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2011-06-01

君が代裁判に関する社説より

今日6月1日付けの朝日社説において、昨日の最高裁による君が代不起立裁判の判決について論じられていた。先日の橋下による君が代起立強制条例に対する社説にイマイチ物足りなさを感じていたのだが、今回は批判の筋がすっきりと通っていて、少数者の人権を守るということについての司法の大事な使命を本質に基づいて論及していて納得のいくものだった。以下こちらに引用させていただく。

(引用開始)

君が代判決―司法の務め尽くしたか 

最高裁の裁判官は、多数決で決まる法廷意見とは別に、個別意見を表明することができる。結論に反対する内容ではなくても、最大公約数である法廷意見の足りない点を補い、意のあるところを説くことで、判決をめぐる議論と理解は深まる。
 卒業式などの君が代斉唱の際、都立学校の校長が教員に起立斉唱を命じても、思想・良心の自由を保障する憲法に違反しない――。そう述べた判決にも長文の補足意見がついた。

 「不利益処分を伴う強制が、教育現場を疑心暗鬼とさせ萎縮させることがあれば、教育の生命が失われる」「強制や不利益処分は可能な限り謙抑的であるべきだ」(須藤正彦裁判長)、「国旗・国歌が強制的にではなく、自発的な敬愛の対象となるような環境を整えることが重要だ」(千葉勝美裁判官)。

いずれも私たちが繰り返し主張してきたことと重なる。法廷意見も、職務命令が思想・良心の自由の間接的な制約になると認めた。そのうえで、長年の慣例や式典の意義、公務員の立場などを考えれば、そうした制約も許され得るとしている。 手放し、無条件の合憲判断ではないことに留意しよう。教育行政に携わる人、そして起立条例案の採決が迫る大阪府議会の関係者は、判決の趣旨をしっかり理解してほしい。

一方で、最高裁の姿勢には疑念と失望を禁じ得ない。 原告の元教員は1度だけ起立を拒み、戒告処分を受けた。その後は現場を混乱させたくないとの思いで命令に従ったが、定年後の再雇用を認められなかった。
ところが、別の理由で停職や減給などもっと重い処分を受けた教員は採用された。
一審の東京地裁は扱いの不均衡を踏まえ、裁量権の乱用があったとしたが、最高裁は職務命令と憲法の関係のみを論じ、不採用の当否は判断しなかった。結果として、原告が逆転敗訴した二審判決が確定した。 最高裁にその思いがあれば審理できるにもかかわらず、そしてそれに値する重要な問題であるのに、あえて避けたとしか思えない。このようなケースにすら救いの手を伸べず、ただ判決文の中で「慎重な配慮」を求めても説得力に欠けよう。 多数者の意向や勢いに流されず、少数者を保護する。それが司法の大切な使命だ。とりわけ思想、良心、表現、信教など精神的自由に関する分野では、厳格なチェックが求められる。 裁判所がその職務を放棄したとき、私たちの社会は多様性を失い、やがて色あせていく。

(引用終了)

http://www.asahi.com/paper/editorial.html#Edit2

毎日の社説でも昨日取り上げられていたけど、判決文のうち個別意見の中で同感できる部分を拾い上げて論じているものであって、判決自体の批判を正面からしていない。弱腰で見地を明確にしない歯切れの悪い論説だ。

http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20110531k0000m070128000c.html

読売は言うまでも無く判決支持。

『自国、他国の国旗・国歌に敬意を表すのは国際的な常識、マナーである。』

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20110530-OYT1T01108.htm

だとさ。自国の国旗・国歌に対して起立しなかったというだけで、教員に懲戒処分を下す先進国など現代において聞いたことがない。国際的な常識どころか非常識なんだよ。印象操作に励んで国民を思考停止に導く読売の御用メディアぶりがこういう問題になると際立つね。日本をどこまで人権後進国にしたいのだろうか。

