面でも「折れ!」と叫んだかもしれない(苦笑)。しかし猪木はそうはしなかった・・・61年のゴッチ(カール・クラウザー名義)初来日から続いてきたろう師弟の絆


>がそこから変化していったのかもしれない。猪木よりも藤波・木戸・藤原・佐山・前田と言った次の世代の育成に、ゴッチがその心を傾けるようになったのはそこからではなかったか・・・82年の猪木対ボックの際には立会人となっているが、その2年後の第一次U顧問就任からは完全に猪木


>離れていく。何より87年、夢枕獏氏のインタビューにおいて(氏の著書「猛き風に告げよ」参照)ゴッチは猪木対アリ戦についてこう語っているのだ…「十年以上も昔のあの試合のことは、忘れることはできない。あれは、戦いではない」…猪木対アリ戦がもたらした猪木とゴッチの亀裂はやはり大きかった。その亀裂がやがてU系という鬼子を産み落とし、


>そのU系が見出したウエイン・シャムロックが第1回UFCに参加して、プロレスと格闘技の接点を作り上げてしまうことにおいても・・・猪木対アリがもたらしたものはあまりにも大きかったのである。色々な意味に、おいて。 (この項了)




追記。ちなみに猪木対アリの裏側で、МSGでブルーノ・サンマルチノ対スタン・ハンセンの遺恨マッチが同時世界中継の一環として行われてて。この時点で新日本未参戦のハンセン(翌年参戦)。猪木さんは、地球の裏側で戦ってる男がこのあと重大なパートナーとなるとは思わなかっただろうなあ…(^^;)


ではではまた。

2016-06-12 藤波対前田から30年…かつての自作記事再掲も含めて。

藤波前田から30年…かつての自作記事再掲も含めて。

すべては題名の通り。往時茫々。


例によって、愚作ツイート掲載。ご笑覧あれ。


本日、86年IWGPで行われた藤波辰巳対前田日明の一戦から30年。もう30年経ったんだなあ、という感慨・・・http://njpwworld.com/p/s_series_00067_2_1登録要) プロレスはもっと格闘技的でなければならないと必死に主張する後輩(前田)の攻撃を先輩(藤波)が必死に受け止める


>という構図・・・おそらくは受け止めきって30分時間切れ引き分けという結末が用意されていただろうこの一戦、しかし20分過ぎでの前田の縦回転ニールキック藤波のこめかみ近くを切り裂いてしまうところから様相が変わってくる。通常プロレスで行われるカミソリによる演出流血でない


リアルアクシデントの負傷・・・それまで予定されていた結末でない「ニールキックとレッグラリアットの相打ちによる両者KО」(この落下時において前田兄さんが後頭部から落ちてるのは、説得力を持たせるナイスバンプでありました・^^;)を演出せざるを得なかった。それはプロレスの本来


からすれば明らかに不手際なんだけど、「ここまでやらねばならなかったのか」というある種の極北を見せつけたという点でやはり意義ある一戦でありました・・・で、実はこの一戦に酷似している試合を、その20年前に何とルー・テーズとカール・ゴッチがやらかしていた、というのが実は


>ここ数年ワタシが主張するところなのであります(笑)。2年前のブログ内容をここでご紹介。題して「1964年5月2日のテーズ対ゴッチは、20年以上早かった藤波前田だった。」(^^)。http://d.hatena.ne.jp/fullkichi1964/20140518/p1 「この2試合の壮絶な展開・決着は


>プロレスと言う格闘芸術が一つ間違えば大きなアクシデントになりえることを示しているのである・・・僕の推察が正しいかどうかは分からない。しかし真相がどうあれ、プロレスというジャンルの特異性・難解さ・そして崇高さをいささかも減じるものではないと信じる」今もってワタシの主張は


>変わるところではありません・・・しかし改めて思うのは、「選手としてのカール・ゴッチと前田日明はやはり似た者同士だったんだなあ」と(笑)。もう少し厳密に言えば「コーチとしてのカール・ゴッチを藤原組長が、選手としてのカール・ゴッチを前田日明が」引き継いでしまっていたのだと


>思うのであります・・・・・・ちなみテーズ対ゴッチから藤波前田の間には20年しかタイムラグがないのに、藤波前田から現在まではもう30年の歳月が流れてることに、これまた改めて愕然とさせられてしまますね(爆死・^^;;;)。ではではまた。(この稿了)


