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ふるきちの、家はあれども帰るを得ず。 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-05-19 45年前、A猪木の「挑戦」をなぜG馬場は避けたのか。

45年前、アントニオ猪木の「挑戦」をなぜジャイアント馬場は避けたのか、避けざるを得なかったのか。

例によって駄文ツイート転載

ご笑覧あれ。


>45年前の本日、日本プロレス第13回ワールドリーグ最終戦直後の控室で、アントニオ猪木がジャイアント馬場への挑戦を表明する。この後28年にも及ぶ二人の対立の原点であり、またその影響は未だに残りつつある日本プロレス界の最大のターニングポイントである・・・さて、なぜ馬場猪木


>挑戦を避けたのか?「なぜ猪木は挑戦したのか?」よりも大きな謎がそこに秘められていると思うんである。よく言われるのが、「もし対戦したらリアルファイト(真剣勝負)になってしまうから(そして猪木はそれを意図していたから)」である現在もっと実証的な書き手である柳澤健氏も


>著書「1964年のジャイアント馬場」の中でその説をとっている。「猪木はもちろん馬場に勝つつもりだ。馬場が負けを受け容れる理由はまったくない。だとすれば試合はリアルファイトになってしまう」・・・しかし、そんなことがありえるだろうか?このわずか17年前に起こった力道山対木村


>のトラウマは、関係者に色濃く残っていたはずだ。日本プロレスを支える馬場猪木の両雄(その存在感は54年2月に旗揚げしてまだ10カ月しか対決時に経ってなかった力道山と木村よりもある意味上回っていたかもしれない)をしてそんな危ない橋を渡らせる気は馬場派の関係者はもちろん


猪木派の関係者もなかったろう。いや、仮に猪木にその気があったとしても、いくらでも試合中にそれを制止する手段はあるはずだ。猪木の当時から使っていたナックルパンチは厳密にとれば反則だし、コブラや卍も馬場危険を察知してロープ際に位置すれば、判定のないプロレスではいくらでも


時間切れに持ち込ませえる。さらにはいよいよとなれば外国人レスラーを乱入させてぶち壊すことさえ・・・ハッキリ言えば「仕掛ける選手がオーナーでない限り、リアルファイトなど成立しえない」のである猪木だってそのことを承知しているからには、無闇な仕掛けなどするはずもないと


>思うんである・・・ではなぜ、リアルファイトになる可能性など(ほぼ)ない対猪木戦を馬場拒否したのか?拒否せざるを得なかったのか?それはつまり僕に言わせれば「馬場がいずれNET(テレビ朝日)に出ざるを得なくなるからである。考えてみてほしい。馬場猪木をやったとして


>それは1回で終わるのか?そんな馬鹿なことはないだろう。日本中が注目・熱狂するまさに頂上対決である。1回目は日テレで中継されおそらくは時間切れ引き分けで終わる。もちろん会場収入・視聴率共に空前のものになったろう。そうなると当然ながら地方のプロモーターも我も我もと手を上げる


>そして当然ながら、猪木主役の「ワールドプロレスリング」(←日プロ健在時からこの題名)を放送していたNET(テレ朝)も・・・ズバリ言ってしまえば、猪木挑戦の背後にはその2戦目3戦目の中継を狙うNET存在があったろうと思うのである根拠は、ある。孫引きになってしまうが


>前出の柳澤健氏「1964年のジャイアント馬場」中に馬場自伝「王道十六文」の引用として、こんな部分があるのだ。「(猪木との対戦について)以前からNET幹部の中にそういう動きがあって、私は『そんなに大げさにせずに、やるなら道場でやったらいいじゃないか』と言ったことが」


・・・まあ「道場で」というのは馬場さんの逃げ口上ぽいが(苦笑)、問題はそこにはない。猪木戦を推進していたのが「NET幹部であるところに問題があるのだ。馬場猪木を日テレでだけやるなら、どうして「NET派」が動くのか?ここにある種の明らかな意図NETそして猪木さん


