振りさけ見れば - 宍戸 大裕 映像制作の記 -

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2017-09-17

クマよ

昨日、宮城県の山でクマの生息調査をされてる方々に同行させてもらい山を歩きました。
野生動物に魅せられたのは中学生の頃。NHKの「生きもの地球紀行」を毎週ビデオに録画して観ていました。
自然の生きものが映しだされる番組は素晴らしかったのですが、最後の5分間は決まって「この生息環境がいまは失われようとしています」という話でした。
それが辛くて、いつしか観るのをやめてしまいました。それでもその頃はじめた新聞の自然記事の切り抜きはいまもつづけてます。
21年前の記事には九州で絶滅したクマの目撃情報が書いてありました。いま、四国のクマが絶滅の危機を迎えているそうです。

昨日は、定点カメラの映像チェックと電池交換が主な作業でした。「背こすり」というクマの行為の跡がカラマツやアカマツに残っていました。
映像にもしっかりとクマたちの姿が映されていました。イノシシアナグマの姿もありました。夜更けにじゃれあうアナグマが2頭、転げあい跳ねあってる姿にときめきました。人が寝静まったころ、遠くの山で2頭の毛むくじゃらのアナグマが、長いことじゃれあってる。なんて素敵なことだろうと、うれしくなりました。

昨日は、クマの生態だけでなく、クマに困ってる方の話も聞くことができました。
山のふもとで養魚場を経営してる方は、数組のクマが昼も夜もやってきては魚を取りに来ると話してくれました。
飛来してくる鳥の方が魚を確実に取っていくので困ってる、とも聞きました。ただ、クマの場合怖いのは人身被害だと。

山を案内してくれた方が、「養魚場の周辺に張ってある電気牧柵が伸びた草に触れてて、あまり効果を発揮してない」ことを話し、来週草刈りの手伝いにきます、と伝えます。ボランティアです。クマと人との関係を取り持とうと、間に立とうとしている方々。

その方々は、断定的な言葉をほとんど使わないことに気づかされます。
「身体小さいですね、子熊でしょうか」と聞けば、「どうでしょう、わからないですね」と答え、
「背こすりはコミュニケーションなんですか?」と聞けば「そんな感じもしますけど、よくはわからないですね」と答える。
わかることはわかると答え、わからないことはわからないと答える。それがわかることの本質だと思い当たらせてくれるような人たちでした。クマを知りたいという思いで山に足を踏み入れたのは昨日が初めてです。これを書いてる間も、山で2頭のアナグマがじゃれあっていることを想像したり、養魚場の前に出てきて魚を狙ってるクマのことを具体的に思い描くようになりました。
森のこと、山のこと、ほかの生きもののこと。広く知っていきたいです。

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<養魚場前の生きものたちの足跡>

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<背こすりにやってきたクマ>

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<人が捨てていったゴミ。人の食べ物の味を覚えてしまうと
   人を襲うようになってしまうそうです>

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<背こすりがされた跡。木の下の泥はイノシシがやってるようです。
  「生きものたちの伝言板」という説を伺って想像力ふくらみます>

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<クマが食べるどんぐり>

2016-11-08

長崎のこと、佐多さんのこと

先月末から今月はじめにかけて長崎を訪れました。「風は生きよという」の自主上映会を来年3月、長崎市で開いていただくにあたって地元の主催者との事前打合せのためでした。
会場はブリックホール・国際会議場と決まり、実行委員会の担い手も決まってさあこれから、地元の方々が上映運動を通してあちらこちらで結びあっていくことを願います。

長崎では、カトリックセンター長崎宿泊しました。浦上天主堂の目の前にある、落ち着いた雰囲気の宿でした。天主堂の敷地内には、1945年8月9日の原爆投下により吹き飛んだ天主堂の一部がいまも残されていました。
朝、吹き飛ばされた天主堂の向こうを見ていたら、71年後の人びとの日常がはじまるところでした。

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天主堂から浦上駅の方へ歩いている途中に、当時使われていた松山町防空壕群跡が保存されていました。天然の岩場を壕にしたもので、案内板によると原爆投下たまたまこの周辺の壕にいた人を除き、この町のすべての人が即死されたそうです。
推定爆心地から約100メートルとある防空壕の横で、白猫が毛づくろいをしてました。日なたをあびた松山町の道路を、いまはせわしく車が行き交っていました。