ちなみに、産経については、時間の無駄であほらしいのでチェックする気にもならない。ごめんなさい。

似非保守 似非愛国者

先日の朝日新聞社説にて、橋下徹及び大阪維新の会による君が代起立強制化条例を批判する文面が掲載されていた。この点は評価するのだが、一点だけ気になる一文があった。

>式典を厳粛に運ぶことに異議はない。進行を妨げる行為は批判されよう。
>しかし、条例と処分による厳粛は、教育の場に何をもたらすのか

http://www.asahi.com/paper/editorial.html#Edit2

この箇所なんだけど、“進行を妨げる行為”を不起立という不作為を指しているのならば、そこは大いに疑問である。君が代斉唱に際して、抗議の声を上げる、演奏の邪魔をするなどの積極的妨害行為があれば話は別であるが、不起立というのは単に着席の姿勢を続けるというだけのことだ。着席のまま口をつぐんでいるというだけのことだ。一体どこが式の進行を妨げることになるのかてんで解らない。
私は、「橋下徹大嫌い!」の会でのトピで議論をしてきたが、そこに現職の教員の方から書込みがあり、東京都では卒業式の君が代斉唱の時、不起立の教員がいると、マイクで「○○先生、起立してください」というアナウンスが流される事があるという。これでは、“進行を妨げる行為”をしているのは、着席している教師なのではなく、そんな野暮な圧力をかけて騒ぎ立てる教育委員会側ではないか。

以下、君が代起立強制化&処罰化を正当化する保守派、右派の人たちへの疑問を綴る。

思うに、
卒業式というのは児童生徒の卒業を祝福するセレモニーである。主役は生徒であることは間違いない。しかし、恩師への謝意を伝える場でもあるのである。だから学校側からの送辞のあとに、卒業生代表からの答辞及び保護者代表からの挨拶と言う形で教師側への感謝の言葉が述べられるのが慣例である。そのようにして卒業生と教師たちが互いに向かい合い、教師は生徒を祝福し、生徒や保護者たちは教師に感謝する場所なのだ。
ちなみに卒業式の後に行われる宴の場を“謝恩会”と言う。本来は教師たちに感謝する目的で開く会だ。生徒を祝うための宴という意味の命名はされていない。
今は歌われなくなったようだが、『仰げば尊し』を式で歌うことが以前、特に戦前は慣例となっていたのだが、その歌詞は、「仰げば尊し、わが師の恩」で始まり、生徒の側から教師への尊敬の念と恩に報いること、師と友と学び舎への惜別、立身出世へ精励することを歌い上げた内容だ。
この仰げば尊しであるが、戦後、特に左翼運動の高まりと共にその内容が保守的で非民主主義的であるという理由で忌避されていく風潮が育っていったという。
仰げば尊しのように、生徒が教師に尊敬の念のもと恩に報いることを歌で伝えることは、本来、伝統と保守的な価値観に適ったものであり、日本文化を重んじるはずの保守派ならば卒業式の趣旨の理解においてこれを踏襲しなければ筋が通らない。
ところが、今や右派は、教師の価値を貶め、サービスマンのような扱いをし、卒業式を教師が生徒を祝うというだけの一方的な意味合いのものにまで改変してしまい、敬うべき対象としての恩師というニュアンスは微塵もみられない。
伝統と文化を重んじるのが保守であるのならば、その矛盾に気づいて欲しい。
元々は仰げば尊しを嫌ったのが左翼だったのだが、師への礼節という伝統と文化を重んじるはずの保守、右派が、今や仰げばと尊しの価値観を破壊するという何とも矛盾した、ヘンチクリンな状況を呈しているわけだ。