>にあったと思うんである猪木さんとそのバックのNET派の意図する流れはこうではなかったか。「まず最初馬場戦は日テレで中継、結果も引き分けでいい。次はどうでもうちのホームNETで中継し、そして俺が勝つ。三戦目はまた日テレで中継、そこで星を返す。それでいいじゃないか


>お互いに1勝1敗で、最終的には俺も星を返すんだ。馬場さんもメンツが立つだろ?」・・・しかし、馬場さんは受けて立つわけにいかない。1勝1敗1分に文句があるのではない。NETに出るわけにはいかないのだ、馬場さんは。猪木エースNETの「ワールドプロレスリング」が始まった時


>)「馬場NETに出さない」という取り決めが日テレ・日プロの間で取り交わされているのだ。これを馬場さんは破るわけにはいかないのである(実際、猪木離脱の後でNET強硬な抗議に耐えかねた日プロ馬場試合NET放送、怒った日テレが日プロの中継を取りやめ、新たに旗揚げした


馬場の全日本プロレスの中継に鞍替えするという事態になっている)・・・これを承知猪木さんは馬場戦(そしておそらくはNETでの中継)を訴えてるんだからタチが悪いんである(苦笑)。日プロ猪木NET幹部要請を再三はねつけていただろう。そして、Wリーグ戦最終戦の本番で


猪木実力行使してデストロイヤーを破って馬場戦に持ち込んでしまうことを日プロ側も警戒してたんだろうと。https://www.youtube.com/watch?v=5vpaZaIfZN4 この試合、一部ではデストが仕掛けたシュートマッチとして知られていたが、今見るとそれほどの危険性はない。ただ、デストが


必死コブラや卍をカットしてるのはうかがえる。ひょっとしたら「猪木が強引に極めに来て、馬場戦にもちこむことを企んでいるかもしれない。気を付けろ」くらいのことを日プロ首脳部から吹き込まれていたかも、とは思う。しかしラストはあっさり四の字のまま両リン。日プロ首脳部もホッと


>したろう。猪木も大人になったもんだ、黙って引き下がってくれた。このままUN王者・テレ朝のエースとして頑張ってくれる気になったんだろう・・・ところが、最初から猪木さんはリング上で実力行使する気などなかった。試合後の控室でマスコミ相手にぶち上げる挙に出たのである。完全に


>日プロは裏をかかれたのだ。得意満面の猪木さんの内面が見えるようではないか(苦笑)。《どうだ、馬場さん、もう逃げられないだろう。悔しければ挑戦を受けてみろ、そしてNETに出て来いよ。でも出来んだろう、日テレとの契約があるもんな。俺はいくらでも受けて立つのだがね、フフフ…》


>一方、優勝の美酒に酔うつもりでいた馬場さんが、戻ってきた控室で「猪木挑戦」の報を聞かされたその心中やいかに。《寛ちゃん、君って男はそこまでしてまで・・・》挑戦を受けることが出来ぬまま(受ければいずれはNETでの再戦に引きずり込まれ、日テレの不信を招く)仕掛けた猪木


>株のみが上がり、受けない馬場の株は暴落していく・・・その状況におそらくはハラワタ煮えくり返る思いでいたのではないか(苦笑)。そんな調子から年末の日プロクーデター事件の時に馬場さんが猪木さんを信じることが出来なかったのは当然なんである。いやそもそも馬場さんが疑った


>)「猪木改革と見せかけて、日プロ幹部とともに俺をも追い出すか支配下に置こうとしている」というのはかなりに起こり得ることだったのではないか。当時のアントニオ猪木は、それを画策しかねない野心あふれる若者だったのである・・・・・・この一文は、「1971年のアントニオ猪木」を


>ディスるための文章ではありません。むしろ、そういう野心・野望とともに生き続けたアントニオ猪木が45年の時を経てたどりついたところは何なのだろう、という話であります。彼が新人時代の痛みと屈辱とともに目標に置いた力道山を、その故郷である北朝鮮での16万人興行で超え得た。


