天皇の言葉

2/5のエントリー(http://d.hatena.ne.jp/funaborista/20120205/1328471812)で、内田樹についての批判を書きました。
書いたのは月ノヒカリさんのエントリー(http://newmoon555.jugem.jp/?eid=311/)を受けてのもので、まあたまたまではあったのですが、これもたまたま、同じ日の「週刊鉄学」というテレビ番組(朝日ニュースターhttp://asahi-newstar.com/web/)に内田樹がゲストとして出演していました(http://asahi-newstar.com/web/12_tetsugaku/?p=4818)。
ブログで書いた日に放送とはこれも何かの縁、批判したからには見る義務/責任があるだろう、などと勝手なことを思い、しかしそこは夜型人間、録画して見ることにしました。


人間、録画をするとなかなか見ないものです。
ようやっと先日、重いまぶたを上げて見たのですが、・・・


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・・・(以下書き起こし)・・・


伊藤聡子:「今回の震災で、今そのリーダーのお話が出たので、やっぱり震災対応でいろんなところの、まあ国のトップも含めてのリーダーの資質みたいなものが結構問われたと思うんですけれども、内田さんはどんなふうにその部分ってものをご覧になってるんですか。」


内田樹:「んー、こういう時に、その、政策的な適否とかいったことをあんまり議論できないと思うんですけれども、結局はまあ国民的な災害を国民全体が受け止めるってことなんで、どうやってみんなが連帯感を持って行く、どうやってこの、気持ちが挫けないようにするかっていう、そっちの方向性さえ示してくれれば、個別的な政策の適否ってのはどうだっていいと思うんですよね。
で、結局ね、これ変な話ですけども、やっぱりその、震災直後一番心に響いたメッセージって天皇陛下の言葉なんですよね。」


武田鉄也:「そうなんですよ。」(嬉しそうに笑いながら)。


内田樹:「もう、菅総理のお言葉よりもね、圧倒的に総理大臣のですね、そのまあ最高権力者の、全部政策を統合していって彼が指示出す、人の言葉よりも、政治的な権力のない人、この人が本当に国土の保全と国民の健康を気遣ってるというですね。
ほか何の邪心もない人ってのが、あの、今の日本の、いや天皇陛下しかいないのかな、と思ったぐらい、重かったですね。」


武田鉄也:「ちょっとあの、あの日の思い出がよみがえりますが、あの、天皇皇后両陛下が、あの、荒れました津波を起こした海に対して深々と一礼を、こう、霊に向かってなさったときにね、もう、その、申し訳ないですが、そのなんと美しい頭の下げ方だろうと思いまして、あの、見とれたことがあるんですよね。」


内田樹:「ただリーダーっては言いませんけどね。でも僕はああいうたたずまいってのが、本当は、ねえ、あの、国民的な災害の時に、国民が立ち上がってる時に、統合するのってのは、ああいうような構えだとおもうんですけれどもねえ。」


・・・(書き起こし終了)・・・


もうなんというか・・・ort


「ほか何の邪心もない人ってのが、あの、今の日本の、いや天皇陛下しかいないのかな、と思ったぐらい、重かったですね。」


もしこれが、「でもまあ、そんなはずないですよね。あの大震災を目の当たりにして、むしろ大多数の国民がそうだった(=何の邪心もなかった)はずなのに、メディアにその姿が取り上げられたのが天皇陛下だけだった、っていう、まあようするにそういうことなんでしょうですけどね。(以下マスコミ批判)」と話がつながってったんなら、まあ「半分は」許してあげましたw。


 


天皇陛下しかいない」わけないじゃないですか!


 


「街場の〜」ってのが、「街場の人々を語る」ってんじゃなくて、「街場でどういう『物語』が受けるのか」ってことなんだったら、funaはまだ立ち読みしかしてないけど、これからも買ってまで読むことはないなあ。


>気持ちが挫けないようにするかっていう、そっちの方向性さえ示してくれれば、個別的な政策の適否ってのはどうだっていい


どうだってよくなんかありません。
例えば、菅が東電に怒鳴り込まなかったら、原発事故はもしかしたら違う展開になっていたかもしれないのです(数少ない菅のプラスポイント)。
それに、あの時点での菅直人が、表面上だけではあっても「ああいうたたずまい」や「ああいう構え」だったら、
funaだったら「ふざけんな、お前には他にやることがいくらでもあるだろう。」って思ってしまい、「連帯感」からは遠ざかってしまいそうなんですが・・・


これってもしかして「呪いの言葉」ですか?