不手際がそのまま魅力となってしまうプロレスというジャンルの奥深さ・・・今のファンにはどう映るかは分かりませんけどね(^^;;;)。


ではではでは。

2016-06-05 モハメッド・アリの死と、その最後の対戦相手について。

モハメッド・アリの死と、その最後の対戦相手について。

英雄モハメッド・アリ死す。


3週間後に、あの伝説猪木戦40周年を控えての逝去であった。


以下、例によって駄文ツイートまとめ。


>昨日、世界中をかけめぐった悲報・・・・・・やはり今だけはこの曲をオリジナル聴くべきではないのかと。ALI BOM-BA-YE !! → D 

>昨日のモハメッド・アリの訃報は全世界を駆け巡り、その存在の大きさを改めて知らしめたわけですが・・・さて、皆さんモハメッド・アリの最後の対戦相手をご存知でしょうか?・・・答えは「トレバー・バービック」。そう、あの高田延彦と異種格闘技戦を戦ったトレバー・バービックなのですね!!


>トレバー・バービックは35年前の81年12月にアリに判定勝ち、引退に追い込みましたがその前にラリー・ホームズがアリに10RKО勝ちしてるので、それほどのインパクトはなかった。アリとの対戦の5年後、バービックはピンクロン・トーマスに判定勝ちしてWBC世界王者となります


>その年のうちにあのマイク・タイソンに2RKО負けして王座転落してしまう。高田との格闘技戦はそのまた5年後の91年。つまりバービックはアリ(判定勝ち)&タイソン(KО負け)という二大ヒーローとの対戦経験を持ち、なおかつ全盛期を5年過ぎてるという、高田サイドから見れば実に


>おいしい対戦相手だったわけであります(苦笑)。さらにいえば、この対戦はローキック無しのルール契約だったにもかかわらず、本番でいきなり高田がローキック連発、愕然としたバービックが懸命に「話が違うじゃないか!」とアピールする前代未聞の展開になってしまうわけで(^^;


>→ D 宮戸優光氏あたりは「そんな(ローキック無しの)ルールはなかった」と言い張ってるようですが、それならビデオ開始1分20秒台でのバービックの表情は何なのかと。その後もローを連発し続ける高田に対し、バービックはついに試合放棄


>この時のバービックの飛び降り方がまた元気いっぱいという感じなのが何ともはやなのですが(苦笑)。それはともあれ、これがすでにロートルボクサーで現地でも忘れられかけてたバービック相手から勝手な事前ルール破りも出来たのであって、もし76年の「あの一戦」で猪木さんがアリに


>これやってたら間違いなくとんでもないことになっていた。アリは厳重に反則勝ち要求、もしそれが受け入れられないならリングを降りて全世界向けのテレビ中継は台無し、さらに内幕を外電暴露しまくって猪木さんは致命的な信用失墜破滅へと追い込まれたでありましょう。そもそものアリと


>バービックの格の差(もはや比較するのがバカバカしいほどの格の差ですわねえ^^;;;)も含めて、あらゆる意味猪木対アリと高田対バービックではイベントとしての差がありまくりなのでした・・・完全に踏みつけにされた気の毒なバービックを、25年を経つつある今だからこそ取材して


>あの時の無念の思いを引き出してあげてほしいものなのですが・・・残念ながらもはやバービックはこの世の人ではありません。ちょうど10年前の06年10月、土地の所有問題で甥(おい)とその共犯者によって鉄パイプにより撲殺されてしまってるのでした・・・ジャマイカの教会にて


>撲殺死体として発見されたというのだから、これまた何ともはや・・・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%AF バービック自身にも犯罪歴かなりあるので、同情する向きも少ないのかもですが、それにしてもねえ・・・。Uインターがもっと誠意あるビジネスして、ひょっとしてレスラーに


>でも転向してたら、違う未来があったのかもしれないとも・・・20世紀最大級英雄であるモハメッド・アリのことはこれからも永遠に語り継がれ称賛されることでしょう。しかし、アリの最後の対戦相手であった哀れなバービックのことも時には思い出してあげてほしいなあと思うのでした。(この稿了


