アワーミュージック

ゴダール全評論・全発言3 (リュミエール叢書)
 煉獄編の中でホメロスに関する印象的な言及がある。彼は盲目だったので自分で戦場を見たわけではなく、他人が語る戦争の話を聞いていただけである。戦場から遠く離れて、彼は戦争のイメージを収集し、編集する。もちろん、我々の大多数もまた、戦場を知らないし、いまやありとあらゆる戦争の映像に取り囲まれて生きている。地獄編では、戦争に関する様々な映像がフィクション、ドキュメンタリーの区別なく映し出される。興奮をもたらすもの、悲哀をもたらすもの・・・。映画やニュースで見たことのある映像群に、マスメディアが隠したがる戦場の死体の映像が加えられる。戦場から離れている人間が、戦争のイメージ、戦争の痕跡とどう向かい合うべきなのか。
 煉獄編で舞台になるサラエボはもはや戦場ではないが、戦争の痕跡ははっきりと残っている。例えば、石造りの図書館の壁。ヨーロッパの周辺に位置し、街中ではコーランも聞こえるこの街で、ユダヤ人、アラブ人、アメリカン・インディアンのような、社会の中心ではなく周辺で生きる人たちの言葉が交差する。スペイン語とインディアンの英語、アラビア語ヘブライ語。もちろんある一つの民族の立場を代表するのではなく、ある二つの言葉、二つの映像が、調和するわけでもなく、対立するわけでもなく、ずれをはらんだままつながれている、「同じ土地のよそもの同士として。」
 では、本人の役で登場する監督の位置はどこなのか。図書館の場面で、一人の男の前に本が集められる。何を書き写し、何を捨て去るかはその男が決めるのだろうか。しかし、彼の前に現れたインディアンの女性(フェルラン・ブラス)は、彼に本を渡すことを拒否する。一方的に名づけられ、自分たちの言葉は全く聞いてもらえなかった「地図の外の世界」の彼らは、男を批判する。煉獄編の後半、ホメロスに関する言及はパレスチナの詩人によって、再び批判的に言及される。ギリシャの詩人だけではなく、敗者のトロイの詩人が必要とされている。デジカメで映像を撮り、それを監督に送った後、「戦場」、エルサレムに向かったオルガ(ナード・デュー)と、花壇でそれを受け取る監督の距離。
 ただ、映像上でオルガと監督は一つのイメージ、「赤」によってつながっている。空港で監督が見につけている赤のマフラーをきっかけにして、赤の車、路面電車、赤いシャツなど、赤のイメージに我々は心を奪われていく。そして、走ってどこかに向かう赤いバッグをもったオルガの鮮烈なショット。そして、赤い花々に囲まれたゴダールの映像の後、天国編が始まり、息をのむほど美しい深い緑の森の中で、赤のワンピースを着たオルガがいる。彼岸と此岸、距離と連帯。