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Snap Days 〜Shuichi Taira’s photo gallery〜

2011-06-02

立憲主義からの判決批判

Rさんとの対話から。

貴殿は、起立についての職務命令及び処罰化自体には賛成だけれど、その処罰の
程度の妥当性を考えていくという前提に立っておられ、処罰についてはどんなに
重くても減給程度が妥当だろうとのことですね。条例化にも反対ということです
ね。その上で、処罰を肯定する人たちについても、闇雲に処罰を肯定し、重罰を
容認する態度についてこれを問題視されているわけです。いっぽう私は、処罰以
前に職務命令自体に反対の立場です。ですから、一審から最高裁判決まで全てに
批判的な立場です。

私がその立場に立つ理由は、“公権力に対する歯止め”の問題を考えているから
です。日本は近代立憲主義に立脚する憲法を有している国です。この場合の憲法
の定義は、“国家権力の濫用を抑制して、国民の権利を保障するための最高法規
である”ということになります。この定義は私の私見ではなくて、普遍性を有し
ています。webster辞典での定義は、

constitution:(5a) the basic principles and laws of a nation, state, or
social group that determine the powers and duties of the government and
guarantee certain rights to the people in it

となります。determineされるのは、公権力の側であり、政府の義務なのです。国民の側ではありません。また、guaranteeされるのは、国民の権利なのであって、公権力ではありません。つまり、政府が出来ること出来ないこと、法的義務をあらかじめ規定しておいて縛りをかけて、そうすることによって国民の権利を保障するということ。それが立憲主義の肝です。立憲主義に立つ国であれば、フランスでもドイツでもイタリアでも北欧諸国etcでもこの定義と同様になります。縛りをかけるということ、つまり“制限規範性”に憲法のもっとも重要な性質があります。

職務命令だからといって、どんな命令でも、どんな処罰でも容認すると言うことになると、絶対王政や独裁制のように権力者が恣意的にどんな命令でもどんな処分でも国民に下せるということになりますので、こうならないように権力に対する“縛り”“歯止め”が必要になります。この縛りについて、Rさんは、“情け”と言う言葉を出しておられましたが、情けや倫理というレベルだけに任せてしまうことは、歯止めとしての有効性に限界があり、結果として権力の濫用、暴走を許してしまうということは、この世界、この人類は、普遍的な経験として解っている事なのです。ですから、制限規範かつ最高法規としての憲法を制度として設けることで構造的にこれを防ごうとしているのです。立憲主義が必要なのは、そういうところに理由があるのです。権力に対する縛り、歯止めは、情けや倫理だけに任せてはだめで、憲法によって制度的に縛っておかなければならないというのが立憲主義の考えです。

さて、Rさんのように、起立に対する職務命令と処罰自体には肯定だけど、処罰の程度を問題とするという立場ですと、起立への強制と、ある程度の処罰までは縛りを緩めるということになりますが、この場合、縛り、歯止めが機能しなくなっていく可能性が極めて高いと思います。ここまでは出来るけど、ここから先は出来ませんよという制度上の根拠が無いからです。“情け”や“倫理”の問題に留まってしまうからです。これでは、処罰がエスカレートしていくことは必然性がありますし、現にそうなっている状況があります。エスカレートしている状況に対する憂慮は、私とRさんである程度の共有が出来ると思います。ですから、反対派の多くは、強制まで遡り、職務命令自体の違憲性を問うのです。憲法と言う制度に根拠を求めて、思想信条と密接に絡む起立を強制する職務命令自体が違憲であり、ゆえに、処罰自体が認められないと考えていかないと、制度に根拠を求めての歯止めの論理構成が成り立たないのです。人類の歴史に照らし合わせても、権力の行使をする側に、倫理や情けを求めても、それだけでは権力の濫用を防げないのです。

ですから、Rさんの憂慮されるような乱暴な保守派の主張については、これは必然性があるのです。いくら貴殿が情けや倫理を求めてもおそらく徒労になると思います。アメリカでは、例えば昔ウェスト・バージニア州教育委員会によって学校における忠誠の誓いの時の起立敬礼が強制され、不起立の生徒に退学処分が下されましたが、この処罰に対して連邦最高裁によって違憲が下されました。これによって州の暴走に歯止めをかけることが出来たのです。憲法と言う制度、これに基づく違憲審査をする司法によって、システムとしてこれを防いだわけです。これが法源となり、現代のアメリカでは、国旗に対する不起立行為を処罰することは、生徒と教師に対して出来ません。倫理や情けではこうは行きません。

だから、今回の判決については、私は、立憲主義及び司法の本来的な役割を踏みにじるような不当な判決だったという評価をしております。