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爆心地に、71年前のこの辺りの住宅地図が示されていました。
かまぼこ店の添島さん、あめ屋の小野さん、床屋の末次さん、漬物屋の高橋さん、薬屋の奥田さん。路地があり縁側で朝のあいさつが交わされ、家から出かけていく人がいて、自転車が走り、そこに町があったこと。
71年後のいまと変わらぬ風景を想像しました。黒木和雄さんの映画「TOMORROW 明日」が頭をよぎりました。

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長崎をあとにする日、ふっと目に付いた「長崎ちゃんぽんの店・あじ盛」という店で、皿うどんをいただきました。美味しい。何よりも、女将さんが元気で朗らかでした。行きつけた常連のおじちゃん、おばちゃん、おじいちゃん、おばあちゃんが、昼時だったのでぽつりぽつりと入ってくる。女将さんに「お土産」と、家でつくった煮しめかなんかを差し入れするおばちゃん。「夜の分」といって鳥のから揚げをおかずに一皿分買っていくおばあちゃん。

ひとりで来てる人の多い店は、きっと、女将さんのこの快活さ、はきはきとくもりの無い声に迎えられたくて来てるのかと思いました。市井の人の背すじの伸びた生き方を垣間見ると、真面目に生きようと、照れずに思います。

あじ盛で清々しい思いをしてから、ふたたび散策に出ると長崎公園というところに行き着きました。幼い子どもたちがおおぜいにぎわってる向こうに、石碑を見つけました。
見ると、佐多稲子さんの文学碑でした。そこにはこうありました。

 「あの人たちは 何も語らなかっただろうか 
  あの人たちは 本当に何も語らなかっただろうか 
  あの人たちは たしかに饒舌ではなかった 
  それは あの人たちの人柄に先ずよっていた」(樹影より 佐多稲子

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佐多さんは小さい時分に上京されたようですが、お生れは長崎であったようです。佐多さんの著書というと『夏の栞−中野重治をおくる−』をしか読んでないのですが、その一冊でも、佐多さんの書かれるものへの信頼というか、佐多さんへの関心というかを、惹かれるものでした。
印象的な叙述がいくつもあるなかで、特にいま、その著書の中で自分事として引きつけて思えるのは、佐多さんが同志として若き日をともにたたかい、そしてその後の道ゆきのなかで仲違いし、別れ、ついには相打つまでになっていった仲間たちとのことです。
相打つまでになってしまったかつての同志たちが、しかしながら年を経て、齢を重ね死の床に伏したとき、それでもお互いの気持ちを伝え合える瞬間が持てたことを「よかった」と振り返るところを辿りながら、僕自身「よかった」と思います。
あゆみを同じくしていた仲間が、たとえその時のなかであゆみを違っていくにしても、あゆみを同じくしていたときの輝きが、消えうせてしまうわけでも、無駄なことだったわけでもないことを僕は信じたいと思うし、お互いを「赦せる」ことが無かったとしても、それ以前のところで、お互いを信頼していた頃の一切を信頼する、ということはあってほしいと思います。

佐多さんが『夏の栞』のなかで、「みんながもういない」という想いに胸を占められていくところを、長崎公園の石碑の前で僕は思い返していました。その佐多さんも、1998年に亡くなられています。

長崎原子爆弾が投下された日、中野さんの妻・原泉さんは終戦を知ったそうです。

 「私が終戦を知ったのは8月9日の夕方でした。筑摩の社長の古田さんがわざわざ見えて、中野の本を筑摩書房疎開してくれるというので、私一人で中野の本の荷造りをし、全部で三十八の箱にして、まずその第一回を物々交換で工面して雇った馬車でお茶の水の出版協会の倉庫まで届けたんです。そして、翌日の第二回目を一生懸命荷造りしている処へ、手塚英孝と言う人が知らせに来てくれて、『もう時間の問題ですよ、終戦ですよ』と言ったんです。」(国文学 解釈と鑑賞1986年7号 至文堂)
 