ライバルとしてそれを追い抜き追い越すことに全身全霊を注ぎ込んだジャイアント馬場をも、その檜舞台であったNY・МSG本拠とするWWE殿堂入りすることによって超え得た。全ての目標を超えながら、それでいて自分が育て上げた新日本プロレスから事実上追放され、自らの団体IGF


から距離を置きつつある。全ての望みをその野心とともにかなえてきたアントニオ猪木がたどりついたものは、ある種の虚しさと、そして奇妙な解放感ではないのか……その胸中をいつか誰かが引き出してくれないものか、その願いとともにこの稿を閉じたいと思いますではではまた。(この稿了)

2016-05-05 10年前、日本格闘技界の全盛と転落。そしてその毒がもたらしたもの

10年前、日本格闘技界の全盛と転落。そしてその毒がもたらしたもの

題名意味するもの、読めばお分かりかと。

例によって駄文ツイート転載、ご笑覧あれ。


>10年前の本日、PRIDE無差別GP2006開幕戦において高阪剛が今をときめくマーク・ハントと対戦、TKОで敗れた高阪は引退を表明する。一抹の寂しさはあったが、この大会で勝ち上がったノゲイラ、ミルコ、ジョシュらがGPの覇権を争うということでPRIDEの全盛期はまだまだ続くと



>思われていた。さらにはこの2日前にはHERОSにおいて山本KIDが宮田を4秒秒殺KО→ D  PRIDEの全盛・HERОSの猛追により、日本の総合格闘技人気はまさにそのピークを迎えていたのである…しかしその我が世の春もその年の


>うちに終焉を迎える。高阪引退試合のちょうど1か月後にその衝撃は走った。6・5PRIDEフジテレビショック・・・。さらには7か月半後のHERОS秋山ヌルヌル事件・・・。この二つが2006年という同じ年に起こり、日本格闘技界にもたらした災厄は計り知れない。PRIDEの


>最終興行となったPRIDE34のキャッチコピーは「最強は、10年かけて強くなった。」であったが、その10年間に作り上げたすべてのものを、このわずか数カ月間で日本格闘技界は崩壊させてしまったのである。そしてその全容は未だに公にはされていない。格闘技通信の旧スタッフ


>作った「格闘技通信SPECIAL 格闘技黄金時代 PLAYBACK! vol.3」http://sportsclick.jp/magazine/mook/898/index.htmlなるムック本では、この時期について「一体、何がどうなったんだ?」というキャッチコピーをつけているがそれは読者側のセリフだろう(苦笑)。その全容


>を明らかにせずに本質的反省改善もなく「なし崩し」的に復活させようとしても、世間もかつてのファンも乗りようがない、というのが実際のところ。その日本格闘技退潮の流れは、まさに「10年かけて」WOWOWのUFC放送をも打ち切らせるに至った。PRIDEフジテレビショックと


>HERОSヌルヌル事件の「毒」が、ついにライバル団体UFCの日本定着の芽すらも摘んでしまったのである。そのWOWOW中継で解説役を長らく務めていたのは他でもない、10年前に感動的な引退試合を務めたTK高阪剛だったというのが何とも皮肉(苦笑)。10年前の「失敗」をきちんと


>振り返ることが出来ないようでは未来などない。「前を向け、後ろを振り返るな」「ファンはリング上の戦いだけを見ていればいいんだ」とひたすら言い聞かされた結果、何がもたらされたか。日本格闘技界の功績は、それを提示したことにこそあるのかも…そんな皮肉な結末でいいのかね?(苦笑)(了


追記。本当は、日本格闘技の過ちは2006年に限らない。その2年後、ヌルヌル事件すったもんだキッチリと清算することなく、PRIDEの後継団体を作ろうとしたものの、まとまることが出来ずにDREAМと戦極という2団体に分かれ、ついに共倒れに及んだ。その段階で完全にファンの失望を招いているのである。そのことをどれだけ関係者理解しているか。その理解なしにライジンへったくれもないだろうよ、と・・・


