45年前、アントニオ猪木の「挑戦」をなぜジャイアント馬場は避けたのか、避けざるを得なかったのか。

例によって駄文ツイート転載。
ご笑覧あれ。


>45年前の本日、日本プロレス第13回ワールドリーグ最終戦直後の控室で、アントニオ猪木ジャイアント馬場への挑戦を表明する。この後28年にも及ぶ二人の対立の原点であり、またその影響は未だに残りつつある日本プロレス界の最大のターニングポイントである・・・さて、なぜ馬場は猪木の


>挑戦を避けたのか?「なぜ猪木は挑戦したのか?」よりも大きな謎がそこに秘められていると思うんである。よく言われるのが、「もし対戦したらリアルファイト(真剣勝負)になってしまうから(そして猪木はそれを意図していたから)」である。現在のもっとも実証的な書き手である柳澤健氏も


>著書「1964年のジャイアント馬場」の中でその説をとっている。「猪木はもちろん馬場に勝つつもりだ。馬場が負けを受け容れる理由はまったくない。だとすれば試合はリアルファイトになってしまう」・・・しかし、そんなことがありえるだろうか?このわずか17年前に起こった力道山対木村


>のトラウマは、関係者に色濃く残っていたはずだ。日本プロレスを支える馬場・猪木の両雄(その存在感は54年2月に旗揚げしてまだ10カ月しか対決時に経ってなかった力道山と木村よりもある意味上回っていたかもしれない)をしてそんな危ない橋を渡らせる気は馬場派の関係者はもちろん


>猪木派の関係者もなかったろう。いや、仮に猪木にその気があったとしても、いくらでも試合中にそれを制止する手段はあるはずだ。猪木の当時から使っていたナックルパンチは厳密にとれば反則だし、コブラや卍も馬場が危険を察知してロープ際に位置すれば、判定のないプロレスではいくらでも


>時間切れに持ち込ませえる。さらにはいよいよとなれば外国人レスラーを乱入させてぶち壊すことさえ・・・ハッキリ言えば「仕掛ける選手がオーナーでない限り、リアルファイトなど成立しえない」のである。猪木だってそのことを承知しているからには、無闇な仕掛けなどするはずもないと


>思うんである・・・ではなぜ、リアルファイトになる可能性など(ほぼ)ない対猪木戦を馬場は拒否したのか?拒否せざるを得なかったのか?それはつまり僕に言わせれば「馬場がいずれNET(テレビ朝日)に出ざるを得なくなるから」である。考えてみてほしい。馬場対猪木をやったとして


>それは1回で終わるのか?そんな馬鹿なことはないだろう。日本中が注目・熱狂するまさに頂上対決である。1回目は日テレで中継されおそらくは時間切れ引き分けで終わる。もちろん会場収入・視聴率共に空前のものになったろう。そうなると当然ながら地方のプロモーターも我も我もと手を上げる


>そして当然ながら、猪木主役の「ワールドプロレスリング」(←日プロ健在時からこの題名)を放送していたNET(テレ朝)も・・・ズバリ言ってしまえば、猪木挑戦の背後にはその2戦目3戦目の中継を狙うNETの存在があったろうと思うのである。根拠は、ある。孫引きになってしまうが


>前出の柳澤健氏「1964年のジャイアント馬場」中に馬場自伝「王道十六文」の引用として、こんな部分があるのだ。「(猪木との対戦について)以前からNET派幹部の中にそういう動きがあって、私は『そんなに大げさにせずに、やるなら道場でやったらいいじゃないか』と言ったことが」


>・・・まあ「道場で」というのは馬場さんの逃げ口上ぽいが(苦笑)、問題はそこにはない。猪木戦を推進していたのが「NET派幹部」であるところに問題があるのだ。馬場対猪木を日テレでだけやるなら、どうして「NET派」が動くのか?ここにある種の明らかな意図がNETそして猪木さん


>にあったと思うんである。猪木さんとそのバックのNET派の意図する流れはこうではなかったか。「まず最初の馬場戦は日テレで中継、結果も引き分けでいい。次はどうでもうちのホームのNETで中継し、そして俺が勝つ。三戦目はまた日テレで中継、そこで星を返す。それでいいじゃないか


