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funny_Tomtomの日記 Twitter

2012-05-24

今になって退職を迷う

全ての引き継ぎが明日に終わり、後は有休消化だけの今になって退職を迷い始めた。昨日課長に聴いたところ、辞表はまだ預かってもらっているらしい。2月に3月に辞めるからと辞表を提出し、6月まで待ってよと言われて考えてここまできた今になって迷うなんて本当に情けないし、皆に迷惑をかけていると思う。



実は一昨日まで親には退職してファシリテーターを仕事にして食っていくことを何も言わずに進めてきた。


自分のことだし、堅い職業で育った親は反対すると思ったから。ゴールデンウィークに言い出せず、ゴールデンウィーク後は母が南米旅行の為言えず、ずっと残したままだった。


一昨日にようやくSkypeでいえた。


父は「お前、たわけと違うか!」、母は「なんで、うちはお兄ちゃんも不安定な職を選ぶし、こんななのー!!ここまでそだててきたのに育て方間違ったのー。何考えてるのー!!いやー!!あなたがそんなことになったら私死んじゃうわ!死んでやるー。」と泣いていた。予想通りの反応で、今までの人生の中で繰り返しみてきた光景。でも最も強烈だった。

「会社で何も変えられない奴が何をいっとるか!」「ファシリテーションにのめり込んで宗教みたいになってるんじゃないのか。手段を目的化してる。」「ハローワークでうなだれている人を見かけるたびにとものことを重ねるわ。あなた何年も留年してるんだから。二度と安定した企業に勤めれないわ。」

朝4時まで話をし、結局分かり合えず寝ることに。


昨日は夜20時に急に「これから京都行くから。」と電話があった。

話せる最後の機会だと思ったので来てもらうことにした。


僕が思っている世の中の変化への状況、不安に思っていることから話し、それは父も認識が一致した。


父には、僕が理想主義、ポジティブ側面しか見ない性格であること、皆が同じ悩みを抱えていることに僕には適応する柔軟性がないこと、安定した職を手放すのはデメリットが大きいこと、ファシリテーターとして食っていくことに見込みが無いと考えていること、ダメだった時の仕事が全く無くなること、きつい現実を言われた。


僕は、父と母がいつも「ともは普通でいて。」というのをずっと気にし辛く感じてきたことを伝えた。僕は「僕は変で変な自分は愛されない、でも普通ってどうしたらいいの?」と気にしてきた。

「考えすぎないで。」と憂慮したことだったと分かった。自分が自分のことを情けない人間だと思っていること、そのためよく見せようと大きく大胆なことを言ったり、誤摩化す為に期限に遅れたりすることも認めつつ伝えた。「死ぬこと、死んで何も意味が無くなるのは堪え難い、後に何か残さなきゃ。」と子供の頃から頭に張り付いて、それで走ってきたことも伝えた。



母は「うちはお兄ちゃんもあなたも理想主義に育てて、お金に泥臭く生きていくことを教えられずに育ててしまったね。」と悔いていた。でもお金に無頓着だった祖父に育てられた僕は仕方ないことと思った。



ようやく父と母とつながった気がした。小学生の時以来だった。



そして、新めて思う。大切なことは僕の周りの人が幸せになること。



辞表を出してから多くの休みをこれまでにもらったこと、コトハナやFAJ、TEDxKyotoで辞めることを言ったこと、人生の中で今までずっと独立したい、起業したいと言い続けてきたこと、憧れのファシリテーターBarbaraの研修の予約、次の住むところとの契約、IAF日本大会までに乗っている流れ、全て白紙にして今日一日考えてみたい。


関係しているみなさまに多大な迷惑をかけ、甘えているのを知りつつ、自分勝手に考えます。すみません。

2012-01-22

デジカメ黎明期のファシリテーション的なお話

デジカメ業界の人に聞いた話。


デジカメが発売された当初はデジカメでとった写真をモニターで表示させたり、プリンターで印刷させたら、モデル毎に写真の見た目が全然違っていたそうな。

しかし、それだと以前撮った写真を、写真を撮った時とは違うモニターで表示させたりプリンターで印刷しても写真を撮ったときとは見た目が全く変わってしまう。


そこで、デジカメの業界団体がデジカメメーカー17社とプリンターメーカー9社に声をかけて、1週間一同に会して各社のデジカメとプリンターを自由に使える場を作ったそうだ。