さらに追記。某所で、この懐かしい時代の記事を読んだ。http://blog.livedoor.jp/hirotsugu1069/archives/50572809.html … この当時の気持ちに立ち返るなら、あるいは、と・・・。彼我の勢力差はひょっとしたら当時より開いているかもしれないですけどね・・・技術的なものではありませんよ、念のため)。


ではではまた。

2016-04-29 対ゴッチ45周年、対前田30周年の今かみしめるアンドレの偉大さ。

対ゴッチ45周年、対猪木40周年、対ハンセン35周年、対前田30周年の今だからこそかみしめるアンドレ・ザ・ジャイアントの偉大さ。

すべては表題の通り。


以下、例によって例のごとく駄文ツイート転載


本日前田日明とアンドレ・ザ・ジャイアントのセメントマッチから30周年。(途中から D  D  動画二本目の45秒時で、猪木が姿を現したためにカッとなった前田が関節蹴りをかましてるのが


>よくわかるという(笑)前田兄さんの魅力満載の試合ともいえるわけですが(しかしまあ古館アナがやたら「凡戦」にしたがってるのがうるさいですな^^;)、一方でこの15年前の4月末にアンドレがどんな試合をやってたかを考えるとなかなかに興味深い・・・そう、あのカール・ゴッチに


ジャーマンで投げられた試合なんですね!!http://www4.point.ne.jp/~kirisame/battle/kiroku/kg/kg0.html(文字化けがひどいかも。「SAМEDASU」で検索されて「レスラーズ/ファイターズ」から「カール・ゴッチ国内試合記録集」でも見れます))←こちらの記事を見ると、実はゴッチさんがアンドレ


>(当時はモンスター・ロシモフ名義)を投げてるのは1度ではなく、国際プロレスのこのシリーズ中3度投げておりそのうち2度はフォール勝ちもおさめている(「フォール負けなし伝説」はアンドレ改名以後のこと)。有名なのは30日の「ゴッチがジャーマンで投げたが、メインレフリー失神のため


無効となり、アンドレ逆転勝利」の試合で、これがリーグ公式戦だったためにこの試合けが伝説になったというわけなのですね(テレビ中継があったのもこの試合だけだったのでしょうね、おそらく)。このリーグ戦は結局ゴッチ&ロビンソンをおさえてロシモフことアンドレが優勝しており


>その年9月からの北米進出に弾みがつく、出世街道のまさにスタートとなったわけですね・・・しかしまさか15年後にゴッチの愛弟子であるところの前田とセメントマッチを演じて痛い目にあってしまうなどとは思いもしなかっただろうなあと(苦笑)。されど振り返ってみればその15年の間


トップレスラーでい続けたのはやはりアンドレの偉大さなのであって。その間には76年に猪木さんとの国内初対決(何と異種格闘技戦として!すでにプロレスラーの枠も超えてると^^;)http://njpwworld.com/p/s_series_00013_1_1 81年にはあの田園コロシアムでの伝説の対ハンセン


http://njpwworld.com/p/s_series_00036_2_1 と名勝負目白押し・・・さらには対前田セメントマッチの4年後90年には馬場さんとの大巨人コンビも実現! D(この4人が全員故人・・・)まさに93年の急逝までトップでい続けたアンドレ


>の面目躍如たるものがあるわけで。・・・対ゴッチ、対前田ともにアンドレは引き立て役として語られることが多い。しかしあまりにも偉大なる引き立て役。対ゴッチ45周年、対猪木40周年、対ハンセン35周年、対前田30周年の今年だからこそ、その偉大さをかみしめたいものであります。合掌。(了


追記。昨年の今月、アンドレを全米デビューさせた名レスラーにしてプロモーターのバーン・ガ二ア氏が亡くなりました。氏の眼力がなければ、アンドレがあそこまでの存在になり得ることはなかったでありましょう。アンドレの23周忌とともに、ガ二ア氏の1周忌をも悼みたいと思います。改めて、合掌。