 手塚英孝さんは小林多喜二研究者です。
 年明けには、多喜二の母セキさんを主人公にした映画「母 小林多喜二の母の物語」(山田火砂子監督)が公開されると、数日前の新聞で知りました。
 セキさん役は寺島しのぶさんです。

2016-10-21

安曇野、上田、沖縄のこと

先週、長野県安曇野市で「風は生きよという」の上映会を開いていただきました。
平日の昼間にもかかわらず200席の会場は満員。実行委員会のみなさんが人と人とをつなぐことに掛けた心が伝わってきました。あたたかな場に居合わせられたことに感謝です。またひとつ、忘れがたい上映会になりました。

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【会場内の熊井啓監督展示室】

長野へ行ったらきっと行ってみたい場所がありました。上田にある戦没画学生の残した絵が展示されている「無言館」です。上映会の翌日、訪ねました。

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無言館は特別おおきな場所ではなく、むしろちいさな美術館といえるかもしれません。その中に、戦争で亡くなった画学生の絵が展示されています。写真の左は、無言館の絵が宮城県石巻市に何年か前に出張展示に来られたときに買った絵葉書。写真の右は今回買った絵葉書です。右の絵は、無言館に入るとすぐ左側、入口向って正面に展示されていた作品です。息を呑みました。
タイトルは「飛行兵立像」。大貝彌太郎さん(福岡生れ・享年38歳)の作品です。歳月の風によってところどころ油絵の具がはがれて、飛行兵の顔が崩れかけています。崩れかけた顔の中に残った瞳。大貝さんと飛行兵と、目の前で相対しているような感情を覚えました。
大貝さんは1946年に亡くなられたと説明書きにあったと記憶しています。

別の学生に祖母を描いた絵もありました。「出征したらもう描けなくなるから」と言いながら懸命に絵筆を走らせる孫を前に、祖母は目に涙を浮かべていた。と説明されていました。正面を見据えた祖母の絵のその瞳は、うっすら赤らんでいました。学生たちを見送った人たちの思いが、その表情から感じられます。

73年前のきょう10月21日、東京は雨でした。1943年国立競技場で出陣学徒壮行会が行われた日です。
信州の山山に囲まれて育った21歳の若者、上原良司さんも慶応大学に在学していましたが学徒兵としてこの年12月1日に入営します。南安曇郡穂高町の方です。
安曇野。いい響きです。漢字もまた美しい。

ぼくが上原さんを知ったのは、2001年に長野放送局が製作した番組「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます〜特攻に散ったある学徒兵〜」を観た時です。
上原さんの遺書は『きけ わだつみのこえ−日本戦没学生の手記−』(岩波文庫)の巻頭に載せられている著名なものです。番組は、この遺書とともに残された「所感」と、上原さんの妹・清子さんの証言を中心に構成されています。
番組の記憶を、おぼつかない記憶でたどってみます。
清子さんによると、良司さんが所属部隊から故郷に帰り、家族との短い時を過ごし部隊へ戻る日。子ども時代に一緒に遊んだ懐かしい川を境に別れながら、橋を渡る良司さんが振りかえり、「さよならー、さよならー、さよならー」と3回、母や妹に手を振ったといいます。家に帰ってきた母は「良司はもう帰ってこないよ」と清子さんに呟いたと、証言されていました。当時、家族であってもどこへ出征しどんな作戦に就くかは秘匿しなければいけなかったのですが、直感的に「母はわかってたんですね」と。

所感は、上原さんが鹿児島県の知覧基地から第56振武隊の特攻隊員として出撃される、1945年5月11日の前夜に書かれました。上原さんは、沖縄嘉手納湾の米機動部隊に突入し、戦死されています。アメリカ軍側資料によると、この日は75機の特攻機が飛び立ち、空母バンカーヒルに2機命中、駆逐艦エヴァンスに4機命中、同ヒュー・W・ハッドリーに2機命中などの被害があった(『戦場体験者 沈黙の記録』保坂正康筑摩書房)とあります。
上原さんが嘉手納湾へ飛び立った日、沖縄は戦場でした。4月1日に沖縄本島米軍が上陸、南下をつづけます。

ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』(仲宗根政善角川書店)によると、5月11日には沖縄師範学校女子部の生徒島袋ノブさん(18歳)が南風原陸軍病院で亡くなり、沖縄県立第一高等女学校の生徒座間味利子さん(16歳)、照屋明子さん(17歳)が南風原村一日橋で亡くなっています。どんな人たちだったのか、どんな状況下で亡くなったのか、ぼく自身まだ調べつくせず、分らずにいます。

同日、同時代人。

東京内田百里瞭記(『東京焼盡中公文庫)から。

 午前八時三十分警戒警報同五十五分解除、B29一機なり。
 更に午前十時二十五分警戒警報同五十分解除。
 B29一機と外に房州沖に大型機が一機ゐるとの事であつたが結局こちらは何事もなし。
 午過出社す。夕お茶の水まで古日同社にて帰る。夕方は寒し。

鎌倉高見順の日記(『敗戰日記』文藝春秋新社)から。

 (新聞記事に対して)なんともいえない口惜しさ、腹立たしさ、いら立たしさを覺えさせられた。
 敵に明らかに押されているのだ。敗けているのだ。
 なぜそれが率直に書けないのだ。なぜ、率直に書いて、國民に訴えることができないのだ。


戦争は5月11日から、さらに3ヶ月あまりつづいた。
あれから71年。きょう、10月21日の新聞記事(河北新報)から。

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戦争は昔話ではなく、今日ただいまのことと思い知らされる。上原さん、島袋さん、座間味さん、照屋さん。5月11日に亡くなった若者たちが生きていたら、いま80台から90台のおじいさん、おばあさんになっている。

2016-10-03 しずかなにぎやかさ

3ヶ月ぶりに書きます。浦島太郎のような気持ちです。
10月1日、2日の2日間。宮城県大和町吉岡宿で初めて開催するドキュメンタリー映画際、「吉岡宿にしぴりかの映画祭」が開かれました。
ぼくも実行委員の一人として、準備から関わらせてもらい当日を迎えました。満席になっても40席、というちいさな会場はふだんは障害のある人の絵画や織りを展示するスペース「にしぴりかの美術館」です。隣り合った場所には安く、美味しく食事ができる「街の喫茶店」があります。ここには「注文を受けてから〜分以内に提供する」、なんてマニュアルはないので、頼んだ料理や飲みものがゆっくり出てきます。だからいただく方もゆっくり食事します。

ふしぎに居心地よいこの場所があるのは、宮城県の北の方。仙台から車で1時間。
店が居並びビルが林立、人が行き交う大都会ではありません。むしろその逆をイメージしてみると、丁度寸法があってくるだろう場所です。
そんなところで映画祭をやって、人が来るのかしら。来てくれるのかしら。実行委員が、当日朝までみな案じていたのは、そのことでした。
開場の10時、そんな不安をカラッと消してくれるように美術館の前にはお客さんが並んでくれていました。感激・・・。でも、その感激に浸ってる時間はない。10時半の上映にあわせてあわただしく動き回りました。

1日目のプログラムは、
1.『ちづる』(製作:池谷薫/監督:赤崎正和/2011年/79分)
2.『もっこす元気な愛』(製作:馬垣安芳/監督:寺田靖範/2005年/86分)
3.『Start Line』(製作:Studio AYA/監督:今村彩子/2016年/112分)
2日目のプログラム
4.『DOG LEGS』(製作:Invincible Heart LLC/監督:ヒース・カズンズ/2015年/89分)
5.『破片のきらめき』(製作:心の杖として鏡として制作委員会/監督:高橋愼二/2008年/80分)
6.『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(製作:Midnight Call Production/監督:太田信吾/2013年/121分)

この中でも、ぼくに印象深く残ったのは監督の今村さんがいらしてくれた「Start Line」の上映と、中でもその後のトークの時でした。東北初公開の映画で、しかも世に知られた今村さんの新作。満席40席では溢れかえり、美術館の2階に第二会場をつくり対応しました。こんなこともあろうかと、上映素材もスクリーンもプロジェクターもスピーカーもプレーヤーも、2つずつ用意していた実行委員会です。準備がいいでしょう?

