施福寺→金剛寺→葛井寺

まずは施福寺に行きまして。

行満と言う僧が開基だったと言うのは初耳だ。

入り口付近はさして変わらず。

山道をテクテク歩くと、古い建物がまた一つ解体されとった。わかりづらくてすまぬ。

そういえば、槇尾明神に登ったことがなかったので。

槇尾明神から見た本堂。

正面から見た本堂。

次は金剛寺。慣れたもので、山登りしても極端に足がガクガクしなくなっている。

  • 金剛寺:新西国三十三箇所・第七番札所。神仏霊場をやっていたときに訪れて以来だ。俺が行った時も本堂の工事は続いていて、


    多宝塔も工事中であった(オフィシャルサイトのブログ見たら、外観の工事は2014年内に完了したそうな)。


    なので、前回見てなかった有料の庭園を見ることに。…うーん…?写真に納めるのだが、やはりよくわからない。て言うか、どういう視点で見ていいのかがさっぱりわからないので、ある。庭園の見方みたいな本、ないかしら。あと、後述するが、天皇とも縁が深いので、摩尼院では、まだ「神の領域」だった頃の天皇が住んでいた後の残香(ざんこう)をかぐことくらいが関の山だ。

    そういや、歴史を書いていなかったな。

    天平年間の729年に、聖武天皇の勅願により、行基によって開かれたと伝わっている。伝承の域とはいえ、どんだけ作ってるんだこの二人は。 また、平安時代には、弘法大師が修行した聖地として知られてたという。
    平安後半は衰退していたが、平安時代末期に高野山の僧・阿観(あかん)上人が後白河上皇とその妹の八条女院の庇護を受けて、金堂(本堂)多宝塔などの伽藍を再興する。その後、弟子の女性が住職を勤めたことから女人高野と呼ばれるようになった。

    鎌倉時代の終わりには後醍醐天皇(ごだいごてんのう)との関係ができ、南北朝時代には、南朝方の拠点となり後村上天皇(ごむらかみてんのう)が正平9(1354)年から6年間、摩尼院や食堂で政務を執(とりおこな)っていた。以後、織田信長豊臣秀吉の庇護を受けてたおかげか、戦火も免れ、今に至っている。

    なんでも、今回の大修理は、元禄13(1700)年に徳川吉宗の命により、岸和田藩主導で修理を行って以来との事。

さて、葛井寺にも行きますか。

主だったのを撮りまして。お、なにやらおもしろいものを見つけた。

近鉄バファローズの試合速報のスコアボード(爆)。まだこんなのが現存しているとは!近鉄楽天になって、もとい、藤井寺球場がなくなってどんだけ経つ!?これは、お砂踏みのところにあった。