ではではまた。

2016-04-23 サミー・リーの知られざる英国最後の試合。

初代タイガーデビュー35周年に贈る、サミー・リーの知られざる英国最後試合

すべては表題の通り。

以下は駄文ツイートまとめ。

以前に佐山サトル英国デビュー時のことについて書いた「35年前の10月、イギリスはサミー・リーの夢を見た。」http://d.hatena.ne.jp/fullkichi1964/20151011も併読していただくと幸いです(^^)。


>35年前の今日この時間帯に初代タイガーマスクデビュー(テレビ放送されたのは翌24日)。この5日前、対マーティン・ジョーンズ戦を最後にサミー・リーこと佐山サトルは英国のファンから永遠に姿を消した・・・と思われてるだろうが、実はそうではない(笑)。佐山は実はタイガーマスク時代


>にたった一度だけ素顔のサミー・リーとして英国のファンの前で試合をしてるんである。次の映像を見てほしい。。 D  D  画像の下に「81−7−18」とあるのに注目! まさにタイガーマスク時代


>真っただ中の試合なんである。これはタイガーとして6月24日のビジャノ靴箸試合をリングアウトで勝った佐山が、オフの期間を利用してわざわざ英国に渡り、けじめのラストマッチ(英国のファンはそれを知らされてなかったかもだが・・・)を行った試合なのだ。入場時、新日本のライオン


>マークTシャツで入ってきたサミーに英国のファンは戸惑ったかもだが、それでも3カ月ぶりに現れたサミーに実に暖かい声援を送っているのが分かる。試合はラウンド制の三本勝負といういかにも欧州キャッチ風スタイル。一本ずつ取り合って、最後はサミーがキックの連打から耳そぎチョップ


>そしてローリングソバットから強引に押さえこんでしまうのだが、これ実はサミーが以前に相手のジム・ブレイグスと戦った時と全く同じフィニッシュなんであるw(サミーはブレイグスと2月&4月に戦ってるが、映像がどちらのものかは不明 D


>まあ英国の子供たちが一番喜ぶサミーのフィニッシュパターンだったというわけでしょうね(^^)。【注:と書いておいて、後で気づきましたが、これ同じ試合の別映像バージョンなのですね(爆死)。てっきり別の試合かと思って掲載してしまいました。失礼しました^^;】・・・勝利コール時ファンの歓声に満面の笑みで答える佐山。英国のファンがなぜ彼を愛したかがよく分かる・・・退場していく佐山はいつかタイガーマスクとして英国で試合をすることを


>そしてその勝利コール時に(日本で報道しないことを条件に)マスクを脱ぎ捨てて「Sammy lee!!」とコールされ、英国のファンに驚きとともに大歓声で迎えられることを夢見たであろうか・・・ついにかなえられることのなかったその光景を、つい夢想してみたくなるのである。(了)


以上、駄文ツイート。

佐山さんは後に「タイガーマスクをやりながら、格闘技のことばかりを考えていた」と言い続けることになるのですが・・・この時の屈託のない笑顔を見ていると、どうもその言葉は後付けであるようにも思われる。佐山さんの目指すものがどの時点までプロレスでどの部分から格闘技になっていったのか(そしてどの時点でプロレスに回帰していったのか・・・)。考察すべき謎が、まだまだ多いような気がしているのであります


ではではまた。

2016-03-29 アントニオ猪木28歳の野心について。

1971年3月、倍賞美津子との婚約結婚に見るアントニオ猪木28歳の野心について。

45年前の今日は、アントニオ猪木が倍賞美津子さんと婚約を発表した日であります


人気プロレスラーと大型女優のご結婚、そりゃおめでたい・・・普通は終わる話でしょうが、猪木さんの場合はなかなかこれが一筋縄でいかない(苦笑)。

その背景を顧みれば、この婚約猪木さんの大いなる野望達成の一つのステップに他ならないことが読み取れるからです。

それは今年前半のこの格闘史検証ブログ(いつからそうなったw)の大事テーマとなるでしょう。


例によって、駄文ツイート転載です。ご笑覧あれ。


>45年前の本日、3日前にロサンゼルスでUN王座を奪取して帰国したばかりのアントニオ猪木が女優・倍賞美津子と婚約発表!! 「海外での王座奪取」「帰国直後の大物芸能人との婚約発表」というプロスポーツスター選手の典型的凱旋花道をやってのけたのがまさにアントニオ猪木だったわけで