偉大なるモハメッド・アリ氏の冥福をお祈りいたします。

そしてその最後の対戦相手トレバー・バービック氏の冥福をも。


ではではまた。

2016-05-19 45年前、A猪木の「挑戦」をなぜG馬場は避けたのか。

45年前、アントニオ猪木の「挑戦」をなぜジャイアント馬場は避けたのか、避けざるを得なかったのか。

例によって駄文ツイート転載

ご笑覧あれ。


>45年前の本日、日本プロレス第13回ワールドリーグ最終戦直後の控室で、アントニオ猪木がジャイアント馬場への挑戦を表明する。この後28年にも及ぶ二人の対立の原点であり、またその影響は未だに残りつつある日本プロレス界の最大のターニングポイントである・・・さて、なぜ馬場猪木


>挑戦を避けたのか?「なぜ猪木は挑戦したのか?」よりも大きな謎がそこに秘められていると思うんである。よく言われるのが、「もし対戦したらリアルファイト(真剣勝負)になってしまうから(そして猪木はそれを意図していたから)」である現在もっと実証的な書き手である柳澤健氏も


>著書「1964年のジャイアント馬場」の中でその説をとっている。「猪木はもちろん馬場に勝つつもりだ。馬場が負けを受け容れる理由はまったくない。だとすれば試合はリアルファイトになってしまう」・・・しかし、そんなことがありえるだろうか?このわずか17年前に起こった力道山対木村


>のトラウマは、関係者に色濃く残っていたはずだ。日本プロレスを支える馬場猪木の両雄(その存在感は54年2月に旗揚げしてまだ10カ月しか対決時に経ってなかった力道山と木村よりもある意味上回っていたかもしれない)をしてそんな危ない橋を渡らせる気は馬場派の関係者はもちろん


猪木派の関係者もなかったろう。いや、仮に猪木にその気があったとしても、いくらでも試合中にそれを制止する手段はあるはずだ。猪木の当時から使っていたナックルパンチは厳密にとれば反則だし、コブラや卍も馬場危険を察知してロープ際に位置すれば、判定のないプロレスではいくらでも


時間切れに持ち込ませえる。さらにはいよいよとなれば外国人レスラーを乱入させてぶち壊すことさえ・・・ハッキリ言えば「仕掛ける選手がオーナーでない限り、リアルファイトなど成立しえない」のである猪木だってそのことを承知しているからには、無闇な仕掛けなどするはずもないと


>思うんである・・・ではなぜ、リアルファイトになる可能性など(ほぼ)ない対猪木戦を馬場拒否したのか?拒否せざるを得なかったのか?それはつまり僕に言わせれば「馬場がいずれNET(テレビ朝日)に出ざるを得なくなるからである。考えてみてほしい。馬場猪木をやったとして


>それは1回で終わるのか?そんな馬鹿なことはないだろう。日本中が注目・熱狂するまさに頂上対決である。1回目は日テレで中継されおそらくは時間切れ引き分けで終わる。もちろん会場収入・視聴率共に空前のものになったろう。そうなると当然ながら地方のプロモーターも我も我もと手を上げる


>そして当然ながら、猪木主役の「ワールドプロレスリング」(←日プロ健在時からこの題名)を放送していたNET(テレ朝)も・・・ズバリ言ってしまえば、猪木挑戦の背後にはその2戦目3戦目の中継を狙うNET存在があったろうと思うのである根拠は、ある。孫引きになってしまうが


>前出の柳澤健氏「1964年のジャイアント馬場」中に馬場自伝「王道十六文」の引用として、こんな部分があるのだ。「(猪木との対戦について)以前からNET幹部の中にそういう動きがあって、私は『そんなに大げさにせずに、やるなら道場でやったらいいじゃないか』と言ったことが」


・・・まあ「道場で」というのは馬場さんの逃げ口上ぽいが(苦笑)、問題はそこにはない。猪木戦を推進していたのが「NET幹部であるところに問題があるのだ。馬場猪木を日テレでだけやるなら、どうして「NET派」が動くのか?ここにある種の明らかな意図NETそして猪木さん


>にあったと思うんである猪木さんとそのバックのNET派の意図する流れはこうではなかったか。「まず最初馬場戦は日テレで中継、結果も引き分けでいい。次はどうでもうちのホームNETで中継し、そして俺が勝つ。三戦目はまた日テレで中継、そこで星を返す。それでいいじゃないか