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で、あとの「半分」なんですが、


みなさん、あの「天皇の言葉」っての、本当に心に響きましたか?


(参考動画:http://www.youtube.com/watch?v=YhyYGt3F0C0


funaは、このエントリーを書くためにあらためて↑を見ましたが、やっぱり心に響きませんでした。
東京に住んでるfunaの震災体験が、ちょっと運が悪かったら数百個の10Lビール樽に押しつぶされて死んでいたかもしれない、くらいしかなかったもので、だから心に響かなかったのかもしれません。
しかし、心に響かない原因は、別にあるんです。


あの「天皇の言葉」、現状説明から始まり、復興への努力への労い、自衛隊から諸外国まで支援への感謝、これからに対する呼びかけ、と各方面に配慮した、まさに「ザ・正解」ともいうべき「完成された『作文』」なんですよ。
天皇は政治的であってはならない」という制約があって、これは仕方がないことである、というのはわかります。


でも、だからこそ、funaの心には響かないんです。


とは言っても、心に響いた人が大勢いらっしゃったであろうことは容易に想像できます。
funaより遥かに過酷な体験をされた方が、あのタイミングで、ってのは、まあ理解できます。
でもね、そうじゃない人々の、どうして心に響くのかなっていうことをfunaなりに想像すれば、つまりあれが「天皇陛下のお言葉」だから、だから心に響くんだろうなあっていうところに、どうしても行き着いてしまうのです。
同じ言葉を、もし菅直人が言ってたら、やっぱり心に響きましたか?
政治家はダメというのなら、もし一般人のfunaboristaであれば、それなら心に響きましたか?


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「あの言葉を、まさに『天皇が言った』からこそ、多くの人々(日本人)の心に響いた」ということ、それはどのようなスタンスにある人でも認めるところでしょう。


その上で、ですよ。
ここが絶対に避けて通れない「はず」の問題なんですが、
戦後、日本人は「天皇制」というものを、結局「自らの力では反省することができませんでした」。
廃止するにせよ、あり方を変えるにせよ、変えないにせよ、「国民の間でそれを決めるために広く議論された」なんてことは、(これは敗戦直後だけではありませんが)今まで一貫して唯の一度もなく、天皇/皇室というものは「畏れ多いもの」「触れてはならないもの」として、現在まで変わらずに存在し続けました。
このような「言論における『免責空間』が日本の中心に存在しているという事実や、そのあり方」こそが、例えば今回原発事故で表出した「責任というものに対するあまりにも軽い感覚」と通底していること、なのではないでしょうか。


一神教の国(アメリカ)の神の火である原子力に、初めて日本人が相対したのは原爆という呪いの火だった。敗戦後、アメリカを真似するにあたり、呪いの火を、アメリカを『見下すために』できるだけ原子力を小バカにして扱った。それがバケツやスコップで扱うことに繋がり、だからこそ福島の事故も起こったのだ。」
なんていう「トリッキーな論理」(武田鉄也の内田評)より、
この期に及んで


「僕(内田)は、単純な反原発論じゃないんですよ。そこにある以上は仕方がない、ほんとうはそういうのあんまりいけないんですけど、来ちゃったものはしょうがない。」


というような発言をしてしまう「責任に対するあまりにも軽い感覚」や、
その軽い感覚はいったい何に由来するものなのか、
さらには「日本人の責任に対する感覚」というテーマで、第二次大戦に触れておきながらどうして「天皇問題」については言及を避けてしまうのか、
それは原子力を語るときに「『おそろしいもの』は、祟りが起きないように遠ざけておくのがよい」と言っておきながら、「私は単純な反原発ではない」などと「『非論理』を駆使してまで」「自らの立場を『ある位置』に置くことを避ける」こととどう関連するのか、


それらの方が、よっぽど「原発事故の原因の本質」を含んでいるのではないでしょうか。

 


およそ「思想家」を名乗る者であれば、日本人の「『天皇陛下のお言葉』だから、だから心に響く」という、その心の在り方に対する「批判」は、決して避けて通ることが許されない、とfunaboristaは考えるのです。