さて、
日の丸、君が代であるが、たかだか百数十年の歴史しかない。長い歴史を有する日本の時間軸で見ていけば、つい最近に作られたものでしかない。
それも明治政府の時の為政者たちの意向によって制定されたものに過ぎない。
日本国民のマジョリティによって受け入れられていると言っても歴史的には短い期間に過ぎない。そして師への礼節を重んじるという伝統と文化は、時間の計りにかければ現在の国旗国歌が制定されて以降の期間を圧倒的に凌駕している。
本当に伝統と文化を大事にするという精神が保守、右派の人にあるのならば、自分たちの子供が学校でお世話になっている教師の価値を貶めたり、侮辱するような言動を平気で公言すること、少なくとも礼節をふまえる言動を取らないことは、たとえ思想信条に違いがあるにせよ、己の立脚しているはずの本来の思想的スタンスと矛盾しているのである。自家撞着を起こしているのである。
この国の伝統と文化を重んじることと逆のことをしているのである。
もし、ここが理解できないのならば、似非保守である。
結局は、現代の支配層にとっては、権益の邪魔をする者の排除のために
そうでない階層にとっては思想信条の相容れない者を排除したいために
そして、
長いものに巻かれ、同調圧力を高めることで弱い自己を強い権力と国家に仮託し、己のルサンチマンを一時的に発散させるために日の丸と君が代を利用しているに過ぎないのではないだろうか。
君が代強制化&免職条例案を強行する橋下徹とそれを支持する世論の動きは、
そういった“権力と俗情との結託”による邪魔者排除のムーブメントの一環なのではないかと私は考えている。

そして、そのようにしていった先にほとんどの国民の実際の生活にとって利するものが何か一つでも生まれるのだろうか?
私はまったく思い浮かばない。むしろマイナス面しか思い浮かばない。
自分で自分の首を絞めているようにしか思えない。
思い浮かぶのはこの国の一握りの支配層、強者の権勢の強化というものしかない。
つまり、今回の条例化は、国家の権威を前に国民を従順な羊の群れとし、そうすることで、権勢を有する一握りの支配層のためだけに都合のいい社会状況を作り出すためのステップの一つとしようとしているとしか思えない。支配層にとって制御しやすい国民のメンタリティの
土壌作りをしたいのだと思う。
この国は嫌な方向にベクトルが向いてしまったままじわじわと加速しているように思う。
そのベクトルを少しづつでも変えていくものがあるとすれば、
結局は我々国民一人一人が人権というものに目覚めていくことなんだけどね。最後はそこに尽きると思う。

世界の常識と言うのは嘘

(以下mixiのコミュへの投稿からの転載のつづき3)

小倉秀夫弁護士が、国歌国旗強制の問題について端的かつ的確なツイートを連発しています。そこからいくつか拾って引用させていただきます。

(引用開始)

国家公務員法は国家公務員に国家への忠誠を要求していない。RT @hyakusan: 国家に忠誠を尽くすのが公僕であり、国旗にすら敬意を払えないのならその資格は無いです。

何をしてもいいわけではないよ。憲法尊重擁護義務があるので、個人の趣味で国民や部下に愛国心を押し付けてはいけない。RT @takurou7: 国民に雇われてるのに自由に何をしてもいいとは・・。

むしろ、国旗・国歌への忠誠を強要する国に悪政を敷いている国が多い。RT @terzoterzo: ならば国歌・国旗を否定して居る国を挙げてみろと言うと大体、悪政を敷いてる様な国とかを挙げるんだが。

ドイツでは国歌の第1番を歌うことはタブー。
ロシアも2000年に歌詞を作り直すことによって漸く国歌復活。
フランスでも国歌をあえて歌わない人は多い。
スペインも、フランコ独裁時代の歌詞を非公式化してしまったので、国歌を歌おうにも歌詞がない状態。
ベルギーでは、次期首相がインタビューで、国歌を歌ってくれと言われて、間違えてフランス国歌を歌ってしまったという事件も起きていたりします。
パレスチナ系イスラエル人も、イスラエル国歌を露骨に嫌悪します
イタリアもまた、歌詞がえぐいこともあって、若い人を中心に、国歌をあえて歌わない人が少なくありません。
南アフリカ共和国では、アフリカーンス語で書かれた部分の歌詞を歌わない黒人も少なくない。

公立学校の入学式、卒業式等、「国」を意識しない式典では国家を斉唱しない例が自由な民主主義国では普通RT @fab4wings: 式典で自国の国歌国旗を体制側が拒否するのは意味不明だね。