聴覚障害がある方がたくさん見えたので、字幕が見やすいようにと、より広い空間が取れる2階の第二会場へ障害のある方を誘導しました。1階に40名あまり、2階に30名あまりのお客さんが入ってくれて、ぼくは2階を担当。今村さんも最後まで一緒にご覧になってくださいました。そして上映後、1階の喫茶店を急遽、トーク会場にセッティングしている間、2階のお客さんへ向けて今村さんに挨拶してもらうことにしました。30名あまりのお客さんの7割〜8割が、手話を使う方でした。そして今村さんが手話でご挨拶をはじめたその時、一斉にお客さんが「拍手」をしたのです。手話によって。それはぼくがふだん聞きなれている、「パチパチパチ」という拍手の仕方、音ではなくて、両手を体の横で上に向け、ふるふるふる、と揺らす仕方でした。
手話の、拍手。
そのしずかなにぎわいを、舞台正面の今村さんの横で体感しながら、ぼくは知らない世界に踏み込んだ興奮を感じていました。おー!みんなが黙ってふるふるしてる!
いえ、「黙って」なんかないんです。実にそれは、「雄弁」なのです。ふるふるふる、ざわざわざわ。一斉に、拍手をしているのです。
手話という言語を知らないぼくは、すっかり疎外感を味わったのです。でもそれは、寂しさを覚えるものではありませんでした。豊かな言語や文化をもつコミュニティめぐりあった時の言い知れぬ興味津々。疎外感は、言語を知らないことについてのそれであって、興味津々は止まらない。「いいぞー!」という声援が、ふるふると空気を伝ってやってくる感じ。

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※撮影は、実行委員会のおひとり土屋聡さんによるものです。

このしずかなにぎやかさは、ぼくに感激でした。手話を習いたいと思いました。習う前にひとつ、「拍手」を覚えたので、ときどき折を見て使ってしまうことにします。覚えたことはどんどん使っていかないと忘れてしまうし、道聴塗説という軽薄は、ぼくの本来でもあるのですから。

2016-07-08

出会ったときがいちばんいい

あしたから、映画「風は生きよという」の公開がはじまります。渋谷アップリンクで、7月9日〜29日までの予定です。

公開前の心境は、いつも浮きません。憂鬱で不安ばかり。明日のことを思い悩むな、どころか、公開期間の3週先まで思い悩んでます。「人がいなかったらという恐怖」「作品の評価への心配」。いまさら、と呆れられそうなことを、いつも繰り返して思う。
平気になれ、と思う。でも、また不安が胸に湧いてくる。
ある雑誌の鼎談で、中島岳志さんがヒンディー語に「与格構文」という構文があることを紹介していました。
それは例えば、「私はあなたを愛してます」なら、「私にあなたへの愛がやってきて、留まっている」という言い方をする。「私」が主体にならない。「風邪をひいた」というときも、「私に風邪がやってきて留まっている」と。

この例に倣うと、僕のこの不安も、「僕に不安がやってきて留まっている」ということなのでしょう。

僕は、「いい顔をしなきゃ!」、と思うと、気持ちが落ち込みます。つまらなそうな顔をして平気でいたい。けど、それができずにいまにきてる。
ほんとのところ、きっと、誰だって。

悲しいときには悲しいだけ悲しんでいられるのがほがらかだと、中原中也がその詩に書いた。そして、酒場で賑やかに騒いでいる人たちだって、そのこころのうちは、元気なんかじゃないのだと。
元気のふりはよそうと思うし、元気を出せよと思ってもみる。面白くもないのに笑えるかと堂々、淡々、してみたいけれど、なかなかそこがそう、いきませぬ。

不安は、何かを期待するところからはじまるのだろう。溢れかえる劇場、激賞する人びと。喝采雨あられ。なんぼなんでも、そこまで思わぬ。でも、どうだろう。ほんとのところ、どうだろう。
不安にはこんなにも実体を感じるのに、期待には期待するほどの実体もない。

「いつか」、という高田渡さんの唄が好きです。
「気がつかないで通りすぎて行くのが いちばんいい 出会ったときが いちばんいい」という一節を聴きたくて、ときどきかけてます。
こんな心境で、あしたを迎えます。

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