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・・・(引用開始)・・・


(書き始めからここまで省略)


たぶん同時多発的にいま日本全国で数千人規模の人々が「原発供養」の祈りを捧げているのではないかと思う。
私はこの宗教的態度を日本人としてきわめて「伝統的」なものだと思う。
ばかばかしいと嗤う人は嗤えばいい。
けれども、触れたら穢れる汚物に触れるように原発に向かうのと、「成仏せえよ」と遙拝しながら原発に向かうのでは、現場の人々のマインドセットが違う。
「供養」しつつ廃炉の作業にかかわる方が、みんなが厭がる「汚物処理」を押し付けられて取り組むよりも、どう考えても、作業効率が高く、ミスが少なく、高いモラルが維持できるはずである。
私は骨の髄まで合理的でビジネスライクな人間である。
その私が言っているのだから、どうか信じて欲しい。
今日本人がまずなすべきなのは「原発供養」である。
すでに「あのお方」がなされているとは思うが。


原発供養」2011/4/8 内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2011/04/08_1108.php


・・・(引用終了)・・・


ブログを書くに当たり、今回初めて内田の上記文章をゆっくりと読みました。
昨年、一度だけ30秒ほどでチラ読みしましたが、「バカバカしい」と思うだけで「それが本当は何を言っているのか」までは考えませんでした。


「呪いの言葉」とは、「人を呪う言葉」だけではなく、「善意の言葉」でもあるのですね。


上記引用に当たり、コピー&ペーストは行わずに、一字一字キー入力をしました。


私は、自分で思っているより宗教的な人間だったようです。


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funaboristaは左派の人間ですが、だからといって今までの天皇の言葉がすべて心に響かなかったかというと、そうではありません。
私の心に響いた天皇の言葉の一つ、それは国旗・国歌に関する、あの有名な言葉です。


米長「日本中の学校にですね、国旗を挙げて、国歌を斉唱させるというのが、私の仕事でございます。」
天皇: 「ああ、そうですか。」
米長: 「今、がんばっております。」
天皇: 「やはり、あの、あれですね、その、強制になるというようなことでないほうがね、望ましいと・・・」


「『強制でない方が望ましい』は当時の政府見解と同じだから、天皇の発言は政治的ではない」という人もいるようですが、もちろん「政府と同じ=非政治的」などということはなく、この発言は「きわめて政治的」であり、funa基準ではアウトです。
もしかしたら、天皇自身も「政治的である可能性」には気がついていたでしょう。
宮内庁からの「ここまではOK」という事前のアドバイスは、おそらくなかったでしょうw。
何も言わずにやり過ごす、という選択もあったはずです。
 


しかし、天皇は踏み込んだ。


だからこそ、funaは心を動かされました。


 
何が発言を決断させたのか。


それを語ることは、(funa的にだけでなく)一般的にも完全にアウトでしょうから、天皇自らそれを明らかにすることは、今後もおそらくないでしょう。


私たちは、想像し、そして考えなければなりません。


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「週刊鉄学」は、朝日ニュースターの吸収合併に伴い、3月末で終了します。
今週からは「傑作選アンコール放送」だそうで、実質最終回の内田樹氏の回もおそらく再放送されることでしょう。
実はあの回、今回funaが取り上げた部分以外にも、「これは…ort」っていう内容がいくつもありました(あくまでfuna基準ですが)。
興味のある方は是非ご覧になってみてください。


 


蛇足1:2/5のエントリーで、内田樹の「間違ったレッテル貼り」を批判したのですが、やはり同じようなことを感じる方はいらっしゃるようで、今から7年も前のエントリーですが、以下のようなブログを見つけましたのでご紹介します。


http://ccoe.cocolog-nifty.com/news/2005/09/post_3a4b.html
http://ccoe.cocolog-nifty.com/news/2005/09/post_b3e5.html


内田樹って、情報の(自分への)伝わり方や、それによる自己の判断の歪みの可能性ってものには、全く無頓着なんですよね。


 


蛇足2:この週刊鉄学での内田発言、ネットで検索をかけたのですが殆どヒットせず、違和を呈しているブログはたったの1つしか見つかりませんでした。

http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/a19cc428b36cb1c4bb2860334b166615


視聴率のせいなのか、それともあれが日本人にとって「あまりにも日常的だった」からなのか。