ただし、参加できるのは製品を紹介員を含めて各社三名まで。


このような場はその時限りだったのだが、この後何も強制しなくても各社の写真の見た目は揃ってきたらしい。


強制しなくても、意見が一致してくるというのはワールドカフェとなんか似ている。


同じ目的の下に、違いを認識して自由にコミュニケーションをとることが意見の壁を解きほぐす第一歩なんだな。

2012-01-19 ギリギリの再会

高校の時の友人と久しぶりに連絡が取れた。

出した年賀状に返信をくれた。

6年振り?いやもっとだな8年、9年ぶりか。

僕が留年しだした頃ぐらいから疎遠になったもんね。


本当に大事な友人なのに疎遠になってたなんてもったいない。


この繋がり切れる寸前やった。

去年激動の1年で自分も大切な友人もいつ死ぬかわからないと思ったので。年賀状を出した。

だけど、友人の住所が実家のしかわからなかった。

ところが友人の実家は去年引っ越していて転送されてようやく届いた。

来年だったら届かなかった。


危ない危ない。

やっぱ考える前に心に浮かんだら行動やね。

2011-12-14

モヤモヤした自分、依存した自分を受け入れる。

先週末、日本ファシリテーション協会の沖縄U理論合宿に参加した。



今年は色々なことを体験し、最近自分が本当は何をしたいのかをよく考える様になった。でも中々見つからずモヤモヤしている。

そういう自分のモヤモヤをこのワークではらすことができるのではないかとワクワクした気持ちで参加した。

しかし、今回の合宿は自分の暗い部分を見つめる、重い合宿となった。



一日目の夕方、メンタルモデル(脱却しようとしてもできない自分像)を探ることに。

みんなが苦しみながらメンタルモデルを見つけている中、僕はどうしても見つけることができない。


何度か問いかけられても見つけられずにいた僕に、中土井さんは僕が答えを他の人に見つけてもらおうと依存していること、依存された人は見捨てたくなることを指摘する。

ガツーンと衝撃を受けた。


今から出す問いで答えを出せなかったら二日目何も得られない様に宣言してと言われる。

それまでのワークで思い込みの力の強さを体感していたので、二日目本当になにも得られなくなるのかと感じた。

もしかしたら人生で大切なことを見つけられないのではと恐怖した。

しかし、答えを出すことができなかった。

出せなかったことに情けなく体が崩れていく。



答えを出せないのは結局誰か助けてくれると依存しているから?

体を崩したのは依存しているからだ。

去年好きな人に依存していたことで相手を苦しめたあげく自分も苦しんだのに、まだ依存しているのか。

やるせなさ、情けなさがこみ上げてきて吐きそうになる。

でも抑える。ココで甘えたくない。


何も得られないという宣言に左右されることは依存していることになるんじゃないかと考え、自分だけででも何か得るぞと思い立つ。

でも宣言したことを守らないのも依存しているのではないかとも思う。

余計に頭の中がグルグルしてきてモヤモヤが立ちこめる。



二日目、何も得れないかも知れないワークに出るかどうか迷ったが結局でることに。

メンタルモデルを見つけられておらず、何も得ないと宣言しているのにワークに入ってモヤモヤしていた僕をメンバーのみんなが助けてくれる。

休憩中に負のオーラまき散らしてるよと言われたが、そのままワークに入ってみんなに助けてもらおうとしている申し訳なさもこみ上げてくる。ああ、また依存している。にも関わらず自分でメンタルモデルを見つけてやろうとも思っていた。

しかし、みんなの暖かさに触れている内にこの機会は自分の足りない何かを得る為に与えられたのではないかと思え、中土井さん、みんなに感謝したくなってきた。でもメンタルモデルは見つからずモヤモヤしたまま。



結局最後までモヤモヤが晴れず、チェックアウトの時間。

何も得ないと宣言した自分が発言していいのか迷ったが、これまで感じていたことをそのまま伝えようと思った。


ちろっと中土井さんの方を見るとなんだコイツって顔をしている様に思えた。

自分の情けなさ、助けてくれたみんなへの申し訳なさ、何も得ないと宣言していたことを黙りながら負のオーラをまき散らせながらワークに入っていたことを明らかにする恐怖感とともに気持ちを吐きだしていく。

吐き出したとたん、

「あははははは。。。」周りからどっと笑いが起こる。

自分の体のこわばりがとれ、みんなと繋がった気がした。

ああ、モヤモヤしていていいのか。依存していてもいいのかと感じた。



感謝の気持ちでいっぱいになる。

ありがとう。本当にありがとう。



結局今回のU理論合宿はモヤモヤしながら答えを見つけようと迷っている自分、依存から脱けようとするがやっぱり依存している自分でも大丈夫と思う為の機会だった気がする。

そして、それが今の自分に一番必要なことだったと思えた。

2011-11-21

having, doing, being

先日、褒めるのは行為に対してというお話を聞いた。

そこでふと考えた。

お世辞は地位や資産など所有物(having)に視点が

褒めることは行為(doing)に視点が向いた接し方ではないか?

ではその人そのものに(being)に視点が当たっている接し方は?

信じるかな。。