<つづき>

 するどく小さい溜め息を吐いた。いいよ。いいの と念押しの言葉を無碍に扱った。いいよ、付き合ってあげる。奥さんになってあげるよ。短く切った語尾がつい震えたけれど見逃した。

 彼は一瞬ぎらっと目を光らせて微笑んだ。良かった心配だったんだでも自分から言っておいて何なんだけどごめんねちょっと考えさせてっていう対応かなって思ってたからびっくりしちゃったんだよね理由聞いてもいいかしら また少しぎらっと光った彼の目が光を放って胸を焦がした。ああ只いいかなって思っただけなんだけど実際君のこと友達という尺度を以てすると好きだしその 言葉に詰まる。逆にこっちが告白しているようだ。私が赤面すると彼は何となく納得したようでそれ以上の追及はなかった。私が目を背けつつ交際の過程で恋することができると思うと述べると彼の気配が変わった気がした。そういうことじゃない そういうことってなに。僕が君に求めているのは恋なんかじゃなくて結婚生活であり僕に対する君のいまの感情が快いものであればそれで充分なんだ 純粋な軽蔑を湛える声色に驚かされて彼を見た。その眼光は鋭いが敗者のような顔だった。僕は今まで恋というものをしたことがないしここで恋する人すら見たことがない僕の街の恋人たちと外の世界の恋人たちは何かが違うけど僕にはわからないでも恋というものは多くの本に書かれていて恋は罪悪ですが神聖なものですだとか盲目であるとか書いてあるしよくわかっているつまり死ぬほど好きで昼夜を問わず悶え苦しむことなんだろう僕は君に苦しんでもらおうなんざ思っちゃいないそのままの君が僕のことを悪からず思って一緒に生活してくれればいいんだ などとどんどん伏し目がちになる彼のビーフシチューを横取りした。白いテーブルクロスに一滴落ちてしまった。私は肩を竦めて見せて、すごくおいしいね私のも食べていいよと述べた。驚きと狼狽のあまり口がきけなくなっていた彼も私のオムライスに手を伸ばし一口食べておいしいこっちにすればよかったと言った。私はそっちの方がおいしく感じるといって笑うとやっと彼はほっとしたように緊張を溶かして頬を弛めた。
 どうか分かり合えないままお互い疎遠になることがありませんように。

 あらかじめ荷物を送っておいた旅館に徒歩で向かいながら明日の行動希望を優しい声で訊かれた。あまり知らないけれどここの特産品か郷土料理が食べてみたいというと少し考えて彼は果物がおいしいかなと答えた。私はピオーネが好きだけれど今はマスカットの時期らしい。そっちの方がおいしいというけれど値段の差ではと思った。
 肌寒い空にみなみのうお座のフォーマルハウトがゆらゆらしている。ぽつんと光る一等星と靄のような天の川は遠く離れていて思わず感傷的になる。良く晴れた空は今にも落ちそうで身震いをした。息が白いのを確かめて噛み締めるように寒いと呟くと彼は来ていたジャケットを脱いで私の肩に掛けた。暖かくなるような話をしてあげるという。

 とある救世主の話。この世の人々はそろいもそろって苦しみ私の元へ救いを求めてやってくる。数少ない弟子たちがその矛盾を晴らし救いとは為されるものではなく為すものであることを教え広めてくれるだろう。救いとは信仰によって為され愛となるのだから自分は誰にでも素直に親が子を愛するように愛そうと彼は決めた。彼は愛した人々によって民の心を乱したという謂れのない酷く曖昧な罪によって死刑になった。愛を以てすら無実の罪で殺された者はしかし尚弟子たちやその弟子たち復その弟子たちに否可能であるならすべての人に互いに信じ愛し合うことの大切さを伝え続けたいと願っていた。その意志を継いだ弟子たちのうち何人かが鐘を作りそれは救世主の処刑された地に置かれた。神さえ見捨てた土地にその鐘は鳥の囀りに似た音色を響かせ聞く者に安らぎと信頼と愛とを与えた。

 あのレストランから見えた時計台は昔鐘で時を知らせていたんだよ今のような時計台になって随分久しいみたいだけどね と彼は声を震わせた。矢も盾も堪らず私は彼の手を握った。彼よりずっと冷たい手を見た火星がペガサスのおなかで赤く笑っている。