右派の皆様が、諸外国の例を調べずして、「どこの国でも」なんてことを安易に口に出せるのは不思議。

(引用終了)

http://togetter.com/li/40142

そして、既述したように、教員に国歌国旗への強制をしたあげくに、不起立という不作為をしただけの教員を処罰する法令を有する国など世界の非常識、先進国で例を見ません。ですから、世界の常識を持ち出して強制&処罰化を肯定する人たちはデマを振りまいています。 騙されないように気をつけましょう。

なぜ強制化処罰化に反対するのか

(以下mixiのコミュへの投稿からの転載のつづき2)

日の丸君が代への起立をするということの意味 及び 強制化処罰化になぜ反対するのかということの 趣旨を別の角度から述べさせてください。
さて、
今、私は、自分自身の学校時代と日の丸にまつわる記憶を辿っていました。
私は公立は小学校までで、中学からミッション系の学校でした。 小学校時代の卒業式において日の丸君が代がどう扱われていたのか、 ずいぶん昔のことになるので記憶が定かではありませんが、 中学以降はキリスト教系ということもあり学校では皆無でした。
ふと、
中学時代のあるエピソードを思い出しました。 剣道部の合宿において稽古が終わり、最後に教師と私たちが向かい合い、 「先生に礼!」という掛け声のあと
礼を交わすのですね。普通はそれで終わるのですが、主将が最後に、 合宿先の民宿に併設された体育館壇上に掲げられた日の丸に向かって、 「日の丸に礼!」と威勢良く掛け声をかけたのです。 リベラル系の学校に通っていたので、 こんなのははじめてのことでした。 先生は一瞬目を丸くして意外な反応を見せていましたが、 生徒の礼を見て自分も壇上に向き直って礼をしたのですがね。

このエピソードを思い出しながら考えたのですが、 学校において入学式や卒業式で掲揚された日の丸、君が代に対して 起立、斉唱するというという行為は、
その儀式の場にいる教師、保護者、生徒たち、来賓、 個々人と国家の象徴である国旗国歌との関係性において それに向かって敬意を表し、 国家への帰属意識を確かめるための儀式であって、教師と生徒、教師と保護者という関係性はそこには無いはずなんです。 生徒と教師の関係でなされるものでもなく、
教師と保護者でもなく、 教師と校長でもなく、 教師と教育委員会でもなく、教師と知事でもなく、 参列者と内閣総理大臣との関係でもありません。 あくまでも、 その場所に出席した全ての参加者一人一人と国旗国歌との間で 結ばれる儀礼なはずなのです。 象徴という非人格的存在に対する儀礼なわけです。

既述したように、教員の本来的な職務は、 担当する各教科の知識をきちんと伝授し、 部活動における指導などと 合わせて生徒の資質を伸ばし、 進路指導にあたっては生徒の将来を きちんと考え、また 壁にぶつかったり、悩める個々の生徒の声を聞いて、ともに 考え、よりよい方向に導いていくことにあると考えています。 つまり、教師と生徒との関係性においてなされるところに
教師の任務の本分があるのであって、 言い換えれば、生徒との関係で、 生徒の教育を受ける権利を満たすところに本分があるのであって、 卒業式などの儀式の場において、上述したような、 すべての参列者が立場の違いに関係なく
個々人として国旗国歌と向かい合うと言う儀礼的行為は、 教師の本来の任務とは異なる性質のものではないかと 考えるのです。 そのような性質の儀礼的行為である君が代斉唱時の起立を 拒んだからといって、教師の本分である任務を怠っているとは 言い難いと考えるのです。 教師が戒告処分を受ける、ましてや免職処分という 重い措置を受けるのは、犯罪のような違法行為、 または、上述したような教師としての本分に関わる職務に故意に重大な支障を来たした時であって、 この儀礼的行為は民主主義、自由主義をいただく 国家においては、公権力による強制&処罰化にもっとも なじまない性質のものでなければならないはずなのです。
私はそのように考えます。

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