>その凱旋花道をプロレスラーでかくも見事にやってのけたのは、未だにアントニオ猪木が唯一無二の存在であるわけです(^^)。何といっても当時の倍賞美津子は姉・千恵子と並んで当時の映画界・テレビ界の大型新鋭女優。この2年前の映画「人斬り」(勝新太郎主演)でもヒロインクラス出演、


>この年の大河「春の坂道」にも出演、まさに今でいえば「オカダカズチカが長澤まさみと婚約」するようなものだったのですよ!(笑)そのインパクトの大きさはまさに連載終盤を迎えていた「タイガーマスク」でも、スパータイガーに不覚をとる猪木さんに馬場さんが「こらっ、猪木!そんなこと


>じゃ倍賞美津子さんに嫌われちまうぞ!!」と叱咤する場面にも表れてたりするのです(笑)。当時の中高校生ファンは「おおっ、そうだ。猪木いいなあ」とか思ってたんでしょうな(^^)。・・・しかし、当時の猪木さんにとって、倍賞さんとの婚約はただのラブロマンスであるわけはない。必ずや


>「どうだ、馬場さん!! これが現代のスター選手のありようなんだよ!!」との思いが満ち溢れていたんだろうと・・・何といっても時系列を追えば、69年5月猪木第11回ワールドリーグ初優勝⇒7月NET「ワールドプロレスリング」エースに⇒…⇒71年3月26日猪木UN奪取⇒29日


>倍賞美津子と婚約発表!!⇒4月第13回ワールドリーグ開催⇒5月リーグ最終戦控室で猪木馬場に挑戦表明!!!…という流れなのだから。まさにこの挑戦表明にこぎつけるまでの業界的&世間ステイタスアップ、その重要ステップの一つが、この「倍賞美津子ゲット」であったわけなので。そして


>その「猪木&美津子婚約」を梶原一騎が「タイガーマスク」に織り込んでいたという意味合いもまたあまりにも大きい。すでにこの時点で「タイガー」の終了を決めていただろう(終了はこの年の少年マガジン最終号)梶原先生としては、次のプロレス物の主役を考えるにあたって「あくなき野心に燃える


>男・アントニオ猪木」はあまりにも魅力的に映っただろうと・・・それがやがて、知られざる猪木主役作「マットの獅子王」、そしてあの「四角いジャングル」に結実していくと。さらには梶原先生猪木さん接近は実はあの超ビッグイベントとなった一戦に大きく影響したと思うのですが・・・


>それはまた6月のネタに(笑)。そして猪木さんの対馬場挑戦に関しての連続ツイート&ブログアップは、5月に予定しておりますのでお楽しみに(^^)。まずはここまで、ではではまた。(この稿了)


>追記。実は猪木さんには東京プロレス旗揚げ前の海外遠征時につき合いだして結婚もしたアメリカ人女性がおり一児もなしているのですが(当時の月刊ゴングのインタビューにも出ている)……それをいつの間にか清算してまで、美津子さんとの婚約結婚にこぎつけてるのです。今ならネットでさんざん


>叩かれてるでしょうな(苦笑)。そこまでしてまで己の社会的ステップアップを図る(アントン&ミッコの夫婦愛は、新日旗揚げ時の美津子夫人献身的働きからスタートしたのでは)…それこそがアントニオ猪木の一面であり、まただからこそ悪魔的なまでの魅力にもつながったのではとも思うのです(^^;)


・・・


そしてこの物語は、ワールドリーグを経てからその最終戦控室で行われた猪木さんの対馬場挑戦宣言の謎へと続くのです(笑)。お楽しみに(^^)。


ではではではまた。