>お互いに1勝1敗で、最終的には俺も星を返すんだ。馬場さんもメンツが立つだろ?」・・・しかし、馬場さんは受けて立つわけにいかない。1勝1敗1分に文句があるのではない。NETに出るわけにはいかないのだ、馬場さんは。猪木エースNETの「ワールドプロレスリング」が始まった時


>)「馬場NETに出さない」という取り決めが日テレ・日プロの間で取り交わされているのだ。これを馬場さんは破るわけにはいかないのである(実際、猪木離脱の後でNET強硬な抗議に耐えかねた日プロ馬場試合NET放送、怒った日テレが日プロの中継を取りやめ、新たに旗揚げした


馬場の全日本プロレスの中継に鞍替えするという事態になっている)・・・これを承知猪木さんは馬場戦(そしておそらくはNETでの中継)を訴えてるんだからタチが悪いんである(苦笑)。日プロ猪木NET幹部要請を再三はねつけていただろう。そして、Wリーグ戦最終戦の本番で


猪木実力行使してデストロイヤーを破って馬場戦に持ち込んでしまうことを日プロ側も警戒してたんだろうと。https://www.youtube.com/watch?v=5vpaZaIfZN4 この試合、一部ではデストが仕掛けたシュートマッチとして知られていたが、今見るとそれほどの危険性はない。ただ、デストが


必死コブラや卍をカットしてるのはうかがえる。ひょっとしたら「猪木が強引に極めに来て、馬場戦にもちこむことを企んでいるかもしれない。気を付けろ」くらいのことを日プロ首脳部から吹き込まれていたかも、とは思う。しかしラストはあっさり四の字のまま両リン。日プロ首脳部もホッと


>したろう。猪木も大人になったもんだ、黙って引き下がってくれた。このままUN王者・テレ朝のエースとして頑張ってくれる気になったんだろう・・・ところが、最初から猪木さんはリング上で実力行使する気などなかった。試合後の控室でマスコミ相手にぶち上げる挙に出たのである。完全に


>日プロは裏をかかれたのだ。得意満面の猪木さんの内面が見えるようではないか(苦笑)。《どうだ、馬場さん、もう逃げられないだろう。悔しければ挑戦を受けてみろ、そしてNETに出て来いよ。でも出来んだろう、日テレとの契約があるもんな。俺はいくらでも受けて立つのだがね、フフフ…》


>一方、優勝の美酒に酔うつもりでいた馬場さんが、戻ってきた控室で「猪木挑戦」の報を聞かされたその心中やいかに。《寛ちゃん、君って男はそこまでしてまで・・・》挑戦を受けることが出来ぬまま(受ければいずれはNETでの再戦に引きずり込まれ、日テレの不信を招く)仕掛けた猪木


>株のみが上がり、受けない馬場の株は暴落していく・・・その状況におそらくはハラワタ煮えくり返る思いでいたのではないか(苦笑)。そんな調子から年末の日プロクーデター事件の時に馬場さんが猪木さんを信じることが出来なかったのは当然なんである。いやそもそも馬場さんが疑った


>)「猪木改革と見せかけて、日プロ幹部とともに俺をも追い出すか支配下に置こうとしている」というのはかなりに起こり得ることだったのではないか。当時のアントニオ猪木は、それを画策しかねない野心あふれる若者だったのである・・・・・・この一文は、「1971年のアントニオ猪木」を


>ディスるための文章ではありません。むしろ、そういう野心・野望とともに生き続けたアントニオ猪木が45年の時を経てたどりついたところは何なのだろう、という話であります。彼が新人時代の痛みと屈辱とともに目標に置いた力道山を、その故郷である北朝鮮での16万人興行で超え得た。


ライバルとしてそれを追い抜き追い越すことに全身全霊を注ぎ込んだジャイアント馬場をも、その檜舞台であったNY・МSG本拠とするWWE殿堂入りすることによって超え得た。全ての目標を超えながら、それでいて自分が育て上げた新日本プロレスから事実上追放され、自らの団体IGF


から距離を置きつつある。全ての望みをその野心とともにかなえてきたアントニオ猪木がたどりついたものは、ある種の虚しさと、そして奇妙な解放感ではないのか……その胸中をいつか誰かが引き出してくれないものか、その願いとともにこの稿を閉じたいと思いますではではまた。(この稿了)