かけ算の順序

ここ数年、ごく一部の界隈で「第n次『かけ算の順序』論争ブーム」だそうで。
それにしても、遠山啓が「順序派総本山」だと誤解している人が多いのには正直驚かされました(遠山啓のことを少しでも知っている人は、こんなこと想像もしないと思うのですが)。
これについて、「遠山啓は『かけ算の順序』についてどう考えたか」というブログを書かれている方がいらっしゃいます。


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(引用開始)


 最近ウェブ上で議論されている「かけ算の順序」をめぐる議論にかかわって、遠山啓の考えを誤って伝えているものがあるのを見かけた。
要約すると、小学校の算数の授業でかけ算の順序に拘った教え方をしているのは、数教協(数学教育協議会)の影響によるもので、これは、故遠山啓の「理論」の名残である、というもの。
事実はどうかというと、遠山は、かけ算の順序を固定することに、いかなる場合においても、理論的にも、教育上の観点からも明確に反対していた。


(中略)


彼(遠山啓)は、著作集の中の『量とは何かI』(太郎次郎社、1978)の「II-外延量と内包量」の章に「6×4、4×6論争にひそむ意味」(p114-120)という特別の節を設けて、この問題を6ページ半に渡り詳述している。
同じ事は、『水道方式とはなにか』の卷においても繰り返し述べられている。
それは、1972年1月29日の『朝日新聞』に、小学校のテストをめぐって、ここでの議論と同じ論争が載ったことがきっかけになっている。


 この時の問題は「6人のこどもに、1人4こずつみかんをあたえたい。みかんはいくつあればよいでしょうか」というもので、6×4=24 と書いた子どもが何人かいて、その答案は、答えの「24こ」にはマルがつけられ、式の「6×4」にはバツがつけられ、「4×6」に訂正されていた。
これに疑問をいだいた親が、文部省にも質問状をだして論争がまきおこったとのことである。

遠山は次のように書いている。


 「この問題の答えとして、4×6 だけが正解であり、ほかを誤りとする理由はどこにもない。
もともと算数の考え方は一通りしかないと思いこむのがおかしいので、多種多様な解き方があってよいのである。

ミカンを配るのに、トランプを配るときのやり方で配ると、1回分が6こ、それを4回配るのだから、それを思い浮かべる子どもは、むしろ、
6×4=24 
という方式をたてるほうが合理的だといえる。」


 ここで遠山は、かけ算の交換法則のことを言っているのではない。つまり、そもそも、4と6のどちらを「1あたりの数」とするかは考え方次第であって、一方に固定できないと主張しているのである。
別の例として、ウサギが3羽いる時の耳の総数をかけ算で求める時に、耳が1羽あたり2本ずつと考えても良いし、左耳が3本、右耳が3本と考えても良いとしているのも、「1あたりの数」を2としても3としても、どちらでも良い理由として書いている。


 実際には「左耳が3本、右耳が3本」と考える子どもは、いるとしてもごく少数であろう。
しかし、それが、個々の問題でどのような割合になるかは、設問の言葉の表現にどのように<引きずられたか>の違いに過ぎないとみることもできる。


http://blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/33805606.html


(引用終了)


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現在多くの小学校では、学習指導要領に従い「6×4=4×6」を認めません。


現在多くの小学校では、教科書指導書等に従い「6×4=4×6」を認めないようです。(3/2訂正)


しかしこの問題は、


「『考えること、試行錯誤すること、自力でできること』よりも『あらかじめ決められた不当なルール通りにできること』に価値がある」とする点、


「『国際ルールの存在』を無視して『ローカルルールの刷り込み』に固執する」点(※)、


そしてなによりも「『本質』よりも『強制』を優先させる」点において、


君が代・日の丸の強制」と相似形です。


 
数学教育」を「愛国教育」の露払い役としてはなりません。
 


平和運動にもかかわっていた遠山啓が、今の教育現場を見たらなんと言うでしょう。


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「数学の本質は、その自由性にある」とはカントールの言。
この場合の「自由」とは「4と6のどちらを『1あたりの数』とするか」。
しかし、ある一方しか「1あたりの数」として認めないということは、その「自由を学ぶ」恰好の材料である算数/数学教育に対する「不当な政治介入」なのです。


>実際には「左耳が3本、右耳が3本」と考える子どもは、いるとしてもごく少数であろう。しかし、それが、個々の問題でどのような割合になるかは、設問の言葉の表現にどのように<引きずられたか>の違いに過ぎないとみることもできる。


子供には、「耳が1羽あたり2本ずつ」と「左耳が3本、右耳が3本」と、両方の考え方を教えるべきなのです。
両方の考え方を教わり、その両方が数学的に等価値であることを理解することで、「少数派=間違いor価値が低い」というのが偏見であることを子供たちは学べるのです。
数学教育とは、マイノリティ教育でもあります。


そして、「ルールはルール」とマジョリティの順序を一方的に強制するよりも、「人はいかに表現に<引きずられやすいか>」を教えるべきなのです。
数学教育とは、リテラシー教育でもあります。


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以下紹介。


http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/LaTeX/20101123Kakezan.html


東北大学の先生のページ。考え方はfunaboristaと全く同じ。


(3/2追記:コメント欄参照。↑の黒木玄と遠山啓は考えを異にしており、funaの考え方は黒木さんと同じです。)


少々長いですが、小学生、特に算数が苦手だという子供の親御さんは是非読んでほしい。
順序を固定しない教え方は「数学が苦手な子供のためにこそ役立つ」ということがわかっていただけると思います。
それにしても順序派の「治療教育」って・・・まさに「名は体を表す」ですね。


http://d.hatena.ne.jp/filinion/20101118/1290094089


地方小学校で先生をされている方のページ。
こんな先生に教わったらそうそう数学嫌いになんかならないのに、と思います。
余談の「児童はこれまでに被乗数と乗数の使い分けについてかなり厳しく考えてきたといってよい。」は、まさにマスコミと大衆の縮図ですね。


※ローカルルールとは・・・例えば英語で「 n × m 」は「 n times m 」、つまり「 n 回の m 」ですよね。
つまり英語でのローカルルールは、日本でのローカルルールとは逆なのです。
国際ルールは、もちろん「実数どうしのかけ算では、いかなる時でも交換法則が成り立つ」です。