>お互いに1勝1敗で、最終的には俺も星を返すんだ。馬場さんもメンツが立つだろ?」・・・しかし、馬場さんは受けて立つわけにいかない。1勝1敗1分に文句があるのではない。NETに出るわけにはいかないのだ、馬場さんは。猪木エースでNETの「ワールドプロレスリング」が始まった時


>)「馬場はNETに出さない」という取り決めが日テレ・日プロの間で取り交わされているのだ。これを馬場さんは破るわけにはいかないのである(実際、猪木離脱の後でNETの強硬な抗議に耐えかねた日プロは馬場の試合をNETで放送、怒った日テレが日プロの中継を取りやめ、新たに旗揚げした


>馬場の全日本プロレスの中継に鞍替えするという事態になっている)・・・これを承知で猪木さんは馬場戦(そしておそらくはNETでの中継)を訴えてるんだからタチが悪いんである(苦笑)。日プロも猪木&NET幹部の要請を再三はねつけていただろう。そして、Wリーグ戦最終戦の本番で


>猪木が実力行使してデストロイヤーを破って馬場戦に持ち込んでしまうことを日プロ側も警戒してたんだろうと。https://www.youtube.com/watch?v=5vpaZaIfZN4 この試合、一部ではデストが仕掛けたシュートマッチとして知られていたが、今見るとそれほどの危険性はない。ただ、デストが


>必死にコブラや卍をカットしてるのはうかがえる。ひょっとしたら「猪木が強引に極めに来て、馬場戦にもちこむことを企んでいるかもしれない。気を付けろ」くらいのことを日プロ首脳部から吹き込まれていたかも、とは思う。しかしラストはあっさり四の字のまま両リン。日プロ首脳部もホッと


>したろう。猪木も大人になったもんだ、黙って引き下がってくれた。このままUN王者・テレ朝のエースとして頑張ってくれる気になったんだろう・・・ところが、最初から猪木さんはリング上で実力行使する気などなかった。試合後の控室でマスコミ相手にぶち上げる挙に出たのである。完全に


>日プロは裏をかかれたのだ。得意満面の猪木さんの内面が見えるようではないか(苦笑)。《どうだ、馬場さん、もう逃げられないだろう。悔しければ挑戦を受けてみろ、そしてNETに出て来いよ。でも出来んだろう、日テレとの契約があるもんな。俺はいくらでも受けて立つのだがね、フフフ…》


>一方、優勝の美酒に酔うつもりでいた馬場さんが、戻ってきた控室で「猪木挑戦」の報を聞かされたその心中やいかに。《寛ちゃん、君って男はそこまでしてまで・・・》挑戦を受けることが出来ぬまま(受ければいずれはNETでの再戦に引きずり込まれ、日テレの不信を招く)仕掛けた猪木の


>株のみが上がり、受けない馬場の株は暴落していく・・・その状況におそらくはハラワタ煮えくり返る思いでいたのではないか(苦笑)。そんな調子だから、年末の日プロクーデター事件の時に馬場さんが猪木さんを信じることが出来なかったのは当然なんである。いやそもそも馬場さんが疑った


>)「猪木は改革と見せかけて、日プロ幹部とともに俺をも追い出すか支配下に置こうとしている」というのはかなりに起こり得ることだったのではないか。当時のアントニオ猪木は、それを画策しかねない野心あふれる若者だったのである・・・・・・この一文は、「1971年のアントニオ猪木」を


ディスるための文章ではありません。むしろ、そういう野心・野望とともに生き続けたアントニオ猪木が45年の時を経てたどりついたところは何なのだろう、という話であります。彼が新人時代の痛みと屈辱とともに目標に置いた力道山を、その故郷である北朝鮮での16万人興行で超え得た。


>ライバルとしてそれを追い抜き追い越すことに全身全霊を注ぎ込んだジャイアント馬場をも、その檜舞台であったNY・МSGを本拠とするWWEで殿堂入りすることによって超え得た。全ての目標を超えながら、それでいて自分が育て上げた新日本プロレスからは事実上追放され、自らの団体IGF


>からも距離を置きつつある。全ての望みをその野心とともにかなえてきたアントニオ猪木がたどりついたものは、ある種の虚しさと、そして奇妙な解放感ではないのか……その胸中をいつか誰かが引き出してくれないものか、その願いとともにこの稿を閉じたいと思います。ではではまた。(この稿了)